さらに数日が経ち、金の魔術士が留守から戻ったのを感じた私は、身のうちに閉じていた翼を広げ、敷地を見渡す高さにまで昇ってみた。

魔術士に侍る風精の気配を手繰るように滑空し、尖塔の最上階らしき張り出し窓にふわりと降り立ってみれば案の定、机に向かう金色の後頭部が覗いて見えた。

幅広な机に紙束を積み上げ、一束取り上げては捲り、時たま何やら書き込んでは別の紙束の山に積む作業に没頭している無防備な後ろ姿に、先日の不覚の精算を考えないでも無かったが、風精が獣が喉を鳴らせて警告を発するように空気を震わせたのでやめておいた。

風精も来訪者を報せたかった訳ではなかろうが、結果的に呼び鈴の役を果たしたことになり、魔術士は手を止め少し首を左右させ、やにわに振り返って『やぁ』と破顔してみせた。

無防備で何を考えているのか、未だによくわからぬ魔術士に手招かれるまま、室内へと踏み入る。

留守中敷地内を見てみたかと訊ねる魔術士に、別段話すことはないと返したものの、ふと呪詛構成を組んでは消すあの少年が脳裡をよぎった私は(自分でも驚きだったが)あの日理解しかねた疑問を魔術士に問うた。

あれはなんだ?と訊ねた私に魔術士は少し目を見開き『そう、セレスに会ったんだね』と呟くと椅子の背もたれに深く背を預け、しばらく黙っていたかと思うと、何やら思案する様子で小さく息を吐いた。

「あれはね……あの子自身にかけられた呪い、その複写なんだよ」

顔をあげてそう告げた魔術士に、私はバカな……と反駁した。
あれは幾年もの年月を重ねて練られた呪詛だ、齢十を僅かに越えた程度にしか見えぬ子供に向け続けるにはあまりに長く、深すぎる。
第一あの少年にはあれほどの黒く禍々しい呪詛に蝕まれている者に特有の生臭い呪波を感じなかった。
そう告げると魔術士は頷く。

「呪自体とは切り離したんだ、今はね。僕が見つけた時、あの子は起き上がるのすらままならない酷い状態だった……」

呪詛を引き剥がし、穢れに衰弱した身体を自ら動かせる状態に戻すまで三年かかった。
そう続けた魔術士の声を耳にしながら、ここ数日見続けた記憶にある線の細い体躯を思い起こした。

でも……と言葉を継ぎながら魔術士は深く息を吐き眼差しを伏せる。

「できたのはそれだけ。あまりに長くあの呪詛に晒された身体には滓のように呪波が溜まり続けた為に、本来人が持つ自浄能力が失われてしまっていた……あの子は…」

多分、次の春までは保たないだろう。

伏せた瞳の奥で感情のざわめきを律するように淡々とした声音で語る魔術士。

「……何故だ?ただの子供ではないか、あれほどの怨嗟を身に受けるような……」

あの仔犬のような少年が死に至るほどに濃い呪詛を受ける謂れがあるというのか?
私の問いかけを半ばに受け、魔術士はゆっくりとかぶりを振る。

「何も……。あの呪詛は……」

閉じていた瞼が上げられ、金の双眸が悲しげに揺らいだ。

「あの子の母親が、我が子に与えたものだ」



魔術士が語った、少年……セレスの生い立ち話の前半は、有体に言えばよく耳にする類の話だった。

父は在野の魔術士、その能力を用いて一財産を築き(恐らく人の意識に作用する類の術だろう)戦時の混乱に乗じて爵位と街を買い取った、いわば成りあがりだ。

魔術を私欲の為に用いる者の典型に違わず、セレスの父は買い取った街の独裁者として傍若無人な振る舞いに及んだ。
彼にとって領民は己の財産の一部であり、物も人も、時にはその命さえも、欲してはそれを抑えることが無かったという。

不幸にもそんな領主を戴いた領民の中にセレスの母親も居た。
狩猟中の領主の目にとまった彼女は、戯れに城へと奪われ、汚し犯され、同様の身の上の少女たちと同じようにやがて捨てられた。
抜け殻となって里へ戻った彼女が見たのは、焼けた我が家と朽ちた家族の骸。

貴重な働き手であった娘を連れ拐われた彼女の年老いた両親は、領主の定めた過酷な税を納めることができず、娘を取り上げた領主を非難した為、見せしめとして生きたまま家ごと焼かれ、埋葬することすら許されなかったらしい。

