目の前で拳を抱え込み「痛くない」と、かぶりを振る少年--セレスに継いでかける言葉が見つからずに、膝をついたまま見下ろすことしか出来ないでいると、やがて拳を開いた手で尻餅をついた腰を払いながらセレスが立ち上がる。
「ご、ごめんなさい。大丈夫です……ちょっと吃驚してしまって」
ばつが悪そうに身じろぎしたセレスがもごもごと小さく呟く様子に、跳ねた衝撃で傷を負ったわけでは無いようであることは理解できた。
そう……目に見える場所は。
「少し効率に過ぎて一度に崩させ過ぎたようだな。私の不注意だ……しかし要領は問題ない、同じやり方で少しずつ量を増やしながら剥がしていけばいい……しかし、本当に……」
そんなに血の気の失せた顔で、痛みにしかならぬこのような行為をまだ続けるのか?
そう継ぎかけた言葉を飲み込む。
あの禍々しく荒々しい黒い想念の蛇に手を伸ばした少年が見せた、縋るような眼差しが瞳に焼き付いて消えない。
そうまでしても、手を伸ばしたい何かがこの少年にとってはあるということなのか……。
……それがわからない。
不意に口をつぐんだ私を見上げて少し怯えたような表情を見せる少年--セレスに、なんでもないと首を振れば、心なしか穏やかな表情を取り戻したセレスは小さく、良かったと呟く。
一体何が良いというのだろう、そんな思いがよぎったのも束の間、聳え立つ建物に据えられた鐘楼からゴーンという音が鳴り響く。
セレスがこの中庭で過ごせる時間の終わりを告げる鐘の音だ。
毎日この鐘を目処にセレスを解放するのが暗黙の決まりとなっていた。
「あ、あの……」
いつものように危なっかしく何度も振り返りながら駆け出していくのかと思いきや、徐々に短く小さくしていく鐘の音を背に、セレスが見上げてくる。
「なんだ?」
「……っあの、なんて呼んだらいいですか?その……い、いつまでも"あの"って呼びかけるのは失礼だし、でも……」
妙なことを言い出したセレスに眉根を寄せる。
言っている意味がよくは理解できなかったが、いい澱んだ言葉の先を促す。
「でも、なんだ?二人しかおらぬのだから意思疎通に問題はないだろう。それに名なら以前告げたはずだが」
完全に鳴り止んでしまった鐘の音に、よいのか?と、いつも駆け去っていく塔の方向へと視線を投げて見せるが、セレスは別のことが気になるように、瞳を逸らす。
「でも名前は大切だって学長先生も仰っていたし……それに、あの……前に教えてくれた名前で呼んでいいのか、僕よく分からなくて」
組み合わせた両手の指をぎゅっと握り締めるようにして搾り出したようなセレスの言葉が意外で、少し興味をそそられた。
「なぜそう思う?」
そう問い返せば、やや俯いて黙っていたセレスだったが、やがて意を決したように顔を上げ、きゅっと結んでいた唇を開く。
「名前を教えてくれたとき、なんだかとても……痛そうなカオをしたから……どうしてだろうって……。本当はそう呼ばれたくないのに、わざと呼ばれたくない名前を教えてくれたみたいな気がして……ご、ごめんなさい」
自分の内心をたかが人の子に見透かされてしまった、その予想の外の出来事を受けて、表情が変わるのが自分でも分かった。
別段憤慨したという訳ではなかったが、私を見つめる視線がまた慌しく動き始め、言葉の最後を謝罪で締めたセレスには、どうやらそのように伝わったのだろうか。
「……ふん、そう思うのなら、呼び名などにこだわる必要はない」
これまで通りでいいだろう、そう続けようとした言葉が意外にも小さな反駁に遮られる。
「じゃっ、じゃあ"先生"! 先生って呼んでいいですか?」
可動限界いっぱいでは無いかと思える角度で見上げてくる二つの瞳に、二度三度と瞬いた訝し気な視線で応じる。
「"せんせい"とは何だ?そういえばあの魔術士にもそのような呼び名を与えていたな、お前は」
何度かセレスがあの金の魔術士を指したと思われる呼称を思い出す。
がくちょう……せんせい、だったか?
