本編
+ | プロローグ |
レースが始まる前、観客席から離れた場所にあるゲート裏にて、束の間の静寂に目を閉じそっと体を預ける。緯度が幾分高いせいか、東京よりは肌寒さを感じるけど、それもレースが始まれば私たちについてくることは叶わない。だってゲートが開いた瞬間、この18人、そしてスタンドにいる大勢の観客の熱にあてられて出遅れてしまうから。
「芝の状態は……よし。これなら大丈夫」
瞼を開き、二度、三度と足踏みをする。ザクザクと気持ちいい音を立てた足元を見ると、緑色の綺麗な芝が背丈を合わせて生え揃っていた。硬すぎず、かといって柔らかすぎない良好な様子、日本では良バ場、英語ではgoodと呼ばれるほどの適度なコース状態。まさに世界一を決めるにふさわしい舞台が準備された。
「綺麗な空……雨降らなくてよかったな」
日本のウマ娘たちがこのレースに苦戦する原因として挙げられるのが、雨によってもたらされるバ場状態の悪化。アップダウンが激しいコース形態や日本と異なる芝に慣れることができても、その経験値を一気に奪い去ってしまう雨は、私たちにとって逆風と、現地のウマ娘にとっては追い風となってしまう。それが珍しいことに、今日みたいな雲ひとつない晴れ模様が何日も続いた。これを恵みの太陽と呼ぶ以外になんと言おうか。
首を少し下げ、遠く観客席へと目線を向ける。こちらでは社交場としても利用されることから、ほぼ全員が今からパーティーでもするかのように着飾っている。ゲートからは遠く離れているせいでおぼろげにしか見えないけれど、あの中でトレーナーはじっと待ってくれている。私が一番にゴールを駆け抜けるところを静かに。
「お姉さま。どうかされましたか?」
「ううん、なんでも。勝負服、似合ってるね」
ぼーっとしていると思われたのか、離れた場所にいたはずの彼女から声をかけられた。私に普段から友人以上の視線を向ける彼女のことだから、さっきまでの仕草を見て違和感を覚えたのかもしれない。
「ありがとうございます……私(わたくし)もこの舞台で勝利するために参りました。例えお姉さまが相手でも先頭は譲りません。夢、叶えてみせます」
「……うん、よろしくね」
心配してくれたのかと思ったら、実はそうではなかったらしい。真正面からの宣戦布告、同室の彼女も今は栄冠を目指すライバルということを忘れちゃいけない。
「ボクも負けないから。姉さんに並んで超えるためにも、絶対に」
「おいおい、このオレを差し置いて世界の覇権を掴もうなんて話、してんじゃねえだろうな?」
そんな私たち2人の輪に入ってきたのは同学年、同世代のライバルたち。私よりも世界でのレース経験が上な両名は紛うことなき強敵。侮るなんて最初から考えてはいけない相手。
「歓喜と祝福の雨を浴びるのはこのボクだから」
「勝利の美酒を味わうのはオレに決まってるだろ?」
ジュニアの頃から幾度となくぶつかってきた相手。最後に背中を見せたこともあれば、後塵を拝したことも幾度とある。それでいてレース以外ではよき友人として勉強を教えあったり、一緒にお出かけに行ったりもした。ぶつかったこともあったけど、今では2人とも胸を張って誇れる親友たちだ。
「今日、夢の先の景色を見るのは私だから」
けれど負けない、負けたくない。この大舞台で最後に先頭を走っているのは私、栄光を手にするのは私、絶対にそれは譲らない。
「勝つよ、ボクは」
「ハッ、言ってろ」 「最後まで背中を見せ続けますから」
その言葉を最後に4人は散らばり、それぞれのゲートへと歩を進める。
(もっと夢の先の景色を見たい。トレーナーと一緒に)
この場に来るまで一体どれほどの月日が経っただろう。夢の中で出会った私たちは2人手を繋ぎ、一歩ずつ一歩ずつ歩み続けてきた。笑ったり泣いたり、嬉しかったり悲しかったり、2人でたくさんの時間を過ごしてきた。後ろを振り返ると一つ一つの見える蹄跡。どれもこの舞台に立つために積み重ねてきた大切な一歩。だから、
(絶対に、勝つ)
ゲートの中で大きく息を吸い込み、そして吐き出す。緊張はしていいけどしすぎては駄目。これもいい緊張感をキープするための大事なピース。
『さあ、舞台は整いました。世界一を決めるこの大舞台に集ったのは精鋭18名。その中に世界の頂に立たんとする日本のウマ娘が4人、静かにスタートを待ちます』
枠入りは順調で、もう最後の1人がゲートに収まろうとしていた。
『そして最後の1人がゲートに入り、態勢完了して……』
私は今。
『──回凱旋門賞』
夢の先へ。
『スタートしました!』
一歩を踏み出す。
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第1章(デビュー前編)
+ | 第1話 |
「はぁ……はぁ……くっ!」
一体自分は何を思い上がっていたのだろうか。名家に生まれ、難関と言われる中央トレセン学園にも軽々と入学できたのなら、野良レースなど楽勝できるなどと楽観視していた数十分前の己の頬を張っ倒してやりたい気分だ。今の私はご令嬢でもなく、未来の有望株でもなんでもない、ただ惨めに芝に両手と両膝をつけた愚か者にすぎない。
「なあ、お嬢様さん? 早く本気とやらを見せてくれねえか? もしかして今のが本気だったなんて、言わねえよなあ!?」
頭上から響いた声は、遠回しに『早く敗北を認めろ』というもの。それもそのはず、向こうの立場からすれば見たこともない子どもから『勝てばここから出ていって』なんていきなりふっかけられたのだから、早く追い出したいに決まっている。
「はぁ……はぁ……当たり前でしょ? 早く次のレースの準備を……あっ!?」
立ち上がろうと力を脚にこめるがうまくいかない。これまでこんなことなかったのに……!
「肩を貸してやってもいいぜ? お前さんが白旗振って、オレたちの邪魔をした罪を償ってくれるのならなあ?」
邪魔。そう、私がしたことはただただこの人たちに迷惑をかけただけ。例えるなら一家団欒の夕食どきに押しかけるセールスマン、もしくは盛り上がっているカラオケで暗いバラードを歌うKY。いくら腕試しだ道場破りだといって乗り込んだとしても、勝ち負けまで持っていくのが挑戦者としての最低限の義務だろう。それが2戦続けての惨敗となれば、白ける以上に腹ただしい。そんな観衆の視線が槍のごとく私の体を刺し穿つ。これ以上は、もう、耐えられない。口にしたくはなかった。聞きたくもなかった。当たり前だ、自分のプライドを惨めに哀れに粉々に打ち砕く行為に他ならないのだから。
「は、敗北を認めま……」
肩に置かれた手を振り払う余裕もないまま、喉にへばりついていた10個の音を剥がしかけた瞬間、
「ねえ、その子に何してるの?」
──長い黒髪をなびかせた女神が姿を現した。
─────
「なんだてめえ? もしかしてこいつの知り合いか?」
私の肩から手を外し、つかつかと歩いていく背中を目で追うと、自然に相手の女神、いやウマ娘の容姿が視界に入る。身長は私より一回り大きく、体型も出ているところは出ていて、締まっているところはしっかり締まっている抜群のプロポーション。ただそれ以上に目を見張るのが堂々とした立ち振る舞い。見ず知らずの風貌や醸し出す雰囲気もあまりよろしくない相手に対しても、全く物怖じすることなく真正面から向かい合っている。隣には若い男性の姿も見えた。
「ふぅ……」
ようやく息が整い、膝に力も入るようになった。それでも転んでこれ以上の恥を晒さないためにも、時間をかけて上体を起こし、片方の足で地面を捉える。そしてまるでロボットのように、ゆっくりと両足で芝を踏みしめ背筋を伸ばして立ち上がった。
「……分かった。後悔すんなよ?」
「大丈夫。負けないから」 「ハンッ! 言ってろ!」
私が立っている間になにやら話は成立し、2人がスタート地点へ向かっていった。私はレースの邪魔にならないようコースの外に出て、先ほどまでウマ娘の隣にいた男性の横にその身を収めた。
「大丈夫? 暴力を振るわれたりしてない?」
「ええ、大丈夫です。それよりあの方は?」
自分より頭一つ以上大きいはじめましての男に話しかけられ微妙に体が震えるも、優しい声色と心配そうな顔からは攻撃性を感じ取れなかったので、そっと胸を撫で下ろし言葉を返す。私の返答に彼もホッとしたようで、肩から力が抜けるのが目に見えて分かった。
「よかった。あの子はオレの担当なんだ。まだ暫定、だけど」
「そうなのですね。ということは貴方はトレセン学園のトレーナー?」 「うん、そうだよ。まだまだ新人だけどね」
なるほど、ならば合点がいく。デビュー前のウマ娘にトレーニングをつけることもよくある話みたいだから、この2人もきっとそういうことなのだろう。すなわち目の前の彼女は私にとっての先輩。より敬意を持って接さなくては。そう背筋に1本線を通し、顔と気を引き締め彼女の姿を静かに見つめる。ウォーミングアップは既に済ませていたのか、スタート位置に立ち、レースが始まるのを今か今かと待ち構えていた。
『さあさあ皆さんお待ちかね! 当レース場が誇るエース、サンダーコマンダーと、突如飛び込んできた謎のウマ娘の対決だ!』
小さい頃から散々見てきたトゥインクルシリーズのレースのものとは異なるDJ風の実況。今から音楽フェスでも始まるかのような煽りは、荒れていた観衆を今から始まる熱いレースへと引きずりこんでいく。負けた言い訳とするにはみっともなく恥ずかしいが、私自身この雰囲気に呑み込まれていた部分は確かにあった。ただそれ以上の敗北を叩きつけられた以上、仮に我が家のトレーニングコースで勝負していても負けていたことだろう。
『コースは左回り2000m! ちょうどコースを一周したらフィニッシュ! 簡単だろ?』
実況の呼びかけにますますヒートアップする観客たち。自身が走る立場であればただただプレッシャーにしかならなかったが、1人の観客として見てみると確かにこれは盛り上がるなとはっきり理解した。そんな熱狂の中で謎のウマ娘は冷静にその瞬間を待っていた。
『さあ2人の準備が整った! それじゃお前らも一緒にカウントダウンしようぜ! いくぞ!』
実況の呼びかけに観客は大歓声で応える。
『『5! 4! 3! 2! 1!』』
私は静かに祈る。勝って、と。
『スタート!』
──そしてレースが始まる。みんなの想いを乗せて。
─────
『さあレースが始まった! おっとやはり我らがエース、サンダーコマンダーが前に立った! 挑戦者はその2バ身ほど後ろで前の様子を窺っているぞ!』
序盤は私の時と同じレース展開。相手の動きが分からない以上、下手に前に行くのはやめた方がいい。だから私もいつもと違って後ろでじっくり脚を溜めていた。ただ……
『──1000mの通過は62秒! これはさっきのレースと同じ展開だ! このまま3連勝なるか!』
先行しつつも道中絶妙にペースを落とし、最後二の脚、三の脚を使って逃げ切る。見た目は不良そのものなのに、用いるテクニックは巧妙そのもの。トレセン学園を退学したといっても、彼女のその脚力と技術はトゥインクル・シリーズで走っているウマ娘たちと遜色はなかった。それが分かっていれば挑戦を躊躇していたのにと奥歯を噛む。ただいくら悔やんでも後の祭り。今私にできることは、すんでのところで救ってくれた彼女を応援することのみ。
『──さあまもなく残り800m! レースもいよいよ終盤戦だ! サンダーコマンダーがこのまま逃げ切るか!』
ああ、スクリーンに映し出された先頭のウマ娘はスタート前と変わらず余裕の笑みを浮かべている。後ろとの差は縮まっておらず、彼女にとっての理想的な展開。観客も含め、既に勝ったあとのことを考えていてもおかしくない。
「……行け」
──この『隣人』と彼女以外は。
─────
「こ、これは……!?」
残り800m、彼の言葉と呼応するかのように世界が塗り替えられる。観客が消え、コースが消え、そして音が消え……
──目の前に残ったのは楽しそうに走る彼女の姿だけだった。
『さあ残り600m! ここでサンダーコマンダーが一気に突き放s……おい! これは一体どういうことなんだ!?』
第4コーナーに差し掛かる。私の時はここで差を開かれ、最後まで詰めることは叶わなかった。ただ彼女の場合は……
「うん、それでいい」
私たちの目の前で煌めくのは流星か、はたまた箒星か。未知の輝きに観衆は息を呑み、閃光が走るさまをただ目で追うのみ。結果はもう──
『──な、なんと……挑戦者が先頭でゴールイン! サンダーコマンダー敗れる! これは波乱の決着だ!』
──見るまでもなかった。
─────
観衆のざわめきは収まらず、レース場は困惑や興奮、熱狂や歓喜……多種多様な感情が渦巻くサラダボウルと化していた。そんな坩堝の中、勝者がこちらへとゆっくり歩いてきた。額には汗が流れ、多少の息切れはあるものの、その表情から笑顔が剥がれ落ちることはついぞなかった。
「お疲れさま、それとおめでとう」
「ありがと。ちょっと疲れちゃった」 「はい、スポドリ。レース後のストレッチも忘れずにな」 「はーい」
目の前で交わされる会話を前に1人佇む私。勝ってくれてありがとうという感謝、自分のために走らせてごめんなさいという謝罪、そしておめでとうという称賛の思いが無秩序に絡まりあい声が出ない。とにかく何か言わないとと考えて発した言葉は、まるで意味をなさない母音の2文字だった。
「あぅ……」
「ん? どうしたの? ってごめんね、勝手に入ってきた上に勝手に走っちゃって」
困っている人がいたらつい、と手を合わせて私へ謝罪する彼女。違う、そうじゃない、謝るのは私の方だと告げる前に負かした相手、サンダーコマンダーさんの元へと体を翻して駆けていってしまった。
「謝りたいのは私の方なのに……」
「気にしなくていいよ。あの子はただ人助けができて喜んでいるだけだから。あっ、戻ってきた」
苦労なんて気にしない、ただ人を助けられればそれでいい。むしろ許可を取らなかったことを謝罪するほどまでの善人。今目にしたようにウマ娘としての実力も高いレベルで備え持ち、おそらく日々の練習も怠っていない。それでいて決して高嶺の花ではなく、私たちと同じ目線で、私たちと同じ場所で寄り添ってくれる。華麗で、可憐で、優雅で、清廉で……
(あぁ、お母様。理解しました。お母様が学生の頃に抱いていた想いの正体が)
そう、幼い頃から母よりよく学生時代のことを聞かされていた。もちろんそれが嫌ということは全くなく、むしろGⅠを勝利した母の話など私の方から希うほどだった。母はそんな私の求めに応じて様々な話をしてくれたが、あるウマ娘の話になると途端に顔が紅潮し、そして早口になり、最後にはうっとりとした表情を浮かべていた。私は長い時間同じ学舎で過ごすのだから、憧憬の念を抱くことまでは理解できたが、母のようにまるで恋煩いほどまで深い感情を同性相手に持つことは理解できなかった。ただ、今、
(そういうことだったのですね、お母様……)
母の言っていることをやっと理解することができた。
「私のお姉さま……」
生まれて初めて知ったこの感情。この想いはきっと未来永劫消えることはないだろう。この温もりを胸に、私は彼女へ感謝の言葉を伝える。
──ありがとう、そしてまたどこかで、と。
─────
「今日もありがと、トレーナー。あれ、なんだか疲れた顔してない?」
トレーニングを終え、自宅へと帰ってきたオレとエスキモー。朝ご飯を作ってもらい、今日のトレーニングメニューを考え、そして昼食ののち河川敷でランニングに出かけるところまでは予定通りだったのだが……
「そりゃエスキモーがレースに飛び入り参加するからだろ。結構ヒヤヒヤしたんだからな?」
「ごめんなさーい。でもなんだかあの子のこと見て見ぬふりできなくってさ」
