合作、雨
無敗三冠……幾らか長いレースの歴史の中でも、数えるのに苦労は多くないであろう、圧倒的な強さを持ったウマ娘。時に期待され、時に恐れられる彼女たちは、まさしく時代を彩るに相応しき偉大な存在だ。そう、1人の例外もなく。
で、あるならば。そんな少女の栄光に傷を付けた”私”は、一体何だ? ……問うだけ無駄だろう。愚かな罪人。こうしてのうのうと市井を闊歩することすら烏滸がましい、最低の咎人。いっそ私が替わってあげていられればどれだけ良かったことか。そんな妄想さえ、刹那の現実逃避に他ならず。
だからこそ私は、ただ役目を果たす。友達を見舞う親友……否、加害者すら見舞いに来る、それほど立派な“被害者”のために。私の振る舞いに何の価値も無かったとして、ただ彼女にだけは。
エントランスに入る頃、すっかりそんな邪念も消え失せて。大切な友達を一途に思う、切なげな笑みを浮かべた少女を……暗雲だけが、ただ静かに見下ろしていた。
で、あるならば。そんな少女の栄光に傷を付けた”私”は、一体何だ? ……問うだけ無駄だろう。愚かな罪人。こうしてのうのうと市井を闊歩することすら烏滸がましい、最低の咎人。いっそ私が替わってあげていられればどれだけ良かったことか。そんな妄想さえ、刹那の現実逃避に他ならず。
だからこそ私は、ただ役目を果たす。友達を見舞う親友……否、加害者すら見舞いに来る、それほど立派な“被害者”のために。私の振る舞いに何の価値も無かったとして、ただ彼女にだけは。
エントランスに入る頃、すっかりそんな邪念も消え失せて。大切な友達を一途に思う、切なげな笑みを浮かべた少女を……暗雲だけが、ただ静かに見下ろしていた。
受付担当者の対応は予想以上に素早かった。いつも他の部員さんの見舞い品を溢れるほど抱え、甲斐甲斐しく友達の病室へ訪れる同級の少女。顔馴染みになるほど繰り返されたその行為は、見舞い客の微笑ましさと入院患者の人徳を知らせるには十分だっただろう。
何度かよろけながらも階段を登り、目的の部屋の前。扉へ手を伸ばしたところで……
「…んーんんんーんんんーんんん………」
……歌?
「んーんんんーんーんんんん………」
驚いた。ウマ娘の聴力は一般に優れているというが、これほど些細な音すら拾うというのか。それとも、心の奥底で、この歌の主が“彼女”であると確信しているからなのか。
「んーんんんーんんんーんんんん………」
それにしても、妙に心地よく馴染むリズムが続いている。もしかして、私は前にこの歌を、どこかで聞いたことがあるのだろうか──そんな些細な疑問は、
「あー星をーのーりこえて………」
──続くサビの歌詞に打ち砕かれた。
ENOLA、電子悲劇。彼女の名前を冠し、彼女の今までとこれからを想起させるような歌。あまりに優しく慈悲深い声に乗せられたメロディーは、ひどく耽美で残酷で、思わず胸に爪を立てて掻き毟りたくなるほど。
ふと、視界にひとつの箱が目に入る。フラワリングタイムの見舞いのお菓子。慌ててそれを拾い上げ、勢いのまま扉をノックした。
何度かよろけながらも階段を登り、目的の部屋の前。扉へ手を伸ばしたところで……
「…んーんんんーんんんーんんん………」
……歌?
「んーんんんーんーんんんん………」
驚いた。ウマ娘の聴力は一般に優れているというが、これほど些細な音すら拾うというのか。それとも、心の奥底で、この歌の主が“彼女”であると確信しているからなのか。
「んーんんんーんんんーんんんん………」
それにしても、妙に心地よく馴染むリズムが続いている。もしかして、私は前にこの歌を、どこかで聞いたことがあるのだろうか──そんな些細な疑問は、
「あー星をーのーりこえて………」
──続くサビの歌詞に打ち砕かれた。
ENOLA、電子悲劇。彼女の名前を冠し、彼女の今までとこれからを想起させるような歌。あまりに優しく慈悲深い声に乗せられたメロディーは、ひどく耽美で残酷で、思わず胸に爪を立てて掻き毟りたくなるほど。
ふと、視界にひとつの箱が目に入る。フラワリングタイムの見舞いのお菓子。慌ててそれを拾い上げ、勢いのまま扉をノックした。
私の呼びかけに返された応答、それを聞き届けてガラガラと扉を開く。
「今日もいらっしゃい。相変わらずすごい量ね」
そこにあったのは、病院服に身を包み、ベッドの上で上体だけを起こしたエノラの姿。淡い青空を思わせる薄水色の装束は、本来彼女が身に纏うべきであった鮮やかな勝負服とはとてもかけ離れていて。嫌が応にも目に入ってしまう、掛け布団の上に乗せられた右腕のギプスは、罪の記憶を掘り起こすのに充分過ぎる存在だった。
「みんな優しいからねー」
そう、”チームのみんな”は本当に優しい。もう何ヶ月かは数えなくなったが、変わらず彼女に見舞い品という形で思い遣りの意思を見せている。こうして心優しい人々と出会えたのも、彼女の人格に拠る物なのだろう。だからこそ。
「あなたも優しいわよ」
……貴方にそれを言わせてしまうのが、とても心苦しい。貴方が見ている私は、ただ人前に愚かな本心を晒せない私の仮面でしかないというのに。貴方の優しさが、ただ巣食われるための拠り所にしかならないというのが。
「さ、座って……話そう?」
「今日もいらっしゃい。相変わらずすごい量ね」
