第一章-生徒会戦争
四点五ページ目-六道太平
日本国政府の対応は、この事態を予見できていたかのような迅速な対応だった。非常事態宣言より僅か2時間。特殊能力者専門教育島「環凪島」において戦後、最も厳しい措置を発動すると宣言。島を中心に半径20kmの区域内の本土の市民には避難命令が出された後、軍により完全封鎖。海上においては、霹(かみなり)、羚(かもしか)、鵲(かささぎ)、凱(かちどき)、鰄(かいらぎ)、枷(からさお)といった現日本海軍の誇る主要軍艦6隻が島周辺を厳戒態勢で取り囲んでおり、唯一、本土と繋がる半壊の黎明大橋も封鎖され、何故か大量の爆薬が運び込まれている。
その他、空には多数のVH-51Cを中心とした戦闘ヘリが飛び交い、本土湾岸には最新型MBTである109式戦車に加えSAM-3(短距離防空用地対空ミサイルシステム)が敷き詰める様に配備されている。
武装都市「ゼルノグラード」
有事の際は、ここを拠点として戦争を行えるだけの設備を収容した街。因みに、ゼルノグラードというのは有事の際の特殊な呼び名であって、地名ではない。タクシーに乗って「ゼルノグラードまで」と言っても「はぁ?」と返されるだろう。そして、戦争というのは前時代にあったような国家間のものは想定していない。宇宙戦争も地底戦争も想定していない。現代における人類にとっての最大の脅威、特殊能力者を相手に行われる戦争だけを想定して造られた街である。
『現在、番組の予定を変更いたしまして、本日、午後4時頃に発せられた環凪島における非常事態宣言に関する特別報道となっております。現在、環凪島を中心とした半径20kmの区域内には避難命令が出されています。絶対に近づかないようにして下さい。繰り返します、現在、環凪島に―』ピッ!『―見て下さい!山の上部がまるで鋭利な刃物で切り取られたかのように変形していま―』ピッ!『―凪島周辺には、現在、避難命令が出されています。付近の住民の方は―』ピッ!『―して環凪島周辺は依然、沈黙を保っていますが、能力者におけるテロ行為である可能性が高いと私は見てい―』ピッ!『―以上、環凪駐屯地からでした。それでは、非常事態宣言に関する日本政府の会見―』ピッ!『―らに現在、日本初の原子力空母「巫(かんなぎ)」が環凪島に向かっているとの―』ピッ!『―て、特殊能力者対策局は対特殊能力者専門鎮圧機構軍こと特別行動部隊の出動を決定し、環凪駐屯地よ―』
特殊能力者による国家転覆テロ以来、数十年ぶり、ではなく半年振りの非常事態を各メディアは、半年振りに一斉に報じたが、何分、半年振りに布かれた軍による規制が激しく、殆どの国民は半年振りの非常事態について詳しいことは、半年前と同じく何も分からなかった。
「またですか」
「まだ、だなwww」
爆笑する七五三野先輩。
「笑い事じゃありませんよ。七五三野先輩。軍は半年振りの非常事態に、半年振りの攻撃も辞さないようです。というか、半年振りに環凪島へ攻撃を行います」
「まぁ、半年だしな」
「半年ですから」
6ヶ月。
日本全国が戦々恐々と怯えているなか、私は様々なモニターが壁に埋め込まれている生徒会の司令室、生徒会本部の中央に鎮座する大きめの円卓で紅茶を飲みつつ、七五三野先輩とテレビを見ていた。失礼。これもまた大きな真っ白なテーブルクロスの掛けられた円卓の上には紅茶の他、クッキーとアンパンもある。