道中見かけた野良レース場。ちょうど休憩のタイミングだったこともあって見てみようとエスキモーに引っ張られて覗いてみると、両手、両膝をついて俯く、髪を二つ括りにしたウマ娘の姿と、彼女に近づき肩に手を置く、少し悪そうなウマ娘の姿が視界に入った。観衆も誰も止めることなく、むしろ囃し立てる様子に癪に障ったのか、エスキモーはオレが止める間もなく2人の間に割って入っていった。話し合いの結果、エスキモーが勝てば全てチャラに、負ければ相手の言うことに従うというハイリスクローリターンの一発勝負に彼女は見事勝利し、二つ括りの少女を救い出した。こう言葉を並べると他人を助けるためには自分の苦労も惜しまない善人の中の善人なのだが、おそらく彼女の場合は……
「……入学前に自分の実力、試したかったんだろ?」
「……トレーナーにはバレバレか」
てへぺろと舌を出す彼女に軽くこらと叱る。勝ったから結果オーライなものの、条件が条件な上に整備もそれほどされているように見えなかったレース場で万が一のことがあれば、暫定とはいっても彼女の管理者として両親に申し訳が立たなかったから。彼女も聡明だから変に口答えすることなく、素直にごめんなさいの言葉が彼女の口から発せられた。
「これからは一言オレに断りを入れてからにしてくれ。あと助けたあの子は終わってから何か言っていたのか?」
「ありがとうございますと、またどこかで会えたらそのときはよろしくお願いしますだって。結局名前聞けずじまいだったなー」
新人トレーナーの自分が生徒の顔を全員覚えていることはない。覚えていなくても大レースに勝利していたり、模擬レースや選抜レースに出ていた子であれば顔を見れば名前は置いといても生徒かどうかまでは分かる、と思う。確証はないが。ただ今日見かけたウマ娘の顔は今まで一度も見た記憶がなかった。すなわち現在うちの生徒ではない、はず。
「まあまた会えたらそのときでいいか」
「そうだね。仲良くできたら嬉しいな……っと晩ご飯できたよー」 「了解、机まで持っていくよ」
出来上がったエスキモー特製の夕食を2人して食卓へ運ぶ。数日後に迫った入学式、彼女の顔からは緊張の様子がまるで見えなかった。むしろ胸の中にワクワクな気持ちだけ詰め込んでいるように思える。
(もうすぐまた彼女と二人三脚の日々が始まるんだな……)
もちろん自分もまた彼女と同じ感情を心の中に溢れんばかりに膨らませていた。
─────
「ふへへ……お姉さま……絶対探し出してみせますから……ふへへ……」 |
+ | 第2話 |
「ふぅ……」
火照った肌に浮ぶ熱い玉のような汗。それを洗い流すためにシャワーを浴び、柔軟剤と太陽の陽射しによってふんわり仕上げられた真っ白なタオルで水気を拭き取る。
「今日でこのルーティンもおしまい、ですか」
入学式の日でも変わらないルーティンワーク、それは早朝トレーニング。毎日朝5時頃にはベッドから体を起こし、晴れていれば外でランニングを、雨が降っていれば室内のトレーニングルームで汗を流す。トゥインクルシリーズでの活躍を夢見たときから続けているこの習慣は、体調を崩さない限り毎日変わることなく続けてきた。もちろん学園に入ってからスパっと止めるつもりはないのだけど、家を出発して体を動かしたあと、家に戻って熱いシャワーを浴びる感覚とはしばらくお別れすることになる。
「それにしてもお姉さまは見つかりませんでしたね……」
下着の上から制服を着ている最中頭に浮かんだのは先日の衝撃的な出会いのことだった。まさに私(わたくし)にとっては彗星が頭に衝突したかのような運命的な遭遇。一生お慕いする相手が見つかった幸福感と、名前を聞きそびれた後悔とで、今日まで感情のアップダウンが欧州のレース場のそれを上回っていた。
「これまで調べても出てこないということはあまり有名な方ではないのかもしれません……いやしかしあのときの振る舞いは名家のそれでしたし……」
学園までのハイヤーの後部座席で独りごちる。我がダノン家もウマ娘界においてはまだまだ新興勢力の1つではあるけれど、有力者が集うパーティーではそれなりに顔が知れるようになってきているし、その逆も然り。たとえ数十人、数百人がてんでバラバラに散っている会場であっても、あのようなオーラを放つ方を見落とす、もしくは会っているのに記憶からなくしてしまうなんて愚行を起こすはずがない。だとするとパーティーに参加できるような名家ではないという結論に至るのだけど、それは自身が抱いた想いと乖離しすぎている。
「いや、それでも……」
「お嬢様、学園へ到着いたしました……お嬢様?」 「あら、ごめんなさい。ありがとう、爺や」 「いえ。お気をつけていってらっしゃいませ」
漆黒の闇の中を堂々巡りしている途中に校門の前に到着し、爺やがドアを開けてくれる。深く考え込んでいたせいか彼の声にワンテンポ遅れるも、そこから先は普段通り。送迎の礼を伝え、目の前の巨大な門の中へと足を踏み入れた。まだ少し早かったのか、私と同じ新入生らしき生徒はまばらに歩いていた。そんな校内を事前に学園より配布された地図を確認しながら集合場所まで歩いていると、桜並木の下にあの日見た男とウマ娘が歩いている光景が目に入った。
「やっと入学式かー またよろしく頼むね、トレーナー」
「もちろん。とりあえず入学式が終わったら契約の手続きしないといけないから、トレーナールームまで来てくれ。場所は分かるか?」 「大丈夫、大丈夫。『覚えてる』から」
腕から力が抜ける。肩にかけていた鞄は重力への抵抗をやめ、綺麗に整えられた石畳と初めて熱い抱擁をかわす。両膝はなんとか堪えられたものの、この反抗もはたしてどれほど継続できるものなのか。
「お、お姉さま……?」
掠れた音が世界を震わせる。人の耳では決して聞き取れない声でも彼女の耳は優しく拾い上げる。
「ねえ、もしかしてあなたあのときの……」
耳をピクっと動かすと、そのまま意識と視線を私の方へと向けるお姉さま。そのお顔はあの日目にしたご尊顔と寸分も違わず、その声はあの日私にかけてくれた声と全く同じ周波数をしていた。瞳の輝きは頭上を照らす太陽よりも眩しく、駆け寄ってくる際にふわりと広がる黒髪は天女が身に纏う羽衣を想起させた。もしかするとこれは夢かもしれない、そう自身に言い聞かせ、空へと飛び立ちそうな意識を地上に留まらせていると、なぜかお姉さまが私の手を取り、天使のような笑顔を浮かべ、こう言った。
「もしかして私と同じ新入生?」
「新入生……お姉さまも……?」
『お姉さま?』と疑問を浮かべつつも質問を質問で返した無礼を咎めることなくそうだよと肯定するお姉さま。なんてお優しいのだろうか。
「そういえばあのときお互い名前言いそびれちゃったよね。私の名前はメジロエスキモー、よろしくね!」
「わ、私はダノンディザイアと申します……め、メジロ?」
中庭の噴水近くのベンチで恐れ多くも横に並んでお話をする私たち1人と1柱。先ほどの男性、トレーナーさんは気を遣ってくれたのか、またあとでとお姉さまに告げてこの場を去っていった。というよりメジロってあの……?
「そんな感じに見えないよね。私も自分のことお嬢様とか全然思ったことないんだけどさ、周りの人は私がメジロのウマ娘だって知ったら、どうしても一歩線を引くんだよね……」
「お姉さま……」
小さくため息をつかれ、顔を曇らせるお姉さま。途端に辺り一面は暗黒に満ち……ることはないけれど、なるほど、あのさりげなくも隠せない優雅な立ち振る舞いはメジロ家だったからなのか。
「あのさ、1つお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
「私にできることであればこの命に代えてでも」
お姉さまのお願い。それは神託をも上回る絶対事項。それが仮にこの世界の理に反するものだとしても私は……
「いやいや、そんな大層なお願いじゃないから……あのね、同じ新入生だしさ……」
指で頬を掻きながら、少し恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。
「私と友達になってくれないかな? 駄目、かな?」
女神ではなく、1人の等身大のウマ娘として。私と同じトレセン学園の新入生として発した言葉に私はただ頷くほかなかった。
「お、お姉さまがよろしいのなら是非」
だって、
「ありがと! だったらあなたのことなんて呼べばいいかな? ディザイア?」
こんなにも、
「ディザイアはお母様と被りますので……ザイアと呼んでもらえると」
「分かった! これからよろしくね、ザイアちゃん!」
嬉しそうな顔を見せてくれるのだから。
「私もう死んでもいいかもしれません……」
「えっ!? ちょっと!? ザイアちゃん!? ちょっとトレーナー呼んで……保健室にも連れていって……」
やはりここは天国なのかもしれない。アルカイックスマイルを(おそらく)浮かべながら、私はかろうじて引き留めていた意識を大空へと手放した。
─────
「呼ばれてみたら……なんだこの状況?」
トレーナールームでエスキモーと取り交わす契約書を作成していると、その彼女から慌てた声で電話がかかってきた。電話で聞いた限りでは、さっきまで話していた子─ダノンディザイアというらしい─が突然倒れてしまってどうしたらいいのか困っているとのことだった。とりあえず保健室に連れていくよう指示して、自分もパソコンを閉じて向かったわけなのだが……
「なんか私が名前呼んだらいきなりふらっと倒れかけてね、慌てて受け止めたら意識がなくなってて……」
ベッドに腰掛ける彼女、そしてその膝の上に頭を置いて静かに眠るダノンディザイア、そして走って切らした息がようやく整った自分の3人によって支配されたこの白を基調とする直方体の空間は、窓から薄いカーテンを通して差し込む日光によって明るく暖かく照らされていた。
「……1ついいか?」
「どうしたの、トレーナー?」
深刻そうな顔をして膝に乗せたダノンディザイアの頭を撫でるエスキモーに、オレはおそらく真実に近い推論を告げる。
「その子、君に友達って言われたのが嬉しくて倒れただけなんじゃないか?」
「えっ?」
昔この学園にはいわゆる「尊死」と俗称される卒倒を何度も何度もしていたピンク色の髪をしたウマ娘がいたという。あくまでチーフトレーナーから聞いた話で、しかも10年以上前の話だったから脚色に脚色を重ねた眉唾ものの噂話と思っていたのだが……目の前に横たわっているツインテールをした彼女の幸せそうな寝顔を見ると、あながち嘘ではなかったのではないかと思える。
「その子の顔、すごく崩れているぞ。幸福感に満ちた顔に」
ダノンという名前を聞いて何も感じないトレーナーはいない。いまや一大勢力としてトゥインクルシリーズに力を注ぐ一族、ダノン家。彼女はおそらくその家を背負ったお嬢様なのだろう。普段から弱いところを見せずに気を張っているだろう彼女がこれほどまでに「にへら〜」という擬音語がふさわしい表情を晒すとなると、結論はたった1つに行き着いてしまう。
「あっ、ほんとだ……」
膝から彼女の頭を静かに下ろし、エスキモーは彼女の顔を近くで見つめる。今まで気が気でなかったのだろう、ぐっと張っていた肩からようやく力が抜け、大きなため息が口から零れた。
「なーんだ……よかった……」
そう彼女が呟いた途端、幸せそうな笑みを浮かべていた眠れるウマ娘が目を覚ました。
「あれ……ここは……天国?」
「やっと起きた。おはよ、ザイア。保健室だよ」 「保健室? あっ、私意識がなくなったから……」
覚醒した頭が徐々に現状を理解し始めたのか、眠そうだった顔の色が少しずつ青ざめていくのが見て取れた。
「お姉さま申し訳ございません! 勝手に倒れてしまった挙げ句、保健室に運ばせるなどと! これは腹を切ってお詫びするしか!」
「いいっていいって! 気にしてないから!」
一方は今から神を降臨させる儀式でも執り行うかの勢いで平伏しようとするし、もう一方はそれを全力で食い止めようとする。本人たちは必死なのだろうけど、なぜかおかしくなって声を出して笑ってしまう。
「ふ、ふふっ! ははは! 何やってんだ! ははははは!」
「ちょっとトレーナー! こっちは真剣なんだけど!?」 「そうです、トレーナーさん! 笑わないでくださいませ!」
オレの笑い声で動きを止めた2人が今度はジロリとこちらに厳しい視線を向ける。オレはそれに臆することなく2人を宥めつつ、時間が近づいている入学式に向かうよう促す。
「そろそろ入学式始まるんじゃないか? 間に合わなくなるぞ」
オレに警戒心を向けつつ、壁にかかった時計の針を見て2人は慌てて鞄を持ってバタバタと保健室を飛び出す。開けっ放しにせず綺麗に閉じられた扉をぼーっと見つめながら、徐々に遠くなっていく2人分の足音に1人耳を傾ける。
「よかったな、早速友達ができて」
彼女の性格からして一人ぼっちになることはないのは分かっていたけど、『夢』であっても一度経験した学園生活を上手くこなせるのか、心の隅の隅でしこりを感じていた。元々大人びている性格な上にあの『夢』での出来事をはっきりと覚えているのだから、周囲と比較するとどうしても精神年齢のギャップを感じてしまうのはおかしな話ではない。彼女はその不安をオレに見せることは一度もなかったけど、内心ほっとしているのかもしれない。
「さて、オレも仕事に戻りますか」
そう呟くと丸椅子から立ち上がり、自身の城、トレーナールームに帰るために、扉をガラガラと音を鳴らしながら開けて清廉な空間を後にする。体が全て廊下に出て後ろ手で開けた扉を閉めようとしたそのとき、タッタッタッとこちらへ駆ける白衣を羽織った黒髪のウマ娘を視界に捉えた。
「すいません! もしかしてトレーナーさんですか?」
「はい、そうです。保健の先生、ですっけ?」
自分より若干身長が低いが、雰囲気や身に纏った服装を見てそう判断する。確か今年度から新しい人が来ると年度末のミーティングで聞いた気がする。ただどんな名前なのか聞いたはずなのに覚えておらず、目の前の彼女が胸元に名札をつけている様子も、ストラップで首からぶらさげている様子も見受けられない……名札を探すついでに胸元を数秒間見つめてしまったが、相手がわたわたしてくれていたおかげでバレずに済んだのは僥倖だった。
「そうです。今年度からお世話になります……もしかして保健室使ってました? ごめんなさい、職員室に寄っていたもので」
「いえいえ、少しベッドをお借りしていただけですから」
ぺこぺこと頭を下げる彼女を手で制しながらどこで見たのか思い出そうとするも、やはり分からない。
(まあまた保健室でお世話になるだろうし、そのとき聞けばいいか……)
どこかで見た気がしないでもないが、とりあえずこの場は互いに軽く挨拶だけ交わして立ち去る。自分にしては大雑把な気がするが、部屋に戻ってやることがあるからと反抗するもう1人の自分を説き伏せ、早歩きで廊下を歩いていく。
(今日から『また』エスキモーとトゥインクルシリーズへ踏み出す……頑張らないとな)
──両手で頬をペチペチと2度叩いて気合いを入れ直した頃には、さっき挨拶を交わした先生のことは頭の片隅へと追いやってしまっていた。
|
+ | 第3話 |
(あー、かったりぃ……)
格式張った入学式を終え、各自己に示された教室へと足を運び、これまた黒板に張り出された座席表を見て自身の机へと歩いて椅子に座る。日本語が名前の由来と思われる者、オレみたいに海外の語句が名前の由来になっている者に関わらず、あいうえお順となっている配席表を見ると、自分の名前は教室の一番後ろ、廊下側から数えて2列目の席に記されていた。
(とっとと走らせてくれねえかな……)
早く己の強さを周囲に知らしめたい。このクラスの誰よりも早くデビューを迎え、そして誰よりも早く世界へ飛び出し、そしてあの人に自身の存在に気づいてもらう。そのためにもこのような定例行事などさっさと終わらせ、コースへと走りに行かせてほしい。
「はーい、それでは全員揃ったということで。皆さんはじめまして。私がこのクラスの担任を務めます──」
いつの間にか全ての座席に自身と同じ制服を着た奴らが座り、静かに教壇に立つ教師をまっすぐ見つめていた。ただ前の奴が自分より若干背が高いせいでお行儀よく座っていては教師の姿が若干隠れるから、少し体を横に傾けて仕方なく黙って話を聞くことにした。
(……ん?)
