間もなく周囲に落ち始めた夜の帳の中、腰を下ろした草地にそのまま背を横たえて星空を見上げる。

腕を伸ばし、続きでも読もうかと携えてきた本を同じく草の上にそっと置く。
この瞳は暗がりの中でも、星の明かりさえあれば本をよむなど造作もないけれど、なんだか今は大好きな本も開こうという気にならなかった。

腑に落ちないことだらけだ。
僕が何かを思い出せないなんてこと自体がそもそもおかしい。

思い出したくないことさえ、僕は忘れることができないのだから……。

じゃあこの感覚は一体……?

それにあの夢……。

僕は夢を視ない。視るのはかつて現実にあった記憶の欠片ばかり。
視ようと思えばそれらをつなぎ合わせて一つの物語のように追想することはできるだろうけれど、それが嫌だから半分暗示をかけてわざとバラバラに千切るようにしているし、できれば夢を視ることもできないほどクタクタに疲れてしまうまで眠らない。

だから僕は夢を視ない、悪夢でもそれが夢ならずっとずっとマシだ。
だから僕は眠るのが好きじゃない……。

でも、僕はこの里で夢を視た。
もうずっと長い間忘れていた夢を視るという感覚だから、本当にあれが夢だったのかさえよく分からない。

あれは誰だったんだろう。
誰の記憶?誰の物語?どうして僕は貴女を視たんですか?


石組みの胸壁の上で血まみれの誰かの前に立っていたあの人。
月光を浴びて流れ落ちる、エメラルドの大河のような長い長い髪越しに振り返った薄い薔薇色の瞳。
頭部と背中には蝙蝠や竜のそれのような、大小の皮膜翼を持ち、石化石膏のような白い二の腕、紅に染めた長手袋に覆われたかのような血塗れた右手。
足元には微かに湯気を上げて自らの血溜まりに沈む太った人の身体……。

人ならざる異形で、血塗れの殺人者。
血が苦手な僕なのに、嫌悪感を忘れるほどに見入ってしまったのは夢だったからなのか。

それとも、振り返った瞳があまりに凄絶で、高貴で、けれどとてもとても寂しげに揺らいでいたからなのか。

僕はあの目とよく似た暗い光を宿した瞳を知っている。
かつて覗き込んだ鏡の中で見たことがあった。

そんなに前のことじゃないのに、もう随分昔のような気がする、かつての己の瞳。
それとよく似た暗い輝きを、夢の彼女の瞳に見つけて、僕は嫌悪感よりも先に思ったんだ。

どうしてそんなに苦しそうなの……って。

だから思わず口にしてしまった、どうしてって。
でもその後に続いて出た言葉の意味が、自分自身でもわからない。

『先生』……どうしてそんなに苦しそうにしているの?哀しいの、先生……?

確かにあの夢の中でそう僕は言ったんだ、届くはずの無い問いかけだったけれど、一瞬彼女は僕の方を見たような気がしたのに、暴風に煽られるように視界はざわめいたかと思うと、その光景をかき消してしまった……。

それから次々とあの彼女が居る幾つもの光景が映し出されては、目まぐるしく変わって駆け抜けていくのをただ黙って見続けた。

梢の影から曇ったガラスの向こうに映る尊大な男と、跪いて鞭を受ける老人。

魔力の呪縛に操られ、泣き叫ぶ娘を虚ろに差し出す夫婦と満足気に笑う杖を持った男。

ささいな失敗を咎められ、宙空に吊り上げられ、あらぬ方向に四肢を捻られ絶叫する小間使いの娘。

手に入れた力を試そうと、郊外の集落に炎と毒の雨を降らす領主の子。

今持つ力を誰かと比べ、それを越えるために攫ってきた子供を怪しげな祭壇に横たえる学者風の魔術士。

吐き気と絶えがたい嫌悪感をもたらすそれらの前に降り立ち、言葉も無くただその腕で貫いて紅に染まる彼女を何度も何度も視た。

白い腕を紅に染め上げるたび、彼女の瞳は虚ろさを増す。

貫いた魔術士の向こうで、突然泣き声を上げた小さな揺り篭。
毛足の長い絨毯が吸い取った血の沼の上を、ふらふらと彼女が進む。
覗き込んだ揺り篭の中で泣く赤子を見下ろして、ペタリと座り込む。ぐったりと落とされた肩と、虚空を見上げる白い顔。瞳と同じ薔薇色の唇が動くのが見えた。

言葉は聞こえなかったけれど、微かに動いた唇がこう言っていた……。

ワカラナイ……イッタイ イツマデ……モウドウシタライイノカ ワカラナイ……

先生……っ!!
僕はなぜそう思うのか分からないまま、またそう叫んだけれど、声は届かない。

先生……。
それは僕が魔道学院に来てから覚えた言葉。いや、言葉としては知っていたけれど使うようになったのは……この学校に入ってから。僕にとってそれは学院の教導師を指す言葉で、とても大切な……。
まただ、思考が続かない。

