昏睡から目覚めたセレスは、あれほどに消耗していた時とはうって変わり、憑き物が落ちたようにその体力を回復させた。
他の子供たちに混じり、日中は屋内で机を並べて何事かを教授され、合間合間に表に出ては同じ年頃の子供たちと語らう。
そして、あの鐘が鳴ると他の子供たちと共に建物から吐き出され、一人中庭へとやってくる日が続いた。
周囲を見回し、控え目な声で私に与えられた仮初の名を呼びながら芝の上を歩き回った。
その視線は姿を消して見つめる私の前を何度か通り過ぎたけれど、セレスの瞳に私は映るはずも無く、梢の奥から息を殺してセレスをただ見つめた。
人にも獣にも、眷属である冥魔ですら怖れたこの私が、病み上がりの少年の声から隠れているなど滑稽に過ぎたが、自身の行いの数々に疑問を覚えてしまった私は、この声の前にあまりに臆病になってしまっていた。
返事がないことに心もち肩を落としたように見えたセレスは今日もまた私が腰掛けた梢の向かいに植わった木の根元に腰を下ろすと、抱えていた書物の束から一冊を抜き出すと膝の上に広げ、ねぐらへの帰還を促す鐘が再び鳴り響くまで、時々視線を上げて周囲を見回すようにしながら一日を過ごした。
翌日も、そのまた翌日も。
そんな日が何日か過ぎたある日。
今日も懲りずに中庭へとやってきたセレスは、今日もまた飽きもせず梢に腰掛けた私を探してあの名で私を呼ぶ。
ステラ、と。
いつものように黙して見つめていると、芝の上を行ったり来たりしていたセレスの足がふと止まる。
とうとう諦めることにしたのだろうか、何気なく視線を送っていると突然セレスが片手で胸の辺りを押さえる様子が目に入ったかと思うと、芝の上に膝をつき咳き込んで倒れた。
セレスは次の春までもたないだろう……
冬を間近に控え、去り行く秋の気候に魔術士の言葉が思い出される。
やはり体力が戻ったのは一時的なものだったのか……。
考えるより先に飛び出した身体が梢を払い、虚空に姿を現しながら芝に降り立った私は、倒れこんで苦しげに身を捩るセレスへと駆け寄り抱き起こす。
「しっかりしろ、セレス。どこが痛むのだ」
腕に抱きあげたセレスは両手で胸元を押さえるように服を握り締め、眉根をぎゅっと寄せている。
心もち高潮した額に手をあててみるが汗は無い。
どうしたものか、とにかく魔術士に報せればいいのか……。
焦燥する思考に中庭の茂みの向こうの人気も、セレスの目も慮外に翼を拡げようとした瞬間、セレスが息を漏らした。
「……っセレス?」
「……っふふ……」
漏れでた息はやがてくつくつと小さく咳き込むように変わり、訝しげに固まる私の腕の中で、あの鳶色の瞳がぱちりと開いてまばたく。
口角の上がった口元で少し尖るような唇がやおら開くと、相好を崩してセレスが私を見つめながら一言呟く。
「みーつけた、ステラ」
今さっきまで苦しげに胸元を掴んでいた拳は、私の腕をしっかりと握りしめている。
まるで捕まえた獲物を逃がさぬようにと。
「……なんともないのか?……セレスお前、私を謀ったのか?……わ、私はお前が……」
なんたることだ。
この私を謀るようなかくも悪辣な仕儀をこの仔犬のような少年がやってみせるとは……
私は継ぐ言葉も無く、そう人風に言うならば飽いた口が塞がらず、ただぱくぱくと唇を動かす。
「うん、ごめんね。でもステラもいけないんだよ。呼んでるのにあれから一度も返事してくれないんだもん。だから学長先生に相談したら……」
後は怖いがやってみる価値はあるだろう……って。
大成功だったけどねと続けて、何が楽しいのかくつくつと声を漏らすセレスを呆れたように見つめながら、口中であの魔術士に毒づく。
本当に病を抱えている子供にやらせる芝居としては質が悪すぎるのではないのか。
乗るセレスもセレスだと、腕の中の少年を見つめる眉根に皺がよっていくのが自分でも分かる。
「怒っちゃった??」
怒るという感情はよく分からない、私が知っているそれは、これまで魔導師や狩るべき対象に向けたもので、この少年に向けるそれとは異なるような気がしたから、首を一つ横に振るとセレスはよかったと呟き口元を綻ばせたが、すぐに鳶色の瞳をしばたいて見上げてきた。
「どうして返事をしてくれなかったの?」
セレスの問いに、身が強張るのが可笑しいくらいによくわかった。
「……元々お前のあの危なっかしい行を手伝ってやるだけのつもりだった。それが終わったのだから、もう私は必要なかろう」
それは偽りではないが、別の何かを偽る為の方便に過ぎないと私は知りつつも、なんとかして誤魔化せないかというみっともない逃げ口上。
「必要ないって誰が決めたの?ぼくたち友達じゃないの?」
