東北大SF研 長篇部会
万物理論』 グレッグ・イーガン/山岸真

著者紹介

グレッグ・イーガン(Greg Egan)
1961年オーストラリアのパース生まれとされている。代表作に長篇では『ディアスポラ』、『万物理論』、『順列都市』など、中短篇では『しあわせの理由』、『祈りの海』など。
言わずと知れた現代SF二巨頭のひとりであり、対となるテッド・チャンとは対照的に、精力的な執筆活動で知られる。また覆面作家としても知られ、西オーストラリア大学で数学の理学士を取得したのち映画専門学校に進学するも中退、病院付きのプログラマーとして勤務していたということ以外はほとんど伝わっていない。
あまりにも顔出しをしないために、世間ではイーガンの正体に関して様々な議論がある。有名どころでは「AI説」「意識をもった脳腫瘍説」「宇宙人説」「美少女説」「複数人説」などがある。「ただの普通の白人のおっさん説」も存在するが多分嘘である。
個人的には「集合的無意識説」を推したい。全人類が潜在的にもつ「イーガン的なもの」が集まり、イーガンの作品を創り上げているのだ。人類皆イーガン。
本作『万物理論』は「SF本の雑誌」上で「SFオールタイムベスト100」の第1位に輝いたほか、「SFが読みたい!2005年版」の「ベストSF2004」第1位、2005年度星雲賞海外長編部門、2004年度SFマガジン読者賞など日本で絶大な支持を集めている。また、海外でもティプトリー賞参考作(候補作)、クルト・ラスヴィッツ賞(ドイツのSF文学賞)海外長篇部門受賞、オーリアリス賞(オーストラリアのSF・FT文学賞)長篇部門受賞など高い評価を受けている。


訳者紹介

山岸真(やまぎし まこと)
1962年新潟県長岡市生まれ。主な訳書にイーガン『万物理論』『ディアスポラ』『しあわせの理由』、コニイ『ハローサマー、グッドバイ』『パラークシの記憶』など。主な編書に「80年代SF傑作選 上・下」(小川隆と共編)「20世紀SF 1‐6」(中村融と共編)「90年代SF傑作選 上・下」「SFマガジン700 海外篇」など。
SF翻訳者には珍しい専業翻訳者で、主にグレッグ・イーガンの作品を中心に翻訳している。邦訳されたイーガン作品はほとんど全て山岸真の手によるものである(直交三部作のみ、中村融との共訳)。またアンソロジストとしても活躍しており、海外SF傑作選の編纂などを手掛けている。

主要登場人物

アンドルー・ワース

本作の主人公。科学ジャーナリストで、専門はバイオテクノロジー。

ジーナ

アンドルーの彼女。浮気の末アンドルーを捨てた。ワースはジーナと心が通い合っていると思っていたが、それは幻想にすぎなかった。

ヴァイオレット・モサラ

“基石”の最有力候補と目される若き天才物理学者。南アフリカ出身で、20代でアフリカ出身者初となるノーベル賞を受賞した。
非主流派ACの生物学的襲撃によって死亡。

カリン・デ・グロート

モサラの秘書。苦労人。モサラの死後もアンドルーに協力してくれるいい人。

ヘンリー・バッゾ

“基石”の候補とされる物理学者。しかしバッゾの理論はモサラに脆弱性を指摘されている。物語途中で暗殺された。正直あまり物語に絡んでこないので印象が薄い。

ヤスオ・ニシデ(西出康男、原文ではYasuko Nishide)

“基石”の候補とされる京大出身の物理学者。日本出身。しかし病気療養中のため、会議の舞台であるステートレスには姿を見せなかった。非主流派ACであるセーラ・ナイトの手により、病死に見せかけ暗殺された。こっちはさらに物語に絡んでこないので覚えていない。
山岸さんは訳者あとがきで「間違いではないか」としていたが、私はニシデが転男性である説を考えたい。転男性であるならば、元が女性で女性名であったとしても不思議ではない。まあイーガンがうっかり間違えてしまったと解釈した方が、イーガンの人間味を感じられていい気もする。

セーラ・ナイト

アンドルーと同じ科学ジャーナリストで、専門は物理学、特に宇宙論。
実は非主流派ACと内通しており、“基石”によって世界認識が変容してしまうことを防ぐため、暗躍していた。畑違いのアンドルーに万物理論ネタを奪われるまでに、執拗なほど入念に準備を重ねていた。

アキリ・クウェール

主流派ACの汎性。しかしながら、様々な集団に身を置いて活動をしている。

ローク

自閉症患者協会の広報担当幹部。無論ローク自身も自閉症者。アンドルーに自閉症の脳手術による治療法や、ラマント野、ふたつのHワードについて語った。
直接的には物語にはかかわらないが、理論的な面でかなり重要な位置を占める。

