本編
クラシック編
| + | 第41話 |
翌週行われていたもう一つの前哨戦、神戸新聞杯は戦前の人気通りの決着と相成った。夏の間に調子を上げてきた、いわゆる夏の上がりウマ娘が3着に入ってきた以外は人気上位かつ実績上位のウマ娘で決まった。この事実はそのまま菊花賞におけるお姉さまの1番人気が確定したようなものなのだけれど、当の本人は全く気にしていない様子だ。
「ダービーでも1番人気だったからねー。このレースでもそうだったらちょっとは焦ると思うけど」
そう言ってお姉さまが指差したのはレース中継が始まろうとしているテレビ画面だった。10月初旬の夜遅くに中継が行われるレースといえば、そう凱旋門賞である。
「人気以前に走るだけでも焦ると思うのですが……」
私もダノン家の末席に名を連ねるウマ娘として多くの社交の場に赴いたことはある。その上これまで2度GⅠの舞台に立ったこともある。しかしあくまでも「国内」に限ったものであって、今映し出されているような世界中から耳目を集めるような大一番などではない。
「こればかりは慣れるしかないんじゃないかな。いずれザイアも海外で走ることになると思うし、徐々に感覚を掴んでいけば緊張を力に変換できるようになるよ。私も海外で走ったことないから人づての話だけどね」
「私もいつかは海を渡って……」
まぶたを閉じて自分が海外の大レースを走っている光景を思い浮かべる。香港、中東、そして欧州……今はまだ想像の中でも他国の強豪に後塵を拝する様子しか浮かばないけれど、いつかは勝つ光景が浮かぶように、そしてそれを現実にできるように頑張らないといけない。
「まあその前にザイアは秋華賞、私は菊花賞を頑張らないとね。トリプルティアラ期待してるから」
「プレッシャーをかけないでください、お姉さまぁ……」 「ごめんごめん。ほら、もうレースが始まりそうだよ」
お姉さまの頭ナデナデを目いっぱい甘受したのちにテレビへ視線を移すと、そこには既にゲート裏の様子が映し出されていた。その中には海外の強豪ウマ娘に加えてルージュさんの姿もあった。16人立ての10番枠という左右を見ながらレースを組み立てられる枠に配された彼女は、高ぶりを見せることなく静かに曇り空を見上げていた。
「ニエル賞3着だから現地の注目度はそんなに高くないけど……」
「裏を返せばマークされることなくレースを運べますね」 「1回このコース経験してるし、末脚は間違いないから……頑張ってルージュ」
祈るようにお姉さまは両手を組む。日本のウマ娘がというより友が勝つことを願うその視線の先で今ゲートが開いた。
『──回凱旋門賞、今スタートしました! ゲート番10番、日本のメニュルージュはいいスタートを切った模様です』
スタンドから見て左奥に位置する風車付近から駆け出した16人のウマ娘たちは、まず1000m先の3コーナーへ向けて位置取りを争う。日本とは異なるアップダウンや芝の影響で、刻まれるラップタイムはゆったりとしたものとなっている。レコードタイムもパリロンシャンレース場で行われたものでは、日本ダービーのものより2秒近く遅い。
「毎年の決着タイムだけ見てたら、もしかしたら自分だっていいところまで行くんじゃないかって勘違いしかけるんだよね」
「しかしてタイムの速さはレースレベルの高さと必ずしも直結はしない……そうですよね?」 「うん。そんな簡単に勝てるほど甘くはないんだよね。今までの歴史を振り返れば」
そう、お姉さまがおっしゃる通り、日本のウマ娘がこの世界最高峰のレースを制したのはたった1人しかいない。それはお姉さまと同じメジロの冠を戴くウマ娘。無敗のまま国内外の大レースを駆け抜けた彼女の鮮烈な輝きは、今もなお色褪せることはない。
『最初の1000mは1分4秒を切るほどでしょうか。これから3コーナーのカーブへと差し掛かります!』
スタートからの400mから1000mにかけて続いた高さ10mに及ぶ上り坂を今度は一気に下っていく。ここから始まるロングスパート戦の中でルージュさんは中団よりやや後ろを追走していた。
「お姉さまはお会いしたことはあるのですか?」
「……うん。可愛らしい人だったよ」 「可憐で目を引く方でしたから。まさに無敵のアイドルといったような素敵な方でした……映像でしかお見かけしたことはありませんけれど」 「……最後の直線だよ。ルージュは……バ群の外に出そうとしてる」
お姉さまが一瞬浮かべたアンニュイな表情に首を傾げながらも画面の中からルージュさんの姿を探す。
「この勢いならもしかしたら……」
「頑張れルージュ……」
大外に持ち出しながらも1人、また1人と交わしていくルージュさんの走りに周囲から上がる歓声が徐々に大きくなっていく。残り200m、5番手の位置まで上がった彼女の視線の先には栄光のゴールが見えている。
『さあ残り200m! 日本のメニュルージュがぐんぐん前に迫る!』
実況のボルテージも上がっていく。そして彼女はまた2人ほど交わした。残る2人との差もそれほど大きくはないけれど……
「……届かない」
お姉さまがぽつりと零した呟きの直後に先頭のウマ娘がゴールを駆け抜けた。勝ったのは地元フランスのウマ娘。母子揃って無敗で凱旋門賞を制したという歴史的な勝利で今年の凱旋門賞は幕を下ろした。
『──日本のメニュルージュは惜しくも3着! 最後の末脚はもしやと思わせるものがありましたが、先頭から2バ身ほど後ろでゴールする結果となりました』
ルージュさんの健闘を称える拍手が鳴る中、お姉さまは静かにその場を後にした。私は追いかけようか迷ったけれど、先ほどの様子を思い出してしばらく部屋に戻らないことに決めた。
(お姉さまにも1人にしてほしい時間はあるでしょうし、今私が一緒に帰ることをお姉さまは望まれないでしょう)
ひとまずルージュさんへメッセージを送ってから、私は中継が終わるまで他のウマ娘の方とともに大広間で過ごしていた。
─────
「血の繋がりっていうのは凄いな……」
テレビに映し出される女王の走りを見ながら独りごちる。中継内で何度も言われていた通り、彼女の母も無敗で凱旋門賞を制している。当然母親の競走能力が高かったからといってその娘も好成績を残せるとは限らないが、遺伝を考慮すれば平均と比較すれば可能性は高いだろう。
「それにしてもクラシック級でこの実力……いずれはエスキモーとも戦うことになるかもな」
ちょうどテレビでは、勝利したウマ娘がイチョウの葉を思わせる綺麗なブロンドの長い髪と尻尾を風に揺らしながら優勝トロフィーを掲げる様子が映し出されていた。地元のファンにエールを受けながら来年、そして再来年も勝ってみせると言ってのけた彼女をぼんやりと見ていると、なぜだか大学時代に留学した頃の記憶が蘇ってきた。
「最高峰のレースを生で観て勉強してこいって送り出されたっけ。いくら第二外国語でフランス語やっていたからっていって、オレだけイギリスじゃなくてフランスだったの絶対悪意あると思うんだよな」
他のみんなからはフランス料理が羨ましいなんて言われたが、金がない大学生がそんな美味しいものを毎日毎日食べていたことは全くない。そもそも食事にそれほど頓着しない自分にとって料理がどうこうと言われてもなと言いたい気持ちを抑えていたのが本音だ。
「まあいい勉強になったのは間違いないから、そこは親と先生に感謝しないと」
あの経験があったからこそトレーナー試験へのモチベーションを保つことができたし、結果的にエスキモーとの出会いに繋がったのだから。
「いつかはエスキモーをこの舞台に連れてきたいな……ってもうこんな時間か。早く寝ないと」
リビングの掛け時計に目をやると、もうすぐ時計の針がてっぺんを回ろうとしていた。慌ててテレビを消してからパソコンをシャットダウンさせる。夕食やお風呂はとっくに済ませているから、あとは部屋の電気も消して寝るだけ。
「これでよしっと……あれ、エスキモーからメッセージが届いているな。こんな時間にどうしたんだ?」
彼女も今日の中継を見ると言っていたからその関係だろうか。早く寝なさいと返事を打とうとアプリを立ち上げると、そこに書かれていたのは……
『私もあの子みたいに凱旋門賞を勝ちたい』
という決意表明だった。
「今日のレースでスイッチが入ってしまったか。まああんなレースを見せられたら仕方ない。『目の前のレースを1つずつ勝っていこう。そうしたら自然と道は開けるから。一緒に頑張ろうな』っと。これでよし」
彼女のここに記されていない想いを汲み取りながら文字を打ち込み送信ボタンを押す。おそらく彼女はもう眠りについているだろうけど、翌朝彼女がオレの返事を見て笑っていますようにと願いをこめる。うつらうつらになりながらもコードを繋いだ携帯の充電が始まったことを確認すると、寝室の電気を消してベッドで横になる。目を瞑った途端に襲いかかってくる睡魔を追い払うことなく体を預けると、意識は静かに落ちていく。そんな中フランスで出会った少女のことをふと思い出した。
(あのときの女の子……誰だったっけ……)
しかし眠りに沈む直前に思い出したことなど、翌朝エスキモーに布団を剥ぎ取られる頃にはすっかりと忘れてしまっていた。
「早く起きて! 朝ごはんもうできてるんだから!」
「あと5分……」 「それもう3回目! 今度の今度は駄目なんだから!」 |
| + | 第42話 |
「1週間前にビシッとできたから今日はさらっと坂路を1本やろうか」
「はい、承知しました」
秋華賞が4日後に迫り、レースに向けての調整もいよいよ終わりを迎えようとしていた。軽度の骨折から急ピッチで仕上げにかかった関係で調子は万全とは言いにくいものの、今できる限りのことは行えていると思う。
「ザイアの追い切り終わったら、エスキモーはウッドチップコースで1本しっかりやるぞ!」
「はーい!」
翻ってお姉さまの調整は極めて順調である。元より長めの距離が向く豊富なスタミナと、京都の外回りに合うロングスパートを武器として持ち合わせているから菊花賞はまさにお姉さまにとって最適な舞台といえる。前哨戦は快勝した上に追い切りも文句なし、間違いなく当日は抜けた1番人気に支持されることだろう。
「それじゃ、よーいスタート!」
「っ!」
ゴール地点で待つトレーナーの合図を確認してすぐに坂を登っていく。タイムの測定区間は800mほどしかないものの、約30mの坂を一気呵成に駆け上がるのは骨が折れる。ウマ娘でなければまともに走り切れるのは陸上選手ぐらいなものだろう。
「はぁはぁはぁ……」
「お疲れさま。全体が54秒でラスト1ハロンが12.5秒なら上々だな。はい、ドリンク」
トレーナーが差し出した冷えたペットボトルを礼を言いながら受け取る。まずは火照った体を冷やすように首筋や脚に当ててから、若干ぬるくなったドリンクをゴクゴクと飲んでいく。
「ふぅ……急仕上げには変わりありませんけれど、本番にはなんとか間に合いましたか」
「ああ。本当なら文句なしと言いたいところだけどな。明日からレース当日まではこれまでと変わらない感じで頼む」 「はい……なにやらお姉さまが呼んでいる様子ですので早く行かれた方がよろしいかと」 「細かいことはまたあとで……言ってくる」
小走りでウッドチップコースへ向かうトレーナーさんの後ろ姿をラチの外から見送る。
「1人で2人も担当を抱える、しかも若手でというのは大変ですね……今更言うことではないかもしれませんけれど」
たまに彼がトレーナーとなってまだ数年目である事実を忘れそうになる。私はともかくお姉さまはおそらく数年に一度、いや10年、いや20年……少なくともそうそう見かけることはない才能を持ち合わせたウマ娘。そのようなダイヤの原石が曇ることなく輝いているのは間違いなく彼も優秀であることの証左に他ならない。
「といってもお姉さまの扱いに随分と慣れていらっしゃるような……幼い頃からの付き合いであれば性格も手の内でしょうし、阿吽の呼吸なのも当然かもしれませんけれど……」
ただそれでも指導方法に全く迷いがないのは気になるところではある。お姉さまもそれに反発することなく知っていたかのように受け入れている。
「何か引っかかるような……いえ、今は自身のレースに集中すべきです。余計なことを考えている暇はありません」
左右に頭を何度か振り、2人についての邪推を追い出す。ちょうど呼吸も整い疲労も抜けたから、おねえさまの走りを見るために先ほどのトレーナーさんのように小走りでウッドチップコースのゴール地点まで駆けていった。
─────
迎えた秋華賞当日。昨日の夜までパラパラと降っていた雨はすっかり上がったものの、雲が青空と太陽を覆い隠してしまっていた。今朝の芝のバ場状態は良であるけれど、パンパンの良バ場は望めないだろう。
「1番人気は私ですか。メイクデビュー以来ですね」
「ひいらぎ賞からはずっと2番人気以下だったもんね……流石にみんな節穴すぎない?」 「まあザイアが桜花賞を勝つまでティアラ路線の主役っていったらあの子だからな。脚質もあるし仕方ないといえば仕方ないんだけど。ただレースは人気だけで決まらないから面白いし楽しいんだよ」
2人してトレーナーさんのベストアンサーに首を縦に振る。ただそんな彼女も前哨戦であるローズSを快勝していて調子は問題ない。
「2番人気は彼女で3番人気はオークス5着、紫苑S1着のフェアハフトゥングさん。府中と中山の違いはあっただろうけど春より最後の粘り強さが増している。この子も注意しないとな」
「私と同じ脚質ゆえレース中最も気を払うのは彼女でしょう」 「ハイペースにならないように気をつけないとね」
お姉さまの言うことに私もトレーナーさんも深く頷く。下手に付き合ってしまうとまとめて後ろから差されかねないし、かといって放置してそのまま粘り込まれれば面倒なことになる。ラップの維持とライバルの動向と気を回すことが多くて頭が痛いけれど、トリプルティアラをその手に掴むにはこの程度のことは乗り越えてみせなければいけない。
「お母様と同じ冠を戴くためにも不肖ダノンディザイア、勝ってまいります」
「うん、頑張ってね。ゴール前で応援してるから!」 「ああ。存分に走ってこい!」
お姉さまとトレーナーさんからのエールを受け取り、控え室をあとにする。左脚の違和感は全くない。懸念としてはトライアルを使えず回復から1ヶ月でぶっつけで挑むという点のみ。
(大丈夫なはずです。きっと)
二度三度と吸って入ってを繰り返してからパドックに足を踏み入れる。そしていざ観客の皆さんの前に姿を現すと、楕円状のパドックを囲うように設けられている客席から注がれる視線がこれまで受けていたものより明らかに異なっているのをひしひしと感じた。桜花賞のときはレースを引っ張る盛り上げ役として期待をされ、オークスのときでもあくまでもサブキャラクターとして見込まれていたのは戦前の各種新聞を踏まえて理解をしていた。ただ今回は状況が全く異なる。
(今日私が勝てばトリプルティアラの栄誉を授かることとなります。それを目の当たりにした彼ら彼女らはそのとき歴史の目撃者となります。私への期待というよりかは『トリプルティアラを達成する瞬間に立ち会ってみたい』という思いの方が強いのでしょう)
脚質もある。逃げという戦術はそれほど毎回嵌まるものではない。単独で逃げることができればある程度レースの流れをコントロールすることが可能となるけれど、複数人いれば当然不可能となる。ともに逃げた相手に釣られ撃沈したり、ペースメイクの座を奪われ本領を発揮できないことなどざらにある。それでも私がこの脚質を選択するのは、他人に自身の生殺与奪を握られたくないからに他ならない。スローペースに持ち込めたのならこっちのもの、ハイペースとなってしまっても後続にも脚を使わせることで粘り込めば問題はない。
(そのためにも必要なスタミナや根性はトレーニングで鍛えてきました。あとはそれを100%発揮するのみです)
1番人気など知ったことではない。欲しいのは1着、ただそれだけ。
─────
「トレーナー」 「どうした、エスキモー?」
ザイアがパドックに向かってしばらくしてから観客席に行く道中、隣を歩くエスキモーから心配そうな声をかけられた。
「ザイア、本当に大丈夫かな?」
「どうしたんだ急に。君らしくない」 「私だって不安になったりするよ? 例えばトレーナーが街中で知らない女の人と話してるのを見つけちゃったときとか」 「えっ」
心臓がドキッと跳ね上がる。彼女に隠れていつそのようなことをしていたのか必死に思い出そうとするが、ポンコツなオレの頭からは消えてなくなってしまっているらしい。冷や汗が背中に一筋流れる中、彼女の次の言葉を待つ。
「随分と楽しそうにおしゃべりしてるなーって。あんな顔私見たことないかもなんて嫉妬しちゃったり……って冗談だよトレーナー。そんな険しい顔しないでってば」
「そ、そうか……それならいいんだけど」 「そうだよ。だってトレーナーは私のことが一番好きって分かってるから」
えへへと笑う彼女の可憐な笑顔に自分も照れそうになるがすぐに我に返り周囲を見渡す。幸いにも今のエスキモーの発言は誰にも聞かれてはいなかった。
「そういうことは外では大きな声で言わない。卒業するまでは2人の秘密って決めただろ?」
「はーい。で、それでどうなの? ザイアの調子は大丈夫なの?」
スタンドから外に出るとさっきまでより観客たちのざわめきが大きい。オレとエスキモーは他のお客さんとぶつからないようにして、可能な限りゴール板の近くまで寄っていった。
「はっきり言うと今の彼女が100%の力を発揮できるかは分からない。仮に怪我をしていないのに前哨戦を使わなかったとしても、ぶっつけ本番への調整方法は今の時代いくらでもあるんだよ」
「でも今回は使わなかったじゃなく“使えなかった”んだよね」 「ああ。怪我なんてよくあることだから彼女を責めるつもりは毛頭ないけど、約1ヶ月間走れなかったのは想像以上に大きかったよ」
時は待つことなく過ぎていき、本バ場入場が始まる。トライアル勝者に夏の上がりウマ娘、そして春に実績を積んだメンバーに続いて一際大きな歓声を受けて登場したのがザイアだった。
『さあ、母と同じ冠を掴んでトリプルティアラの栄光へ駆け上がれ。5枠10番は2冠ウマ娘、ダノンディザイアです!』
コースへ足を踏み入れた彼女の顔に緊張という感情は乗っていない。これから走るレースがメイクデビューでも重賞でも海外のGⅠでもきっと彼女は変わらない表情を観客たちに見せるのだろう。芝の状態を確認しながらゲートへ向かって走っていく彼女を目で追いかけつつ、そんなことを考えていた。
『さあトリプルティアラ最後の一戦、秋華賞。春の女王が秋も強さを見せつけ3つ目の冠を手にするのか。それとも春に苦汁をなめたウマ娘が雪辱を果たすのか、夏の上がりウマ娘が勢いそのままに頂点へ駆け上がるのか』
ゴールまで200mを示すハロン棒の少し奥に設置されたスターティングゲートの裏に待機している18人のウマ娘の姿がターフビジョンへと映し出される。その中でも一際大きく取り上げられているザイアは己と向き合うように静かに発走の時を待っていた。
『スターターが台に上がります。さあトリプルティアラ最終関門のスタートです!』
スターターの合図とともに鳴り響くファンファーレが場内を盛り上げる。120秒ほどの夢物語は果たしてどのような結末を見せるのか。オレもエスキモーも祈るように両手を組みターフビジョンを見つめていた。
『──さあ18人がゲートに収まり態勢整いました……スタートしました! 大きな出遅れは見られません京都レース場。さあまず最初に飛び出していったのは1番人気ダノンディザイア! 今日もそのまま逃げ切ってしまうのか!』
「よし、スタートは問題ない……は?」
「ザイアいい調子……あれ、あの子後ろじゃないの……?」
目が点になるとはまさにこのことで、オレたち2人は1コーナーへ向かう隊列を見て唖然としていた。先頭がザイアでそれに続くのがフェアハフトゥングさん、そこまでは予想通りだから違和感も何もない。問題は……
『おっと!? 3枠6番スカイピーチが今日は差のない3番手! ここ一番で奇策を打ってきた!』
「これは……まずいな」
冷や汗が一筋背筋を伝った。
─────
(スカイピーチさん!? どうしてその位置に!?)
1コーナーを過ぎて2コーナーへと私は18人の隊列を駆けていく。スタートは問題なかったし、先手も取れた。フェアハフトゥングさんに真後ろにぴったりつかれているのも予想の範疇だからそれほど気にしていない。ただしこればかりは頭に叩き込んだどのシミュレーションにも当てはまらなかった。
(彼女は最後に末脚を使って全て撫で切る差し・追い込みタイプのウマ娘。出遅れがなくても前走までは全てこの戦法を取っていました)
燻った違和感は次第に焦燥という火を生み出す。落ち着こうと平常心という水で鎮火させようと試みるも、視界の左端にチラチラと映り込んできて邪魔をする。いっそのことペースを緩めて彼女に先頭に立ってもらうかという考えが一瞬よぎったものの、末脚勝負では分が悪いと気づきすぐに撤回を決めた。
(1人が気になると真後ろの彼女のことも気になってきます……いえここは平常心平常心……焦りは禁物……)
そんなことを考えている間に2コーナーを通り過ぎて向こう正面に舞台は移っていた。もはや後ろを気にしていては自分のレースができないことを悟った私は、残り1000mを切った辺りで意識的に前だけを見ることに徹し始めた。
(どの想定タイムより若干ペースが速い……それでも!)
緩いペースで脚を溜め、早めにスパートを仕掛けることでセーフティーリードを作る作戦も、1ハロン12秒をわずかに切るペースを淡々と刻み続け、脚を溜める隙を与えない作戦も使えそうにない。
(おそらく最初の1000mは58秒台で通過したはず……想定より1秒早いですね……)
脚はまだ残っているけれど、今と同じペースを刻み続けられる自信はあまりない。想定していた走破タイムは1分58秒台。このバ場状態の2000mを1分57秒で先頭で走り切れる自信は大きくはない。
(ただそれは私をすぐ近くでマークする2人も同じはずです。単純な末脚比べでは彼女には及びませんけれど、後方で脚を溜めずにその分前につくことを選んだ貴方に負けるわけにはいきません!)
内回りと外回りの分岐点を通過し、レースは動きを見せ始める。視界の右端で映る後方集団が前との差を縮め始め、バ群が徐々にひとかたまりとなって第4コーナーへと向かっていく。坂を下ったその先はアップダウンがほとんど見られない平坦な緑の絨毯。栄光まで残り3ハロンと記された標識を過ぎると、背中にかかるプレッシャーがさらに重みを増す。ただそれは前へ前へと押してくれるものではなく、むしろ引力で暗闇に引きずり込むブラックホールに近い。しかし沈め沈め、落ちろ落ちろと言わんばかりの重圧を受けてもなお私は歯を食いしばって先頭の座を守り続ける。
(この冠だけは……トリプルティアラの3つ目だけは……譲れません!)
大歓声と拍手に横殴りにされながら328mもの直線へと向かう。脚は重く肺は今にも張り裂けそう。整えた髪もきっともうぐしゃぐしゃになってしまっていることだろう。ただそれでも迫る影が少しずつ私との距離を詰めてきていることははっきりと分かる。聞こえてくるのは、2人分の大きな足音と15人の小さな足音。ゴールまで残り200m、後者はほぼ間違いなく振り切れるけれど、前者は分からない。というよりもうそんなことを考えている余裕は失われている。
(はぁ……はぁ……はぁ……あと200m……)
両脚が折れてしまおうが関係ない。ゴールのあとに倒れてしまっても構わない。死ななければ、生きてさえいればそれで十分なのだから。
(残り100m……これなら!)
歓声が一際大きくなるのを肌で感じる。ただそれは私に向けたものだけではなくてもう1人、いやもう2人に向けられたものも多分に含まれていた。背中に感じる圧が分散し、左右に分かれていくに連れてその歓声が大きくなり、悲鳴に近いものまで耳に届くようになっていた。
(残り50m……!)
視界に入っているのは栄光のゴール板のみ。しかし激しい息づかいがすぐ横から聞こえてくる。きっと私と同じように死にものぐるいの顔を浮かべているのだろう。ただそれを確認する余裕は全くない。無常にもあと3秒ほどで全てが決まってしまうのだから。
(負けられ……ない……!)
3秒。視界の端に2人の姿を捉える。
(いやだいやだいやだ……!)
2秒。3人が横一線に並ぶ。
(私が勝つんだから……!)
