僕が僕の願う世界の実現の為、ただ利己的な目的の為、邪魔となるものを排除することを厭わぬ罪に手を染める道の途中で、ある獣の存在を知った。

その存在、その孤高の獣が何であるかに思い至ったのは全くの偶然。
魔力を宿す力を持った人々と世界の均衡を保つ役目を与えた、あの塔の地下深くで見つけた封じられた区画。
その内に残された僅かばかりの記録にあった、悲しくも愚かな試みの為に産み落とされた異界の申し子……冥魔。その中でも一際、力あるものとして記録された冥魔の主。その一人。

それが今も存在し、ある誓いの為に僕の前を往く狩人であることを鉱山の奥で妖精と暮らす双子の古竜から伝えられた。

興味をそそられた僕は、己の目的を果たす傍らそれを追うことを始めた。




それを初めてこの眼で見た日……獣は月光差す城壁の上で佇んでいた。
その手で屠ったばかりの魔術使い……その力をもって人の上に立ち、異なることが己を特別にすると思い込んだ圧制者にして殺戮者だったもの……その骸を前に虚ろに遠く白く輝く月を見上げる人に似た姿を纏った獣……彼女は凄絶に美しかった。

表情の見えぬ背中が吐き出した吐息、それは人の繰り返す業に、かつて下した自らの選択を悔いているからなのだろうか。

「いつまでこんなことを……」

そう呟く影は、不意に何かの気配を察したように周囲を見回し瞳を凝らした。

月明りが照らす奔流のように鮮やかな緑玉の髪、紫朱に煌く瞳。

虚ろな空間の狭間に何かを見つけたように視線が定まろうとした瞬間、僕の気配に気付いたのか、怪訝な面持ちのまま闇夜へと翼をはためかせて行ってしまった。




また別の街。夜の帳に潜んで街を牛耳る商人の邸宅を見つめる薔薇色の瞳。
その先には心を呪縛によって支配された両親が、泣き叫ぶ娘を商人の慰めの為にと、ぼんやりと虚空を見つめながら差し出す光景。


さらに別の僻地の村落では、目覚めた魔力を使い試したいが為に炎を呼び、雹を呼び、念動を槌と代えて人を獲物に狩りの享楽に耽る若者の光景……。


延々と繰り返される陳腐な劇のような現実。
双子の古竜が教えてくれた冥魔、獣である彼女の痕跡を追い掛けては、血塗られた魔術使いの死体を見つけ、可能であれば念を呼び出してそこで起きたことを垣間見た。


呼び覚ます幻の回数を重ねるごとに、あの瞳は虚ろな陰を濃くしていくようだった。


呼び出した幻の中の冥魔、彼女の唇が語っていた。
モウ ドウスレバイイノカ ワカラナイ。

そう語っていた。





……僕は主君でもあった友人から隠居領として拝領した土地に、着手したばかりの構想を現実のものとする速度を上げた。
己に課した仕事と、課せられた責務。
果たすべき約束をなすために働きながらもあの瞳が忘れられなかった僕は、それらを進める合間にも、あの獣……冥魔の影を探し続け、痕跡を追い続けた。


そうやって何年を費やしたろうか、やがて僕は己と同様の力を授かって生まれてきた子供たちと暮らすための場所を、小さな小さな国を手に入れた。
冥魔を追いかける傍ら、各地で息子や娘たちを見い出しては引き取った。
子供たちの大半は奇妙な力の為に親から捨てられたか、持て余されていた子たち。

身の内に宿す力を自ら持て余さずに済むように、それを持たぬ近しい者たちと解り合える日が訪れるように……

その為の小さな小さな国。
僕が妹と過ごしたかった時間を、あの子たちがこの先失わない為にと……そんな風に銘を飾った僕の代償行為に形を与えたもの。
その器が整うと、僕は冥魔を追う時間を増やした。



あれが現れそうな場所を探し、とうとう追いついた夜。
彼女は初めて目にした時と同じように、両の手と美しく流れる髪の先を朱く染めていた。
違ったのは……冥魔が座り込んでいたことだろうか。
屠った魔術使いの隣ではない。
その先に繋がった暗い寝室に置かれた、木組みの小さな寝台の中でぐずって泣く赤子の前で……

屋内だからなのか、今日は翼の見えないその背は放心しているかのように肩を落とし、豪奢な絨毯が敷かれた床

に広がる緑玉の髪が波を揉む海と、投げ出された細い尾。
僕の気配を察することもできず、ただうなだれる背中に僕はとうとう声をかけた。


「殺さないのかい?その子もいずれ誰かを傷つける未来を孕んだ種だ。そうなる前に狩ってしまったらどうなんだい」

跳ねるように伸び上がった背筋、振り向いた瞳……朝露に濡れる薄薔薇色のそれと寸暇、視線が交錯する。
『けっして瞳を覗き込んではならぬ』古竜の助言が思い出されたが、自ら視線を外すことはしなかった。