そこにあったのは、病院服に身を包み、ベッドの上で上体だけを起こしたエノラの姿。淡い青空を思わせる薄水色の装束は、本来彼女が身に纏うべきであった鮮やかな勝負服とはとてもかけ離れていて。嫌が応にも目に入ってしまう、掛け布団の上に乗せられた右腕のギプスは、罪の記憶を掘り起こすのに充分過ぎる存在だった。
「みんな優しいからねー」
そう、”チームのみんな”は本当に優しい。もう何ヶ月かは数えなくなったが、変わらず彼女に見舞い品という形で思い遣りの意思を見せている。こうして心優しい人々と出会えたのも、彼女の人格に拠る物なのだろう。だからこそ。
「あなたも優しいわよ」
……貴方にそれを言わせてしまうのが、とても心苦しい。貴方が見ている私は、ただ人前に愚かな本心を晒せない私の仮面でしかないというのに。貴方の優しさが、ただ巣食われるための拠り所にしかならないというのが。
「さ、座って……話そう?」
言われるがまま、ベッド横の椅子に座る。私を見据える彼女の目は、まるで母親のように──彼女は母親のことを忘れているというのに──見えた。
一冊のノートに記された“過去”が、私の記憶に蘇る。エノラの症状、孤独症。高々2年に満たない程度の付き合いでしかない私にも、その恐ろしさはありありと伝わっていた。
例えばフィクションにおいて、記憶喪失という属性は大いにありふれている。例えば頭を打つ者、例えば過労による者、例えばトラウマによる者……いずれにせよ、大抵は一過性。それが寛解することを前提に、物語は進んでいく。
でも、彼女は違う。一定周期で記憶が失われる辛さを……私は、決して理解できないと思う。今までも……そしてこれからも。
「……どうしたの?」
「ん、ああ、なんでもないなんでもない」
「そう……なら良いんだけど」
どうやら1人勝手に思考が沈んでいたらしい。優しく心配され、違うと伝えればさっぱりと話が終わる。そういうところも彼女の魅力なのだろうか。
「今日はどんなことを話してくれるのかしら?毎日楽しみなの」
毎日、毎日。私は“私”を押し殺し、押し殺し、押し殺して貴方に言葉を紡ぐ。
「今日も色々あったんだー、例えばね…」
せめて、貴方の心を惑わせないよう。そんなことで罪が贖えるはずも無いと知っているのに。
一冊のノートに記された“過去”が、私の記憶に蘇る。エノラの症状、孤独症。高々2年に満たない程度の付き合いでしかない私にも、その恐ろしさはありありと伝わっていた。
例えばフィクションにおいて、記憶喪失という属性は大いにありふれている。例えば頭を打つ者、例えば過労による者、例えばトラウマによる者……いずれにせよ、大抵は一過性。それが寛解することを前提に、物語は進んでいく。
でも、彼女は違う。一定周期で記憶が失われる辛さを……私は、決して理解できないと思う。今までも……そしてこれからも。
「……どうしたの?」
「ん、ああ、なんでもないなんでもない」
「そう……なら良いんだけど」
どうやら1人勝手に思考が沈んでいたらしい。優しく心配され、違うと伝えればさっぱりと話が終わる。そういうところも彼女の魅力なのだろうか。
「今日はどんなことを話してくれるのかしら?毎日楽しみなの」
毎日、毎日。私は“私”を押し殺し、押し殺し、押し殺して貴方に言葉を紡ぐ。
「今日も色々あったんだー、例えばね…」
せめて、貴方の心を惑わせないよう。そんなことで罪が贖えるはずも無いと知っているのに。
取り留めもない、ただその場の空気感に身を任せるだけの会話。それでも密室に過ごす彼女にとっては新鮮な話ばかりらしく、時の流れに打ち切られるまで会話が続いていた。
「……ごめん、エノラちゃん。もう時間だ」
いくら彼女が続きを求めてくれたとしても、面会時間は絶対のルールだ。私が何やら言われる分には全くもって仕方のないことであるが、彼女がその煽りを受けるとなれば話は別。
余命いくばくかの相手でもなし、見舞い品を置いて今日この日は退散。その手筈だった。
ぽつ……ぽつ…………ざあーっ………………
「……雨、降っちゃったね」
外の景色を覆い隠す、落水のカーテン。窓の方を向いて呟きながら、そういえば見舞い品ばかりで傘を持っていないことに気付いた。病院の売店は小さく、傘は取り扱っていなかったはず。制服がズブ濡れになるのは避けられないが、まあ自業自得だし仕方がない。そう思っていたのに。
「……そうね。……もしもし? エノラですけど……」
一言。相槌を打ってから、手を伸ばしたのは病室備え付けの受話器。ナースコール越しに二言三言、それだけで話は決着したらしく。
「とりあえず雨が止むまで居ていい事になったから……」
「……すごいね」
病院のルールすら捻じ曲げる……違う、看護師さんやお医者さん、職員さん……その誰もが、エノラちゃんの頼みを聞いてあげたいと思ったのだろう。それは彼女の人徳か、或いは重ねてきた功績の賜物か。
「こんなだけど、私、無敗三冠バだからね」
……無敗三冠。歴史に名を残すほどの偉大なる存在。誰もが崇め、讃え、憧れる存在。
私とてジュニア級GⅠウマ娘ではあるが、それでも決して並び立てぬ相手。そんな彼女が、こうして私と話し、時に笑みを綻ばせ、時に心を砕いてくれる。そんな彼女に対し、私は…………
「……ごめんね、エノラちゃん……怪我させて」
無意識に口を衝いて飛び出していたのは、一切の価値もない空虚な謝罪の言葉。
今更そんなことを彼女に伝えて何になる? ただ自分の心を慰めたいがために謝っているのか? それとも彼女の今後を台無しにした、その罪悪感に押し潰されそうで吐き出したくなったのか?
