誰かに何かを伝えるというのが、こんなにも難しいものだとは思わなかった。
私にとって腕を持ちあげるに等しい行為を、噛み砕き、理解を促す表現で伝える術が見つからず、教壇に立って固まってしまう私に向かって疑問符を浮かべた視線が並ぶ。
どうにかしなければと焦燥が募れば募るほど、私を見つめる生徒の顔は怯えたように縮こまってしまう。
終業の鐘に助けられたように今日も教室を飛び出したのは、生徒ではなく私だ。
セレス……やはりお前の見立て違いだったのではないのか?
『絶対に大丈夫』などと言ったではないかと、やや八つ当たり気味の感情を抱きながら、午後の二限目が始まった人気の無い食堂で、卓上の木目をぼんやりと眺めるのが、このところの昼下がりの日課だ。
「またぁ……そんなおっかない顔をおしでないよ」
頭上から降った声に、つと卓上から視線を上げると寮母が不思議な表情で立っていた。
笑っているような困ったかのような……。
まだヒトの表情に疎い私にはそれを何と表現するのかは判らなかったが、彼女はふわ、と私の頭に触れた。
あの魔術士と同じことをする……最初に引き会わされて以来、何かと私の面倒を焼く女性は始めこそ煩わしかったが、最近ではこうやって触れられる事にもあまり抵抗が無くなってきた。
あてがわれた掌からじんわりと伝わる熱が、疲れきった思考に染み込んでくるような心地よさを伝えてくる。
ヒトというのは不思議な生き物だ。なぜこうも無警戒に他人に触れたりできるのだろう。
「人に何かを伝えるってのは、簡単なことじゃないさね。気持ちを伝えるのだって簡単じゃないってのに、あんたの場合は技術も心も伝えないといけないからね。なぁに、誰も彼もこんな学校は初めてのことなんだ、一朝一夕にいかなくたって当然なんだから」
胸中の呟きが漏れていたのかと驚いたが、どうやらそういう訳ではないらしい。
「でも、まずあんたに必要なのは……多分これだね」
言葉に続いて寮母は手にしていた椀をコトリと卓に置いた。
中味は何やら琥珀色の……液体?いや固体だろうか?しかしそれにしてはやけに柔らかそうな……。
何だ、何か意思伝達力を高める秘薬のようなモノなのだろうか。
訝しげに椀を覗き込む私に、寮母は木を削った匙を差し出しながら口元を湾曲させた、確か笑うという表情だ。
「見たこともないかい?いいから食べてごらん」
「……食べる?」
人の食事風景は見知っているが、こんな物体は初めて見る。小首を傾げたまま、やはり秘薬の類か……しかし私にそのようなものは……ぶつぶつと呟く私に彼女は一つ肩を竦めて……
「しようの無い子だね、ほら」
寮母は自ら匙で椀の中味を掬い取り(掬われた形状から見て秘薬はどうやら固体らしい)、私の口元に突き付けてきた。
「?」
「いいから!アーンって言ってごらん」
訳が判らないが、数少ないながらも私の経験は従っておけと言っていた。ええい、ままよ。
「……あ……あーん…!?ふひゃ」
薄く口を開いた途端、驚くべき早さと正確さで口中めがけ繰り出された匙は、掬われた物体だけを残して離脱し、突然放り込まれた物体の冷気に、思わず気の抜けた声が漏れる。……くそ、なんだか気恥ずかしいではないか……。
けれど同時に、何ともいえない香気が鼻腔を満たした。
舌からの熱が伝わったからか、口中で形を失いはじめたソレは、なお一層香りを強める。
感覚器官は未経験の刺激を信号として送ってくるのだが、表現として該当する言葉が見当たらず、瞬きながら見上げると、寮母はなぜか満足げな笑顔で頷いてきた。
「なんだい、大丈夫だよ飲み込んでごらん。……どうだい甘いかい?」
少し惜しい気もしたが言われるままに嚥下すると、いくらか残った冷気と共に喉を滑り落ちていく香りと物体。
「……なんだこれは?甘い?"あまい"という秘薬なのか?」
私の問いかけに一瞬目を丸くした彼女だったが、すぐに何やら納得した面持ちで口の端を持ち上げる。あ、また"笑う"だ。
「秘薬?まぁ笑顔の秘薬には違いないけれど、それはプリンってお菓子だよ。嗜好品の類っていえば通じるかね?美味しかったかい、香りまで甘いだろう?」
そうか……なるほど。これは味覚に言う"甘い"というものなのか。
プリン……どことなく角が無く優美な響きがしないでもない……。
質感と食感もさることながら、この口中一杯に広がる"甘い"という香気と味覚。
喉を滑り落ちる時の固体でもなく液体でもない主張……。この未知の物体についてもう少しで何か掴めそうな……もう少し、もう少し確かめてみたい……。
おずおずと手を伸ばすと、寮母はまた"笑って"私に匙を手渡してくれた。
匙の丸い先で椀の中味をツンツンとついてみると"プリン"なる名に相応しい弾力で押し返してくる……。
思い切って匙を差し込み一度、二度と掬い、口に運んでは"甘い"を記憶するように口中に留め、嚥下した。
三度、四度……。視界の端に寮母が椅子を引き、向かいに腰掛けたのが見えたが夢中で掬っては含みを繰り返した。
「……気に入ったみたいだね」
椀の中味も残り少なくなってきたところで声をかけられた。
「…気に入る?」
束の間存在を忘れていた寮母に視線を戻し、匙を握ったまま小首を傾げる。
「そうさね……うーん、"好き"ってことかねぇ?」
私の問いを顎に手をやり、思案した風で答えた彼女はまた大きくにっこりと"笑い"……
「今、鏡を持ってれば見せてあげたかったんだけどね。あんた今とてもいい顔で笑ってたからさ。自分で気づいてなかったかい??」
……笑う?この私がか? 私は冥魔なのだぞ。
「性が真面目なんだろうけど、あんたは少ししかめっ面が過ぎるよ。それじゃ生徒も怯えて会話やら質問どころじゃないよ」
……そんなつもりは無かったが、生徒たちの怯えて、口を閉ざす表情を思い出すと、そうなのだろうとも思う。
「折角そんな綺麗な顔に生んで貰ったんだ、少しは笑うようにおし。授業で困ったら、とりあえず笑ってみるんだね」
全く論理的ではないが、よく笑い、大勢から信頼を集める寮母の言葉は不思議な説得力があった。
「……笑い方、まだよく分からない……憶える。だから……」
自然な笑顔という技術を取得するのは、まだまだ先のことだが、手始めに私はこの日"おかわり"という文化を憶えた。
最終更新:2012年06月22日 02:32