「ファウスト!岩室に入っていいって言われたんだ!!一緒に行こう」
鉱山妖精の里で過ごす夏の実習も残すところ二日となった朝、出そうで出ない欠伸を誘おうと口を開いたまま宿舎の部屋を出た廊下で友人の一人と出くわした。
鉱山妖精は紙に記録を残すという文化を持たない。それは人よりも幾分長い時間を生きるからなのか、岩壁に囲まれ外界と隔絶された環境がそうさせたものなのか、彼らは石版とチョークで書き付けを行うことはあっても、紙に記したものを綴って保管することをしない。その代わり、永く伝うべきものは石版や銅版に文字や図を打ち刻んで残すのだという。
そのようにして刻まれてきた鉱山妖精たちの記憶にして記録、その中でも特に古いものを収めた岩室があると、この友人は実習参加前からことあるごとに口にしていたなと思いだす。
とはいえ、里の古い記憶を収蔵した場所だ。いくら交誼を結んだ
魔道学院の生徒だからといってそうやすやす立ち入れるものでもない。
だから、くまで縁取られた充血がちの目を輝かせながら嬉々として楽しみだねと繰り返す友人には、その夢を壊さないように、入れるといいなと肯くのみだったのだが……。まさか本当に入室を許可されてしまうとは。
思った以上に鉱山妖精たちが気さくだったこともあるだろうが……物語の中から抜け出してきたような古竜との晩餐などを思い返してみても、なんだか不可思議なほどに色々なものが許され、逆に気を遣うほどのもてなしように何かの力が働いているのではないかなどと勘ぐってしまうほどだ。
そんな一抹の疑心に思考が沈みそうになるのを遮るようにぐいと袖口を友人がひく。
「ほら、ね。折角なんだから行こうよ。もう残り二日しかないし全部読めるか時間的に厳しいんだから!」
どれほどあるのか皆目検討もつかないが、千年に近い収蔵物を全て読みきる気かコイツは、と呆れ顔で眉を八の字に下げるけれど、この友人ならやりかねないと小さくため息を漏らす。当の本人は今にも目から星が飛び出しそうな興奮状態で、わかったわかったと自由な片手を上げて渋々降参して見せると、友人は仔犬のような無邪気さで破願する。
善は急げとばかりに後ろに回って背を押し始めた友人の、ついぞ見かけぬ積極性に苦笑いしつつ、やれやれと小さく息を吐いた。
本当は……岩室にも、中に収められているという記録にもそれほど興味はない。むしろそういった場所は苦手だ。
記録はそれを紡いだものの"想い"そのものであることが多く、そういった想いとともに形に残されたものは……。
そう、とても苦手だったんだ。
『わぁ……と!?ゴ、ゴメン!よそ見して飛び出しちゃったもんだから……痛くなかった?ケガしてない?……ハイ、これ眼鏡』
あれは初等課程を卒なく終え、術士課程へと進んだばかりの春。学院の校舎を繋ぐ石造りの回廊を曲がったところで目にした風景。
回廊のもうひとつ先の角で小さな人影が二つしゃがみこんでいた。
よく思い出すことはできないけれど、オレンジの髪の初等部生らしい少女と、同じようにちんまいなんだか緑のぼんやりした影。
別段怪我をしたなどでもない様子に、そのまま歩を進めて通り過ぎようとした耳にぼんやりした方の影が発した言葉が引っかかって、つと足を止めた。
『……あら、その目……きれいな瞳ね……目のことを言われるのは好きじゃなかったかな。色々視え過ぎちゃうのは面倒かもしれないけど、きっとそれが役に立つときが来るわ。……きっと、ね』
オレンジの髪の少女がどんな色の瞳をしていたかは覚えていない。ただ、--色々視えすぎてしまう--その表現が通り過ぎようとしていた俺の心を絡めとった。
それは……俺だけじゃない、魔眼と呼ばれる厄介な代物を瞳に宿して生まれた者なら誰もが同じように思うであろう、感情で……それを持たぬ者が決まって口にする文句だったから。
物心ついたときは、自分の見ている世界が他の者と少し異なっているなんて思いもしなかった。俺に見えるものは他人にも見えている。当然のようにそう思っていた。
"念"と呼ばれるものがある。それは世界にたゆたう想いの力、かつて生きていたものが世界に残した記憶、願い。あるいは今も生きながらにして自ら発したそれら想いが持ち主の手に余ったときに肉体を離れようと滲み出す想念にして情念。
俺の瞳は、それを視認する能力を両親から受け継いだわけでもなく、生まれつき宿していたらしい。
"霊念視の魔眼"と呼ばれる先天的な魔術的能力があるということを知ったのは、もっと大きく、目の前の誰かから漏れ出した黒い靄が一体どのような感情によって発露したかを理解できるようになって後のことだった。
子供のころは良かった。世界に残った記憶の残滓が結ぶ像を遊び相手としていても、両親も周囲もそれは子供特有の"お友達"との会話だと、微笑ましく笑って見守ってくれていた。
けれど一年、二年と齢を重ねると何故かそれは許されないものとなってしまった。いつかの日と同じように、見えるものを見えるといい、そこに在るものを在ると言っても、周囲はもう笑ってはくれなかった。
代わりに与えられたのは歪んだ表情と、痛ましいものを見るような視線。
--またそんな冗談ばかり--
--ほら、そんなものはないでしょう?--
--嘘はおやめなさい--
周囲は俺に見えているものを見えないと言えと執拗に迫り、身体同様に小さかった俺の心は痛んで軋んだ。
何より痛んだのは、そういった強要に対して『でも見えるよ、ほら今もそこに』と反駁する俺を見つめる母の背から立ち昇る黒い靄を見てしまったことだった。
……それは、かつて俺にだけ見えた友達が悪いものだと教えてくれたものと同じ色をしていたから……。
視えないものにはわからない……。
どんなにそれが希少で特別な能力であったとしても、他者が感じる価値と俺たち魔眼を持って生まれた者との間には、それに対する認識のズレがある。
それを持って生まれたことにはきっと意味があるといわれたところで、それを持つがゆえに甘んじてきた心の軋みに見合うものなのか……。
きっと意味はある、自分だってそう思いたい気持ちと、そんな簡単に言って欲しくはないという気持ちとがないまぜとなってぐるぐると渦を巻く。
だからといって、俺が小さな人影ふたつの会話に口を挟むこともないのだが。
思いを払うように首をひとつ振ってまた歩き出した、数年前の記憶……。
そう、だから想いが残りやすい手書きの書物や絵画、それらを収蔵する場所は苦手だ。……視えているものを視えていないふりをしなければいけないような場所は……ひどく、苦手だったんだ。
(続く)
最終更新:2012年10月11日 01:51