作中用語解説

無知カルト

科学を信じられない人たちの信奉する反科学宗教の総称。無知でカルトと言う通り、科学に関して暗愚な人たちの集団となっていて、文学者などの科学に疎い文化人をまつりあげて世界各地で活動している。

AC(人間宇宙論者)

謎めいた無知カルトのひとつ。
教義から察するに、物理学用語でいえば「人間原理」を信仰しているものと思われる。

Hワード

この『万物理論』で展開される議論の中で、最も面白い部類の議論。小さいHワードと大きなHワードが存在し、それぞれHealthとHumanityが該当する。
まずHealth、「健康」という言葉であるが、伊藤計劃好きの多いこのサークルでは『ハーモニー』で展開された議論を思い出した人も多いのではないか。『ハーモニー』において、人々のプライバシーは「健康のために」制限されていた。伊藤計劃の得意とするところの、「ある自由を得るために、ある自由を放棄した」という現象の代表例である。(『虐殺器官』では「テロからの自由」を得るために「プライバシーの自由」を放棄している)特にこの「健康のために」という言葉が権力的に振る舞う(生政治)、という指摘はフランスの哲学者ミシェル・フーコーの主著『監獄の誕生』によるものである。(イーガンは一体何者なの?)
次にHumanity、「人間性」という言葉であるが、これはヒトラーが多用したことで有名である。本文にもあるように、論敵を「人間性が欠如している」という言葉で非難することは、相手の言論を圧殺することのみならず、論敵の過去から未来に至るすべての言動を一瞬で粉砕することが出来る最強の「権力」としてふるまう。
ちなみに、伊藤計劃は一時期までポストモダン哲学の信奉者だった(後に批判)ので、ポストモダン哲学者のひとりに数えられることもあるフーコーの著書も恐らく読んだであろうと考えられる。一方イーガンが読んだかどうかは、定かではない。

自発的自閉症者協会

まず、医学的には「自閉症」という診断名は存在せず、「広汎性発達障害」の中に「自閉性障害」という診断名がある。具体的な診断方法は省略するが、あくまで症状から診断される病気であり、病理学的検査によって診断される病気ではない。この「広汎性発達障害」のなかでも、全般的に知的な能力や言語に遅れが見られない場合、医学的には「アスペルガー症候群」と診断される。[1]
ここで、ロークの語る部分的自閉症者の特徴を挙げると、「人間関係の構築に障害がある」「知的能力にはなんら影響がない」というものなので、作中の「自閉症」は現実の医学的にはアスペルガー症候群に近いと言えるだろう。
また、作中では自閉症がラマント野の損傷によって発症するとされているが、これも現実における自閉症・アスペルガー症候群の原因とは異なる。自閉症の発症率は、日本人では一万人当たり96.7~161.3人であるとの報告があり、おおよそ1%前後の発症率とされ、それほどまれな障害ではない。自閉症の発症原因としては遺伝的要因との関連が深いと考えられている。発症に関しては複数の遺伝子が関係している可能性があり、また胎児期から生後2年ほどの間のウイルス感染などもひとつの要因とされている(これは作中でも言及されている)など、単純には捉えられない。現在のところ、自閉症と特定部位の脳損傷との明確な局所的関連は認められていないものの、偏桃体を中心とした神経ネットワークと小脳の障害を伴うとされる。[2][3]
話を作中に戻して、自発的自閉症者協会では、部分的自閉症の治療方法として、既存の自家組織移植によるラマント野の治療以外に、新たにラマント野の完全切除によって部分的自閉症を完全な自閉症に「治療」することを法律によって規定しようという政治的主張を行っている。エピローグでの描写から、“基石”の発生後はラマント野の切除手術が広く行われているようだ。

各種ソフトウェア

脳内に「インストール」された各種支援ツールで、必要に応じて利用される。メモリは体内に存在し、へそに端子が露出している。

シジフォス

情報収集・管理・同期が出来る総合情報管理システム。
元ネタはギリシャ神話に登場する人物、シーシュポスから。シーシュポスは都市コリントスの建設者で、後に神を二度欺いた罪で永久に岩を山頂に運ぶ労役を課せられた。

ヘルメス

多分シジフォスの下位システムであると考えられる。仲介・パッチ処理を担当か。
元ネタはギリシャ神話に登場する神。オリュンポス十二神のひとりにして、ゼウスの使い。盗人、賭博、商人、交通、体育、音楽など多くの事柄を象徴する神でもある。

