有力郡国主との縁談話に烈火の如く激怒した第二皇女は、私的には『金勘定を趣味としておるような間口の狭い男に嫁し、体の良い資金集めの餌になるくらいなら尼になる』と口にして憚らなかったが、着々と進む婚約準備に業を煮やしついには公的会見の席にて『純潔を捧げるべき相手を己で見出だし、既に腹に子を宿した』と宣言してしまった為に、ここ数日の宮中はさながら戦時中のような騒がしさであった。
即座に皇女は宮中にて謹慎をいい渡され、縁談先へは皇帝の内示を受けた使節が出立している。
御殿医によれば、懐妊については皇女の出まかせであったようだが、その事実は皇帝の命によって現在も秘匿されており、恐らくケチのついた第二皇女の縁談は破談となり皇家外戚より別の候補者を探すこととなるだろう。
縁談相手はいたく立腹であろうが、個人的には外戚の娘を皇帝の養女として迎えて体裁を一応整えることで収まるのではないかと思っている。
かの家は矜持よりも皇帝より内々に下される謝罪金の方に興味をそそられるであろうし……。
今朝の朝議にて開口一番、宮中で専らの噂である第二皇女について、その処遇を発表した皇帝の私室へと、深夜を待って酒瓶を片手に乗り込んだ。
昼は臣下として仕える皇帝だが、月が空に上がれば旧き友人として彼を訪ねることを私は許された身だ。
「継承権、家名、諸々の特権を全て剥奪して生涯一領に幽閉……ですか。よくも取り繕ったものですな。……幽閉先は明かさず、実際はあの若者の領地とは……陛下にそのようなタヌキ知恵があったとは思いませなんだな」
差し向かいで杯を酌み交わす皇帝は、思ったよりも晴れやかな顔つきで口許を綻ばせる。
「公の口の悪さは相変わらずだな。確かにこれはアイフェ・フロラの思いつきでな、真のタヌキはアレだの」
窓から差し込む朧月の光に目を細めながら皇帝は瑠璃の杯を傾ける。
「ほう、三の姫が……。まこと二の姫といい三の姫といい、女子であられたのが勿体無き器量でございますな」
洞察力、行動力、決断力、そして人を動かす魅力というべきか人柄というべきか。
澱んだ社交界、妬みや足の引き合い、人の飽くなき欲深さでもって日夜繰り広げられるバランスゲーム。
それらに首まで浸かりながら、その本質は理解しつつも己自身は染めてしまわず、確固として立つ存在であり続けることは非常に難しい。
ましてや最も高い位置に居ながら、そういった人々から利用される立場である皇族、しかも女性特有の世界が存在する中での皇女ともなれば、それがいかに困難なものであるかは男の我が身にも容易に想像できる。
そうでありながら今上皇帝の次女と三女は類まれなる資質を持って生まれたばかりか、生まれもったものと、ただついてきたものとの違いを良く理解し、己を磨く努力を陰ながら怠らず、溺れず、己を律する稀有な存在に育ったと言って良いだろう。
特に三の姫は、些か奔放で宮中を留守がちな姉姫と異なり、四六時中その身を貴族や官吏達の世界に浴しながらも、皇帝である父や、姉姫を陰となり日向となって支えている。
政治家としても、官僚としても突出した手腕を持ち合わせているが、けしてそれを人に感じさせない術をも心得ており、皇帝の友人たる公爵は内心、彼女の才は上位継承権を有する皇子たち誰にも勝ると常々感じるところがあった。
他ならぬその三の姫の入れ知恵と聞き、腑に落ちた顔つきでニヤリと笑うと杯を傾ける。
「若年ながら彼の者は帝国の未来に欠かすことの出来ぬ人材じゃ。正直に申さばあれほどの度量と食えぬ腹の内、それと同時に燃えるような正義を併せ持つ者は我が息子らにはおらぬ」
一見青くさいほどの、けれど強く眩しい胸の内を本人は隠しきれていると思うておるあたりは、まだまだ修練が必要だがの……そう嘯いて、そっと溜め息と共に皇帝が吐露した胸中。
