エミレーラ・フレナーノルナ・ソリューネ・ノイ・レレゲンノーカ | ||
Emireela Hurenahnoarna Soryuune Noi Lergennookhoa | ||
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生没年 | 1655年10月20日~1726年3月19日 | |
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生誕地 | ![]() |
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没地 | ![]() |
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プロフィール | 目次 | |
所属組織 | ![]() |
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軍歴 | 1675年~1705年 | |
異名 |
皇立海軍最高の頭脳 変人提督 |
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最終階級 | 中将 |
エミレーラ・フレナーノルナ・ソリューネ・ノイ・レレゲンノーカ(府:Emireela Hurenahnoarna Soryuune Noi Lergennookhoa)は、ファタ・モルガナ帝国の提督。最終階級は中将。同じく海軍軍人であったハルバール・ソリューネ・レレゲンノーカの実妹。
1655年10月20日、国内でも指折りの名家であるレレゲンノーカ家の末女として生を受ける。兄弟姉妹はハルバールの他に、兄に国内でのジェット機開発の先駆者となったユーゼ、姉に皇立ワーレリア軍将校のセーナがいた。
幼少期から既に常人の域を逸脱した知性と奇人度合いを有しており、学校での成績は常にトップクラスであった一方で教師の言葉に耳を傾けようとせず身勝手な行動ばかりしていた為、家の評判を失墜させるとして忌み子の様に扱われていた。
1674年にマーズカクス帝国大学Cベルタ(工学部)に入学。志望動機としては「ラーヴィランス工科大に行きたかったけど学費を出して貰えなかった」「学費無料の帝大で、興味がある研究を出来るのがMAUTしか無かった」などと微妙なものであったが、入学席次は第2位と好成績であった。筆記よりも面接や課外活動報告などの口述試験の方が苦労し、「試験なので仕方なく他の人の真似をして、受かる受験生の人格をエミュレートしてやり過ごした。人生で一番苦痛に満ちた時期だった」と後に述懐している。
1675年にマーズカクス帝大を卒業する。研究室に残りたいという希望を両親に切り出すも聞き入れられず、半ば無理やり皇立海軍に入隊させられ、訓練課程に編入された。しかし、軍の一兵卒として人間扱いされないような厳しい環境に嫌気がさしたエミレーラは何とあまりにも高難易度が故に10年に1人しか合格者が出ないとまで言われた「特別士官登用試験」に前代未聞の満点合格を果たし、士官の身分を手にするに至った。
1679年に初めての艦長職として空母「ユーヴェークリンク」に乗艦し、その後空母「マーズカクス」艦長、空母「シャラーナ」艦長などを歴任した。
1690年に皇立海軍本部勤務となり、1705年に飽きて辞めるまで戦術理論の研究を行った。元来理科系のアカデミアであったエミレーラは現場指揮よりも研究分野でこそ本来の力量を発揮できた。WW中に実用化された3Aシステムは帝大時代の彼女の古巣であるレフレスネータ研究室に原案を持ち込んだのが端緒であり、またそれを利用した艦隊戦術である空母機動艦隊ドクトリンも彼女の構想によるものである。
このように、彼女が今日の皇立海軍に与えた影響は、その一般的な評判にはあまりに似つかわしくない偉大なものである。
交友関係はあまり広く無く、友人と呼べる友人は一人だけとんでもない人が居た以外はほぼ皆無であった。
女皇の個人的な庇護が有ったが為にクビだけは免れていたレベルで素行は最悪で、士官に昇格した時期から賭博にのめり込んでおり、高い給料を受け取っておきながら度々それを擦っては有り金全部溶かした顔になっていた。