ティータイム。誰が見ても、疑いようの無い、ティータイム。時間としては、午後5時。ティータイムには遅く、夕飯には早い。そんな不安定な時間に、男2人でティータイム。アフター5にティータイム。優雅に、質素に、曖昧に、ティータイム。
ライフラインは既に軍により止められているが、然したる問題ではない。2週間までならば今まで通りの生活を送る事ができるだけの設備と蓄えが環凪島にはある。
慣れたものだ。と思う。いや、ティータイムじゃなくて。…半年前なら戦々恐々と身構えていたことだろう。経験するということは重要だ。まぁ、正確には半年前ではなく、2年後。なのだけど。
それにしても、皆がここで思う疑問。分かっている。私には分かっている。なんせ私は三千世界をあまねく見通す天網の魔眼(自称)こと、六道太平だ。
何故、紅茶に餡なのか、だろう。
まぁ、それもそうだろう。普通、餡と言えばグリーンティーと相場は決まっている。ただの常識。それがそれである、ということ。疑いようもない日常。だが、考える前に、理屈は抜きに、味わってほしい、そして、感じてほしい。合うから。けっこう、以外に、しっくりと、合うから。
冗談だ。
今までの全てが。
というのは、言いすぎというか冗談だけど。
さて、読者諸君。
この生徒会書記録をここまで読み進めた読者諸君。
よく「一ページ目」から、この「四点五ページ目」までつき合ってくれた。
長らくお待たせしてしまって申し訳ない。
では、そろそろ始めようと思う。
生徒会戦争。その本編を。
第一章-生徒会戦争
五ページ目-後小橋川司 ①
「という訳で、この生徒会総会、そして生徒会長選挙というのは、主犯にとって、かっこうの的だった。という訳です」
一息に喋り、私はティーカップを傾ける。13名の前で、私は事のあらすじを説明し終えた。
時間は1時間ほど遡る。
半年前。正確には2年後。起こった、起こってしまう。後の世で、または現在、環凪大戦と呼ばれる、あるいは呼ばれた出来事。能力者と能力者の死闘。それは環凪島全体を、引いては、特殊能力者全体を巻き込んで起こる、もしくは起こった戦い。騒動自体は、一晩で決着を迎え、死者は1人。それも直接的なものではなく、その事前段階でのもの。潰えた命という意味では、3千を越えるが。
主犯。それはただの一人。たった一人の人間によって齎された災厄。
それは大戦の生き残り。過去、世界的に隠蔽され続けた特殊能力者の人間としての権利を求め、僅か13人の軍勢で世界に対し攻撃を仕掛けた者達。多くの特殊能力者を含め世界的には多数の罪無き民間人を殺戮し、世界を滅ぼそうとした大罪者と認知されているが、一部の特殊能力者からは彼らのおかげで今の特殊能力者の暮らしがある、と未だに自分達を救った偉大な英雄として崇拝に近い扱いを受けている。まぁ、誰かにとっての正義は、誰かにとっての悪である、ということだ。誰かの味方をするということは、誰かの敵になるということである。
主観が変われば正義も変わる。
大勢の平穏の為に少数を虐げた世界と、そんな世界から少数を救う為に大勢を虐げた者達。貴方はどちらが正しい行いをしたと思うだろうか?