「彼の者を買う気持ちは父親として、ルティーナを嫁してやるに申し分なかっただけに、なおのこと苦しかったわ……」
三の姫に策を授けられるまでは……。
皇帝としての我は彼の者に期待を寄せている。
遠からずこの国を支える柱となるであろう、若き騎士にして政治手腕を持った青年。
投資という名目に隠した父としての想いとともに娘を嫁することも考えないではなかったが……。
「皇家の血に連なってしまっては、けっして成し遂げられぬこともある……」
ぽつりとそう呟いて、皇帝は杯の底に溜まった葡萄酒の滓に視線を落とす。
「彼の者にこの先を登り続けて貰うには血統は鎖にしかならぬ……そういうことですかな」
髭をしごいた公爵から差し出された瓶子から杯を再び満たされて、一つ頷く。
「戦時であれば強引なことも多少はできよう。なれど長年平和に抱かれて蓄積した滓を取り除くには皇家の血は足枷にしかならぬ……」
立場、伝統、格式、作法や手順、序列や面子……長年それらに押さえつけられ、皇帝とは名ばかりのその無力さに何度拳を壁に打ちつけたことか……。
皇帝としては、彼の者にその自由な翼で羽ばたき、国に風を吹き入れて貰いたい。
けれど父親としては、愛すべき英邁な娘に幸せな生涯を与えたい。
杯に満ちた葡萄酒に映る月を見つめる皇帝の姿は、声に出さなくともそう胸のうちを物語っていた。
「この先の栄達を、皇女を嫁に取ったからと言われては彼の者に申し訳が立たぬ……という訳ですか。あれがそのようなこと気に病むとは思いませぬが……。しかし陛下の杞憂も分からぬではありませぬな……。口さがなく他人の足を引くことにかけては目が無い連中には事欠きませぬからな……」
長年この皇帝を見てきた。
彼はいずれ国史にその名と数行の記述として残すだけだろう。
激動期に当たったかつての英帝達のように、その生涯が列伝となることもきっとないだろう。
けれど私は知っている。
彼がこの危うげな船を何度と無く、与えられた権限の中、最大限に守り、浮かべ続けてきたかを。
「……結局、我は迷った挙句、父ではなく皇帝の立場としてしか答えを出せなんだ……」
寂しげに自嘲の笑みを浮かべて杯を呷った皇帝……古き友人に無言で瓶子の口を傾ける。
「できようものなら……あれの伴侶を選んだ目を褒めて、着飾って送り出してやりたかった……。あれの母親が生きておれば我の下した仕儀になんと申すことか……」
皇帝の仮面を脱ぎ捨てて、今は父親として語る友人。
「あのお方なら鈴のようにお笑いになられて『名案ですこと』そう手を叩いてお喜びになられますでしょうな、きっと」
そうだろうかと顔を上げた、不安げな一人の父親に髭をしごきながら強く頷く。
「そうですとも……折角今宵は花嫁の父親の心境なのです、二の姫と直にお話しになられませ」
いかな英邁な二の姫といえど、覚悟の上とはいえ此度の処置には心苦しいものを感じているであろう。
この父親に娘の言葉が必要なように、彼女にも父親の言葉が必要だ。
うるさい近衛侍について来られては親子の会話もままならないだろうが……そこは。
「陛下、杯は進みましたが足元は平気ですかな?少し走って頂きますぞ?」
何を?と訝しげな皇帝にニヤリと笑みを返す。
この寂しげな父親を花嫁たる娘の元に、太陽でなく月の光の下でしか口にできぬ祝福を授けさせる為に送り出すのに、衰えたりとはいえ近衛侍の二人や三人、この老骨がなんとでもしましょうぞ。
ふと……遥か遠き日、二人で城を抜け出したあの若かった日々を思い出し、久しく血が沸き立つ思いがした。
最終更新:2012年06月21日 20:29