数ヵ月ぶりに訪れた宮城は、飛躍的に国土を伸長し続けるこの国にあって、見合った体制とそれを創り上げる為の人材を収める器としては手狭となった為に、今も拡張工事の真っ最中だった。
都市区画ごと見直され、新設された二つの隔壁を越えると、見慣れたかつての城壁が今は中央機能に特化した内郭を隔てる壁としてそそり立ち、補強された鉄門と警備詰所前に立ち並ぶこれまた数を増やした衛兵たちへと苦笑いで返礼しつつ、幾つも幾つも門を通り抜けて進む。
本来はこの内郭のみでハイレンヴァルト王家の本城をなしていた、その奥向きは小さいなりにも風格のある佇まいを当時のまま残しており、大幅な改修の手は入れられていないようだった。
恐らくはこの大袈裟な改修自体に、城の主があまり乗り気ではないのだろう。
内宮ともいうべき西の郭、そのさらに一隅に存在する小さな内庭。
一国の主の起居する城としてはあまりに開放的に過ぎた、かつてのレンシエラ城の区画内にあって数少ない、限られた者しか足を踏み入れない場所。
誰が禁じているわけでもないけれど、そういう特別な場所……。
遥か地平線の向こうまでをその傘下に治めるような国に膨れ上がるよりも遥か以前、緑の森と山、牧草地に覆われた国土とそこに住まう人々、身に宿す奇異なる能力による差異を人々の間に微塵も感じさせぬ、貧しくも美しい小国の王とその妃が愛でた小さな庭園。
石灰質の石畳に続いて構えられた四阿。
その屋根棚を支える柱にもたれかかる背中と黒髪が欄干越しに見える。
「やあ、やっぱりここだったね」
四阿へと続く三段の浅い段差を前に、屋根を覆って茂る藤棚が作る陰の下で柱に背をもたせ、片膝を抱えながら微睡む人影に向け、起きているのだろうと声をかければ、口許をやや綻ばせながら眠たげに片方の眼を持ち上げた彼こそ、ハイレンヴァルト王にして僕の生涯の友人、イングラム・ジルクォその人だ。
「……オルデルフとハモニア併合の件は聞いたぞ。……本当に四年かけずに体制を整えてしまうとは、全く……お前は優秀すぎて嫌になるな」
またぞろ瞳を瞑って微睡むように欄干に深くもたれかかろうとする友人に、ひどいなと笑い返すと、四阿の作る日陰へと歩みを進め、屋根が差し伸べる日陰の縁で立ち止まる。
「帝国を名乗るそうだね」
大陸中央、その北西部に在って頻繁にハイレンヴァルトへと侵攻を繰り返し始めたオルデルフ王国を討ち、隣国のハモニア共々その統治下に治めたことで、中原のほぼ五分の一を領有することになったハイレンヴァルト王国。
戦乱を勝ち抜いた小国は今や大陸中央の大国となり、ハイレンヴァルトを盟主と仰ぎ、飽くなき戦乱に終止符を打ちたい思惑を持った近隣諸国に推され、中央では日に日に王国を帝政国家とする気運が高まっている。
イングラムが口許を歪ませながら自嘲気味に肩を揺らして笑うと、白い頬に黒髪が一房流れ落ちる。
かつては鴉の濡れ羽のように漆黒の艶で日の光を照り返した髪も、今や所々灰色に染めた友人は、膨れ上がった国の柱として初代皇帝にと望まれていることが煩わしくてならないとばかりに小さく息を漏らす。
「……共和制でよいではないかと俺は言ってるんだがな」
「隠居したくって堪らないって顔をしているね。でも……君が望んだ形の国を今も築きたいのなら……王の上に立つ王は必要だろうね」
……今はまだ。
中原の小さな土地を争い合う戦乱は、暦をめくれば絶えることなく、恐らくは今もどこかで続いている。
人の内より現れ、その数を増やし始めた人とはほんの少しだけ異なる力を有した人々の登場は、既得の権利を持つ人々にとっては恐怖であり、格好の争乱の口実となって中原に吹き荒れた。
そう、ハイレンヴァルト王国が魔法を用いる人々を差別せず、近隣国より流入した難民を保護することを危険視した、今は無き僕の祖国のように。
人心の上に立つには余りに狭隘で偏見と奢りに満ちた国と血族を僕は捨て、イングラムの元へと降り、彼と彼が愛したものを僕もまた愛し、そして共に望んだ。
飽くなき戦火によって隣国に呑まれた国の民は、先祖より続く風習も物語も、両親より授かった名前さえも塗り替えられ、また別の国に呑まれれば再び上塗りされていくことの繰り返し。
折られ踏みにじられた誇り、子供たちに伝うべき父祖の歴史を奪われることに慣れた人々からは笑顔が消え去り、祖国を想う哀歌すら忘れ去られていく。そんな光景を幾つも目の当たりにしてきた。
それを友は止めたいという。
戦を無くしながら、幾つもの受け継がれるべき誇りをも可能な限り人々に残したいという。
戦を無くすためにはそれに勝ち残らねばならない。勝ち残れば敗者となった国を統べなければならない……いずれにしても敗者となった国は失われてしまうこの矛盾。
恐らくは……この広い大陸で誰よりも甘い理想に焦がれ、その為に自らの国を塗り替える矛盾にも手を染め、誰よりも困難なものを選びとろうとしている王。
彼には、王の王たる者として彼が掲げる理想の実現を支える優秀な部下が必要だ……。
その理想があまりに遠くを目指すが故に。
それはあまりに自明で、自惚れといわれても、恐らく僕にはそれができるだろう。
「今はまだ、箍を打ち続ける者が必要……か」
