絡まり合った念、呪詛を成す構成の網目をまた一つ解きほぐせば、過ぎ去った想念の欠片が暴風のような重みで吹き付け、張り巡らせた精神防御の壁に鈍い衝撃を伝える。
解かれた構成が、纏まりから解かれるたびに放たれる反動。
呪詛であればその主たる要素は術者が編みあげた念、呪いとなるに至った想いの力。

自らを構成する要素を引き抜かれ、唸り声にも似た轟きを放った呪詛は、一回りまたその身を痩せさせる。
その状態で再度構成を留める術を掛け直すことで、少しずつ少しずつ魔法としての力を失い逆行していく呪詛式。

崩した構成を自らのものとして保存式を施すと同時に膝をつくセレスと、空中から霧散して消える呪詛。

身体の前において支える小さく細い肩が身じろぎ、息を整える為に不規則に上下するの見て、その後頭部へと声をかける。

「……セレス、今日はもうこれくらいにしておこう。逸るだろうがあと数日で根源だ。今日無理をして明日寝込んでしまうこともない」

セレスに代わり、呪詛を解く反動を和らげながら散らす壁を展開しても、時折一際強く残された想念は壁を伝い、減じられたとはいえ衝撃の余波を少年へと届け、切り離した念は妄執の声となって私の耳朶を打つ。

どうして私がこんな目に遭うの
私が、私たちが何をしたというの
憎い、憎い……
魔法使いなんて仲間同士だけで暮らしていればいいんだ
なぜこんな無体を国は……神さまはお許しになるの
……嘘よ、信じない。私が身籠ったりするはずがない
私をあの人から奪って汚しただけでは足りないの……

幾つもの『どうして』と『こんなはずじゃなかった』
幾つもの『憎い』と『悲しい』

とめどなく渦巻き、吐き溜められた負の想念である嘆きと痛み。
呪詛として纏まってしまった構成を解くことで発生する反発力と衝撃を遮断することはできても、それを引き解く力もまた魔力であれば、ときに引き抜かれた想いと結合した魔力は、込められたものを再生しようとする。

母親が辿った想い、己へと向けられた向けられた情念、セレスはその全てを知りたいと望んでいるのかもしれないが、その耳に入れるにはあまりに生々しく、黒く重い想念を一体幾つ気取られぬよう握りつぶしたことだろう。



解き放たれ、魔力を通されたことで激しく暴れ、ただただ痛みを撒き散らす想念の黒い蛇をセレスに黙って封じこんだものを魔術士の目の前に突き付け、なぜこんな危険で実りのない行為をセレスに許したままにしているのかを問い質してみても、その答えは要領を得なかった。

『どうしてもセレスがやりたいことだからだろうね。それは僕が禁じたり許したりするようなことじゃない』

封じこんだ球体の力場の内で、黒くとぐろを巻く蛇。
あの呪詛を形づくる構成を解きほぐしたその欠片を眼前に突き付けて見せても、一つゆっくりとまばたいただけで表情を変える様子もない魔術士に苛立ちをぶつける。

『これでも……こんなものでも、そうだというのか』

『それでも、だよ。セレスが望む限り、それはあの子が生を全うするために必要なことなんだよ……例えその為に残りの命を削ることになったとしても』

必要なことであるのなら、代わってやればいいではないか。
力も技術も未熟で、それを補うために残り少ない命を削ってまで自らの手で求める必要はないではないか。
果たしてそれが"ある"か"ない"のか。お前でも私でもいい、確かめてやれば済むことではないか。

『それではセレス自身が納得しないだろう。あの子が強く信じたいものは、誰よりあの子にとって不確かなものだから。自分自身の手で見出したものからでなければ、あの子にとって答えを手に入れたことにはならないんだよ』

謎かけのような魔術士の言に、この私をたばかるのかと不快感を露わにして見せるが、応じる魔術士の表情は僅かに鎮痛の色を差し、どうやら言葉遊びをしているのではないことを感じさせはしたけれど、それでも私には理解できない。

それにね、と魔術士が続けた言葉の意味も……

『僕もセレスが信じているものはあると思っているよ。けっしてそれはセレスにとって実りのないことなんかじゃない、そう思うんだ。その時がきたら君にもそれが分かる、やっぱりそう信じてる』



魔術士との問答のようなやり取りから何かを得ることもなく、思考は理解も納得も追いつくことがないままに、今日もセレスの後ろに立ち、その求めるものとやらが何かも分からず細い肩を支えている。
もしかしたら、わからないでいることで、こんなただの子供の理解することもできない願いの実現に付き合っている自分への言い訳にしているだけのことなのかもしれない……。



私が初めて目にした日と比べれば、見た目こそ小さな纏まりと化したセレスの母が編みあげた呪詛、その複製。
けれど構成を小さくすればするほどに、一つ一つの網目は強く絡まり、込められた想念も一際強く重い。
この数日、セレスは一つの目を解くのが精一杯で、それだけで体力の全てを消耗するほどとなっていた。

セレスに付き合ってこの淀み濁った呪詛の編み目を解き、その根源にあるものが何であるのか、それを追いかけ始めて間もなく三月が過ぎようとしている。
私がこの少年の父親を害した事実を隠し、通りすがった親切面の仮面を被ってから三月……

