私は再びあの中庭の奥まった場所で、昼下がりから夕刻までをセレスと共に過ごすようになった。

以前のように呪いを紐解くような作業、そこに居続ける為の理由を見つけられなくてもこの少年の傍に腰を下ろし、その小さな唇が話すものに耳を傾けた。病弱ゆえに寝台の上で書物を捲ることが多かったからであるのか、その小さな身体のどこに詰めたのかと思うほど、セレスは博識だった。

それは昆虫や植物、人の営みに関わるなんでもない知識だったが、長い長い時を歩いてきた私がこれまで気にも留めたことの無かった沢山の世界の存在を教えてくれた。

セレスが語ったように季節は移ろい、木々が色づき葉を散らし、やがて冬が訪れた。

山裾から吹き降ろす風が冷気を孕むようになると、魔術士は人の姿をとった私を客人と称して他の人間に目会わせ、私が自由にセレスの部屋を訪れることができるようにと取り図らった。
私に引き合わされた人間……その中でも寮母なる女性は何かと私に構ったが、その纏う空気がセレスに感じるものと似ている気がして、当惑こそしたが不思議と嫌悪を覚えることはなかった。

こんなにも長く、自らの意思によって同じ場所に居続けたことの無かった私には、同じ景色が季節によってこれほどに変化すること、それすらも新鮮な発見だった。
なぜ葉を散らす木があれば、そうでないものがあるのか。
秋に親子でいたあの鳥は何処へと行ったのか。
薄氷の張る氷の下で魚たちはどのようにして生きながらえるのか。

そんな問いを口にしては、セレスは笑って一々それらに答える。そんな日々が続いた。


『次の春までは生きられないだろう』


以前、魔術士はそう語ったが、セレスは何度か熱を発することはあっても体調を大きく崩すことも無く、元気に冬を越え、そして春を迎えた。

あの呪いの根源を紐解き、痛みと向き合った強い魂に報いるかのように、セレスの身体を蝕む衰弱は失われたのではないのか。
そう思えるほどに、セレスは毎日を過ごし、私はその隣で冬の間セレスから教わった、冬を越えた景色が春にどのように芽吹くのか、それをセレスの傍らで目の当たりにした。



けれど……

春が終わり、夏の足音を報せるように陽射しが高くなる頃、突然セレスが倒れたと聞かされた。

セレスは魔術士によって、以前呪詛を紐解き力尽きた際に寝かされたのと同じ場所へとその寝床を移された。
一日の半分以上、時には丸一日起き上がることもできないほど憔悴した日を迎えるようになったセレスは、もう日中に他の子供たちのように学び舎へと出掛けることは出来ず、私はその傍ら、今度は窓の外ではなく、病室と呼ばれるその室内での時間を共に過ごした。

それでも気分が良い日には、セレスは寝台に起き上り、また私に色々な話をしてくれた。

話題はセレスと同じくあの学び舎にいた子供たちのこと……その者たちもセレスほどでなくともその身に宿した魔力を制御する術を知らずにいた為に、身体や心に傷を負ったものがいるというものや、あの建物の中で何をして過ごしているのか……それが何のためであるのかといったこと。

これまであまり自ら語ることは無かった母親の話も、セレスはよく口にするようになった。

それは、母親が美人で実は自慢だったとか、母親が好きな歌、好きだった花が何であったか。
喜ばせたくて、まだ日の昇るよりも早く家を抜け出し、朝露の中で咲き群れるその花を摘みに行っては母親の寝台横に飾った……そんな取り留めのない、ありふれた毎日の風景。
それが事実であったのか、セレスが欲してついに手に入らなかった幻想であるのか……あるいは在ったけれど失ってしまったものの話であるのか、私には判別がつかなかったが、その全てにそうかと頷きながら耳を傾けた。



セレスから私が教わった夏の昆虫たちが大きくさえずり出した頃、身体を起こしていられる時間が一日のうちでも本当にほんの僅かなものとなり始めると、セレスは『絵を描きたい』そう魔術士に請い、病室に画架と画材を持ち込ませた。

絵画の善し悪しなど私には判じようも無かったが、実際セレスが描いて見せてくれる鳥や獣や、病室に持ち込んだ果物などは、実物と遜色の無いものに私には見え、魔力を操っていた自身無げな彼とは異なる一面を垣間見せた。

そうして何日か経った頃、セレスは唐突に私を描きたい、そう言い出した。
無論断ったのだが、どうしてもダメかとあの瞳で縋るように何度も問われた私は、とうとう根負けし渋々それに応じた。