十重二十重に繰り返される自問自答、しかしその問いに答えが出る機会は終ぞ訪れず。
「……ごめん、エノラちゃん。もう時間だ」
いくら彼女が続きを求めてくれたとしても、面会時間は絶対のルールだ。私が何やら言われる分には全くもって仕方のないことであるが、彼女がその煽りを受けるとなれば話は別。
余命いくばくかの相手でもなし、見舞い品を置いて今日この日は退散。その手筈だった。
ぽつ……ぽつ…………ざあーっ………………
「……雨、降っちゃったね」
外の景色を覆い隠す、落水のカーテン。窓の方を向いて呟きながら、そういえば見舞い品ばかりで傘を持っていないことに気付いた。病院の売店は小さく、傘は取り扱っていなかったはず。制服がズブ濡れになるのは避けられないが、まあ自業自得だし仕方がない。そう思っていたのに。
「……そうね。……もしもし? エノラですけど……」
一言。相槌を打ってから、手を伸ばしたのは病室備え付けの受話器。ナースコール越しに二言三言、それだけで話は決着したらしく。
「とりあえず雨が止むまで居ていい事になったから……」
「……すごいね」
病院のルールすら捻じ曲げる……違う、看護師さんやお医者さん、職員さん……その誰もが、エノラちゃんの頼みを聞いてあげたいと思ったのだろう。それは彼女の人徳か、或いは重ねてきた功績の賜物か。
「こんなだけど、私、無敗三冠バだからね」
……無敗三冠。歴史に名を残すほどの偉大なる存在。誰もが崇め、讃え、憧れる存在。
私とてジュニア級GⅠウマ娘ではあるが、それでも決して並び立てぬ相手。そんな彼女が、こうして私と話し、時に笑みを綻ばせ、時に心を砕いてくれる。そんな彼女に対し、私は…………
「……ごめんね、エノラちゃん……怪我させて」
無意識に口を衝いて飛び出していたのは、一切の価値もない空虚な謝罪の言葉。
今更そんなことを彼女に伝えて何になる? ただ自分の心を慰めたいがために謝っているのか? それとも彼女の今後を台無しにした、その罪悪感に押し潰されそうで吐き出したくなったのか?
十重二十重に繰り返される自問自答、しかしその問いに答えが出る機会は終ぞ訪れず。
──彼女と似通った、差し追込を得意とするはずの私の脚は。ただ、逃げ出すことを選択してしまっていた。
「…………?」
背後を振り返ることのないまま、思わず駆け込んでしまった密室。花を摘むというには風情のない其処から病室に戻ってきた私を出迎えたのは。
「寝てる……?」
両目を閉じた眠り姫。規則正しく胸部が上下している姿を見るに、ただ安静に過ごしているだけの様だった。罷り間違っても、何かが悪化したわけでは、ない。
念の為……誰に向けたとも思えない言い訳を胸中で繰り返しながら、頬に指を押し当てる。きめ細やかな肌は唐突な闖入者を妨げることなく、ただ力を込めたままに沈んでいく。片手で数えられない程度に回数を重ね、止める。椅子を引いて腰を下ろし、少女の顔を眺めていた。
血色は問題ないはずなのに、どこか浮世離れした雰囲気を纏う白い肌。端正な顔立ちは眠りに落ちてなお見る者を魅了し、瞳を覆う瞼の細さに儚げな希薄さが滲んでいた。
……嘆息。普段の彼女を知る私でさえ、思わず見惚れてしまうほどの相貌。髪の先から視線を下ろしていく中で、私の意識は一点に囚われていた。
「っ……」
口元、唇。入院中に化粧をする必要性が見えないということか、何も付けられていない其処は僅かに湿っていて。目が離せない。理性が揺すられる。引き出されるのは過去の記憶。私にとっては愛おしく、それでいて悲しい記憶の一幕。
背後を振り返ることのないまま、思わず駆け込んでしまった密室。花を摘むというには風情のない其処から病室に戻ってきた私を出迎えたのは。
「寝てる……?」
両目を閉じた眠り姫。規則正しく胸部が上下している姿を見るに、ただ安静に過ごしているだけの様だった。罷り間違っても、何かが悪化したわけでは、ない。
念の為……誰に向けたとも思えない言い訳を胸中で繰り返しながら、頬に指を押し当てる。きめ細やかな肌は唐突な闖入者を妨げることなく、ただ力を込めたままに沈んでいく。片手で数えられない程度に回数を重ね、止める。椅子を引いて腰を下ろし、少女の顔を眺めていた。
