「壁は私が作ってやるから、お前は編み目をよく見て抜くべき点を探せ。……もしも違ったら私が教えてやる」
何のためかは分からない、でもそこに辿りつけば、その答えもわかるんじゃないだろうか、そんな不確かで縋るような気持ちで毎日繰り返す僕の日課。
竜胆山脈の頂きの上を滑って西の森の向こうへと陽が傾き、オレンジの斜光が石壁にへたり込んで尻もちをついた僕の影を細く映し出すいつもの夕方、ビュゥと風が地面に落ちた花びらを巻きあげたかと思うと、突如目の前に現れて僕にそう告げた、あの背の高い女の人。
以前、一度同じ場所で言葉をかけてくれたあの女性。
別れ際に聞いた名前は、確か……リリス。
名前を尋ねた僕に振り返って答えてくれたその名前、でもその時なんだか……とても痛そうな顔を一瞬してみせたから。僕はその名前でこの人に呼びかけていいのか分からなくって、ただただ無言で見上げていた。
それが僕と先生の二度目の出会い。
どうして僕に構ってくれるのかも、なんて呼びかけていいのかも尋ねることすらできなくて、僕はその女性を内心で先生と呼ぶことにした。
翌日の課外時間から、また同じように僕は日課に取り組んだけど、その日からオレンジの夕陽が石壁に移す影は二本になった。
最初の一日、先生は僕が編みあげた構成、--学院長先生から僕の身体から剥がしたというそれ--の周囲を周り、ためつすがめつ眺めていたかと思うと、黙って見守っていた僕に向き直ると、唐突に話しかけてくれた。
「お前。ここ、この絡み目は見えるか?」
先生が細い指先で指し示す先には、黒い紐が絡みあったような念の結び目が見えて。
こくんと頷きながら、絞り出した声で応じる。
「でも、そこは表層から少し奥だし、その上をまず取らないと……」
触れられないんじゃないか……な、と恐る恐る小首を傾げてみると、先生はちょっと眉を潜めて瞳を細める。
怒らせちゃった……かな。
上目遣いで見上げると、先生は気に留めた風もなくて、ツと顎を逸らせると一つ頷いてくれた。
「ふん、目はいいらしいな。その歳にしては良く構成の重なりが見えている。……が、もう少し視野を広くして見るんだな。確かにこの絡み目自体は奥にあるが、この部分、一つの念がその表側の構成と繋がっているし、逆にここが解けなければ表層を解くのには時間も手間もかかる」
再度指し示しながら周囲をもくるりと指さす先生の白い指を眼で追うと、確かに説明された通り念同士の絡まりがそこにある。
「掴もうとする指が太いからまだ触れられないと思うのだろう?なら指を細くすればいいことだ、念を念で摘まむのだからその太さはお前次第だろう」
ちょっとやって見せろと先生は別の部分から露わになっていた念の紐を指し示して、ぼくにそれを魔力で編みあげた指先で掴んでみるように促す。またこくりと頷くと目を閉じ、もう何度となく想起して目にしなくとも容易く心に描けるその構成をイメージする。
自分の身体の先端へと意識を流し、指先へと。
指先から空間を隔ててふわふわと浮かぶその魔術構成へと、目に見えない指を伸ばして……
突如、パチンと風船が針で突かれるような感触を得て閉じていた目を開けば、片手を腰にあてた先生が伸ばした人差指を掲げて立ちながら僕を見つめていた。
「太いし、荒い。……しかし力を操り従えることには苦がないのだな……」
僕が作り上げて伸ばした念の指先は、目標に届く手前で先生の指先で突かれて消えたみたいだった。
胸の高さまで持ち上げて伸ばしたままの人差指の先と、僕の顔を交互に眺めながら、少し思案するような表情をちょっとだけ覗かせた先生だったけど、またすぐに僕に向き直る。
「しばらくこの構成はしまっておけ。先にお前が操れる力を研いだ方がよさそうだからな」
言われた意味がすぐには飲み込めずにいると、先生が腕組みをして少しだけ首を傾ける。
「なに、闇雲に表層から剥がしたとしても今のお前ではこの一角を崩すのに10日近くはかかるだろう。なら同じ時間にこの奥の念を解けるだけの力を操る術を得た方が後は早い」
案ずるな。
素っ気なく語られた言葉だったけれど、なぜかその言葉がとても力強くて……トーンは硬く響くのになぜだろう、すごく優しい音に聞こえたから……。
あまり深く考えることもなく、僕は頷いていたんだ。
その日から10日と数日。
先生が言った10日よりも少し時間はかかったけれど、先生が時々気付かせてくれる言葉を手がかりにして、僕は以前よりももう少し細く、もう少し強く、願ったものを掴む見えない指を造り出せるようになった。
この間、見えるかと問われた魔術構成の表層の奥から覗く念の絡まり。
やってみろと言われて、緊張しながら身に馴染み始めたばかりの念の指先を、構成の奥へと目がけ造り上げる。
ス…と、無言のまま、先生が僕の背中に回る気配がしたかと思うと、両肩に触れるか触れないかの重みで先生が手を掛けたのが感じられた。
