学院領北部から中西部にかけて弧を描いて横たわる竜胆山脈の中腹から夜の帳が降りた学院領を見渡しても、普段なら外郭街と、まばらに学院敷地の灯りが揺らめいて見えるに過ぎないが、大陸各地からゲストを迎えるお披露目会とその前後となるこの時期には、外郭街の灯りのみならず、夜遅くまでお披露目準備に追われる学生たちを煌々と照らす灯り、外郭街だけで収まらない宿泊客の為に城壁外に仮設される簡易宿舎、さらにその外周には騎獣や馬車溜まりが設けられ、警備の為に焚かれた篝火がまるで火喰い鳥の尾羽のように扇状に拡がりを見せる夜景はちょっとしたものなのだが、それを見に山を登ってくる暇な者はこの時期皆無である。
毎年決まってお披露目会開催期間中に出張に出る、教員名簿に名前の無い臨時雇いの教導師ただ一人を除いては……。
山の中腹に張り出した岩棚、山裾からは何の変哲もないただの突き出た岩場だが、その上はちょっとした広さに慣らされ、斜面にはぽっかりと窪みが口を開き、雨露をしのぐことができるようになった場所があり、窪みの奥には誰が引いたものやら、源泉から湧き出した温泉の通り道もあり、湯気は目立たぬよう別の場所に逃がしつつ、ちょっとした隠れ家のように内部は整えられている。
「んー……今年も盛況ねぇ。あそこ南門商店街の通りでしょ?今年は羽振りよくイルミネーションしたのね……なんか拡売キャンペーンでもするのかしらね……あー……精肉店のコロッケが懐かしいわ」
眼下に広がる夜景を眺めながら、傍らに侍らせた金色の毛並みとオレンジの縞を持った大柄な狐の毛皮に両腕を差しこみつつ、誰にともなく呟く小さな人影。
反応するように身じろぎした狐が文字通り口を開いて返事を返すが、使い魔を引き連れた学生が闊歩する学院領では見慣れた光景。
「懐かしいも何も出てくる前にあれほど口になさった上、買い溜めまでされたのに一日で食べきられたのは何処の誰ですか」
落ち着いた女性を思わす声音で溜息を一つ吐いた金狐は、本来は九房を今は纏めて三房にした尾でふわりと地面を打つと、襟元に絡みつく腕の持ち主へと首を巡らせる。
「分かってないのね、タマモ……。いいこと、コロッケは揚げたてのホクホクと衣のサックリ感が失われないうちに食すのが礼儀ってもんじゃないの。……まぁもちろん、ホンモノの職人の手にかかったコロッケであれば、冷えて水気を衣が吸ったとしても、それはそれで美味しかったりするのだけど……」
元々やや釣り目がちな勝気な緑の瞳をキッと上げ、力強く反駁したはいいものの尻すぼみになる主人に、くすりと噴き出す金狐。
「ではなぜ買い溜めなどされたのです、食べきれなかった分を任された騰蛇など、影の中で唸っておりますのに……」
「だっておじさん、出張の餞別にまけてくれるって言うんだもの。断っちゃ女が廃るってものじゃない。それにこないだジュカに借りた本によれば、できる新妻というのは商店街のおじさん達から、まけるよ~って声をかけられて、なんだか野菜に頬を染めたりしてナンボらしいわよ」
「……ひいさま、また怪しげなものをお読みになって……」
主人たる彼女が妙に懐いている桜色の巻き毛をした青年は、年若の割に強烈な嗜好に富んだ蔵書を有しており、若干布地の少ない服飾専門誌と勘違いしている感の主は、頻繁に彼の寮に押し入って読み耽り、ろくでもない知識を急速に取り込んだ結果、使い所を致命的なまでに誤っては周囲を冷や冷やさせている。
まあ冷や汗をかく相手は概ね巻き毛の青年の友人である寝不足と契約したかのような"彼"なので、それほど問題があるわけではないのだが……と、彼女がとりわけ気にかける学生を連想して軽い嫉妬のような感情で内心頷きかけるものの、主人の品性について疑念を抱かれるのは、やはりよろしくないと慌てて思考をかき消す。