血色は問題ないはずなのに、どこか浮世離れした雰囲気を纏う白い肌。端正な顔立ちは眠りに落ちてなお見る者を魅了し、瞳を覆う瞼の細さに儚げな希薄さが滲んでいた。
……嘆息。普段の彼女を知る私でさえ、思わず見惚れてしまうほどの相貌。髪の先から視線を下ろしていく中で、私の意識は一点に囚われていた。
「っ……」
口元、唇。入院中に化粧をする必要性が見えないということか、何も付けられていない其処は僅かに湿っていて。目が離せない。理性が揺すられる。引き出されるのは過去の記憶。私にとっては愛おしく、それでいて悲しい記憶の一幕。
どこぞの愚か者が、少女の夢を壊した瞬間から何日経った時だったか。腕を固定するギプスに浅ましくも罪悪感を抱いていたその最中、唐突に唇を奪われて……ファーストキス、私のような小娘には縁のない物だと思っていたが。いざその時を迎えると、脳は存外混乱してしまうんだなと後から思い返せる。
……不思議と、嫌ではなかった。過去のこともあって、異性との交遊という事象を想像出来なかったのもあるだろうけれど。身の回りに容姿端麗な少女が多く、きっかけは辺り一体に転がっていたのだとしても。
あの哀しい味は、虚しく切なく苦しい味は、最初から否定しようなんて気持ちになれなかった。私に対して、これだけ良くしてくれる少女の。大切な記憶を失ってなお、私のことを覚えてくれていた少女の。……そんな愚か者を愛してしまった少女からの唇を、愛を、哀を、私は受け入れることしか出来なかったんだから。
「ごくっ……」
気が付けば、顔が熱を持っているのが分かる。彼女は深く寝入っている、周囲に他者の気配は存在しない、だから取り繕う必要など何処にもないのに。思考か精神か本能か、いずれか或いは全てが狂っている。焦がれている、彼女に対して。
あまりにも、時が間伸びしたような感覚。肉体のあらゆる場所に汗が滲み、響き渡る心臓の重低音が不快極まりない。
少しずつ、少しずつ。あの時の意趣返しのように、私は彼女に近付いていって……
「ん、んん……」
「はっ……! はっ、はっ……はぁ……」
寝返りという唯の肉体反応だけで、冷や水を掛けられたように思考は冷静さを取り戻す。万が一にも事故が起こらないようにか、本能は全身を引いて彼女から離れていた。
「何やってるんだ、私……」
私が、彼女に対して、そんな感情を持っている? 本当に? そんなこと分かってないはずなのに?
……そう、これは一時の気の迷い。彼女を前に罪悪感が胸を裂いて、思考を掻き乱しているだけ。ただでさえ愚かな私が、これ以上彼女を傷つけるというのなら。それは、つまり。
……椅子を動かして壁に背を付き、そのまま両目を閉じる。この距離は、私が彼女に示す精一杯の謝意。ごめんなさい、貴女だけはどうか良い夢を。
脳が悲鳴を上げていたのは事実だったようで、こんな姿勢ですら私の肉体は早々に眠りへ落ちていくのであった……
……不思議と、嫌ではなかった。過去のこともあって、異性との交遊という事象を想像出来なかったのもあるだろうけれど。身の回りに容姿端麗な少女が多く、きっかけは辺り一体に転がっていたのだとしても。
あの哀しい味は、虚しく切なく苦しい味は、最初から否定しようなんて気持ちになれなかった。私に対して、これだけ良くしてくれる少女の。大切な記憶を失ってなお、私のことを覚えてくれていた少女の。……そんな愚か者を愛してしまった少女からの唇を、愛を、哀を、私は受け入れることしか出来なかったんだから。
「ごくっ……」
気が付けば、顔が熱を持っているのが分かる。彼女は深く寝入っている、周囲に他者の気配は存在しない、だから取り繕う必要など何処にもないのに。思考か精神か本能か、いずれか或いは全てが狂っている。焦がれている、彼女に対して。
あまりにも、時が間伸びしたような感覚。肉体のあらゆる場所に汗が滲み、響き渡る心臓の重低音が不快極まりない。
少しずつ、少しずつ。あの時の意趣返しのように、私は彼女に近付いていって……
「ん、んん……」
「はっ……! はっ、はっ……はぁ……」
寝返りという唯の肉体反応だけで、冷や水を掛けられたように思考は冷静さを取り戻す。万が一にも事故が起こらないようにか、本能は全身を引いて彼女から離れていた。
「何やってるんだ、私……」
私が、彼女に対して、そんな感情を持っている? 本当に? そんなこと分かってないはずなのに?
