ゴトリ。
車輪が路傍の石に乗り上げたのだろう、粗末な荷馬車は軋みをあげて傾いだかと思うと一瞬後にはちょっとした落下の衝撃が尻を打ち、緩衝用の板ばねなどあるはずもない古びた荷台を二度三度と乱暴に左右へと揺らす。
自分と同じように車体が傾いだ際に足を突っ張り荷台の縁へと手を伸ばしていた者たちはやれやれと呟いてその手を離し、そうでなかった者たちは衝撃で尻でも打ったのだろう、呻きや悪態をつく声が聞こえる。
すえた臭いのする外套の襟に顔の下半分を埋めながら薄暗い荷台内の同乗者たちを見回せば、馬車に掛かった幌よりも汚れた衣服に身を纏い、みな一様に不健康にやつれた顔色。中には荷馬車の隅に寝転がったままピクリともせず生きているのか死んでいるのか判じようもない者も混じっている。
隣に腰掛けた少女が咳き込むのが聞こえた。
彼らの多くは数年前の東部国境紛争で故郷を追われ、他の土地へと逃れた難民だろう。
難民を収容する施設というものがあると聞いたことがあるが、そういったものに馴染めない者は僅かの援助金を受け取り、自ら新天地を求めて流浪するが皆が皆、思い描く居場所を見つけられるわけもなく、やがて食うに困り浮浪者と呼ばれるようになる。
土地を渡り歩き、農家の種まきや収穫を手伝うことで僅かばかりの賃金を得て、また別の土地へと流れていく。
流浪暮らしで最も厄介なのは病だ。
医者にかかるには金がかかり、病が癒えるまで天露を凌ぐ場所も必要になる。
なけなしの小銭を握り締め、医療をうたう看板が吊るされた扉を叩いても、非定住の浮浪者を快く迎える医者は稀だ。
医療行為を無償で行う神殿なども在るにはあるが、何処の地にも存在するわけでもなく、働き口があるわけでもない。
表向き義倉や無料診療所などを直轄領に配備する帝国の福祉は充実しているなどと言われるが、それらは本来は定住戸籍を有する帝国民の為のものであり、緊急時には公に解放されるが、自らの意思で難民施設を脱した者に対して必ずしも優先的に配慮がなされるわけでもない。
自身や家族に病を得ていると、働き手を求める豪農や商家でも敬遠されてしまう。
故にそのような者たちにとって、病は苦慮すべき問題として横たわる。
そんな中、とある地方貴族が自領の薬草栽培に要する人手を欲しており、身内に傷病者がいればその面倒も見てくれるという噂が浮浪者たちの間でまことしやかに流れているという。
貴族は医術者として功あって爵位を得、数代前の皇帝の御殿医をも務めた家柄だという。
その噂を話す者が言うには、往時の隆盛こそ無いものの、現当主は篤実な人格者であり、医療行為の提供も自領で研究・栽培を行う薬草を用いた医療行為の効能・効果を長期的に観察する意味合いも含むという。
けれど、と話し手が続ける自分と家族がどのような恩恵にあずかったかという話は、聞く者にあえて被験行為の実体を前置くことで当主の誠実さを感じさせ、薄気味悪さを巧みに払拭したものとなって届く。
といっても……と一端打ち切られ小声で囁かれる、領主も多くを受け容れられるほど豊かでないの言。
『見たところ、お前さんもご家族も随分長く苦労したと見えて顔色も悪い』
どこか患っているんじゃないかね。そう労わられれば、そういえばと応えたくなるのが人情というものだろう。
『ここで逢ったのも何かの縁だ。もし興味があるようなら私が口を利いてもいいが……どうだい。いや、勿論無理強いはしないよ。ただ他言は無用にしておくれ、噂が広まり過ぎてご領主様に迷惑がかかっては私は恩知らずになってしまうからね』
そう続けて立ち去りかけた男を留めた聞き手には、貴族の領地へと向かう馬車が出る日時と場所が告げられるという。
幾人もの浮浪者とその家族、民間の療養所や孤児院で持て余した患者や子供たちを乗せた馬車が何台も貴族領へと向かい、荷台を空にして再び別の地へと現れるという。同じ男がまたにこやかに浮浪者の家族へと近付き、同じ話を小声で始める……。
人は欲しいものが詰まった袋の口を目の前で閉じられることには抗いがたい誘惑を感じるものだ。
初任務の説明を自分に聞かせながら、師父はそう言って一旦言葉を切り、わかるなと言うようにじろりとねめつけた。
「お前にはこの領主の屠殺と研究情報の奪取を命ずる」