1秒。もう一伸びを見せるべく脚に力を込めて半歩前へと体を押し出す。
「ああああああああっっっっ!!!!」
0秒。ゴール。完全なる横一線。なだれ込むようにゴール板を駆け抜けた3人は外側へ寄っていく。後方のウマ娘たちの走路を確保するのと同時に、失速した自分たちが巻き込まれて事故が発生しないためにも息も絶え絶えになりながらも外ラチ沿いに倒れ込んでいた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
お疲れさまといった声が上から落ちてくるように耳に入る。ただ私はそれに返答する余裕はなく、ただただターフビジョンの右端を注視していた。
『内の4番フェアハフトゥングか! 真ん中10番ダノンディザイアか! それとも外の6番スカイピーチが制したのか! 決着は写真判定へともつれ込みます!』
4着と5着の部分には早々と枠番が表示されていた。やはり後続バ群との差はそれなりに開いていたらしく、でかでかとターフビジョンに映し出されるゴールの瞬間のスローモーション映像でも私たち3人のあとにウマ娘はなかなか姿を現さなかった。
(映像を見る限り、おそらく5バ身ほどの差がついていそうですね。それほど私たちが突き抜けていたということでしょう)
ただ大事なのは後続との着差などではない。自分が勝ったかどうか。1センチだろうが10バ身だろうが先にゴール板を過ぎてさえいれば勝ちは勝ち。着差はレーティングに影響するらしいけれど、そのようなものはおまけでしかないのだから私は気にしてはいない。お姉さまが高い評価を得られるのであれば別だけれど。
『長い長い写真判定が続いております。トリプルティアラ達成か、ジュニアの女王が復権なったか、それとも初タイトルか。数万人を超える観衆がその場を一切動かないままターフビジョンを見つめます』
4着以下の15人は早々とコースから引き上げ、私たち3人だけがターフに残っていた。乱れた息がようやく整い、立ち上がった3人が視線を向ける先、着順表示に示される数字は一体。
『まだ着順は表示されません。写真という2文字が2箇所に光っているのをファンの皆様はただ固唾を呑んで見つめ続けています』
果たして何分待っていただろう。時間を確認する余裕もなく、する気もない。雲間から降り注ぐ日光が湖面を照らしながらも頭上からポツリポツリと雨粒が落ちてきたそのとき、スタンドが歓声とどよめきで大きく揺れた。
『1着はスカイピーチ! ジュニア級の女王が淀の舞台でトリプルティアラ最後の1冠を掴んでみせました!』
──そうか、届かなかったのか。私は、負けたのか。
─────
『ハナ差の2着はフェアハフトゥング! 同じくハナ差の3着に2冠女王ダノンディザイアが入りました!』
着順表示板に点滅する5つの数字。その上から3つは6→4→10の順という並びとなっていた。
「……控え室に戻ろっか」
「ああ。待ちぼうけさせる訳にはいかないからな」
残り50mほどで並ばれそうになったときはもう駄目だと思った。しかしそこからもう一伸びを見せ、数センチ差の決着に持ち込んだ彼女の根性は計り知れないものがある。前半1000mが58.3秒というハイラップを刻む中、後半の1000mも59.0秒でまとめるという衝撃的な時計を叩き出したのは驚異という他ない。しかも調整過程で一頓挫あった上での結果なのだから、世間はきっと負けて強し、勝ちに等しい内容と彼女を持ち上げるだろう。トリプルティアラは逃したものの、2冠女王に恥じないレースをしたと。
(でもそれは彼女が欲しかった言葉じゃない。彼女の求めていた台詞じゃない。彼女が手にしたかった結末なんかじゃない)
観衆が湧く中、コツコツと2人分の足音だけが耳に残る。彼女が求めるならいくらでも慰めることはできる。オレもそれだけの語彙力は持ち合わせている。
(エスキモーは……)
バレないように顔は動かさずに視線だけを彼女へ向ける。着順が発表された直後は感情が抜け落ちていたものの、今はただ口を固く結んで前だけを見つめていた。
(おそらくエスキモーもオレと同じだろう)
次は頑張ろうなんて励ましの言葉なんてかけるつもりはない、そんな顔をしていたのを見てひと安心したところで控え室の前に到着した。扉を開けてもザイアの姿はどこにも見当たらず、彼女より先に帰ってこれたことにホッとした。
「ザイア、まだかな」
「いつでもいいよ。彼女の好きなように歩けばいいんだから」
言葉少なに、ただ気持ちは繋がっていると信じて静かにザイアの帰りを2人並んで待っていた。
─────
(どのような顔を2人をお見せすれば……というよりお母様にどう詫びればよいのか……)
着順が決まり敗北が確定した瞬間は想像以上にあっさりと受け入れることができた。アドレナリンが溢れていたのか、レース中に思わず叫んでしまうほどの感情の高ぶりが外ラチ沿いに休んでいたことで“無”となったのかはよく分からない。そのまま新聞記者やテレビのアナウンサーたちの取材を受けてから控え室に戻る道中に至って、ようやくこれから何をしようかという悩みが首をもたげ始めた。
コースから控え室までの距離がレース前より長く感じる。無意識にとぼとぼと歩いているのはどこか後ろめたさがあることに加えて。
「……っ! 少し走りすぎたかもしれませんね……」
1分57秒3。幾分湿ったバ場状態で叩き出されたことを踏まえると、レコードに等しいタイムで2000mを駆け抜けたことになる。私はそれを先頭で引っ張り続けたのだから、必然的に脚に負担はかかってしまう。
「その上最後に差し返した分の踏ん張りも、怪我をした左足に負荷がかかる形になってしまいましたから……」
独り言を呟いている間に控え室の前へと着いてしまった。2人からの第一声は何か、手が震えながらもドアノブを握り、目を閉じたまま扉を開ける。そのまま機先を制するためにすぐに頭を下げようとすると、お姉さまが勢いよく私に向かって飛んできた。もちろん避ける訳にもいかない私は受け止める体勢をとったのだけれど、逆に腰に手を回されグッと引き寄せられてしまった。
「お、お姉さま……?」
「お疲れさま、ザイア。頑張ったね」
慰めの言葉でもなく、励ましの言葉でもない。ただ今日のレースを走りきったことへの労いの一言が心の底に沈めたはずの悔恨の念を励起させる。
「私、必死に走りました」
「うん」 「一生懸命駆け抜けました」 「うん」 「頑張って、頑張って……」 「うん……」
応援していただいた観客席のファンの方へは笑顔を、そして取材陣には次のレースこそはなどと毅然に対応していた。レースで負けた経験があるから今回も同じように振る舞えばいい。悔しさは感じない、そう思っていた。今までは。
「スタートも万全でした……」
「うん」 「道中も、掛かったりなんかしませんでした……」 「うん」 「最後だって二の脚を使って……」 「うん、全部見てたよ」 「頑張ったんです、私……! なのに……!」
口から零れるのは後悔の情。そして目から溢れるのは。
「気持ち、抑えないで。ここには私たちしかいないから。他の誰も見てないから」
「うっ……うっ……うわあああああん!!!!! お姉さまあああああ!!!!!」
堰を切ったようにどっと流れ出る涙。お姉さまの肩を濡らすのを詫びる余裕なんてない。そのようなことを気にするより抑え込んでいた感情が爆発することが先だった。
「ザイアがずーっと頑張ってたことも見てた。人には見えない努力を重ねてたことも私は知ってる。この1ヶ月どれだけ苦しかったのかも貴方の同室だから全部分かってる」
「うっ……うっ……」 「だから今は我慢しないで。全部吐き出して。ね?」 「うえええええん!!!!! お姉さまあああああ!!!!!」
小さな怪我のはずだった。想定より早い段階で復帰できたはずだった。なのにタイムは思ったより伸びなくて、調子がいいと言われた最後の追い切りも結構無理をしていて。トレーナーさんにもお姉さまにも隠し通せたと思っていたのだけれど、全くそうではなかったみたい。
「ぐすっ……ぐすっ……ごめんなさい、お姉さま。制服をこんなにも濡らしてしまって……」
「気にしないでってば。制服なんて何枚も持ってるんだし」
泣き始めてから泣き止むまでどれほどの時間が過ぎたのだろう。ようやく今は一体何時何分なのかを気にする余裕ができるまで回復した私は、ぐっしょりと制服の肩の部分が濡れてしまったお姉さまに頭を下げる。心優しいお姉さまは大丈夫だよと言ってくれる。
「それよりこのままだと目すっごく腫れちゃうから冷やさないと。トレーナー、なんか冷たい物ってない?」
「凍った保冷剤と冷蔵庫で冷やしていたドリンクならあるぞ。ほら」 「ありがと。とりあえず保冷剤もペットボトルもタオルで包んで……はい」
そう言ってタオルに包んだ保冷剤を目が腫れないように私の目元に当ててくれるお姉さまは天使かもしれない。いや最早女神の領域ではないだろうか。優しさの次元を超越している。
「お姉さまもトレーナーさんも気を遣っていただいてありがとうございます。負けてしまったにも関わらず叱責の言葉もなく……」
「そんなこと言う訳ないだろ。あれだけの走りを見せられて叱れるほどオレもバカじゃないよ」 「そうだよ。ですよね、ザイアのお母さんとお父さん」 「……えっ?」
錆びついたねじを回すかのように私はギッギッギッとゆっくり首を右へと回す。するとそこには今日いないはずのお父様とお母様の2人の姿があった。
「お父様……? お母様……?」
「お疲れさま、ザイア」 「レースの最初から最後まで見てましたよ」
優しく微笑むお父様とお母様の姿に出しきったはずの涙が再び目尻から零れ落ちる。それを隠すかのようにお母様の胸へと飛び込むと、お母様は優しく背中を撫でてくれた。
「ごめんなさいお母様……お母様と同じレース勝てませんでした……」
「そんなこと気にしなくていいの。貴方が最後まで懸命に走る姿を見ることができただけで十分だから」 「うっ……ううっ……!」
結局ウイニングライブの時間が近づくまでずっと泣きっぱなしだった私はなんとか化粧で腫れた目を隠したものの、お姉さまの気遣いも空しく翌日は大きく目が腫れた状態で朝を迎えることになった。
(また次のレースで勝ってみせます、必ず……その前に目の腫れは早く治らないのでしょうか……)
─────
「エスキモー」 「トレーナー、どうしたの? あっ、これ机まで持っていってもらってもいい?」
秋華賞を終えた翌日の夜、自宅でエスキモーが晩ごはんを作ってくれるのを手伝っているオレは彼女にザイアの今日の様子を尋ねた。
「今日はトレーニング休みにしていたから、ザイアがどんな調子だったのか気になって」
「うーん、そんなに変わったところはなかったかな。だけどレース前より余裕があるようには見えたかも」 「そっか、それならよかった」
春の2冠の時より気を張っていたのは知っていた。ただトレーニングを見ていても悪影響を及ぼすものではなかったし、適度な緊張はむしろ必要不可欠だったから無理に解そうとはしなかった。それでもやはり張り詰めていた糸がわずかにでも緩んでいるのを知ってホッとさせられた。
「よし、これで完了っと。お茶も入れたし座って座って」
「ありがとうな。それじゃいただきます」 「いただきまーす」
彼女が用意してくれた夕食に舌鼓を打ちながら談笑する。今日クラスの友達と話したとりとめのない話だったり授業のことだったり。やはり楽しそうに笑う彼女の顔を見ることが一番心が洗われる。そしてまた頑張ろうと気合いが入るスイッチになる。
「それでさ、ザイアのことなんだけど」
「ああ、どうした?」
話が一段落したところで彼女の顔が真剣なものへと変わる。オレも笑顔を押さえ、まっすぐに彼女の瞳を見つめる。
「私、あの子のためにも勝つから、菊花賞」
「ああ。絶対勝とうな」
誰かの夢を背負う彼女は強い。それは“夢”の中でもそして今までのレースでも幾度となく示されてきた。自分の夢、オレの夢、ファンの夢、そしてザイアの夢、その全てを背負い込んで彼女は大一番へ挑む。
(菊花賞を勝って、その先は……)
夢の舞台、有馬記念。エスキモーとオレで必ず勝ってみせる。
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| + | 第43話 |
「ひとまず年内休養だな」
夕焼けが照らす病院からの帰り道、隣を歩くトレーナーさんが告げる。念のためにと診てもらったところ、やはりレース中の無理が祟ってしまったらしく、お医者さんからは当分の間安静にするようにとの指示を受けた。
「折れてはいなかったのですよね。ならば早めの始動も……!」
「駄目だ。ここでまた無理して来年に響いたら元も子もないだろ。少なくとも今月中はトレーニングも禁止だから」 「承知しました……」
疲労だけであれば酸素カプセルや療養施設を利用すれば早期の回復が見込める。確かに脚に過度な負荷をかけてしまったのは事実。約1ヶ月後のエリザベス女王杯やジャパンカップには間に合わなくとも有馬記念ならと間に合うのではと進言したところ、首を横に振りながらやんわりと断られてしまった。
「焦る気持ちも分かるけど、君のレース人生はまだまだ続くんだ。来年また一緒に走っていこう」
「そう、ですね……それはそうと」 「ん、どうした?」
足を止め、頭に乗せられたトレーナーさんの手を振り払う。そのまま戸惑い気味の彼の前に回って今度は私の方からやんわりと忠告した。
「トレーナーさん、気軽に女性の頭を撫でるのは如何なものかと思います」
「ご、ごめん。でもこの前君の髪を撫でたことがあるような」 「あのときは私の方からお願いしました。ですが今は状況が異なります」
それとこれとは話が違うことを明確に伝える。あくまでもあのときは依頼したものであって、断りなく触っていいと言った覚えはない。トレーナーとして信頼はしているけれど、そこまで許すほどの仲ではないのだとここではっきり伝えておく必要がある。
「努々過度な身体的接触は避けていただくようお願いいたします。もちろんお姉さまに対しても」
「分かった分かった。これから気をつけるよ」 「理解いただけたなら結構です。では学園へ急ぎましょう」
180度体を反転させて足早に去っていく私の後ろをトレーナーさんは慌てて追ってくる。私も怒っていた訳ではないから、再び彼が横に来ると日々の他愛のない話を話したり聞いたりしていた。ただ話をしながらもずっとある疑問が頭の中で渦巻いていた。
(トレーナーさん、頭を撫でる手つきが慣れている方のそれだったような……)
私が評価するのもどうかと思うけれど、トレーナーさんの見た目は悪くはなく、むしろかっこいい部類に入る。おそらく女性との付き合いもそれなりに経験されてきたのであろうと推測はできる。
(それでも恋人ではなく教え子に触れるのは少しは躊躇するはずです……はっ、もしかしてお姉さまに……?)
今晩寮の部屋に戻ってからお姉さまにそれとなく聞いてみよう。そう決心しながら私はトレーナーさんと街へと続く川路を歩いていた。
─────
日付が変わって翌日の放課後、お姉さまの菊花賞に向けた最終追い切りが行われた。トレーナーさんは軽めでという指示をしていたみたいだけれど、そこで出したタイムというのが……
「80.5-66.0-51.6-37.8-11.9……」
「綺麗な加速ラップですね、流石お姉さまです」 「そういう問題じゃなくてだな……」
ウッドチップコースにおける追い切りは大体の場合6ハロンから計測を始めるのだけれど、おおよその基準タイムは83秒ほどと言われている。そこから上位数パーセントに絞った場合でも全体の時計は81秒ほど。ラスト1ハロンも11秒台を出せれば優秀ではあるのだけれど、あくまでそれは全開で飛ばした場合に叩き出されるタイムであって……
「エスキモー……軽くって言っただろ……」
「えっ? 私そんな飛ばしたつもりないけど?」
今のお姉さまのようにあっさりと出されていい数字などでは全くない。お姉さまのポテンシャルの高さと春からの成長分と言ってしまえばそこまでの話なのだけれど、なぜだか最近のお姉さまには凄みを感じるようになった。皐月賞のときもダービーのときも、当然セントライト記念のときも感じなかったオーラがうっすらとお姉さまを覆っている。
「とにかくレース本番に疲れを残さないようにな。いざとなれば酸素カプセルの使用も考えておくこと、いいな」
「はーい。だったら先にお屋敷に連絡しとかなきゃ」
トレーナーさんの注意も聞いてはいるのだろうけれど、お姉さまはあっけらかんとした様子で返事をしていた。トレーナーさんはそれを見てため息をついていたけれど、言ったことは守ってくれると分かっているからそれ以上口を出したりはしないし、その逆も然り。まさに理想的な関係と言える。
(それにしても最初からこのような雰囲気だったような……お姉さまの幼少期からお知り合いだったとしてもあくまでトレーナーさんは新人。何か引っかかりますね……)
2人のことをじーっと見ながら考えごとをしていると、こちらの視線に気づいたお姉さまがちょいちょいと手招きして私を呼ぶ。それに釣られてお姉さまの近くまで寄ると、なぜか真正面から抱き締められてしまった。
「捕まえた!」
「お、お姉さま????? 一体何を?????」 「何ってザイアが私たちのことじーっと見てたから。何が目的か教えてくれるまで離さないからね!」 「目的ですか……ああ、お姉さまのいつものいい香りと汗の匂いが混じった最高のフレグランスが私を……」
汗はタオルで拭っていたものの、やはり匂いは残っている。それに普段から漂わせる花の香りがブレンドされて思わずトリップしてしまう。
「ちょっとザイア? おーい、起きてる?」
「……」 「たぶん意識飛んでいると思うよ。ひとまずオレの部屋まで運んで横に寝かせよう」 「もう、仕方ないんだから。じゃあちょっとおんぶするね」 「……」
次に目が覚めたのはトレーナールームのソファの上だった。時計を見るとトレーニング後から数十分が経過していた。空白の数十分に何が起こったのか1人で困惑していると、私が起きたことに気がついたトレーナーがデスク越しに優しい声をかけてきた。
「おはよう、ザイア。目が覚めたか」
「はい……えっと、私は一体何を……」 「詳しくはオレも分からないけど、コースでエスキモーに抱き締められたあとに気を失ったんだよ。それでエスキモーにここまで運んでもらった」
トレーナーさんの説明を聞いてうっすらと記憶が蘇ってきた。そうだ、ふんわりと漂う魅惑のフレグランスに包まれた私は意識を飛ばしていたのだった。
「そうでしたか……運んでくださったお姉さまはどちらにいらっしゃるのですか?」
「……用事があるから、シャワー浴びてそのまま直行するって話していたよ。また部屋で会った時にお礼言っておくようにな」
なにやら含みを感じたけれど、それほど重大なことではなさそうなので気にしないでおく。私はひとまずトレーナーさんにも礼を伝えてその場を辞することにした。
「承知いたしました。トレーナーさんにもご迷惑をおかけしました」
「大丈夫、気にしていないから。それじゃまた明日」 「はい。失礼しました」
頭を下げてトレーナールームを後にする。寮までの道中、取り急ぎお姉さまにメッセージでもと考えたけれど、用事の最中に連絡するのも迷惑かと思い、お姉さまが帰られた際に直接言うことに決めた。
「バイトでもされているのでしょうか……おこづかいはそれなりにもらっていると伺ったのですけれど」
お姉さまに限って変なことはしていないとは思っているけれど、やはり少しだけ気になってしまう。今度さりげなく聞いてみようかな。
「ひとまず帰ったら今日出された宿題を片付けましょう」
お姉さまと夜にお話するためにも早く終わらせないといけない。そう意気込んで私は自室までの帰路を急いだ。
─────
「お疲れさま、レイン。何読んでるんだ?」 「新聞です。菊花賞の記事が読みたくて」
菊花賞が2日後に迫った金曜日、トレーニングを終えたボクは部室の机の上に置かれていたスポーツ新聞を読んでいた。昨日枠順が決まったこともあって、本格的な紙面予想が各紙に掲載されている。
「やっぱり凄いな、エスキモーは。ほとんどの記者の人が本命にしてますね」
「オレの娘だから……というのは置いといても実績最上位だからな。セントライト記念も強いレースしていたし」 「皐月賞1着、ダービー3着のルージュは海外へ、ダービー2着のボクは来週の天皇賞に向かう訳ですから」
菊花賞に出走する18人の直近5走のレース成績を見ていると、やはりエスキモーのものが一際目を引く。1→1→2→1→1という着順の並び、しかもその内GⅠ2勝というのは出色の成績だ。多くの記者が彼女に本命を示す二重丸の印を打っているのも頷ける。
「話聞いていても調子良さそうだからな。3000mも合うだろうし、ヘマしなかったら順当に勝つだろうよ」
「追い切りのタイムもいいみたいですからね。2週連続でウッドチップコースを6ハロン81秒切ってますし」 「あいつとそのトレーナーのことだから、追い切りをやりすぎて疲労が抜けきらないってことはないだろう」 「そうですね。ボクが出ない分頑張ってほしいです」
読んでいた新聞を畳み、別の新聞を開く。そこに載っていたのは彼女のインタビュー記事だった。
「ここでは負けていられない、か」
記事の中にはボクやルージュの名前も書かれていた。あの2人がいないのに勝てなかったら面目が立たないというのはボクらのことを少し持ち上げすぎじゃないかと思うけど、彼女の勝ちたいという意志はストレートに伝わってきた。トレーナーさんもボクと肩を並べるように座って記事を真剣に目で追っている。
「一番最初に君たち2人と走ったことまで話しているのか……これ菊花賞と話ズレている気がするけどよくカットされなかったな」
「なにせボクたち走らないですからね。彼女らしいといえば彼女らしいですけど、載せた記者さんも記者さんなような」
ボクは来週走るからまだしも、ルージュは次走香港の予定だから本当に関係がない。ただ読者としてはライバルたちの裏話が聞けて満足かもしれない。その辺りは読者たちにウケそうかどうかで掲載を決めたんだろう、きっと。
「ここに天皇賞のことも書いているな。クラシック級から唯一参戦するレインのことも書いてあるぞ」
「ほんとだ……ただ扱いはそれほど大きくないですね」
目線を左へ移すと、来週開催される天皇賞(秋)の特別登録者の一覧と現時点での有力ウマ娘の記事が掲載されていた。ボクも数行だけではあるけど朝日杯1着とダービー2着からの果敢な参戦と記されている。
「言わなくても分かると思うが、扱いの差が実力の差じゃない」
「はい、分かっています。春に一度味わいましたから」 「ならこれ以上何も言わなくても大丈夫そうだな。オレは資料まとめにトレーナールームに戻るけど、レインも風邪ひかないように早くシャワー浴びて寮に戻れよ」 「はい、もうすぐ行きます」
帰っていくトレーナーさんを手を振って見送り、またしばらく新聞を読み耽った。ただどの新聞を読んでも今のクラシック級の中心はエスキモーだと書かれている。菊花賞を勝てば最優秀クラシック級ウマ娘の座も近いだろうということも。もちろん皐月賞に勝ってから海外に行ったルージュはともかく、ボクは今年GⅠを勝っていないから脇役扱いは当然だ。
「だけど……ボクだって……」
今のボクの実力がシニア級の先輩にどれほど通用するのかは分からない。壁の高さに跳ね返されてしまう可能性も高いだろう。だけどここで勝たないとボクはずっとずっと脇役に甘んじる、そんな予感がした。
「絶対勝ってやる……たとえどんな先輩が相手であってもボクは成し遂げるんだ」
心の底に積まれていた闘志という名の薪に火がついた。姉も成し遂げたクラシック級での天皇賞秋制覇という偉業、そしてその先の有馬記念制覇を果たし、世代の頂点はボクなんだと知らしめてやる。
「京都には、行かない。その間にも練習をしないといけないから」
新聞を綺麗に畳んで机上に置き直すと、椅子から立ち上がってシャワーを浴びに部室を出る。負けられないという想いを胸に、勝ちたいという意志を込めた脚で先を急ぐ。きっとじゃない、必ずやこの手でこの脚でやってやるんだ。
「エスキモー、待ってて。早く君がいる場所へ駆け上がってみせるから」
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| + | 第44話 |
心地よい秋風が緑のターフを揺らす。天高くウマ娘肥ゆる秋とはよく言ったもので、今日も雲一つない透き通る青空が広がっている。ただ秋といっても紅葉のシーズンはまだ先で、レース場内に生えている木々の葉はまだ青々としていた。
「それじゃ最後に京都3000mの復習をするぞ」
「はーい」 「はい」 「真面目な顔をしているザイアがエスキモーの膝の上で抱かれているのはなんかシュールだな……」
菊花賞デー当日の昼過ぎ、レースに響かないよう軽めに昼食を摂ったお姉さまの膝の上で私はトレーナーさんのお姉さまに対するブリーフィングを聞いている。シュール? 知らない言葉ですね。
「時間ないんでしょ? 進めて進めて」
「ないのは事実だが……まあいいか。今日走る京都3000mは出走者全員走ったことがない未知の距離だ。昔はクラシック級のウマ娘も同条件で走ることができるレースもあったみたいだけど今は廃止されている。すなわちみんなが自身のスタミナと相談しながら慎重に進んでいくレースといっていい」 「今だったら一番長くて2600mだっけ。でも重賞にはないんだよね、面白いことに」 「オープン戦はあるんだけど、マイナーではあるな」
2600m戦の話が気になり、2人がブリーフィングを進めている間に携帯で調べてみた。すると意外にも2600mの距離が設定されているレース場は多く、中央では10場のうち半数の5場でレースが実施されている。ただお姉さまのおっしゃる通り重賞は1つも開催されておらず、オープン戦も夏に行われる札幌日経オープン程度と数は多くない。すなわちレースレベルとしてはシニア級の先輩方との混合戦といえどトライアルレースと比べて高くはないから、前走でこの距離を勝ってきたとしても本番に直結することは少ないということだろう。
「なるほど……理屈としてはそういうことですね……」
「ザイア、なーに読んでるの?」 「ひゃあ!? お姉さま、急に耳元で話しかけられるとびっくりしますから!」 「えー、今のって私が悪いの?」
自分でも気づかないうちにブツブツとお経のように唱えていたら、不意にお姉さまに耳のすぐ近くで話しかけられて飛び上がってしまった。ただお姉さまは私の跳ね上がりをギリギリのところで回避したから、お姉さまの顎を私の頭で強打してしまうことも避けられた。
「わ、悪いというわけではなく……その……トレーナーさぁん……」
「エスキモー、ザイアが困っているだろ」 「むぅ……ごめんねザイア。びっくりさせちゃって」 「気にしてませんから……それより作戦会議を続けられては?」
ただでさえ時間がないのに私の相手をさせている場合ではない。とにかく先を促すと、トレーナーさんは咳払いをして話を先に進める。
「長距離のレースで特に大事なのは周りに乱されないこと。ペースを落として自分の流れに持ち込もうとする子もいれば、流れの遅さを嫌って捲っていく子もいる。加えて今までとは違うゆったりとした流れに掛かる子も出てくるから、入れ替わりの激しいレースになることも多々ある」
「大切なのは自分のリズムをどれだけ刻めるか、だね」 「ああ。無駄に体力を消耗せず、最後はロングスパート戦に持ち込めば勝利は近づく」 「はーい。自分の土俵にどれだけ引きずり込めるか分からないけど、頑張って勝ってくるね」
そう言うとお姉さまは私を膝の上から下ろし、意気揚々と扉の方へと歩いていく。私はそのまま出ていくものだと思っていたら、扉を開けたところで立ち止まり私の方へと顔を向けた。
「ザイア」
「な、なんでしょうか、お姉さま」
お姉さまの真剣な表情に思わず背筋が伸び、言葉が詰まる。次に何を言われるのか待ち構えていると、お姉さまの表情が解れ……
「勝ってくるね」
「うっ! お姉さまのウインク……それは反則です……!」
見事にハートを撃ち抜かれてしまってその場に崩れ落ちそうになる。トレーナーさんが慌てて支えてくれなければそのまま倒れてしまうところだった。お姉さまはというと、私が倒れそうになったのをトレーナーさんが介抱したところを確認してからパドックへと駆けていった。
「お姉さまってたまにズルいところありませんか……?」
「それは……分かる」 「トレーナーさんとはおいしいお酒が飲めそうです。まだ飲めないですけれど」
トレーナーさんも同じ目にあったのだろう。私を椅子に座らせると、昔を思い出すかのように少しばかり遠い目をしていた。
─────
トレーナーさんと2人して控え室で休憩したのちに観客席へと向かうと、既にスタンドは多くの観客でびっしりと埋まっていた。いわゆる黒山の人だかりと呼ばれるほどの密集度の中では前へなかなか進むことができない。ゴール板の目の前は諦め、ゴール前100m地点まで移動してようやく柵の前を確保することができた。