……そう、これは一時の気の迷い。彼女を前に罪悪感が胸を裂いて、思考を掻き乱しているだけ。ただでさえ愚かな私が、これ以上彼女を傷つけるというのなら。それは、つまり。
……椅子を動かして壁に背を付き、そのまま両目を閉じる。この距離は、私が彼女に示す精一杯の謝意。ごめんなさい、貴女だけはどうか良い夢を。
脳が悲鳴を上げていたのは事実だったようで、こんな姿勢ですら私の肉体は早々に眠りへ落ちていくのであった……
「……ここは、どこ?」
目が覚めると、広がっていたのは一面の黒闇。数刻前まで寝台に身を預けていたはずの私は、しかし確かに自分の両脚で立っていて。ここに居ても仕方がないと思い、周囲を彷徨ってみようと思ったのだが……
「んんっ……なに、これ……っ」
ただでさえ、平衡感覚を失いそうなくらいの暗闇だ。ここが何処なのか、そもそも自分が何処にいるのか、相対的にも絶対的にも理解が追いつかない。しかも、歩を進めようとしたところで、足首に絡み付いてくる何かが私の自由を妨げる。当然、足元に広がるのも黒洞々たる闇だけ。
足だけでなく心にも這いずって来る恐怖に抗いながら、それでも前へ前へと進んでいると……黒一色の空間に、白く佇む何かの存在を認めた。
鍔と柄を持ち、それでいて切先が鋭いかと言われればそんなことはなく。むしろ矩形と評するに相応しい其れは……しかし剣と呼ぶに相応しい存在だった。
視線が吸い寄せられる。心が惹かれ、腕が伸びる。この空間にとって凡そ異物と呼ぶべき存在の私……その手に、同じく異物たる剣は驚くほど馴染んだ。
「ふっ……!」
一息、一閃。武器なんて触ったこともないはずなのに、手に伝わってくる感覚は私に刃の振り方を教えてくれる。脚に絡み付いた何かを切り払い、切り離し、切り落とす度、私の心中に安堵と愉快の感情が広がっていく。開放感に包まれる。
ふと、足元を覗いてみた。漆黒の闇に包まれて見えなかった地面、それが剣の輝きに照らされて。私の視界に飛び込んできたのは。床一面を、覆って、いた、のは。
「ひあっ……いや、いやあっ!!」
……手。手、手、手。無数の手が。地面から。ただ一人の、私の、私の脚に、私へ伸ばして、握って掴んで開いて閉じて溢れて溢れて蠢いて震えて這い擦って摘んで離して。
「来ないでっ!! いやっ!!」
狂乱、その一言で事足りたと思う。剣を持ち直し、力任せに床へ何度も何度も何度も何度も突き刺して。ざくざくと肉を切り骨を砕く感触が気持ち悪い。
飛び散る赤色の幻覚が、誰かが綺麗だと褒めてくれた黒髪の誇りさえ汚していく。それでも、波のように向かってくる大量の手に、何時しか疲労は溜まり精根も尽き果てて。ほんの数刻前まで逆らっていた手の海へ、静かにへたり込んだ。
足だけに留まらず。太腿、脹脛、腰……手が伸びる範囲はどんどん広がっていく。さっきまでの私だったら、きっと気持ち悪いって抵抗していたんだろう。けれど、今となっては、そんな嫌悪感さえ薄れ。どこか懐かしいような暖かさに包まれて。掌から剣が滑り落ちる。
……ふと、気になって。足を触っている手を掴み、勢い良く引き上げてみた。そうして引き上げられた、手の持ち主は。引き上げ、られた、のは。
「……ふ……ら、り……ん……?」
呆然。あり得ない光景に、胸の奥が冷え切っていく感覚。気付けば、逆の手にも力が籠り、もう一対の手を引き上げていた。
「から、れ……す」
……世界に、光が満ちる。不意の光景に目が細められ、次に前を見開いた瞬間、眼前に広がっていたのは……見知った顔。
「う……そ……」
眼鏡を掛けて凛とした白髪の顔。茶髪の髪を垂らした瓜二つの顔。薄紫の髪が緩やかに広がる優し気な顔。焦茶色の髪は短く揃えられて団子を結び。燃えるような炎に奇妙な片眼鏡。緑色の草原に王冠を重ねれば。夜の空を想起させるような黒紫と白い星。他にも。他にも、他にも他にも他にも……見知った、顔。
「ねえ……あなた達は、誰なの?」
手が、剣へ伸びていた。力なく柄を掴み取ると、刃先をゆるりと自分へ向ける。引き摺り上げられた手が、その剣先を掴んで。それすら邪魔だと思いながら……掴まれた手ごと、切先を自分の喉めがけて突き立てた。
目が覚めると、広がっていたのは一面の黒闇。数刻前まで寝台に身を預けていたはずの私は、しかし確かに自分の両脚で立っていて。ここに居ても仕方がないと思い、周囲を彷徨ってみようと思ったのだが……
「んんっ……なに、これ……っ」
ただでさえ、平衡感覚を失いそうなくらいの暗闇だ。ここが何処なのか、そもそも自分が何処にいるのか、相対的にも絶対的にも理解が追いつかない。しかも、歩を進めようとしたところで、足首に絡み付いてくる何かが私の自由を妨げる。当然、足元に広がるのも黒洞々たる闇だけ。
足だけでなく心にも這いずって来る恐怖に抗いながら、それでも前へ前へと進んでいると……黒一色の空間に、白く佇む何かの存在を認めた。
