孤児院の管理人などという天をも憚る務めを与えられて半年。
まだおっかなびっくりな子供たちとの生活。
昼は併設する果樹園の手入れについて、近隣の農家から教えを請い、夜は領主の仕事を手伝い、時折り個人的に出かける。
そんな日々を繰り返していた。
『行く宛てのない娘が一人いてな。お前のところで預かって欲しい』
領主に呼び出されて赴いた居館にて唐突に告げられ、彼女に引き会わされた日。
息を呑んで見つめた先で、射抜くような瞳をして立つ彼女に、罪を刈り取る女神の鎌というのは確かにこの世には存在するのだ。
そう思わずには居られなかった。
そう多くない彼女の荷物を手に居館から孤児院へと下る坂道。
引き合わされて以来一言も口を利かない彼女の前を黙々とただ歩く。
彼女の手に刃物でもあれば、腕を伸ばして心臓まで一突きの距離。
背中の一転が焦げつくような視線を感じながら無言で歩を進める。
かつて、『刺す場所が違う』そう教えた、俺を刈り取る権利を与えた少女と……
魔道学院で交わしたままだった『命をくれてやってもいい』の約束。
果たさせてやることなく俺は学院を去り、罪を塗り重ねた者たちと共に死の償いに名を連ねることすらもなく生き延びてしまった。
崩れる橋桁から落ちていく中、手を伸ばして叫ばれた『簡単に死んで償おうなんて許さない』の声……。
あの日、瓦礫と共に大河へと落ち、再び目覚めたのは港町の施療院だった。
事の顛末と今だ不安定な世情について知り、無様に生き延びた己を恥じて自決を何度も試みたが、その都度あの声が耳によぎって実行できなかった。
他者を殺めることすら躊躇ったことなど……なかったはずなのにと激しく己を詰った。
動けるようになっても、どうすれば良いのかは分からなかったが、教団に戻ることだけは思いつかなかった。
簡単でない方法、償う方法、失くすなと言われた心を探す方法。
なにも分からないまま歩いた。
答えを探すように思い出せる限り狩りを命じられた地を訪れ、今更ながら己が手にかけた命について知った。
刈り取った命がどのような者であったのか、残された家族はどうなったのか、一つずつ調べ歩き、可能であればその目で確かめた。
その半数は他者を傷つけ追い落とす者にとって、ただ邪魔だったというだけの……善人だった。
また悪人だったから良いということでもなかった、残された家族や縁の者たちの中には今を生き繋ぐのも、やっとな者達も少なくなかった。
墓を訪れ、彼らの名を胸に刻みこんだ。
もし魂がそこにあれば触れるなと詰られるであろう事は自覚しながら、荒れていれば墓の周囲を整えた。
時に奇異の視線を受け、そこは悪党の墓だよなんて声もかけられ、あいまいな表情で応えた。
『心の優しい子だね』通りがかった犬を連れた老婦人の何気ないそんな一言が鋭く突き刺さった。
……俺はその判別も、疑問すらも無くその人をここに埋めた殺人者です。そう応じられたら、残された家族の前に名乗り出て、憎しみと蔑み怒りのままに石打ちにこの身を晒せば、この痛みから解放されるのだろうか……楽になれるのだろうか。
『死んで償おうなんて許さない』また声が聴こえた気がした。
大して長い付き合いではなかったが、何かとお節介焼きで事あるごとに声をかけてきたあいつ。
いや、俺にだけではない。
ありとあらゆる存在に声をかけ、厄介ごとに自ら首を突っ込んでいたあいつ。
中には体よく利用しようとする輩もいたようだったのに、あれはそれに気付きながらも笑いながら使われていた……。
いつも笑っていた……抱えすぎた荷に押し潰されそうになりながら。
いや、違うな。
押し潰されようとして荷を自ら負っていた、笑いながら。
身を蝕む呪いを腹に抱えながら……あいつの過去など知らない、けれどあれはまるで、そう……贖罪のような、いつか己を杭で打ちつける処刑架を背負って歩くかのような……。
そんなあいつがあの瞬間に見せたあの怒りの表情、初めて耳にする【お前は背負え】と強要したあの言葉は、教団の……あの人の犬として生きた末期に耳にした言葉だから、という以上の重さを持ってのしかかってくる。
どう背負えばいい、俺にはお前のように痛みを知られずに笑うことなんてできない、教えてくれ……。
耳の奥で鳴り止まないあの言葉に突き動かされるように、己の罪深さを知る旅路の途中で訪れた荒れ果てた私有墓地。
傾いて立ち、蔦に覆われた門に刻まれた紋章には見覚えがあった。
いや、本当はもっと昔に目にしていたけれど、魔道学院で思い出すまで一度は忘れていた紋章。
突っ立ったまま懐中を探り、取り出したものは布に包まれた抜き身の短剣。
薄造りの刃と優美な装飾が施された柄には、目の前の門に刻まれものと同じ紋章、何かの葉と実のついた枝を咥えて飛ぶ鳩が象嵌されていた。
「……チェンバレン家。あの娘の家族の……墓か」
父親が俺の左手に刺し貫かれるのを目撃してしまった幼い少女。
なんの運命か魔道学院に潜り込んだ俺を見つけてしまった少女。
そして俺にこの短剣を突き刺し、俺が家を奪う存在だと……ずっと目を背けていた真実を鏡に映して教えてくれた、燃えるように輝く瞳を持ったあの少女の家族が眠る場所だった……。
「……ねえ、一つ訊いてよろしくて?」
後ろを歩く彼女が無言なのを良いことに意識を深く潜らせすぎていたようだ、唐突にかけられた声音は確かにあの日の少女のもの。
なんだい、と振り向くと道に沿って植えられて咲き誇る向日葵を背に、緩やかな風に金色の髪を揺らすその姿は、やはり断罪の女神を思わせて、なんだか眩しかった。
「どうして………どうして当たり前のように生きているの?」
搾り出した声音でようやく吐き出した言葉、何かを抑えるように固く引き結ばれた唇。
両手で抱える鞄の取っ手を握る拳の力が腕を軽く震わせている。
彼女にとってそれは当然すぎる問い。けれどその答えは俺にもまだ解らなくて……。
「うん、そうだね。……どうして、なんだろうね」
自嘲の笑みだろうか、消え入りそうな申し訳なさだろうか、自分が浮かべている表情がわからない。
息を呑む彼女の瞳からはそれは読み取れなかったけれど……
「……わたしは……家と家族を奪われたあの夜のことも、あの日のあなたが私にした約束のことも憶えているわ。だから……あなたを殺すわ」
「ああ、約束は憶えているよ。きみにはその権利があるし、俺にはそれを受ける義務がある」
俺と俺の罪を刈り取る為に舞い降りた断罪の女神もかくやの輝く瞳を持った少女。
俺がとうとう見つけられなかった答えを彼女は俺にくれるだろうか、己では下せない甘美な償いを俺にくれるだろうか……それとも……。
己のことすら見えていない俺にはまだ分かっていなかった。
彼女の抱える痛みはこの俺が生きている事、そんな単純なことだけだなんて思っていた。罪とはなんなのか、生きるとはなんなのか、己を受け容れて進んでいくとはどういうことなのか。
いまだ答えどころか、己すら見つけることのできていなかった俺には、彼女の瞳がなぜあんなに揺れていたのかに気づく余裕などまだまだ無かった。
最終更新:2012年06月21日 20:39