すっかり寒さも和らぎ、暖かくなってきた春の休日。しとしとと降る雨が適度に心地よいBGMとなりながら、けれど外出したいという生徒たちの気概を奪っていく。久々のオフということで宿題に勤しみ、それをも終えて暇を持て余していた私はトレーナー室へ足を向ける。
私のために、或いは彼自身のために……日々身を粉にして仕事に励むトレーナーさん。中々に厄介な気性の私を、それでも私として受け入れてくれた人。どうせすることが無いなら、お茶の一杯でも入れて話相手にでもなろうかと、戸を叩いてドアを開けば……「こんにちはー!……耳、痒いんですか?」
一応ノックはしていたが、連絡も無しに私が来たのは予想外だったらしく。左耳に耳かきを差し込んだまま、呆然とこちらを見つめるトレーナーさんの姿。ちょいと視線を逸らせば、綺麗なままのティッシュが机の上で開いており。あぁ、上手くいってないのかと。
とりあえず湯呑みが空だったので、自分の分と一緒に注ぎつつ話を聞いてみることに。曰く最初に違和感を覚えたのが3日前、確か坂路特訓の日だったか。その時に砂でも入ったのか、奥の方でゴロゴロと音が響いていたとのことで。その後も気にはなっていたが機会に恵まれず、ちょうど私がいない今日にやってしまおうと思ったらしい。実際にはこれが難しいという具合だったみたいだけど。
「でしたら私、やってみましょうか! なるべく怪我は避けるようにするので!」
休日に1人で仕事、というのが身体に堪えていたらしく。目には少し隈が浮き、唇も若干かさかさ。湯呑みの底は大分乾いていたし、あまり飲んでいなかったんだろう。
担当の私を心配させないため、なんて心遣いは真っ当に嬉しいものであるが。しかし裏を返せば、私のせいで抱えた負担を私に見せてはならぬという……素晴らしい矜持ではあるけど、正直申し訳ない。いざ直面するまで気づけなかった私も私だが、せめて知った以上は休ませてあげたいと思う。
適当にタオルを取り出して床に敷き、正座。ポンポンと、いつも鍛えている太ももを叩いて誘導してあげれば、フラフラと私の脚に頭を乗せるトレーナーさん。……いや、これマズくない?普段ならもう少し自制しますよね?
予想を超える疲れっぷりを見せたトレーナーさんに内心狼狽しながらも、昔読んだ知識で耳掃除を始めようとする。本当は温タオルとかあった方がいいらしいけど、急場で用意できなかったし。とりあえず、右耳を押し広げながら覗いてみようと──
私のために、或いは彼自身のために……日々身を粉にして仕事に励むトレーナーさん。中々に厄介な気性の私を、それでも私として受け入れてくれた人。どうせすることが無いなら、お茶の一杯でも入れて話相手にでもなろうかと、戸を叩いてドアを開けば……「こんにちはー!……耳、痒いんですか?」
一応ノックはしていたが、連絡も無しに私が来たのは予想外だったらしく。左耳に耳かきを差し込んだまま、呆然とこちらを見つめるトレーナーさんの姿。ちょいと視線を逸らせば、綺麗なままのティッシュが机の上で開いており。あぁ、上手くいってないのかと。
とりあえず湯呑みが空だったので、自分の分と一緒に注ぎつつ話を聞いてみることに。曰く最初に違和感を覚えたのが3日前、確か坂路特訓の日だったか。その時に砂でも入ったのか、奥の方でゴロゴロと音が響いていたとのことで。その後も気にはなっていたが機会に恵まれず、ちょうど私がいない今日にやってしまおうと思ったらしい。実際にはこれが難しいという具合だったみたいだけど。
「でしたら私、やってみましょうか! なるべく怪我は避けるようにするので!」
休日に1人で仕事、というのが身体に堪えていたらしく。目には少し隈が浮き、唇も若干かさかさ。湯呑みの底は大分乾いていたし、あまり飲んでいなかったんだろう。
担当の私を心配させないため、なんて心遣いは真っ当に嬉しいものであるが。しかし裏を返せば、私のせいで抱えた負担を私に見せてはならぬという……素晴らしい矜持ではあるけど、正直申し訳ない。いざ直面するまで気づけなかった私も私だが、せめて知った以上は休ませてあげたいと思う。
適当にタオルを取り出して床に敷き、正座。ポンポンと、いつも鍛えている太ももを叩いて誘導してあげれば、フラフラと私の脚に頭を乗せるトレーナーさん。……いや、これマズくない?普段ならもう少し自制しますよね?