いつかは語らねばならないとは思うものの、その事実から私を拒絶し、再び一人でこの構成に立ち向かうことは、セレスに残された体力からいって好ましいことではない。
そんな言い訳を己に許しながら、目の前の呪詛などとは比べ物にならぬほど穢れ、血に塗れた手でセレスの肩を支える日々。


互いに呼び名を許すようになって以降、はじめのうちこそ戸惑いに身を固くしたセレスだったが、日を追うごとに気を許しでもしたのか、構成と構成を剥ぎ取る作業の合間、体力を取り戻させる時間の無言に耐えかねたように、少しずつ話をするようになった。
この場所での生活のこと、周囲の子供たちのこと、そして……母親のこと。

あの魔術士によってここに引き取られ、治療を受けていた間に元々心を病み体力を弱めていた母親は、流行り病をこじらせてあっけなく他界したという。

己の身を蝕んだ目の前の呪詛を編みあげたのは紛れもなく実の母だと知りながら、セレスが口にするのは自分が母を看取れなかったという後悔と、母親が好きだった歌や花の話。
懐かしげに話すセレスにそうかと頷いて返しながら、冷めた胸中にいつも疑問がよぎる。

……なぜこんな表情ができるだろう。

己をこうまで穢し、蝕んだ対象をなぜそうまで慕えるのだろう。
この構成を編んだ誰かはけっしてお前の想い慕うような存在ではないではないか……。

……それとも、母から愛されていたという妄執によってこの少年は立っているのだろうか……。

分からないことばかりだ。
唯一分かっているのは、目の前で剥落を進めてきた呪詛の構成、それを編みあげる想念は残り僅かであること。

それと、この少年に残された時間もまた、もう幾ばくも無いのだという、その事実だけ……。



「さ、今日はもう終わりだ。早めに戻って身体を休めろ。なに、ぐっすり眠れば明日は二つは崩せるだろう」

停滞を嘆くことはない。
言外にそう告げて、セレスの背をそっと撫でる。

少し青ざめた顔で額に僅かに浮いた汗を拭うセレスは、振り返って何事か言おうとしたのか薄く唇を開いたが、すぐそれは咳き込みにと変わってしまう。

「言わぬことはない。いいからもう今日はおしまいだ」

咳が収まってもまだ荒い息遣いのセレスに、異論を認めぬ口調でぴしゃりと告げると僅かに恨めしげな表情を浮かべたセレスだったが、小さくうんと頷く。

ふらつく足元を支えながら歩み去るその背中を見送る。

霧散して消えた呪詛構成を思い出せば、それは確かにあと数回の剥落を促すことで完全に魔法・魔術としての形を失うだろう。
……その時そこで何を見つけるのか。
やはり何も無かったら……いや、それよりも望むものとは全く異なる、呪詛を呪いたらしめるただただ負の念の塊を露呈するだけでしかなかったら……。

それはセレスにとっての一つの答えであると同時に、私にとっても何かの答えのような気がして、夏も近付いたというのに言い知れぬ予感に肌が粟立ちを覚えたように震えた。





宿舎である塔へと続く中庭の小路を進んでいると、立ち並ぶ木々の間から名を呼ぶ声がして立ち止まる。

「……あ、学長先生」

留守がちで校内で姿を見かけることが稀な、この学院の長。
骨が浮き、生きた屍のように寝台に伏したまま、一度は死にかけていた自分を見つけ、ここへ連れてきた恩人であり、同じく病に伏していた母にも治療と、その終末を取り仕切ってくれた人。

突拍子もない僕の願いを笑わず、それが不可能ではないけれど本当に全てと引き代えてでも必要なことなのかと、たった一度だけ尋ねて後は、ただ黙って僕を見守ってくれている人の一人……

「やあ、セレス久しぶり。新しい友人とは随分打ち解けたみたいだね」

そうか、学院長先生はステラのことを知っているのか、そう思った瞬間、当然かと思いなおす。
なんだろう、僕の我儘で続けているあれにステラを突き合わせてしまっていることを咎められてしまうだろうか……。

そういえば、学長先生なら、ステラのことをたくさん知っているのかもしれない……ぼんやりとそんなことを考えながら、思い出したようにぺこりと頭を垂れれば、いいからと微笑する声が降り注ぐ。

「何も心配することはないよ。彼女は僕が招いた相手で、ここで自由にどんな所かを見て貰っているんだから、彼女が望んで何かをしてくれているのはむしろ僕にはありがたいことだからね」

黄昏時の風に、鬱金の空よりも鮮やかな金の髪を揺らせながら微笑む学院長の言葉の意味は理解しきれなかったが、ステラと過ごす時間を咎められるわけではないようだと、胸を撫で下ろすのも束の間、礼を解いて再び見上げた瞳の先で学長が見せた表情に、ふと一抹の不安を覚える。

かつて一度だけ見たことのあるその表情、それを目にしたのはいつのことだっただろう……。

「セレス、少し座ろうか。彼女のことで、君には話しておかなければいけないことがあるから」

僕を木陰に誘った学長先生に頷きながら、ああそうだとひとり頷く。

学長先生が、横たわった僕を見つけた日、あの時と同じ表情だ……と。
最終更新:2012年06月22日 02:55