「ステラ?……ふん、星か。夜にしか存在できず、月に劣る光しか持たぬ……私には似合いの名だな」
そう言って扉の向こうに消えた背中に、今は届かずとも良いと一人呟く、「星はね……」と。
太陽は昼を、月は太陽の代わりに夜を照らすけれど、星は太陽と同じく光を放つ存在でありながら、けっして隠れることなく、人を苦しめるほど照りつけることもない。
昼は強い太陽の光の向こうで、夜は月の照り返しの向こうで、常に輝きを放って大地を見守る存在。
僕にとっては特別な古の言葉で"星"を意味するその名は、己から生みだされた存在を、己が未来を託した人の歩みを、ずっと一人で見つめてきた君に相応しいと、そう名付けたい僕のこじつけだけど、そう思うんだ……リリス。
いつかその名で子供達から親しみを込めて呼ばれる未来が彼女に訪れますよう。
彼女を追い始めたときには彼女を利用することを考えたけれど、今は本心からそう思う……。
勝手なものだな、と自嘲にも似た苦笑いを浮かべると、執務机の脇に侍っていた白い虎がムクっと上体をもたげ、まるで猫か犬のようにちょこんと尻を落として座りなおす。
「ルクス、本当にアレを教師にするの?」
艶やかな光を宿しながらコチラを見つめる紫の瞳に頷いて手を伸ばすと、見た目よりも柔らかな毛並みに指先を埋めて撫でながら長年連れ添ってきた友人に言葉を返す。
「そうだよ。僕はねセルファ、ココがただ魔法を習い、研鑽するだけの場所になるか、それとも魔法を使う人を育てる場所になるかを分かつ存在に彼女がなってくれる気がするんだ」
「やけに買い被るのね、貴方にとって大事な名前を与えたりして……私は反対よ。人の姿を取っていようと冥魔の頂点の一角、人を狩っていたような魔物よ、アレは」
呆れたようにグルと喉を一つ鳴らす、白い虎の姿をした風雷の精霊。
名をセルファードという。
「冥魔はそう造られた存在で魔物なんかじゃないよ。ここで教師にすれば問題も収まるし一石二鳥じゃないか。確かに最初は賢者の塔の地下に封じたものが再び陽の目を見たときの保険として彼女をこの地下深くに封じてしまうつもりだったけれど、それには僕達の力だけでは手に余ることも分かったし、何より……」
彼女の痕跡を追う内に芽生えた別の感情……。
「……この世の誰よりも魔法を憎んできた彼女だからこそ、僕は彼女が魔力を宿す子供たちをどう導くか、世界とどう関わるのかに興味があるんだ。……それにねセルファ、僕は聖人じゃない。彼女の手で狩られた魔術士たちは幸運だよ、僕の手にかかる前に楽に終わらせて貰えたんだから……」
彼女が冥魔たちとの約定によってそうしてきたように、僕自身も同様に……いや、もっと利己的に僕の求める世界の実現の為に邪魔となる存在をいくつも葬ってきた。
己自身の選択、手を染めてきたことに後悔は無い。
けれど、それはこの身がいつか終わることを知っているからできたこと。
自分自身も罪在るただの人、罪業と共に生き、いつかはそれと共に塵へと還ることがわかっているからこそ……己に許された有限の時間をどこかで言い訳にしていたような気もする。
けれど、彼女にはその終焉が無い。
永遠の鼬ごっこ。
この先どれほどの時間をそれに費やすのだろう、たった一人で。
いつかは、磨り減る何かが尽きてしまうのではないのか……。
もしその日が来たら……僕なら滅ぼすことで終わりを求めるだろう、人も世界をも炎の海に沈めることを選ぶ気がする。
でも、それを避けたいと願って、彼女を招いたわけではない。
恐らくそれが選ばれる日が来るとしてもずっと先の未来だ、僕には関係が無いし彼女が何を選ぼうと彼女の自由だ。
でも、その日彼女が下す結論が『選ばなければいけない』ものではなく、『選びたい』ものであればいいと思う。
それは僕ができなかったこと、いや " してこなかった " こと……。
そんな胸中を見透かしたように精霊は笑う。
「年を取ったのね、ルクス。貴方が過去のやり直しをアレに求めようとするとはね……」
そう……僕は己の命を見積もり、磨り減ってもいくらか余ると、器が溢れてしまわないことを知っていたからこそ、天秤にかけて選んできた。
選択を下したことに後悔は無い、けれど選ばなかったことでこの手から零れ落ちていったものに悔いが無いわけでもない。
『俺と来れば、気遣いでお前を前線に送らないだけの余裕が今の俺には無い。お前が戦う相手はお前の故国、お前の親兄弟となるのだぞ?よく考えろ……二度は訊ねんぞ』
『国も世界も、本当はそんなものどうでも良かったのに!魔法人なんて知らない!私はただ兄さまの傍で笑っていたかっただけなのに!!』
『なぜ私には許してくれないのです!私は貴方を見て育ち、貴方を師と仰いできた。ノエインのように魔術士として飛び抜けているわけでも無く、政治ができるわけでも無い私は、こうすることで貴方の力になりたかっただけなのに。なぜ私が魔術士を狩ることを認めてくれないのです!』
いずれも何かを選んできた時、耳にした友の、妹の、愛弟子の声や悲痛な叫び。
昨日のことのように今も容易に引き出すことができる。
それを選んでいいのか?
なぜ選んでくれなかったのだ、と。
明確な答えは今も示すことができない。
恐らく問いかけるその声は、この命が終わるまでずっと続くのだろう。
だからという訳ではないが彼女、リリスに妹の名と留まることのできる場所を与え、違った道を選択肢に加えることで、自分が溢してきた何かの辻褄を合わせようとしているのではないのか。
友人である精霊はそう言って笑う。
「……うん、そうかもしれないね」
そんな代償行為の行く末を自分が知ることなど無いだろうに、いずれこの身が終わりを迎えるその時に充足感を得たいが為のことだけなのかもしれない……。
また今度も己の求めるものの為に、彼女を利用しているに過ぎないのかもしれない。
でも、それでも……
「誰にも内緒だよセルファ。僕は………やり直したいことが沢山、たくさんあるよ……」
いつの間にか人の姿へと変じた精霊の胸に額を預け、誰にも漏らしたことのない思いを食いしばった歯の隙間から毛足の長い絨毯へと向けて吐き出す。
「バカね、そんなこと知ってる。……知っているわ、ルクス」
先程とは逆に、金の髪を撫でながら風雷の精霊姫は静かに呟く。
たとえやり直すことができてもきっと同じものをもう一度選ぶであろう、不器用で優しいから冷たい、類稀なる力を持った傷だらけの魔術士。
けれど今回の選択のツケはきっと高くつく……。
幾つもの痛みを抱え、有限の時間の先に安らかな眠りにつける筈であった、己が魂の半身とした魔術士が定めた選択に、世界・因果とも呼ばれるソレが残酷にも手を伸ばそうとしている、そんな予感に人ならざる身なれど、精霊は心が震えるのを感じるのだった……。
最終更新:2012年06月22日 02:46