浮遊力を失い、ゆっくりと大地へと降下していく方舟、その制御核の残骸。
無数に並べられた琥珀金の棺、一つ一つから伸び上がる光。自らを複製して造られた娘たちの命の輝きを引き連れて、彼女自身もまた一際輝く光となって天空へと翔け上がっていくその背中を、痛いほど拳を握り締めながら見送った。

空を引き裂いて、圧しかかるように重なるように割り入ろうとする、こことは異なる"世界"を締め出すように、黒い空の裂け目を螺旋を描いて縫い閉じながら飛翔する幾条もの緑の光糸。

今まさに頭上で起きているこの光景、この世に飽いた者たちが異なる世界でこの大地を染め変える。それを引き起こす為だけに造られたものが、それをさせじと世界を縫い止めていく。


在るべき世界は在るべき場所へ
有るべき命もまた還るべき場所へ

世界はこの世界を生きる子供たちへと伝えるために


空の--世界の裂け目を縫い閉じた光の糸は、一瞬強く、優しくまたたき……弾け飛んで幾つもの光の粒が遥か上空で舞い散った。


その日--世界には淡く仄かな緑に輝く触れるとじんわりと温かな雪がしんしんと降り注ぎ、人々は一様に立ち止まって空を振り仰いだ。
ひらひらと舞い落ちた輝きは、まるで大地に抱擁されるかのように溶け、そして消えた。







「……古い古い昔話じゃな。我ら人狼や、かつて半竜と呼ばれた竜人、人馬たちがこの世界の住人として認められるきっかけとなった旧ウィスタリア帝国の【冥魔族権利憲章】が発布されるよりも、まだもう少しだけ昔の物語じゃよ」

藤編みの敷物に半円を描いて腰をおろす里の仔狼たちを見回しながら一息つけば、一人の仔狼が立ち上がって口を開く。

「大婆さま、その緑の冥魔ってリリスのことじゃないの?ぼく聞いたことがあるよ、すごい力をもった冥魔の王さまがいたって。どうして世界を守ったのに緑の冥魔なんて言うのサ。どうしてちゃんと名前でお話ししてあげないの?」

くりくりとした瞳をなぜか悲しそうな色に染めた仔狼に微笑んで手招きをすると、揺り椅子に寄ったその柔らかな髪を撫で梳く。

「そうじゃの、じゃがなルークや。名前というのはお前の言うとおり、その持ち主をあらわす大切なものじゃ。ゆえにこそ、我らは彼女をその名では伝えなんだ」

にこりと皺だらけとなった口許で笑いかければ、なぞなぞをかけられたかのように、むぅと皺を寄せてしまう仔狼を抱き上げてショールを敷いた膝の上へと招きあげる。

「……じゃあ本当の名前はリリスじゃないの?」

もうすっかり重くなったその身体を愛しく抱きしめながら、その耳元に口を寄せてそうじゃと優しく応じれば、周囲の仔狼たちも耳をひょこひょこと動かしながらそばだてる。

「彼女がこの世界で"生き"、得た名前はの……」

期待に満ちた眼差しで見つめてくる幾つもの澄んだ眼を見回すと、ちょうど開け放った窓から夏の訪れを告げる風が吹き込んで、ふと窓枠へと視線を向ける。

板打ちされた壁を切り取って覗く景色、緑に広がる山裾に咲く白い花群れを背に立つ人影が……風に踊る緑の髪を押さえるようにしながらふわりと笑ったように見えて……。

「大婆さまっ!ねぇ早くっ!」

膝に抱えたルークに揺さぶられ、同じように口にする可愛らしき仔狼たちの声にハッとして室内へと目を向け、もう一度窓枠の外を見れば人影の幻は無く、ただ風に凪ぐ白い花と緑の絨毯だけがそこに広がっている。


……なんじゃ、わらわが一度もそなたをそう呼ばなんだゆえ笑いに参ったかや?
くすりと胸中で微笑みながら、焦れる仔狼たちに向き直る。

「そうじゃった、すまぬすまぬ。我らが彼女を伝える名はの……」


わらわとて……。
かなうものなら、その名でそなたを呼び、語らいたかったのじゃぞ。
まぁ、今となって懐かしく思わば……じゃがの。


今は見えないけれど、たしかにそこにいた人影に向かって胸中呟く。


間ものう、わらわも……。
遠く遥かなあの日、炎に沈む都をそなたとともに見下ろしたハラカラの最後たるわらわの刻も、ようやっと尽きる時がすぐそこまで来たようじゃ。
……したらば、あの日変わり果てたヌシとの再開、そのやり直しにその名で呼び、ヌシが信じた子らを疑うたことも、気の済むまで詫びようほどに……。

もうしばし……あとしばしだけ待ちや……。
そなたが願うた世界を見ておれば退屈はせぬであろう?

のう、我が女王にして我が友……"ステラ"よ。




~遥かな日~
最終更新:2012年08月08日 02:31