予想を超える疲れっぷりを見せたトレーナーさんに内心狼狽しながらも、昔読んだ知識で耳掃除を始めようとする。本当は温タオルとかあった方がいいらしいけど、急場で用意できなかったし。とりあえず、右耳を押し広げながら覗いてみようと──
──むにぃぃぃぃぃ…………♡
「あっ」
「あっ」
前のめりになって奥まで見ようとして、思いっきり胸を頭部に押し付けてしまう。そういえば体型的にそうなるんだ、漫画だと耳かきしてたのが男の人だったから気付かなかった。とりあえず、こういうのが好きな人がいるのも知ってるけど……不可抗力とはいえ、普段なら注意してくれるよね?気をつけろーって。本当に疲れてるなこの人…… とりあえず、トレーナーさんの頭を膝あたりに置き、左手で支える。これでとりあえずトレーナーさんを窒息させる心配はなくなった。
「それじゃ始めていきますね!特に痒いところあったら言ってくださーい!」
普段に増して声を張り、これから耳かきするという意思を伝える。ちゃんと左手に力を込めて頭が動かないようにしながら、右手で匙を持ち、かりかりと。手前あたりは垢もそれほど溜まっていなかったが、マッサージには効果があるらしい、ので適度に力を込めて掻き進める。
かりかり……かりかりかり……
「……よし。それじゃ奥までやっていきますよ!」
「……よし。それじゃ奥までやっていきますよ!」
最初は強張っていたトレーナーさんの身体も、少しずつ和らいでいく。それを見計らって、ちょっと汚れの多い奥まで匙を進める。ちょっと産毛に絡み付いたもの、耳の壁にぺったりくっついたもの。とりあえず隙間を見つけて、少しずつ剥がしていく。
ぱり、ぱりぱりっ……ぺろっ、ごそごそごそごそ……
取り去った耳垢を奥まで落とさないように、注意しながら匙を持ち上げる。ちょっと黒ずんだ、5ミリくらいの扁平な耳垢。結構大きなのが取れたななんて思いながら、他にもペリペリと取れそうなものに手をつけていく。時々、奥まで押し込まれてしまった分を見ては、トレーナーさんが自分で押し込んでしまったんだろうなと苦笑しながら。
ぱり、ぱりぱりっ……ぺろっ、ごそごそごそごそ……
取り去った耳垢を奥まで落とさないように、注意しながら匙を持ち上げる。ちょっと黒ずんだ、5ミリくらいの扁平な耳垢。結構大きなのが取れたななんて思いながら、他にもペリペリと取れそうなものに手をつけていく。時々、奥まで押し込まれてしまった分を見ては、トレーナーさんが自分で押し込んでしまったんだろうなと苦笑しながら。
ごそごそ、ざくざくざくざく……
「大丈夫ですかー?痛くはないですかー!」
「大丈夫ですかー?痛くはないですかー!」
なんとかコツを掴めたおかげで、匙を持つ手が順調に進む。この調子なら、邪魔な耳垢を全部取るのにもそれほど掛からないだろう。
……耳、音、声。トレーナーさんは、私の音や声をいつもしっかり聞いてくれている。追込をかける時の足音に違和感があればすぐに声を掛けて止めてくれるし。逆に芝を踏む感触がいい音なら、キリのいい時に何を意識してたのかとか聞いてくれる。声にしても、レース前に無口無表情になっちゃう私の悪癖を汲んで、適切な応援をしてくれるし。
……耳、音、声。トレーナーさんは、私の音や声をいつもしっかり聞いてくれている。追込をかける時の足音に違和感があればすぐに声を掛けて止めてくれるし。逆に芝を踏む感触がいい音なら、キリのいい時に何を意識してたのかとか聞いてくれる。声にしても、レース前に無口無表情になっちゃう私の悪癖を汲んで、適切な応援をしてくれるし。
「調子はどうだ?身体の調子は悪くなさそうだし、しっかり準備出来てるように見えるけど」
「……うん」
「ライバルが多いのも分かる、ただ今日は良馬場だし昨日話した通りの流れでいこう」
「……勝つよ」
「よし、じゃあ行ってこい!」
「……うん」
「ライバルが多いのも分かる、ただ今日は良馬場だし昨日話した通りの流れでいこう」
「……勝つよ」
「よし、じゃあ行ってこい!」
なんて、冷静に見たら私がトレーナーさんへの対応を雑にしてるようにしか見えないよね。でも、そんな私に合わせてくれているお陰で、こうして走れてるんだって考えると……うん。
「はい、こっちは終わりましたよ!……ふふ」
気付けば右耳の中はすっきり綺麗になり、達成感を覚えながらトレーナーさんに伝える。ただ、それに返ってきたのは言葉ではなく、微かな寝息……普段のトレーナーさんなら、教育者としての理性が欲望に負けたって嘆きそうだけど。本音を言えば、こうしてリラックスしながら身を委ねてくれるっていう信頼を嬉しく思う。
とりあえずトレーナーさんを起こさないように、身体を上手く回して反対に向ける。少しでも安らいでくれたら嬉しいし、左耳もしっかり綺麗にしてあげないと。なんて決意を胸に、再び私は匙を持つのであった……
とりあえずトレーナーさんを起こさないように、身体を上手く回して反対に向ける。少しでも安らいでくれたら嬉しいし、左耳もしっかり綺麗にしてあげないと。なんて決意を胸に、再び私は匙を持つのであった……
……その後。
トレーナーさんに書類を届けに来たたづなさんに。
「光を失い据わった目をしたウマ娘が、無表情のまま一心不乱に担当トレーナーの耳を、さながら親の仇の如く掻き続けている」現場を見られ。
弁明のために立ち上がるまで、この奇妙な耳かきは続いた。
トレーナーさんに書類を届けに来たたづなさんに。
「光を失い据わった目をしたウマ娘が、無表情のまま一心不乱に担当トレーナーの耳を、さながら親の仇の如く掻き続けている」現場を見られ。
弁明のために立ち上がるまで、この奇妙な耳かきは続いた。