「はいはい、静かに!今日は先週案内した通り、攻城魔術に対抗する大規模結界の構築と維持展開の実地訓練よ」
パンパンと手を叩いて衆目を集めると、良く通る声で結界術教導師であるファムネリア=ノエイン師が、これから行われる実習について説明を始める。
「実地訓練と言っても、本当に攻城魔術を用いるわけじゃないから安心なさい。けれどみんなが集中しやすいよう仮想敵を用意しました。あなたたちが今日防ぐ"脅威"はコレよ!」
生徒達の視線を一身に受けながらファムネリア...通称ファム師が、実習室に運び込まれていた四角く黒い箱に指先をかざすと、その立方体はカーテンを引くように色が抜け、透かされた内部をあらわにした。
「……桶?」
実習場で最前列に控えた女生徒が怪訝そうな声音で呟くのが聴こえる。
確かに立方体(気付いていなかったがそれ自体が結界になっているのだろう)の内部には一人で抱えるにはやや余るサイズの桶が鎮座していた。
「はい、ざわつかない!この中には帝国東部に伝わる特殊な保存加工を施したパルム(根菜の一種)がたっぷり入ってるわ。とっても美味しいくてクセになるし、酒は進むわと万能だけど、独特の香りが特徴で、一部のマニア以外にはその臭気から『悪魔の靴下』なんて称される逸品よ。かつて東部列強が帝国に侵攻した際、このパルム漬けの瓶をひっくり返した一部隊が戦闘能力を奪われる事態に陥ったことから、一時期東部列強では殲滅兵器として分類されていた、なんてお茶目な逸話もあるほどよ」
シン...と静まり返る実習室に、あくまで冷静なファム師の声と、ところどころからゴクリという生唾を飲む音が響いた。
「今はこの通り、先生の結界で覆っていますので全くの無臭だけど、実習開始から一定時間後に結界が解けるようにしてあるわ。それまでにあなたたちは協力してさらに強固な結界を展開して覆うこと。先生の結界が消滅後は桶にかけた術が皆さんの結界を破ろうと内側から干渉してくるから、手を抜く暇なんてないわよ。手を抜くと......ドッカーン......よ?」
既に逃げ腰の入り始めた数人の生徒をチラリと一瞥すると、楽しくて仕方がないといった風のファム師は、口元に拳を当ててクスリと笑む。
「そんなに怖がることはないのよ?食べ物には違いないのだから、桶の中味を万が一浴びちゃっても、身体に害はないわ。すこーし......そう、ほんのすこーし過激な臭気がするだけよ♪」
ファム師のくすくす笑いは止まらない......。
異端揃いの学院教導師の中で、この人だけはまともだと信じていたのに、いま目の前で妖しく微笑む彼女から感じるむせかえるほどの禍々しい気配は何としたことだろうか。
...そういえば、寮を出るとき数名の上級生がやけに労わるような感じで送り出してくれたのは、こういうことだったのか......なぜ、なぜ教えてくれなかった......。
数名のシンパを失いながらもファム師の楽しげな表情は変わらない。
「昨年の実習では悲しくもこの脅威を防ぎきれなかったわ。半数の生徒が医務室に直行することになったけど、たまたま匂いに敏感な子が多かったのでしょうね♪ ......ただ、一週間はお風呂に入っても匂いが消えないので、みんな気を引き締めなさい!!」
引きつった表情の生徒達を見回しながら、ファム師はゆっくりと実習場唯一の出入り口である扉へと後ずさる。
「大切なのはチームワークよ!では、実習終了までの2刻は、いかなる理由であっても退室は許されないから、きっちり封じるのよ!!あ、それと先生の封印は3分で切れちゃうからあんまり時間はないわよ♪ それでは...はじめっ!!」
極上の笑みを浮かべたファム師は、するりと実習室の外へと抜け出たかと思うと、扉に手をかざし魔術で施錠を命じる。
不気味に軋む扉の隙間から、ひらひらと手を振るファム師が見えなくなると同時に、中央に鎮座した立方体の結界がブゥンと起動音を鳴らし、壁面には結界解除までの秒数を示す数字が赤く輝いて浮き上がり、カウントダウンを始める。
実戦さながら、阿鼻叫喚の実習が幕を開けた......。
-とある生徒の手記より-
実習の出来は......手前味噌だが、なかなかのものだったと思う。
ファム師の結界消滅前に、なんとか数名が重複結界を展開することに成功し、別の数人がバックアップについてフォローを行い、その間に魔力の供給、術者のローテーションといった差配を行う人員を取り決めることができた。
走査系魔術によって結界の綻びをチェックする者、最前線で漏れ出た臭気を密閉して分解・浄化する者、漏れ出た臭気に当てられた者を回収し浄化系の治癒術で癒す者など、各人が命じられるまでもなく全力で役割を全うした。
実習室はまさしく戦場だった。
40人近い生徒がかつてない一体感で繋がれ、『あと2刻、この臭いを世界に拡げてはいけない』ただ純粋に、たった一つの願いを抱いて戦い、それは全うするかに思えた。
けれど......実習終了を5分後に控えたその時、それは始まった。
突如桶は禍々しく唸りをあげ、黒と赤の明滅光を放ち始めた。
はじめから仕組まれていたのだろう、それまでに倍加する勢いで結界を内部から食い破ろうとする力が発動した。
肉体と精神両方の疲労と、終了を目前に控えてほんの少し緩んでいた生徒たちの心理をあざ笑うかのように桶は妖しく輝き、我々の必死の抵抗も虚しく......破裂した。
それはまさしく悪魔の所業だったと......言っていいと思う。
実戦には時間制限などない、実戦だったなら確かに全員戦死ということになるのだろう。
だが、仕込まれた崩壊術式は実習という背景に設けられた制限時間と、それを知っている者の心理を読みつくした上で巧妙に配置されていた。
悪魔以外の何者がそんな術を持つというのか。
耐え難い臭気が抜けるまでの約1週間、生徒達は実習で得た信頼とか友情とか一体感とか、そういった本来かけがえのないもの以上に、大きな何かを失ったような痛手に見舞われた。
特に女生徒は精神的ダメージが大きかった者が多く、週末にようやくこぎつけていた初デートをキャンセルする伝文魔術を号泣しながら飛ばす者や、桶の中身を生産する地方の脅威を訴え、皇宮へ宛てて征伐の署名を集める者まで出る始末だった......。
そして私は......なまじ読唇術など身につけていた我が身を、今も呪っている。
あの日、扉の閉じる瞬間にファム師の薄く開いた唇が凄絶な笑みを形作りながら、呟いていた言葉が今も忘れられない......。
彼女の整って美しい唇は、あの時こう言ったんだ......。
「あなたたちがいけないのよ...ところかまわずイチャイチャイチャイチャと...」って......
最終更新:2019年04月24日 22:51