病室を抜け出さないという誓約と引き換えに窓際の寝台へと移して貰えたお陰で、身体さえ起こせば窓からは中庭から第二校舎棟まで見渡せ、眼下を行き交う生徒達の姿を眺めるのは、退屈な療養生活の数少ない気晴らしだ。

今夜は極東で言う『星河の橋祭り』

夜風の吹き込む窓から空を見上げれば濃い星々の輝きが群れ集まって光の河を成し、視線を地上に転じればツァンフェイが持ち込んだ数本の笹に、鈴なりとなった生徒たちの願いを託した短冊が淡く光を放ち、さながら地上に現れた星のよう。

周囲には短冊を読みあったり、追加で吊るそうとする生徒の姿が見える。

そんな光景を見下ろしながらくすりと笑うと、コンコンとノックの音がして医務室の扉が開かれる。

「……カーラ、どうしたの?」

林檎を盛った籠と食器を乗せた盆を手に入ってきたのは総寮母で、また何かやらかしたのだろうかと反射的に上体が逃げの姿勢を見せるのは長年培った生存本能だろうか。

「ほとんど何も口にされていないとお聞きしましたので……」

カーラは医務室に備え付けの小机に盆を置くと、寝台に被せるように置かれた簡易卓の上、器に入った兎型に切られた林檎に視線を向ける。医務室で身の回りを世話してくれる生徒が剥いてくれ、見舞いにやって来た生徒が摘んで残していったものだ。

カーラは背もたれの無い椅子を引き寄せて腰掛けながら、一つ溜息を吐く。

「形のある物がまだ無理なのなら、そう申して下されば宜しいのですよ……。無理に口にされて、それを剥いてくれた生徒が喜ぶとでもお思いですか?」

咽ながらでも一人のうちに少しずつ食べてしまおう……そんな内心を言い当てられた気まずさに窓へと視線を逸らす。

あたしの返事を待つことも無く、カーラは籠から林檎を一つ取ると、布巾で拭って盆に載せてきたナイフで器用に割ると、やはり持ち込んだ陶製のおろし器で擂りはじめた。

「いくら食べなくても……とは言え、何か口にされたほうが傷の治りも早いでしょう」

これなら少しはお腹に溜まるでしょう、そう言ってカーラがゆっくりと林檎を擂る音が医務室に響く。

「ごめん……」

他に言葉が見つからず、窓の外を見つめながらぽつりと呟く。

「……私は貴女のなさることに口を出すつもりもなければ、その権利もございません。だからできる事と言えば、こうしてお世話をさせて頂く事くらいです」

……そんなことして貰えるような存在ではないとしても、この学院の総寮母と許された一部の教導師とはそういう誓約を交わしてこの門を潜るから……

「それが教導師の誓い……だから?」

思わず、ぽつりとついて出たそんなみっともない言葉……。
この所の弱気が祟ったのか、これまで自分のしてきたことと、先行きに少しの迷いと揺らぎを感じているからなのか……。

自分でも驚いて口を手で覆ってしまう。

カーラはちょっと手を止めてあたしを見たようだけど、また林檎を擂りおろす作業に戻る。

「"学院に宿る緑の魔女、彼女はこの学院と生徒の道を護る。この学院の理念に賛同する教導師は、あらゆる世俗の手から彼女を護り、子供達に伝えよ。彼女がもうよいというその日まで" ……ですか。私はあの誓いと、誓った後に返されたものに随分と腹が立ったものですわ」

あたしにとっては普段は厳しく口やかましい天敵だが、学内外からは学院の慈母と謳われ、学院長からの信頼も篤い当代の総寮母としてはちょっと意外な言葉に、思わず逸らしていた瞳を戻す。

「私には、ずっと昔……ここの初等部に入りたての頃のある夜の思い出があります」

カーラはおろし器に視線を落とし、手を動かし続けながら言葉を継ぐ。

「高い熱を出した私に姉が驚いて、寮を飛び出して行った後、真夜中なのに呼び出されてやって来てくれた先生の思い出。その人もこうして私に林檎を擂って果汁を絞ってくれました。……もっともそれは誓約に応じることで返された、記憶というよりは記録で、当時の私がどんな風に感じていたかの感情が伴わない映像資料のようなもの……」