手元の資料を見ながら担任の授業や学園の設備、そして寮についての話を聞くのにも飽きてきた頃、ふと周囲を見渡していると、なにやらこちらを見つめているウマ娘を視界に捉えた。窓から2列目、後ろからも2番目の位置に座っているツインテールをしたウマ娘。自分よりかは若干小柄だろうか、左耳に着けた赤と白の耳飾りに目を引かれる彼女は、教師の方など一切向くことなく、うっとりとした表情で廊下側に熱い視線を向けていた。
「──それでは初めて顔を合わす人がほとんどだと思うので、自己紹介をお願いします。それではまず──」
運よく気づかれなかったか、それとも教師も説明に真剣で後方に座っている彼女のことが視界に入らなかったのか特に注意を受けることはなく、流れるように自己紹介の時間に突入する。窓際で1番前に座っている者から順に名前と簡単な挨拶を滞りなく終えていく。流石世間では難関と言われる中央トレセン学園の入試を突破してきたウマ娘たち、一見緊張しているように思えても堂々と声を発している。
「ボクの名前はグレイニーレイン。よろしくね」
若干青みがかった髪を肩のあたりで短く切り揃えた少女が挨拶を済ませると、列を変え再び先頭から順に席を立って己の名前をクラス中に発していく。一人十数秒、そして自分は28番目。もちろん緊張など海を渡った大舞台でしかするはずがない自分は、特に構えることなく静かに己の順番を待っていた。
「私(わたくし)はダノンディザイアと申します。皆さん、どうぞよろしくお願いいたします」
先ほどまで熱に浮かされた顔で右横を見つめていた奴がうってかわってキリッとした表情と落ち着いたトーンで挨拶を済ませる。まるで別人が如き振る舞いに声を出さず驚嘆していると、周囲から何人かの『おぉ……あの子がダノン家の……』といった感嘆の声が上がっていた。なるほど、あいつが今トゥインクル・シリーズで活躍を見せている一族か。それにしてはさっきまで見せていた顔はお嬢様っぽくなかったが。
そうこうしている間に己の列に順番が回ってきた。先頭の奴が立って一言二言話して座り、2番目の奴が立ってまたいくつか言葉を並べて座る。それの繰り返しが5回目を終え、やっと前に座っている奴が席から立ち上がり口を開いた。
「私の名前はメジロエスキモー。エスキモーって呼んでほしいな。みんなよろしくね」
「……は? お前今なんて言った?」
聞き間違いかと思い、つい言葉が喉を突き、そのまま声帯を震わせ、教室中に声を響かせた。口を塞いでももう遅く、笑顔を浮かべていた彼女は頭上にはてなマークを浮かべてこっちへ視線を向けた。
「何って……私の名前だよ? メジロエスキモー。次あなたの番だよね。名前教えてほしいな」
ちょっと待ってくれ。その名前、最後の2文字以外はあの人と同じじゃないか。一体どういうことだ……
「……オレの名前はメニュルージュ。んなことはどうでもいい。てめえ、そう、オレの前に座ってるてめえのことだ」
「えっ、私? 何かした?」
とぼけた顔へ人差し指を突きつけ言い放つ。
「その名前、どういうことだよ。パクったのか?」
「パクる? あー! もしかしてエスキーのこと? よく言われるんだよねー、ほとんど名前一緒じゃんって」
へらへらと笑う顔……まるで同年代の知人を別の誰かに紹介するときのようなおちゃらけた呼び方……気に食わねえ……オレがどれだけあの人のことを……!
「……オレと勝負しろ」
「なんで?」 「なんでもクソもねえ! その名前を平然と名乗れるその神経、へらへら笑うその精神が気に食わねえって言ってんだよ!」
担任が口を挟もうとするのを視線で牽制すると、そのまま目の前の常識知らずを見下ろし、大きな声で宣言する。
「今度の能力検査、オレと芝2400mで勝負しろ。負けたらその名前を二度と名乗るな!」
「……いいよ。だけど私が勝ったら君にお願いしたいことがあるんだ」 「はんっ。まあいずれ世界を獲るオレにお前が勝てる道理はないが……言うだけ言えよ」
早く言うように促すと、こいつはオレの方を見て立ち上がり笑顔でこう言った。
「私と友達になってよ」
──喧嘩を吹っ掛けられた相手に言うはずがない、オレの常識を超えた13文字を。
─────
「ちょっとお姉さま!? なぜ喧嘩を買うんですか! それにその相手に友人になどと……」
ホームルームが一旦お開きとなり、しばしの休憩時間が設けられる。ひと悶着があったものの、無事に全員の自己紹介が済んだことから緊張が少し和らいだのか、周囲では早速いくつかの友人関係が構築されようとしていた。
ということはどうでもよくて。
「だってみんなと友達になりたいじゃん? きっかけはちょっと悪いかもだけど、友達が多いに越したことはないから」
「ちょっとって……お姉さまは楽観的すぎます……」
このクラスで一番お姉さまの強さを知っているのは当然私。先日のあのレースっぷりを見ても、他の入学したての人たちに負けることなんて万が一、いや億が一とも考えられない。それは私が一番理解している。だけど勝負において100%はありえないことは、生まれて十数年しか経っていない自分でも分かる。だからこうして気にかけているというのに……
「心配してくれてありがと。でも私は負けないから」
お姉さまはそう言いながら、天使が如き笑顔で私の頭をぽんぽんと叩いた。大丈夫だよと、心配しなくてもいいよと、声に出さずともその暖かく優しい手のひらからじんわりと伝わってくる。まるで雪がしんしんと降る寒い夜、ぐつぐつと温められたコーンポタージュを飲んだときみたいに、触れられた部分から体が熱くなってくる。温泉でのぼせたときのように、目の前が少しずつ揺れて暗くなっていく。
「お姉さま……大好きです……ばたり」
「ちょっとザイア!? えっ、これまた保健室!?」
お姉さまがなにやら叫んでいるのをにっこり見つめながら、私は意識を頭の外へと放り出した。
──起きたときには既にホームルームは終了していて、側で看ていた保健室の先生に呆れた顔で「鞄はそこに置いてるから、ゆっくり寮に戻りなさい」と言われ、とぼとぼと帰路についた私だった。
─────
ひと目見たときから心を奪われた。 あれは物心がついてしばらく経ったときのこと、親とリビングで見ていた年末に放送されているトゥインクル・シリーズで活躍した名ウマ娘の特集、そこに枠をふんだんに取られて流されていたのがあのウマ娘だった。皇帝や英雄、そして暴君すらも届かなかったこの世界の頂点を掴んだ至宝。最後まで負けることなくレースを駆け抜け、そして霞のように表舞台から姿を消した極上の輝きをテレビ越しで目にした瞬間、己の夢が一本に定まった。
『オレも世界を掴みたい、そしてあの人に褒めてもらいたい』という高く果てない壮大な夢。あの人のレースは全て観た。いきなりレコードを叩き出したメイクデビュー、前走の走りっぷりが不安視されつつもそれを払拭する圧勝劇を繰り広げた日本ダービー、そのダービーから直行、またもや不安の声が上がるも大差勝ちで黙らせた菊花賞。シニア級との初対戦もなんなく突破した有馬記念など、あのフランスの大舞台以外のレースも何回、何十回、下手すると何百回見返したか思い出せないほど、彼女の強烈な末脚と目を細めるほどの眩しい笑顔が脳裏に焼きついている。何十年後もきっと、いや絶対忘れることがない煌めき、永遠に輝き続ける一等星。人々の夢、期待、願いを一身に背負って駆け抜けたそのウマ娘の名前は、
「メジロエスキー。いつか貴方にオレの走りが届きますように」
迎えた決戦の日、燦々と輝く太陽は青々しく茂ったコースの芝に降り注ぎ、春風は心地よく皆の肌を撫でる。学園に入学して最初の大一番は最高の天候の下行われることになった。
「おい、条件分かってんだろうな?」
学園指定のジャージを身に纏いコースでアップをしている不埒な奴に声をかける。真正面から宣戦布告されたのを忘れているのかと見間違うほど眩い笑顔は、どうしてかあの人の顔と重なって見えた。
「もちろん! 私が勝ったら友達になってくれるんだよね?」
「ちっげーよ! オレが勝つから二度とその名前名乗んなよって言ったんだよ!」 「そうだっけ? でもなー、私も負ける気ないんだよねー」
駄目だ、こいつと話していると調子が狂う。それにこいつの隣にいる、オレより少し奴の眼光がいやに鋭い。というかこいつホームルームのときに倒れて保健室に運ばれた奴じゃねえか。なんなんだこいつらは。
「とりあえず10分後だからな。逃げんなよ」
「はーい」
能天気な声を背中で受け止めると、足早にその場を後にする。奴らの声が聞こえなくなるほどの場所でウォーミングアップを一人で行っていると、スラリとした背のウマ娘が近づいて声をかけてきた。
「ねえ、ちょっといいかな」
透き通るほどに薄く白い肌に、まるで深海を思わせるかのような蒼い瞳。短く切り揃えられた髪は肩の辺りで外ハネしていて、少女というより美人との表現が正しい容姿をしていた。舞台にあまり詳しくはないが、かの有名な歌劇団で男装の麗人もこなせるのではないだろうか。そのウマ娘の名前は、
「同じクラスのグレイニーレイン、だっけか。なんの用だ?」
「へえ、覚えてくれてるんだ。それでさ、今からあそこの彼女と一緒に走るんだよね。差し支えなかったらボクも一緒に走ってもいいかな?」 「……なんのつもりだ?」
いきなり話しかけてきたかと思えばマッチレースに参加するだと? 何が目的なのか全く理解できない。オレたちのデータを収集したいのか、奴と共謀してホームルームのオレの命令を潰しにきたのか、それとも……
「ただ自分の実力を試したいんだ。あのホームルームのとき、君と彼女から底知れない自信を感じたんだ。そこでその自信が何を泉源としているのかを考えたとき、2人は相当高い実力を持っているに違いないと結論づけた」
なるほど。奴のことは置いといて、オレのことを持ち上げてくれるのは嫌な気分じゃない。相槌を打って先を促す。
「それで?」
「その2人の勝負に加われば自分が今どのぐらい強いのか、どの部分に課題があるのかが分かる。姉さんに追いつき、そして追い越すためには何が不足しているのかの欠片を掴むためにも君たちと走らせてほしい。決して邪魔はしないから」
さっきまで自分に自信がないタイプだとかすかに考えていたことを撤回する。オレと比べればどんな奴でも己を律する芯が細いと考えていたが、実はそうでもなかったらしい。蒼い瞳は深海だけを意味せず、熱意という高温の炎を表現するものだったらしい。
「……邪魔はすんなよ」
「ありがとう。アップは済ませてあるから、ボクはいつでも始められるよ」
こいつとは長い付き合いになりそうだ。長髪の対戦相手の方へと並んで歩きながら、直感めいた何かが脳裏によぎった。
─────
「なぜ私がスターターなどと……」 「ザイアにしか頼めないの。ねっ?」 「お姉さまの頼みなら不肖ダノンディザイアら心を込めて役目を果たしましょう」
グレイニーレイン──レインと呼んでほしいんだと──の参加を快諾したこいつは、ウォーミングアップを一緒にやっていた奴にスターターを任せると、オレの右隣にやってきてスタートの準備を始めた。ちなみにレインの奴は『一応ボク部外者だから』と大外枠を選択した。
「左回り、芝2400m。コースを1周と少しした、あのお嬢様がいるところがゴールだ。ハナ差以下ならもう1レース。いいな?」
「もちろん。まあこのレースで終わると思うけどね」 「はんっ。言ってろ」
そのおとぎ話のあやつり人形みたいに伸びた鼻っ面、3分も経たずにへし折ってやるよ。
「位置について!」
遠くからかすかに聞こえた合図で無駄話を終わらせ、走り出す構えをとる。そして、
「よーい!」
ぐっと体を沈み込ませ、
「スタート!」
ピーという笛の音で3人が一斉に走り出す。隊列はあっさりと決まり、外からレインがハナをきり、数バ身離れて奴が、そして3バ身ほど後ろにオレが位置取る展開でホームストレッチから1コーナーへと駆けていく。
(流石に入学したてのこの時期に12ハロンは長い。少人数だからどうせペースは流れねえ)
2コーナーを過ぎて向こう正面に入る。変わらず先頭に立つのはレイン、そこからぽつんぽつんと数バ身間隔で進む隊列は崩れることなく、淡々とゴールまでの距離が近づいていく。戦前の想定通り最後の直線での末脚比べになりそうだと高を括っていた第3コーナー、自身がペースを落としたわけでもないのに前の背中が若干離れつつあることに気がついた。
(ペースを上げた? ウソだろ? ここからまだゴールまで1000mあるんだぞ?)
レインの奴も若干、されど確実に迫りくる圧につい後ろを振り返り、顔が引きつったのが視界に入った。それでもなおペースを崩すことはなく己のレースに徹しているのは流石と言うべきか。ただ──
(こいつ……このペースで最後まで行くつもりか!?)
シニア級のウマ娘が交じる最高峰の一戦でも12ハロンの残り5ハロンからロングスパートをかけてそのまま押し切るなどという芸当はそうそうお見かけすることはない。理由は単純でスタミナが保たないからだ。中山のような直線が短いコースならまだしも、東京レース場の形状に近いこのコースでは、早めに先頭に立ったところで後続に差されるのがオチだ……普通なら。
第4コーナーが目前に迫る。5バ身ほど前で2人が横並びになっているのを認めると、溜めに溜めた末脚を発揮せんと強く、深く緑の芝を踏みしめる。
(さあ! オレを見ろ! そしてオレにひれ伏せ! 舞台に上がるオレの姿を恭しく見上げるがいい!)
“The World Is Mine” Lv.0
爆発が世界を揺らす。お高くとまった連中も、必死に逃げようとする弱虫もまとめて呑み込み蹂躙してやる! さあ、その自信が木っ端微塵に吹き飛ばされる準備はいいか? 頭を垂れる用意はできているか?
前との差が縮まる。直線入り口では7バ身ほどに開いていた距離が6バ身、5バ身と、追う背中が徐々に大きくなっていく。
(よし! このま……ま……おい。何かおかしいぞ……まさか……)
勢いはオレの方が勝っている。なぜなら前との差が縮まっているからだ。ただ、ただ、その縮まり方が徐々に鈍ってきている。直線に入ってから残り300mまでに3バ身も詰めたのに、そこから残り100mを通過しても1バ身も縮められていない。
(オレのペースが鈍った……ってことはねえ。まだ脚は十分残っている。最後まで突き抜けられる。だとしたらこいつ……!)
残り1000m地点で抱いたかすかな疑念がはっきりと像を結び、目の前に顕現する。ありえないと切り捨ててしまった1つの可能性、そんなものできるはずがないと思い込んでしまったただそれだけで、握り込んでいたはずの勝利の欠片がするりと抜け落ちていくのを認めざるを得なかった。
──結局最後まで差を詰めきれず、奴の2バ身後ろ、レインの1バ身前でゴールラインを通過した。
─────
「はぁー、疲れた。最後はヒヤヒヤしたよ」 「かっこよかったです、お姉さま!」 「ありがと、ザイア。声援届いてたよ」 「お姉さま……!」
ゴール後コースの外に出てそのまま仰向けに倒れ込んだオレとレインを尻目に、奴は多少息を切らしていたものの特に座り込むことなく、お供の奴からタオルとスポーツドリンクを受け取っていた。というかマジでなんなんだあの2人の関係は。仮にも同級生なのにその呼び方はおかしいだろ。というかダノンの令嬢がそれでいいのか。
「でさ、私が勝ったわけだけど……約束、守ってくれるよね?」
オレたち2人が息を整うのを見計らって奴が声をかけてきた。タオルで汗を拭いて、スポーツドリンクで水分補給を済ませたその顔は相も変わらず笑顔で満ちあふれていた。
「……元はといえばオレから吹っかけた勝負だ。二言はねえ。てめえの好きにしろ」
ここで惨めにあがくほど腐った性格はしていない。煮るなり焼くなり好きにしろと両手を上げて降参のポーズをすると、右手を掴まれぐっと上に引き上げられた。それとなぜか一緒にレインの奴も引っ張られて立ち上がっていた。
「私と友達になってくれる約束、守ってよね。それとあなたも」
変わらぬ笑顔でオレを見たあとに、そのままレインの方へ微笑みを向ける。手は強く握ったまま。頷くまで絶対離さないという意志をそのまっすぐな瞳とともにオレたちを結び続ける。
「……分かったよ。エスキモーって呼べばいいんだろ。オレの名前はメニュルージュ。ルージュとでも呼んでくれ」
「もちろんボクも君と友達になりたい。よろしくね、エスキモー」
さっきレインの奴にも感じた、この先長い付き合いになりそうな感覚をこいつ、エスキモーにも覚えた。たぶんこの直感は当たるのだろう。これから幾度となくぶつかり、そして高めあう切磋琢磨な関係性、己の夢を果たすためにも存分に使わせてもらうとしよう。
「お姉さまは渡しませんからね!!!」
……3人の中に割り込むこいつは、ご令嬢としての威厳をゴミ袋に入れて捨ててきたのか?
