日中に坑道へと潜り、工房の窯前でフイゴを操作していれば遠ざかる夏の足音を感じることなど皆無だが、一日の仕事を終え、随分と使い慣れた里長宅の湯を使って表に出れば、谷間を吹き抜けていく風は秋の気配濃く、洗い髪から滴る水滴に首を打たれて思わず身震いする。

ああ、やっぱり風呂は好きになれないな。
肩口から鎖骨へと流れ落ちていく雫を拭ったついでに、襟足をまだ湿らせて潜む水分を綿織りの手拭いで仇のようにごしごしと乱暴に擦ろうとしてふと手が止まる。

『あぁ、ほらそれじゃ髪どころか肌が傷んじゃうってば。まぁ男の子だから問題ないのかもしれないけど……あんまり乱暴にしちゃ将来ハゲちゃうんだから…』

茶目っ気たっぷりの声音とともに、あの日小さな手で包みこむようにあてがわれたのは、こんな平織りの硬い手拭いではなく、風の祝福を紡いで編まれた柔らかな布地で……


-  イッタイ "ダレ" ニ……?  -


頭の中で疑問がよぎったのと同時に心臓を鷲掴みにされたような息苦しさと、圧迫されるような、ほんの少しの……痛みにも似た感覚……。
まただ、この実習に出てから何度となく感じた違和感と消失感。

何故なんだろう。
こんなにも有意義で楽しい夏を過ごしたのは、いつ以来だったかと思うような毎日なのに……。

珍しいものを見つけ、新学期に再開する友人への土産にと求めたとき。

歳上だけど小さくて元気一杯なルチルを笑顔で見下ろすとき。

一所懸命に大人たちに混ざってタガネを打つ小さなケールの指に、腫れをひかせるあの霊薬を塗ってやるとき……これを誰から預かったんだろうと思いを巡らすとき……。

きまってこの寂しいような感覚と痛みが訪れる。

どうしてなんだろう、友人たちと共に過ごす実習の毎日は楽しいのに……。

しばし立ち尽くすけれど答えは見つからず、湯上りで冷え始めた両腕をさすると中庭から宿舎の露台へとあがる石段を駆け上がり、割り当てられた大部屋へと滑り込む。

全員そろえば明かりを落としたって騒がしい部屋だけれど、公衆浴場を利用する友人たちは皆出払い、今は窓際に椅子を寄せて剣の手入れをしているルーファスィールがポツリといるのみだった。

ルーファスィールは僕と同じくルチルの好意で里長邸の風呂場を借りているけれど、はじめの数日で僕が極度の風呂嫌い(正確には水嫌いであって不潔なのが好きってわけじゃない)であること、可能な限り湯船を使わずに済まそうとしていることを察したらしい。

『……俺も水が貴重な土地の出だし、ここに来る前は風呂に何日も入らないような生活をしてたけどな。今は入れる環境だし、何よりあれは疲労を和らげる効果もある。お前はただでさえ丈夫には見えないんだから風呂ぐらいちゃんと入れ。何の物好きか知らないが鉱道作業を希望してるんだったら尚更だ。……いいか、今日から俺より先に入れ。短くてもいいからちゃんと浸かって体を休めてから出て来い……でなきゃ……』

僕が風呂にも浸からず、溜まった肉体疲労をまたぞろ自己賦与で誤魔化そうとしてると友人たちに告げ口してやるなんて、とんでもないことを真顔で告げてきた。

そんなことされたらそれこそ一大事だ。揃いも揃って他人の心配ばかりしている気持ちの良いあの友人たちのこと、文字通り首に縄をかけてでも公衆浴場へと引き立てられるのは自明の理だ。
さすがにジュカだって自業自得だとかなんとか言いそうな気がする。

エルフ族の例に漏れず、端正な顔立ちで涼しく告げたルーファスィールに渋々頷いてからこちら、彼より先に風呂を使わせて貰い、最低限温まって上気した顔を見せて頷かれるのが、ここ最近ではこの時間の僕の日課だ。

今日も満足気に頷いたルーファスィールは、飾り気はないけれど使い込まれた重厚な鞘に慣れた手つきで剣を納めて傍らに立てかけると、小机に置いていた自らの入浴道具を抱えて立ち上がる。

公衆浴場を用いず、里長宅の風呂を使いたい理由が僕にはある。
だから何となくルーファスィールにも似たような理由があるのだろうけれど、それはどうでもいいことだ。
彼は見た目ほど怜悧でも、口調ほどぶっきらぼうでもなく、面倒見の良い温かい人、それだけ。彼が僕のように公衆浴場を使わない理由なんかよりも、それを知れたことの方が、この夏の大切な収穫だ。