鍔と柄を持ち、それでいて切先が鋭いかと言われればそんなことはなく。むしろ矩形と評するに相応しい其れは……しかし剣と呼ぶに相応しい存在だった。
視線が吸い寄せられる。心が惹かれ、腕が伸びる。この空間にとって凡そ異物と呼ぶべき存在の私……その手に、同じく異物たる剣は驚くほど馴染んだ。
「ふっ……!」
一息、一閃。武器なんて触ったこともないはずなのに、手に伝わってくる感覚は私に刃の振り方を教えてくれる。脚に絡み付いた何かを切り払い、切り離し、切り落とす度、私の心中に安堵と愉快の感情が広がっていく。開放感に包まれる。
ふと、足元を覗いてみた。漆黒の闇に包まれて見えなかった地面、それが剣の輝きに照らされて。私の視界に飛び込んできたのは。床一面を、覆って、いた、のは。
「ひあっ……いや、いやあっ!!」
……手。手、手、手。無数の手が。地面から。ただ一人の、私の、私の脚に、私へ伸ばして、握って掴んで開いて閉じて溢れて溢れて蠢いて震えて這い擦って摘んで離して。
「来ないでっ!! いやっ!!」
狂乱、その一言で事足りたと思う。剣を持ち直し、力任せに床へ何度も何度も何度も何度も突き刺して。ざくざくと肉を切り骨を砕く感触が気持ち悪い。
飛び散る赤色の幻覚が、誰かが綺麗だと褒めてくれた黒髪の誇りさえ汚していく。それでも、波のように向かってくる大量の手に、何時しか疲労は溜まり精根も尽き果てて。ほんの数刻前まで逆らっていた手の海へ、静かにへたり込んだ。
足だけに留まらず。太腿、脹脛、腰……手が伸びる範囲はどんどん広がっていく。さっきまでの私だったら、きっと気持ち悪いって抵抗していたんだろう。けれど、今となっては、そんな嫌悪感さえ薄れ。どこか懐かしいような暖かさに包まれて。掌から剣が滑り落ちる。
……ふと、気になって。足を触っている手を掴み、勢い良く引き上げてみた。そうして引き上げられた、手の持ち主は。引き上げ、られた、のは。
「……ふ……ら、り……ん……?」
呆然。あり得ない光景に、胸の奥が冷え切っていく感覚。気付けば、逆の手にも力が籠り、もう一対の手を引き上げていた。
「から、れ……す」
……世界に、光が満ちる。不意の光景に目が細められ、次に前を見開いた瞬間、眼前に広がっていたのは……見知った顔。
「う……そ……」
眼鏡を掛けて凛とした白髪の顔。茶髪の髪を垂らした瓜二つの顔。薄紫の髪が緩やかに広がる優し気な顔。焦茶色の髪は短く揃えられて団子を結び。燃えるような炎に奇妙な片眼鏡。緑色の草原に王冠を重ねれば。夜の空を想起させるような黒紫と白い星。他にも。他にも、他にも他にも他にも……見知った、顔。
「ねえ……あなた達は、誰なの?」
手が、剣へ伸びていた。力なく柄を掴み取ると、刃先をゆるりと自分へ向ける。引き摺り上げられた手が、その剣先を掴んで。それすら邪魔だと思いながら……掴まれた手ごと、切先を自分の喉めがけて突き立てた。
──そこからの記憶は無い。
「ぁ……はぁ、はぁっ……!」
跳ね上がったのは、私自身の上半身。身体に掛かる重みを超えて、直角に佇む自らを認めて、思わず周囲を見回した。爽やかな青空も切なげな紅空も既に失われ、紫藍の静謐が刻を告げる。とうの昔に、雨は止んでいたらしい。
ふと、瞳が吸い寄せられる感覚。頭を少し下げてみれば、腹部に感じた暖かさの正体。艶やかな黒色のシルエットが、私の肉体に寄り掛かり覆い被さっていた。
「……ふぅ…………」
胸中に浮かんでいた焦燥感を、ゆっくりと吐いた息に乗せ、少しずつ流す。自由な方の片手で、少女の頭を撫でる。髪の流れるに従って、頂点から首元まで。さらり、さらり。しっとりと、指先から掌まで伝わる彼女の体温。手を動かしているのは私の方なのに、暖かな熱が私の心を撫でてくれているようで。
名残惜しくも、髪から手を退けて、今度は背中に。接触面積の増加、それだけでは説明が付かない温度と多幸感。少しだけ手を離しては乗せ、離しては乗せ。とんとん、とんとん。私より少しだけ背の低い、けれど年と性を鑑みれば大柄な彼女の背は、しかし幼子をあやす最中のような気分を齎して。少女の名前を心中で繰り返し、掌の中に暖かな感情を乗せる。
「ん…………」
不意に。カラレスの顔が、こちらを向いた。微睡の海に漂う彼女は、未だ眠りから覚めること叶わずと。閉じられたままの瞼を隔てて、少女の瞳を見つめる。そこから、少しずつ視線を下ろしていく。
整った鼻筋の曲線を越え、押し当てられた自らの腕に赤らんだ鼻頭を超えて。静かな寝息を立てる彼女の……カラレスの、唇が目に入る。
あの、運命の一日。自らへの嫌悪と慚愧、激情に駆られて苦しんでいた彼女を止めるために奪ったのは、人生で一度きりの大切な思い出。いくら彼女の為を思っていたと言っても、唐突に唇を塞いでしまったことは、今も謝りたいと思っている、けれど。
