ズゥゥン……
鈍く重い精神波の衝撃。
セレスが障壁越しに念を延ばす為に力を絞っているとはいえ、この私の張り巡らす障壁にも関わらず、わずかに響きを伝えるほどに強く凝り固まった想いの記憶。
黒い翼を持った化鳥の羽ばたきのように、母体である呪詛そのものから切り離されたそれが散り際に響かせた声。
『わたしをみないで……!』
『こんなの違う!!』
『どうしてわたしには……っっ!』
己が腹に宿った子、己が腹を痛めた子に向けて母が紡いだ呪詛、その核を覆う最後で最も頑強に中心を守るようにしていた想念の絡み目を切り解いて放たれた想い。
障壁の向こうでその声を攫うように衝撃を打ち込み弾いたけれど、訴える痛みのようなその悲痛な叫びは衝撃の余波で膝をつき、肩で息を繰り返すセレスにまで届いてしまったろうか。
それは母が我が子から向けられた眼差しに、憎い父の姿を見たゆえの拒絶の言葉なのだろうか……。
だとしたら……。
想念の最も集中する核。
幾重にも重なり絡まった毛糸玉のようで、黒い花弁を幾層も連ねた蓮の花のような呪詛の根源。
その核を織り成す黒い糸に包まれた繭の奥で赤く脈打つように垣間見える、この願いからうまれた魔術式を呪詛たらしめた原初の想いがそこにある。
……だとしたら、そこにあるものに触れることは本当に、真にセレスにとって必要なことなのだろうか。
あの魔術士が言ったように、セレスが生を全うする為に、自らの生に納得する為に本当に必要なことなのか……。
ここまで呪詛を紐解くことに力を貸しながらも私は今も答えが見出せない。
もしも、セレスも魔術士も、私も、誰もが間違っていたら。
そこにあるものを紐解いた瞬間、取り返しのつかない痛みを解き放ってしまうのではないのか……。
そう、あの日の私のように……
黒く煤け、砕けた城壁の上からあてもなく方々へと散っていく、幾つもの小さな影を見送ったあの日の光景が頭の奥をよぎる。
「セレス……ひどい汗だ。もう今日は……」
自らの記憶に揺らいだかのように、目の前で喘ぐ真っ青に血の気の失せた頬へと伸ばしかけた手はセレスのそれに掴まれる。
意外にも強いその力と、真っ直ぐに黒い繭の内で赤く輝きを漏らす核を見つめる強い眼差しに言葉を飲み込む。
……そうだ、選ぶのは私ではない。
「……一度しか聞かぬぞ、本当に……いいのだな」
無言でしばしじっと核を見つめるセレス。
その横顔を、潤みながらも燃えるように強い光を宿すその眼差しを確認するように、見届けるように眺める。
もう本当に残り少ない命、その残量など気にも留めぬように今わたしの腕の中でそれを燃やす鮮やかな魂。
「……ぼくは」
縫い留められたように視線を外せないまま、掠れた声で紡ぐセレス。
それは私にか、母の残したものの残滓に向けてであるのか。
「ぼくは、お母さんを苦しめてしまったから……だからぼくは、お母さんがどんなに苦しかったか知っていてあげたい。お母さんひとりぼっちだったから、ぼくは……ぼくじゃダメなのかもしれないけど……もう間に合わないことだけれど……それでも……」
ゆっくりと赤く輝く核から視線を外し、わたしを振り返るセレスの鳶色の瞳。
「それでもぼくは……お母さんがたとえ誰にも見られたくないかもしれないことでも……知りたい。ぼくが、ぼく自身がお母さんにとって
痛みしかもたらせない存在だったのか、それを知りたい」
夕陽が山の向こうに沈んだ後に鮮やかに稜線を彩る、消えゆく輝きの色。
そこに宿る強い思いに応えるように頷く。
二度は訊ねないと約した。
お前が望んだものに手を伸ばすがいい、自ら選び取る力はお前の中にある。
例え、望まぬものがそこから飛び出そうとも、共に見届けてやる。
そして……
そして、やはり私のあの日の選択が間違いだと思えたなら、お前の痛みごと、母の弱い心ごと、私の解き放った罪とともに私が私と世界を砕く唄を奏でてやろう。
それが、やり直しをさせてはやれぬ私にできる、恐らく唯一のことだから……
想いを吐き出し、ぐったりと力が抜け崩れ落ちそうなセレスの肩を抱きながら、伸べ差した指先から力を珠の形に封じて弾き出す。
脈打ちながら眠り続ける、呪詛の核。
その内に込められた想念を励起する為に……
ゆっくりと宙を滑るように浮遊したそれは黒い繭の隙間を抜け、まっすぐに内に脈づく核へと触れると解けるようにその中へと吸い込まれ
……光が弾けた。
『シルウィ、もう身体はいいのですか』
『……はい、司祭さま。ご迷惑をおかけしてしまって』
声が聴こえる。
『迷惑なことなどは何もないのだよ、とにかく無事で良かった。……聞いたよ、君が決めたと』
慈愛に満ちた老いた男性の声と、少し硬い女性の声。
乳白色の靄ごしに垣間見えるそれは、誰かの記憶?