─────
「流石オレの娘だ。君との関係がなかったらすぐにでもスカウトしたかった」 「勘弁してくださいよ……それにしてもあの2人、いいもの持ってますね」 「ああ。一度声をかけてオレのチームにスカウトしてみるよ。これからが楽しみだ」 「あー怖い怖い。とりあえずあとでエスキモーに何があったか問い質さないとな」 |
+ | 第4話 |
私の名前はダノンディザイア。今とあるトレーナールームを訪ねています。それはなぜかというと……
「トレーナーさん、私のトレーニングを見ていただけませんか?」
「えっ?」
─────
時は一度能力検査の日の夜へと戻ります。神の思し召しなのか、それとも自身が持つ幸運を全て使ったゆえの奇跡なのか、私とお姉さまは同じ寮の部屋を充てがわれました。同じクラスに配属されただけでも持ち合わせたラッキーを使い切ったと思っていたら、さらなる望外な幸運をもたらされたので、私は日々天におわす神様へ両手を合わせ感謝の意を伝えています。自身の机に神棚を設置することも検討しています。
閑話休題。私がお姉さまと同じ部屋なのはこの話の主題ではないので一旦割愛するとして、その話は唐突にお姉さまの口からもたらされました。
「そういえば私、デビュー6月になりそうなんだって」
「流石ですお姉さま……えっ、6月!? 今年のですか!?」 「そうだよ? そんなにびっくりすること?」
夕方どこかにお出かけになられ、門限より少し前に寮へと戻られたお姉さまから聞かされたのは自身のデビュー戦のことだった。本来であれば入学したての新入生がその年度のメイクデビューに出走するのはあまり多くない。それも当然、トレセン学園に合格=本格化ではないということに加え、相手は既にトレーナーにみっちりトレーニングをつけた上で出走してくるのだから、確率論を出すまでもなく厳しい戦いになることは誰の目にも明らか。ただお姉さまはそのような常識を無視して堂々とデビューを宣言した。しかも約2ヶ月後の有力ウマ娘が集う一戦で。
「トレーナーがある程度仕上がってるし、このままでも勝ち負けになるだろうって言ってくれてね。夏は合宿に集中したいし、秋デビューは一頓挫あれば来年のクラシックに間に合わなくなるかもだから、早めに1つ勝っておきたいんだって」
「そういえば入学式当日に契約を結ばれていましたね。前代未聞とのことでとても話題になってました」
本来であれば選抜レースや模擬レースに出走したウマ娘のレースっぷりを見てトレーナーがスカウトし、ウマ娘側が承諾して初めて契約が結ばれる。たまにレースではなくトレーニング風景を見てスカウトする者や、たまたま出くわしたトレーナーに選抜レースに向けたトレーニングを見てもらい、その流れで契約を結んだ者もいるらしいが、割合としては当然少ない。それがレースどころか練習すら見ていない、しかも確実にファーストコンタクトとなる入学式の日に契約を結ぶなんて一度たりとも聞いたことがない。本人たちは特に気にしてはいないが、クラスだけでなく他のクラスからも野次ウマ娘が何人も教室を覗きにくる事態と現在進行形でなっている。
「まあ元々トレーナーのことはパパ経由で知ってたし、パパもこいつなら任せられるって太鼓判を押してくれたから」
「それにしても初めてお姉さまの神々しいお姿を拝見したときより仕上がっていたような……」
あの三つ巴の戦いは見る者たちを興奮させるようなレースだったのは紛れもない事実だ。入学して間もないウマ娘とは思えないハイレベルな争いは見る者たちの心を熱く震わせた。中には来年のクラシックはこの3人で回ると言い放った者もいたほどに。ただ私の目にはお姉さまが頭一つ、いや二つは抜けているように感じた。贔屓目が入っていないといえば嘘にはなるが、3人のレース後の疲労度を近くで見比べさえすれば誰の目にも明らかだった。
「あの日以降もトレーニングに付き合ってもらってたからね。トレーニングコースも学園のが使えない代わりにメジロ家のが使えるから全然支障なかったし、そのおかげでバッチリ仕上げられたのかも。ま、私のトレーナー優秀だからねー」
「なるほど……」
互いにベッドで枕を胸元に抱えながら、トレーニングや勉強、そしてそれぞれのパーソナリティーなど眠くなるまで語りあった。あまりにも幸福な時間、永遠に続けばいいのにと思う傍ら、
(これが毎日……幸せすぎて逆に怖くなってきました……)
と、ぶるぶるっと体を震わせる。先日の一件で己の実力へ不安を覚えてしまったことも重なり、このまま実力が足らず早々と学園を去りお姉さまと離ればなれになってしまう未来が薄っすらと脳裏をよぎる。せっかくお姉さまが楽しそうに私と話をしてくれているのに、その最中についため息をついてしまった。しかもお姉さまはそれを見逃すことなく寝ていた体を起こし、私の隣へ腰かけてくれた。
「どうしたの。いきなりため息なんかついて」
「ごめんなさい、お姉さま。なんでもないんです、なんでも。気にしないでください」
そう言って壁の方へ寝返りをうとうとするも、お姉さまに体を押さえられ、元の体勢へ、お姉さまの顔が見える体勢へと戻された。そんなお姉さまの顔は先ほどとは異なり、眉間にしわを寄せ、なにやら考えごとをしているように思えた。それから1秒、2秒、
3秒と経過したのち、おもむろに開いた口から発せられたのは思いもよらないアドバイスだった。
「あのさ、1回トレーニングを私のトレーナーに見てもらわない?」
「えっ、それは一体どういう……?」
お姉さまの意図が上手く読み取れない。このままだとお姉さま検定1級など夢のまた夢だ。これからもっと精進せねば。
「あの日のレース、今日の私のレースを見てきっとすっごく不安なんだよね。自分なんてーって思ってるの顔に書いてある」
「そんなこと……」
否定の言葉はあとに続かなかった。だって事実だから、嘘じゃないから。全部、全部私の本心だから。名家がどうした、お母さまがGⅠウマ娘だからどうした。バックボーンが豊かでも、自身の実力が伴わなければただの虎の威を借る狐じゃないか。なにより自身の実力を過剰評価していた事実がナイフのように柔い肌をズブリと突き刺し、止めどなく築き上げてきた自信という名の血液が身体の外へ勢いよく噴き出す。ただ私は傷口を口を閉ざして見つめることしかできずにいた。あの日から今日までずっと、ずっと。
「でもさ、ザイアも能力検査のタイム良かったんでしょ? 走り方も伸びやかでとっても綺麗でさ、私惚れ惚れしちゃった」
ナイフが引き抜かれ、手際よく縫合が進められる。それと同時に輸血が始まり、少しずつ、少しずつ身体が活力を取り戻していく。きっと私の走りを思い出しながら語ってくれているのだろう、目を閉じ、笑みを浮かべながら語る言葉の一つ一つが私のエネルギーへと変換されていく。
「ザイアの才能がないなんて思わない。もしザイア自身がそんなこと言うなら私が否定する。絶対そんなことないって真正面から言ってあげる。だからさ、そのためにも一度トレーニング見てもらおうよ。契約云々は置いといてさ。ね?」
眩しい笑顔、まるで天使が地上に舞い降りたかのような慈愛に満ちた尊顔。優しく差し伸べられた手を取ると、体を引き起こされ、そのまま温もり溢れた胸の中へと飛び込んだ。シャンプーのいい香りが鼻腔をくすぐり、沈んだ心を再起動させる。
「分かりました。お姉さまの言うとおり明日頼みにいってみます」
「もちろん私も同席するから。とりあえず話はそこから始めよ?」 「はい……私、頑張りますね」
砕かれた心がお姉さまの手によって組み直され、元の形を取り戻す。今度は崩れないように壊れないように、お姉さまの慈愛という名の接着剤で強固に固定をして。
それはそうと。
「今日はこのまま同じベッドで寝たいです……なんて」
「いいよー。ザイアのこと抱き枕にしちゃうかもだけど」 「えっ?」
みたいなやりとりをして、お姉さまと同じベッドでゼロ距離でそのまま寝るなんてこともしてしまったり。様々な意味で忘れられない夜になってしまった。
─────
そして時間は再び今へと戻る。鳩が豆鉄砲を食らったような、使用しているパソコンがいきなりブルースクリーンに切り替わったときのようなお手本みたいな目の丸さと啞然とした表情からは、同時に困惑の色も漂っていた。
「もしかしてエスキモーの差し金か?」
「差し金って言い方酷くない? 私はトレーナーの実力を買って紹介しただけなんだけど?」
トレーナーさんは私の横に立っていたお姉さまをじろりと睨み、お姉さまはお姉さまでハムスターのように頬を膨らませて怒りの感情を露わにする。ただ一触即発の事態には移行せず、2人ともふうとひと息つき、話を前へと進める。
「ほら、これが能力検査のタイム。どう?」
「坂路が4ハロン55秒切った上で最後1ハロンも13秒を切っている。時間を置いて行われたウッドチップでは全体時計は遅いが最後の脚は使えている。うん、入学したてのこの時期にしては優秀だと思うぞ。映像を見る限りでは、走り方も改善の余地は残しているけど素質を感じる」 「でしょ?」
自信満々なお姉さま美しい……その自信の源が己の走りだというのは少し恥ずかしさを覚えるが、この際だから真横から存分にお姉さまの顔を見させてもらおう。
「まあそうだな……とりあえず明日一度エスキモーと一緒にトレーニングを見させてもらうよ。それでいいかな?」
「……はっ!? んんっ……! こちらこそよろしくお願いいたします」
危ない危ない。お姉さまの横顔に見とれてついトレーナーさんへの返答が漏れるところだった。時間を忘れてしまうほどの笑顔の神々しさ、まるで太陽のよう。
「ザイアと一緒にトレーニングかー! すっごく楽しみ!」
「私もです、お姉さま。明日はお手柔らかにお願いしますね?」
紛れがあるはずもないその笑顔。いつまでも私の隣で輝いていてほしい。夕焼け空に浮かぶ星へ静かに祈りを捧げた。
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+ | 第5話 |
日付が変わり朝を迎える。入寮してから早朝にお姉さまが出かけていく足音を目覚ましに起きる習慣が根づきつつある私は、今朝もまた1人で朝食をとり、着替えて学園へと向かう。下駄箱で上靴に履き替え教室に入ると、学生ならではの
『今日の宿題やった? 見せてー』
『それ昨日も言ってたじゃん』
なんて会話が飛び交っていた。世間に名高いトレセン学園といえど、在籍するのは極々一般的な学生たち。走る能力が優れていても、こういう部分は日本全国どの学校に行っても変わらないのだろうなと思う。
「おはよう、ザイア。今日の小テスト勉強してきた?」
「おはようございます、レインさん。ええ、対策は抜かりなく。レインさんの方は?」
既に自席に座って1時間目の授業の準備をしていたレインさんが私に気づいて声をかけてきた。レインさんとは比較的席が近いのと雰囲気が周囲の方たちと比べて大人びているから、最初から無駄に肩肘を張ることなく自然体で話すことができている。
「もちろんバッチリだよ。あれ、そういえばエスキモーとは一緒に来ないんだね。同室なのに」
「お姉さまは早朝からどこかに向かわれてから登校されるそうなので、いつもタイミングが合わず……行き先も教えていただけず……」
夕方も夕方で夕食を2人で食べたり、大浴場に行って並んで湯船に浸かったり互いの体を洗いあったりが未だにできずにいる……あっ、想像したら鼻血が出そうになった。危ない危ない。
「うーん、秘密の特訓でもしてるのかもしれないね……って噂をすれば。エスキモー、それにルージュもおはよう」
「おはよ、レイン。ザイアも改めておはよ。ルージュとはさっきそこで会ってさ」 「会ったってかオレが歩いてた後ろから駆け足で追いついたんじゃねーか」
昨日のレースでわだかまりも解けたのか、軽口を叩きつつも友人として、そしてライバルとして互いを意識し始めたように傍からは見える。私はライバルという輪からは一歩引いた傍観者だけど、いつか一緒に走れる日が訪れるといいなと、3人の話を聞きながら頭の片隅でぼんやりと考えていた。
「そういえば昨日の放課後ルージュと自主トレしようとしたら、トレーナーに話しかけられたんだよね。ボクとルージュまとめて」
「へー、凄いじゃん。早速スカウトなんて」 「チームに入らないかだと。そいつの話聞いてたら海外の実績も豊富らしいってんで、二つ返事で契約結んできた」
青田買いというにはいささか実が膨らんでいる気がするが、早速2人にも勧誘の声がかかったらしい。選抜レースも経ずに契約を結ぶなど本来は珍しいはずだが、ここにいるもう1人が例外すぎてひっくり返るほど驚愕する、ということはなかった。
「それでどこのチームなの? リギルとか?」
「ううん、カオスって名前だって。チームカオス」 「へー、カオスなんだ……ってえっ!? ほんと!?」
お姉さまの突然の大声にまだ完全に覚醒していなかった頭が震わされ、否が応でも目がパチっと開く。確かに有名なチームではあるけど、それほど驚くことなのだろうか。
「いきなり大声出すなって。そんな驚くことかあ?」
「いやーまー……あのね? 確認したいんだけど……声かけてきたのって私よりひと回りぐらい大きい、短髪で髭を剃ってる40歳ぐらいの男の人?」 「年齢までは分からないけど、たぶんそうだと思う。娘さんがどうこうって話してたよ。今年学園に入学したんだとか言ってた」
レインさんの言葉を聞いてお姉さまは両手で頭を押さえて長いため息をついた。『マジか……』などと何度か小さく呟いたのち、さっきよりトーンが2つ、3つ落ちた声で真実を告げた。
「たぶん2人に声かけたの、私のパパだと思う……」
「「「えっ!?」」」
今度は3人が大きな声をあげる番だった。お姉さまのお父さまが強豪チームのトレーナーだったとは……私たちにとってはまさに衝撃の事実だった。
「今はチームトレーナーだから普段は表立ってスカウトなんかしないって言ってたんだけど……そっか……」
「一応聞くけど……トレーナーとして優秀なんだよね?」 「大丈夫、心配しないで。私も休みの日とかによくトレーニングに付き合ってもらってたから、それはこの私が保証する……それはそうとあとで直接話してくるね……」
とぼとぼと自席に歩いていくお姉さまを残された3人は、なんだか大変そうだなという憐れみにも似た視線でしばらく見つめるのだった。
(トレーナーの娘というのも大変なのですね……)
今度の休みにデート、じゃなかった、お出かけにお姉さまを誘おう。そう心に刻み、私は1時間目の教材を鞄の中から取り出した。
─────
「2人ともストレッチは終わったか?」 「うん、いつでも大丈夫だよ」 「はい、準備完了しました」
その日の授業が全て終了し、小テストも難なく突破して迎えた放課後、私とお姉さまはトレーニングコースの埒の外でトレーナーさんの指示を受けていた。
「とりあえず2人で1本走ってみようか。距離は……1200mで。手でスタートのカウントダウンをするから、スタート地点まで着いたらこっちの方を見ていてくれ」
「スプリントって私苦手なんだよねー。脚の溜めどころが分からないから」 「了解しました。お姉さまの胸、お借りします」
トレーナーさんはストップウォッチの準備を、私とお姉さまは足ならしも兼ねて駆け足でスタート地点まで移動し、トレーナーさんの合図を待つ。
「一緒に走るの初めてだね。楽しみ」
「私にとっては夢のような時間です。お手柔らかにお願いします」 「えー、私そんなに加減できないからなー……あっ始まりそう」
お姉さまがゴール地点の方に視線を向けたのに釣られ、私も同じ方向に目を向ける。トレーナーさんが左手を大きく開いてアピールするのを2人は静かに見ている。そして、
『4』
親指が畳まれカウントダウンが始まる。
『3』
今度は小指が、
『2』
次に薬指が親指の下に隠れ、
『1』
人差し指だけが天を突き、
『0』
2人がゴールを目がけて一斉に走り出した。
─────
「っ……!」
スタートダッシュは上手くいったように思う。内ラチ沿いの利を活かし、すっと前に出てレースを引っ張る。お姉さまは無理して出ていくことなく、私のすぐ後ろにつけたみたいだ。己の体が風を切る音がうるさく、景色があっという間に切り替わっていく。スタートしてすぐ迎えた第3コーナーから第4コーナーへ進行方向を変えながら向かう最中、圧が私の背中を前へ前へと押し出し、『早く仕掛けないと間に合わない』と焦燥感を駆り立ててくる。
(だったら……ここで!)