彼女の「生」を孕んだ味が、とても鈍くて、とても柔らかくて……とても、とてもとても美味しくて。いつからか私の心に影を落としたのは、彼女の、カラレスの「生」を欲しいという思い。
忘れられていき、欠け落ちていき、死に続けている私でも。彼女の中では生き続けられるというのなら。それを許容してくれる場所が、あるというのなら……
キミに、なりたい。キミと、ひとつに、なりたい。
気付けば、私の心は身体を衝き動かして。上体を起こし、カラレスの顔に、私の顔を近付ける。本当は、許されることじゃないと分かっているけれど。どうか、もう一度だけ、あの味が欲しい。
固定具の束縛なき片手、彼女の身体を優しく撫でていた手を、綺麗な顔に載せる。ほんの少しだけ顔を持ち上げて。目線を合わせる。私と彼女は、同じ高さまで。少しずつ迫っていく、互いの距離。私の視界を埋め尽くす、黒髪の眠り姫。その間隙が融解し、互いの全てが零に堕ちて交わり合って…………
跳ね上がったのは、私自身の上半身。身体に掛かる重みを超えて、直角に佇む自らを認めて、思わず周囲を見回した。爽やかな青空も切なげな紅空も既に失われ、紫藍の静謐が刻を告げる。とうの昔に、雨は止んでいたらしい。
ふと、瞳が吸い寄せられる感覚。頭を少し下げてみれば、腹部に感じた暖かさの正体。艶やかな黒色のシルエットが、私の肉体に寄り掛かり覆い被さっていた。
「……ふぅ…………」
胸中に浮かんでいた焦燥感を、ゆっくりと吐いた息に乗せ、少しずつ流す。自由な方の片手で、少女の頭を撫でる。髪の流れるに従って、頂点から首元まで。さらり、さらり。しっとりと、指先から掌まで伝わる彼女の体温。手を動かしているのは私の方なのに、暖かな熱が私の心を撫でてくれているようで。
名残惜しくも、髪から手を退けて、今度は背中に。接触面積の増加、それだけでは説明が付かない温度と多幸感。少しだけ手を離しては乗せ、離しては乗せ。とんとん、とんとん。私より少しだけ背の低い、けれど年と性を鑑みれば大柄な彼女の背は、しかし幼子をあやす最中のような気分を齎して。少女の名前を心中で繰り返し、掌の中に暖かな感情を乗せる。
「ん…………」
不意に。カラレスの顔が、こちらを向いた。微睡の海に漂う彼女は、未だ眠りから覚めること叶わずと。閉じられたままの瞼を隔てて、少女の瞳を見つめる。そこから、少しずつ視線を下ろしていく。
整った鼻筋の曲線を越え、押し当てられた自らの腕に赤らんだ鼻頭を超えて。静かな寝息を立てる彼女の……カラレスの、唇が目に入る。
あの、運命の一日。自らへの嫌悪と慚愧、激情に駆られて苦しんでいた彼女を止めるために奪ったのは、人生で一度きりの大切な思い出。いくら彼女の為を思っていたと言っても、唐突に唇を塞いでしまったことは、今も謝りたいと思っている、けれど。
彼女の「生」を孕んだ味が、とても鈍くて、とても柔らかくて……とても、とてもとても美味しくて。いつからか私の心に影を落としたのは、彼女の、カラレスの「生」を欲しいという思い。
忘れられていき、欠け落ちていき、死に続けている私でも。彼女の中では生き続けられるというのなら。それを許容してくれる場所が、あるというのなら……
キミに、なりたい。キミと、ひとつに、なりたい。
気付けば、私の心は身体を衝き動かして。上体を起こし、カラレスの顔に、私の顔を近付ける。本当は、許されることじゃないと分かっているけれど。どうか、もう一度だけ、あの味が欲しい。
固定具の束縛なき片手、彼女の身体を優しく撫でていた手を、綺麗な顔に載せる。ほんの少しだけ顔を持ち上げて。目線を合わせる。私と彼女は、同じ高さまで。少しずつ迫っていく、互いの距離。私の視界を埋め尽くす、黒髪の眠り姫。その間隙が融解し、互いの全てが零に堕ちて交わり合って…………
ああ、この味だ。この味で……私の代わりに、私を、生かして。
「んん……ふぁぁ……」
気が付けば、しっかりとっぷり眠りに沈んでいた自らを、嫌が応にも認識させられてしまって。エノラに覆い被さって寝ていた、その事実に思い至るよりも、身体が跳ね上がる方が先だった。
「おはよう、カラレス」
「お、おはよう……エノラちゃん」
部屋の主の声。言葉を交わしつつ、意識と身体が目覚めに向かっていくのを実感する。少し立った両耳が外の音を拾うことはなく、それでようやっと雨が上がったことに気付いた。
「ん……?」
ふと、背中に少しばかりの違和感、それとなく椅子の背で背中を擦ってみる、奇妙な感覚を落とすかのように。
「雨、止んだみたいね」
「だね」
それはつまり、互いの約定を果たす時。私達を引き留めていた雨雲の魔法は、既に効力を失って。無彩の灰に被れた小娘は、在るべき場所へ帰らなければならない。
「じゃあ、もう帰るね。また今度ね」
お決まりの言葉に、少しだけ影が差す。来るかも知らないのに告げた「今度」は、相も変わらず自己満足の贖罪なの?