追いかけ続けた旅の中で、ただの一度たりと古竜が忠告した力の痕跡を認めなかった。
初めて目にした彼女の屠った者も、その後のどんな身体にも、必ず同じ傷があり等しく骸は血を流していた。

狩り手にとって、命を奪う感触を最も感じる最も原始的な方法の一つで彼らは一様に狩られていたから……

それが楽しむ為に選ばれた手法ではないと、あの城壁で立ち尽くす姿から、あの夜読んだ唇が紡いだ独白から確信していたから。
だからあえて古竜の助言を無視した。

思った通り、僕の身体が内から瞬時に焼かれることはなかった。
警戒よりも不振な色を湛えた瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
正面から見た冥魔の白磁の肌に配された目鼻立ちの美しさに瞬時目を奪われる。

「……お前も……魔術を用いるようだが……この家に縁の者か?……仇でも討とうというのか」

悠然と立ち上がった姿は古竜が語った【女王】の名に相応しく、長らく語ることもなかったのだろう、美しくも掠れた声音には孤独の形容が寄り添う。

「いいや、なんの縁もないよ。今日の僕は君を追ってきただけ」

そう返す言葉に、流れる緑の髪から揺らめき上がる魔力にも似た濃密で、けれどもっと純粋に危険に膨れる気の力に背筋が汗ばむ。

「私を追う?……そうか、時折感じた気配は貴様か魔術士。何の為に私を追っている」

薔薇色の瞳が危険な色を湛えるのを感じ、杖を掴む手に力が入る。
……まだ駄目だ。存在に気圧され、怯えて防御の為に魔力を編めばこの足は……心は、踏み込む隙を失ってしまう。

「君を止める為だよ。……かつて人がリリスと名づけた君を……っ!?」

リリス、そう口にした瞬間冥魔が……彼女が振り上げた左手の先から放たれた衝撃は、僕たちの間に存在した部屋の間口と壁を乱暴に引き裂いて殺到する。

やはり瞳の力は飛んでは来なかったが、暴風のような衝撃を凌ぐ為、身体の前に引き寄せた杖から紡いだ光の障壁はビリビリと震える。
一撃で死をもたらそうと放たれたものでないことは感じ取れたが、かつてこれほどに力強く、瞬時に構成された力の発露を目にしたことがない。

床と、息絶えた魔術使いの躯の隣に立つ僕の周囲のものを残した他は、壁も屋根も引き裂いて吹き飛ばした衝撃の暴風をやり過ごした僕を目にして、彼女の瞳が驚きを孕んでわずかに見開かれたのも束の間、面白いとでも言うように意思あるもののように浮き上がる長く艶めく緑玉の髪。
その周囲には紫電が走り、腕の内側を見せてわずかに開かれた両腕には白い蛇を象ったかのような炎が螺旋を描いて駆け巡りはじめる。

あれはいけない……両方は……無理だ。
炎を超える熱を放つ蛇と、空気を爆ぜて閃く雷の火花に思わず後ずさりしそうな己を叱咤する。

「僕は君を止めたくてずっと追いかけてきた。でもそれは君を屠るためでも捕らえる為でもない。名前を呼ばれて古の魔導師たちのことでも思い出したのかい? 連中に怒りを覚えながら連中に与えられた力を振るって楽しいのか?」

振り絞った声の先で彼女が身を震わせる。

「……いずれで聞き知ったものかは知らぬが、知ったような口を!」

盛大な舌打ちと共に苦々しげに吐き出された言葉に弾かれたように髪の先で踊っていた雷が閃き、無数の矛先となって襲い来る。
指先で編んでいた構成を足元へと落とし、展開した輝く法円に杖先を打ち付けると、床を貫いて階下の地面へと浸透した魔力に励起された大地はしなる鞭のように石の床を破って幾つもの鎌首をもたげるや、飛び来る雷に向かって伸び行く。
ぶつかり合った雷と、大地から伸びた無数の褐色の蔦は、交わりあった先端で轟音と火花を撒き散らし、大地と繋がる蔦が雷を飲み込んでいく。
単発のものであればこれで終わりだが、彼女の雷は断崖を流れ落ちる瀑布のように雷撃を流し続け、土の蔦の表面が少しずつ剥がれ崩れ落ちていく。