「私の秋華賞より多い気がします」
「ほとんどの年で秋華賞より菊花賞の方が観客数が多くなる傾向だから、今年も同じってことだな」 「お客さんの数でレースの優劣は決められませんし、お姉さまのレースは地球上の全生命体が観るべきものですので混雑するのも理解はできますが……何か不条理を感じます」
やはり世間的にはティアラ路線よりクラシック路線の方が人気なのだろうか、不服に思いながらも数字に表れている以上納得せざるを得ない。私1人の力では微々たるものだろうけれど、より多くの方にティアラ路線のレースを観てもらえるよう努力しなければ。
『クラシック3冠最終関門、菊花賞。今年も精鋭18人がこの淀の舞台で栄冠を競います。それでは紹介しましょう、まずは1枠1番──』
実況による紹介とともにコースへと姿を見せるウマ娘たち。春の実績ウマ娘、夏の上がりウマ娘、彼女たちの名前が呼ばれるたびに歓声が至るところから上がる。私も出走者の立場として過去3回ほど呼ばれている訳ではあるけれど、集中していたからか、どう呼ばれていたのかそれほど記憶に残ってはいない。また寮に戻ってから録画したものを見返してみることにしよう。
『そしてダービーウマ娘の登場です。いざ2冠制覇へ舞台は整った! 3枠6番、メジロエスキモー!』
そんなことを考えていたせいでお姉さまのバ場入場の瞬間を見逃してしまった。ただでさえゴール前を確保できなかったのになんという失態……
「エスキモーが入ってきたところ、携帯で撮ってあるから大丈夫だよ」
「……トレーナーさんはエスパーか何かですか?」 「そんなこと初めて言われたよ……」
あははと苦笑しながらもお姉さまの姿は決して見逃すことはないその姿勢、流石お姉さまのトレーナーさんだと感心する。もちろんお姉さまだけ見ているわけではなく、他の出走者の方のウォーミングアップの様子を見ながら状態の確認を適宜行っている。あくまでも見据えているのは先の先、将来を考慮しながら情報収集を怠らない部分は尊敬に値する。
「トレーナーさんも流石ですね」
「えーっとよく分からないけど……ありがとうでいいのかな?」
既に彼の下でGⅠを2勝している私が言うのもおかしな噺ではあるけれど、お姉さまが信頼するのも分かるななど感心している間に目の前のターフビジョンにて過去行われた菊花賞の最終直線の映像がいくつか続けて流れ始めた。3冠最終戦ということもあり、クラシック3冠を達成したウマ娘が多数登場している。その中にはお姉さまと同じメジロの冠を戴くウマ娘も登場していた。その名も……
「メジロエスキー……」
「日本で唯一の凱旋門賞覇者、ですよね。私は現役時代を存じ上げませんけれど、トレーナーさんは拝見されていたのでしょう?」 「……ああ、凄かったよ。本当に強かったのをはっきり覚えている」
なにやら歯切れの悪い返事に首を傾げつつも、私はターフビジョンに映し出されるスターターの姿を眺めていた。拍手とともに上がっていくスターターの台、そして赤い旗を振るスターター、それに合わせて鳴り響くファンファーレはレースがもうすぐ始まることを意味していた。否が応でも増す緊張感とともに私は祈りを込めて手を組む。お姉さまが勝ちますようにと強く。
『秋風薫る京の都で菊の冠を戴くのは果たしてどのウマ娘か。多くの名ウマ娘を生み出してきた淀の坂の前に設けられたゲートに出走者が次々と収まっていきます』
ターフビジョンに大々的に映し出されるゲート裏の様子。若干テンションが高いウマ娘がいるものの、スムーズにゲート入りが進んでいく。
『──が最後収まり態勢完了……スタートしました! わずかに遅れたウマ娘もいますがほぼ横一線でゲートを飛び出しました18人。まずは一度目の3コーナーへと向かいます』
お姉さまもゲートを見事に決めてスッと中団の内へと入り込む。坂を下り始めるまでは若干ごちゃついていたものの、4コーナーを迎える頃には縦に長いバ群が形成されていた。
「うん、それでいい。そこで脚を溜めて坂の途中から進出していけば十分に勝機はある」
「今は囲まれていますけれど大丈夫でしょうか?」
そう、あくまでもコースロスの少ない内ラチ沿いを確保できたからといってそれが勝ちに直結する訳ではない。ラストスパートの前に外に持ち出すか、バ群を縫うように抜け出すかしないと前が壁になったまま沈むだけなのだから。ただトレーナーさんは何の問題もないと太鼓判を押す。
「1000mの通過は1分2秒2か、ちょっと遅いな……まあバ群が彼女の周りに密集しているといってもところどころに切れ目はある。しかも相手はエスキモーだけじゃない。彼女をマークし続けた結果他のウマ娘に出し抜かれてたら意味がないからな」
「必ずどこかで隙が生まれる……お姉さまはそこを突けるということですね」 「ああ。しかも今回はエスキモーが得意な長距離戦。彼女についていけるウマ娘はそういないよ」
レースは第1コーナーを通過し第2コーナーへと差し掛かる。トレーナーさんの確信じみた瞳が見つめるその先には淡々と走るお姉さまの姿があった。
『さあレースは中間を過ぎ向こう正面に入ります。1番人気のメジロエスキモーはわずかに下げて外へ持ち出そうとしています』
約1ハロン先に淀の坂が立ちはだかる向こう正面の入り口でお姉さまがわずかに動いた。それを受けた実況が流れると、場内は一瞬ワッと盛り上がりを見せる。
「あっ、エスキモーの後ろにいた子がもう上がっていった」
「末脚勝負では分が悪いと見たのでしょうか。しかしいくらなんでも早すぎるような……」
1人が外から捲っていったことでお姉さまを囲っていたバ群が綻びを見せる。お姉さまはそれをすぐさま察知してスルスルと外へと持ち出すことに成功した。
「よし! あとは仕掛けどころだけど……」
「想定では坂の手前からですよね。常識外れが過ぎるのでは?」 「普通だったら、な」
先頭が坂を上り始めたところで場内が色めき立つ。お姉さまが少しずつ、少しずつ前へと迫ってきているからだ。
『なんとメジロエスキモーがここで仕掛けた!? 坂の途中でレースが一気に動きます!』
お姉さまに釣られるように後方に位置取っていたウマ娘も上がっていきバ群が再び凝縮される。レースを引っ張っていたウマ娘たちは想定より早い仕掛けに泡を食ったかのように後ろを振り返っている。ペースがぐっと速くなる。
「ここからは消耗戦。最後まで粘り切った者が勝つ」
「お姉さまは……笑顔ですね」
2000mを走った先に待ち受けるは淀の坂を含んだ5ハロンという未知の距離。絶望感すら抱かせるその道のりをお姉さまは笑みを浮かべて駆けていた。
『さあ坂の頂点から今度は坂を一気に下ります! ここから抜け出すのは果たしてどのウマ娘か!』
勢いのまま坂を下りそのまま第4コーナーに18人のウマ娘がひとかたまりとなって押し寄せる。ただゴールが近づくにつれて1人、また1人と脱落していく。自身の歯を砕くほどに食い縛りながらも後ろへと下がっていく姿は無常に映った。そんな彼女たちに代わってお姉さまは前へ前へと突き進む。
『第4コーナーから直線に向かいます! ここでもうメジロエスキモーが先頭に並びかけようとしている! 残り400m! 拍手が迎えるゴール前! ここで一気に突き抜けるか!』
もう言葉は何もいらなかった。お姉さまが先頭に立ってぐんぐんと後ろを引き離していく光景は美術館に飾られる絵画の1枚に匹敵する輝きを放っていたのだから。後ろからは何も来ない。我が物顔で緑の絨毯を真一文字に切り裂くように駆けていく。自らの輝きで観客の視線を独り占めにしてしまうスター、そのウマ娘の名は……
『メジロエスキモー、メジロエスキモーです! リードはもう4バ身、5バ身!』
「えっ……?」
私の目の前を通り過ぎた瞬間、お姉さまと目があった気がした。どこで観ているかなんて伝えていないはずなのに、大きな声で呼んだ訳でもないのに視線と視線が交差した。黒く艶やかな髪は太陽に照らされ眩しく煌めき、風に揺られた尻尾にも目を引かれる。白を基調とした勝負服を身にまとうお姉さまは、まるで神様が遣わせた天女様のように神々しく輝いていた。
『淀の女王は彼女に微笑んだ! メジロエスキモー、今圧勝でゴールイン!』
大歓声が木霊する。場内を揺らすほどの拍手と声援がお姉さまへと降り注ぐ。栄誉も祝福もその脚で掴み取ったお姉さまは、それでもなお謙虚に観客席へ向けて何度も礼を繰り返していた。
「決着タイムは3分2秒3。そして上がり4ハロンが46秒6、3ハロンが34秒9か」
「前半はスローペースかと思われましたが最後はロングスパート勝負になりましたね」 「ああ。手計算だが途中の1000mから2000mの区間は1分ちょうど。だとすると最後の1000mは58.8秒……並大抵のウマ娘じゃ脱落するのも無理はない」
着順掲示板に表示された2着との着差は7バ身。大差で勝利したメジロエスキーを除けば、第5代のクラシック3冠ウマ娘ナリタブライアンに並ぶ着差をつけたことになる。つまりそれだけ同世代の中では傑出した実力を持っている……ルージュさんとレインさんを含めなければ。
「トレーナーさん」
「どうした?」 「ルージュさんやレインさんが出走していればどうなっていましたか?」
歓声を上げる観客の間を縫うように帰っていく最中、気になったことをトレーナーに聞いてみた。世代の三強がこの淀の長丁場でぶつかればどうなるのかを。今日のような一人舞台にはならずに最後まで抜きつぬかれつのマッチレースが繰り広げられるのではないかと。ゴール板まで手に汗握るレースとなるのではないかと聞いてみたけれど、返ってきたのは意外な言葉だった。
「この舞台、この距離ならエスキモーが勝つよ、間違いなく」
「……それはどうしてでしょうか。今のお二人の実力はお姉さまに及ばないものの、世代としては抜けたものを感じられます。それでも、ですか?」 「それでも、だよ。レースが最後の3ハロンだけの瞬発力勝負になるのならまだしも、彼女はそれより手前からのロングスパートを仕掛け、それを最後まで維持できるほどの持久力を持ち合わせている。来年春の天皇賞も圧勝すると思うよ、間違いなく」
まるで未来予知でもしているかのようなその台詞に私は言葉が続かない。これまでもお姉さまが臨むレースに対して自信がないなんて言葉をトレーナーさんの口から聞いたことはなかった。ただこれほどまでに自信に満ち溢れた表情で勝ちを確信する台詞を聞いたことももちろんなかった。何が彼にそう言わしめるのか、聞こうか聞くまいか逡巡している間に控え室の前へと到着してしまった。
「エスキモーはまだ帰ってきてないみたいだな」
「ええ。お姉さまが来るまで静かに待つことにしましょうか」
聞きたい思いと聞いていいのかという迷い、何より聞いて答えてもらえるのかという不安が心の中でひしめき合う。
(トレーナーさん、貴方はお姉さまに何を見出しているのですか、など聞けるはずがありませんね……)
聞いたら答えは返してくれるだろう。ただそれはきっと曖昧なもので、私が望んでいる言葉ではないような気がする。
(またいつか、お二人のことを深く知ってからにしましょう)
頭の中でそう結論づけたところでドアがガチャリと音を立てて開く。思わず立ち上がってしまった私の視線の先に現れたのは当然──
「ただいま。勝ったよ」
お姉さまの姿だった。
─────
「お゛め゛で゛と゛う゛ご゛ざ゛い゛ま゛す゛お゛ね゛え゛さ゛ま゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」 「ありがと……その声どこから出してるの?」
オレの目の前で繰り広げられているのはザイアが帰ってきたエスキモーの胸元に飛び込んで号泣し、そんな彼女を受け止めながらも若干困惑気味の表情をエスキモーが浮かべている光景だ。やっぱりこれって普通逆なんじゃないか。この1年半で慣れてしまっているけど、何かおかしい気がする。
「エスキモー、おめでとう。圧勝だったな」
「ありがと、トレーナー。7バ身差だっけ。最後ちょっとだけ流しちゃったからそれほど差がついてたって思わなかったよ」 「オレたちに向かってウインクしていたもんな」 「気づいてくれてたんだ、よかったー」
やっぱりあれは意図的なものだったらしい。アイドルのライブで目が合った合わないの話はよく話題になるから、もし勘違いだったら恥ずかしいと思っていたが杞憂だったみたいだ。
「それにしてもよく気づいたな。いつもと違う場所から観ていたのに」
「私視力いいんだよ? 1周目でなんとなく分かってたんだから」
ふふんと鼻を鳴らすエスキモーとそれを聞いて流石ですなんて泣きながら褒め称えるザイア。オレはウマ娘ってそんなものなのかと感心しつつ、改めて彼女へ称賛の拍手を送った。
「本当に素晴らしいレースだったけど……」
「けど?」 「次はどこに行きたい?」
オレの腹は決まっている。ただ最優先すべきはエスキモーの気持ち。もし彼女がジャパンカップに行きたいと言えばそれに向けた調整を考えるし、香港を目指したいと言えば各所への手続きに走るだけ。でもきっと彼女は──
「有馬記念に行きたい。だって“夢”の舞台だから」
「……分かった。またトレーニングメニューを考えておくよ」
想いは一つ、夢への旅路。世代最強から現役最強へ、ただ駆け抜けていくのみ。
(ただ懸念点を挙げるとすれば……)
ある一人のウマ娘が脳裏によぎる。一度は倒したウマ娘の姿が。
─────
「はっくしゅん!」 「大丈夫か、レイン?」 「大丈夫です。風邪なんかじゃないですから」
菊花賞を寮のテレビで観てから居ても立っても居られなくなって学園のトレーニングコースを走っていると、たまたまトレーナーさんと遭遇した。本当だったら京都に行っていたみたいなんだけど、用事が立て込んで学園に残っていたみたい。
「来週は天皇賞だからな。無理は禁物だぞ」
「はい。あと1周だけ走ったら帰ります……トレーナーさんも無理しないでくださいね?」 「分かってるよ。もうちょっとで片付くし、レインさえよかったらどこかでお茶でもしていくか?」 「っ! はい、すぐに準備してきます!」
朝の占いは見ていなかったけど今日のボクはツイているみたいだ。シャワーを浴びに走っていった後ろからトレーナーさんの声が聞こえる気がするけど、とにかく今は先を急がないと。
「男の人と二人きりでお茶なんて緊張しちゃうな……」
一番身近な異性である父とすら二人きりで行ったことがないから少し緊張する。ジャージは論外だし、制服は悪くないけどありきたりすぎる気がする。かといって気合い入れすぎたら引かれそうだから……
「やっぱりトレーナーさんには、ちょっとだけ待ってもらうことになるかも」
心の中でトレーナーさんへ詫びを入れながらボクは支度を進めるのだった。
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| + | 第45話 |
クラシック級における世代限定GⅠが全て終了し、いよいよ次走からシニア級へ殴り込みをかけることになる。ただその前にエスキモーの祝勝会とザイアの残念会をしないといけないと思い立ち、菊花賞翌週の金曜日にトレーナールームでささやかに執り行うこととなった。
「私が勝っていれば一番良かったのですが……」
「もうそれは言わない約束でしょ? ほら、せっかく頼んだ熱々のピザが冷めちゃう」 「そうだぞ。2人とも温かいうちに食べてくれ」
左手にはビール……ではなくジュースを注いだコップを持ちながら彼女たちの食事風景を見守る。オレは食べないのかって? このあとケーキがあるからほどほどに抑えているだけだよ。といっても……
「トレーナーも余ってるから食べてよ。ほら、あーん」
「あーん……うん、宅配のピザもいいな。家で作れない分特別感があるし」 「本格的なのは家のオーブンじゃなかなかね……ザイア、どうしたの?」 「遠慮しなくていいんだぞ。明日は休みなんだし、寮長には遅くなるってオレから言っているんだから」
なぜかザイアがオレたちの方をジトーっとした目で見てくる。何かやらかしたかなとエスキモーと二人して首を傾げていると、なぜだか音を切るかのようにビシッと指を差された。
「ちょっと! どうしてお姉さまは躊躇いもなしにトレーナーさんにあーんと食べさせたりしているんですか! トレーナーさんもどうして戸惑うことなく受け入れているんですか!」
彼女の指摘は至極当然、ごもっともな話で、どう取り繕おうかと思考を張り巡らせていたところ、エスキモーがたどたどしくもごまかし……いや答えを返した。
「え、えーっとねザイア。ほら、トレーナーと私は小さい頃からの付き合いって言ってたでしょ? それでね、よくこうやって食べさせたりしてたのが今でもちょっと出ちゃうだけなの。ね、トレーナー?」
「お、おう、そうなんだよ。ついついオレもその時の癖が出ちゃって。ごめんな、変なもの見せちゃって」
ごまかし、偽り、取り繕い、はぐらかし。この関係がバレるにはまだ早い。彼女にバレてしまうとしても引退するまでは隠しておきたい。その一心でオレとエスキモーはウソをつく。エスキモーの幼い頃なんてほとんど付き合いはなかったのに、あたかも面識があったかのようなでまかせを言い放って。
「疑わしいですね……もう少し詳しく聞かせてもらっても……むぐっ」
「見て見てザイア、ポテトもあるしサラダも残ってるよ。ザイアもほらあーんってして?」 「むぅ、仕方ありませんね……あ、あーん……」
ザイアが頬を赤らめながらもエスキモーに食べさせてもらっている光景を見て胸がズキンと痛くなる。彼女のエスキモーに対する好意を利用してごまかして、一度封が開けられた缶詰にラップをかけるように蓋をして。そしてそのまま冷蔵庫の奥に放り込んで、他の食品で見えないように隠してしまう。いつの日かまた見つけられてしまうだろうけど、その時はさらに上からアルミホイルを巻いてしまおう。
(このことは二人だけの秘密)
“夢”も互いに秘める想いも今はまだ。
─────
「「「ごちそうさまでした」」」
最後にケーキを胃袋に収めて両手を合わせると、3人で手分けして後片付けを行う。あらかじめ用意してあったスーパーの袋にゴミをまとめ、使った机はウェットシートでサッと汚れを拭き取る。そのウェットシートも袋に放り込んでゴミをまとめたところで一息つきながら椅子へ腰を下ろした。
「そういえば今度の天皇賞は観に行くのか?」
「レインも出るし私は行こっかなって。ザイアは?」 「私もレインさんの応援のために顔を出そうかと考えております……お姉さまと出かけられますし」
ザイアが顔を逸らしてボソボソと言った最後の言葉は聞かなかったことにして、それだったらと自分も行くことに決める。もちろん目の前で頬を淡く朱色に染める彼女の想いを考慮し、単独行動するからと先んじて伝えておく。
「オレは好き勝手動くと思うから、悪いけど明後日は2人だけで頼む」
「私は別に構わないんだけど……トレーナーがそう言うなら分かった。それじゃザイア、日曜日は一緒に出かけよっか」 「……っ! はい、もちろんです!」
ということで明後日の動きが決まったところで解散することにした。いくら遅くなると先に伝えていてもあまりにも遅すぎると寮長が怒るだろう。ゴミ捨ても一緒にとねだるエスキモーたちを寮へと見送ってから、オレは1人で校舎裏手の収集箱にゴミを捨てにいった。
「日曜はシニア級の子たちの分析と……っと、ザイアからメッセージか」
ポケットに突っ込んでいた携帯がブルブル震えたことに気づいて取り出すと、画面に表示されていたのは……
『トレーナーさん、今日はありがとうございました。おやすみなさい』
といった短くも丁寧な文章だった。
「礼を言われるほどでもないんだが……まあいいか。気にしなくていい、お疲れ、おやすみっと」
ぱぱっと打ち込み返事を返すと、ちょうどゴミ捨て場に辿り着いた。手に持ったゴミ袋をそっと置いて、ふぅと一息つくと空が明るいことに気づく。
「月が明るい。満月、ではないか。それでも綺麗だな……」
おそらく数日前は満月だったのだろう、少しずつ欠けていきながらも変わらず夜空を照らす月を見上げる。どこかの小説家が言ったとか言わなかったとかいう言葉も頭の片隅に置きながら、また自室へと歩いていく。
「同じ月を見ているのかな……見ていたらいいなあ……」
─────
「お姉さま? 急に立ち止まってどうかされました?」
寮への帰り道、トレーナーさんへお礼のメッセージを送っていると、お姉さまが急に立ち止まって空を見上げた。お姉さまが何を見ているのか、視線を辿ってみるとそこに輝いていたのは若干端が欠けたお月さまだった。
「なんだか明るいなって思って。綺麗だなあなんて」
お月さまを見つめるお姉さまの瞳は吸い込まれそうなぐらいに透き通っていて、それでいてキラキラと輝いている。でも手を伸ばしてもきっと届かない、今はまだ、遠い。
「お姉さま、星も綺麗ですよ」
「うん、きらきらだね」
お姉さまが童謡を口ずさむのを私は隣で静かに聴いている。どこまでも響いていきそうな歌声を私一人が独り占めしている。
(帰りたくない、と言ったらお姉さまは困るでしょうか)
この時間が永遠に続けばいいのになんて願いを胸に秘めながら、私は夜空に思いを馳せていた。
─────
日曜日、昨日の夜からぽつりぽつりと地面を濡らしていた雨は強くなることはない代わりに止むこともなかった。小雨でも数時間降り続ければコースの路盤にも水分が溜まっていき、昼前にはバ場状態が良から稍重へと変更となっていた。
「念のために持ってきていた合羽でも着るか」
まだ肌寒さを感じる季節ではないけど雨に打たれ続ければ風邪もひく。そうなるとエスキモーとザイアの2人に迷惑がかかる。大げさだけどオレ1人で済む問題ではないのだ。
食事やその他の準備は既に済ませているし、ゴール板の真正面の位置も確保済みだ。そしてタイミングよくまもなく芝1600mで行われる9Rが始まろうとしている。
「ここは6番か? いや外の8番も調子良さそうだな……」
人気ではそれぞれ1番人気と2番人気を争う彼女たち。パドックでの気配や追い切りの様子を考慮すると、この2人ですんなり決まりそうだが──
『勝ったのは5番──』
その2人は2着と3着。勝ったのは人気薄の5番の子だった。タイムは1分34秒3だから、すなわちバ場が稍重の割にタイムが速いということ。携帯を見ても雨が強くなる予報は出ていないし、メインレースもある程度速い時計での決着となるだろう。
「次はダートの1400mか。ダートも稍重だしこっちも時計は速くなるだろうな」
東京のダート1400mはフェブラリーSが行われる1600mとは異なり、純粋なダートコースのみで行われる競走だ。スタート後1ハロンを過ぎると下り坂が始まることから、前半のペースは速くなりがちで、しかも今日は雨でバ場が締まっているせいで相当ペースが流れるだろう。だとすれば差しや追い込みが得意なウマ娘が優位に立てるはず……
「駄目だ駄目だ、レースを楽しむんじゃなくてついついトレーナー目線で見てしまう……悪い癖だな」
頭を振って思考をなんとかリセットしようと試みる。あくまでも今日トレーナー目線で観るのはメインの天皇賞だけでいいんだと、他のレースの分析は家に帰ってからできるんだからと自分に言い聞かせる。あと独り言をブツブツと言っていると怪しく思われるから、口は閉ざしておこう。
(今のうちにメインレースの人気でも見ておくか)
フルゲート18人立てで行われる秋の盾を巡る一戦。1番人気と2番人気はシニア級の実績者で占めているが、3番人気にクラシック級ながらレインが推されていた。4枠7番と内目の枠を引けたこととダービーの好走が支持されての人気だろう。ダービーからの天皇賞直行のローテは奇しくも彼女のお姉さんと似ているが、おそらく偶然だろう。チーフのことだし、姉妹だからといってローテまで被らせることはしないはずだ。
(さてさて、どれほど成長しているのかお手並み拝見といこうじゃないか)
夏合宿前半はエスキモーのことがあったし、後半はザイアの怪我でそれほど彼女の練習風景を確認できていない。追い切りのタイムはいい数字を出しているが、実際のレースではどうなのかしっかりチェックしなければ。
(有馬記念における最大のライバルはきっと……)
エスキモーのために彼女の実力を丸裸に……なんか言い方が犯罪チックで変な意味に聞こえるな。隠されたポテンシャルを詳らかにする……これでいいか、うん。
─────
『さあ本日のメイン競走、11Rは天皇賞(秋)、GⅠ。芝の2000mにてフルゲート18人で行われます!』
広い場内を拍手と歓声が包む。10万人を超える観客でスタンドは半ばおしくら饅頭状態と化している。
「早めに前の方確保しておいてよかったですね、お姉さま」
「そうね。合羽も持ってきて正解だったし」
朝から弱い雨が降り続いていたものの、今の時間は小康状態となっている。ただ上空は厚い雲に覆われていて、またいつ降り出すか分からない。先ほど携帯がぎりぎり繋がったタイミングで天気予報を見ていたら、17時頃には雨が再び降り出す予報になっていた。
「週の真ん中は雨降ってもいいから、週末は毎週晴れてくれないかな」
「お姉さま……レースは常に良バ場になりますが、逆にトレーニングの際雨に降られることになりますよ……」 「もう、冗談だって! そんな呆れた顔でこっち見ないでよー」 「冗談ということぐらい分かっています。お姉さまの言うことですし」 「えっ、今の発言の方が引っかかるんだけど」
私の頬を人差し指でつんつんとしてくるのを優雅にスルーしながら、改めていい場所を確保できたなと自画自賛する。ゴール板と100m地点のちょうど間、ゴールまで50m地点では確かに人はごった返しているけれど、ゴール板の真正面より比較的人の流動性が高い。昼食を食べてから戻ってきた時はまだまだ前に行けなかったけれど、パドックに行ったり時間をずらしてご飯を食べに行く人たちが捌けてくれたおかげで徐々に前へ進め、今は観客席の最前から2列目ほどでレースの発走を待つことができている。
「あっ、レインさんが走ってきました」
「ほんとだ。レイン、頑張れー!」
山伏の衣装、法衣をモチーフにした勝負服を身にまとったレインさんがちょうど私たちの目の前を颯爽と駆け抜けていった。バ場が湿っているはずなのに特に気にすることなく軽く走っていく様子は彼女の調子の良さを感じさせるものだった。思わず背中がぞくぞくとするほどに。
「……ザイアも分かった?」
「……はい」
それはお姉さまも同じで、今日のレースが楽しみになるのと同時にレインさんへの警戒度がぐんと上昇した瞬間だった。
─────
『さあファンファーレが高らかに鳴り響き、各ウマ娘がゲートへと収まっていきます。今年もシニア級だけではなくクラシック級のウマ娘が参戦しておりますが、果たしてどのような決着を迎えるのでしょうか』
太陽は顔を隠し、厚い雲が天空を支配する。色づき始めた紅い葉を散らすがごとく駆け抜けるのがレインさんでありますように。ゲートに入ってスタートを待つ彼女の背中を見つめながら、灰色の空へ祈りを捧げる。
『──が収まり態勢整いました。栄光への10ハロン。誇り高き秋の盾を懸けて、今スタートしました!』
ゲートが開き18人が一斉にスタートを切る。しかし内枠のウマ娘たちのスタートが若干遅れた代わりに外枠のウマ娘たちが抜群のスタートを切ったことで、2コーナーの辺りで最内枠のウマ娘がバ群に閉じ込められる格好になった。ただ大きな不利や過度な接触が起こった様子はターフビジョンでは見受けられず、向こう正面に入ると隊列は落ち着き、縦長の展開となっていた。
「レインさんは前の位置を確保できたようですね」
「他の内枠の子よりスタートがよかったからね。ただもしかしたらペースがちょっと速いかも……」
どこからでも動けるはずのポジションをレインさんが取りきったにも関わらず、お姉さまは喜んではいない。一般論として逃げと先行勢が飛ばすと差しと追い込み勢が有利になり、逆に落ち着いた流れになれば有利不利はひっくり返る。今のこの滔々とした流れで笑うのは……
「レインさん、大丈夫でしょうか……」
「信じるしかないね」
稍重にも関わらず1000mの通過は59秒フラット。私たちの懸念は次第に大きくなり、最後には目も当てられない状況になる……
はずだった。
─────
紺色がかった自身の髪が風で激しく靡く。向かい風の影響を少しでも減らすためにスリップストリームの恩恵を受けようと左右に動いてはみるものの、前を走る先輩も分かっているのかなかなか上手くさせてはくれない。
(ペースがちょっと速い……? でも体力は全然残ってる。平気)
本バ場入場からコースに足を踏み入れた時は湿ったバ場に若干戸惑いがあった。足を強く踏み込むとじわっと水が滲み出してくる。でも、どんなバ場でもぼくの夢を止められやしない。友を超える、姉を超える、そして──
「ああああああああああっっっっっ!!!」
トレーナーさんに褒めてもらうんだ。
─────
3コーナーを過ぎ、4コーナーが目前へと迫る。ペースが上がり隊列が徐々に圧縮される中、ボクはまだじっと脚を溜める。前が空くタイミングを静かに狙い澄ます。そしてボクの前を走っていたウマ娘が外に出そうと進路を右にとった。
(今だっっっ!!!)