それにしても、なんだってまた新妻について調べたり……と口にしかけたが、眩しげに遠い灯りを眺める横顔が目に入り、タマモと呼ばれた金色の狐は言葉を飲み込む。
九尾の金狐タマモは正確には、隣で膝を立てて岩肌に腰を下ろし、緑の髪を噴き上げる風に靡かせる一見して少女、出張に出たはずの臨時雇い教導師ステラ=リリアの使い魔ではないけれど、彼女はかけがえの無い友人であり、恩人であるが故に、堅苦しいと苦笑いされながらも彼女を主人と仰ぐ。
遥か時と空間を越え、無理やりこの世界に呼び出され囚われてしまった、彼の世界に於いては旧き神族、こちらにあっては異界より襲来し還るべき場所を持たぬ宿なしなどと伝えられ、忌み嫌われる"冥魔"と称される者らの頂点に君臨した女王。
人には隠されてきた"冥魔"がいかにしてこの世界に現れたか、その出自を知る数少ない存在として彼女に敬意を払い、女王たる本来の姿を失って久しくとも姫と呼ぶ。
こうやってお披露目会の灯りを彼女と見下ろす秋をもう何度越えただろう。
もう何度、浴びることを自らに禁じた遠い灯を眩しげに寂しげに、けれど自ら教え導いた子らが精一杯輝くことを信じて疑わぬ誇りに満ち、嬉しげに眺めるこの横顔を見つめてきただろう。
この学院領の中でのみ彼女は存在を許される。
許されざる者が一歩たりとも境を越えて彼女の記憶を持ちだすことは出来ず、学院を去るべき時を迎えた生徒が彼女を師と仰ぎ、共に過ごした思い出を胸に旅立つことはない。
それは彼女がこの地にやってくるよりも遥か以前から抱える大切なものと、この地にて共に短い時を過ごす大切な子供たちを守るために彼女自身が選んだ願い。
それが為に、彼女は力の多くと本来の姿を失い、この地に留まり続けているが、膨大な操作を必要とするこの願いを維持し、綻びを繕うたびに失われていく彼女に残されたあまりに僅かばかりの力。
お披露目会と称するこの催しの規模が大きくなるに従い、少しでも長くここにいる為に、可能な限り綻びを繕わなくて済むようにと数多くの来訪者……その多くは師の記憶を失くしてしまったかつての教え子が訪れるこの季節、彼女は決まって出張と称して学院を留守にするようになった。
境を越えぬことが願いの条件である彼女の出張先、それがこの隠れた岩棚。
誰より子供たちの晴れの舞台を楽しみにし、披露に向けた準備に奔走し、子供たちを励まし終えた後、誰にも知られぬうちに出張と称して姿を消す。
同時に人々は無意識化に臨時教導師の存在を気にかけることは無くなり、誰ひとり彼女が居ないことに気付くことが無いよう編まれた強力な暗示がこの学院領に施される。
祭りが終わり、懐かしき人々がこの地を去ったのを遠くここから見届けて彼女が出張から戻るその日まで……。
「ひいさまと騰蛇の胃が落ち着きました頃、人に化けて求めて参りましょうほどに……。さ、そろそろ中へ。風が冷たく吹きはじめましたゆえ」
柔らかな毛並みに覆われた頬を主人で友人たる少女に擦りつけながら、クゥンと鼻を鳴らす。
「うん、先に入ってて。もう少ししたら行くから…………ねぇ、タマモ?」
そっと解かれる両の腕。
ゆっくりと瞬いて応じ、す……と四肢を伸ばして立ち上がって、山肌にくり抜かれた窪みへと進みかけるとかけられた声に首だけ巡らせて振り返る。
「……あー……ううん、なんでもなかった。コロッケを買いに行くついでに劇を覗いてきてよ、ニールがどんなお姫様っぷりを演じるのか気になるのよね♪」
幻想のような黒い大地に揺らめく灯りを背に浮かんだ、普段の彼女からは想像もできない儚げな笑み。
すぐにそれをかき消すように冗談めかして肩をすくめ笑う彼女に、九尾の金狐はただ御意と答えるのみであった。
最終更新:2012年06月23日 01:50