無数の毛先から放たれ続ける紫電と、受け止める土の蔦が僕たちの間で夜を染める白いトンネルを形づくる。

長くは保たない……元より力比べなどするつもりも、できるとも思っていないのだ。



瞬時に判断すると法円に突き立てた杖を手放し、彼女目掛け紫電飛び散るトンネルの中へと身を投げて駆け出す。

あの炎の蛇をこの中に放たれれば、太陽にも匹敵する高温に飲まれ骨すら残さず蒸散するだろうが……確信に近い一つの予感があった。
けっして軽いなどとは思わぬこの身だが、賭ける価値を見出す。

「セルファっ!押し返せ!!」

身の内に潜んでいた風の化身に呼びかけると、背後から『呼ぶのが遅いっ!!』という不機嫌にも涼やかな声音とともに、白い体躯に周囲に爆ぜる稲妻と同様の紫雷を纏った縞模様の獣が現れ、僕を追い抜いたかと思うと姿は風に溶けて、トンネルの中を彼女に向けて逆風となって吹き抜ける。

「精霊っ!?けれど風ごときで押し返せるなどとっ…!」

白き炎の蛇を解き放とうと両腕を差し出す彼女の後ろで、吹きぬけた風に煽らた木組みの寝台が軋んで揺れ、赤子が再び甲高い泣き声を立てる。
ほんの一瞬、わずかに動きの止まった腕を見逃さなかった。
思った通りで間違いない、彼女は……

「やめろ!全てを押し返せなくとも煽られた熱の余波でその子は死んでしまうぞ!!」

叫んで右腰に下げた小振りの剣を逆手に引き抜き、左手に集めた魔力を柄に見立てて握り、魔力によって金色に輝く剣を形成すると、彼女との距離を一息に詰める。

「ッ!?知ったことか!ならば貴様が抗わねばよいだけのことっ!!」

「きみはその子を傷つけるものから世界を守りたくて屠り続けてきたんじゃないのかッ!?」

膨れながら彼女の腕の上を旋回する白い蛇は輝きを増し……己を守ってくれる誰かを求めて泣き止まない赤子の声が一層高く空気を切り裂く。







泣き止まない赤子の声に混じって、ギリッという歯の鳴る音が聞こえる。
意図したものであるのかどうか、赤子を乗せて揺れる木組みの寝台の前に立ち塞がるようにして方膝をついた姿勢の彼女。その白い首筋に触れるようにあてがった二本の刀身、鏡のように磨かれた実体を持った方のそれは怒りに歪んでなお美しい双眸と月明りを映して煌く。

白い炎の蛇は解き放たれること無く、投げ出された両腕の周囲でパチパチと爆ぜるような音だけを残して、紫雷同様に今は消え去っていた。

「…………どうして炎を放たなかったんだい。いや、炎でなくとも君の力ならこんなもの叩き折れただろうに」

ぐっしょりと濡れた肌着の感触をそら寒く感じながら、ほうっと息を吐くと拳に宿した刃の力を収め、剣を引くと傍らへと放り投げる。
カランという硬質音が石造りの床に響き、怪訝な瞳のまま見つめてくる彼女の瞳を覗き込みながら、すとんとその場に腰を下ろせば、身のうちから小言のような声が聞こえるけれど黙殺する。

「……貴様、何の真似だ」

怒りを孕む声音に両手を掲げて見せる。
細かに震えるそれを。

「はったりというのは、安全な場所からかけるに限るね。こういうのは金輪際ごめんだ」

"よくいう"と、また身の内で声が聞こえたけれど、やはり黙殺する。
対照的に、黙ったまま険しい瞳の彼女に視線を据える。獰猛な爪を隠した両手は今も自由なままにそこに投げ出されたまま。
彼女が望みさえすれば、僕の首を薙ぐなど一瞬だろう。……でも。

「言ったろう、僕は君を追いかけてきただけ。君が続ける永遠の狩り……そのやり方を止めたくて」

瞳に剣呑な炎を覗かせるけれど、それは古竜が警告したそれではなく、感情に近い色……。
彼女が長い長い時間を費やしたというその誓約、その誇りを傷つけたい訳ではない。

「君の誓いを双子の竜から聞いたんだ。でも……君が手をかけた人間には皆、共通点がある。搾取し傷付け、他者に痛みを強いる連中ばかりだ……」

なぜ?
君が求めるものはなんだい?

僕は君にそれを問いたくて追い続けてきた。
もしかしたら……

もしかしたら、君にも僕と僕の友人が願った世界が必要かもしれない。
そんな不遜な可能性に気付いたから。

赤子の声が、少しずつぐずるように小さいものになっていく中、僕はあまりに清冽な薔薇色の瞳を覗き込んでいた。いつまででも答えを待つとでも言うように……。




~魔術士と冥魔~
最終更新:2012年07月14日 10:10