ぽつりと呟くイングラム。
以前であれば、小さなこの四阿が作る日蔭をイングラムと僕、そしてもう一人の三人で分け合った。
若さと熱意とともに夢みた国の在りようを語る彼を、いつも笑顔で後押しした妃も今はおらず、ただ一人日蔭の主となったイングラムに、この藤棚が作る日陰は少し広すぎる気がして、伝えるつもりの決意が鈍って揺らぐ。
靴の先、半メルテで境を成すように地面を横切る日陰と日向。
逡巡するような葛藤とともに四阿の内を見つめ……日陰へと足を踏み出そうとすると、イングラムは抱えていた足を下ろして組むと、その上で肘をつき拳を顎にあてがって真っ直ぐに僕を見つめて口を開いた。
その姿はかつて、まだ王子であった若き日の彼に僕が見た、王の中の王たる柔らかくも確固たる威圧……往時の姿そのままで、思わず踏み出しかけた靴先が石畳を擦って止まる。
「思えば随分長くお前を引き留めてしまったな……。筆頭宰相などにまつりあげて北西部の鎮撫まで押し付けてしまった。お前のしたいことをずっと知っていたのに、な。………行くのだろう?」
ルクス、そう僕の名を呼んで微笑むイングラムに、漏らしかけた提案の言葉を飲み込む。
日向から四阿の作る日陰へと踏み込むことを許さない、王の気配にそれが問いかけではないことが分かったから。
「……ああ、そうだね。僕の時間もあまり残されているわけじゃないから」
踏み出したつま先を戻してにこりと微笑めば、互いに歳を食ったなと笑うイングラムの目尻に刻まれた皺を見つける。
あぁ、本当に……僕たちは歳をとったね、イングラム。
けれど、まだ互いに為すべきことを残しているから……。
外套の裾を払って、石畳に片膝をつき頭を垂れる。
「陛下、これまでのご厚情に対し誠に義を欠く仕儀なれど、本日只今をもって御前を辞することをお許し頂きたく……臥して願い奉ります」
「………リュミエール卿、そなたを幕下より放つは沈痛の極みなれど、汝のこれまでの功と忠に報い、その願い……許す。……そんな堅苦しい芸当ができるならもっと前に教えておけ、さんざん貴族どもの相手をさせてやったのに」
許しなく上げた面で視線を交わし、だから隠していたんだとにやりと笑めば、イングラムもまた苦笑いしながら、これでもう自由だから何処へなりと行ってしまえと手をひらひらと振る。
「もう少し寂しがるのかと思ったんだけど」
茶化して返しながら膝を払って立ち上がると、お前こそ老後の蓄えが心許ないのではないかと悪態をつく、先刻までの主にして古い友人に、たっぷりと北西部で貯蓄したよと軽口で応酬する。
「それは聞き捨てならんが……まぁ仮に本当なら退職金をはずんでやる手間が省けたというものだ」
またぞろ行儀悪く片足を持ち上げて抱えると、四阿の欄干にだらしなくもたれかかって昼寝の続きを決め込もうとする友人の顔をしばし見つめると、口許を綻ばせてゆっくりと踵を返す。
「落ち着いたら手紙くらい寄こせ、それくらいは元臣下の務めだぞ」
背中から掛かる声に歩みを止めて背中越しに言葉を返す。
「……イングラム、君とティアナが愛した、このハイレンヴァルトにどんな新しい名前を付けるんだい」
ほんの少しの間。
背中越しにイングラムがフッと笑ったような気がした。
「……お前は笑うかもしれんが……。俺は花の名などまるで介さぬ野蛮な王だが、この山藤は……ティアナが愛したこの四阿の藤の花だけは好きでな。ティアナが何度も話すものだから、すっかり覚えてしまった……」
陛下、山藤の花は小さなお花が幾つも幾つも連なって咲いているんですよ。
ね、とても可愛らしいでしょう?
こうして毎日、毎年欠かさず手入れをしていれば、いつかは花の重みでこの地面にまで届くんじゃないかしら……
今はまだここまでだけれど、この可愛らしくて小さな花が咲き連なって、地面につくほどに降りてきたら……この四阿を覆い隠すほどに咲き誇ったら……ねぇ陛下、とってもとっても素敵でしょう。
一つ一つの小さな花、それが咲き連なって地に満ちれば、それはとても美しい光景だろう……
「ウィスタリア……。お前と俺が夢を語ったこの四阿で、ティアナがいつか見たいといった光景。それをティアナと俺と……お前たち兄妹を住まわせてやりたかった国に、名付けようと思う」
ウィスタリア……口中で一度呟く。
肩越しに振り返れば、四阿から伸び下がる淡紫の花序が咲き群れて風に揺れる。
その先端が地面に届くのはまだずっと先のことだろうけれど……。
「……自称野蛮な王にしては、いい趣味だね。……妹も……ステラも藤の花が好きだった。ありがとうイングラム」
サヨナラの代わりに言い置いて、今度こそ踵を返して石畳をもと来た方へと歩く。
呼び止める声は掛からない。
柔らかな風が小さな庭園を吹き抜けていく。
いつか……。
いつか、この小さな小さな庭の小さな四阿の下から祈られた願いが、あまねく大地に満ちますように。
その為に僕は、君とティアナの想いを継ぐ者たちをこの国と、君が望んだ花咲き誇る大地へ返すと約束するから……。
だからそれまで、しばらくのお別れだイングラム。
~四阿のゆめ~
最終更新:2012年07月10日 12:47