振りかざされた正義と、虐げられた悪。正義は何故いつも勝つのだろうか。
簡単だ。正義がいつも勝つのではなく、勝った方が正義だから。正しい行いをした方が勝つのではない。勝った側の行いが正しいとされるだけ。正義に必要なのは、強さ。肉体的に倫理的に経済的に心理的に宗教的に個人的に科学的に非科学的に論理的に法的に人間的に非人間的に絶対的に、明確に曖昧に鮮烈に強烈に猛烈に強ければいい。今までの歴史は全てそうだった。これからもそうなるだろう。
さて、上記の問いの答えは出ただろうか。
どちらか一方を選んだ貴方は、視野が少し狭いかもしれない。もう少し広く世を見るべきだ。この問いに主観は不要である。誰の命にも重みは無く、数量としての意味も無い。
どちらも悪い、又はどちらも良いと判断した貴方は少し平等主義、博愛主義過ぎる。その考え方はいずれ貴方の身を滅ぼす事になる。全員の味方をするということは、全員の敵にもなりえる。全てに対し平等に愛情を注げる人だけを特別に愛する人は、誰一人としていないのだから。愛とは等価交換である。愛するのならば愛されなければならない。愛されるならば愛さなければならない。片方だけが愛情を積み重ね、その天秤が傾けば、いずれ天秤は壊れてしまう。無償の愛、などとよく言うが、一方通行の愛情は表面上どうであれ、それを甘んじて受け続ければ、結果としては悲劇的な結末しか導かない。一方的に誰かに愛されるくらいなら、まだ憎まれたほうがマシである。何故なら愛情は美化しやすい上に風化しにくい想いだからだ。恋する乙女とか「二律背反妄想系自動追尾型時限爆弾」みたいなものだろう。爆発したら両方、死ぬしかない。恐怖の人間兵器である。
失礼した。どこかの誰かに一応、謝罪しておく。まぁ、今のは最悪のパターンだけを紹介したに過ぎない。愛情とは殆どの場面において称賛されるべき美しい感情である。話しを戻そう。この問いに正解は無い。
ただ、貴方の出した解が貴方にとっての解である。だが、その解は全員には当てはまらない。もしも、この善悪二元論の致命的な欠点の、その模範解答を見つけられたならば、貴方のその聡明さは世界を救うことにも等しいと私は思う。
そして、その後、大戦は特殊能力者側の敗北で幕を閉じたが結果、特殊能力者の存在は世界的な戦争によって広く認知され大分、遠回りになってしまったが人権も保障され、人としての扱いを受けられる様になった。
その生き残りである。
大戦時「死唱の魔法使い」や「傾国の戦女神」と呼ばれ、忌まれ、疎まれ、讃えられた能力者と、大戦時「直死の魔眼」や「電波殺し」と呼ばれ、怖れられ、恐れられ、畏れられた能力者。結局は、ただ一対一の戦いだったというわけだ。
災厄と言っていいだろう。少なくとも私にとっては。
その用意周到に計画された上で、行われた災厄は、多くを巻き込んだ。それもまた、一つの結果だろう。
私という存在世界での出来事。劫分の一での出来事。過去で起こり未来で起こる出来事。
それでも私は、その出来事を経験した。
417 :生徒会書記録 ◆r77gGG6uoY:2010/08/22(日) 02:29:49 ID:L/WOMowE
『一念五百生』
仏語である。恩怨や愛憎などの妄念は、一度心に浮かべただけで五百生に及ぶ輪廻の原因となること。執着心の恐るべきことを説く言葉である。
人の思いとは儚くも強いものだ。時にそれは偉業を成し遂げる原動力となり、また時には執着となって人の一生を狂わせる。「一念五百生、懸念無量劫の業」これは『太平記』の十一巻にある一節である。ほんの僅かの思いが輪廻転生を経て、五百生もの間にわたる報いを呼び、量り知れぬ業をもたらす。一瞬の執着でも、無量の罪業となるということだ。この思いとは、なにも怨念や欲だけではなく、恩や愛情さえも執着をもたらす妄念とされる。仏教では、基本的にはあらゆる執着を絶つことが涅槃への条件であるから、家族や他人への思いやりの心や愛も本来は断ち切らねばならない。太平記におても、最も人が断ち切れない執着は、むしろ家族への愛である、とある。子供に会いたい、妻に、夫に、愛する者に会いたいと願う心をどうして責められようか。ならば執着こそ人の心であり、人である限り、この業からは逃れられないのではないか。さればこそ、この業を見つめ、その上で悟りを求め続ける、その過程の中にこそ本当の悟りがあるのではないだろうか。人の持つ思いが、純粋で強いものであればこそ、人は最も悟りに近く、また同時に最も遠い者でもあるのだろう。何であれ、目標とは、永劫に届かぬからこそ美しく尊いものなのやもしれない。