第4コーナーと最終直線の結節点を前に脚に力を込めて後ろとの距離を引き離す。そうすることで圧は徐々に薄れていき、このまま押し切れるのではないかという甘い考えも心の片隅にかすかに浮かんだ。しかし、
「残り400……ここかな」
薄れた圧が今度は右斜め後ろから波のように押し寄せてくる。私の後ろで溜めていた末脚を爆発させ、残り200mで横に並ばれる。あとは離される一方で、終わってみれば3バ身差の完敗。レース後もラチの外で仰向けで倒れる私と違い、トレーナーから笑顔でタオルとスポーツドリンクを受け取っていた。
(実力が……違いすぎます……)
レースの解説で「着差以上の強さ」という文言を時折見かける。文字通り「このウマ娘はレースの着差を超えた部分で強さを発揮した」という意味合いの言葉だが、今まであまりピンときていない部分があった。派手に大外一気を決めたわけでもなく、先頭を一度も譲らずに逃げ切ったわけでもない。レースだけ見るとただゴール前で差し切っただけ。しかし、遠ざかっていく背中よりももっと向こうにお姉さまが走っていると感じたということは、すなわち「そういうこと」なんだろう。
「お疲れ。はい、タオルとスポドリ。起き上がれる?」
「大丈夫です。もう息も整いましたから。お気遣い感謝します」
私の分も合わせて持ってきてくれたお姉さまに礼を言い両手で受け取る。「たった」1200mしか走っていないのに失われた水分を補給し、額に浮かんだ汗をふわふわなタオルで拭う。そこら中跳ねていて髪を簡単に整え、寝転がったときに付着した芝を見える範囲で落とすと、ストップウォッチを首から下げながらタブレット端末を確認しているトレーナーさんへ声をかけた。
「お待たせしました……どう、でしょうか」
「ゴールタイムとしては1分12秒後半で、ディザイアさんのタイムは1分13秒中盤。この時期にしては全然悪くないし、これから徐々に詰めていける。ただテンは速いけど短距離向きとは言い切れない。身長という意味では小さいけど、フットワークに伸びがあるから小回りより大回りのコースが向くと思う。レースセンス自体も悪くないから、スタミナさえつけばある程度長めの距離でもこなせるはずだ」
前日の能力検査のタイム、そして今日のタイムと動画を確認しつつ、感じた言葉を立て板に水を流すかのようにすらすらと並び立てる。なるほど、これは……
「優秀、なのですね」
「でしょ? 私のトレーナーなんだから!」 「なんでエスキモーが威張るんだよ……嬉しいけど」
お姉さまの言葉に苦笑しつつもトレーナーさんは話を続ける。
「トレーニングメニューとしては坂路を中心に組んで、週1本ぐらいはウッドチップコースで長く走るのを織り交ぜる形かな。もちろん室内でのウェイトトレーニングを含めた基礎トレも欠かさずに。慣れてきたら1日に走る坂路の本数増やすとか、坂路を走ったあと長めの距離をこなすとか内容を強化していけるはずだ。まあ順調にいけば秋頃、遅くとも今年中にはデビュー戦迎えられるんじゃないか……って契約結んでないのに決めることじゃないな、ごめん」
両手を合わせて謝罪するトレーナーさんへ謝らなくてもという言葉を投げかける。ただもし可能ならばと私の方から1つ提案する。
「もし、もしトレーナーさんに支障がなければですが……」
「支障がなければ?」 「契約を結んでいただけませんか? これから先貴方になら任せられる気がするのです」
トレーナー契約、それはトゥインクル・シリーズに挑むための第一関門。今私は目の前のトレーナー、お姉さまのトレーナーさんに持ちかけた。いわゆる逆スカウトと呼ばれるものを。
「ザイアと一緒に練習できるの? やったー!」
「まだ決まってない! というかそもそもオレ独り立ちして1年目だぞ? できるならもちろん担当させてほしい。君の才能を輝かせる手伝いをしたい。ただいきなり2人なんて……」 「私のことは大丈夫でしょ? だってさ……」
お姉さまはそう言ってトレーナーさんの耳元に二言三言囁く。それを聞いているトレーナーさんは、
『それはまあそうだけど……』
『いや生活面が……ってそれは解決しているか』 『じゃあ……』
と押され気味の返答を続け、ついに。
「分かった。理事長の許可がもらえたら契約を結ぼう」
「……ありがとうございます」 「だったら今から3人で行こうよ。案ずるより産むが易し、思い立ったが吉日、善は急げ。早く行こ!」
これが通れば専属ではなくなり、必然的に携わってもらえる時間が減るはずのお姉さまがなぜかウキウキで私たち2人の手を引いて理事長室へ向かう。私とトレーナーさんは小首をかしげながら互いに顔を見合い、お姉さまのあとについていくのだった。
─────
「承認ッ! 君の優秀さはチームトレーナーより幾度となく聞いている! よって許可ッ! 彼女との契約を認めよう!」 「えっ、即決?」
理事長室の扉をノックし中に入った。そして私の方から今般の請願内容と理由について申し伝え、その上でトレーナーさんから2人目の契約を結んでも支障がない旨を説明する。それを聞いた理事長はふむふむと目を瞑って考え込むと思っていたら、数秒後には笑顔で契約してよいと許可を出した。あまりにあっさり懸念事項が片付き、拍子抜けしつつも一礼をしてその場をあとにする。
「それでは改めてこれからよろしくお願いいたします。トレーナーさん、お姉さま」
「至らぬ点もあると思うけど頑張っていこう。よろしくな」 「こちらこそよろしくね、ザイア!」
トレーナールームで契約の手続きを済ませ、ほっとひと息をつく。家の了承についてはおそらく問題ないだろう。トレーナーの選択の裁量はほぼ私に委ねられている上に、万が一反対されることがあっても彼の優秀さを説明すれば、きっと分かってくれる親のはずだから。
「そうだ! せっかくだし今度休みどこか出かけない? 一緒のチームになった記念ってことで!」
「……! お姉さまがよろしければ。仮に予定が入っていても全てキャンセルしますから」
私の方から言おうとしていたお出かけの誘いをお姉さまにかっさらわれる。もちろんお姉さまはそんな意図はないだろうし、悔しいなんてこともないからただただ嬉しい。せっかくなのだから気合いを入れていかなければ。
「3人でご飯は〜……また今度にしよっか! ねっ、トレーナー?」
「……っ! ああ、そうだな。予定はいつでも空けておくから」
旧知の仲ということもあって2人の呼吸がぴったり合っている。羨ましさと妬ましさの2つの感情を抱えつつ、私もその談笑の中へ飛び込んでいった。
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+ | 第6話 |
久しぶりの朝練をしない休日がやってきた。今までだったら毎朝走り込みをしてから学校に行っていたけど、最近トレーナーがついてから、
『休むときはちゃんと休め。気づかないうちに体は負担を溜め込むものだから』
と言われたから、久方ぶりに何も予定がない1日が始まった。
ボクの名前はグレイニーレイン。この春トレセン学園に入学したばかりの新入生だ。幼い頃ひと回り以上離れた姉たちに憧れてレースの世界に飛び込むことを決めたボクは、なんとか夢へのファーストステップを踏むことができた。もちろん年度代表ウマ娘をも手に入れた姉の背中は遠く、そして憧れた人の背中はさらに遠く離れているけれど、毎日一歩ずつ着実に距離が近づいているように思う。
時計を見るととっくに9時を回っていた。同室のウマ娘はもうとっくに外出したみたいで、部屋にいるのはボクただ1人。休めと言われたけど1日を無為に過ごしたくはない。抱え込んでいたぬいぐるみを脇に置き、ベッドに横たわった体に力を入れて起き上がると、ようやく出かける支度を始める。行き先は特に決まってないけど、とりあえず駅前にでも行ってみようかな。
「あっ、朝ごはんも早く食べないといけないな」
その前に重要な用事を思い出してしまった。朝はしっかり食べないと、ね。
─────
結局いろいろ支度をしている間に時計は10時を回り、朝というよりお昼の時間が迫ってきていた。誰かと待ち合わせしているわけではないけど、なにやら早く行けと背中を押されている気がして、足早に駅近くへと歩いていった。
「へえ、こんなお店もあるんだ。知らなかったな」
駅周辺を散策していると、お洒落なカフェや花屋さん、地元密着の商店街など様々なショップが立ち並んでいた。初めて来たわけじゃないけど一つ一つが新鮮で、もし誰かがボクのことを観察していたら、きっと目がキラキラしているところを見られていたんじゃないかなって思うぐらいに。
幼少期、体質が弱くよくお医者さんのお世話になっていたボクは、あまり遠くに出かけることができず、憧れのレースもただテレビ越しに眺める他なかった。もちろんずっとといことではなく、小学生になる頃にはある程度落ち着いてようやくレース場で生のレースを観戦することができるようになり、今ではトレセン学園に入学できるほど走れるようになった。そして今追いかける背中は2つ。1つは偉大な姉のもと、そしてもう1つは……
「あれってもしかして……」
物思いに耽りながら駅前を散策していると、ゲームセンターでなにやら見覚えのある後ろ姿を2つ見つけた。1人はダークブラウンの髪をツインテールで括った小柄なウマ娘。丈が長いワンピースに上から羽織ったカーディガン、足元にはレザーシューズと、気合い入ってます感がこれでもかというほど溢れている。そしてもう1人は長くて綺麗な髪をした少し大人びたウマ娘、こっちは上は半袖のTシャツを、下はデニムのショートパンツを履き、靴も動きやすいハイカットのスニーカーを履いていた。
「ねえ、ザイアにエスキモー、そんなところでこそこそ何してるの?」
「「しーっ!」」
物陰に隠れてこっそり奥を覗いていた2人に呼び声を咎められ、反射的に口をつぐむ。彼女たちと同じように隠れ、2人が指をさす先をじっと見るとそこには……
「ルージュさんがぱかプチ取ろうとしてるんです」
「しかもあれってたぶんさ……」 「メジロエスキー……」
入学式の際に醸し出していた孤高の一匹狼感はここ数日で薄れてきたが、イメージとしてはやはりキュートというよりクール系が似合う。そんな彼女がなんとUFOキャッチャーに真剣になって、なおかつ狙いがメジロエスキーのぱかプチなんて、彼女にこれまで抱いてきたイメージ像が木っ端微塵に吹き飛ぶほどの衝撃だった。
「たぶんあれ復刻版だよ。実家に送られてきたってパパとママが言ってた」
「なぜお姉さまのご実家にエスキーさんのものが送られてくるんですか?」 「パパがエスキーのトレーナーだったから。まあその間海外に研修に行ってたみたいで、エスキーとは直接会ってないんだけどね」
彼女とエスキモーの間にはそんな関係性があったのか。ザイアと一緒になるほどと合点すると、お店の奥の方から
「よしっ! ゲット!」
といった声が聞こえてきた。UFOキャッチャーの下にかがみ込んでいる様子を見ると、無事に獲得することができたのだろう。ほくほく顔でしているのが遠くからでもはっきりと分かる。あれ、これもしかして……
「ねえ2人とも、早く行かないと見つかるんじゃ……あっ」
「「あっ」」 「あっ」
1人と3人の視線が交差する。すなわちそれはボクたちがルージュに見つかってしまったことを意味していた。
─────
「おい……なんでオレだと分かった?」
おそらく他の生徒に気づかれないようにするためだったのだろう、キャップタイプの帽子を深めに被り、ファッションも認識を阻害させるためにダボっとしたパーカーとスラックスを身に纏っていた。素性を知っているボクでも声を聞かないと彼女だということが分からないぐらいに上手く変装していた。だとすると、どうして2人は彼女がルージュだと分かったのか、疑問に思うのは当然のことだろう。ただ答えは至極単純なものだった。
「うーんとね、ちょうどゲームセンターの前を通りかかったときにね、ルージュっぽい人が前から歩いてきてるなーって見えたの。それでUFOキャッチャーをしてるところを見てたら、節々に聞こえてくる声がルージュだったからこれは間違いないなって」
「少し挙動不審でしたから。そしてしばらく様子を見ていたタイミングでレインさんがやってきて、あとは3人で眺めていたという流れです」
その答えを聞き、ルージュは口から声にならない声を漏らしながら天を仰ぐ。おそらく彼女が今考えているのは、『今すぐ時間を巻き戻してくれ』ということただ1点だろう。ではどうして逆にルージュは何も変装をしていない、ただ私服に着替えただけの2人の存在に気づかなかったのか。その答えはルージュの口から放たれた。
「前から2人組が歩いてくるのは分かってたんだ。ただ片方はなんか俯きながらもう1人と腕を組んでたし、もう1人はもう1人でエスキモーがする服装と結びつかなかったから分かんなかったんだよ……」
この世の終わりだと言わんばかりの深い、とても深いため息が彼女の口からゲームセンターの床へと放出される。秘密を垣間見た3人と、図らずも秘密を暴露してしまった1人のこの構図、まさに八寒地獄が地上に顕現したかのよう。寒く冷たい空気がボクたちの間を吹き抜けていく。
「3人ともいいかな?」
ルージュのことを助けようと、ボクも隠していた秘密を1つ暴露する。手を差し伸べたことになるかは分からないけれど、1人だけ恥ずかしい思いをさせるわけにはいかないから。
「ボクも何個か持ってるよ、メジロエスキーのぱかプチ。寮にも1つ持ってきてるんだ」
そう、ボクが憧れているもう1人の人物はメジロエスキーだ。随分昔の話になるけど、姉のレース映像を家族で見ていた頃、姉と何度か一緒に走って、しかも全部姉に勝ったウマ娘がいたことが強く印象に残っていた。そのときには名前を覚えることはできなかったけど、成長してからいざ姉を超えるために何が必要なのか、それを掴むためにレース映像を見返していたときに思い出したんだ。姉に勝つためには実際に姉に勝った人のレース運びを模倣することが一番だと思ったボクは、彼女のレース映像を何度も何度も見返し、彼女がどのようにトレーニングをしていたのかをネット上で調べ、真似をした。
もちろん彼女とは体格が違えば思考回路も異なる。全く同じ走りができるなんてあり得ないと分かっている。ただそれでもボクは姉を超えるために、彼女の走りを突き詰めたい、そう願って今もずっと走り続けている。
「だからルージュ、別に恥ずかしいことじゃないよ。しかもほら、2人とも君が珍しい行動をとっていることが気になってただけで、ぱかプチが好きなことを笑ってるわけじゃない。だよね?」
少し気まずそうにしている2人に話を振ると、2人とも勢いよく首を上下に振っていた。
「ほら、気にしなくていいよ。というより復刻版が出てるならボクも欲しいな。みんなコツ教えてくれない?」
「……分かったよ」 「もちろん! せっかくだし私も狙っちゃおっかなー」 「微力ですが尽力いたします」
湿った空気が風で吹き飛んでいき、反対にカラッとした雰囲気が帰ってきた。ボクとルージュ、エスキモーとザイアの4人、生まれ育った環境や今まで築き上げてきた性格は全く違うけど、これから先上手くやっていけそうな予感が心の片隅で小さく花開いた。
「ありがとな、レイン」
「気にしなくていいよ」
小声で礼を伝えたルージュへこちらも小さな声で返事をし、互いに笑顔を交わす。偶然ではあったものの紡がれた友情はこれからも続いていくことだろう。
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第2章(ジュニア編)
+ | 第7話 |
「こう3人で座ったらなんだか旅行みたいだね」
「旅行なんていう甘いものじゃないけどな……」 「お姉さまのデビュー戦……録画はしてきましたし、望遠カメラも抜かりなし……あとは意識を保てるかだけ……」 「えっ? もしかして鞄の大部分カメラなの!?」
エスキモーのデビュー戦前日、オレたち3人は新幹線に乗り関西方面へと向かっている。天気は梅雨どきにしてはすっきりとした青空で、明日も曇りはするが良バ場で開催されそうでほっとしている。エスキモーも特段重たいバ場を苦にするタイプではないんだが、せっかくならデビュー戦ぐらいは綺麗な良バ場で走らせてあげたい。その祈りが通じたのか、それとも誰かが晴れ男、もしくは晴れ女なのか、雨粒は一粒も窓に付着していなかった。
「一旦ホテルに荷物を預けてから、バ場傾向の確認のためにレース場に向かうぞ」
「はーい」 「承知しました」
コースの芝は園芸課の皆さんのおかげで常に綺麗に整えられている。しかし、1日に何十人のウマ娘が勝利のために同じ場所を踏みしめれば当然徐々に芝は剥がれてくるし走りにくくなる。円周率を持ち出さなくても内ラチ沿いを走れば走るほどコースロスはゼロに近づき、反対に離れれば離れるほどコースロスは大きくなる。それが分かっているからこそ、レース序盤は走りやすくスタミナの消費を抑えられる内側にいち早く入ろうとする位置取り争いが激しくなるわけだが……
「内側がどれだけ荒れているか、みんなどれほどスペースを空けているかは実際に見てみないとな」
「京都から阪神に開催が移って4週目になるんだもんね。結構荒れてるんだろうなー」 「勝負はもう始まっているのですね。勉強になります」
芝が剥がれてくると土、専門用語で上層路盤Aと呼ばれる茶色い部分が顔を出してくる。いわゆる「バ場が荒れる」という状態へと変化する。当然走りやすさの点で言えば芝が生え揃った状態から数段落ちるわけだから、いくらコースロスを防げるメリットがあったとしても相殺、むしろマイナス面が大きく表に出てくるため、レースの開催が進むにつれて、内ラチ沿いからいつもより1人か2人分空けて走るウマ娘が増えてくる。コースロスが関係なくなる最後の直線部分でも、外に持ち出して追い込んでくるウマ娘がたびたび現れるのはそういった事情もある。稀に不利を承知で荒れた内側を突っ込んで勝利を飾るウマ娘もいるが、例としてはあまり多くはない。バッチリと嵌ればかっこいいがハイリスクな戦法だから、トレーナーの立場としては基本的に勧めることはない。
「もうそろそろかな……っと来た来た」
三河安城駅を通過したというアナウンスが流れ、名古屋駅が近づいたタイミングで明日のレースの枠順が発表された。阪神5R、1人立ての競走でエスキモーが入ったのは……
「5枠6番。真ん中かー」
「これはどうなんでしょう、トレーナーさん」
入る枠によって当然有利不利が発生するのは事実だ。なにせ有馬記念の16番枠は最初のコーナーに入るまでのコースロスや位置取り争いで圧倒的不利となり、長い歴史の中でこれまで勝ったウマ娘は1人しかいない。翻って新潟の直線1000mのコースではバ場の荒れ具合が比較的緩やかな外枠が有利で、逆に最内枠が不利を被っている。他にも東京の芝2000mなどが挙げられるが、これらはあくまでも極端な例であって、どのレース場のどの距離設定でも差異はあれどどの枠からも勝者は出ている。あとは……
「エスキモーの脚質は基本的には差し。だから包まれやすい極端な内枠じゃないのは良かったと思う。後入れだからあまり待たずに済むしな。スパートのタイミングで外に出しにくいというのも考えにくいし、いい枠に入ったんじゃないか?」
「よかったー。だけどそれでもマークされるんだろうな……」 「デビュー戦にも関わらず、大勢の記者の方から取材を受けられてましたからね。やはりあの一件が大きかったかと」