私の問いかけに、仔犬を思わせる丸い瞳をさらに丸めたセレスがぱちぱちと瞬きを繰り返す。
全く……一体何だと言うのだ……
そうして私の質問の意味を反芻するようにしていたセレスは些か額に皺を寄せて、ええと…と繰り返していたが、やおら何事か思いついたように、一人頷いてから口を開いた。
「"先生"っていうのは人に何かを教えたり、導いたりすることができる人のことです。……だと思う」
セレスが言い寄こした質問の答えに、先程リリスという呼び名に対して潜在的に抱いていた嫌悪と同時に、長く呼び続けられたがゆえに、それが自分を表わすものだという刷り込みにも似た感覚とのズレを抱き続けている内心を言い当てられた時ですら覚えなかった、ザワリとした拒絶の意思が感情に冷たいヴェールを落とすのが分かった。
「ならば、それは私を言い表すのに相応しい言葉ではない。私はそれとは遠く隔たった存在だ。私はその名では呼ばれたくない」
セレスなりによい考えだと思ったのであろう。
リリスの名で呼ばれることを、どこかで好かぬ私に気付き、それに代わるものとして捻り出しただけに、即座に却下されるとまでは思っていなかったかのように、セレスはよく浮かべる何か考えてはいるが言葉を見つけられない時の表情で私を見つめ続けている。
「……でも、僕に力の扱い方を教えてくれたよ?それをどこにどう使ったらいいのかも。違わないはずだけど……でも嫌な呼ばれ方なら仕方ないですよね……」
じゃあなんて呼べばいいですか?
再び仔犬のような瞳で見上げてくるセレスに、少し戸惑いを覚えつつ思案する。
多数の中の個を識別する為であるなら理解できなくも無いが、互い同士しか存在せぬのに、なぜ呼び名などに拘るのか。
全く、人というものの思考は理解しがたい。
辺りに宵の帳が降りはじめ、春先特有の緩やかな日の暖かさからうって変わって訪れる冷気が忍び寄り始めた気配を察して、体力を消耗しているはずのセレスを早めにねぐらたる塔へと追わねばと思うと同時に、先日戯れに魔術士と交わした会話を思い出す。
名を問われたらなんと返せばよいのか、そう問うた私に、さして考えた風も見せずに魔術士が告げたあれは何であったかと記憶を辿る。
そうだ、魔術士はあのとき確か……
『それなら--ステラっていうのはどうかな』
「ではステラと、そう呼べばよい。ただし"せんせい"はナシだ」
これで手打ちだとばかりに記憶から引き出したその仮初めの呼び名をセレスに告げれば、少し表情を和らげたセレスだったが、私の言葉の後半が不服であったのか、それは少しまた曇るが、その言葉の内包するところを知ったからには決して受け容れることは出来ない。
「ステラ……さん?」
「長い、ステラだけにしろ」
即座の応酬に、ぽかんと口を開けたセレスだったが、首を振って礼儀がどうこうともごもごしだしたのを見て、苛立ちが鎌首をもたげる。
「私もあの魔術士が呼んでいたようにお前をセレスと呼べば対等であろう。これも不服なれば、最初の通りで話は終わりだ」
なぜ、この私が人の子相手に対等などという妥協案を持ち出さねばならないのか、今ひとつ己でも納得がいかぬ部分はあるものの、なぜかこの丸っこい瞳は私の調子を狂わせる……。
「……はい。じゃあ、その……そう呼びます」
尾は見えなかったが、足の間にそれを丸めて挟むような顔をしたセレスが、やや頬を高潮させて小さく頷く。
「では、もう今日のところは戻るがいい。今日は一人で訓練をせぬようにな」
消耗しているはずのセレスに念を押して、その背を戻るべき方向へとそっと押せば、頷いてその方向へと駆け出したセレスがやや行った所で、いつものように振り返る。
「あ、あの!また、明日ね…・・・おやすみなさいステラ」
伸ばした片腕を振り回す影と、どこか気恥ずかしさとほんの少しの高揚を含んだ声音。
なぜ目の前では蚊の鳴くような声すら搾り出すようにしているというのに、あの声はここまで届くのか……。
人とはよくわからない。
ほんの四半刻前には、青ざめた顔で震えていたというのに……。
たかが個を特定する記号でしかない呼び名を決めたからなんだというのだ。
そう、我ら同胞にとって呼び名など、幾つもの欠けた連番号の上に張られた札でしかない。
この仮初めの呼び名とて、思いつきにあの魔術士が決めたものでしかなく、私にとってもあの少年--セレスが目的を果たすまでの短い間だけのもので意味など何もないというのに……。
最終更新:2012年06月22日 02:52