……冷たい手の平。
でも嫌な感じはしない、冷たいの手の平から僅かな温かみのある力が僕の肩から腕を這っていくのが感じられて、びくりと身じろぎすると、耳元で「お前は自分のことに集中しろ」と囁く声と、流れ落ちた長い髪が僕の頬を撫でて、甘やかな香りに心が落ち着く。
意識を撚り戻して伸ばした念の指先が、構成の表層を覆う編み目の隙間へ滑りこむ、意識を拳から伝えるようにゆっくりと捻ると、連動して念の指先は網目に干渉しないよう同じく隙間へと捻り込んで身を滑り込ませる。
「……掴むべき場所を間違えるな……。ゆっくりとだ」
耳元の声に無言で頷くと、額から汗の玉が伝い落ちる。
肩に添えられた、手に汗が落ちるのは悪いなと、そんな想いが一瞬脳裏をよぎるけれど、すぐまた意識を集中する。
絡まった念……それは僕のお母さんの想いの記憶…。
念じ編みあげた見えない指先で、もう何年そうしてそこに在り続けたのかわからない、絡まり合った想いの糸口、その一端に触れる。
摘まみあげるようにすれば、ギギとほんの少し抵抗して震えるそれは、不思議とこれまでのようにその震えが僕の心ごと揺さぶるほど大きくはならなかった。
けれど、それでも抗いの力はそこにある。
それはお母さんが僕を拒む想いなのかもしれない、ふとよぎったそんな考えは、力んだままの僕の拳を震わせて、折角掴んだものを離してしまいそうになる。
途端、目を閉じた拳の先に何かが触れた。
冷たい冷たい、でも包みこむように添えられた手だ……。
大丈夫……言葉じゃなかったけれど、そう囁かれたよう気がして、拳の戦慄きがピタリと収まる。
「そのまま力を流しこめ。結び目を切るようにな」
ゆっくりと囁かれる声に励まされるように、強く握りしめた拳をゆっくりと開き、何かを手繰るようにもう一度力強く握りしめる。
身体の先で風が揺らす布鳴りのような音が響き、何かがパリンと弾ける。
構成の奥層の結び目が解けて、上を覆う表層の編み目ごと剥落していく黒い紐のような念。
お母さんの想いだったもの。
他の人から見れば、それは禍々しくて黒くて嫌な色に見えるだろうそれは、けれど僕のたったひとりのお母さんの想いで、気持ちで、それは僕とお母さんを繋ぐもので……。
ほつれた黒い紐は地面に触れようとした刹那、意思あるモノのようにうねり、跳ね起きたかと思うと、黒い蛇のように鎌首をもたげて飛び上がる。
お母さんはもういない。
でもそこにお母さんの想いがある……たとえそれが僕を拒むものでも……お母さんの心がそこにある……
地面でとぐろを巻き、蛇がそうするようにシュゥゥと警戒音を鳴らすそれに、思わず手を伸ばそうとすると、黒い念から産まれた蛇が僕へと飛び上がった。
伸ばした僕の指先に向け、飛び掛かる顎のように裂けた部分から覗く赤黒い色をぼんやりと固まって見つめれば、突然手首がグイと掴んで引かれる。
「っ!?」
乱暴に引かれた僕の指先があった場所に飛び込んできた黒い念の蛇。
何も無い空間を空振りして、そのまま僕の顔を目がけて飛び上がったそれを、無造作にもう片方の手で先生が掴み取る。
僕の手首を掴んだまま、もう片方の手の中で乱暴にうねる蛇を一瞥した先生は、少しだけ悲しそうな表情を浮かべると、握りしめた拳を捻るようにして握り込むと、手の中の蛇が黒い霧のように霧散した。
へた、と座り込んだ僕の手を先生が離す。
黒い蛇を散らした拳を開いて、漂い残る黒い霞を手の平で球状に集めた先生が何事か呟くとキンッと澄んだ音と共にそれは見えなくなってしまった。
先生がゆっくりと僕に振り返る、朝に咲く薔薇みたいに赤い瞳と視線が絡み、なんとなく気まずくて目を背けてしまう。怒られる……なぜかそう思って俯くと、予想とは違う声が降り注ぐ。
「すまぬ。一度に無理をさせ過ぎた。……痛く……なかったか?」
逸らした視線をもう一度戻せば、いつの間にか沈みきった宵闇と上がり始めた白い月を背負って輝く緑の髪の輪郭と、困ったように揺れる赤い瞳。
不用意に手を伸ばしたことを叱責されると思っていたのに、予想に反して掛けられた謝罪の言葉をぱちぱちと瞬きしながら嚥下する。
たった今、霧散したあの黒い蛇を思い出す。
お母さんの気持ち、その記憶……。
僕の指先を噛みちぎる勢いで飛び掛かってきた、あの赤黒い顎門。
触れる前に霧散したから、指に痛みは無かった。
「見せろ……痛むのか?」
もう一度問いかけられた、言葉と伸ばされた指先から自らの拳を抱えて胸元へと引き寄せ、ゆっくりと首を横に振った。
だいじょうぶ、痛くない。
指に痛みは無かったけれど、抱え込んだ拳の奥が分かっていたことなのに少し軋んで、「イタイ」と言っているように聞こえて……でも僕はそれを無視するように、首を横に振り続けた。
最終更新:2012年06月22日 02:50