遠くで雷の音が聞こえる。
「……ダメよ。そんなことをしても、あなたの欲しいものは手に入らない。けっして」
月の光が届かない夜更け、闇よりも濃く、雪よりも純粋な願いの念を纏って立つ少年に首を振って答える。
「誰にも過去は変えられない。今あなたは、あなたの家族を不当に奪った相手と同じことをしようとしてる。わかっているのでしょう?」
黙れ、黙れ、黙れ。
そう私に向かって吐き出すほどに、自らを痛みで喰い破るかのような悲痛な叫び。
力などあるはずも無かった、誰かの運命を変えるだけの力などなかった幼き日の自分を認められない。
本当は誰よりも傷つけたいのは自分自身なのだ、『自分に力が無かったから大切な誰かを守れなかったのだ』そう己を責め続けていなければ立っていられないのだ。
近付くなの言葉と共に、怒りと嘆きを孕んだ風が乱暴に放たれ、こめかみで緑の髪と赤い飛沫が散ったが、視線を逸らすことなく歩を進める。
「誰にもっ……お前なんかに!僕の願いを妨げる、そんな権利は無いんだ!!」
そう叫ぶ彼の視線と受け止め、突き出された短剣と交差しながら彼の胸に飛び込み、人から願いと記憶を喰らう陵辱の爪を突き立てる。
「……どうして。……どうして今夜僕を止めに来る力があったのに、あの日僕と母さんを助けてくれなかったんですか……せん……せ……い。こんなの……ずるいじゃ……ないですか」
「うん、そうだね。ごめんね……ティモル……」
不可視の爪がティモルの歪んでしまった願いを喰い尽くしたのを感じて、それを引き抜き腕に収める。
倒れかかる上体を抱き止めれば、心と身体を削り続けたあまりに軽い体重。
「タマモ、お願い。この子を寮に……。さ、雨が降りそうだから急いで」
ふわりと現れた九尾の金狐の背にティモルを預ける。
「はい……しかし…」
お願い……そう呟き、案じる風な九尾の鼻を大丈夫だからと撫でて背を押す。
雷鳴の轟きだした空の下、九尾が駆け去ると堪えきれず木立に手を付き、膝が崩れ落ちる。
……願いを不当に奪って喰えば、それは消化しなければならない。
出来なければ逆に喰われてしまう。
胃の腑を這い上がるような憎悪とやり場のない悲しみ、肋骨を臓腑ごと握り潰すような圧迫となって暴れる、あの子が抱え続けた世界への否定と制御できない痛み……。
両手で口許を押さえるけれど堪えきれず、身体を折って吐瀉する。
「くぁぁ…………がっぁぁっは……」
降りだしたどしゃ降りの雨の下、斜面を流れていく泥水と自らの吐瀉物にまみれ、身体の内を喰い破ろうとする"念"。
ティモルから剥ぎ取った生霊と呼ばれる妄執ごと、己を抱き抱えながらのたうち転がる……。
空がしらみ始めるまで、狂った毬のように転がり、吠え続けてようやくそれを押さえ込む。
降り続く雨に身を晒しながら、灰色の空を仰ぎ、だらりと四肢を投げ出せばズキリと脇腹が痛む。
転がってどこかにぶつけたか、押さえ付けた我が手で折ったか……。
細かな粒に変わった雨が、傷だらけで熱した肌を冷やしていく。
……これほど、足らぬ自らの力を他者の生命を捧げるような邪法に手を染めようとするまでに思い詰めていたのに、気付いてやれなかった。
けっして目立たないけれど努力家で、それを知っているよと声をかけるたびに控えめに、恥ずかしげに、優しく笑うティモルの顔を思い出し、片手で顔を覆う。
「うぁ……っ」
ただただ悔しくて、どうしようもなく悲しくて、噛み締めた唇から嗚咽が漏れる。
…………窓から振り込んで跳ねた雨粒が頬を打って目が覚めた。
外を眺めている内に、うたた寝したらしく窓際の棚の上は酷い有り様だ。
……どうして、あんな夢をみたのだろう……。
もう十年以上も前に卒業したはずの、大切な教え子の悲しい夢……。
最終更新:2012年06月23日 02:15