瞬間体が宙に浮く感覚を覚える。海底に眠っていた竜が空を我が物顔で飛び回るように、体に装着されていた重しが外れたかのごとく脚がとても軽い。まるでここがスタート地点ではないかと錯覚してしまうほどに。ああ、そうか、これが──
“蛟竜、雲雨を得 Lv.1”
(“ゾーン”なんだ)
─────
「まさかっ!?」
4コーナーでレースが大きく動く。さっきまでバ群の真っ只中にいたはずのレインが一気に先頭に並んで、交わした。まさにカミソリ……いやこれは……
「メジロ、エスキー……?」
思わず口から彼女の名前が零れる。“夢”でもそして現実でも目の当たりにしたあの驚異的な末脚には及ぶことはない。ただ一瞬の爆発力という観点ではエスキモーすら上回る。背筋が、寒くなる。
『さあ4コーナーから直線! 先頭はここで入れ替わって7番のグレイニーレインだ! ただ後続も一気に押し寄せてくる!』
手に持ったストップウォッチのタイムをちらりと見やる。そこに表示されていたのは残り600mから残り400mの区間の記録。11.5秒という数字を見ると、彼女たちが駆けているバ場の状態が稍重であるという事実を忘れてしまいそうになる。
「もしかしてこのまま凌ぎきるつもりか……?」
重たいバ場にも関わらず隊列の先頭が刻んだ前半1000m59.0秒という時計。そのペースを先団で追走していた彼女は本来であれば後ろから差されてしまうところなのだがバ群に沈むことはなく、むしろ後続を突き放すかの勢いで残り200mを通過した。
「ちょっと……想像以上だな」
蒼き炎を身にまとった少女が目の前を駆けていく様をオレは呆然と見送るしかなかった。
─────
後ろを振り返る余裕はない。ひしひしと迫る重圧を振り払うように限界に近い脚で一歩ずつゴールへ突き進む。坂を上りきり、残り200mを示すハロン棒を通過しても、観客席の声援が次第に大きくなってきてもまだレースは終わらない。
(絶対に勝つ……負けられないんだっ!!!)
よろけそうになったところを踏みしめた脚で懸命に堪える。背中に感じるプレッシャーから逃げるように腕を振り脚を動かす。息も荒く歯を食いしばっている様子は普段のボクとは程遠い姿なのだろう。青みがかった髪に付着した芝や土もあとで洗い流さないといけない。でも。
「勝つんだああああああっっっ!!!」
自分の喉から出たとは思えない声が止まりそうになった脚に再び発破をかける。ゴールまででいいからと、先頭でゴールを駆け抜けたらいいんだからと最後の気合を入れる。迫るゴール板。あと50m、40m、30m。
(もう誰も来るなっっっ!!!)
祈りに近い心の叫びをエネルギーに変えひた走る。残り20m……10m……そして。
(ボクの……勝ちだっ!!!!!)
先頭でゴールを駆け抜けた先に待っていたのは、万雷の拍手と地響きに似た大歓声だった。
『勝ったのは7番グレイニーレイン! 4コーナーから誰にも先頭を譲ることなく、見事秋の盾を制してみせました!』
─────
着順掲示板で“Ⅰ”とローマ数字で記された横に灯った“7”というアラビア数字はレインさんの勝利を示すものだった。1分57秒5という勝ちタイムは雨を含んだ稍重のバ場としては破格ともいえるもので、またそれを先団から直線で抜け出してマークした彼女の強さが際立つ結果でもあった。
「レインさん、強かったですね。後ほど勝利を祝福するために控え室に行かねばなりませんね……お姉さま?」
私も周囲の観客とともに拍手を送りながらレインさんの健闘を称える中、お姉さまはゆっくりとスタンド前に戻ってくる彼女の姿を呆然とした顔で目で追っていた。おそらく私の呼びかけも耳に入っていないと思われる。
「お姉さま? どうかされましたか? もしかしてご気分でも悪く……」
「……あっ、ごめんごめん。ちょっとボーっとしちゃってて」 「もうっ、心配させないでください!」 「あとでモカソフト買ってあげるから。ねっ?」
お姉さまの機嫌取りにもぷいっと顔を逸らしたけれど、内心では本当に何もよかったとひそかに胸を撫で下ろしていた。きっとレインさんの強烈な走りに目を奪われていただけなのだろう。視線の先にいたのが私ではないことだけが唯一の不満だけれど、それは些細な問題だ。
「もしかして冷たいものよりホットコーヒーの方がよかった?」
「……今お店は混雑しているでしょうし、後ほどいただきます」
─────
「レインおめでとう! よくやった!」 「ありがとうございます、トレーナーさん」
ウイニングランを終え、写真撮影を済まし、いくつかの取材に対応してからこの部屋に戻ってきてようやく一息つくことができた。こうやって出迎えてくれたのはトレーナーさんだけだけど、たぶんあとでエスキモーやザイアも来てくれると思う。
「結局最後は1バ身半差だったな。もちろん勝つことは信じていたけど予想以上だったよ」
「レース中はいつ交わされるのか必死でしたよ。もしかしたら仕掛けるタイミングが早かったんじゃないかって」 「確かにもう数テンポ早めにアクセルを踏んでいたら最後バテていたかもしれないな。それはこれからの検討課題として、今日のところは余韻に浸ろうか」 「はい、また頑張ります」
渡されたタオルで汗を拭い、スポーツドリンクで乾いた喉を潤す。鏡を見ながら髪についた芝や土を取っていると、机の上に置いていた携帯が何度も音を立てて震える。
「チームの先輩とルージュとクラスメイトと……母さんか」
届いたのは勝利を祝福するメッセージの数々だった。ルージュなんてまだ朝起きてすぐなはずなのにレースを観てくれていたことに思わず笑みが零れる。ただ父さんからは、何も届いていない。
(前に父さんに褒めてもらったのいつだったっけ)
世界中を飛び回る父さんが忙しいのは分かっている。たまにしか家に帰ってこないことも幼い頃から理解していた。でも、ボクはそれでも父さんに褒めてほしい。まだまだ子どもだと言われても構わないから、頑張ったねと父さんに頭を撫でてほしかった。
「どうした、レイン? 何か悲しいことでもあったのか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと昔を思い出していただけですから」
そうトレーナーさんに返してハッと気づく。そうだ、トレーナーさんがいるじゃないか。トレーナーさんに頼めばいいじゃないか。
「トレーナーさん、1つだけお願い聞いてもらえませんか?」
「ん? オレにできることならいいぞ。今日勝ったんだからご褒美はあげようと思っていたし」
よし、これならいける。そう確信して口を開いた瞬間。
「レイン、いる?」
「お邪魔いたします……取り込み中でしたでしょうか?」
エスキモーとザイアがドアをノックして、少し開けた隙間から頭を覗かせた。たぶんここでもう少し後でと伝えれば、彼女たちは訝しむことなく改めて来てくれるだろう。ただトレーナーさんにはきっと怪しまれる。それだけは避けたかった。だからボクは。
「ううん、大丈夫。中に入って」
彼女たちを中に入るよう促す。トレーナーさんにはまた今度と伝えて、祝福してくれる彼女たちの言葉に笑顔を浮かべる。
「ありがとう、2人とも」
──胸に鬱屈とした何かを抱えながら。
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| + | 第46話 |
「それではエスキモーの菊花賞優勝、レインの秋の天皇賞優勝を祝して」
「「「「「乾杯!!!」」」」」
お姉さまとレインさんへの祝福の声とグラス同士がカーンとぶつかる音が一斉に響き渡る。主賓と呼ぶべき2人が会場前方の席に座り、クラスメイトたちが各テーブルに分かれて食事をしながら談笑する様子はディナーショーに近いものを感じる。
「どうしてこうなったんだっけ……」
「私も急流に飲まれそのまま流されただけですので、はっきりとしたことは……」
トレーナーさんと私、そして今は席を外しているけれどお姉さまのお父さまとお母さまの4人のテーブルにて頭に手を当てため息をつく。メジロのお屋敷をお借りしてまで開かれたこの祝勝会、一体何が発端だったのかを思い出そうと、懸命に記憶を蘇らせる。
(あれは確かレインさんが勝利を収めた翌日の話でしたでしょうか……)
─────
10月も残すところあと数日となったこの日、私はいつものように朝学園へと赴きました。トレーナーさんから今月中のトレーニング禁止を命じられていることもあり、ジャージは持たず勉強道具のみを入れた鞄を手にして教室へ入ると、何やらざわざわとした声が耳に入ってきました。
「あっ、副委員長!」
「おはようございます。どうかされましたか?」 「ちょっとこっち来て話聞いてくれない?」
自席へと向かう途中、クラスメイトの方にお呼び立てされた上に手を引かれ、私は否が応にも話の輪の中へと入ることとなりました。鞄だけは自席に置かせてもらい、座るよう促された席へと腰を下ろします。
「それで話というのは一体なんでしょうか?」
「昨日のレインのレース観てた?」 「ええ。直接観に行かせていただきました」
興奮気味の質問に対し私はこくりと首を縦に振る。あの風を切り裂くような斬れ味で先頭を捉え、最後は後続の追い上げを抑えた末脚は強烈で、日を跨いだ今もなお脳裏に焼きついている。当分忘れることはできないほどに。
「当然その前の菊花賞は……」
「当たり前ですもしお姉さまとトレーナーさんが同じでなくとも観に行っていたことでしょうゲートの出は相変わらず素晴らしく道中のポジション取りも注文のつけようがありません終始掛かることなく1周目のホームストレッチから1コーナーそして2コーナーを落ち着いたままレースを進めてまいりましたそして2周目の淀の坂から仕掛け始めるロングスパートは他の方々を徐々に飲み込んでいき最後の直線では追いすがる者たちをねじ伏せ圧巻の勝利を飾ってみせましたダービーに続く2冠達成は誠に素晴らしいものでした……何か?」 「う、ううん……何もないよ?」 「委員長がすごいってことは分かったかな……」
何やら引かれてしまったようだ。私としてはまだまだ序の口でこれからが本番だったけれど、周囲の反応を見る限り遠慮した方が良さそうなので、とりあえず話を先に進めてもらうこととする。
「それでさ、うちのクラスから2週続けてGⅠウマ娘が出たわけじゃん?」
「それなのに教室でみんなでおめでとーって言うだけなのはちょっと寂しいなって思ったの」 「なるほど、話が掴めてきました」
私が秋華賞を勝っていれば3週連続であったことは話の腰を折ってしまう上に、彼女たちに気を遣われてしまうのが目に見えていたからやめておくことにする。とにかく今の話の行き着く先はこうだろう。
「お姉さまとレインさんの祝勝会を開きたい、ということでしょうか」
「そういうこと! 流石副委員長、話が早い!」 「ならば私に話をするより先に2人へ話をされた方がよいのでは? レインさんは昨日の疲れが抜けきれず欠席と伺っていますが」
サプライズをするにしても、普段からお忙しいお姉さまのご予定をそれとなく本人に聞いておく方がいいと思われる。お姉さまと同室である私も家の予定がある以上、お姉さまのご予定を全て把握している訳ではない。メジロ家の一員であるため休日にも予定が入っており、朝早く出ていって数時間後に帰ってきたかと思えばまた出かけられる。それにトレーニングも欠かさず行っているので、きっとスケジュールは隅から隅までぎっしりと入っていることだろう。
「それは大丈夫なの。委員長のトレーナーさんとレインのトレーナーさんにもう予定は聞いてるの」
「なるほど……でしたら私の出る幕はないように思われますが、何かお手伝いできることがあるでしょうか?」
起承転結の“起”の部分、もしくは序破急の“序”の部分かと考えていたら、実は相当前へと話はひた走っていた。東京発大阪行の新幹線で例えると、既に名古屋駅に到着していることだろう。お姉さまが走られた菊花賞で例えるなら最初のホームストレッチを抜け、2コーナーを過ぎた辺り。クラス内でのコンセンサスは取れているみたいだし、あとは副委員長である私を含めた当事者3人が首を縦に振ればトントン拍子に決まると考えていたけれど、どうもそういうことではないらしい。
「会場どうしようかなって。副委員長、何かいい案知らない?」
「祝勝会となればホテル……は敷居が高いでしょうか。ならばこの教室で……というのは皆さんの顔を見る限り、既に挙がって却下された案なのですね」 「流石副委員長察しがいい!」 「そうなの。後片付けも楽だしいいかなって思ったんだけど、GⅠを勝った2人を祝う場にしてはどうなのって話になってね」 「私は気にしないけどなー」
確かにお姉さまもレインさんも気にはされないと思うけれど、成し遂げた功績と比較するとどうしても見劣りしてしまうというのは一理ある。私が桜花賞やオークスを勝ったときは一族を挙げて盛大に祝勝会をやっていただいた。お姉さまからも似た規模で行ったと聞いたし、皆さんが一歩引いてしまうのも無理はないかもしれない。
「そうだ。だったらカラオケの大部屋を借りるとか?」
「確かにそれも1つの手段かもしれません」 「2部屋に分けたらなんとかなりそう?」 「それか私からおばあさまに頼んでメジロのお屋敷貸してもらおっか?」 「なるほど、その手もありましたか……お姉、さま?」
錆びたロボットがギギギと音を立てながら首を回すときのように、その場にいる全員がお姉さまの方にゆっくりと顔を向ける。いつからいたのだろうか、お姉さまの気配に宇宙一鋭い私ですら気がつかなかった。それほど考え込んでいたということかもしれない。
「どしたの、ザイア? 逃げ切ったと思ったらゴール直前でとんでもない末脚で差されたみたいな顔して」
「……一体いつから聞かれていました?」 「うーんっとね、会場どうしよっかってところからかな。ほんとに私はどこでもいいんだけど、せっかくだったらぱーっと晴れやかにやれたらなって」
なるほど、メジロ家のお屋敷である以上敷居は少し高いけれどそれはクラスメイトという点で相殺できるとして、金銭的にもある程度抑えられるし都合もつけやすい。サプライズ要素は皆無となったけれど、この提案は今の私たちにとって渡りに船なのだからありがたくその案を採用させてもらうことにした。他のクラスの方も異論はなさそうだ。
「私たちが勝手に考えてたことなのに会場を貸してもらってごめんね?」
「大丈夫、気にしないで。私はみんなのその祝いたいって気持ちだけで十分だから。それに祝勝会まで考えてくれてたなんてすっごく嬉しいの」 「委員長……」 「お姉さま……」
後光が差しているのだろうか、お姉さまが光り輝いて見える。文武両道、才色兼備、雲中白鶴。どんな言葉もお姉さまの前では陳腐に聞こえてしまう。お姉さまが教祖となれば一大宗教となるに違いない。ただ私は既にその信者なのだけれど。
「みんな崇めなくていいから。特にザイアは五体投地しない」
「……はっ、いつの間に私は」 「自分で気づいてなかったの……」
なぜかお姉さまにドン引きされたような気がするけれどそれはそれ。もうすぐ朝のホームルームが始まるとあって、話の続きはまた後で行うこととなった。それはそうと。
(結局私何もしていないような……?)