卒業と同時に奪われ、教導師として学院に戻った者にのみ返される記憶のカケラ。
けれどそれは、こんな事があったという記録で誰かの書いたものを読むようなものに過ぎない。

でも、返される思い出は本人にとって印象深いものだけ。
ルクスはそう言っていた。
……あれはカーラにとって大切な記憶だったのか……

チクリとどこかが痛んで、そっと瞳を伏せる。







「先生っ、カーラ大丈夫?ねぇ、お顔が真っ赤だよ、カーラ……しん…」

寝巻きの裾を握り締めながら、今にも泣き出しそうな双子の姉の唇に人差し指をそっとあてがう。

「大丈夫よ。今は熱が高いけど、これはカーラの身体の中でカーラと悪い病気が戦ってる証拠なの。すぐにあなたが呼びに来てくれたから先生今からカーラに助太刀するんだから」

ホントに?と涙目でか細く問うてくる双子の姉に、にこりと頷く。

「朝になれば、すぐ元気になるわ。だから大丈夫、いいお姉ちゃんだったね」

偉いぞと、まだ今はあたしよりも低い頭に手を触れて撫でてやると、双子の姉……マレットは少し安心したように、よかったぁとようやく微笑んだ。

「おねぇちゃん……せんせぇ……」

荒い息の下から、熱でしゃがれてしまったカーラの声が呼ぶのを聞いて、水分を摂らせなければと思いあたる。

「ねぇマレット、あたし何かカーラに飲ませるもの持ってくるから、ちょっとの間診ててくれる?」

そう頼むと、少し不安気な表情を浮かべながらも頷くマレット。

「大丈夫、すぐに戻るから。おでこの布が温くなったら、桶に入ったのを絞って換えてあげて。あと汗が苦しそうだったら拭いてあげてね」
具体的に何をすれば良いのかを理解できると少し安心したらしく、今度は力強く頷いたマレットにお願いねと頼むと、部屋を出て食堂へと足を向けた。

深夜の食料庫から林檎と、必要そうな器や匙をかき集めて戻ると、マレットは妹の枕元に座り込み、丁度桶の手拭を絞っている所だった。

「遅いよぉ、せんせぇ……」

それほど長い時間だったわけでは無いが、やはり心細かったのだろう。
ごめんごめんと謝りながらマレットから手拭を受け取る。

小さな手で一生懸命絞ったのだろう、まだぐっしょりと水気を吸った手拭をもう一絞りしてカーラの額にあてると、持ち込んだ林檎を半分剥いて器に盛り、マレットへと差し出す。

「さ、これ食べたらマレットも寝台に入りなさい。あたしが朝までついてるから」

安心したように、ちょっとばかり形の不揃いな林檎を盛った器を両手に、自分の寝台に腰掛けるマレット。

もう半分をおろし器で擂りおろしたものを布巾で絞った果汁を器に注ぐ。

「カーラ、林檎の果汁だよ。少し飲んでおこうね、ほら……口を開けて」

全身で息をしながら熱にうなされるカーラが小さく開いた口に、果汁を掬った匙を差し入れる。

匙を咥え、小さな喉でこくりと飲み下したカーラにもっと飲むかと問うと小さく頷くので、鳥に餌をやるように何度も何度も果汁を絞っては匙を口元へと運んだ……。



マレットの穏やかな寝息が背中から聴こえる。
寝台から少し離れた机でなるべく音を立てないように林檎を擂っては絞るを繰り返していると、カーラがこちらを向きあたしを小声で呼ぶ。

