シュステーレムナ・フォルステーノルナ・ファディラート・フィオ・メルペルレーネ | ||
府:
Шsteeremna Folsteenoarna Fadiraht Fio Melpelreene
京:花畔涼香 星:鷙梁 奉婭 |
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生没年 | 1593年5月8日~1661年4月5日 | |
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生誕地 | ![]() |
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没地 | ![]() |
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プロフィール | 目次 | |
所属組織 |
ファタムジア紅心党→ 星羅共産主義者同盟→ 桜羅革命防衛評議会 |
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異名 |
共産主義の母 囚人番号174MA |
シュステーレムナ・フォルステーノルナ・ファディラート・フィオ・メルペルレーネ (府:Shsteeremna Folsteenoarna Fadiraht Fio Melpelreene)は、ファタ・モルガナ帝国の哲学者、思想家。産業革命下のファタ・モルガナ帝国にあって共産主義(府:Amzhimanae)思想を生み出した人物。過激な思想活動の末、帝国裁判所から国外追放処分を下され、放浪の末、現在の桜羅連合社会共和国の一部である憂華朝星羅に放逐された。 放逐された憂華朝においては思想を広め、革命を指揮。 最終的に桜羅連合社会主義共和国の成立に導き、初代参事会議長となった。
1593年5月8日、ファタ・モルガナ名家の一角であるメルペルレーネ家の四女として生を受ける。
末っ子であった為か甘やかされて育てられ、何一つ不自由のない幼少期を過ごした。
1611年、ラーヴィランス市内の公立中等教育学校を卒業しマーズカクス帝国大学政治経済学部に入学する。一門における彼女の代で唯一のマーズカクス帝大合格者であったが、入学後暫くすると重度のノイローゼを発症し休学、次第にソシオパスじみた言動が見られるようになり、それに伴って家族仲も悪化していった。
しかし、ある日を境に症状が治癒していき復学する。その後は何事も無かったかのように大学を卒業した。当初は大学に残っての研究職への就任を希望したが蹴られ、ラーヴィランス経済学研究所に入所した。が、半年後に退所した。退職の理由について当人は「肌に合わなかったのと、給料が安い」と語っていたとされる。その後は職を転々としていたが、ある時急に政治活動を始める。紅心党(Amzhisheft Nohv)と称する結社を組織し同志を募ったが、人望が無かった為一人も集まらなかった。彼女の主張は過激であり、宗教規範の廃止と資本家の否定弾圧、富の再分配による完全な平等の実現を訴えた。赤一色の旗を振りながら街頭演説をしていたシュステーレムナであったが、市民からは全くと言っていいほど相手にされなかった。一方でこれはファタ・モルガナ政府にとってはとんでもないことであり、通報を受けた現地警察は直ぐに内乱準備罪の容疑で彼女を逮捕する。
法廷は加熱し、最終的に最高法廷である帝国裁判所まで審理はもつれ込んだ。結果としてシュステーレムナに言い渡されたのは国外追放刑であった。
1618年、一部の重罪人に科される顔への囚人番号の刺青を施された状態で追放刑が執行され、南オリエンス大陸における当時のファ帝勢力圏であった憂華朝星羅へ送られた。
彼女の思想は、一般に資本主義という経済体制およびそれと癒着した状態にあるファタ帝の宗教界を目の敵にしたものであった。シュステーレムナは市場競争の中で目先の利潤を追求していくことは長期的には経済の衰退を招くものであると考えていた。経済活動の中で価値を生み出していないもの(=資本家や工場など)が価値の分け前を要求することで労働者の手元に残る分け前が本来あるべき量より遥かに少ないことが原因の一つとして挙げており、この是正の為に国家による管理経済の下で適切な分配を行なうべきとした。
シュステーレムナは管理経済の研究の為に、まずは資本主義経済の観察を積極的に行なった。彼女の生まれたファタ帝国は資本主義経済の最先端を行っていたため研究環境としてはある意味これ以上ないものであった。
シュステーレムナは世界史上における革命家の起源と呼べる存在であり、人格面も典型的な革命家然とした烈女といった具合であったが、その理論はファタ・モルガナ帝国に対峙するものという点では一貫していながら政治的思想と経済理論には一定の分別を付けたものであった。
政治面において彼女は資本家という資本主義の象徴を敵対視していたものの経済理論のみを語る文脈においては資本主義の否定と言うよりも、専ら資本主義が失敗を経て自発的に辿り着く先が計画経済であるというニュアンスに終始していた。イデオロギー的側面においても、世界中の資本主義国家を桜羅のそれと同様の革命によって管理経済の段階へと押し上げる世界革命論に対しては「世界革命は人々と経済の関係性の、本来あるべき段階的変遷を無視した非効率的な主張だ。全ての国家は人々の望む儘に革命国家へと自浄するものであり、そうであるべきである。」と発言、これを否定する姿勢を表明している(この点は後の桜羅政府としての方針と対立するものである)。
彼女の理論をベースにした修正経済計画論という理論は現在でも経済政策理論の一派として資本主義の内においても成立している。
自身の思想に関して非常に情熱的であり、否定した者に対してはヒートアップの末暴力的行為に及ぶことも少なくなかった。