深く考えると負けな気がするので、残りはただ流れに身を任せることに決めた。もういくつか寝るとあっという間に本番が来るだろうから。
─────
「──といった流れのまま今日に至りました」 「説明ありがとう……川の流れの行くままにだな、本当に」
そう苦笑しつつ目の前に用意された食事を口にしながら、私の話に適度に相槌を打っていただいたおかげで非常に話がしやすかった。これが聞き上手というものなのだろう。ただトレーナーさんは話す方も上手なので、反対に私が聞く立場になってもおそらく上手に話を進められるだろう。彼は頭が柔らかいのだろうと私は推察する。アドリブも利く上に咄嗟の判断も素早いから、緊急事態になっても冷静に対処できるはずだ。
(このような頭脳の持ち主がウマ娘でいらっしゃれば恐ろしい存在になっていたでしょうね。そんなこと万に一つもありえませんけれど)
妄想はあくまでも妄想。ベラベラ喋るほど高尚なものではないのだから、胸の奥に閉まっておくことにしよう。
「ザイアはみんなのところに行かなくていいのか?」
「本日の主賓はあくまでもお姉さまとレインさんですから。お姉さまはともかくレインさんともレース後や寮でも話をさせていただきましたし、今はクラスの方々の番だと思われます」
私はそう言いながら優雅にティーカップを持ち、ミルクティーを口にする。これはダージリンのオータムナルだろうか、若干渋みが加わっているのが実にいい。まさに冷静沈着、余裕綽々……なんてことを考えていると。
「……エスキモーとレインが互いに食べさせあいしているのをみんなが撮っているみたいだけど」
「……はい?」
カップを持つ手をわなわなと震わせながら会場前方へ視線を送る。するとそこには……
「ボクはちょっと恥ずかしいな……」
「私は別にいいんだけど……需要あるの?」
ということを話しながらあーんと食べさせあいをしている2人がいた。私からはカップをソーサーにガチャッと音を立てて置いてしまう無作法を行ってしまったことを気にする余裕が一瞬にして失われ、慌てて席を立って小走りに会場内を駆けていった。
「私の目が届かない場所でそのようなことは許しません!」
─────
「そんなバタバタしなくてもいいだろうに……あっ、チーフとドーベルさん。お疲れさまです」 「お疲れ。座ったままでいいよ。ドーベルの席はこっちかな」 「ありがと。っていってもちょっとしかいられないけど」
ザイアが離れていくのを遠い目をして見ていると、ちょうどチーフとその奥さんのドーベルさんがオレたちの席へやってくるところだった。ただ去年お子さんが生まれたと聞いていたけど、その姿は見当たらない。
「あの子なら今ドーベルのお父さんとお母さんに預かってもらっているよ。まだ1歳にもなっていないのにこういった場に連れてはこれないから」
「アタシは留守番でもよかったんだけど、お父さんとお母さんが預かるって言うから。男の子は初めてだからってはしゃいじゃって」 「いいじゃないか。せっかく近くに住んでいるんだから、頼れるときには頼って……ってごめんごめん、蚊帳の外になってしまっているな」 「いいんです、気にしないでください」
こうして見ているとチーフもいいお父さんをしているんだなと実感する。自分自身も大変なはずなのに奥さんを気遣い、そしてこうして娘の祝勝会にも顔を出す。一流のチームを率いるトレーナーは私生活まで一流なのだ。
「エスキモーは大丈夫ですか? あの子よく連絡くれるんだけど、アタシたちには愚痴とか辛いこととか言わないようにしてるみたいだから」
「たまにトレーニングがすっごく疲れるなんて愚痴は言われたりしますけど、彼女の口から辛いとかは全然聞かないですね。たぶんストレスを上手に発散できる子なんだと思います」
ただ、今彼女とレインの間に入っていっている子を夜な夜な抱き枕にしているなんてことは彼女の名誉のためにも言わないでおく。それとオレの家にほぼ毎日来て、朝昼晩の食事と家事をやることがストレス解消と私生活の充実に繋がっているなんて口が裂けても言えない。でも“夢”の話を知っているなら……いや、深く追及するのは藪蛇になりかねないからやめておこう。
「クラスの子ともうまくやっているみたいだしな。レインからもよく聞くよ、あの子の周囲にはいつも明るい花が咲いているって」
「アタシとは違うから、娘なのに眩しく見えちゃう。誰のおかげなのかな、“トレーナー”?」 「“ベル”、その呼び方はやめろって。オレがヤバい奴みたいに聞こえるだろ」 「ふーん? ま、別にアタシはどっちでもいいけど?」 「あのなあ……」
夫婦喧嘩は犬も食わないとはこのことなのか。オレは深く頷きながら紅茶を飲む。舌が肥えていないからよく分からないけど、おそらくきっといい茶葉を使っているのだろう。流石メジロ家だなあと思わず感心してしまった。なんてことを考えていると、遠くから何やら楽しそうな声が漏れ聞こえてきた。
「──ってことに決定!」
パチパチパチと拍手の音まで響いてくる。なんだなんだと3人して立ち上がり、一体何がこれから始まるのかザイアに聞いてみた。
「ザイア、今から何かやるのか?」
「端的に言いますと……お姉さまとレインさんが芝2000mで勝負いたします」 「「……は?」」
突然決まったマッチレース。オレは慌ててエスキモーのところに、チーフも急いでレインの元へ走っていく。何がどうなったのかを問い質すためとどれほどやる気なのかを聞くために。
「えっとエスキモー? 何がどう転んだら今からレインと走ることになるんだ?」
「誰かがポロッと言っちゃったんだよね、今の私とレインならどっちの方が速いのかなって」 「なるほど、それを誰かが拾って話が広がって、当事者2人もやる気になってって経緯なんだな」 「さっすが私のトレーナー、話が早いね」
そんなことを歩きながら話していると、いつの間にか外のコースに到着していた。ここまで来るともう止められないんだろうなと悟りながらも、オレは本気で走るのはトレーニングメニューに支障が出るからせめて抑えて走るようにと伝える。
「それは大丈夫。レインの方も天皇賞からすぐだし、みんなも本番は今度って分かってるみたいだから。あっ、ちょっとトレーナー背中押してくれない?」
「……もしかしてこうなることを見越していたから、スカートじゃなくてパンツルックにしたのか?」 「……ちょっとトレーナーが何言ってるのか分かんない」 「なんで分かんないんだよ……」
どこかのお笑いコンビみたいなやりとりも程々にしながら彼女は着々と準備を進める。そんなやる気満々の彼女にオレは最後に約束してほしいことを伝えた。
「これだけは守ってほしい。絶対に無理と無茶だけはしないこと。勝たなくてもいいとは言わないけど、あくまで模擬レースであるのを忘れないこと」
「はーい。レインにも走る前に伝えておくね」
そう言って手を振りコースへ向かう彼女をオレは手を振り返しながら送り出す。勝ちを願いながらも無理はするなと矛盾に近い思いを抱えながら静かに見守る。頑張れと心の中で唱えながら前だけをただ見つめて。
─────
「絶対無理するなよ。少しでも違和感あったら止まっていいから」 「分かってます。本番はまだ先ですから」
トレーナーさんはスタート直前まで外ラチで心配そうに声をかけてくれる。まあ本当だったら休まないといけない時期なのに無理を言って走らせてもらっているんだから、トレーナーさんの心配はごもっともではある。というか断っても全くおかしくなかったのになと不思議に思ったりもする。
「それじゃそろそろ始めようか、エスキモー」
「うん、ストレッチは済ませてるよ」
距離は2000m、ボクが弾いたコインが芝に落ちたらスタート、最初の1000mは飛ばさないなどの条件を話し合ってから互いにスタート地点で構える。どっちが内に行くかについては、エスキモーが外がいいと言ったから自然とボクが内に入ることになった。
「準備はいい?」
「いつでもいいよ」
互いに頷きあうとボクはコインをピンと親指で空へ弾き飛ばす。重力に抵抗していた銀色のコインが徐々に勢いを失い、下へ下へと落ちていくのをじっと眺める。そして柔らかい芝に静かに落ちたのを2人とも確認して──
「「……っ!」」
レースが始まった。
─────
まずはボクが前に入り、そのすぐ後ろにエスキモーが位置を取る。先行脚質のボクと差しが中心のエスキモーでは必然的にそうなるだろうと考えていたから驚くことはなく、取り決め通りにゆったりとレースが進んでいく。
(観ている方は分からないかもしれないけど、これはこれで大変だ……)
今ヨーロッパにいるルージュからたびたび聞くのは、向こうの大きなレースは日本と違って少頭数が多く、序盤のペースが速くなりにくいということ。ただレベルが低いということではもちろんなくて、その分道中の駆け引きやラストスパートが熾烈なものになっているらしい。あとペースについてはヨーロッパ特有のコース事情もあるから一概には言えないみたいだ。
(追い切りだったらこんなことはないのに……普段のレースの方が走りやすいな……)
残りの距離を確認している間も背中にただならぬプレッシャーを感じる。1000mまでは仕掛けないという約束は守ってくれるだろうけど、そこから先は全く読めない。今日はすっきりとした青空が広がっていて暖かいはずなのに、ボクの周りだけ冷気が漂っている感じがする。
(それでもボクは負けたくない。この模擬レースでも絶対)
残り1000mの標識が迫り、本当の勝負がまもなく始まろうとしている。背後から発せられる重圧も徐々にその強さを増しているみたいだ。
(エスキモー、勝負だよ)
─────
残り1000m地点を通過し一気にペースが上がる。2人のクラスメイトたちがより一層盛り上がる中、オレとザイアは冷静にレースを見守っていた。
「前半は1分4秒ほど、直前の1ハロンも13秒台だから約束は守っているが……」
「むしろ残り1000mで全力を出しきると言わんばかりにギアが上がりましたね」
まず最初に仕掛けていったのはエスキモーの方だ。彼女の長くいい脚を最大限活用するためにはこの辺りから徐々にスパートをかけていく必要があるから間違ってはいない。ただレインもレインでおいそれと先頭を譲ることなく、レースはロングスパート勝負の様相を呈してきた。
「スタミナ勝負ならエスキモーに分があるけどそれは相手も分かっているはず」
「レインさんはどう動かれるのでしょうか」
レースは3コーナーを過ぎ4コーナーへと差し掛かる。隊列は変わらずレインが先頭だが、エスキモーがそれに並びかけようと外から迫ってきた。徐々にその差が詰まり交わそうとした刹那。
「マジか」
「ここで突き放すのですか……?」
再び2人の差が広がる。その差3バ身、いや4バ身ほどあるだろうか。エスキモーに突かれて脚を使わされる展開だったにも関わらず、勝負どころで見せた爆発的な末脚は否が応でも“彼女”のことを思い出す。天皇賞で見せたものと同じそれは未完成ながらも、既に見ている者たちを震えさせるほど仕上がっていた。しかし──
「勝負はまだ終わっていない」
残り400m。再び彼女はその末脚で前へと迫る。
─────
残り400m。後ろを振り返る余裕はないけど、さっきので何バ身かは引き離せたはず。だけど彼女はそれで終わるような器じゃない。そんなやわなウマ娘だったらとっくにボクはダービーウマ娘の称号を得ていたはずだから。
(遠ざかった気配がまた近づいてくる……ボクのペースが落ちたわけじゃないのに……)
自分の武器がスパッと切れるカミソリのような末脚なら、彼女の武器はじわじわと速度を上げるナタに例えられる末脚だ。だから一度突き放せたとしても落ちることなく一歩ずつ迫りくる。普通のウマ娘ならその恐怖で竦んでしまうかもしれないけど、ボクは違う。
(ここで負けてなんかいられないんだから!)
残り200m。とっくに手を抜くとか苦しかったら止まっていいみたいなことは頭から抜け落ちていた。互いに勝つことだけが頭を支配する中、ボクは重い脚を懸命に前へ踏み出し、腕を千切れんばかりに振っている。逃げるのではなく勝つために。
「ああああああああああっっっっっ!!!」
ヨレそうになるのを必死に堪えながら声を張り上げる。息の苦しみも脚の重さも忘れるほどに放出されたアドレナリンが体全体を支配している。残り50m、彼女が外から並びかけてくるのを横目で見ながらただひたすらに駆けていく。
(負け、たく、ないっ!!!)
彼女がボクを交わす。それをボクが差し返す。また彼女が伸びてくる。数秒にも満たない間のデッドヒート。迫るゴール。
「「ああああああああああっっっ!!!」」
2人の叫び声とみんなの歓声が入り交じる中、ボクたちはゴールを通過した。
「はあ……はあ……」
膝に手をつき大きく何度も息をする。そう吸って吐いてを繰り返していると、もう息が整ったのかエスキモーがボクの方に握手を求め駆け寄ってきた。
「お疲れ、レイン。それと走ってくれてありがと」
「ふぅ……いやこっちこそありがとう。おかげでみんなを盛り上げることができたと思うから」
2人してコースの周囲を見渡すと、そこにはボクたちに拍手とエールを送るクラスメイトの姿があった。突発的なレースではあったけど、これだけ楽しんでくれたなら頑張って走った甲斐があったと思う。あとは──
「どっちが勝ったと思う?」
「私! って言いたいところだけど分からないんだよね。流石に写真判定機は置いてないし……トレーナー! どっちが勝ったか分かる?」
彼女がちょうどゴール前に陣取っていた彼女のトレーナーさんに聞いてみても首を横に振られた。隣にいるザイアに聞いてみても同じだったから、引き分けということになるんだろう。
「模擬レースだけど勝ちたかったな……レインって次走なんだったっけ?」
「……有馬だよ」 「じゃあそこで勝負、約束ね」 「今度は白黒はっきりつけよう」
再び彼女と固く握手を交わす。互いにグランプリの舞台で会うことを誓い、みんなに手を振る。そして手を離すとボクは熱い想いを胸にトレーナーさんの元へと帰っていった。
─────
その日の夜、エスキモーが帰ってからしばらく天井を見上げながら考え事をしていた。
「有馬記念……レースプラン練り直さないといけないな」
もちろんシニア勢にも強いウマ娘はたくさんいる。ジャパンカップも月末に控えているし、香港から転戦してくるウマ娘もいるかもしれない。だから今の時点でガチガチに固める必要はないんだけど、それでも最大のライバルは彼女になるだろうという確信があった。
「グレイニーレイン……あそこまで強くなっているとは。本人の強さもそうだけど、チーフの指導力は相変わらず惚れ惚れするな」
体質が弱く、去年の夏デビューながら未だにキャリア5戦。この春は皐月賞も使えたのに、弥生賞からダービーという異質なローテーションを組まざるを得ないほど不安があった。ただ今はどうだ。天皇賞からそれほど日にちが空いていないのにあのレースっぷりは間違いなく世代トップクラスではないか。
「ただそれでもオレはエスキモーが一番強いって信じている。他の誰よりも絶対」
有馬記念まで2ヶ月弱。既に勝負は始まっている。
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| + | 第47話 |
深まる秋はどこへやら、毎週のように行われるGⅠとともに11月があっという間に過ぎ去っていった。さながら1分もかからずレースが終わるアイビスサマーダッシュのように。いや、秋だからルミエールオータムダッシュの方が表現として適切かもしれない。まあそれは一旦隅に置いておこう。
「有馬記念のファン投票の結果出たみたいだぞ」
「お姉さまの順位は一体何位なのでしょう……」 「自分の順位は気にしないんだ……」
12月になり日の入りが早くなった今日この頃、トレーニングが終わった頃に有馬記念のファン投票の結果が発表された。有効投票数が400万票を優に超える中、お姉さまの順位は……
「1位だな、おめでとう」
「お姉さまおめでとうございます!!! 早速早速祝賀会を開かねばなりませんね!!!」 「ザイア落ち着いて……まだレースが始まってもないんだから」 「……失礼しました」
お姉さまが世間の方々に認められている事実が嬉しくてつい昂ってしまった。しかしながら祝賀会は仰々しいとしても個人的にお祝いはしたい。
「でしたらせめてディナーはいかがでしょうか。我が一族御用達のイタリアンのレストランへ招待させていただけませんか? よろしければトレーナーさんもご一緒に」
「それぐらいならありがたく行かせてもらおうかな。トレーナーは?」 「オレも行かせてもらうよ。御用達だし大丈夫だと思うけど、レースも近づいているから量だけは注意してもらえると助かる」 「承知しました。あらかじめ伝えておきます」
3人でのディナーも決まったところで改めて2位以下の名前を確認していく。懇意にしている方ではまず2位にレインさんがランクインしていて、そこから少し離れてルージュさんも名を連ねていた。ただランキングを見ていて少し驚いたのは私が上位に入っていたこと。年内休養を表明しているにも関わらず、確実に優先出走権が得られる10位にランクインしていた。
「秋華賞を負けてしまった私にこれほど応募される方がいらっしゃるなんて……感謝しかありません……」
「もう、何言ってるの。桜花賞と秋華賞勝ってるんだよ?」 「あまり自分を卑下しすぎるのも良くないぞ。ザイアはもっと自信を持っていいんだから」
謙遜を通り越して卑屈となってしまったところをお姉さまとトレーナーさんに優しく諭され考えを改める。ティアラ路線を歩むクラシック級のウマ娘では最上位なのだから、私が堂々としていなければ他の方たちに申し訳が立たない。
「そうですね……これからは胸を張るように……胸……」
握りこぶしを胸に当てたところで思わずお姉さまのそれが目に入ってしまった。つい自身のものと見比べ、ため息をつく。
「もっと牛乳を飲んだ方がいいのでしょうか……」
「ザイア? 悩みがあるなら聞くよ?」 「いえ……お姉さまの手を煩わせるほどではありませんので……」
明日から少し多く牛乳を飲んで、食事も気持ち多めに食べることにしよう、そう決意した冬の放課後だった。
─────
12月に入り有馬記念に向けてトレーニングのピッチを徐々に上げていく中でファン投票の結果が発表された。放課後のトレーニングが終わってからトレーナーさんに呼ばれ結果を見てみると、エスキモーが1位、ボクが2位という並びになっていた。
「ボクが2位、ですか?」
「天皇賞の勝利が鮮烈に映ったのもあるだろうが、春までの頑張りをちゃんと見てくれていたファンもいたってことだ。胸を張っていいぞ、レイン」 「はい……!」
1位のエスキモーとの差は数万票開いているけど、彼女もここまでGⅠ3勝で負けたのは皐月賞2着の1回だけ。そのとき負けた相手のルージュにはダービーできっちりやり返しているからマイナス評価にもならないし、むしろそのルージュが凱旋門賞で3着に入っているから評価は上がる一方だ。
「ルージュも8位に入ってますし、ザイアも10位なんですね。2人とも出走予定はないのに人気集めてますね」
「ああ。ルージュは皐月賞を勝って凱旋門賞でも好走したからな。もし今度の香港ヴァーズが期間中だったらもっと評価が上がっていたかもしれないが仕方ないな」 「もう今週末なんですよね。あっという間だな……」
部室に掲げられているカレンダーにはチームのみんなの出走レースが書かれている。学園トップクラスのチームということもあって、GⅠを始めとした国内重賞のみならず、海外の競走名が書かれていることもたびたび見かける。当然だけど、ルージュが海外遠征に出発してからはさらにその頻度が上がっている。
「オレは明日には現地に飛ぶけど、何かお土産買ってこようか?」
「お土産……だったらおいしいお菓子と土産話が欲しいです。それとルージュが頑張っている写真もいっぱい見せてください」 「他のメンバーにはコスメがどうとかいろいろ言われたぞ?」
言外に『もっと頼んでいい』とトレーナーさんは匂わせているけど、それでもボクは首を横に振った。
「ボクは親友が頑張っている姿を見たいだけですから。テレビ越しじゃ見れない部分や聞けない話を教えてくれればそれでいいんです」
もっと言えばお菓子も絶対欲しいという訳ではない。誰かに買うついでに余裕があればという程度で、特段これが欲しいというものもない。無論高いお土産を買わせてトレーナーさんの懐を痛めたいという倒錯的な趣味もあいにく持ち合わせていない。
「分かった。レインがそれでいいならそうするよ」
「プロ並みの写真期待してますね」 「変にプレッシャーかけないでくれ……」 「ふふっ、冗談です。どんな写真でもボクは満足ですから気にしないでください」
結果がどうであれ彼女が努力した先の輝きを見てみたい。その上でもし彼女が先頭でゴールする瞬間を切り取る瞬間をこの目で見ることができたならば、きっと生涯忘れることはないと確信している。あとそれと──
(いつかボクも海外で走って走って……そして勝ってみせる!)
自身の行く道の先にどのようなものが待ち受けているのか、それを知ってから香港やヨーロッパといった海外に羽ばたいていきたい。
(勝ったときにはトレーナーさんに絶対──)
醜い欲望と呼ぶならそれで結構。ボクはただトレーナーさんに褒めてほしいだけ、ただそれだけなんだから。
─────
舞台は香港シャティンレース場。例年のように日本のウマ娘が大量に押し寄せ、虎視眈々と海外GⅠタイトル奪取を目論んでいる。そんな中でオレは芝2400mで実施される香港ヴァーズに出走する。前走のこともあって現地でも1番人気に支持されたオレは少し気を紛らわせるためにトレーナーと最近のあいつらについて話をしていた。
「レインは本当に調子いいんだよ。知っていると思うけど、先月エスキモーとやった模擬レースでも互角だったし有馬も期待できると思う」
「レースからそんなに日が経ってないのによく認めたよな。動画見せてもらったけど、あれ最後ガチじゃねえか」 「無理するなって言ったんだけどな。ただ終わったあとに状態を確認したけど何も異常がなかったから、やっぱり体は強くなっているよ」 「へえ。まあ春にあんなローテ組んだ本人が言うなら間違いないんだろうな」
朝日杯から弥生賞のローテならよくあるが、そこから怪我もしていないのに皐月賞をすっ飛ばしてダービーなんて聞いたことがない。それほどあいつの体が強くなかったってことなんだろうが、実際それが正解だったんだから中央のトレーナーってのはすげえんだなってつくづく感心する。
「それでエスキモーはどうなんだよ。親バカは抜きでな」
「そんな普段から娘に甘いみたいな……まあ自覚はあるんだが」 「自覚あるのかよ……」 「冷静に考えてくれ。小学生の頃はただただ可愛かったんだけど、学園に入ってからは綺麗さに磨きがかかってきてだな。それでいて走りもいいんだよ。やっぱりベル……いやドーベルの血が強く受け継がれているんだなってしみじみ実感するよ」 「もしかして親バカじゃなく惚気かこれ? というかオレはレース前に何を聞かされてるんだ?」
なぜだか分からないが、教え子の立場なのによくトレーナーの家族の話を聞いている気がする。普通は逆だと思うんだが、これはトレーナーがおかしいだけなんだろうか。それともこれが一般的なのだろうか。
「あとは悪い虫がつかなかったらいいんだけど、それはたぶん大丈夫だろうし心配はしていないよ」
「ほー、そこは気にしてないのか。まあ理由を深く聞くつもりはないけどな」 「話せば長くなるからな……そろそろ時間か、頑張ってこいよ」 「ああ。オレが勝つところ、ちゃんと見ててくれよな」
トレーナーと笑顔でグータッチを交わして控え室を後にする。歩きながら伸びをしたり腕を回していたりしてパドックに向かうと、観客だけではなく他のウマ娘からも視線が向けられる。品定めをされているのか顔だけでも見ておこうということなのかは分からないが、気にしても仕方ないから無視することに決めた。
(フランスと比べたらマジで暖かいな。先週現地入りしたときは服装ミスって汗ヤバかったし)
観客を見渡してもがっつり着込んでいる人はほとんどいない。日本だったら晩秋に着るようなセーターとかジャケットを身につけている奴らが大半を占めている。天気も晴れていて芝も良バ場、出走者と観客ともに絶好のレース日和といえるだろう。
(今日オレの相手をしてくれんのは12人。雁首揃えてよく来たもんだ)
招待競走ということもあって、今日のメンバーの中には日本だけじゃなく世界のGⅠウマ娘が何人も顔を揃えている。弱いウマ娘がいるなんてことは端から分かりきっている。
(それでも勝つのはオレだ。全員捻じ伏せてやる)
負けたレースを誇りに思うことはない。ただ世界最高峰のレース、凱旋門賞で3着に入ったという実績はこのメンバーの中でも色褪せることはない。
(ただなあ、忘れられがちだがオレだって今年の皐月賞勝ってんだよなあ。最近は凱旋門凱旋門って聞かれてだるい)
時間までストレッチをしながらもはぁと深くため息をつく。国内じゃエスキモーとレインが幅を利かせているが、オレだってあいつらに負けない、いやあいつらを超えるウマ娘だってことを証明してみせる。
(だからここは勝たせてもらう。世界制覇の通過点にしてやる)
─────
何度か足元の芝を踏む。春まで走っていた日本のものとは違う、いわゆる洋芝なんだとトレーナーは教えてくれた。“作られた”コースという意味では日本に、芝の重さという意味ではヨーロッパに近いから、日本とヨーロッパを足して2で割ったと例えるのが適切かもしれない。
(オレは8番枠……最初の直線でポジションを取りきれば十二分に勝機はある)
号令がかかり各ウマ娘がゲートへと収まっていく。日本、欧州、それに地元香港の猛者が集う国際色豊かなレース、世界からも注目が集まるこの一戦、勝つのはもちろん……
(オレだ!)
最後に大外のウマ娘がゲートに収まり態勢が整う。息を吸って、吐いて、目をカッと見開く。そして。
ガコンッ!
ゲートが開き決戦が幕を開けた。
─────
まずはスタンド前のホームストレッチを500mほど駆けていく。400m短い香港カップと違って最初のコーナーまで長いおかげで外から強引にポジションを取りにくるウマ娘もおらず、比較的落ち着いた流れでレースが進む。
(前から大体8人目ぐらいか? もう少し前でも良かったが、外で蓋されてねえし文句は言えねえな)
まだ1コーナーを過ぎた辺りということもあって、無理に動こうとするウマ娘は見当たらない。トレーナーから聞いていた『序盤をゆっくり入る代わりに、後半はロングスパート戦になる』という話そのままにレースが流れていく。2コーナーを回るときにチラッと見えた先頭との差もそんなに開いていない。
(ヨーロッパと似てるところあんな)
ヨーロッパのレースも最初はゆっくり、1ハロン13秒を上回るようなゆったりとしたペースで流れていくが、後半に向かうにつれて徐々にペースが上がっていき、ゴール前は熾烈な追い比べとなる。バ場のこともあるのかは分からないが、ペースが流れやすい日本とは感覚が違う。
(まあオレはそれに慣れてるから全く困らねえけどな!)
向こう正面中間を過ぎ、チラチラと3コーナーの影が見え始める。前後のウマ娘の息遣いもレース序盤と変わってきて、徐々に臨戦態勢に入っていることが分かる。
(まだだ……まだ早い……今はまだ我慢するときだ……)
横目でチラリと左斜め後ろを見やると、1人だけ外から上がってこようとするウマ娘がいた。ただオレを内ラチ沿いに封じ込めようとする意図はないようで、そのままオレを交わすと中団から先団へと取りついていった。
(ん? ペースが上がったか?)
さっき上がっていったウマ娘に交わされまいと先団がペースを上げ、3コーナー手前にも関わらずオレたちを引き離しにかかる。まだゴールまで距離があるのに。ただこうなればレースの趨勢は決した。周囲に惑わされずアクセルを適切なタイミングで踏んだ者が栄光を掴むと、今ここで証明してやる。
(残り4ハロン! 道は開けてんだよ! 栄光への道がな!)
世界制覇の序章、勝負どころを告げる銅鑼は今高らかに鳴り響く。
“THE WORLD IS MINE LV.1”
「ああああああああああっっっ!!!」
3コーナーで隊列を抜け出し外へと持ち出す。その勢いのまま4コーナーに入ると、一度は引き離された先団に再び取りつき、先頭を窺う位置につけた。
(残り400メーターァッ! 遮るものは何もねえ!)
スタート直後に位置を取りにいった分と早めに動いた分苦しくなった奴らを1人、また1人と交わしていく。ただそれでも意地があるのか、再び差し返そうと加速する骨のある奴もいた。
(へえ! 伊達に招待受けてねえってこった!)
レース中にも関わらず思わず笑みが零れる。あっさりと勝つのもいいが、強者と最後まで鎬を削る展開もいいものだ。
(最後の最後まで踊り続けようじゃねえか!)