いつまでも腕の中に抱きかかえているのも、セレスに触れていることも憚られて、そっと上体を起こしつつ芝の上に座らせると、今すぐにも姿を消して逃げ出したいのに、セレスの瞳に見つめられ、力が抜けてしまったかのように私もまたぺたりと芝に腰を下ろす。
水気を失いつつある秋の芝がカサリと鳴る音が響く。
「……ともだち?ともだちとはなんだ」
先生とはなんだと訊ねたときのように、もっと怪訝な顔をされるかと思ったが、意外にもセレスはそれに訝しがることもなく、顎に手をあててうーんと唸り声を上げる。
「さぁ?ともだちはともだちだよ。だって、先生じゃないってあんなに言い張るんだもの。先生じゃなかったら、毎日時間を約束して、一緒に同じことをして、名前で呼び合ってたんだから友達って言っていいんじゃないかな」
セレスの言はやはりよくわからないけれど、なぜかその"ともだち"という言葉は、以前聞かされた"せんせい"という言葉に憶えた反感にも似た引っ掛かりは無いまま私の内に染み込み、その柔らかい響きには、なぜだかそんなに嫌な感じは無かった。
ああ、でもそれでも……
「お前はよくわからないことばかり言うな……。それにお前はもう為すべきことを果たしたのだから……私に関わらぬ方が良い……」
他にすべきことを見つけるのが良い……残された時間は、という言葉を飲み込み……ことの他、その言葉を搾り出すのに力が必要だったことに戸惑いを覚える。
このまま黙ってこの少年と語らっていれば良いではないかと囁く声を振り払う。
自ら背負うことを選んだものから目を背けるような女々しきものに成り下がったつもりはない。そう思うのに、仔犬のような真っ直ぐさで見上げてくる視線に内面が揺らぎを憶える。
「どうして?」
見上げる瞳を見つめ、一度瞳を閉じて再び開く。
私を映して艶やかにひらめく鳶色の瞳が嫌悪と恐怖に歪む模様を思い浮かべて、防御を張ろうとする己の思いがけぬ脆さに軽く驚きを覚える。
「セレス、私は……きっとその"ともだち"というものにもなれない……」
少しだけ背筋を伸ばして、少年から距離を置くように言葉を選びながら語りだそうとすると、セレスの瞳が曇るのが分かって、胸の何かがチクリと痛んだのも束の間、何かを決したように眉をぎゅっと寄せたセレスが、口を割って私の言葉を遮る。
「……それは………ステラが僕とは違う種族だからなの?それとも……それとも、僕のお父さんをステラが手にかけたから?」
ドクンっと鼓動が脈打ち、喉が鳴る。
思わずセレスから外した視線、一瞬真っ赤に暗転した視界に、床に倒れ臥し動かぬ骸となったセレスの父親の肥えた身体と染みのように広がる朱い床の光景がよぎる。
また、あの魔術士の仕業か……余計なことを。
一体いつ……いつから……。
いつから私をバケモノで、親殺しの仇だと……知っていたのだ。
なぜそれを知らされながら私を呼んだのだ。やはり私はお前から責めを負う務めから逃れることはできないということか。
外した視線を戻せない。鳶色の瞳をもう一度覗くのが怖くて……。でもそれは受け入れるべきもので逃げられるものでもない。そう己に課して時を過ごしてきたというのに、なぜだ。なぜこんなにも私は、この腕の中の少年の眼差しを恐れるのか。あぁ……そうか、いつの間にか私は……独りでいないこの庭での午後を……この仔犬のようでいて、残り少なくも強い命の輝きを秘めた少年のことが……。
自らに芽生えかけた一つの感情ともいうべき執着に気付きながらも、その思いはかなうべくもないと揺らぐ己を鎧で覆い、観念したかのようにセレスへと視線を戻す。
「……そうだ。人の子は……お前は私のようなものを……親殺しの相手を傍近く置いたりしてはならん」
そう告げながら、真っ直ぐ覗いたセレスの眼差しには、眉根をよせて何かを堪えるような力の働きは見いだせたが、その奥の瞳によぎるものは、私が恐れたものとは少し異なるものだった。
「どうして……」
人ならざる世界の異端、冥魔であり己と己の母を苛んだ災厄の撒き手にして、顔を知らなかろうと血縁者を屠った者。
それが目の前にいるのにセレスは再びそう口にしただけで私を見つめ、責める言葉を口にしない。
それでも、セレスが私を責めずとも……私は
「……例えお前に父親の記憶がなかろうと、お前をこの世に導いた命を私は屠った。今お前に触れているこの手で……この手はお前に連なるものとその他多くのものの血に穢れた手だ。もしかしたら、お前が生まれる前にそうしていたなら、お前すら私は……殺していたことになる」
言い募るセレスに、わかるだろうと首を振って見せる。
そうだ、私は偶然お前の父親を見つけ、魔力を振るう姿を見て、ただ私だけの天秤によって測り彼を裁いた。