『はい、でも………できるでしょうか、わたしに? 自分のお腹の中にいる命よりも自分自身の痛みに耐えかねた、わたしのようなものが成れるものなのでしょうか、母親とは』
さて、と呟きながら女性の隣に腰を下ろす僧服を纏った老いた男性は手にした教典らしきものを繰りかけてやめ、それを脇へと置く。
『私は男として生を受けましたし、この年まで妻帯もしませんでしたから、何をもって母親が母親たりうるのかはわかりません。教典を紐解けばいかにして子を愛せと書かれているかを説教することはできるでしょうが、シルウィそれはあなたが求める答えではないでしょう』
無言のまま頷く訳でもなく、虚ろな視線を祭壇に据えられた大地母神の像に注いだままの女性。
像が腕に抱き、見下ろす産着に包まれたソレは世界とそこに住まう命だと言われる。
『そうですね……私に言ってあげられるのはシルウィ、これだけです』
前方に視線を投げたままの女性の方へと身体を向け、自らの拳をもう片手で包むようにして胸の前に掲げながら紡ぐ言葉は、伝えられてきた教典からの借り物でなく、人として生まれもった魂が語らせるものであろうか。
慈愛に満ちた温かみのある声で、僧服の男性が言葉を継ぐ。
『浜辺に打ち上げられた貴女を見つけたとき、貴女の両腕はしっかりとお腹を抱き抱えていたそうです。ここに運ばれ、神官たちに身体を
温められながら目覚めた貴女が発した第一声は "お腹に赤ちゃんが" というものだったそうです』
僅かに肩を揺らせた女性が、ゆっくりと振り向いた顔、信じられないことを耳にしたように驚愕に染まる瞳に僧服の男性は柔らかく頷く。
『確かにそう言ったそうです』
女性の瞳の驚愕の色は、いずれに向けるべきものか羞恥と嫌悪の色を僅かに差したものの、見る間に潤み色はぼやけてしまう。
『そんなはずない……わっ……わたしは……わたしは、このっ』
瞳を濡らせながら尚も言い募ろうとした女性に、僧服の男性がそっと手のひらを広げて掲げ、それを遮る。
『シルウィ、まだ赤ん坊だった貴女を祝福したのはこの私です。貴女を小さい頃から知っている。私が一度でも嘘をついたことがありましたか?』
目と口許をくしゃくしゃにした女性が何度も首を振る、横に。
『子をお腹に宿した時から母だと言うものもいれば、生まれ出でた子と共に母となっていくと言うものもいるでしょう。何が正しいことかなど私には分かりません……ただ、貴女が何を思って海に身を投げたにしても、あなたの身体は無意識にお腹の子を抱え、貴女の本能はお腹の子をまず助けてくれと私たちに告げました。それはきっと……母親にしかできないことなのではないかと思うのです』
何かを諦めるように、何かを悔やむように、嗚咽を漏らす女性。
肩が震えるたび肩から乱れ流れていく栗色の髪……その背を優しく撫でながら僧服の男性が、だからと続ける。
『シルウィ、あなたは母親になれます』
また乳白色の靄が辺りを包み込み、先程の僧服の男性が祭壇の下で跪いている姿が見える。
無人の祭壇で、大地母神の像に頭を垂れながら、胸元の聖印を両手で握りしめ、一心に祈りを捧げている。
静寂を引き裂く、一つの音……いや、それは声だ。
命の始まりを告げて力強く泣く赤子の産声。
老いた身体を持ち上げるようにして立ち、祈りの仕草をした男性が祭壇の脇へと姿を消す。
扉を開いた先には白布に包まれ、額に栗色の髪を張り付かせた女性。
付き添っていた女性神官が母体同様の白布に包んだ赤子を今まさに母親の手に渡そうとしているところだった。
存在を主張して強く泣き続ける赤子を恐る恐る受け取った女性が、ぼうぜんと腕の中の我が子に視線を送り続ける。
『……おめでとう、シルウィ』
静かに告げた祝福に視線で頷いた女性は再び腕の中で泣き続ける我が子をしげしげと見つめていたかと思うと、おもむろに口を開く。