今から2ヶ月ほど前に起きた能力検査での一件は、学園内で話が収まると考えていたら、どこから話を聞きつけにきたのか、よくトレセン学園に出入りする女性記者から取材を受けることになった。そのときはあまり盛り上がることはなかったのだが、関西地区最初のメイクデビュー以降、急に取材陣が殺到するようになった。なぜかというと……
「まあそれもこれも」
「ルージュさんの一言が原因、ですね」
そのレースで勝利を飾ったルージュがエスキモーの名前を出したからである。
「本人も強い勝ち方をしたのに、『入学して初めてのレースでボコボコに負けた奴がいるから、まだまだ鍛えないといけねえ』なんて言ってエスキモーの名前出すから……」
「そしたら週明けにいきなり取材受けてさ。びっくりしちゃった」
そこからは雪だるまのようにどんどん取材陣が増えていった。しかも話そのものにも尾ひれがつけられていき、『大差で勝った』とか『ハンデで5秒待ってからスタートした』などと膨らんでいった。挙げ句の果てには『2400m走る相手に2600m走って勝った』と言われ始め、慌てて火消しに回ったのも記憶に新しい。
「まあお姉さまは素晴らしい素質をお持ちの方ですから、強く見られるのは仕方ありません」
窓際の席で自慢げにふふんと鼻を鳴らすザイアを見て、真ん中に座っているエスキモー越しに今更なことを尋ねる。
「そういえばなんでついてきたんだっけ?」
「お姉さまのレースですから当然でしょう?」 「あっうん、分かったよ……」
何を聞いているのか分からないと言いたげな表情で、さも当然の権利だと言わんばかりの口調で返されると二の句を継げなくなってしまう。そうか、この子はエスキモーのことが好きだったんだな。しかも“like”じゃなく“love”の方で。
「まあ私は応援してくれる人が1人でも多い方が頑張れるからさ。ザイアが来てくれて嬉しいなって思ってるよ」
「お姉さま……!」
エスキモーってわりと人たらしなところあるよな……本人には言わないけど。たぶん親譲りなんだろうな。その親御さんにも言わないけど。
(今のうちにデータまとめるか……)
隣で2人が楽しんでいる間にホテルでの作戦会議用に今集められるデータをまとめておく。ただ対戦相手のデータはほぼ集めきったから、あとは今日のレースのバ場傾向の分析ぐらいだけど。もちろん今日のレースはまだ1レースだけしか行われていない上にダートのレース。すなわち……
(年頃の女の子2人を管理するのって思った以上に大変かもしれないな……)
談笑している2人に気づかれないように小さくため息をつく。そこから京都駅を過ぎて降りる準備をするまで、オレはタブレット端末で調べ物をしているふりをしていた。
─────
「レース場とーちゃーく」 「府中も大きいけど、ここも結構大きいよなあ」 「私は関西のレース場に来る機会があまりなく、今日が初めてです。当然中継では見たことがあるのですが」
新大阪駅で一旦降りて予約していたホテルに荷物を預け身軽になったオレたち3人は、そこからまた40分ほどかけて阪神レース場へと到着した。ただ着いた頃には既に5Rまで終了していて、6Rのパドックももうじき終わり、本バ場入場が始まるところだった。
「どうする? 腹も減ったし何か買ってこようか? もちろんエスキモーは明日のレースに響かないように重いのは禁止だからな」
「えー! だったら……みんなで食べられそうなのがいいな。それで重くないやつ。ならいいでしょ?」 「私はトレーナーさんにお任せします。おそらくトレーナーさんの方がお詳しいでしょうから」
ザイアは実質指定なし。じゃあみんなで食べられそうなものといえば……
「分かった。ちょっと行ってくるよ」
そう言ってオレは1階のファストフード店が集ったエリアへと足を運んだ。そしていくつかみんなで摘めそうな物を何度か列に並びながらも見繕い、再びコース近くにいる2人のところへ歩いていった。
「ってあれ? ザイアはどこに行ったんだ?」
元々いた場所に戻ると、そこにはザイアの姿はなく、エスキモーだけがオレを待ってくれていた。
「ザイアは3人分の席確保してくれてるの。4コーナー近くの屋根があるとこ」
「なんだ。だったら直接行った方が近かったな」 「そんなことしたら私が一人ぼっちになっちゃうじゃん! あ、両手塞がってるじゃん。何個か持たせて」 「冗談、冗談。君を一人ぼっちにはしないから。おう、ちょっと熱いかもしれないから気をつけてな」
互いに軽口を叩きつつも席を取っておいてくれているザイアの元へ足を運ぶ。空は朝と変わらず曇り空で、陽射しも強くない絶好のレース日和が続いていた。
「そういえばさ、今回ホテル予約してくれたでしょ? もしかして2人だけだったら家に泊まらせてくれたりしてた?」
ザイアが見えるか見えないかぐらいの場所で、エスキモーはニヤニヤした笑顔を浮かべながら、周りに聞こえないようにオレの耳元で静かに囁く。返答が分かってるくせにこの子は……
「いつかはな。今はまだ早い」
「いつかは、か。お義母さんに挨拶できるの楽しみにしてるからね」 「……なんか今発音おかしくなかったか?」 「えー、トレーナーの気のせいじゃない?」
この世界で再会を果たしてから2人でいくつか約束をした。
1つ目は互いに手を出さないこと。主にいわゆる「恋のABC」だけじゃなく、外で腕を組んだり手を繋いだりすることも含まれる。「夢」のときはそれはもういろいろしてしまったけど、本来は中等部の彼女としていいことではない……正直腕を組んだり手を繋ぐぐらいは妥協してもいいかと迷ったが、ここはきっちり線を引くことにした。オレはともかく、彼女が非難の雨に打たれることは絶対に避けたいから。家に来て毎食ご飯を作ってくれたり、家事を手伝ってくれているのは、言い訳に苦しいところがあるけど……別にやましいことはしていないからセーフだろう、たぶん。付き合っていると周囲に明らかにするのも全て卒業してからにしようと、お互い納得の上で約束した。
2つ目はあくまでも出会ったのはチーフトレーナー、すなわち彼女の父経由だと周囲には言うこと。「夢」の話をしたところで誰も信じないだろうし、万が一おかしな人扱いをされればそれこそ耐えられないだろうから。
最後は……メジロエスキーを超えようということ。この世界ではエスキーと走ることは叶わないけど、GⅠの勝利数でもタイムでも記録を塗り替えようと約束した。エスキモーにすれば親、オレにしてもかつての師匠を超えるという高い目標を抱いてレースに臨もう、そう誓いあった。
(明日はその大事な最初の一歩。気合い入れないとな)
そう自分に言い聞かせたところでちょうどザイアのところへ到着した。手に持ったものを机の上に置き、椅子へ座ろうとしていると、なにやらザイアが不審そうな目でオレとエスキモーを睨んでいた。
「……ここに来るまで随分と楽しそうに話をされてましたね? 距離もなんだか近いような気がします」
もしかして疑われているのかと身構え、何を言おうか頭で必死に考えていると、話は別の方向へ転がっていった。
「私もお姉さまともっと親密になりたいんです! トレーナーさんばかりズルいです!」
「あっ、そっち?」 「なーんだ。身構えて損しちゃった」
確かに気にしていたのはオレとエスキモーの距離だったのだが、なぜそこまで距離が近いのかというより自分もという嫉妬だったのか。それなら話が延焼することはなさそうでひと安心かな。
「ほら! お姉さまは私の方へ来てください! トレーナーさんは机を挟んで向かいです!」
「もう、ザイアはヤキモチ焼きだなあ」 「お姉さまのせいですよ!」
この子には案外バレないかもしれないなあなんて思いつつ、オレはエスキモーの向かいに座り、持ってきたたこ焼きやらポテトやらをほくほく言いながら口の中へ放り込んだ。
─────
10Rまでで今日の芝のレースは全て終わったことから、軽食をとった場所で今日のレースをパトロールビデオつきで振り返る。オレの左隣にエスキモーが座り、その隣にザイアがぴったりくっついている。
「やっぱりインを突く子はあまりいないか。セオリー通り内ラチから2人分は離れて回ってきている」
「内ラチをぴったり回ると逆に消耗しちゃうってことか……ってザイア、そんなにくっつかれたら動きにくいって」 「嫌です。今日はお姉さまから離れたくありません」
ダノンのご令嬢とはいいつつも幼い部分もあるんだなと苦笑する。なんだかんだ彼女もまだ小学校から上がってきて2ヶ月と少し。「夢」の中ではあるが先に約3年ほど学生生活を過ごしたエスキモーを基準にしてはいけない。それ以上にこの子は元々大人びた性格をしているから、いくら同い年だとしても、2人の精神年齢にそれなりの差が出るのは自然といえば自然かもしれない。
「それで明日の作戦は?」
「うーん……ここで誰かに聞かれちゃいけないし、ホテルに戻ってから話そうか」 「はーい。とりあえず最後のレースまで見てから帰ろ?」
最終レースはダートの1800mを舞台にクラシック級以上の1勝クラスのメンバーで行われる。オレは出走者の過去の戦績や追い切りの情報を駆使しつつ、誰が勝つのかを考える。一歩間違えれば賭け事に繋がりかねない行為ではあるが、職業柄、そして自身の性格柄、自身の分析とレース結果の差異はどうしても比較したくなってしまう。
「過去の戦績では8番が頭一つ抜けているけどまだデビューして3戦、そして上がり最速を2度出している3番の子も気になる……よし、3番の子を中心に応援しよう」
ぶつぶつ呟きながらゴール板の前を陣取り、レースが始まるのを待つ。ちなみにエスキモーたち2人はゲートの前で出走者のみんなの様子を腕を組みながら眺めていた。
そして結果は……
「やっぱり8番の子が強かったか……この勝ちっぷりは重賞でも楽しみになるな」
「ちょっと。他の子に目移りするのはやめてよね」 「私! 私はお姉さましか見てませんから!」
強さに感心する人間と少し嫉妬心を燃やすウマ娘、気を引かせようと必死なウマ娘、傍から見たらどう見えるんだろうと思いつつ、オレたちはレース場をあとにしてホテルへの帰路についた。
─────
「髪も尻尾も整えたし準備完了! それでトレーナー、明日の作戦は?」 「お姉さま……いい匂い……ふへへ……」
ホテルへ戻り夕食も風呂も済ませたオレたち3人は、明日のレースに向けてオレの部屋で作戦会議を始めようとしていた。いやまあザイアは部屋でゆっくりしていて構わなかったんだが、エスキモーの側にいたいということで同席することになった。オレが部屋に備えつけられている椅子に座り、2人はベッドに腰掛ける形で向かいあったところで話を始める。
「基礎知識としては行きの新幹線で話したとおり、開催が進んでいる関係でインベタで走るのはやめた方がいい。今でも君は2000m以上に対応できるスタミナがあるから勝つことはできるだろうけど、無駄に全力を出して他の陣営に持っている手札を見せることは避けたい」
「無理なくインを突けたとしても、同じことを考えている子が前にいたら詰まっちゃうもんねー」 「いわゆる前が壁というものですね。能力を出し切れずに敗北するなど、これまで積み重ねてきた努力が無駄になってしまいます……お姉さま? 私はぬいぐるみなどでは……あっ、柔らかい……いい匂い……」
エスキモーがザイアを膝の上に乗せて抱きかかえながら話を続ける。抱かれた方は恍惚な表情を浮かべているけど、抱いている本人は至って真面目な顔で明日のレースのことを考えているのが若干シュールだ。オレもオレでいちいち構ってはいられないから、タブレット端末を操作しながら話を進めることにする。
「明日のメインレースは宝塚記念。過去このレースから多くの重賞ウマ娘やGⅠウィナーが輩出されているから、巷では出世レースと呼ばれている。当然それにあやかりたい陣営や、早めに勝ち上がって夏合宿を丸々秋の重賞戦線に向けた鍛錬期間としたい陣営が顔を出してくる。もちろんオレたちもその中の1つではあるんだが……」
「どうしたの?」
小首をかしげるエスキモー。彼女に今のタイミングでこのことを伝えて大丈夫だろうかと逡巡する。おそらく普通のウマ娘であれば、こんなことを聞かされたらいい意味で張った緊張が緩んでしまうかもしれないから。ただ彼女なら、「夢」であっても一度トゥインクル・シリーズを駆け抜けた彼女なら大丈夫だと信じて口を開く。
「スタートさえミスしなければ勝てる。オレはそう考えている」
「それは私の実力が抜けているから?」 「そういうことだ。両親から受け継いだレースセンスとこれまで築き上げたスタミナやトップスピードを持ってすれば、現段階では同世代の子より頭一つか二つは抜けている。だから大逃げを打ったり、最後方でじっくり構えすぎることがなければ突破できるラインだと考えている」 「お姉さまぁ……」
レースセンスの部分については「夢」で培ったものもあるのだが、ここではザイアがいるから説明は省略する。ただエスキモーに抱かれて蕩けたこの状態なら、正直ポロッと口から漏れたところで明日には忘れてくれていそうではある。
「ということは、ゲートを出たらそのまま中団に待機。4コーナーが近づいてきたら外に持ち出してスパートをかけて、直線半ばで抜き去るのが理想だね」
「そういうこと。ただこの時期の1800m戦は緩いペースになりがちだから、ポジション取りは一列前でもいいかもしれない。1番人気は確実だし、周りの陣営から絶対にマークされるだろうから」 「あっ……私このまま眠れそう……」
流石にメイクデビューで某世紀末覇王のような徹底マークは受けないと思うけど、念には念を入れたい。オレの提案にエスキモーがこくりと頷いたところでザイアが限界を迎えたので、会議を終わらせ各自の部屋に戻らせる。2人が部屋をあとにしたところで、電子機器の充電を開始し、明日の服の準備を済ませる。
「アラームを朝6時にセットして……っと。やることやったし、今日はこの辺りで寝るとするか」
そう独り言を呟きながら部屋の電気を消して大きめのベッドに寝転がる。布団を体にかけて目を瞑ろうとしたとき、枕元に置いた携帯の画面が明るくなったのに気づいて慌てて手に取ると、エスキモーから届いたメッセージの通知が画面に表示されていた。
『まだ起きてる?』
『起きてるよ』と返事を返すと、すぐに既読マークがつき、すぐにメッセージが送られてくる。
『いよいよ明日からだね。私たちの2回目のトゥインクル・シリーズ』
『やっぱりちょっと緊張するけど楽しみだね』
『緊張しているようには見えなかったけど』
『ううん、そんなことない』
『私のことちゃんと見てる? ザイアに目移りとかしてないよね?』
『してない』
『オレが見てるのは君だけだよ』
そう返すと一旦返事が返ってこなくなった。寝落ちしてしまったのかと疑問に思っていると、そんなことはなく言葉のキャッチボールは続いていた。
『嬉しい。ありがと』
『私もトレーナーのことしか見てないから』 『大好きだよ。おやすみなさい』
「君はズルいなあ……そんなのこう返すしかないじゃないか」
明るい画面を見ながらこう返信して携帯の画面を真っ暗にする。
『オレも大好きだよ。おやすみ、エスキモー』
(それにしてもパジャマ姿可愛かったな……)
久しぶりに見た彼女の寝間着を思い出しながら静かに目を閉じ、夢の世界へと一歩ずつ歩みを進めていく。今日という1日の舞台を降り、明日という未知なる舞台へ上がるために。
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+ | 第8話 |
「ふっふーん。おはよー、ザイア。よく眠れた?」
「おはようございます、お姉さま。ええ、いつ部屋に戻った記憶がありませんがぐっすり眠ることができました……鼻唄?」
お姉さまのレース当日の朝、互いに制服に着替えたお姉さまと私は朝食をとるためにホテルのバイキングコーナーへとエレベーターに乗って向かう。ただなぜかお姉さまは道中ずっと鼻唄を歌っていた。今までお姉さまと過ごしてきた3ヶ月弱、朝起きて鼻唄を歌っている姿をあまり見たことがなかったから、つい何があったのか聞いてしまった。
「ふふふふーん。えっ、なに私鼻唄歌ってる?」
「気づかれてなかったのですか……先ほどからずっと歌ってますよ、お姉さま」
どうやら気づいていなかったらしい。それほどまでに調子がいいのか、はたまた何かいいことがあったのか。
「デビュー戦楽しみだからさ。緊張もするけど、やっとみんなの前で走れるんだって思うとわくわくしちゃって」
「すごいですね、お姉さまは」 「褒めても何も出ないよ? でもありがとね」
笑顔が眩しい……お姉さまを見るだけでビタミンDが体内で生成される気がする。これは早く学会で発表しなければ。
「そういえばトレーナーは……あっ、いた。おはよ、トレーナー」
「おはよう、エスキモー。朝から調子いいな」
トレーナーさんが先に朝食を食べているのを見て、お姉さまは小走りに隣の席を確保しに向かっていった。私は自分の分と合わせて手ぶらで席に行ったお姉さまの分もお皿に盛り、お姉さまの隣の席を確保した。
「はい、お姉さまの分はここに置いておきますね。レースに支障が出ないように軽めにしておきましたから」
「ありがと、ザイア。じゃあ代わりに飲み物取ってくるね」
トレーナーさんと向かいあって熱心に話し込んでいたと思ったら、お姉さまは近づいてきた私にすぐに気づいて席を立った。ほぼ真後ろから歩いたのに足音で分かったのか、それとも後ろが見えていたのか。
「あの子は周りをよく見れる子だから」
「そうですね。だからこそお姉さまは素晴らしいんです」
考え込んでいた私の頭の中を読んだのか、トレーナーさんはさりげなく答えを横から差し出してくれる。それにしてもお姉さまもそうだけど、トレーナーさんも初めて単独で受け持つ担当ウマ娘のデビュー戦なのにすごく落ち着いている気がする。
「トレーナーさん、一つ伺ってもいいでしょうか?」
「うん、いいよ。オレに答えられることなら」 「私、お姉さまもトレーナーさんももっと緊張するものだと考えていました。しかし2人ともそのような素振りは全く見せません。それは自信、でしょうか?」
トレーナーさんは一瞬視線を天井に向け考え込む仕草を見せたが、すぐに私に向き直し落ち着いた口調で話し始めた。
「もちろん自信があるというのが一番大きいのは確かだ。追い切りのタイムを見ても他の子と比べて頭一つどころか二つ三つは抜けていると思っているから、勝つチャンスは十二分にあると考えている。ただもう1つだけ理由はある」
「それは?」 「オレは彼女を信頼しているから、彼女はオレを信頼しているから安心してレースに臨める。これが2つ目の理由かな」
信頼。言葉にするだけなら容易い。ただトレーナーさんは自分自身がお姉さまに向けたものだけではなく、お姉さまからも自分自身に向いていることに何の疑念も持っていない。決して一朝一夕では築き上げられない関係性。一体その裏に何があるのか聞こうとしたタイミングでお姉さまが後ろから私の分の飲み物を机に置いてくれた。
「なんか2人で楽しそうに話してたけどどうしたの?」
「お姉さまには内緒です。そうですよね、トレーナーさん」 「ああ。エスキモーには内緒だ」
私とトレーナーさんが顔を見合わせて笑う中、お姉さまは『2人とも教えてよー』と頬を膨らませて抗議していた。可愛さのあまりつい言いそうになったけど、トレーナーさんが『今日勝ったらな』とフォローしてくれ、無事に難を逃れることができた。
……でもこれ99%言う羽目になるような?