病室の窓際に椅子を置いて腰掛け、座っているだけでいいからという言葉を違えてセレスが指示する細かな注文に四苦八苦しながら、私に理解できうる限り従った……つもりではあったのだが……

「セレス、"笑え"というのは具体的にどうやるのだ」

指示された通り、膝の上で重ねていた手を思わず解いて腕組みしそうになるのをセレスに注意されながら、新たに加わった注文に難色を示して応じる。
人が"笑う"という表情を判別することは可能だが、同じようにしろと言われれば困ってしまう。

「なんだって言われても……こう……楽しいときとかの表情だよ。時々笑うじゃない……本当に時々だけれど」

私は筋肉を具体的にどう使役すればそれを模倣することができるのかを訪ねたつもりだったのだが、黒くて短い棒(コンテと言う木炭と蜜蝋を練り固めたものだそうだ)を手に、随分痩せて青白くなってしまったセレスが首を捻って答えた助言はあまりに曖昧だった。

「……知らんぞ。第一"楽しい"というのは以前言っていた"重ねて望む"と思える時の状態だろう、私は絵の題材になることは認めたが、それはお前の方が望んだからだぞ」

画架から視線を上げたセレスが、それはそうなんだけれど呟いて一つ唸る。

「重ねて望むって……なんか堅苦しいなぁ。僕が言ったのは"もっと"って思えるような時ってことだけど……まぁいいや。うーんそうだなぁ……木にまた葉が生えたとか、花壇から芽が出ていたぞとか、聞いたとおりだったって言いに駆け込んで来るときステラ笑ってるよ?」

確かにそんな報告をしたにはしたが、笑ったなどと身に覚えのない言い掛かりに訝しく眉を寄せると、セレスはまたしばらく唸っていたが、やおら口を開く。

「じゃあ……ほら、蝶がサナギから出てきたの見たでしょ、あれについて考えててよ」

「……あぁ、あれは不可思議な現象だったな……なぜああも姿が変わるのか今もって理解が及ばん。……あの翅は一体どこからきたのだ……。いやそもそも、なぜあのような変態を遂げる必要がある……初めから蝶として生まれたほうが効率が良いのではないか……」

春先の夜明け前に寝床を抜け出したセレスと腹ばいで見つめた光景を思い出して、まだ解けぬ疑問をぶつぶつと口にすると、なぜかセレスは何事か諦めたような表情で息をつくと、再び手にした黒い棒を画板に向けて動かし始めた。


それから毎日、セレスは起き上がれるようになる午後になると寝台横の画架にかけた白布を取り払うと、それを引き寄せて思案顔で私と画架の間で視線を行き来させては例の黒い棒を摘んだ手を細かく動かしながら金色の斜陽が窓から差し込むまでの数刻を過ごした。







やがてコンテを忙しく動かすのを終えたセレスは、魔術士に持ち込ませた筆というものと不思議な臭いのする彩色剤なるものを用い始めた。
少しばかりその色彩を持って盛られたそれと、黒い棒が描き終えた画架の向こうが気になったが、セレスは彩色剤こそ並べて一つ一つ見せてくれたが、画架を覗き込むことについては、まだダメだと言って許してはくれなかった。


「……ねぇステラ」

今日はおたまじゃくしが蛙へと姿を変える過程について考えておけといわれたので、まだ尾を残した蛙が今まさに池から大地へと這い上がる様子に思いを馳せていた私は意識を引き戻しながら、なんだと応じる。

「うん……あのね」

あの中庭で姿を消した私を引きずり出して以来、セレスがこんな風に言い淀むように口ごもったりしたのは初めてだったので訝しげに首を捻ってみせる。
コンテを筆に持ち替えてからは指示も時折で、少しくらい姿勢を変えることも許されていたので注意されるようなことはない。

そんな私を一瞥し、止まってしまった自らの筆先をしばらく見つめていたセレスだったが、やがてポツリと言葉を漏らす。

「……ステラはこの後どうするの?」

"この後"……その言葉に込められた意味を察し、ハッとして視線を上げると、思いがけず真っ直ぐにこちらを見つめてくるセレスのそれとぶつかる。

「……セレス」

「この後っていうのはさ……僕が」

やめてくれ……聞きたく……聞きたくない。
考えたくないんだ、お願いだ……セレス。

「セレスッ」

制止するようにもう一度、語尾を強めてその名を呼ぶ私の声を、遥かに静かであるはずのセレスの声が被さるようにしてそれを押さえて響く。

「……僕が死んだら。その後、ステラはどうするつもりでいるの?」
最終更新:2012年07月25日 02:36