「うん、また今度」
借りていた椅子を立ち、去ろうとした中で……引っ張られたのは、服の裾。
「どうしたの?」
他ならぬ彼女が、私の服を指先で摘み。微動だにしない全身の中で、口だけは言葉を紡いでいた。
「あなたの、名前。……言ってくれないかしら」
「カラレスミラージュ、だけど……」
彼女の意図を解せぬまま、ただ小首を傾げて自らの名を発する。たったそれだけで、子供のように口角を上げる姿を見た。
「……うん、ありがとう。ごめんね、引き止めて」
「いやいや、大丈夫だよ? それじゃあ、ね」
軽く手を振り、足を進める。病室の外で、ドアのバーに手を掛けた。……病室の中と、病室の外。この扉を閉めてしまえば、私と彼女の間も隔てられる。それはつまり、さようならというだけの話だけど。
「じゃあね、エノラ」
淡々と告げた声は、きっと多分、届いていなかったはず。今度こそ扉を閉め、エントランスまで歩みを進める──背中と一緒に、もう一つだけ感じていた違和感へと思いを馳せて。
「………………まさかね?」
指先で、唇をなぞるように。目が覚めた瞬間感じていた温かさは、きっと毛布のものだったのだろうと。そう思うことにして、私は階段を下りた。
気が付けば、しっかりとっぷり眠りに沈んでいた自らを、嫌が応にも認識させられてしまって。エノラに覆い被さって寝ていた、その事実に思い至るよりも、身体が跳ね上がる方が先だった。
「おはよう、カラレス」
「お、おはよう……エノラちゃん」
部屋の主の声。言葉を交わしつつ、意識と身体が目覚めに向かっていくのを実感する。少し立った両耳が外の音を拾うことはなく、それでようやっと雨が上がったことに気付いた。
「ん……?」
ふと、背中に少しばかりの違和感、それとなく椅子の背で背中を擦ってみる、奇妙な感覚を落とすかのように。
「雨、止んだみたいね」
「だね」
それはつまり、互いの約定を果たす時。私達を引き留めていた雨雲の魔法は、既に効力を失って。無彩の灰に被れた小娘は、在るべき場所へ帰らなければならない。
「じゃあ、もう帰るね。また今度ね」
お決まりの言葉に、少しだけ影が差す。来るかも知らないのに告げた「今度」は、相も変わらず自己満足の贖罪なの?
「うん、また今度」
借りていた椅子を立ち、去ろうとした中で……引っ張られたのは、服の裾。
「どうしたの?」
他ならぬ彼女が、私の服を指先で摘み。微動だにしない全身の中で、口だけは言葉を紡いでいた。
「あなたの、名前。……言ってくれないかしら」
「カラレスミラージュ、だけど……」
彼女の意図を解せぬまま、ただ小首を傾げて自らの名を発する。たったそれだけで、子供のように口角を上げる姿を見た。
「……うん、ありがとう。ごめんね、引き止めて」
「いやいや、大丈夫だよ? それじゃあ、ね」
軽く手を振り、足を進める。病室の外で、ドアのバーに手を掛けた。……病室の中と、病室の外。この扉を閉めてしまえば、私と彼女の間も隔てられる。それはつまり、さようならというだけの話だけど。
「じゃあね、エノラ」
淡々と告げた声は、きっと多分、届いていなかったはず。今度こそ扉を閉め、エントランスまで歩みを進める──背中と一緒に、もう一つだけ感じていた違和感へと思いを馳せて。
「………………まさかね?」
指先で、唇をなぞるように。目が覚めた瞬間感じていた温かさは、きっと毛布のものだったのだろうと。そう思うことにして、私は階段を下りた。
あとがき
(エノ中)なんとなしに思いついてカラ中と掛け合い、ついに書ききることができました!私は地の文を担当しましたので、話の構成に不備や不満があれば私に文句言ってください。
約三か月かけて(長すぎ)完成したこの文は、私にとっても大きな意味がありました。
それでは、私はこの辺で。
約三か月かけて(長すぎ)完成したこの文は、私にとっても大きな意味がありました。
それでは、私はこの辺で。
(カラ中)縁あってアレンジを担当させていただきました! 文量とか演出について何かあれば大体私です。エノ中さんから面白い企画を提案いただき、楽しくアレコレさせていただいた形です!
「合作」を行ったのは現実世界の2人の事か、或いは、作中の少女達もひょっとしたら。そんな本作をお楽しみいただけたなら幸いです。
「合作」を行ったのは現実世界の2人の事か、或いは、作中の少女達もひょっとしたら。そんな本作をお楽しみいただけたなら幸いです。