本項ではトリア帝国による東零統一後の歴史を記述する。
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アウレージ大戦でシャノワール帝国に奪われた西部トリア地域を奪還したが、長期間の戦争による国民の疲弊は大きく、それに加えて主戦場だったトリア地域の戦後復興の滞りで帝政への不満は頂点に達した。また、ヴィアラチア地域でも帝国議会によって独立の約束が反故にされた事で急激に帝政トリアへの感情が悪化していった。
戦後復興の滞りに加え、不作による食糧不足に見舞われる中で(復興のための)増税が行われた事によって国民の怒りが爆発。また、シャノワール第2革命で勢いづいていた共産主義者を中心とした急進左派勢力が国民や国軍を先導して蜂起し、第二次トリア革命に発展した。革命軍はオレグベーリャの王宮を包囲し、皇帝とその家族を捕らえ、処刑した。本来は正式な裁判が行われる予定であったが、全体主義派が独断で処刑を実行し、アナーキズム派やサンディカリスム派との不和の要因となった。
革命の発生からわずか一月でトリア地域全土を勢力圏とし、革命軍はトリア・セルベーリャの建国を宣言した。トリア地域から撤退した政府軍(以下、白軍)はアライドへ逃れ、アライド王の元で人民戦線(以下、赤軍)に抵抗する姿勢を見せた。
アライド王国はトリア帝国時代の同盟国であるファタ・モルガナ帝国に支援を求め、ファタ・モルガナ及び、同盟国であるグランダからの支援を取り付けた。
ポロサニアを除くポロサニア山脈以西の大部分を勢力圏に置いたセルベーリャ政権は主流派であった全体社会主義派が舵を取る形で革命評議会を形成した。しかし、全体社会主義派への権力の集中を快く思わない他勢力による反発を招き、結果として全体社会主義派,アナーキズム派,サンディカリスム派の三つ巴の抗争となった。全体主義派は権力を確固たるものとすべく大規模な粛清を実施。これによりサンディカリスム派が人民戦線を離反し、アナーキズム派はハルケギア西部にて独立した勢力を形成した(西部ハルケギア自由地区)。
皇帝率いる白軍はポロサニアを最前線として東零からの復権を狙ったが、東零地域では帝国時代からファタ・モルガナ帝国企業がきわめて大きな影響力を持っていた地域であり、膨大な富を得るファシア人を快く思わない者たちが多くいた。そしてファタ・モルガナ帝国に対して従順なフレルナ皇帝家の感情も良いものとは言い難く、帝国時代の圧政と相まって皇帝家への支持は完全に失墜していた。また、資本主義に対する懐疑心や反感が東零で蔓延し、各地でゼネストや小規模な反乱などが発生していた。
そして、皇帝家による支配への回帰を快く思っていなかった皇帝家の分家であるアライド王家が密かに反ファタ帝派の将校などを扇動し、クーデターの準備を行っていた。そして、アライド王家は赤軍より離反した組合主義派と秘密裏に交渉し、白軍側は組合主義経済と議会制の導入、サンディカリスム派は王政の維持についてそれぞれ妥協し、サンディカリスム派は白軍と統一戦線の結成に合意した。
そして、1649年末に反皇帝派によるクーデターが起こり、フレルナ皇帝家は失脚、亡命を強いられることとなった。(アリュイステ事件)
この事件がきっかけでファタ・モルガナ帝国からの支援は打ち切られ、権益保護などを名目にファタ・モルガナ帝国軍がベリニアに進駐し、ファタ・モルガナ帝国の事実上の傀儡国であるベリニア帝国が成立する。
1650年の春に新生白軍は大規模攻勢を開始した。政治闘争や粛清によって大きく衰えていた赤軍は敗戦を繰り返した。そして、1652年始めにヴィアラチアが赤軍に対して攻撃を開始したことで赤軍は戦線が崩壊、1652年末にオレグベーリャが陥落し、トリア・セルベーリャは崩壊。小勢力のパルチザンなどが存在したものの、大半の革命勢力は降伏し、白軍の勝利を以てトリア内戦は集結した。