それが私がすべきことと己に課し、選んできたことだから。
それまでと同じように。ただそれだけの理由で。
「どうして……」
「それが私がすべきことだったからだ。悔いているのかと問われれば、否……そう答える。セレス……例えお前の父だと知っていたとしても、私はお前の父があのようであったなら、やはり同じことをしただろう」
まだ言い募るセレスの上体を起こし、腕の中から押し出すように手放す。
知らなかったからではないのだ。だから、親殺しにもう触れさせてはいけない。そう伝えるかのように。
「違うよ……」
向かい合って座るセレスが絞り出す声。
「……違うよ。僕が聞きたいのは、そんなことじゃない。……僕のお父さんがどんな人だったか、どんなことを色んな人に強いたのか、お母さんをどれほど苦しめたのか……学長先生から全部聞いたし、僕はお母さんを見てたから……どんな人だったかはなんとなく分かっていたよ。それでも死んで当然とは言わないけれど……でも、どうして……」
途端セレスの表情がくしゃくしゃに歪み、小さな手を私に伸ばす。
頬に迫るその手を払わなければいけないと思ったけれど、私は動けなかった。
セレスの……セレスの瞳から透明の液体が溢れ出すのを不思議に見つめながら、私は麻痺したように動くこともできず、小さな手が頬に沿わされるのをただ黙して受け容れた。
胸を押し潰すような圧迫感と共に……。
「どうして……後悔していないのならそんなに痛そうなの。どうして自分の名前を……僕にリリスって名乗ってくれたときあんなに痛くて痛くて堪らないのに、自分を叩くのを止められない顔をしていたの。僕を見ながら『お前さえいなければ』って、そう言った時のお母さんと……お母さんと同じ顔をステラがするから、僕はステラの言うことを信じないよ……ステラが見せてくれたお母さんを信じているから。……だから」
頬を高潮させ、とめどなく瞳から大粒の液体を次々と溢しながら、途切れ途切れにしゃくりあげて言葉を継ぐセレス。
私が……セレスの母親と同じ顔……?
なぜ私が傷も負っていないのに痛むのだ……。
セレスの言葉は分からない、分からないけれど、セレスの小さな手の感触と、ぐしゃぐしゃに歪んだ表情を見つめる私には傷など無いのに……確かに今この瞬間、胸が潰れそうなほど痛むのはなぜだろう。どうしてなんだろう。
「ステラが後悔していなくても、ステラにそんな顔をさせているなら……それは悲しいことだと思うから。僕は……いやだ。ステラは僕を助けてくれたから……それが気紛れでも、すべきことだったことでも……僕にとってはそれが本当だから、僕はステラにもう痛そうな顔をして欲しくないよ。例えお父さんだとしても、僕は僕以外の人の命が奪われるのことを仕方なかったとか、許すとかそんなこと言えない。……でも、ステラがそんな顔で語らなきゃいけないことなんだったら……それは」
もう一度、それは…と繰り返してセレスが鼻を啜りあげる。
「それはきっとステラがしたいことじゃないよ。一緒に痛がらずにすむ方法を見つけよう。今度は僕が手伝うから……何ができるかわからないけど、僕が一緒に考えるよ、一生懸命考えるから……。だから……だから僕たちはともだちになれるよ!!だって僕はステラが好きだものっ!」
その叫びが胸を突き抜けていくような、疼く痛みごと攫って駆け抜けていくような感覚を覚える。
セレスに否定されることが怖くて、私が蓋をした可能性……。
そうだ……私はこの仔犬のようであるのに、狼のように凛とした魂を持つこの少年……セレスに恐れられ、嫌悪されることが怖かったから……逃げたかったんだ。
私はいつしか、このセレスを好ましいものとしてしまっていたから……それを認めるのが怖かった。
でも、セレスは私のしてきたことを否定はしたけれど、私を否定しなかった……。誰よりその権利があるのに……
「……セレス。私は私の選んだものを後悔していない……後悔しているとは言えない……。でも……それでも一つだけ許されるなら……お前が生まれてくる可能性を屠らなくてよかった……お前がその身に受けたものを知っていても……いずれそれを自らの力で越えるお前という可能性を屠らなくて……よかった……そう言っても許されるだろうか」
うんと何度も頷くセレスに穢れきった両手を伸ばし、引き寄せる。
熱を帯びたその肌が心地よかった。
その日から私とセレスは"ともだち"になった。
世界の異物である冥魔でありながら、私はこの世界で友人を得た。
それが何かはまだよく分かってはいなかったけれど、その言葉は私がセレスの傍にまだ居てもいいという"許し"となって、私の中に染み込んだのだった。
最終更新:2012年07月17日 00:35