大見得切ってはみたものの、寝起き間もないとはいえ、人狼の祖。

あの頃ならともかく、対価に捧げることで能力の大半を失った今のあたしに彼女を圧倒する力などあるはずもなく……。
派手な魔術を行使するわけにも行かず、牽制程度に念動を飛ばすのが精一杯。
互いに爪を振るい身体をぶつけ合う戦いとなっては、とても彼女に及ばない。

風と化して襲ってくる爪を掻い潜って懐を狙うけれど、あたしの突進より数段早い膝に突き上げられ毬のように跳ねた身体を、風よりも疾い爪が薙ぎ裂いて熱い痛みが走る。
受け身も取れないまま背中から落下した肺が体内の空気を血泡とともに全て吐き出す。

踏み抜こうと打ち下ろされた足を咄嗟に転がって避け、咳き込みながら立ち上がろうとするけれど思うように膝に力が入らずふらつく。
視界の先で、痛み分けに抉り裂いてやった膝を押さえながら彼女が舌打ちするのが聞こえた、ふん……行儀の悪い狼だ。

「なんたる……なんたるザマじゃ……同胞の内で最も多くの異界の魂を宿し、最も強大な能力を有しながら、今や憎き魔導師の汚らわしき技の真似事をせねば炎も呼べず、風の鎌を薙ぐことも適わず、熱を奪う幻炎の瞳をも失い、一体何を狩れるというのじゃ。誓いは破られた……」

なぜか一瞬悲しげに歪んだ紅の瞳。
もう消えよ、小さくそう呟いて振り上げられる爪がチラリと見えるのにうまく動けない…。
首筋に向けて突き出される右の爪の軌跡をスローモーションのようにぼんやりと目で追いながら、自らの左の掌を開いてソレへとぶつける。

直後、肉を切り裂いて鋭利な爪が骨を削る感覚に脳髄が痙攣する程の衝撃を伝えるなか、紅の瞳がほんの少し揺らぎ、見開かれるのが見えた。ほんの一瞬でいい……。

「うぁぁぁぁっっ」

ズタズタに引き裂け、震えるピンクの肉襞を覗かせた左手の残骸で彼女の爪をくわえ込んだまま握り締めて引き寄せれば、再び激痛が襲うけれど、躊躇せずそのまま右肩を押し込んで、突き上げた拳から最大まで伸ばした爪で彼女の顎を狙って……




我の爪に自ら突き立てて無惨にささくれた左の掌と腕、まだ動く三指で我が拳を掴むや裂帛の叫びとともに伸びてきた右の爪。
遅れること一拍、左の爪を小さく変わり果てた脇腹に突き立てて……止めた。

伸び上がってきた爪は、先に我の喉と顎を裂くはずであったのに……

「……何故止めた」

喉元でぴたりと止まる爪先に顎を反らしたまま問うと、血でも流れ込んだか一方は閉じられ、もう一方で痛みに歪む我が知るものとは異なる色味となってしまった緑の瞳……

「忘れてたけど……アタシ、もう……殺さないって約束が……あったのよね……」

ばかな……

「それで一体何が狩れるというのじゃ」

「……心よ、間違いと向き合えない心を刈り取んの、狩人はあたしじゃない……本人だけど……ね。毎日たのしー…わ…よ」

苦痛に歪む、リリスの面影を僅かに残しながら、けれど別人となった顔を束の間見つめ、両の爪を……引き抜いた。
自らも爪を消して大地に倒れこむや左腕を抱いて激痛にのたうつリリス。
たった今刺し貫いた右のわき腹は抑えることもできず見る間に纏った衣が朱に濡れていく……。

「……ヌシ、再生力すら失ったのか……いや、これは……」

苦悶に震える小さな影と、未だ癒えぬ腕の裂傷に目をやり、先刻爪を突き立てた我が左手を見つめる。
繋がった瞬間に感じたドロリとした感覚。
沈澱した滓をかき混ぜたような……。

「楽しい……か。かような毒に蝕まれてもか?」

「しばらくしたら……傷は塞がるし、ッ……毒なんかじゃ……ちょっと……消化不良気味な……だけっ」

血泡が気管を駆け上がるのか、一言ごとに唾液と血を咽せ吐きながらヒューヒューと喉を鳴らすリリスの成れの果て。
……興が醒めた。
もはや孤高の女王は居ない。

居ないが……。




「ヌシが未だ狩りの約定を忘れておらぬと言うのなら、ココには我が探す者はおらぬのだろう………その首、今しばらくは預けてやろうゆえ、心積もりしや。紛れも無く魔導師どもと同じ力を使い我が同胞を奪いし者がおることは明白。……ヌシが何と言おうとそは真。ゆえにヌシの狩りはしくじりと気づくがよい。次に行く手を遮らばその時は……」

素っ首叩き落としてくれるわ。
そう言いおき、ふんと鼻を鳴らした彼女は闇へと消えていく。
悔しいが彼女の気紛れに命拾いしたようだ……。

確かに人の子供たちから願いという念を奪うたびに、自らを癒す再生力は失われている。
ルクスが隠したものの封印も破られた今、もう残された時間は少なく……すべきことはあまりに多い。

熱く身の内を灼くような吐息とは逆に、震えだした身体を抱えながら少しずつ意識が遠のいていく………


閉じた瞼越しに瞳を灼く刺激にぼんやりと視界を開けば、レースを通して見るように白く靄がかった見慣れた森の風景。
意識の落ちた間に傷口だけは塞がったようだが、引き攣れたように走る傷痕と内側の損傷が癒えるにはまだ時間がかかりそうだ。

今日も自習だな、動かぬ左腕を庇いながら膝と右手で動かぬ身体を這いずる。

幸いにして我が教室長はしっかり者で、突然の自習には慣れっこだから心配はない。
とにかく動けるようになるまでは隠れていなければ。
意を決して、笑う膝を叱咤して立ち上がる。

幻獣を呼ぶ力も無く、僅かの動作で全身に走る軋むような痛みに小さく唸って、よろめきながら森へと入る。


……あぁ、食料庫に押し入った罰に受けろって言われてた近代史の勉強、まだ途中だったな……あと少しで試験範囲網羅できるんだけど……

「……年 ヴェルツバインとの……国境紛争、翌年……だっけ……? 二強、連邦の仲介の下に講和……」

上擦った声でぶつぶつと暗記した年表を思い出しながら、ふらふらと藪を掻き分けて出た小さな沢。

喉を湿らせたくて水際へとよって跪くと、上背を支えきれずに倒れこむ。
突っ込んだ顔を撫でてゆく冷たい水が気持ちよく、そのまま意識が遠のく……もう若くないなぁなんて呟きながら………




「ねね、ステラちゃんったら今日も授業さぼったんだよ?」
「なによ、そんなのいつものことじゃない」

「でも全然見掛けないし、どっか出掛けちゃったのかなぁ。他の先生方も知らないみたいだし……」
「そういえば、今日ファム先生の授業も自習だったよ。しかも突然」

「へぇ、珍しいね」
「うん。まぁステラちゃんは、またどっかでうたた寝でもしてるんでしょ」
「だね」
最終更新:2012年06月23日 02:31