途方に暮れ、隣家の小作女として暮し始めた彼女はやがて自分が身ごもっている事に気付き絶望した。

魔術士が聞き調べた限りでは幾度と無く自ら命を絶とうとしたようだが、不思議なことに全て失敗したそうだ。


彼女は己から全てを奪った領主を憎み、その記憶を嫌でも思い出させる自らの腹の子を呪った。
セレスにとって不幸であったのは、偶然にも母たる彼女にも潜在魔力があったことだろう。

とめどない嘆きと怨嗟は十月十日、無制御の呪詛となって胎児に降り注いだ。

母体から呪詛の攻撃を受けながらも奇跡的に胎児はこの世に産まれ出たが、それは果たしてセレスにとって幸運な事だったのかどうか判じる術は無い。
呪詛の影響は隠すべくも無く、小柄で病がちな子であったらしいセレスに物心が付いた頃、その日はやってきた。

息子に不可思議な力があることに周囲が気付いてしまったのだ。
それは母親からの遺伝であったかもしれないが、自らの潜在魔力のことなど知らぬ母親は、それが記憶を封じようと己を穢した領主が自らに与えた逃れられない呪縛だと感じ、母親たる本能だけで保たれていた彼女の糸は切れてしまった。

心を病んだ彼女は、否定と怨嗟が生む箍の外れた感情の奔流を呪詛と暴力へと代え、訳も分からず泣いて縋る我が子に向けた。
……向け続けた。

母という存在に生まれる前から呪われ続け、呪詛を蓄積したセレスの身体と命は、もはや後戻りできぬ程に蝕まれてしまった。



それが、あの呪詛?
あれほど厚く塗り重ねられた負の願いが、存在を否定するあれほど純粋で、どす黒い祈りが母が我が子に向け続けたものだとは……。

『なぜそんな目にするも不快で毒々しく絡まり、乱暴で粗雑な構成を用いてそれを求めるのだ?』
自らが少年に向けて放った言葉と、悲しげに震えた繊細な睫に覆われたハシバミ色の瞳を思い出して、私の中で何かが軋んで音を立てた。



「そんな……そんなのは間違っている!」

なぜだろうか、思わず眩暈のようなものを感じ、声が荒くなった。
私に人間らしさなどは備わっていない。
それでも湧き上がるこの理不尽さは、私も望んだわけではない娘たちを持つ身であるからなのか、あるいは私の部品とされた少女の魂のカケラが今もどこかに残っているが故にそうさせるのか。

セレスの父親に対するそれよりも、母親に対してこそ『なぜだ』そう強く訴えたかった。

「そうだね。でもあの子の母親は決壊してしまった自分の感情を止められなかった」

もう少し早く見出していれば違ったかもしれないが、残念だと魔術士はかぶりを振った。

「……父親は?どうしようもないクズだとしても、父親はあの子を保護しようとはしなかったのか?」

そうしなかったから、あの少年がここにいるのだとは理解していたが、思わずついて出た言葉に魔術士はふと表情を変え、口をつぐんでこちらを見据えた。

なんだ、と瞳で訴えると魔術士は『そうだね、君は知っておくべきかも知れない』と小さく呟いた。

「母親の暴力がセレスの命を脅かすほどのものになりだして、周囲の誰かがセレスのことを領主に告げたそうだ。似た生い立ちの子は他にも多く居ただろうが、強い潜在魔力を目に見える形で現した子は他に居なかったようで、それを知った領主はセレスを手元に引き取ろうとしていたらしい」

「……らしい?」

予想とは少し異なる答えが返ってきたことに驚きながらも、魔術士の言葉尻に妙な違和感を覚える。

「そう、結果的には引き取られなかったんだ」

なぜ?と問おうとして遮られた。

「セレスの父親が領していた街の名はフランギル、君は彼を知っているはずだよ?」

フランギル、魔術で人を支配する残虐で享楽的な領主。
私が彼を知って……いる?

私の中でカチリ、カチリと何かの符丁が一つずつ嵌まっていくのを感じながら、小さくよせと呟きながらかぶりを振る。

「セレスが父親に引き取られて母親の呪詛から遠ざけられることは無かった。なぜなら……」

……やめろ、もう聞きたくない。

しっかりと私の瞳を見据え、魔術士は穏やかに、けれどはっきりと告げた。


「そう、セレスの父親は君が殺したんだから」
最終更新:2012年06月22日 02:41