師父によれば、篤実な仮面を被った領主は、医術と魔術とを掛け合わせた邪術の研究の贄として人々を集めており、罪の無い命が既に幾つも奪われていることが既に内偵により判明しているという。
荷馬車で集められた者たちは、外部と隔絶されるように警備された農園で作業に従事しながら、同じく自らの意思でやってきた別の家族は身内の者が快癒したので土地を去ったと聞かされる。
「お前は事前に我々が表向き経営する孤児院に収容される。件の男には既にその場所が収容人員を超過している情報が耳にはいるよう取り計らっており、間を置かず現れると思われる」
そこで院長の推薦を受けた形で馬車に乗り込めということだった。
邪法の内容などは興味もそそられなかったが、温かな家を与えてやるという言葉を餌にして、それを再び奪うやり方は確かに邪悪に違いなかった。
師父はこれ以上領主の毒牙にかかる善良な者たちを増やしてはならず、子供たちを領主から守る為にそれを屠れと命じた。
そして最後にこう付け加えた。
「なお、屠殺に先立って領主が行う邪法に関する研究記録を記した黒い帳面が確認されている、家紋が革の表装に刻印されたものだがこれを確実に発見・確保し持ち帰るように。この確保が見込めない内は第二、第三の領主を生むことになる。それまでは……決して刈るな」
例えお前が殺されようとだ……と。
また馬車が軋んで揺れ、隣でうとうととしていた少女が背中を波打たせて咳き込む。
年の頃は……自分よりも少し下だろうか……冬に向かう季節に夜道を北へと向かうぼろ馬車で朝を待つには縫い目の荒いその上着では身体を温めることもままならないだろう……。
立てた襟元をぐるぐると巻いた布をもやいて解き、外套から肩から外すとそっと少女へと押し付ける。
不思議そうな顔をした少女だったが、おずおずと受け取り自らの膝にかけて小さく微笑むと、さらい隣にあぐらをかいた男をつつくと外套を指し示す。
少女の父なのだろう男は、娘が指し示した膝上のぼろ外套を見とめると、少女を太い腕で掻き寄せながらこちらを向いて大きな口で笑った。
「ボウズ、ありがとうよ。うちの娘はもう半年もこの咳が止まねぇでなぁ。俺があちこちと渡るもんだからゆっくり養生もさせてやれねぇで可哀想なことをしてたんだがよぉ、この馬車の話を聞いてありがてぇと飛び乗ったわけよ」
熊を思わせる髭面から発せられた声は体格同様大きくて、荷台の向こう側で誰かが咳払いをするのが聞こえた。
にまりと相好を崩した男が、娘の肩を撫でながら心もち小声でまた囁きかけてくる。
「なに、向こうへ着きゃぁ領主様もその息子や助手たちも腕利きの医者揃いだって言うじゃねぇか。きっと冬が来る前にゃ元気になれるさ。……ボウズ、お前もどこか具合が悪ぃのか?」
人のよさそうな男が眉間に皺を寄せて覗き込むのに無言で首を振って答える。
「……孤児院。誰かが出ないと食っていけないから」
そうか、と神妙な面持ちで男は呟いたかと思ったのも束の間、やはり熊のように大きな手で肩に触れてくるとニカリとまた大きな口をあけて笑った。
えらいな、ボウズ……と。
外套を膝にかけた少女が無言で微笑み見詰めてくるのも面倒で、男に曖昧に頷くと先ほど解いた布を再び首元に巻きつけて口許まで埋めると、眠ったふりをすることにした。
そうだ、関わってはいけない……。
翌日の夕刻、目的地に着いたのだろう。
停車した馬車から降ろされたのは鉄柵で囲われた農場らしき場所で、幾つかの母屋と温室が建ち並び、小高い丘の上には領主の居館らしきものが見て取れた。
鉄柵に沿って首を巡らせてみれば、本来外敵に備えるには外向きだけでいい武者返しは内側にも鋭く突き出していたが誰も不思議に思っているようには見えなかった。
柵に併設して設定された大きな門には、必ず見つけ出すよう告げられた帳面に記されていると教えられた家紋が打ち出されていた。
葉と実をつけたイチイの枝をくわえて翼を拡げた白鳩の紋。
屠殺者として洗礼を受けた自分が、最初に刈り取るよう命じられたこの世の悪。
チェンバレン家、その紋……。
再び視線を巡らせば、昨夜の男が娘を伴って歩いていく背中が見えた。
最終更新:2012年08月04日 02:44