残り200m。力なき者は後方へ下がり、力ある猛者のみが歯を食いしばって意地を張り合う。先団を引っ張りなお懸命に先頭を譲らんとする者、途中まで後方に控え最後に直線一気を狙おうとする者、そしてロングスパートをする者。レース運びは三者三様、ただ実力は一流のそれ。己が先んじてゴールへ辿り着くんだと叫ばんばかりに腕を振り、脚を動かす。誰が勝つのか分からない戦い、ただそれでも。
「オレが!!!!! 勝つっ!!!!!」
譲ってくれなど言うつもりはない。他の追随を許さぬまま己の脚で奪い取れ。それがオレたち競走ウマ娘に課せられた使命なのだから。
「ああああああああああっっっっっ!!!」
残り50m。1人を振り落とし最後は2人の争いに変わる。ゴール板を視界に捉え、注がれる大歓声を受け止め、重たい脚へもっと速くと発破をかける。一歩、二歩、三歩……数秒にも満たない刹那、最後まで先頭を譲らなかったのは──
─────
「おめでとう、ルージュ。君の勝ちだ」 「はぁ……はぁ……ははっ、当たり前だ……オレにお誂え向きの展開だったからな……」 「無理して喋らなくていいから、今は大きく吸って吐いてを繰り返すこと」
結果的についた着差は1バ身。しかも2着に負かした相手はシニア級の先輩だったから、日本のウマ娘のワンツーフィニッシュということになった。最後相手がどこの誰かなんて思い出す余裕なんて微塵もなかったし、オレからしたらどうでもいいことなんだが。
「すぅー……はぁー……よし。んで今から表彰式だっけか」
「ああ。一口だけでも水分補給したらそっちに向かうぞ」 「さんきゅ。タオルもありがとな」
相変わらず気が利くトレーナーとともに表彰式の場へと歩いていく。控え室に戻って携帯を見たらまた鬼のように祝福のメッセージが届いているんだろうなと頭の片隅で考えながら、オレは笑って晴れ渡る空を見上げた。
(見ていてくれてましたか……見ていてくれてたら嬉しいな……)
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| + | 第48話 |
有馬記念まであと3日となった今日の昼過ぎ、まずは16名の出走者が発表された。もちろんそこにはファン投票で上位に入り優先出走権を得ていたエスキモーとレインの名前が載っていた。
「まずは出走確定おめでとう」
「ありがと。あとは授業が終わってからの枠順抽選会だよね」 「ああ。わざわざ品川まで行かないといけないのが少し手間だが、ファンの人たちや報道陣たちを集めての公開抽選会だから仕方ないな」
そう、有馬記念は他のレースと違って一般のファンたちやテレビなどの報道陣を招き、本来非公開であるはずの枠順の抽選を公開して行っている。昔は他のレースと同じ方式で行っていたのだが、エンターテインメントとしてさらにレースを盛り上げるために今の方式となったようだ。
「でも私はこういうの好きだな。制服じゃなくてドレスでもいいって話だし、トレーナーと一緒に行けるの楽しみだよ」
「それもそうか。だったらオレも一旦帰って今日のために用意したスーツに着替えないとな」 「あっ、もしかしてこの前一緒に見にいったスーツってこの日のためだったの? 嬉しい!」 「あのー……私もいるんですけど。というより一緒に見にいったとは一体……」
危ない危ない、ついついエスキモーとの話に夢中になってしまってザイアの存在を忘れていた。これはなんとかごまかさないといけない。
「これから君たちのトレーナーでいるにあたってオレもメディアの前に出る機会が増えると思うんだ。だからエスキモーが菊花賞を勝ったのを機に買い替えようって思ったんだよ」
「それでね、トレーナーから『一緒に選んでくれないか』なんて言われてね。私は仕方なく……ではないけど付き合ってあげただけなの」 「ふーん……」
何やらザイアの疑いは解けていないようだ。エスキモーと目配せを交わして決してやましいことはしていないんだという弁明を続行する。
「あくまで君たちの隣に立つ者として新調するんだから、2人のどちらかの意見はもらわないとって思ってさ。それでエスキモーに声をかけただけなんだよ」
「そうそう、私たちの隣に立つんだからトレーナーにはかっこいいのを着てほしいと思って話を受けただけなの。ザイア、もしかして信じてくれないの?」 「うっ……! 信じない、とは言っていませんが……」
君のことを慕っているザイアをうるうるとした涙目で見つめるのは反則なんじゃないかと口から出そうになったが、これでごまかせるならよしと思って何も言わないことにした。ザイアも口が堅いと思うけど、決定的な何かを突きつけられるまでは2人だけの秘密にしておきたいから。
(他の理由を言ってないだけで今の言葉に嘘はないし……)
苦しい自己弁護。世間体なんて気にしないという肝が据わった考え方はあいにくと持ち合わせていない。彼女を世間の批判に晒したくない心とトレーナーを辞めたくないという自己保身が今のこの状況を生み出している。万が一世間が受け入れ祝福してくれる可能性があったとしても、勝算が分からない一縷の望みに賭けて大勝負をするほど博打打ちではない。
「という訳だ。ザイアもよかったら一緒に来るか? 関係者だし今から言えば席を用意してもらえると思うぞ」
「……ではご一緒させていただきます。お姉さまのことは信じておりますが、念のために」 「ザイアが一緒に来てくれるの嬉しいな! でもドレスはどうするの?」 「今から家に連絡して手配してもらいます。問題なく間に合うかと」 「了解。だったら集合は──」
集合場所と時間を伝え解散してから、急いでたづなさんを通じてURAへと参加人数の変更について連絡を入れる。そこからしばらく事務作業をしていると問題ない旨返信があった。たづなさんによると当日に1人や2人増えるのはよくあることらしい。さらに今回の場合はザイアがファン投票トップ10に入っているということもあり、むしろ来てほしいとのことだった。
「とりあえずこれでいいとして……あとは枠順がどうなるかだなあ」
有馬記念に限らず枠順はレースの展開を大きく左右する……というのは周知の事実であるが、有馬記念の場合はコースの形態も相まってさらに重要性が増す。
「グレード制が日本に導入されてから13番より外に入って勝ったウマ娘は片手で数えられるほど。しかも大外16番枠に入って勝ったウマ娘は1人たりとも存在しない」
かのメジロエスキーも大外に入ったが、 あの時は近年では珍しくフルゲートではなかった。それでも13番辺りだったから、出走者の中では実力が抜けていたというのは事実ではある。
「スタートしてからコーナーへの進入角度の問題は……改善されないんだろうな。東京の芝2000mも多少は変わったけどそれでも外枠の不利は揺るがないし」
過去の有馬記念のデータについて見ていると、内枠であるはずの5番枠も成績が悪いのを見つけた。グレード制以前では2人優勝者が出ているものの、以降は両隣の4番枠と6番枠と比較すると首を傾げるレベルで良績がない。
「ま、これもいわゆるジンクスってやつかもしれないな……というかもう一旦家に帰らないとまずいな……」
壁に掛かった時計を見上げると、そろそろ学園を出ないと厳しい時間となっていた。一度家に帰ってスーツに着替えたり髪のセットをしたりとしないといけないから、時間に余裕を見ておかないと抽選会に遅刻してしまう。
「持って帰る物は鞄に入れた……携帯の充電は大丈夫。よし、帰るか」
指差し確認をして忘れ物がないかチェックしてから部屋の電気を消し、鍵を締める。足早に歩く廊下を照らす陽の光は、少しずつ日の入りが近づいていることを示していた。
─────
『それではいよいよ今年の有馬記念、公開枠順抽選会のスタートです!』
出走する16人の陣営と大勢のファンが見守る中、駅前にそびえ立つホテルの会場にて枠順抽選会が始まった。濃紺のスーツに身を包み、深緑色をしたネクタイを結んでいるオレの両隣には、エメラルドグリーンのドレスの上に白のボレロを羽織ったエスキモーと、真紅のドレスの上に黒いボレロを羽織ったザイアが座っている。2人とも胸元にはパールのネックレスをしていて、彼女たちがお嬢様であることを再認識させられる。
(2人とも落ち着いているなあ……)
枠順抽選会には過去にチーフに連れていってもらったこともあるし、衆目を集める場もそれなりに場数は踏んでいる。しかしいかんせん自分が直接担当しているウマ娘が出るとなると話は別で、膝に置いた握りこぶしからじんわりと手汗が滲んでいるのを現在進行形で感じているところだ。
(いくら“夢”で経験しているとはいえ、そう簡単に慣れるものではないな)
ちょうど自分の目の前ではテレビと会場に来ているファンに向けて、枠順の決定方法を司会者と女性アナウンサーが説明している。その間きょろきょろするのはどうかと思ったが、自分たちのテーブルからいくつか離れた席に座っているチーフやレインの様子をついつい凝視してしまった。チーフはこのような場は幾度となくこなしているから普段通りなのは分かるが、レインも特に緊張している様子はない。瞑想するかのように目を閉じて静かに佇んでいた。
『それでは出走者16人を紹介してまいります。最初に紹介するのはもちろん堂々のファン投票1位、今年の日本ダービーと菊花賞のクラシック2冠を制したメジロエスキモーです!』
会場に詰めかけたファンからの万雷の拍手に立ち上がって一礼をする彼女は堂々と胸を張っていた。中等部の少女であるはずなのに既に貫禄を漂わせているその姿は、自身の担当でありながら思わずため息が出るほど美しいと思ってしまった。
「お姉さま……素敵でしゅ……」
「ザイア、カメラが入っているんだぞ……」
一方で神に祈るような格好で目を潤わせている彼女には小声で軽く注意を促す。ファンだけじゃなくテレビに撮られていることを忘れてはいけない。ダノン家の令嬢が痴態を晒す瞬間がお茶の間で流れたら大変なことになるからだ……まあ彼女のクラスメイトたちにはわりとバレている気がするけど、それは気にしないでおこう。
『続いてファン投票2位。この春はダービー2着と悔しい思いをしましたが、この秋はシニア級を蹴散らし見事天皇賞を制してみせましたグレイニーレインです!』
ファン投票の結果の上位者から発表される都合上、必然的に次はレインが紹介された。春先までは身長のわりに体が薄く感じた彼女だが、一夏を越えてからは急激に成長を遂げたように見える。ファンの人たちへ一礼をしたあとに見せたわずかに笑みを湛える表情からは、このレースに対する自信のほどが窺えた。
「レイン、いい顔してるね」
「ああ。背筋も棒が1本入ったみたいにピンとしているし立派だ。ドレスもよく似合っているし」 「……私はどうだったの?」
レインのことを褒めると、なんだかエスキモーがほんのわずかに膨れた顔を見せた。小声ながらトーンが一瞬下がったのを聞き逃さなかったオレはすぐさまフォローという名の本音を伝える。
「綺麗だったよ。今もだけど」
「ふふっ、ありがと。なんだか言わせたみたいになっちゃったね」 「いいんだよ、本心なんだから」 「嬉しい。トレーナーもそのスーツ似合ってるよ」
自分たちの番が済んだからなのか、ついついオレもエスキモーも互いが互いを褒めあう流れに入ってしまっていた。オレが彼女のドレスや結んだ髪とかを褒めると、反対にエスキモーは少し照れながらもオレのネクタイだったりセットした髪だったりを褒めてくれた。それにオレも思わず照れていると、反対側から軽い咳払いが聞こえ、その流れが打ち止められる。
「お姉さまとトレーナーさんもそろそろ前を向かれた方がよろしいかと」
「すまん……」 「ごめんね。あっ、ザイアの今日のドレスも綺麗だよ?」 「……ありがとうございます」
身に纏っているドレスの色に似た色を頬に浮かべながら礼を伝える彼女に思わず笑みを零してしまう。ただもうすぐ16人全員の紹介が終わるということもあって、変にカメラに抜かれないように、背筋をピンと伸ばして壇上へ意識を向けることにした。
『16名の出走者全員の紹介が終わったところで、いよいよ枠順抽選へと移ってまいります。それではゲストの──』
URAのプロモーションゲストが2人壇上へと上がり、用意された大きな2つの箱の前へそれぞれ白手袋をはめて向かった。片方は全出走者の名前が記された用紙が入った16個のカプセルが、もう片方には枠番が記載された用紙が入った同じく16個のカプセルが入っている。会場全体がざわざわとし始めた中、テレビではCMが流れている間の短い休憩時間を挟んで運命の抽選会が幕を開けた。
『それでは参りましょう。まず1人目は──』
否が応でも高まる緊張感と上がる心拍数。エスキモーの名前が呼ばれるかもしれないとゲストの一挙手一投足に注目するが、残念ながら紹介順とは違ってこっちはトップバッターではなかったようだ。
『──は5枠10番に入ります!』
会場から起こる大きな拍手に応えるように立ち上がって礼をする彼女は、少し緊張しながらも本番に向けての意気込みを示し、彼女のトレーナーも続けて決意を表明していた。
(ええっと彼女の近走の成績は……っと、タブレットは家に置いてきたんだった)
澱みなく行われていく抽選会。最内の1枠は2つとも先に取られてしまったがまだ内枠には空きがある。ただ例の5番枠は避けたいなと考えていると、司会が高らかにレインの名前を読み上げた。
『さあ枠順抽選もいよいよ折り返し地点! ここでファン投票第2位のグレイニーレインの名前が出ました! 果たして運命の枠順は……』
ゲストが箱に入っているカプセルをどれにしようかとぐるぐると回す。10秒ほど箱の中身をかき混ぜたあとに引き当てたその枠順は──
『3枠5番! 内枠ですがこれはどうでしょう!?』
会場のざわめきが増したということは当然ファンの人たちもその枠番が示す“意味”を理解しているのだろう。まだ名前が出ていないウマ娘たちが内枠を取られたのに少しほっとしているのは──
『グレード制導入以降勝利がない“鬼門”と言われる枠に入りましたね』
鶏が先か卵が先かのごとく、元々前評判が高くないウマ娘ばかりが5番枠に入ったのか、5番枠に入ったからこそ人気が出なかったのかは分からないが、1番人気のウマ娘が5番枠に入ったことは近年ない。ただ1番人気でなくとも上位人気に推されることは少なくない上に、3着以内に入る確率は低くないことから“トゥインクル・シリーズの七不思議”の1つとして名高い。その枠に上位人気が予想されていたレインが入るのだからファンの間で動揺が走るのも無理はない。しかし枠順への感想と意気込みを尋ねられたレインとチーフは──
『枠は関係ありません。ジンクスであってもボクはそれを打ち砕くだけです』
『彼女はそんな些細なことを気にして萎縮してしまうウマ娘ではないですから、皆さん引き続き応援よろしくお願いします』
欠片も意に介していなかった。ムキになったり虚勢を張っている訳でもなく、ただただ自然体で受け答えをしている様子にオレは思わず拍手しそうになった。
『お二人とも失礼いたしました……さて続いて枠順が決定するウマ娘は誰でしょうか!』
半分の8人の枠順が決まったことで再びテレビではCMが流れる小休憩となった。既に枠順が決まった陣営の方を見ると緊張が解れて談笑しているものの、反対にまだ決まっていない陣営の顔は引き締まったままという対照的な構図が広がっていた。
「エスキモー、大丈夫か?」
「え、何が?」 「……大丈夫そうだな」
といってもエスキモーは特にガチガチに固まっている様子はない。まあクラシック戦線で全て1番人気を背負って走ってきたことに比べたら大したことはないんだろう。今すぐ走るというわけでもないし。
「ザイアは平気か?」
「ええ。お姉さまならどの枠に入ったとしても勝ちますから。それよりお姉さまの美しさに目が潰れてしまいそうなのですが、どうしたらいいでしょうか?」 「うーん……視界に入れないとか?」 「お姉さまから目を逸らせるわけがないでしょう!」 「えぇ……」
ザイアは元気そうだ……元気という表現が適切かどうかはいささか疑問の余地があるが、間違ってはいないからセーフだろう。
『それでは枠順抽選会、いよいよ後半です!』
司会の挨拶から抽選会が再開する。1人目、全体としては9人目で名前を呼ばれることはなかったが──
『──さあ10人目は……おっとここで出ました! ファン投票第1位、メジロエスキモーです!』
後方に座っているファンから『おおっ』といった声が上がる。前評判では1番人気と予想されている彼女がどの枠に入るのか、他の陣営のみならずファンたちも固唾を呑んで枠番を引くゲストへ視線を注ぐ。
『残る枠番は全部で6個あります。内枠とされる1枠から4枠では3つ、外枠である5枠から8枠では3つとちょうど内と外で半分ずつ残っていますが……』
ゲストも1番人気の枠順を決めるという重大な責任が己に懸かっていることに緊張しているのか、他のウマ娘より慎重にカプセルを選んでいる。時間をかけようやく手にしたカプセルの中に記されている数字は──
『出ました……8枠16番!? なんと今年の2冠ウマ娘は大外に入る形となりました!』
騒々しくなる会場。後ろにいるファンだけではなくレイン以外の陣営たちも喜んだり胸を撫で下ろしていたりとざわめきがしばらくの間続いた。おそらくテレビの向こう側やSNS上でも様々な盛り上がりが広がっていることだろう。そんな中エスキモーは……
「トレーナー、何話すか決まった?」
「……ああ。元々決めていたから大丈夫だよ」
動揺した様子も見せず、いつものような笑顔を見せていた。マイクを渡されて意気込みを聞かれても変わることはない。
「どの枠に入っても勝つために走るだけです。むしろ外枠に入ったのでレースしやすくなったかも、ふふっ」
ただただいつも通り。格好は違ってもトレーナールームや家で話す時となんら変わらない笑顔をこの場で見せられるのは、やはり大舞台の経験の差なんだろう。“夢”だけではない、メジロとしての、そして世代のトップを走るウマ娘としての経験が彼女を彼女たらしめている。
「ええ、大外からのレースプランも無論考えてあります。彼女が勝つために最後の最後まで全力を尽くします」
マイクを係の人へ返すと、2人揃ってファンの人たちへ一礼してから席へ座る。それを受けたファンからの大きな拍手とかすかに聞こえる頑張れというエールは、まさに彼女の人気の高さを物語っていた。
(頑張らなきゃ、だな)
隣で微笑む彼女を有馬記念という舞台でどのように輝かせたらいいだろうか。スポットライトが他の陣営へ移った中、誰にも聞かれないように小さくため息をついた。
─────
「お疲れさま、トレーナー。外はやっぱり冷えるね」 「無理して外出てこなくていいんだからな」
抽選会が終わり、関係者だけでのレセプションパーティーが開かれた。他陣営のトレーナーやウマ娘と表向きは談笑、裏向きは腹の探り合いを何度か繰り返したあと、バルコニーテラスで1人夜風に当たっていた。しばらくするとザイアや他の出走者と話していたはずのエスキモーがグラスを片手に隣へ肩を寄せてきた。
「大外嫌だなー。カメラ入ってるしファンの人にも見られてるからあんなこと言っちゃったけど、一番入りたくなかったところに入っちゃったよね。トレーナーはどう思う?」
と思ったらストレートに愚痴を吐いてきた。抽選会のときの大人びた彼女の姿はどこへやら、思春期相応の少女が奥から姿を現した。
「そりゃ替えられるなら今からでも替えてほしいけど……ははっ!」
「ちょっとなんで笑うの!? 私変なこと言ったっけ!?」 「なんでもない、なんでもない。ほら、ザイアがこっちを恨めしそうに見ているから行っておいで」 「あとでちゃんと聞くからね!」
不服な顔を浮かべる彼女を手を振りザイアの元へと送り出す。会場の雰囲気に呑まれていたのだろう、彼女を少し神格化しすぎていたのかもしれない。ただ等身大に見すぎたらそれはそれでさっきみたいに怒らせてしまうかもしれないけど、そこは要調整ということにしておこう。
「それにしてももうすぐクリスマスか……」
有馬記念は23日。翌日の24日と翌々日の25日の予定は空けている。全く声がかからなかった、ということではないけど。
「プレゼント、準備しておかないとな」
特別な日は彼女と過ごしたい。それぐらいのわがまま、押し通してもいいだろう?
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| + | 第49話 |
「師」が「走」ると書いて「師走」と言うように、抽選会から有馬記念当日まではあっという間だった。出走者のデータを整理することから始まり、枠順の並びから予想されるレース展開やその展開に合ったレースプラン等をエスキモーやザイアの協力の下に詰め直し、なんとか今日この日を迎えることができた気がする。そんな寒風が街を吹き抜ける今日、最高気温が10℃を少し上回る程度の1日は既にお昼を過ぎていた。
「さっきちょっとだけ外に出たんだけどすっごく寒くて……トレーナー、カイロ持ってない?」
「はい、これが貼らないタイプのやつな。あと寒いならホットのお茶も準備しているからいつでも言ってくれ」 「ありがと。流石トレーナー、用意周到だね」
エスキモーはそう言いつつ、手先を擦りながらオレから封を開けたばかりのカイロを受け取った。あらかじめ温めておいてもよかったのだが、それはそれで熱くなりすぎると思いやめておいた。オレはカイロをシャカシャカと振る彼女を横目に、今度は鞄の中から保温タイプのタンブラーを取り出し、これもいつでも渡せるように机の上に置いておいた。
「トレーナーさん、少しよろしいでしょうか」
「どうしたザイア?」
暖かい空気が控え室を包む中、エスキモーの隣にいたはずのザイアがソファに座っていたオレの隣に腰を下ろした。エスキモーからの鋭い視線が主にオレに突き刺さる中、ザイアは知らんぷりをして自身の携帯の画面を見せてくれた。
「真空パックに保存すれば使い捨てカイロも長持ちする上にすぐ使えるそうですよ」
「なるほど……確かにカイロって中に入っている鉄が空気に触れて錆びるときに発生する熱で温かくなるから、真空パックに入れてそれを封じてしまえばいいのか」 「私はあまりカイロを使いませんけれど、トレーナーさんが今後もお姉さまのためにカイロを持ってこられる際の参考になればと」
彼女からそんな豆知識を聞くとは思わなかったから思わず目を丸くした。今この場で検索しただけとはいえ、オレのために調べてくれるなんてと思わず感慨深くなってしまう。無論行き着く先は「彼女の“お姉さま”」であるエスキモーのためなのは分かってはいるが。
「助かるよ、ありがとな」
「いえ、お姉さまのために当然のことをしたまでです」 「そうか、じゃあ今後もエスキモーのことで至らぬ点があったら支えてくれると助かるよ」 「……考えておきます」
断固拒否、ではないのだろう。1年半以上彼女のことを見ていたが、ぶっきらぼうに見えたとしても必ずしも嫌がっているわけではないという微妙なラインを最近少し見極められるようになった気がする。それと……
「やっぱり前より仲良くなってない?」
ザイアがオレの横に座ってから、ひたすらジトーっとした目でこっちを見てくる彼女の気持ちもそれなりに読めるようになってきた。とりあえず今の気持ちを踏まえるとオレが次に言うべき台詞は必然的に一つへ収束する。
「あとで隣に来てくれ。最後のブリーフィングもしたいし。ザイアは悪いけど少し横にずれてくれないか?」
「承知しました。お姉さまのために温めたお席はこちらとなりますので是非お掛けになってください」 「なんか話を流された気がするけど……まあいいや、とりあえず座るね」
不服そうな顔をしながらもエスキモーはオレとザイアの間にできたスペースに腰掛ける。その一瞬、肩がぶつかるかぶつからないかの距離感からふんわりと柑橘系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。キツすぎず甘すぎず、彼女の清涼感をより際立たせるそのフレグランスはこっちの方まで気分を穏やかにしてくれる。
「……それで今日のレースプランなんだけどな」
「なに今の間」 「トレーナーさん、あとでお話があります」 「えっ。よく分からないけど、とりあえず話を進めさせてくれ。時間もそれほどないんだし」
腕時計を見ると、既にレースの発走まで残り2時間ほどとなっていた。パドックやそれ以外の出走前の準備も含めると、正味あと1時間程度しか残っていない。ひとまずオレはエスキモーへ手元のタブレットを見せながらレースプランを改めて説明していった。
「今日の作戦なんだが──」
─────
「どうだ、レイン。緊張してないか?」 「はい。ファンの人たちに走りを見てもらえるのが今から楽しみです」
時刻は14時を回り、出走まであと1時間半ほどとなった。まもなく9Rが始まるということもあって、ボクは控え室で見ているテレビのボリュームを少し大きくした。
『──さあ有馬記念と同じ設定で行われます特別2R目となる第9R、クラシック級以上2勝クラスの一戦、芝2500mのグッドラックハンデキャップ。出走者はこれも有馬記念と同様、16人のメンバーで行われます』
有馬記念に限らず大人数を抱えるチームでは、バ場状態の確認も兼ねて当日行われるGⅠと同条件のレースへチームの他のウマ娘を出走させることもあるらしい。その際に得た情報を駆使して本番に勝つためのプランを考える人もいる、とトレーナーが前に話していたのを思い出した。
「チームからは誰も出ていないんですね」
「この条件に合う子がいたら出そうか考えたんだがいなくてな。クラスにローテ、それに距離の3つがそれなりに合わないと流石に走らせられない」 「流石チーフですね」 「褒めても何も出ないからな?」
全く、なんて言いながらトレーナーさんは腕を組んでテレビをじっと見る。ただその姿を見ていると、なぜかボクの実家のリビングで同じ格好をしているトレーナーさんが脳裏によぎった。家に上がったのも担当することが決まって母さんに挨拶に来たときぐらいで、リビングでテレビなんて一緒に見たことがないはずなのに。
「どうしたんだ、レイン。目でも擦って」
「い、いえ。ちょっと目にゴミが入ったみたいで」
トレーナーさんがボクの家でテレビを見ているところが頭に浮かんだなんて言えるはずがなくて、ボクは咄嗟にごまかした。顔を逸らして鏡に向かって目に何か入っていないか確認するふりまでして。レースが終わるまで続けたりなんかして。
「……トレーナーさん」
「順当決着だな……ん、どうした?」
そろそろ控え室を出ないといけない。そんなときにレースのことじゃなくてこんなことを言うなんてどうなのかなとボク自身も思う。だけど。
「もし今日のレース勝ったら、一つだけお願い聞いてくれますか?」
「もちろん。オレにできることなら何個でもいいぞ」 「……ありがとうございます。頑張ります」
きっとトレーナーさんは頭を下げているボクを見て頭の上に疑問符が浮かんでいるだろう。トレーナーなんだから当然のことなのにとも考えているのかもしれない。だけどそれでも。
(あのときしてもらえなかったこと、今度こそは邪魔されずに……)
動機は不純かもしれない。もし心の中を見られたら叩かれるかもしれない。だけど。
(ここは譲らない。君に勝つよ、エスキモー)
─────
『さあクリスマスを目前に、ここ中山レース場では熱い戦いが行われます。冷たい風が北から南へと吹き抜ける中、年末のこの大一番を勝って笑うのははたしてどのウマ娘か。今日のメインレース、グランプリ有馬記念、いよいよ出走する16人の本バ場入場です!』
強い北風が吹く中、分厚いダウンジャケットを羽織り、極力ザイアに風が当たらないようにとゴール板に近い方に立つ。人が多い中でもゴール前50m辺りの前から数列目を確保できたのは僥倖だったが、その分前後左右に空いたスペースがほとんどない。ザイアと最大限密着することがないよう努力しているものの、腕と腕が少しだけぶつかってしまっているのは申し訳ない。
「ごめんな、ザイア。腕、当たっているだろ」
「これほどの混雑では仕方ないでしょう。変なところ触られたら怒りますけれど、この程度の接触など気にしません」 「もちろん触る気は全くないけど気をつけるよ……」
本バ場入場が始まり一段と場内のボルテージが上がる中、とりあえず腕でも組むかなんてことを考えていると、アウターの裾をくいくいっと引っ張られたのに釣られて視線を右下へ移した。そこにはオレを見上げるように見つめるザイアの姿があった。
「トレーナーさん、そういえば先ほど聞き忘れていたことが一つありました」
「聞き忘れていたことって?」 「控え室でお姉さまが私と貴方との間に腰を下ろされたときのことです」
思い出そうとするまでもなく蘇った記憶。視覚でも聴覚でも触覚でもなく、当然味覚でもない。嗅覚に刻まれたもの。
「お姉さまの爽やかな香り、少し堪能されていましたよね?」
鼻腔をくすぐるレモンの香り。普段意識していない分、唐突にふわっと漂うフレグランスを思わず味わってしまったところは確かにそうだ。ただ時間にして数瞬。
「気づいて、いたのか……」
「当然です。お二人のことじっくり観察していますから」 「オレのことはいいだろ……」 「いえ、白か黒かはっきりとするまで続けさせていただきます……ちなみにクリスマスのご予定を伺っても?」
わずかな表情の機微まで見逃すものかとじーっと顔に穴が開くほど見つめられると、やましいことがなかったとしてもつい視線を逸らしてしまう。まあそうするとさらに追及の目が痛くなるから逆効果なんだけど。
『シニア級相手に秋の盾を掴み、次に狙うはグランプリの頂! 再び姉妹制覇なるか、3枠5番グレイニーレイン! そして最後に登場するのはこのウマ娘。ダービー、菊と摑んでみせたその先で、今見据えるは現役最強の座! 大外8枠16番でも堂々の一番人気、メジロエスキモーです!』
紹介の都合か、それとも入場順が変更になったのか、レインとエスキモーが続けてアナウンスされるのを耳にし、ザイアから背けていた顔をコースの方へと移す。ザイアもこのときばかりはオレから視線を外し、キラキラとした瞳でターフビジョンを見つめていた。
「はあ……はあ……お姉さま……お姉さま……」
ただ息を荒くしながら紅潮した顔をするのはいろんな意味でやめてほしい。あのダノン家でダブルティアラを獲ったウマ娘が……なんて言われた日には目も当てられない。思わず先ほどの仕返しではないが、彼女が着ているPコートの裾を引っ張り注意を促す。一度だけでは反応がなかったから二度、三度と繰り返していると、ようやくごほんと咳払いをして我に返ってくれた。
「……失礼しました。そうです、先ほどの話の続きをしないといけませんね」
「予定は空いている、というか空けているよ。今のところ予定は入れてない」 「本当、ですか?」 「本当だって……」
追及の手を緩めないザイアの視線にオレは真っ向から対抗する。もちろん嘘は言っていない。誰かと過ごす予定が未だに入っていないのは紛れもない事実だ。
(ただまあ間違いなく入るだろうな)
彼女はオレが明日予定を空けていることを知っているから、わざわざ予定を伝えることはしてきていない。おそらく明日は授業が終われば、そのままオレの家でクリスマスパーティーの準備を始めることになるのだろう。ただあくまで“だろう”だから嘘は言っていない。
「嘘では、ないようですね。分かりました、トレーナーさんのことは信じることにします」
「なんかもう疲れたな……」
レース前なのにドカッと疲れが肩にのしかかる。ただあとは目の前のレースを見守るだけ、そう思っていたのだが。
「予定が空いているということでしたら」
「まだ何かあるのか?」
人の隙間をピューッと寒風が吹き抜ける。収まったと思った木枯らしが再び北から南へと肌を刺すように強くなっていく。ただ彼女はそんなことなど微塵も気にせず、不敵に笑う。
「私とクリスマスを過ごしてほしい、と伝えたら予定を入れていただけますか?」
「……は?」
『強いからっ風がここ中山で嵐を巻き起こすか! さあ有馬記念のファンファーレです!』
─────
かすかに聞こえたファンファーレのあと、3コーナー地点に設けられたゲートに出走者が次々と収まっていく。3枠5番のボクも係員に誘導され、三番目に自身の枠へ入った。本バ場入場のときは収まっていた風が再び強さを増し、抜けるような青空に少しだけ薄暗い雲が顔を覗かせ始めた。
(大丈夫。今のボクなら大丈夫)
春までのボクとは違う。シニア級の先輩たちに勝った今のボクならきっと勝てる、そう強く自分に言い聞かせながらゲートが開く瞬間を待つ。奇数番号の枠のウマ娘が全員ゲート入りし、続いて偶数番号のウマ娘がゲートへ入っていく。また一人、また一人と順調にゲートに収まり──
(エスキモー、勝負だ)
視界の左端でエスキモーがゲートへ入っていくのを確認してぐっとスタートの体勢をとる。エスキモーがゲートに入り、係員がゲートから離れていき、そして──
ガシャン!