朝食を食べ終えた私たちは一旦部屋に戻ったあと支度を整えてホテルを出発した。一歩ホテルの外に出て空を見上げれば、昨日の雲は風に流され綺麗さっぱりなくなっていて、まさしく抜けるような青が視界いっぱいに広がっていた。お昼の最高気温も真夏日には届かないようで、このような天気の下で走ることができるお姉さまが少し羨ましくなってしまう。荷物がなければ走りたいなと思うほどに。
「これもこれで絶好のレース日和だな」
「神様がもお姉さまの勝利を前祝いしているかのようですね」 「よし、今日は勝つよ!」
3人は立ち止まることなく先へ進む。未来を見るために、夢を掴むために、そして予定の電車に乗り遅れないために。
─────
「お姉さま、準備はよろしいでしょうか?」 「もちろんバッチリ! それじゃあ行ってくるね!」 「よし、勝ってこい!」
レース直前の控え室、体操服に着替えたお姉さまとレース前最後の打ち合わせを済ませたトレーナーさんは、彼女の背中をぽんと叩いて送り出した。ただお姉さまの足音が遠ざかっていく中、ゆっくりと椅子から立ち上がり、ぐーっと伸びをしてふっと力を抜く動作を二度三度と繰り返す。今度は自分に言い聞かせるように『よし』と呟くと、笑顔で私を部屋の外へと誘う。
「それじゃザイア、オレたちはゴール板の前でエスキモーを待っていようか」
「はい。必ず最前列を取らなければいけませんね」
胸を張って扉を開き観客席へと歩いていく。視線を上に上げれば朝と変わらず絵の具で一面塗られたような晴天が広がっていた。時折白線が青いキャンバスの上に一筋の軌跡を残し、空という1枚の作品に彩りを加えていくのを、私は両手を握りしめただ静かに眺めていた。
─────
『枠入りが順調に進んでいきます。奇数番号のウマ娘の枠入りが完了し、続いて偶数番号のウマ娘がゲートへと入ります』
2コーナー奥のポケット地点、GⅠでは阪神JFや桜花賞が行われる1600mより1ハロン長い距離で行われる今日のメイクデビュー。ゲートでごねる子もなく、みんなテンポよくゲートへ入ってレースが始まるのを静かに待っている。
『1番人気、5枠6番メジロエスキモーもスムーズにゲートへ収まります』
スタート地点からは実況は聞こえないらしい。となれば観客席からの歓声など考えるまでもないだろう。今私にできることは静かにただ祈るだけ。お姉さまが最後の直線にやってきたときに声を張り上げるために今は喉を休めておく。
(神様。どうか今だけでもお姉さまに力を……)
『──がゲートに収まり、態勢完了……スタートしました! 各ウマ娘まずまずのスタートを切りました。人気のメジロエスキモーは中からすーっと上がっていって、今中団前の方へと行きました』
レースが始まると、息もつかぬ間に時が過ぎていく。ターフビジョンに映し出されている12人、少しバ群の外側に位置している関係で見づらいけど、確かにそこにお姉さまが走っている。緊張などまるでしていない表情で時々内側の様子を見ながら、淡々と前を追走している。
「なあザイア。このコースを見て何か思うところはあるか?」
心に余裕があるのか、私と同じように隣でレースを見つめるトレーナーさんがターフビジョンを見ながら、まるで教師のように質問を出してきた。正直あまり考える余裕はなく、直感で思い浮かんだ回答を口に出した。
「長い直線を走ったあとゆったりとしたコーナーを回って、最後に再び長い直線を走る、個々人の実力を真正面から試されるコース、でしょうか」
「正解だが、だからこそ生まれるレース展開まで言及してくれていたら100点満点だったかな……今ちょうど3コーナーから4コーナーに向かうところで最初の1000mを通過するんだが……やっぱり61秒ぐらいか。どうしても向こう正面の直線が長い分、ペースが落ち着きやすいんだよ。これが重賞になってもあまり変わらないのが特徴なんだが、裏を返すと……」
ターフビジョンに映し出される12人の表情と脚色が途端に変わる。すなわちこの答えは……
「最後の瞬発力で勝負が決まる……」
「そういうこと」
第4コーナー手前から全員が一斉にスパートをかける。目まぐるしく先頭が入れ替わり、瞬きをするたびに展開が二転三転と変化していく。その中でお姉さまは……
『残り300mでメジロエスキモーが先頭に代わる! リードを1バ身、2バ身と広げていきこれは楽勝ムード!』
「お姉さまああああああああああ!!!!!」
生まれて初めてお腹の底から張り上げた声、令嬢などというペルソナを今は脱ぎ捨て、貴方に届け、届けとただひたすらに想いを伝える。詰めかけた観客の中で私が一番貴方を応援しているのだと、貴方のことが一番好きなのは私なんだと知ってもらうために、目いっぱい空気を肺に取り込み、己の声帯を力の限り震わせる。
ゴールまであと100m、50m、10m……一歩ずつ勝利が近づいたその瞬間、
「お姉、さま……?」
愛する貴方と目があった……気がした。
『メジロエスキモー! 圧勝で今ゴールイン! 終始脚色に余裕があり、しかも最後は流して5バ身差! また新たな新星がこの仁川の地で輝き始めました!』
─────
レース後、オレとザイアの2人は控え室でエスキモーを迎え勝利を祝った。なんでザイアじゃなくてオレが話しているかって? それは……
「お゛め゛で゛と゛う゛ご゛ざ゛い゛ま゛す゛お゛ね゛え゛さ゛ま゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛」
「ちょっ!? ザイアどうしたの、そんなに泣いちゃってもー」 「だって……だってお姉さまが勝ったのが嬉しくて……」 「うんうん。ザイア、応援ちゃんと届いてたよ」
彼女、レースが終わってからずっとこの調子で、まともに話せる状態じゃないからな。もはやエスキモーが介抱する側に回っているし。流石に見かねたオレはザイアをエスキモーから引き剥がし……いや全然離れてくれねえ!?
「ザイア! エスキモーが困っているだろ! ちょっとは離れな……さい!」
「いーやーでーすー! そんなこと言ってトレーナーさんが代わりにくっつきたいんですよね! その魂胆見え見えです!」 「君の目は節穴か!」
オレとザイアは息も絶え絶えで疲労困憊だし、エスキモーは自分のことなのに笑いながら為されるがままだし、今誰かに控え室の中を覗かれたら『控え室で何をやっているのか』と問い詰められること請け合いだろう。
「お疲れー。2人ともお水飲む?」
四つんばいになってヒーヒーと息を吐いているオレとザイアに対し、エスキモーが冷たい水を紙コップに入れて差し出してくれる。オレはそれをそっと受け取ると、一気に傾け喉を潤した。
「ふぅ……よし、一旦仕切り直して……おめでとう、エスキモー。まずは1勝、だな」
「ありがと、トレーナー。トレーナーのおかげだよ。あっ、もちろんザイアもありがと」 「ふぅ……いえ、私は私にできることをしたまでですから」
改めて彼女に祝福の言葉を伝える。もちろんこれで終わりじゃない、次があるという言葉も後ろに続けて。それを彼女は笑顔で受け取り、今度はオレとザイア2人に感謝の想いを声に出した。
「ねえ、このあとウイニングライブあるんだけど、その前にさ、みんなで一緒に宝塚記念観ようよ。せっかくだし」
「ああ、勉強のためにもな」 「お姉さまの隣でじっくりと拝見します」
まずは1勝。夏を越し秋の大一番へ。また2人、いいや3人で走っていこう。
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+ | 第9話 |
青い空、白い雲、そして視界いっぱいに広がる大海原。空を見上げれば真っ赤な太陽が白い砂浜を照らす。そう、熱い夏合宿がやってきた。
「頼むから毎日倒れるのはやめてくれよ……」
「善処します……」
半袖半パンのトレーニングウェアに身を包み、日よけの帽子を被ったトレーナーさんが隣に立っている私へ気まずそうに一言お願いしてくる。私はその言葉にトレーナーさんの方でもまっすぐでもなく、下に目線を下げながら答えざるを得ない。なぜなら……
「トレーナー! ザイア! 早く練習始めよー!」
すぐそこにお姉さまが水着姿で私たちを呼んでいるからである。
少し考えてみてほしい。ただでさえお姉さまは普段から容姿が大変素晴らしく、それだけでこの国は国際社会に勝利していると言っても過言ではないけれど、そのお姉さまが水着を着るのである。中等部初年度にも関わらず、出るところは出ていて、締まるとこは締まっている、まさに芸術品と呼ぶべき肢体。法律にはあまり詳しくないけれど、もうこれは何かしらの罪に問われてもおかしくない。波間に漂うマーメイド、海底に咲く白珊瑚、水着姿のお姉さまの美しさは言葉だけでは表現できない。
「どしたの、ザイア? いつもならザイアの方私のこと見てくれるのに、今日は目線合わせてくれないの?」
「ひゅっ……」 「早い早い。まだトレーニング始まってない」
危ない危ない。危うくお姉さまの拗ねた顔を見て意識を飛ばすところだった。耐えろ私……せめてこの合宿中片手で数えられるぐらいには抑えよう。
「……トレーナーさん、早く練習を始めましょう」
「……おう」
─────
「何やってんだあいつら?」 「いつものことじゃない? ほら、ボクたちも早く行こ。トレーナーが呼んでる」 「おう」
向こうの方でエスキモーとザイアの奴がトレーナーを挟んでわちゃわちゃしているのを横目に見ながら、トレーナーの元へ集まる。他のチームメンバー、先輩たちやレインと並んで各自この合宿でのトレーニングメニューを伝えられると、すぐにウォーミングアップへと移行する。
「それにしてもあっちいな……ちゃんとレインたちの言うとおりに日焼け止め塗ってきてよかったぜ」
「行く前に聞いておいてよかった。聞いてなかったら絶対持ってくることすらなかったよね」
燦々と太陽に照らされているはずがなぜか背筋がひゅっと寒くなる。九割九分レインの視線のせいだろうけど、なにも気にしていないふりをしてウォーミングアップを続ける。
「そーいやデビュー戦来月だっけか」
「うん、新潟の予定だよ。姉さんと同じ8月最後の開催、しかも同じ芝1800mにしようってトレーナーが」 「姉さんね……」
そう、レインの年の離れた姉も新潟レース場の外回り1800mでデビューして圧勝し、そこから栄光の階段を駆け上がった。翌年の春のクラシックでは苦汁をなめるも、秋から一気に飛躍。その年の年度代表ウマ娘の座を射止めると、翌年も勢いは止まることはなかった……年末最後のレースまでは。
「ボクは姉さんを超えてみせるよ。この脚で」
「姉に勝ったウマ娘の真似をして? って冗談だよ、冗談。オレが悪かった。そんな顔すんなって」
露骨に機嫌が悪くなったところで間髪入れずに謝罪する。流石にオレも嫌がらせをしたいわけではない。まあ入学前のオレなら謝ることなくむしろ挑発していたのかもしれないが、どっかの誰かさんのおかげで繋がることの重要性を思い知らされたからな。
「おいおい、喧嘩はよしてくれよ」
不穏な気配を察知したのか、気づかないうちにオレたちの前にトレーナーが姿を見せた。忍者みてえなその気配の消し方、存在感が薄いわけでもなくむしろ濃いはずなのに、近づくまで分からないのはオレたちの察知能力が低いのかそれとも……
「ちょっと聞こえが悪いって、トレーナー! オレたち別に喧嘩してるわけじゃないから! なあ、レイン?」
「……謝ってくれたから別に怒ってないよ」 「ほら!」
肩を組んで仲が悪くないところをアピールするオレらに対し、トレーナーは苦笑しながら窘める。
「ルージュはレインの優しさに甘えないように、ラインはしっかり見極めること。レインも嫌なときははっきり言うこと。君が優しいのは分かっている。だからこそ溜め込みすぎないように。2人ともいいな?」
「「はい!」」 「ならよし。トレーニング始めるぞー」
オレたちの頭にポンポンと1回ずつ手を置いてトレーナーが去っていく。触れられた部分がじんわりと暖かく、そこからまた全身へと伝播する。親に褒められたような不思議な温もり、この感情を言葉にするための語彙力はオレにはまだ備わっていなかった。
─────
「じゃあ10分休憩! 水分を摂るのを忘れるなよ!」
1日の中で最も気温が上がるとされている午後2時。太陽は朝から変わらずボクたちを溶かすかのようにギラギラと輝き、白いビーチは日光を反射してボクたちをこんがり焼くかのように熱を持っている。そんな中ボクは近くのビーチパラソルの下でぬるくなったスポーツドリンクで喉と体を潤す。ちょうど半分ぐらいを一気に飲み干すと、顔や体についた砂を払い落とし、額から流れる汗をスポーツタオルで拭い取った。
(さっきのルージュの話、ムッとはしたけど99%事実だから、怒るに怒れなかったんだよね)
そう、ボクは姉を超えるために姉を超えた人の模倣をしている。絶好調だったはずの姉を有馬記念で倒したあの人の真似を。レース中常に落ち着きを保ちながら脚を溜め、勝負どころと見るや一気に前を呑み込んで突き放す戦法。口が悪い人は『いつも勝ち方が同じでつまらない』とか、『バカの一つ覚え』なんて言う。だけどボクはハイペースやスローペースなんて関係ない、展開なんて気にしない、この走りをすれば負けないといった「絶対」に心を惹かれた。尊敬する姉すら凌駕した末脚に並ぶべくトレーニングを積み重ね、そしてようやく来月にその一歩となるデビュー戦を迎えることが叶った。
(2人には遅れたかもしれないけど、ボクも負けずに追いつくから)
あの日は屈した末脚を今度こそ上回ってみせる。心は熱く、頭はクールに。ボクは早々と休憩を切り上げ、トレーニングを再開させるためトレーナーの元へと小走りで駆けていった。
─────
「よしラスト1本! 気合い入れろー!」 「はいっ!」
砂浜でのダッシュは想像以上に足を取られ、体力も持っていかれる。みっちり練習するのに海に行くなんてと行く前は舐めていた部分があったけれど、なるほどこれは鍛えられる。
「はいお疲れ。水分補給したら今日はおしまい! ゆっくり休んで明日に備えること。いいな?」
「はい! ありがとうございました、トレーナーさん」
夕焼けが眩しく波間を赤く照らす。初日からみっちりとしごかれた体には疲労感とともに充実感に満ちていた。
「お疲れ、ザイア。最初から飛ばしたねー」
「お疲れさまです、お姉さま。ただそれにしては、お姉さまはあまり疲れていないように見えますが」