目撃者

視覚情報の記録・分析のほか、AR的な機能を備えている。

カスパー

簡単な模擬人格AI。
元ネタは新約聖書に登場する東方の三博士のひとり、カスパールだと思われる。『新世紀エヴァンゲリオン』にも開発者赤城ナオコ博士の「女」としての人格を模した人格AIとして、同じく東方の三博士を元ネタとするCasperが登場するが、関連は不明。『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ放映が1995年、『万物理論』の原著が1995年末、邦訳が2004年なので関連性は限りなく低いと考えられる。
あるいは、19世紀にドイツで発見された正体不明の孤児カスパー・ハウザーが元ネタか。16歳で保護されるまで地下牢に幽閉されており、人間的な行動が出来なかったとされている。教育によって言葉を話せるようになり、自身の過去を語ろうとした矢先、何者かに暗殺された。そのため芸術作品などでしばしば題材にとられる。(これも教育心理学・発達心理学などの心理学分野では有名な話)

ステートレス

バイオテクノロジー企業の社員が違法に持ち出した技術を基に作られた太平洋の人工島。この島では科学技術に関する特許がすべて無効になるため、日本を筆頭に先進諸国から貿易・出入国に関する厳しい制限がかけられている。
ステートレスはサンゴ礁を基礎とした人工島であり、水素合成細菌が生じる水素で浮力を得ている。第二章で明かされるこのステートレスの構造は、最終盤で大きな意味をもつ。大量にばらまいた技術的なネタのうちで、ちゃんと伏線として活用される数少ない例のひとつ。

ディストレス

世界中で患者が急増している精神病。あまりにも発症者の増え方が激しいので感染性なのではないかと考えられているが、人口に対して平等に感染者が発生(世界中どこでも人口に対する患者の比率が同じ)するので、感染症だとも考えにくい。
その正体は万物理論に触れてしまったことで起こる唯我論的狂気であり、万物理論の理解に先立って発生していたものだった。
万物理論』の原題は”Distress”であり、意味としては(1)大きな不幸、不安、苦痛を感じること(2)貧困、飢餓に苦しむこと(3)遭難 がある。(Oxford Advanced Learner’s Dictionaryより、下村訳)これらの意味を複合させたものがもっともらしく感じられる。

物理学的解説

万物理論(Theory of Everything、TOE)

万物理論とは、本文にも登場したように「すべての物理現象をその式のみで記述する究極の物理法則」のことである。
現代の物理学では、この世のすべての「力」は重力、電磁力、弱い力(原子核を崩壊させる力)、強い力(原子核を結び付ける力)の4つで表されるとしている。この4つの力は、宇宙が始まった際(ビッグバン、超高温・超高圧)はすべて同じで区別出来なかったはずだと考えられていて、この統合された1つの力の作用を表す法則を万物理論と呼んでいる。
現在、電磁力と弱い力を統合した電弱力を記述する理論(統一理論、またはワインバーグ=サラム理論)は既に完成しており、電弱力と強い力を統合する大統一理論の整備が進んでいる。

人間原理

「この宇宙に私たち人間がいて、この宇宙が人間に理解出来るものであるのは、すべて私たちがそう観測して理解出来るからに過ぎない」という仮説のこと。はっきり言ってしまうと、科学的反証性が確保出来ないため、科学の扱う問題ではない。そういう面では非常に非科学的な言説である。
哲学者カール・ポパーによれば、科学の条件とは「反証可能性が確保されていること」である。反証可能性とは、ある科学的仮説に対して、それを否定するような現象が存在する場合、仮説は否定されることである。すなわち、科学とは、それによって説明出来ることと出来ないことを明確にするプロセスを指す。なお、これは自然科学だけでなく、社会科学や人文科学にも適用される。[4]

テンソル

テンソルは相対論の計算などで頻出するのだが、私自身正直よく分からないまま天下り式に使っているという部分が大きいのであまり詳しく解説することが出来ない。平たく言うと、スカラーをベクトルに拡張したように、ベクトルをさらに拡張したものである。詳しい解説は是非数学科の人にお願いしたい。

考察

私の予想だが、アンドルーは自閉症なのではないかと考えている。嘘が下手であることと、“基石”になったことがその論拠だ。これに関しては、SF研のみなさんの意見を聞きたい。(正直、自閉症でないとすると、わざわざ自閉症患者を登場させて自閉症に関して語らせたことの必要性が薄れる)また上述の通り、エピローグにおける描写でラマント野の切除手術が一般化していることを考えると、アンドルー自身も自閉症であると考えた方が自然だ。