そんな葛藤に頭を抱えていると、夢の光景にまた別の誰かが現れる。
紅の外套を羽織り、錫色の杖を手にした青年。
柔らかそうな金色の髪と、穏やかに穂を揺らす麦畑のように明るい瞳の……魔術士。

『どうしたの、殺さないのかい?その子もやがては魔法で誰かを虐げる存在に育つかもしれないよ?』

金色の魔術士が彼女にそう声をかけて…………



「ぼんっ!!ぼんっ、起きぃっ!」
小さな風圧と、ざりっとした感触が頬を撫でる感触で僕は目を覚ました。
ほんの少し前に見上げていた薄墨の宵空は去り、濃い天鵞絨のような夜色のシーツに宝石箱をひっくり返したような一面の星空が広がり……にゅっと突き出された象牙色の嘴と夜に溶け込むような灰褐色の翼が視界を覆う。

「あ……ライデン。なんで?……起きたから、起きたからちょっと痛いってば」
どうやら夢を思い出しているうちにまた眠ってしまったらしい。
頭の向こうに立って相変わらず翼で頬をぺしぺしと叩いてくるのは僕の使い魔、ライデンだ。

「なんでもかんでもあるかいな。ふらふらしとるのはいつものことやけど、こないなところで寝こけよってからに……。ワイは睡眠には賛成やで、せやけどぼんにはやな、もちっとこうベッドとかやな、毛布とかやな、そーゆー人として正しい睡眠をやな……あ、羽毛布団はあかんで羽毛布団は、あれは恐ろしいもんやさかい……」
彼曰く、幻獣界のやんごとなき身分の者独特の口調でまくし立てるライデンに、はいはいと応えて上体を起こす。

「探しに来てくれたのかい?どれくらいウトウトしてたんだろう。みんな心配しちゃうね」
腰を上げるとぱんぱんっと腰の辺りを手で払い、服に付いた草を払い落とすと、その辺りに置いたはずの本を探す。
「ワイが探し始めてから半刻も経ってへんけどやな……ぼん、最近どないしたんや。ぼーっとしとるんは前からやけど……このところ何や思いつめたみたいな顔してからに……」
ばさばさと翼をはためかせて飛び上がったライデンが僕の肩の上にふわりと下り立ち、心配したように首をきゅるりとめぐらせて覗きこんでくる。
本物の猛禽類わ肩に乗せようものなら、体重のバランスを取るため鋭い鉤爪がギリギリと肩に食い込むのだろうが、本来は幻獣にして今は僕の使い魔に収まっているライデンには実際のところ体重と呼ぶほどの重みはない。
マフラーをもう一枚かけた程度の存在感だが、彼は僕のよき理解者であり、相談相手であり、偉大な人生(?)の先輩だ。

不可解な夢と、折に触れては去来する物足りなさについて彼に相談してみるのもいいかもしれない。
「……ねぇ、ライデン?君は夢を視たり……」
「ぼんっ、話は後や。……えらいもん来よるで、さっさと戻ったほうがええかもしれんでー……」

不意に言葉を遮られ、へ?っと問い返すのも束の間、背後の闇から声が掛かる。

「何も逃げずともよいであろ。わざわざこのように窮屈な格好をしてまで逢いに参ったというに連れませんな、雷翁」
声のした方に振り返って目を凝らす。
雷翁??なんのことだ。
肩の上のライデンは片方の翼を器用に折り曲げて顔を覆って、あちゃーなどと呟いている。
なんとも人間くさいことこの上ない。

向き直った闇の中から進み出てきたのは、逞しい体格をした壮年の男性と、その左肩にちょこんと担がれた……少年?
「おうとも、良い酒も持って参ったのじゃ。我らも星を眺めるは久方ぶり、付きあうが良いぞ」
硬そうな赤銅色の髪と刈り込んだ顎鬚に覆われながらもどこか茶目っ気を感じさせる壮年男性は近づいてくると一層筋骨の流線は逞しく、学友のマシウをちらりと思い起こす。
けれど……この口調どこかで……いや、気配から凡その見当は付いているのだけれど……だとすると、この男の肩に腰掛けた少年はまさか……。

赤髪の男は片手に提げた甕を草むらに下ろすと、よっと声をかけて肩に乗せた少年に腕を回して抱きかかえると地面へと下ろす。
自分の足で立った少年-背丈はルチルのそれよりも低く幼児という方がしっくりくるのだが-が腰に両手をあてて首を傾げる。
「何を突っ立っておるのだ。悪いが帰るのは後回しぞ。もう一晩、無礼講と参ろうではないか、若き子よ」
にやっとアイスブルーの瞳を緩めて笑う少年。
伸ばした銀青色の涼やかな髪をゆったりと編んで背に流し、夜風に靡かせた……氷竜は有無を言わさぬ笑顔で、いいから座れと地面を指差した。
最終更新:2012年07月03日 23:51