「……ルー、いつもありがとう」

すれ違いざまにふと口をついて出た言葉に立ち止まり、一瞬キョトンとした表情を見せたルーファスィールだったけれど、すぐにニヤッと笑うと僕の肩を軽く叩いて通り過ぎる。

「俺はお前と違って風呂嫌いじゃないが、熱い湯は苦手でな。お前が毎日湯船を前に心のせめぎあいをしてくれるおかげで、いい具合の温度になってるんだよな、コレが」

彼一流の照れ隠しなのか、真実なのか。ひらひらと手を振りつつ廊下を歩いていく背中を見送りながら一つ笑んで、ふと首を傾げる。
どうして僕が毎日湯船につま先をつけては出してを繰り返してから意を決して湯船に飛び込んでいることを知っているのだろう……。

想像……ってことだよね?
そんなに僕って分かりやすいんだろうか。
しばしコリコリとこめかみをかきつつ一人唸り声を漏らしてみたけれど、想像だろうということで納得する。

同じ想像でも、キバのそれよりずっと紳士的には違いない……。

『またっスかぁ??なんなのなんなの、よっぽどずば抜けてんの?ケンソン?ケンソンなの!? あ、もしかして間逆とか!?……うぁー……いやっ、イヤイヤイヤ!! 皆まで言わなくってオッケーっス! 二十代も、もーすぐ折り返しだってのにそんな衝撃コクハクできないもんな、ダイジョブ!黙ってる!察してる! タイミングは人それぞれっス!!』

公衆浴場はパスだと告げたときのキバの驚愕、憐憫、義侠心、(彼なりの)気遣いを示してコロコロと変化する表情と、口調。
後半に行くほど高まる声音と突き刺さった友人たちと女子生徒の視線……。
そう、気の置けない友人であるキバだけれど、あの瞬間よぎった感情はもしかすると……もしかすると人の世界で言う"殺意"なんじゃないかと思わないことはなかったけれど……いやいや、まさかね。


嫌なことを思い出したとばかりに頭をニ、三度振ると部屋の中に戻って湿った手拭いを窓際にかけて干す。

窓から表通りを見下ろすけれど、誰かが戻って来るような気配は無く、本でも読もうかと荷物を探ると例の霊薬の瓶に指先が触れる。
摘み出したソレを見ると、残りはもう随分少ない。
実習も残すところ数日だけど、なんとかもってくれるとありがたい……。

『……特にケールは指の様子とか気をつけてあげてね、彫金といったって結構力がいるし、あの子言い出さない気がするから』

どうして記憶に無いのにそんな言葉が頭に響くのだろう。
あの声は一体誰なんだろう、どうしてこんなにも切ないのだろう。

考えれば考えるほど、思い描こうとすればするほどその影は蜃気楼のように揺らめいて、掻き消えてしまう。

大きく息を吐き出すと、火照った頭を冷やしたくなってコート掛けから上着とマフラーを取ると身につける。
少し、風にあたろう……。
読みかけの本を手に取ってドアノブに伸ばした手が止まる。

荷物と共に立てかけた一番古い僕の持ち物、持ち手の長い剣の形を模した黒い杖……。

一般の人々から見れば魔術士の代名詞とも言うべき杖の形状とは大きく異なるけれど、それは僕の杖。
いや、本当は僕の杖じゃないし、魔力制御の役に立った試しなんてないけれど、僕のたった一人、半身と呼べた弟の杖。

弟が僕にと遺した黒い剣の杖。

たとえ魔術行使の役に立たなくとも手放そうと思ったことも、代わりの物を携えようと考えたことも無い。
少し風にあたりながらどこかで静かに本でも捲ろうかと思っただけで、杖は必要なかったのだけれど、つい目に留まったからだろうか。
なんだか杖に呼ばれたような不思議な感じを覚え、引き返してそれを手にすると(切っ先を下にして長い柄の鍔元を握ると、僕の身長だと丁度杖をついた格好になる)改めてドアノブを回して、中庭へと続く階段とは逆、正面玄関へと続く階段を降りて表通りへと出た僕は、すっかり頭の中に覚えこんだ里の地図を思い巡らす。

里に入った初日の夜、測量と地図に深い造詣を持ったヨアヒムと描いた地図を頭の中に開くと、ある場所を思い浮かべてゆっくりと歩き出した。
最終更新:2012年07月03日 23:47