所感

最高。これこそSFにおける最高傑作のひとつである。
600頁に及ぶ物語の中で、イーガンはいくつもの魅力的なアイデアを提示して読者を魅了し、また困惑させる。少なくとも長篇を7本は書けそうなアイデア(ジェンダー、死後復活を利用したミステリ、バイオテクノロジー【遺伝子組み換え植物の存在】、バイオメカトロニクス【遺伝子組み換えによる身体改造】、Hワード、ノートパッドなどの現在の技術を予知したかのようなガジェット、無知カルト、ディストレスのパンデミック)を贅沢にも1本の長篇に押し込むその重厚さは、流石イーガンといったところ。最後の大仕掛けも、物理理論と情報理論の結合による万物理論の完成とは、これまた時代を先取るようなイーガンの圧倒的な思考の成せるアイデアだ。
またイーガンの中・短篇を読んだことがある人は、それらの作品の内容を思い出すことがあったのではないか。代表例として、未来の倫理観・幸福感を扱った名作『しあわせの理由』が挙げられるだろう。『万物理論』以前に発表されたイーガン作品に頭をのぞかせていた多くの要素がこの作品で集大成を迎えたということになろだろう。
この『万物理論』のテーマとして、新しい科学的発見の発表による社会の変容と、それに対するイーガンのものの見方が挙げられるだろう。『万物理論』は、今やSFにおける科学技術の代名詞ともいえる存在となったイーガンの、科学に対する姿勢が明確に表されたまぎれもない傑作だ。私自身、「科学的な新発見なんていつかは解明されるものであるし、そもそも科学的な法則はビッグバン以前から規定されたものであるし、それによって価値観が揺らぐ方がおかしい」という感覚なので、本作を読んでいて文中における無知カルトに対して批判的な言及には共感を覚えた。
また自閉症をSFガジェットに用いるSFとして、フィリップ・K・ディックの『火星のタイム・スリップ』を思い出した。近年だと宮内悠介の『エクソダス症候群』も精神病を扱ったSFであり、精神病をテーマとしたSFは昔から人気があるのかもしれない。(これは精神病を従来の一般文芸や純文学では扱いづらいというのも背景にあるのかもしれない)

付録

イーガンの他作品と、他作家のハードSF作品を紹介する。

『しあわせの理由』(イーガン、山岸真訳、ハヤカワ文庫SF)

SFマガジン700号記念の人気投票において、海外短編部門第2位に輝いた名作『しあわせの理由』を表題とした、イーガンの入門的作.品集。
個人的には、イーガンらしくないとされる『愛撫』、イーガンお得意の科学技術を全面に押し出した科学探偵もの『チェルノブイリの聖母』がおすすめ。(無論表題作はいちばんのおすすめ)

「無常の月 ラリイ・ニーヴン傑作選」(ニーヴン、小隅黎・伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF)

ヒューゴー賞受賞作『無常の月』『中性子星』『ホール・マン』『太陽系周辺空域』を含む、文字通りニーヴンの傑作選。基本的には宇宙を舞台とした懐かしい雰囲気の作品が多いが、宇宙に関する描写は科学知識を基にした、なるべく正確なものになっている。

『星を継ぐもの』(ジェイムズ・P・ホーガン、池央耿訳、創元SF文庫)

SFミステリの金字塔。月で発見された人の遺体は、なんと5万年前のものだった。豊富な科学的発想とミステリ由来の強固な論理展開によって明らかになっていく物語は必読。はじめ1/3は布石パートなので若干読み進めるのが大変だが、のこり2/3は息つく暇もない魅惑の世界が広がっている。はじめ1/3だけ何とか頑張ってほしい。

「老ヴォールの惑星」(小川一水、ハヤカワ文庫JA)

現代日本におけるハードSFといったらこの人。星雲賞受賞作『老ヴォールの惑星』を筆頭に、一水の特色が結晶した『ギャルナフカの迷宮』や人気の高い『漂った男』、時代を先取りした拡張現実ものの『幸せになる箱庭』の4作が収録されている。一水の作品の中ではかなり読みやすい上、特色も出ていて非常に面白い。一水作品の特色は「科学知識を身につけた人たちが、困難な状況に対して希望を捨てずに立ち向かう」というものだ。一水の作品にバッドエンドはほとんど存在しないので、安心して読むことが出来る。

参考文献

[1]シードブック教育心理学 本郷一夫・八木成和編著 建帛社
[2]心理学 第4版 鹿取廣人・杉本敏夫・鳥井修晃編 東京大学出版会
[3]自閉症スペクトラムとは 笹沼澄子編 医学書院
[4]科学哲学への招待 野家啓一 ちくま学芸文庫
[5]『万物理論』レジュメ ちゃあしう 東北大学SF研究会


下村思游
最終更新:2018年09月15日 16:27