私の能力は、この言葉の意味だけを変えたものである。「一度の妄念で、五百の生を見る能力」という意味だ。
私の能力は私の存在する世界を見る。私さえいれば、この世界は勿論、過去や未来、平行世界、死後の世界や前世、来世、物語や他人の夢まで見ることができる。あらゆるしがらみを飛び越え、高々次元ともいえるような視点から全てにリンクすることができる。逆に言えば、私は私がいない世界を見ることができない。私という、六道太平という人物が存在しない世界は見ることができない。
ということは、私が見た間違った未来。とでも言うのが正しいのだろうか。それこそが私のいるべき未来ということになる。
つまり、それと現実が違っているという事は、だ。
これは、この世界は、私が存在していない世界。運命が変わったわけでも、狂ったわけでもない。ただ存在しない。それだけのこと。私の能力は壊れてなどいなかった。私の能力は最初から、それこそ発現した瞬間から正しく動いていた。それに私が気付かなかっただけ。
視点。
どちらを基準に考えるか、ということ。異なる二つの事例を天秤にかけるとき、どちらを基準にして、どちらを諮るのか、ということ。測るでも計るでも量るでもなく、諮る。高次元から低次元へ意見を求める。
この世界を基準に私の能力を計るから、おかしな結果になるのだ。能力を基準に世界を諮れば、自ずと導き出されるものがある。
異常というのであれば、この世界でもなく、私の能力でもなく、存在しないはずの世界に私が存在していること、となるが、これもまた、視点である。
ということを、私は七五三野先輩から教えてもらった。私の能力の、その仕組みを。上辺だけなら私も知っていた。当事者だし。大抵の能力者は自分の能力で「できること」はよく知っている。だが、能力で「できないこと」はあまり知らない。
一つのモノに関していえば、できることを1とするならば、できないことは3恒河沙くらいだ。テレビゲーム機で焼肉はできないし、整髪料は髪の毛を整える事以外には使えない。まぁ、できないことまで一々、調べようとは思わないだろう。何しろ、数が多すぎるし、目的と仕組みが分かっているモノならば不要と言っていい。それ以外には使わないのだから。しかし、目的も仕組みも用途も分からない特殊能力において「できないこと」というのは思いの他、重要である。
何ができて、何ができないのか。これが能力を知るということだろう。
七五三野空海の『御厨人窟の虚空法』は、さらにその先をいく。理解する。理解してしまう。その本質を。
この人にはどこまで見えているだろう。私のような、形の無い能力のなかでも、最も色の無い部類の能力の中身を見抜いたその能力は、どこまで見透かしているのだろう。そして、この人は、ちょっと頭が良すぎる。特殊能力に関しては普通の人間の百倍くらい頭が回る。能力を理解するのは、七五三野先輩の能力によるものであって、その理解した本質を人間的に理解するのは、彼の脳みそである。文明の最先端を行く人類の叡智が解明に勤しむ、特殊能力。それを、この人は日常的に解明している。千差万別の能力の一つ一つを。感覚的に理解した情報の断片を繋ぎ合わせて、能力の本質を見抜く。
人にものを教えるには、それ相応の技術が必要だ。教えるという事は結構、難しい。学校や職場。例えば、道を教えるのにだって、その人なりのセンスというものが試されるだろう。無駄を省いて分かりやすく、しかし重要なポイントは的確に、伝えなければならない。よく、物分りが悪い、などと教える側が嘆いている事があるが、そこまで致命的な馬鹿はそうそういない。十中八九、教える側の技術が低いだけである。教える側が教えたつもりになっているだけ。自分の技術の低さを棚に上げて、相手の理解力を馬鹿にしているのだ。
無駄を省いて分かりやすく、重要なポイントは的確に。その点においても、七五三野空海という人は私の予想を超えていた。
マジでアンタは教師とかになれ。まぁ、そう言ったところで、面倒臭いと流されるのは目に見えているが。
最終更新:2011年09月26日 22:41