一斉にゲートが開き、この一年を締めくくるグランプリの幕が上がった。
(スタートは大丈夫。風がちょっと強いから他の子を風除けにして……)
スタート前は右の方から吹いていた冷たい風は3コーナーから4コーナーに向かうにつれて、徐々に向かい風へと変わっていく。ここで外を回ると真正面から風を受け止めることになって体力を無駄に使ってしまうから、なるべくインに入って終盤まで体力を温存する。
(エスキモーもたぶん考えることは同じ……後ろで脚をじっくり溜めて、最後に交わそうとしてくるはず)
過去の動画でダービーを含めた彼女のレース動画を見ていると、どのレースでもスタートが早い。スタートが早いということは無駄に脚を使わずに位置取りを選べることに繋がる。すなわちレースプラン通りにレースを進めやすくなる。
(だけど今回は大外枠……どれほど早くても後ろから運ばざるをえない……)
風の影響もあって少しゆったりとした流れでホームストレッチを駆けていく。一度目の急坂を越え、ゴール板を通過する。流れが遅い中で先頭からそれほど離れない好位を確保でき、その上で前の子を風除けに使って無駄な体力消費を抑えている。
(今のところは順調……あとは仕掛ける場所を間違えないようにするだけ)
冷たい空気を切り裂いて前へ前へと駆けていく。寒気を体から湧き上がる熱で溶かすように16人が己の勝利のために突き進む。
(負けない、じゃない。勝つんだ)
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『さあ前半の1100mは……1分10秒過ぎで入ったでしょうか。かなりゆっくりとした流れで1コーナーから2コーナーへと隊列が進んでいっています』
隣のザイアをちらりと見やる。そこにいたのはレース直前に含み笑いを浮かべていた彼女ではなく、ただただエスキモーの勝利を願う健気な一人の少女だった。レース前の記憶を全て忘れてしまったかのごとく振る舞うその姿に首を傾げつつも今日ここにいる理由を再確認するために、オレはターフビジョンへと視線を移した。
「大体14番手ぐらいか? 予想通りいつもより後ろになっているな……」
ターフビジョンに映し出されているトラッキングシステムを利用した位置情報でエスキモーの位置取りを確認する。桃色の16番という数字のマーカーは今ちょうど内ラチ沿いから徐々に外へと動き始めていた。
「それでいい……うん、上手く外に出せたな」
2コーナーを過ぎて向こう正面へと入っていく隊列を見ながら、オレは彼女の動きを見て小さく頷いた。オレの独り言に気づいたのか、静かに見ていたザイアがまたダウンの裾を引っ張って質問をしてくる。
「少し早くありませんか? レースは中盤に入ったところではありません?」
ぱっと見れば早仕掛けに思われるかもしれない。でもこれはれっきとした作戦だ。
「前半の流れが遅かった理由は分かるか?」
「ほとんどの方が後ろのお姉さまと前のレインさんを警戒して動いていないからではありませんか?」 「それももちろんある。だけどな、今日の風ってどの方角からどの方角へ吹いているか分かるか?」 「北から南……あっ!」
電流が走ったかのような閃き。聡い子だからきっとエスキモーが外に持ち出した理由まで辿り着けたに違いない。つまり、“そういうこと”だ。
「風の力を利用して……!」
「大正解。使えるものは自然でも使わないとな」
この中山レース場は1コーナーと2コーナーが北方向に、3コーナーと4コーナーが南方向に位置している。そして今もまだ北から南へと強い寒風が場内を吹き抜けているということは、スタンド前を通過するときは向かい風を受けることになり、必然的に先頭のペースが落ちる。無論後続も風除けもなしに前に行けばもろに風を受けて疲れてしまうことは分かっているから、前に前にとは行くことは少ない。ただ。
「向こう正面では追い風になる……外に出して一人恩恵に預かれば、無駄なく先団へと取りついていける」
「3コーナーから4コーナーで外に膨らみすぎなければ、最後の直線はばらけますから風による不利は誰しもが受けることになります」 「これで流れに乗れれば一気に捲っていける……」
二人が見つめる視線の先に映っているのは、有言実行と言わんばかりに残り1000m付近から仕掛けていく彼女の姿。2コーナーから続いた下り坂をも利用して一人、また一人と交わしていく。ただウマ娘たちも指をくわえて交わされるのではなく、ペースを一気に引き上げることで交わされまいと必死に抵抗を行っていた。
「ははっ、前半のスローペースが嘘みたいだな」
1ハロン13秒どころか14秒すら叩き出していたのが幻だったかのように、12秒を切るほどの勢いでレースが一気に動き始めた。
「やはりこのレースの中心はお姉さまということですね」
「いやあと1人、主役が出番を待っているみたいだぞ」
視線の先に映るのは上がっていくエスキモーだけじゃない。3コーナーが迫ってきた辺りで内ラチ沿いから外へと動いた一人のクールなウマ娘の姿だった。
「勝負はここからだよな、レイン」
─────
残り1000mの標識を過ぎた途端にゾクッとした何かを感じた。きっとそれを感じたのはボクだけじゃない。周りのウマ娘たちも思わず振り返ってしまうほどの圧迫感。それを放つ主はもちろん。
(エスキモー、来たね)
風除けにしていたウマ娘越しに3コーナーを視認したところで徐々内ラチ沿いから外の方へと進路を切り替えていく。ボクのことをもう少しマークしてくるウマ娘もいるのかと注意していたけど、みんなにとって警戒すべき優先順位はやはり彼女の方が高かったようだ。内ラチ沿いに控えていたのに外から被せにこようとする子がほとんどいないのがその証左に違いない。
(枠順の利、ペースの利、そしてコース形態の利……その全てを使ってボクは君に勝つ)
迫る曇天はボクを称える祝福の結晶。その一つ一つがボクに力を分けてくれる。さあ決戦の刻だ、天高く狼煙を上げよう。
“蛟竜、雲雨を得 Lv.1”
一人、また一人と苦しそうな顔をしている子をボクは悠々と抜き去っていく。さっきまで4番手に控えていたボクは3コーナーから4コーナーで一気に先頭へと並びかけ……
(ここで……捉える!)
残り400mの標識を先頭で通過し、最後の直線へとなだれ込む。残るは300m弱の短い直線。並の相手なら問題なく粘り込みを決められる。だけど、今日の相手はそう簡単に逃げ切れるウマ娘じゃない。残った力を全て脚に注ぎ込んでもなお勝てるかどうか分からないライバル。さっきのスパートで一度は引き離したはずなのに、全く意に介していないかのように迫りくるその影は“恐怖”という文字が具現化した存在に感じる。持ち前のスタミナで周囲をあざ笑うかのように薙ぎ倒すその様は、まるで空を我が物のように飛び回るエースパイロットだ。
(振り返りたい……いやそんな余裕があるなら脚を動かせ、グレイニーレイン!!! その残った力を全て走ることに費やせ!!!)
ただそれでもボクは前しか見ない。瞬きするたびに背中を襲うプレッシャーが増すとしても、一歩進むたびに体が悲鳴を上げるとしても走るのをやめたりなんかしない。栄冠をその手に掴むため。そして。
(君に勝つため、ボクは走るんだ!!!)
残り200mの標識を過ぎてもなお先頭は譲らない、譲るわけがない。君がなんのために走るのかは分からない。けどボクにだって譲りたくないものがある。それを今ここで証明してみせる。
「ああああああああああっっっ!!!!!」
高低差が2mを超える急坂を保ってきた勢いそのままに一気呵成に駆け上がる。もう迫りくる相手は一人しかいない。自分と彼女の足音しか耳に届かない。ボクと彼女しかこの世界にいないみたいに、このターフをたった二人で走っているみたいに静まり返ったこの場所で君と駆ける。
(ゴールしたあと倒れてしまってもいい! 今はただ先頭で駆け抜けることだけ考えろ!!!)
坂を上りきった先にすぐ斜め後ろから感じる彼女の気配。荒い息づかいはボクを仕留めんとする猛獣の唸り声。ボクは必死に振り払わんとただ腕を振り、芝を蹴り上げ突き進む。
「はぁ……はぁ……あああああっっっ!!!」
ゴールが手の届くところにまで迫る。一瞬差されかけたのをなんとか押さえ込み、そして今度はこちらが前に出る。彼女は盛り返してボクは──
『──2人が全く並んでゴールイン! さあ勝利を掴んだのは内の5番グレイニーレインか! それとも外16番メジロエスキモーか! 接戦、大接戦です!』
─────
「差せーーーーーっっっ!!!!!」
場内の盛り上がりが最高潮に達したゴール直前、周りに釣られて思わずオレも大声を張り上げてしまった。彼女に届いたかどうかは分からないし、それが力になったのかも分からないけど、寒空の下で懸命に駆ける彼女の後押しになっていたらとただただ願う。
『1着と2着は写真判定となります。なおタイムは2分33秒8。ゴールまでの800mは47秒5、600mは35秒6と表示されています』
前半がかなりスローで流れた影響か、向こう正面からペースが激流と化したにも関わらず全体のタイムは平年のものより1秒ほど遅い。スタンド前から1コーナーにかけて4mほどの坂を上ることもあって流れが落ち着くことはままあるが、向かい風に加えて後方に控えているエスキモーを警戒しすぎて前に行きづらかったのだろう。案の定エスキモー以外に上位に入ったウマ娘のほとんどが先行勢となったのは前残りのレースであったことを如実に示していた。
「時間がかかりそうだな……」
「ええ。スローモーションの映像を見ても見分けがつきませんから」
写真判定と一概に言っても、スローモーションで見ればすぐに分かるものと、素人の目では重なっているようにしか見えないものまで千差万別だ。無論結果として同着であることも稀にある話だが、グランプリということもあるからそうやすやすと同着決着とはしないだろう。
『スローモーションの映像が流れますが……これは分かりません! 内の5番グレイニーレインか外の16番メジロエスキモーか、人気2人の着順についてはもうしばらくお待ちください』
着順掲示板に灯り続ける“写真”の二文字。レースが終わり、そろそろ12Rのパドックの時間が近づいているのにも関わらず観客たちは微動だにせずその場から動こうとはしない。コースに残った二人もターフビジョンをただ静かに見守っていた。
─────
最後は差された、そう思った。ゴール後の勢いは明らかに彼女の方が優勢だったこと、それにゴール後にボクは芝に両膝と両手をついて呼吸を整えようとしていたのに、彼女は膝に手をつく程度で呼吸を整えていたこと。ありとあらゆることが彼女の勝ちを告げている、ボクはそう強く感じていた。
(ああ、トレーナーさんとの約束守れなかったな……)
このとき5番枠がとか16番枠がということは完全に頭から消え去っていた。互いに持てる力を十二分に発揮して、そしてボクが負けた。いや彼女ははたして最大限の力を見せただろうか、そんなことまで考えてしまうほどボクは強い敗北感に打ちひしがれていた。なのに。
Ⅰ 5
ハナ Ⅱ 16
着順掲示板に灯った数字はボクの勝利を示すものだった。
「……えっ?」
脳が理解を拒む。勝った実感はまるでなく、歓喜などという感情は全く湧いてこない。夢かと思い自分の頬を強くつねってみても目の前の景色は一切変わることはなく、ただボクがハナ差で勝利したという事実がそこにあった。
「おめでと、レイン。差し切れたと思ったんだけど、ちょっと足りなかったみたい」
「あ、ありがとうエスキモー。ボクだってそう思っていたよ……差し切られたと思ったのに」
彼女から差し出された右手を握り返すと、観客からは盛大な拍手と歓声が降り注いだ。おめでとうという祝福、いいレースを観ることができたという感謝、お疲れさまという労い、あらゆる感情が観客席というお鍋の中でドロドロに混ざり合い、ボクという皿の上に盛りつけられる。ボクは現実を受け入れるだけで精一杯なのに、これ以上注がれたらきっとテーブルの上に零れてしまう。
「じゃあ私先に行くね。またウイニングライブでね!」
彼女は心の底から悔しいはずなのに、その思いを押し殺して笑顔でボクを称えてくれた。芝に手をついて泣き叫んでも誰も止めはしなかったのに、彼女はそんな素振りすら見せず、このレースの“勝者”であるボクに大トリの座をすんなりと譲った。
(もしボクが負けていたら、彼女のように振る舞えただろうか。笑って彼女を祝福できただろうか)
そこから控え室の扉を開けてトレーナーさんに話しかけられるまで何をしたのか、何を話したのかはまるで覚えていない。ここで笑って、ここでこういうことを喋ってとプログラミングされたロボットのように観客に笑いながら手を振り、その後レースについて報道陣に語ったのだろう。今日の夜にはネットに記事が上がって、明日の朝には新聞で写真とともに報じられる。でも。
(どうでもいいんだ、どうでも)
100回、いや何千回、何万回とやった中で唯一の勝ちを掴んだだけ。しかもその勝利もほとんど負けと呼んでいいものなのだから。“奇跡”と呼ぶにはおこがましい、幸運と言うには神様に失礼だ。
「……戻りました」
「……お疲れさま、レイン。ライブまでゆっくり休め」
だからなのかもしれない。ボクの帰ってきた様子を見てボクの思いを察してくれるトレーナーさんがいるこの場所が家みたいに感じてしまうのは。
「ありがとうございます……汗は自分で拭けますから、タオルもらえますか……わふっ」
「オレに話せるようになったら話してくれ。それまでは何も聞かないから」 「……はい」
たぶんボクじゃなくてもやってくれていたと思う。ルージュでも同じように汗を拭いてくれていたに違いない。子どもが外で遊んでくるのを家で待っているように、子どもがかいた汗を玄関で拭ってあげるように、トレーナーさんの振る舞いはボクが父さんにしてほしかったものだった。だから。
(羨ましいな、エスキモーが)
そんな妬みが気づかないうちに徐々に頭の中を侵食していく。いつか取り返しのつかないことになってしまうなんて考えはないまま少しずつ。
─────
「1cmだよ、1cm! 差せたと思ったのになー!」 「……なんか元気そうだな」
控え室に帰ってきたと思ったら、ソファに座っているオレの隣に腰を下ろしてレースのことを喋り始めるエスキモーの姿を見てオレは思わず目を白黒させる。コース上ではあんな凛々しい姿を見せていたのに、取材でも優等生なコメントをしていたというのに実際はこうだ。まあ年相応なのはどう考えても今見せている姿だから、少しホッとする部分はあるんだが。
「あんまり言いたくないんだけど、やっぱり枠がもう少し内の方だったらって思うの。ねえ、トレーナーはどう思う?」
「確かにそれはあっただろうな。せめて7枠までだったらなあとはレース後感じたよ」 「私も同じ感想です。最後に脚が止まったわけではありませんが、道中もう一列前で運べていれば勝っていた可能性は高かったかと」
大外枠が不利というのは芝2500mにおけるゲートの設置位置の問題が多分にある。スタートが外回りの3コーナーの途中となる都合上、内回りとの合流点までは数十mほどで、4コーナーまでの距離も200mに満たない。すなわち走り始めてすぐにコーナーを迎える以上外枠になればなるほど、他のコース、例えば同じ中山の芝2000mより外を回らされる可能性が非常に高くなる。それを避けるために強引に内へと切り込めば最悪の場合斜行からの降着になりかねないし、なにより序盤で脚を使わされてしまうことが大きい。かといってポジションを下げすぎると、今度は極端なレース運びとなってしまうことは避けられない。ということもあって特に15番や16番枠からはほぼ勝ちウマ娘どころか3着以内に入る子もいない。
「道中の位置取りや仕掛け方にも文句はない。反省会は一応やるけど、いつにする?」
「うーん……だったら明日、とか?」
そう言うだろうなと思っていた。これなら違和感なくクリスマスパーティーと一緒にできる……
「申し訳ありません、お姉さま。トレーナーさんは明日私と過ごす予定でして」
「……えっ?」
はずだったんだけどなあ……
「ト レ ー ナ ー ?」
「ちょっと待ってくれ。これには理由が……というかザイア、そもそもオレ頷いてないよな!?」 「沈黙は肯定、私はそう解釈しましたが、違いました?」 「あれはレースがすぐ始まるところだったから返事できなかっただけで、あとで言おうと思っていたんだよ!」 「私との予定が最優先じゃないの!?」
わいわい、がやがや。今ここがどこなのか忘れそうになるが、そう、ここは中山レース場の控え室である。しかも有馬記念が終わった直後の。なのにそんな雰囲気は全くなく、ただただ痴話喧嘩に近い何かがこの場を支配していた。
「あら、お姉さまもしかして反省会にかこつけてトレーナーさんとクリスマスを楽しまれるご予定でした?」
「ち、違わないけど……」 「申し訳ございません、私が先に予定を入れてしまって……よければご一緒されますか? ただ詳細はまだ決まっておりませんので、お姉さまの“好きな”場所を選んでいただいて問題ありませんよ?」
エスキモーにもそんな攻め方できるんだなと感心していると、エスキモーから睨むような視線を向けられ思わずビクッとしてしまう。早く介入してよと言いたげな様子だったから、慌てて彼女に助け舟を出すことにした。
「メジロのお屋敷にこれ以上世話をかけるのも申し訳ないし、かといって二人の家にお邪魔するわけにもいかない。だったらオレの家でもいいかな? 狭いけど三人ならちょうどいいと思うし」
「……承知しました。ご準備は手伝いますのでなんなりとおっしゃっていただければ」 「……私もやるから」
ひとまず妥協点を見出して無事に着地した。本当はエスキモーと二人で過ごしたかったところだが仕方ない。終わってからザイアに突っ込まれるよりかはマシだろう。そう自分に言い聞かせる。ただそれにしても、ザイアが内心何を考えてこんな行動をしたのか分からないけど、彼女にとってはきっと思い通りの結果なのだろう。ただそれにしても。
「ザイアきらい」
「うっ……!」
きっちりエスキモーからダメージを受けているのも彼女の想定通りなのだろうか。深く突っ込んだら駄目な気がするから、二人のことは放っておいて明日の天気でも調べることにするか、うん。
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| + | 第50話 |
「準備は……よし。それでは参りますか」
ホームルームと終業式を午前中の間に終え、トレセン学園は短い冬休みへと突入する。実家に帰る生徒もいれば寮に留まる生徒もいる。なにより冬休みの期間中にも中央の競走だけでなく、地方との交流競走も開催されるから、休みを返上してトレーニングに臨むウマ娘も毎年一定数存在する。年末はホープフルSに東京大賞典で締め括られ、年始は東西金杯からトゥインクル・シリーズが幕を開ける。ヨーロッパはレースを行わない期間が一定程度設けられているけど、日本は一年中全国のどこかでレースが行われる。
「寮長に夜間の外出許可はいただいていますし、トレーナーさんとお姉さまへのプレゼントも既に購入済み……問題ないですね」
制服からニットのワンピースに着替え、靴も学園指定のローファーではなくそれほどヒールが高くないショートブーツを選択する。そしてアウターには裾が長いシャギーコートを選び、シックなコーディネートで今日は臨むことに決めた。小さなショルダーバッグをアクセントに、空いた左手にはプレゼントを持って、今日の目的地であるトレーナーさんの家へと出発する。
「お姉さまは用事があるとおっしゃって先に出ていきましたが……」
慌てていたというわけでもなく、ただ先に出るからとチェスターコートを羽織ってお姉さまは出発された。せっかくなら場所も初めてなので一緒に行きたかったのだけれど、お姉さまが先に行くということであればその意思を尊重する他ない。
「それにしても人の出入りが激しいですね。クリスマスイブなので仕方ないのでしょうけれど」
自室の前から玄関前までワイワイガヤガヤと騒がしい声が途切れることなく聞こえる。友人同士で開くパーティーの準備に向かう方や、忘年会を兼ねたチームの集まりに赴く方、それに見るからに気合が入ったコーディネートをしている方、様々な色が寮の中を彩っている。これもまたトレセン学園ならではの光景と言えるのかもしれない。
「トレーナーさんのお宅にお邪魔するのはこれで2回目ですね。前回は去年のクリスマスでしたが……そもそもトレーナーさんの家に年に何回も訪れることの方が問題ですから、何もおかしいことはありません」
独り言をブツブツと言いながらも玄関でスリッパからブーツへと履き替え、そのまま寮の敷地の外へ出る。トレーナーさんの家はここから大通りをしばらく歩いた先の脇道に入った場所にあるということもあり、時折学園のジャージを着たウマ娘たちがロードワークをしている様子を見かけた。
「誰もいらっしゃいませんね……よし」
やましいことは何ひとつしていないはずなのに、どうしてか周りに気を払いながら大通りから小道へと進む。一度来たことがある上にお姉さまもいらっしゃるから緊張などしないはずなのに、ほんの少しだけ手に汗が滲む。
「今日でお二人の秘密を暴いてみせるのですから、このようなところで臆してはなりません」
改めて意を決してアパートの階段を上がっていく。壁や階段の塗装などを見ていると、建ってからそれほど年数は経っていないように感じる。
「二階のこの部屋番号でしたね」
間違いがないか改めてトレーナーさんとのメッセージを振り返って確かめてから、玄関のインターホンを押す。するとすぐにパタパタという音が扉の向こう側から近づき、ガチャリと鍵が開いた音がして──
「外は寒かったでしょ。早く中に入って暖まってね」
若奥様……いやエプロンをカットソーとスカートの上から身にまとい、長く艶やかな髪をポニーテールに括ったお姉さまが玄関のドアを開けてくれた。その姿を見て私は脊髄反射で口を開き──
「旦那さまは奥にいらっしゃいますか……あっ」
なんてことを口走ってしまい、慌てて口を押さえた。ただ時すでに遅し。どのようにごまかそうかと必死に思考を回していると、お姉さまは私とは対称的に動揺する様子は全く見せなかった。
「うん、トレーナーならキッチンにいるよ。料理を少しだけ手伝ってもらってるの」
なんて言葉を顔色一つ変えずに放つほどに普段の明るさと美しさを一切崩すことなく、私を部屋の奥へと連れていってくれた。
「その……お姉さま?」
「どうしたの? 料理はあとチキンが焼けたら出来上がりだけど。ケーキは冷蔵庫に冷やしてあるよ」 「いえ、そうではなくて……先ほどの私の言い間違い、まるで慣れているかのようなご様子なのが気になりまして……」
リビングへと案内してもらい、コートをハンガーに掛けたところでお姉さまに先ほどの件を尋ねる。普通であれば言葉に詰まったり戸惑ったりするはずなのに、一切慌てる素振りを見せなかったのはなぜなのか。私はその理由が知りたかった。
「実はさっきも宅配の人に似たようなこと言われたの。これ旦那さん宛ての荷物ですーって。そのときはびっくりしちゃったんだけど、二回目になったら慣れちゃって」
「なるほど……そういうことでしたか」 「びっくりしたっていっても、そんなに焦ってはなかったけどな」
私とお姉さまの話を聞いていたのか、キッチンの奥からトレーナーさんが顔を出した。お姉さまが着ているものとは異なるタイプのエプロンを腰に巻いて、そのときのお姉さまの様子を詳らかにしてくれた。
