「そうか、そなたの名は"ニール"と発するのだな」
もう何杯目になるのか、手にした杯を揺らしつつ、幼な子の姿を借りた古竜-氷竜-は僕を見つめながら少し口許を綻ばせた。
「……?ええ、そうです、けど」
何かおかしなことでもあったのかと、きょとりとしつつ頷けば、氷竜は僕の表情を読んだのか、そうではないよと伝えるように、眼差しごとふわりと微笑む。
「その綴りは遥かな昔、かつてこの大地が大いなる竜として天にあった時に用いたと言われる言葉、その一つに似ていてな」
「古代の……竜の言葉……?」
まばたけばこくりと頷いて返す氷の古竜。
「その言葉では、ニヒルと音律するのだがな………"Nihil sine magno vita labore dedit mortalibus."」
つと口をつぐんだ氷竜は、突然喉を震わせ、耳慣れない発音で何事かを呟き、悪戯っぽい瞳で僕に笑いかける。
「これが本来の音律だ、人の耳で理解できぬ音と、その喉では発せぬ音があるゆえ、世界に伝わったものとは少し異なろう。今のは我ら古竜ですら何者が伝えたかもしらぬ、ふるき言葉よ」
そういって再び杯を煽る氷竜の隣で、うとうととしていた壮年男性の姿を借りた炎の弟竜がパチリと瞳を開くのが見えた。
「おぉ、おぉ、懐かしき音じゃ。今となってはもはや耳にすることものうなってしもうたが、げに美しき響きというに。まことにもったいなきことじゃ」
赤ら顔でにこにこと笑みを浮かべる炎竜に頷きつつ、先ほど耳にした氷竜の音を真似る。
ずっと昔、人と交わった竜の血の一部を先祖返りとしてこの身に宿す僕の耳には、きちんと聞き取れたそれを……。
「ニヒル・シネ・マグノー・ウィータ・……ラボーレ・デディト・モルター……リブス?」
所々つかえながら発してみると、炎竜はうーんと唸りつつ硬そうな髭をしごき、氷竜は口許に杯をあてながらくつくつとくぐもった笑みを漏らす。
やっぱり全然違うかったのかな?
どうしよう、なんかとんでもない別の意味のことを口走っていたりしたら……。
なんだか児戯を笑われた子供みたいな気持ちで、傍らで草地に置いた杯に嘴を突っ込むライデンに視線を向ければ、猛禽類のくりっとした瞳をちらと動かし、翼の付け根を少し持ち上げられる。
「あー、ぼんの喉は人のそれやさかいなー。おおむね合うとるけど、まぁところどころ……な。せやかて普通は聞きとるんかて無理や。耳はご先祖はんの血ぃが強いっちゅーことやな」
杯から嘴を離したライデンが、慰めるように片方の風切羽根で僕の腰のあたりをぽんぽんと撫でさする。
「まぁ、そういうことだ。笑うてすまなんだの、別段違う意味になっているわけではないゆえ、そう萎れるな」
くすくすと笑んで氷竜はもう一杯、喉を潤してもう一度さっきの言葉を繰り返して聴かせてくれた。
しばし何事かを思案するように口を噤んだ氷竜だったけれど、氷山を思わすアイスブルーの……けれど去年リッセに教わって学院の中庭でみんなで作ったカマクラの内にいるような温かさを湛えた瞳で僕を見つめると、再びその口を開く。
「……"生きることは、苦難なくしては命あるものに何一つ与えることはない"、そういう意味の言葉だな。人の世界に沿わすならば、"苦難なくして人は人生から得るものがあろうか"といったところであろうかな」
苦難なくして……氷竜の訳した言葉を胸の内で反芻する。
「"ニヒル"というのはどんな意味の言葉なんですか?」
僕の名前と同じ綴りを持つという古い言葉、その持つ意味が気になって尋ねてみると、氷竜はまたほんの少し思案する顔で口を閉ざした。
なんだろうとライデンにまた視線を向けるけれど、彼もまたいつもはお喋りな嘴を閉ざし、ガラス玉を嵌めたような眼で見上げてくるばかりで、何だか気にかかる。
「……あの」
その意味を知りたいけれど、それは訊いてはいけないことだったのだろうか。やはりいいですと言葉を継ぐべきかと迷っていると、氷竜の言葉が僕のそれに被さる。
「"無"だ」
え?と問い質す間もなく、氷竜の言葉は続く。
「Nihil"ニヒル"は、"無"や"否定"を現わす単語だ」
氷竜の返答に、言いかけた言葉も忘れて固まる。
そんな……僕に与えられた、たった一つこの世で僕を表すはずの名前、その言葉と同じ竜の言語が"無"だなんて
……。
心を冷たい手で触れられたかのような感覚に、ズキリと胸が痛みかけたけれど、それを察するように氷竜は柔らかな表情を浮かべて杯を傍らの草地に置く。
「ニール、よくお聞き。その言葉は確かに無や否定を現わすものゆえ、それだけ聞いてしまってはそのように悲しい顔になってしまうであろうがの……」
草地を渡る夜の微風よりも優しい響きで氷竜の言葉が、炎竜の眼差しが僕に向けられる。
「その言葉は唯一つであれば、無や否定、孤立を表すが、何か別の言葉と言葉を結びつけるために用いる語でな、そうすることで成り立つものだ。どのような言葉と結び付けるかで確かに性質は変わろうが、"~しない"、"~でない"という言葉は、憂いや悲しみを振り払い、けして諦めぬ希望の言葉でもある」
もしも心というものにヒビがあるのならば、その言葉はそれを埋めるかのように静かに優しく、けれどしっかりとその隙間を埋めるように染み入ってくる。
「そなたの名がこの言葉から取られたか否かは分からぬ。けれど、もしもそうであるならば、その意味するところは単一の語として持つそれではなく、何者かと繋がりを持ち、けして一人ではなし得ぬことをなす、その為にこそ贈られたものであろうの……。少なくとも我はそのように思う」
わしもじゃ、わしもそう思うぞと喜色を露にした炎竜と、微笑を浮かべながらただ僕を見つめる氷竜。
かつてこの大地に君臨した古の竜。
その生き残りであり、今もまだこの大地に人と共に在ることを選んだ双子竜が揃って口を開き、僕にこう言ってくれたんだ。
「まこと、よき名を貰うたの、若き竜よ」
最終更新:2012年07月04日 00:20