私以上に負荷をかけたトレーニングを行ったはずなのにお姉さまは全く疲労の顔を見せず、あまつさえ私を背中におぶろうと提案してくる始末。おそらく入学前から現役トレーナーであるお父さまにみっちりと鍛えられてきたのだろう、もうクラシック級以上でも通用しそうな風格さえ漂う。
「レース終わってまだ日浅いから軽めにしてくれたんだよ、きっと。たぶんこれからどんどんキツくなっていくんだろうなって」
「……」
言葉が上手く出てこない。ただ冗談を言っているようには思えず、これからどこまで羽ばたいていくのか末恐ろしい。私は今のところティアラ路線に進む予定だから、クラシック路線に行かれるお姉さまとぶつかることは当分ないけれど、お姉さまのいないこの路線を選んで正解だなんて考えが頭をよぎってしまった。
「あっ! いたいた委員長! お風呂入ってご飯食べたら勉強教えてくんない?」
「アタシもアタシも! ぱらぱらーって見てみたんだけど結構難しくてさー」 「いいよ! 私に任せて!」
私たちの姿を見つけたクラスメイトが小走りで駆け寄り、夏休みの宿題を手伝ってほしいとお願いをしにきた。当然委員長というのは私などではなくお姉さまのことだ。あの能力検査の一件で一躍注目を浴びた多くのクラスメイトから推薦される形で、お姉さまは学級委員長へ就任し、私たちのクラスのことを取りまとめることとなった。本人も元々やりたかったらしく、本人の希望と周囲の期待ががっちり合致した文句なしの役職といえるだろう。私? 私は……
「副委員長! 委員長借りていくけどいい?」
「……お姉さま1人だけでは負担が大きいでしょうし、私も教えられる部分は教えますよ」
お姉さまと過ごす時間を少しでも増やしたいというただその一心で学級副委員長へ立候補し、信任投票の結果無事就任と相成った。当然お姉さまのサポートを含めた担当業務は欠かすことなくきっちりこなしている。学業に関してもダノン家で先々の分まで教わっていることから、テスト前など今回のように頼られる機会が幾度となく発生している。
「やった! 委員長に副委員長も確保完了! もうこれは鬼に金棒! 虎に翼!」
「夏休みの宿題なんてぶっ飛ばして、来月の夏祭り楽しむぞー!」 「「おー!!!」」
夏合宿の終了間際に近くで開かれる夏祭り。これは是非ともお姉さま……とトレーナーさんを誘わなければと心にメモを書き記しておく。
(お姉さまの浴衣……ぶへへ……)
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+ | 第10話 |
夏合宿も佳境を迎えたある日、私たち2人はトレーナーさんから1日休みを言い渡された。お姉さまも私も学校指定のものではなく、念のためにと持ってきていた自前の水着を持ってきていたのでそれに着替え、ビーチに向かったのだが……
「おまたせー」
「いえ、私も今着いたところですから……えっ」 「どしたの、ザイア? 顔赤くしちゃって」
普段あまりこのような表現はしないのだけど……ヤバい。これはヤバい、犯罪級だ。下半身はパレオを巻いているから露出は抑えられているけど、上半身が……すごい。語彙力がなくなってしまう。
「ごめんなさいお姉さま。ちょっと目を合わせたら倒れてしまいそうです……」
「えー! せっかくかわいいの選んできたのに見てくれなかったら意味ないじゃん!」
いやいやお姉さま、それはもはやかわいいというレベルを超えているんですよ……なんですかその中等部らしからぬ身体を存分に見せつけた艶めかしい水着は! かわいさや綺麗などという次元の話じゃないんですよ! ほら! 遅れてきたトレーナーさんもちょっと目をそらしちゃっているじゃないですか!
「え、エスキモー……その水着素敵だな? ただあまり他の人に見られたくはないかな……」
「ですね……」
自分のワンピースタイプの水着を見下ろして思う。私もこの年齢にしてはある程度女性的なスタイルをしていると自負しているし、それを維持する努力も日々行っている。トレーニングについては言うに及ばず、摂取カロリーを緻密に計算し取りすぎないように注意している。体重も当然毎日計測して記録している。ただ……ただ身長はまだこれから伸びるとしても、目の前のお姉さまに総合的なプロポーションで勝てる未来が全く想像できない。
「とりあえずこれ羽織っててくれ。今日一日中着ていていいから」
トレーナーさんが着ていた薄手のパーカーを差し出し、お姉さまへぐいっと押しつける。お姉さまは頬をぷくーっと膨らませながらも渋々受け取り、水着の上から羽織ってチャックを閉めた……途中まで。
「むぅ。せっかく2人に見てもらいたかったのになー」
「次の機会、それこそメジロのプライベートビーチみたいなみんなに見られないところでな……」 「その際は私も是非参加させていただきたく」
太陽も恥ずかしがってしまうほどの素敵な水着、今度は周囲の目が多くない場所でお目にかかりたい。ひとまず今日はお姉さまには我慢してもらうこととしよう。
「やっぱり脱いじゃっていい? 暑くなってきちゃった」
「「絶対駄目(です)!」」
─────
「ふぅ、遊んだ遊んだー」
夕焼けが地平線の彼方へ顔を隠す時間、砂浜に伸びる影が3つ並んでいた。一番長いのが右端のトレーナーさん、若干短くなったのが真ん中のお姉さま、一番短いのが左端の私。ときどきくっついてまた離れて、止まってまた動いて。その度に響く私たちの笑い声は波音に消されることなく、合宿所に着くまで世界を震わせ続けた。
「トレーナーさん、では一旦この辺りで失礼いたします。のちほどまた玄関の前で集まりましょう」
「ああ、2人ともゆっくり準備してこい」 「はーい」
トレーナーさんとは合宿所の前で別れ、私たちは自室へと戻る。髪や体に付着した砂や汗を洗い流すためにシャワーを軽く浴びると浴衣姿へ装いを変え、先ほどとはまた異なる「夏」を体に身に纏う。ちなみに私が選んだのは白色をベースに、ところどころに向日葵を咲かせた綿縮の生地を使ったもの。帯は我がダノン家の赤。自分自身で言うのも恥ずかしいけれど、可憐さの中に気品という筋が一本通っているように見える。ただ、お姉さまはそのような次元に存在していなかった。
「ごめん! 待った?」
「いいえ、私も今着いたところですよ、お姉さ……ま……?」
下地は落ち着いた濃紺で、ところどころに金魚が泳ぎ、私と同じひまわりが顔を出し、百合の花が散りばめられた、まさに麗人が着るにふさわしい装いではある。ただ浴衣と同じぐらい目を引くのが……
「髪……アレンジされたんですね、このために」
「分かる? へへっ、かわいいでしょ?」
吸い込まれるような長く黒い髪を首元まで上げ何度か折り返す。そしてその結んだ塊の真ん中をゴムでまとめ、毛先を上手に散らせばできあがり。私はそこまで髪のアレンジに詳しい方ではないけれど、これはファッション雑誌で目にしたことがある。そう、「ボンヘアー」だ。無造作に飛び出した髪から醸し出される色気だけではなく、普段は見ることができないうなじを垣間見せることができる、まさに一石二鳥のヘアアレンジ。本当に私と同じ学年なのかと疑うほど、理想の女性像が目の前に立っている。
「おっ、2人とも綺麗じゃないか」
「えー、トレーナー浴衣姿じゃないじゃーん。そうそう、私の浴衣姿、どうかな?」 「すっごく似合っているよ。浴衣姿でも君は綺麗だ」
時を空けずしてTシャツにジーンズ姿のトレーナーがやってきた。お姉さまは浴衣姿でないことに一見すると不満を露わにしているが、それはそれで自分自身をよく見てもらおうと懸命にアピールしているのが誰の目にも明らかだった。先ほどまで漏れ出していたたおやかさとはうってかわって、そのいじらしさに思わず笑みをこぼしてしまう。
「それではお祭り会場へ向かいましょうか」
合宿所から出てくる人の流れもまばらになったところで、そろそろ向かおうと2人に呼びかける。私の声に反応したトレーナーさんとお姉さまは雑談という名のいちゃつきをやめ、私と一緒に会場の方角へと歩き始めた。
「早く行かないとだね……っとっと」
「こら、急がない。下駄は躓きやすいんだからゆっくり歩くこと」 「はーい。じゃあザイア、私と手、繋がない?」 「……ふぇ?」
強引に掴まれた右手がお姉さまの彫刻がごとき左手と一体となり、途端に熱を帯び始める。風が通りやすい涼しい生地を選んできたのにも関わらず、脳は暑さを訴えかけてくる始末だ。手汗も一気に噴き出した気がしてくる。
「私もザイアが転ばないように握っておくから、ザイアも私が転ばないようにちゃんと握っててね」
「ふぁ、ふぁい……」
まだ屋台の一つも見えないのに、頭の中ではもう祭り囃子が鳴り響いている。今日は最後まで意識を保っていられるだろうか。
─────
「ザイア、あーん」 「あ、あーん……熱っ!」 「やけどすんなよー」
会場に着くとそこは地元の住民と合宿所から来た大勢のウマ娘たちで賑わっていた。賑わいすぎていて中央通りと思わしき道は渋滞の域に達しているけれど。今は比較的空いていた屋台で買ったたこ焼きを、なぜかお姉さまにあーんして食べさせてもらっている。
「はい、トレーナーも。あーん」
「子どもじゃないんだからさ……あーん……あっつ!」 「トレーナーさんもやけどしないでくださいね……」
母鳥が自分の子どもに餌を与えるように、お姉さまは私とトレーナーさんの口へ何個もたこ焼きを放り込んでいく。ただの行動の基盤は慈愛の精神というより、楽しんでいる感情が基になっている気がする。
「なにやってんだ、お前ら……」
「2人とも楽しそうだね。あっ、エスキモーとザイアのトレーナーさん、こんばんは」
お姉さまがけらけら楽しそうにしている中話しかけてきたのは、これまた浴衣姿をしたルージュとレインだった。2人ともシックで落ち着いた柄の浴衣を着つつも、屋台で買ったいか焼きやりんご飴を手に持っていて、このお祭りを楽しんでいるように私には見えた。
「こんばんは2人とも。いつもエスキモーがお世話になっています。ルージュはメイクデビュー勝ちおめでとう。レインはこの週末デビュー戦だっけ?」
「はい、新潟の1800mを走ります。2人にすぐ追いつきますから」
蒼い瞳に闘志が燃える。氷をイメージさせるような髪、瞳、そこからは想像できない燃える炎は私やお姉さまだけではなく、トレーナーさんの瞳にもはっきりと映し出されていることだろう。
「ああ、来年のクラシック、3人で戦えるのを楽しみにしているよ。ただ勝つのはオレのエスキモーだけどな」
「はっ、言ってろ」 「ボクも負けませんから……ではこれ以上お邪魔してもいけないので、ここで失礼します」
『それじゃ』と言ってさっと踵を返すルージュに対し、レインは軽く会釈をしてから先に行った彼女の隣へ小走りで向かっていく。私たちもちょうど姉さまが手元のたこ焼きをほふほふ言いながら食べ終わったところで、次なる屋台を探しに通りへ繰り出す。
「レインも週末にデビュー戦を迎えるのですね……」
「どしたの、ザイア? あっ、もしかしてまだ自分だけデビュー予定決まってないの焦ってる?」
焦っていないといえば嘘になる。そもそも3人に比べて本格化が始まるのが若干遅く、それに伴いトレーニングも当然質と量の両方でみんなより劣っていたことがしばらく続いた。夏合宿に入ってからしばらくしてようやく本格化の兆しが見えてきたが、デビューとなるとまだ先なのだろうとため息をついてしまう。
「焦らなくていい、なんて無責任なこと私は言えない。だけど大丈夫。だって私たちにはトレーナーがいるから。ねっ?」
そう言ってお姉さまが自信たっぷりに話を振った先には、それ以上に自信に満ちあふれたトレーナーさんの顔があった。空の星をかき消す屋台の光よりもさらに明るいその表情を見ると、燻りを見せていた心の中の焦燥感が徐々に鎮まっていく。
「ザイア、焦る気持ちは分かる。けどオレは君の可能性を信じている」
浜辺からだろうか、少し離れた場所から一発二発と花火が打ち上がり、月と星に彩られた夜空を赤く染め上げる。
「悩んだとき、困ったときはいつでも呼び出してくれ。すぐに君のもとへ駆けつけるから」
「どうしてもトレーナーが行けないときは私が話聞いてあげる」
今度は翡翠の色をした何輪もの花びらが上空を舞う。それから間髪入れずに蒼と深緑の華が月夜の空を塗り替える。
「「3人で進もう、一緒に」」
「……はい! よろしくお願いします、トレーナーさん! お姉さま!」
祭り囃子と花火の音の二重奏をBGMにして私たちは3人で前を向く。ありふれた1×3ではなく、個を持った1+1+1として。これから幾度も訪れる困難もきっと乗り越えられる、そんな予感がした。
「いい感じに話締めちゃったけど、実はザイアのデビュー戦、ほぼ決めちゃっているんだよな」
「えっ!?」 「ちょっと!? それ言うの先じゃない!?」
……こんな締まらないところも悪くない。ただそれはそうと。
「それでいつですか!?」
「10月の2週目、3連休の最終日の東京芝1600m。京都で京都大賞典がある日だよ」
口の中に溜まった唾をごくりと飲み込む。今から約1ヶ月半後、私はコースへ降り立ち輝かしい夢の第一歩を踏み出すことになる。
「それでエスキモーの次走は11月の東スポ杯ジュニアSな」
「はーい。ま、なんとなく分かってたけど。トレーニングのピッチもちょっとずつ上げていかないとねー」 「あれ!? お姉さま、なんだか軽くないですか!? 一応GⅡですよ!?」
いや、お姉さまの実力を考えればGⅡですら通過点なのだろうけれど……私のついでみたいに言うトレーナーさんもトレーナーさんだし、それを他人事みたいに流すお姉さまもお姉さまだ。
「大丈夫。ちゃんとザイアの応援には行くから!」
「いやそうではなく!?」
あははと笑うお姉さまにツッコミを入れる私。トレーナーさんはトレーナーさんでそれを笑って見守るだけ。なんだか先ほどまで胸に抱えていた焦燥感は、花火とまとめて空に打ち上がってしまったみたい。花火で煌めく夜空と輝く屋台の光、私はその眩しさに目を細めながらもまたみんなで来ようと心に誓った。
─────
『残り200mで完全に抜け出したのはグレイニーレイン! 後続を突き放して、これは姉の再現なるか! 後方から追い込んでくるウマ娘もいるが、前には全く届きそうにない! これは圧勝だ! グレイニーレイン、余力を残したまま6バ身リードでゴールイン! これはまたまた来年のクラシックに向けて大物誕生か!?』 |