「オレ宛ての荷物を渡してくれたあとに『そういえば〜』って切り出されてさ。いつもみたいに話すから、オレも思わず普通に相槌打っちゃったよ」
「そのあとトレーナーのこと“アナタ”って呼んでようやく気づいてくれたの。急にトレーナーの動きが固まったの面白かったな、ふふっ」 「一瞬何が起こったのか理解できなかったんだよ。すぐにオレのことかって分かったけどさ」
お姉さまは『もう、トレーナーったら』みたいなことを笑いながら言っていて、トレーナーさんはトレーナーさんで『あのなあ……』なんて言いながら全然困った顔をせず、むしろ微笑んでいる。
「それはそうと、エスキモー、あれってどこに直したっけ?」
「あれって言われても……あー、ワイングラスは洗って乾かしてから上の棚に入れてるよ」 「ありがとう。せっかく美味しそうなノンアルのスパークリングワインをお店で見つけたからさ、いつものコップで飲むのもったいなくて」 「味気ないもんね。それとせっかくのパーティーだし、お皿もいつものじゃなくて前にトレーナーが実家から送ってもらったいいお皿使っちゃう?」 「懸賞で当たったけど使わないからって送ってきたやつな。せっかくだし使おうか」
会話に何か違和感を感じる。変なことを話しているわけでもないのにどうしてだろう。
「そういえばまだ部屋に上がってから手洗いを忘れていたので、洗面所をお借りしてもよろしいですか?」
「場所は分かる? キッチンの横の、そうそうそこが洗面所だよ」
お二人の話を聞くことに集中しすぎてついやりそびれてしまった手洗いをこのタイミングで行かせてもらう。ちょうど頭の中を整理しておきたいこともあったので、お姉さまに礼を伝えつつ一旦この場を離れることにする。
(昔からのお知り合いとおっしゃっていますし、大変仲が良いのは当然のこと。距離感が近く見えるのも納得はいきます。ただ何か引っかかります……)
ジャーと音を立てて流れる温かいお湯で両手を濡らし、洗面台横に置いてあるハンドソープのボトルへ手を伸ばす。しかし天井を見ながら考え事をしていたせいか、目測を誤って目的のハンドソープより上の鏡となっている部分に思わず手をぶつけてしまった。
「痛っ……あら、扉が開いてしまいました。元に戻さなくては……」
家に上がらせてもらっているとはいえ、必要以上にトレーナーさんのプライベート空間を覗くべきではない。だから急いで扉を閉めようとしたのだけれど、つい開いた扉の中身を見てしまった。
(少し使われている歯ブラシが二本ありますね……どちらも同頻度で使われている様子。一人暮らしにしては違和感を感じますね)
使い古されてボロボロになった物と新品同然の物であれば、古い方を掃除か何かで使うがために残しているのかもしれないと考えられる。もし片方が新品同然でもう片方がそれなりに使用された形跡があるのならば、飲み会か何かで酔いが回ったまま帰宅し、その後律儀に歯を磨く際、これまで使用してきた歯ブラシを見落とし新たに新品の歯ブラシの封を開けた。しかしながら翌朝酔いが醒めてから、まだ古い物が残っていたことに気づいたという解釈もできなくもない。
(ただいずれも現在のこの状況には当てはまりません……同棲をしている彼女でもいらっしゃれば話は別ですけれど、クリスマスイブに担当のウマ娘二人を家に招いてパーティーを開く方がそのようなことをするはずがありません)
改めてハンドソープのボトルを何度かプッシュし泡を出すと、手のひらや指と指との間、そして爪先を丁寧に洗っていく。両手が泡で包まれるまで泡立てたところで流れるお湯で泡を洗い流し、レバーを下げてお湯を止める。ただハンカチで手を拭こうとするもショルダーバッグから取り出していないことに気づき、仕方なく備えつけのタオルで水気を取ることとした。
(何か気づきそうなのですが、あと一歩が足りません……他に何かヒントになりそうなものはあるでしょうか……)
一旦洗面台の扉を閉じ考える。お姉さまとトレーナーさんの距離感、同程度に使い古された二本の歯ブラシ、手慣れた料理。
(今日も先に出られたのは料理を作っておきたかったから……先に出る……料理……あっ)
そのとき何か閃いた。ただ確証と呼べるものでは全くない。現時点ではあくまでもただの推論。確固たる根拠がなければ証明できたとは言いがたい。
(試しにカマをかけてみることにしましょうか。そこでお二人がどのような反応をされるかで分かる気がします)
兎にも角にもまずは検証が必要。私は思い立ったがまま洗面所を後にした。
─────
「おかえり。遅かったけど何かあったの?」 「いえ、少し念入りに洗っていただけですので、特に心配いただくことはありません」 「そっか。それならよかった」
リビングへと戻ってくると、もうワイングラスを洗い終えたのか、お姉さまとトレーナーさんが横に並んでテレビを見ていた。ただテレビといってもドラマやニュースなどではなく、昨日お姉さまが走られた有馬記念の録画というクリスマスイブには似つかないものだった。もちろんお姉さま自身はクリスマスのイルミネーションに負けないほど光り輝いているので、私としては垂涎ものの映像である。
「風がもう少し弱くて序盤のペースが速かったら、レインも最後垂れて……いやそれを期待するのは厳しいか」
「レインも絶対あの位置を取らないといけない脚質じゃないもんね。もしレースのときに風が弱くなってたら、風除けのために前の子にくっつく必要もなかったんだし」 「そうなんだよな……せめて枠順が一つか二つ内になっていたら……いやそれを言うのは駄目だ。あの枠でどう勝つことができたのか、だからな」 「とにかく最初のペースをちょっと読み間違えちゃったところからだよね。飛ばして逃げる子がいなかったから落ち着いた流れになるのは分かってたんだけど、70秒もかかるなんて思いもしなかったかも」
負けたレースを振り返るのは悔しく苦しいはずなのに、一切そのような素振りは見せず語り合っている。顔も真剣そのものだ。私もその会話の輪へ入っていき、さもレースに関係があるかのような話題を二人に話を振った。
「分かります。ペース一つをとっても、天候にどうしても左右されてしまうのが難しいです。その日雨が一滴も降らなかったとしても……ちなみになんですけれど、玄関の傘立てに色違いの傘が二本刺さっていましたが、あれはトレーナーさんとお姉さまの物ですか?」
「そうなの。前に寮に折り畳み傘忘れちゃったときにたまたま雨降ってきちゃって……どうしても動き方が後手後手になるよね」 「そのときはオレの傘貸したんだけどな……内の子が全員出遅れたりしない限り、ポジション取りに行こうとしたら脚使うからな」
よほど考え込んでいるのか、私がカマをかけたことにも、自分たちが引っかかったことにも気づく節はない。もはや限りなく黒に近いグレーだけれど、最終確認のためにもう一回だけ探りを入れてみることにする。今度は変化球ではなく真ん中ストレートを放り込む。
「内に入れようと後ろに下げた場合、今度は前との距離が開きすぎますから……お姉さまはよく来られるんですか?」
「これがGⅢとかオープン戦だったらずっと外回しても届くかもしれないけどね……まあご飯作ってるし」 「実際レインを抜いてもGⅠウマ娘は複数いたし、あとはGⅠを勝つだけみたいな重賞ウマ娘たちが多かったからな……ってちょっと待て。一旦ストップ。エスキモーはこっち来て」
流石に露骨に聞きすぎたのか、トレーナーさんがようやく意識を昨日のレースから今この瞬間まで引き戻し、お姉さまとコソコソと話をし始めた。私に漏れ聞こえないようキッチンまで行く徹底ぶりは、むしろ薄っすらと想像していたことを確信に変えさせた。お二人で話している間、テレビでは有馬記念の映像が再生を止められたまま映し出されていた。
「よし……ザイア、何から聞きたい」
話し合いがつきキッチンから戻ってきたトレーナーさんとお姉さまが私の方へ体を向けながらソファに座る。そしてトレーナーさんが真剣な顔をしながら開口一番に言ったのは私に話の主導権を握らせるに等しい一言だった。
「取り急ぎ確認させていただきたいのは……お姉さまが朝と夜に出かけられているのはトレーナーさんの家に来るためだったのですか?」
「そうなの。これまで黙っててごめんね」
手を合わせて謝るお姉さまを見て、この二年近くにも渡り私を悩ませていた謎がようやく解けた。トレーニングに出かけている様子はなく、かといって学園の近隣でバイトをしているという話も聞いたことがない。はたしてどちらに行かれているのかと毎日考えていたのだけれど、それがトレーナーさんの家だったとは思わなかった。正確にはもしかしたらと一度考えはしたのだけれど、それはないと自身の中で決めつけてしまっていた。
「いえ、お姉さまが学園外でどのように過ごされるかは自由ですから、謝られることではありません。ただ一体なぜそのようなことを?」
「えーっとだな……恥ずかしながらオレが全然料理できなくてな、見かねたエスキモーが作りにきてくれるようになったんだよ」 「ほんとこの人は……担当には『栄養を考えたメニューを食べるように』なんて言うのに、自分自身は適当に済ませるんだもん。それに家事もろくすっぽできないし」
はあと腰に手を当てお姉さまは大きくため息をつく。トレーナーさんはトレーナーさんで反論の余地もないのか、気まずそうにお姉さまから目を逸らしていた。私は私でまた一つお姉さまがなぜ毎日手作りのお弁当を持ってこられるのか、朝食も夕食も寮で食べないのかという疑問が解決しすっきりとした顔をしていた。
「すなわちお姉さまはトレーナーさんのあまりにも低い生活能力を見かねて、朝と夜にわざわざトレーナーさんの家に赴き、食を中心とした家事を行っているということですね」
「そういうことなの。トレーナーのお義母さんにも聞いて好きなご飯聞いたり、部屋の整理整頓したりとか大変だったんだからね。聞いてる?」 「大丈夫……ちゃんと聞いているから……」
普段の堂々とした様子とはうってかわったしゅんとしたトレーナーさんの姿を見て思わず笑みを零してしまう。まだまだ新人なはずなのに、今までどこをどう見ても素晴らしいの一言しか出てこなかった面とはまた異なった、ある意味だらしない一面を垣間見ることができたのだから……少し発音で引っかかりを覚えた箇所があったのだけれど、十中八九気のせいだと思い気にしないことにする。
(流石に“それ”はまだ早いでしょうし)
今日も素敵なお洋服で着飾っているけれど、お姉さまはまだ中等部である。互いに多少好意は持たれているのだろうけれど、お姉さまの年齢を踏まえると考えにくい。
「でしたら休日に出かけられているのもトレーナーさんの家に行くため、ですか?」
「クラスの子と遊んだり、パパとママと弟に会うために家に帰ったりすることもあるけど、大体はそうかな。最近レースが近づいたら行かないようにしてるんだけどね」 「レースに悪影響が出たら面目が立たないからな。オレも彼女が来ない間なんとか凌げるように少しは料理を勉強しているよ」 「ふーん? じゃあ今度トレーナーの手料理食べさせてもらおっかなー?」 「が、頑張るよ……」
幼い頃から顔見知りであれば、この程度は自然なことなのだろうか。異性の幼馴染など私にはいないから、その辺りの基準がよく分からない。ただトレーナーさんも大人なのだからここまでは大丈夫、これ以上は駄目という線は引いているはず。どれほどお姉さまが女性として魅力的でも手を出したりはしないだろう。
「事情は理解しました。トレーナーさんの私生活について言いたいことはございますが、“健全”な関係であることが分かりましたので、私としては不問といたします。どなたにもこの話を漏らしたりはいたしません」
「ありがとね、ザイア」 「変に話が漏れたらややこしいからな……」
お二人は私の言葉を聞いてホッとした表情で胸を撫で下ろす。私としてももし不適切な関係であれば、心苦しいけれど学園に報告することも視野に入れていた。しかし聞いている話では一般的なトレーナーと担当ウマ娘の関係とは若干乖離しているものの、不健全な関係とは見受けられなかった。もし今後新たな事実が判明すれば話は変わるけれど、少なくとも現状では静観してもいいだろう。ただ。
「どなたにも話さないために、一つ条件がございます」
右手で人差し指を立てて交渉を始める。私のわずかに口角が上がった表情を見て、少し気を抜いていた二人は再び顔を引き締めた。
「条件って?」
「ええお姉さま。決して難しいお話ではございません。お金がかかるものでもございません」 「もちろんオレたちにできることならやらせてもらうけど……」
一体何を要求されるのか、お二人は唾をこぐりと飲み込み、私が次に発する台詞を待っている。ただ私も私で緊張して顔が徐々に熱くなるのを抑えることができない。
(本当に言ってもいいですよね……私が優位に立っている今ならば……きっと……)
唾をごくりと飲み込む。お姉さまの美しい顔をまっすぐ見つめる。赤みがかった唇、そこから目を逸らすことができない。
「お、お姉さまに私の頬へき、キスしてもらえないかと!」
「「……へ?」」
時間が止まり、お二人の動きも止まる。声は上ずり、顔もきっと真っ赤に茹で上がっていることだろう。もしかしたら今日羽織ってきたシャギーコートの色みたいに染め上がっているかもしれない。
「む、難しいのであれば他のお願いにするのですが……駄目、でしょうか?」
「駄目じゃないけど……トレーナー、いいの?」 「君がいいならオレに止める権利はないよ……ザイア、もしかしてその場面は撮った方がいいか?」
私が示した口止め料、もとい欲望丸出しのお願いは若干逡巡されたものの、二人は受け入れてくれた。逆にトレーナーさんが提案してくれた写真撮影については赤ベコのように首を何度も縦に振り、私の携帯を手渡した。
「ちょっと待ってくれよ……もうちょっと互いに近づいて……うん、これで縦で撮っても二人が入るな」
「なんかいざ撮られるって段階になるとさ、ちょっと照れるね」
トレーナーさんがソファの正面へと回り込み、二人が画面に収まるよう真剣な顔で調整してくれている。お姉さまと私は照れながらもその指示に従って体を寄せ合う。
「よし、あとは二人のタイミングでしてくれたら写真は撮るぞ」
「すぅ……はぁ……私は大丈夫。ザイアは?」
もう既に心臓の高鳴りを抑えることができていない。肩がぶつかるほどの距離にお姉さまがいる。きっと私のこの心臓の音もお姉さまに聞こえている。今でも倒れてしまいそうなほど、緊張で胸がいっぱいになっている。
「だ、だ、だ、だいじょうぶです……おねえさまにおまかせします……」
自分が言ったことなのに自分の方が緊張してしまうなんて思いもしなかった。それでもこの機は逃したくなかった。
「それじゃ、いくよ」
私の尻尾にお姉さまの尻尾がしゅるりと絡まる。膝の上に置いていた右手にお姉さまの左手がそっと重なる。そしてお姉さまの吐息が私の頬にかかって、柔らかく温かい感触が頬に触れ──
「……んっ」
そしてその瞬間、パシャリと音がして──
「きゅぅ……」
私は意識を手放した。
─────
「まあ……こうなるよね……」 「今のシーンも写真撮ってあげるか……見返したらまた倒れそうだけどな」
エスキモーがザイアを膝枕して髪を撫でているシーンを何枚か写真に収める。肝心の例の写真はザイアの頬にエスキモーの唇が触れて数秒後に倒れたから数枚しか撮れていない。その代わりといってはなんだけど、エスキモーにこのように介抱されている場面を撮っておけば、きっと満足してもらえることだろう。
「画角を何度か変えて……っと。うん、これでいいだろ……いやあと数枚……」
「もう、トレーナー撮りすぎだってば」 「悪い悪い……よし、これでいいだろ」
カメラアプリを閉じ携帯の画面を消す。ザイアを起こさないようそーっと机の上に携帯を置くと、ダイニング側の椅子へと腰を下ろした。
「この子が起きたらパーティー始めよっか」
「そうだな。温めるのはまだ先でいいか。何度も温め直すのは手間だしな」 「うん……ねえ、トレーナー?」 「どうした、エスキモー?」
ザイアを自身の膝に寝かせながら彼女は優しい顔でザイアの頭を撫でる。まるで疲れて眠ってしまった我が子を見つめる母親のように彼女は柔らかく微笑んだ。
「私の唇がこの子の頬に触れたとき、何か考えてた?」
「いや、上手に撮るのに必死で……どうして不満そうな顔をするんだ」 「別になんでもないでーす……ふーんだ」
そんな怒るようなことだっただろうかと首を捻る。いやこれはもしかしたら……
「嫉妬してほしかった、とかじゃないだろうな」
「ピンポーン。分かってるなら言ってほしかったなー」 「あのなあ……今の言葉ザイアに聞かれていたらとか考えてだな……」 「それもそっか。じゃあちょっとこっち来て」
彼女はそう言うと、ちょいちょいと手招きしてオレを座っている横まで呼び出す。彼女の意図が読めないもののザイアがいつ起きるか分からない以上、おそらく変なことにはならないだろうと確信してオレは彼女の指示に従った。
「それでどうした。何か言いたいことでもあるのか?」
「えっとね……」
彼女はザイアの髪を梳くのをやめ、オレの耳元に口を近づける。そして──
「ファーストキスはトレーナーにあげたんだからさ、許してね?」
「なっ……!?」
途端に互いの頬がピンク色に染まる。続けて彼女がオレの顔をホールドするように手を伸ばしてきたのをオレは必死に回避した。
「おい! 流石にこれはやりすぎだ!」
「えー、いけると思ったんだけどなー」 「あのなあ……!」
流石に彼女もザイアを膝から下ろしてまで追ってきはしなかった。ただ今もう一度近づけば次は仕留めると言わんばかりに舌なめずりを見せる。
「もう少し我慢してくれ……別に一生駄目とは言ってないんだから」
「はーい……いつかトレーナーからしてくれるの、待ってるからね」 「先の話な」
そんなことを話していると、ザイアがうーんと声を漏らした。眠り姫はようやくお目覚めみたいだ。まあかの童話とは反対に彼女は王子様のキスで目を閉じたのだが、それは些細なことだろう。
「おはよ、ザイア」
「えっと……この状況は一体……」
自身がソファに横になっていることと、自身の頭がエスキモーの膝の上に乗っている事実が認識できていないようだ。なんといっても寝起きだし、それは仕方ないことではある。
「ザイアが倒れて介抱してたの。トレーナー、そろそろチキンとか温め直そっか」
「オッケー、順番にやっていくよ」 「お姉さまもトレーナーさんもお待たせしてしまい失礼しました……」 「いいの、気にしないで。それにほら、ちょうどいい時間でしょ?」
彼女が指差した先に示されていた時刻は午後6時前。外もすっかり日が落ちて、ちらほらと雪が舞っているように見える。
「ホワイトクリスマス、かな」
「ああ、そうだな」
去年に引き続いて三人で過ごすホーリーナイト。これからも変わらぬ関係でいられますようにと雪降る夜空に願いをかけて、聖なる夜は深まっていく。
─────
「寒いし気をつけて帰るんだぞ」 「はーい。トレーナー、おやすみなさい」 「今日はありがとうございました。失礼いたします」
クリスマスパーティーを終えて私とお姉さまはトレーナーさんの家を後にする。お姉さまお手製の料理やケーキを満喫したあとに行われたプレゼント交換会では、お姉さまからハンドクリームを、トレーナーさんからはお姉さまの巨大ぱかプチの試作品をいただいた。ただ前者はともかく、ぱかプチは巨大と呼ばれるだけあって大きさが縦1mほどある。いくら圧縮されて本来のサイズより若干小さくなっているとはいえ、お姉さまにぱかプチ以外の荷物を持ってもらっているほど現在進行形で運ぶのにわりと苦労していた。
「タクシー、呼ぶ?」
「いえ……それほど重くはないですし、寮までの距離もありませんから問題ありません。気遣っていただきありがとうございます」 「トレーナーって朝そんなに強くないから、私が朝に行っても布団被ってることが多いの。遅れたら駄目だからってわざわざ寝室まで行って起こしてあげることもよくあるんだけど、最近ベッドの近くに大きな荷物が増えててね。これなんだろうって思ってたの」 「それがこれでしたか……」
なぜ本人であるお姉さまではなくトレーナーさんへ届くのかと疑問に思ったのだけれど、仮にお姉さまの元へ届いた場合、ただでさえ二人一室の広いとはあまり言えない部屋にこのぱかプチが届けばどのような事態が起きるのか瞬時に想像することができ、納得してしまった。無論トレーナールームへ置いておくこともできたのだろうけれど、このぱかプチをもらって一番喜ぶのは誰かとトレーナーさんが考えた際に真っ先に思い浮かんだのが私、ということなのだろう。
「ふぅ……それでお姉さまがトレーナーさんからいただいたのはキーケースでしたね」
「繰り返し使うことになるだろうからっていいのもらっちゃった。ザイアからもこもこのパジャマをもらえて嬉しかったな。ちょっとお洒落だし着るのがすっごく楽しみ!」 「いえ、寒い季節が続きますから少しでも暖かくしていただきたくて……一緒に着ていただけますか?」 「当然でしょ! お互いに帰省する前に一回は着ようね」
そう、私はお姉さまに自分用に買ったものと色違いのもこもこのパジャマをプレゼントした。ただもこもこといっても幼い子どもが着るような全身がふわふわもこもこしたものではなく、上はふわっとしたキャミソールの上にふわっとしたカーディガンを羽織るタイプのもの。上下で色が統一されたおしゃれなルームウェアで、私は自身へのプレゼントとしてブラウンのものを、お姉さまへはシックなブラックのカラーのものをプレゼントした。ちなみにトレーナーさんへは万年筆を贈った。
「私のベッドにはお姉さまのぱかプチを寝かせて、私はお姉さまとお揃いのナイトウェアで同じベッドでぐっすりと眠りに……ふへへ……」
「誰かが部屋の中を見たらびっくりするだろうね……というか最近のザイアって寝るというより気絶しているような気がするんだけど、もしかして私の気のせいかな?」 「そう言えなくもないですが……それはそうとお姉さまがトレーナーさんに何を贈られたのですか?」
お二人にいただいたプレゼントが嬉しくかつあまりにも衝撃的で、お姉さまがトレーナーさんにプレゼントを渡す場面を私はすっかり見逃してしまっていた。確かそれほど大きなものではなかった気がするけれど、具体的に何を贈ったのかは視認できていない。
「あの人にあげたのはネクタイだよ。新調したスーツに合うようにって。私は分からないけど、ザイアは今年のURA賞受賞すると思うから、トレーナーもその付き添いで式典に出ないとだし」
「私たちが活躍すればするほどトレーナーさんも表舞台に立つ場面が増えますから、贈るとすれば実に合理的です。流石お姉さまですね」 「もう、褒めても何も出ないよ?」
ぱらぱらと雪が降る寒空の下、私たちは二人で寮までの帰路をゆっくりと歩いていく。空を見上げてもサンタクロースはソリで駆けてはいなかったけれど、素敵なクリスマスプレゼントをお姉さまとトレーナーさんからいただいて、本当に幸せなクリスマスとなった。
(来年も素晴らしいクリスマスを過ごせますように)
空を見上げても月は雪雲に隠れて見えはしない。それでも私は静かに祈りを天へと捧げた。
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