「ねぇ、せんせぇ……」

すりおろす音で起こしてしまっただろうか。
なぁに?と小声で返事をしながら、止めた手を布巾で拭う。

傍に寄り、頬と首筋に手を触れると熱は随分と下がっていた。

「苦しくない?」

そう訊ねるとコクリと頷き手を伸ばしてくるカーラ。
小さく柔らかな手を握り返して微笑みかけると、えへへと笑うまだ赤い小さな生徒。

「もうあんまり苦しくないよ。先生はあたしよりはお姉ちゃんだけど、なんだかお母さんみたいですごいねぇ……」

子供にとって母親という存在は治癒術士や医者以上に"魔法使い"なんだろうなと、お母さんという言葉にくすぐったさを覚えながらも賛辞を笑顔で受ける。

「ふふん、なんたって"先生"だからね。……さ、もう少し眠って。今夜はずっとここに居るから、苦しかったり、喉が渇いたら言うのよ?」

繋いだ手をもう一度優しく撫でて布団へと戻し、額の手拭を取り換えてやるとカーラは、うんと頷き目を閉じる。

机に戻り、なるべく音を立てないように途中だった林檎の続きを擂る。
音が気になって寝付けないのか、カーラが瞳を開いては何度かこちらに顔を向けるので、その度に笑顔で頷いてやるとやがて耳慣れたのだろうか、姉のそれに重なるように静かな寝息が聞こえてきた……。






陶製のおろし器と林檎がこすれる懐かしい音の響く中、伏せた瞳をそっと開く。

「忘れていたことすら知らず、いきなり記憶を返された時は随分と腹が立ちましたよ。開祖にも貴女にも……。許しも得ず、私の大切な記憶を奪って、今度は物みたいに返すのか……とね」

あの夜のあたしのように林檎を擂りおろすカーラは、でも……と手を止める。

「ここに来て最初に迎えた卒業式の夜、そうでは無かったんだと……気が付きました」

大切な記憶を奪われるのはとても辛い。
でも奪うことは輪をかけて辛いのでは無いのだろうか……
それが生徒の安全を守る為でも、それが罪深いことだと永遠に自分を責めながら過ごしていくのはとても……辛く、とても悲しいことじゃないのだろうか、と。

ああ、だから……

その名前を、その存在を思い出して貰えなくても、自分も一緒に笑いさざめいて過ごした出来事だけでも憶えていて欲しくて、破天荒な悪戯や、他のどんな教導師よりも生徒たちに混ざって交わりを重ねるのか。

そう……星空の下、たった一人で膝を抱えて泣きじゃくる姿と、悲しく響く泣き声を知って思い至った。



「不思議ですね、あの日私に林檎を擂ってくれた姿のままの貴女に、今度はもうお婆さんになってしまった私が林檎を擂る……」

呟いてカーラが、学生時代に良く見せた笑顔でくすくすと笑う。

「先生……ステラ先生。あの思い出の夜、私は自分がどんな気持ちで貴女を見つめながら眠ったのかは、もう思い出せません。」

……でも、と

「忘れなかったこともあります。……私はね、林檎を擂るこの音がとても好きで、とても安らげるんです。だから懐かしく思い出すことはできませんけれど……あの夜、貴女にどんな気持ちを抱いて眠りに就いたのか、どうしてこの記憶が返して貰えるほどのものだったのか、今ではわかるような気がするんですよ、先生」

……医務室に優しく響くおろし器の音を聴きながら、あたしは滲んだ視界で揺らめく光に包まれた、生徒たちの願いを吊るす笹を見下ろしていた。


あたしに擂りおろした林檎を匙で食べさせながらカーラが言ってくれた言葉……。

「私達が貴女のなさることを止めないのに誓約など関係ありません。ただ……貴女を信じているから、どんなに辛くとも行くなとは申せません」

でもね……とカーラはあたしの髪に触れた、やはりあの日のあたしのように。

「お出掛けになるなら行き先は告げること、私達が足手まといになるのなら着いて行ったりは致しません。でも探す位はさせて下さい、もしくは外で無茶をするなとは申しませんから必ず……必ずお帰り下さい。貴女にはその責任があるのですよ?」

黙ったまま見上げたカーラはわかりませんか?と小首を傾げる。


「ええ、だってここは貴女の家なんですから」

家……。

世界の孤児たる冥魔には過ぎた言葉だけれど、抱き締めて離したくなくなるような温かさを持った言葉だ……。

カーラはすごいね、小さくそう呟くと彼女はニコリと笑って告げた。

「当然です。なんと申しましても"総寮母"でございますから」
最終更新:2012年06月23日 02:49