・8月9日 20時53分
ビーーーーー!!ビーーーーー!!ビーーーーー!!
環凪島の中心部に位置する研究所内で警報がけたたましく鳴り響いている。
「…おい!おい!起きろ!」
「…、…んぁ? …何だ…?」
「何だ? じゃねぇ!とっとと起きろ!」
「ふぁ…、うっせぇなぁ…」
「起きろ!立て!逃げるぞ!」
「…はぁ? なんで?」
「聞こえないのか? 非常事態だ」
仮眠を妨害された男は所内に鳴り響く警報と共に流れる機械音声に不機嫌な顔で耳を傾ける。
『…繰り返します。第十五科直属地下研究棟特S級実験生物管理室にて異常。所内の全職員は直ちに退避して下さい』
『…繰り返します。第十五科直属地下研究棟特S級実験生物管理室にて異常。所内の全職員は直ちに退避して下さい』
「特? S級実験生物…?」
意味も分からず呟く。男の顔から血の気が失せ、瞬間、嫌な汗が噴き出た。
「行くぞ!もう待てない!」
「あ!待てよ!」
男は飛び起きると先行する男を追いかける。繰り返し鳴り響く警報に急かされるように二人は研究所の外へ向かい走る。
既に所内に人の気配は無い。走りながら、ふとガラス張りのとある研究室を見れば、照明やPC画面は付いたまま、散乱した書類、倒れたままの椅子、誰かの飲みかけだったのだろうマグカップが床に転がり、絨毯が敷かれた床にコーヒーの染みを作っていた。
ようやく緊急事態なのだと頭が理解し始める。
「第十五科? 地下研究棟? 特S級実験生物管理室? 何なんだよ? 一体。地下に研究棟なんてあったのか?」
「知るか!とにかく総員退避だ!今までどんな事故でも総員退避なんて事態は、無かった…!」
「…。…警戒レベルは?」
「8だ」
「8? 警戒レベルは7がMAXだろう?」
「そのMAXじゃあ、足りねぇってことさ」
「……スーパーウルトラハイパーやべぇって事か。まいったね…」
巨大な迷路のような研究所内をひたすらに走る。
「ハァ…!ハァ…!…!あそこだ!『隔離門』まで突っ切るぞ!」
「おうよ!、…俺達が最後か!?」
「分からん!だが、これ以上の猶予は無い!」
息を切らせて『隔離門』と呼ぶ場所を駆けぬける二人。先行していた男が《緊急》と書かれた壁の一部に触れると、小さなシャッターが開いた。中には10キーとレバー。シャッターが開くと、男は流れるような手付きで16桁の暗証番号を入力し、レバーを90°回して思いきり引いた。
瞬間、設置されていた上下左右、計8つの送電機から攻撃にも転化可能な強力な電磁シールド、通称『電脳魔方陣』が5mの間隔を空け、通路のこちら側と向こう側を遮断するように二重に展開。続いて厚さ5mはあろうかという特殊な金属で構成された壁の一部が左右から迫り出し重音と共に閉じ始める。
特殊な攻撃も物理的な攻撃も遮断する門。A級能力者でも突破には1日はかかる。非常事態時には外へと繋がる研究所内各所の門を閉じる手筈になっていた。
「これで、一安心か」
肩で息をしながら、門の正面、通路の真ん中で腰を下ろす男。
「死亡フラグ立てんな。お前が勝手に死ぬ分には構わんがな。ほら、いくぞ」
「はいはい。しかしなんでお前だけ?」
「あ? …あぁ。お前を置き忘れてきたのを思い出してな。それで死なれても寝覚めが悪いから引き返して来た」
「そっか…、ありがとな」
気恥ずかしいのか左手だけで返しながら先に歩き出す男。腰を下ろしていた男は立ち上がる刹那ふと振り返ってしまった。なぜ振り返ったのかは分からない。虫の知らせか。男は見てしまった。閉じゆく門の隙間から。その通路の一番奥。
いつから居たというのか。
少女。
美しい、少女だった。
身長は150cm程度だろうか。処女雪のように白い肌。天性のものであろう金髪が蛍光灯の光を柔らかく反射している。黒と紫を基調とするショートラインのカクテルドレス。完璧に整えられた彫刻作品のような美しい顔には、あるはずのパーツが一つ欠けていた。右眼が無い。眼球があるはずのそこは空洞だった。左眼は対照的に採光が宝石のように赤く輝いている。
宝石を宝石で着飾った西洋人形のような場違いな格好の少女。正面を向き、首だけが不自然に右斜めに傾いている。少女の左眼に魅入られた瞬間。男は言葉では形容し難い地獄のようなものを垣間見た。
少女が嗤った気がした。
「ひっ…!」
首だけが不自然に右斜めに傾いている少女の右手だけが動く。
その手には何か木の棒の様な、細いものが握られている。
男は声を飲み込むと同時に弾けるように立ち上がり駆け出そうとするが、足がもつれて転んでしまう。
少女が何かを投擲する。
重力に従い、転んだ男は前方の地面に吸い寄せられていく。
少女が投擲した木の棒の様な、細いものは恐るべき速度で飛ぶ。
A級でも壊せないはずの強力な電脳魔方陣を容易く貫通し、ほぼ閉じた門の僅かな隙間をそれは高速で通過する。
転んだ男の頭、数cm程上をそれは風切り音すら残さずに通り過ぎる。
転んだ男の前方で、ボン!という何かが弾け飛ぶ音がした。
重音と共に『隔離門』が完全に閉じたのと、電磁シールドが自動修復を開始したのと、転んだ男が地面に抱きつき目の前の下半身だけしかない、命の恩人にして親しい同僚だったはずの「何か」が崩れ落ちるのを血の雨の中確認するのは、同時だった。
・8月9日 21時24分
静寂に向かう夜の帳を無理矢理引き剥がすようなサイレンと共に、研究所から本国政府、及び島内全域へ非常事態宣言が通達された。
最終更新:2011年09月26日 23:19