『司祭さま、古い言葉で"神さまの"って何ていうのかしら……』
問いかけの意味を反芻するように少し間を置いた男性に、女性……母親は言葉を重ねる。
『私の父の家の名は古い言葉で"贈り物"を意味するんだって昔聞いた事があるんです、同じ言葉で"神さまからの"は何というんですか』
質問の意図を理解した男性が、静かに微笑んで応じる。
『そうですね、"神さまからの"では少し固いですから……これはどうでしょう。セレスティア……"天よりの"という古い古い言葉です』
振り向いた女性が口許を綻ばせ、また我が子へと視線を落とすと、たった今伝え聞いたその言葉を小さく何度も繰り返す。
『セレスティア……セレス……天からの贈り物……それがあなたの名前よ』
泣き止まぬ腕の我が子をあやすように身体を揺らしていた女性が、不意に瞳をしばたかせて肩を揺らす。
『ごめんね、ずっと待っていてあげなくて、ひどいことをしてごめんね……ごめんね、わたしちゃんとお母さんになるから……今までできなかった分まで、いいお母さんになるって約束するからっ……ごめんね、セレス……生まれてきてくれてありがとう、わたしをお母さんにしてくれて……ありがとう』
命を主張して泣き続ける赤子の声の中、何度も繰り返される『ごめんね』と『ゆるして』の後悔の声が徐々に遠くなる。
視界を再び乳白色の靄が閉ざし、遠ざかる声もやがて聞こえなくなる……。
「……ステラ、聞いた?」
腕の中に抱いたセレスが掠れた声で発した呟きに、ああと応じる。
「お母さん、泣いてた……お母さんがぼくの名前をつけてくれたんだ……ごめんねって……ぼくがお母さんを苦しめたのに……ありがとうって言ってたよ」
セレスの背中がわななき、しゃくりあげるように波打つ。
呪詛の核に残された母の記憶が見せたもの、聞こえた声を本当のことだよねと何度も何度も私に尋ね、私はそうだなと答えながらも、まるで苦いものが口中にあるような気分を味わう。
紐解いた呪いの根源にあったのは術者たるセレスの母が、母親たらんと決意した日の記憶だった。
それは確かに、セレスが言質を取るように、忘れぬように繰り返す言葉の通り、セレスの母がその日抱いた真実の感情であり、それは彼女の願いでもあった。
けれど私は知っている。
この願いを覆い隠すように絡まった黒く染まった想念こそが、彼女がこの願いを全うできなかったことを表わし、その劣等感は我が子を見るたび、我が子に見つめられるたびに高まり、この願いを無かったことのようにするため、何層にも何重にも心にかけた鍵がついには我が子を蝕む呪いを再発させることを……。
彼女はこの願いを祈りの力を与えることに失敗し、やがて我が子を死に追いやる呪いへと育てるのだ。
『母親になれる』あの司祭の言葉は彼女を母親にしたけれど、セレスに庇護者たる母親を与えはしなかったではないか……
……けれど、腕の中でしゃくりあげる少年には、確かにこの願いが必要だったのだろう。
母の胎内に居ながら忌みものとして扱われ、生まれ落ちて後も己を見つめる瞳に後悔と怨嗟を見続けた少年には、生まれてきた瞬間まで望まれていなかったわけではないと、母が一瞬でも己を祝福したことを知る意味が……確かにあったのだと、それは人ならざるこの私にも腕の中で震えるセレスから伝わった。
弱き人の子たち……でも……
身体の奥が捩じれるようなこの痛みは一体何なのか……私にはわからない。
……けれど、母親の祝福と後悔、息子を迎え言祝いだその事実だけは確かなことであったから、震えたまま『お母さん』と、届かぬ声で母を呼んで叫ぶセレスを一つの衝動で背中から強く強く抱きしめた。
そうしていないと、今すぐセレスが消えてしまいそうで、セレスのように答えをえることができないまま、セレスに置いていかれるような気がして、私は怖かったのだ………
最終更新:2012年06月22日 02:57