ここには
ナルヴァウレジア連邦および前進国家のニーベルリント同盟およびガルフヴァイラ連合の歴史をまとめている。
中世以前
前1世紀、ナルヴァウレジアの主民族であるガルフ人は今日の
シャノワール共和国のポエジア地域に居住していた。しかし東から異民族が到来した事によりポエジア地域からガルフ人は鉄器の到来と同時にたたき出され、エルヴェメ半島へと北上を開始した。その後、狩猟生活で場所を転々としながら北上を繰り返し、現在のナルヴァウレジアのあるエルヴェメ半島に居住するようになった。やがて南東部で第一次シャノワール帝国が成立し、帝国は北上。314年には帝国属領のノヴェルライネ公国が建国され、その周辺にもアルバッツア公国、ガードル公国、ネッセ公国、ニーブ公国が成立していった。その後、数百年かけて少しずつ各地域間に交通網がめぐらされ、都市国家同士の結び付きが強くなっていった。
413年にはフォルベ公国とセルメ公国で、452年にはアクラッツェ公国らとフィノシア公国、479年にはネッセ公国とセルメ公国で戦争が起き、次第に半島の国家は統一されながら集約されていった。
建国から大航海時代へ
1145年、第一次シャノワール帝国がウェルタン帝の死後まもなくして崩壊すると、その機運に伴ってニーベルリント連合王国やガルフヴァイラ同盟の元となる諸地域がが相次いで独立した。1170年代から1180年代にかけて、ニーベルリントは国王による統治体制であったが、当時の王は腐敗した貴族らに政治を任せていたため、民衆からの支持を得られず、貴族の専横を許していた。そこで、当時王であったファウデル3世は改革のため諸侯を集め、宮廷会議を開いたものの、諸侯らは王に忠誠を誓わず、結局貴族たちの圧力で解散してしまう。その後、王の政策に反対する諸侯らによって結成された反王家派(後に"薔薇十字団")が実権を握った。13世紀中頃には薔薇十字団の主導により議会が設立され、貴族派が追放された後、ファウデル4世の下で王権復古運動が行われた。しかし、貴族派の巻き返しもあり、14世紀の末には再び王の権威が低下してしまう。このころ、薔薇十字団の主導の元、外洋の植民地獲得運動が活発になってきており、1396年にワーレリア大陸北部に上陸。1405年にエヴム・カッツェルハーフにバトロム城塞を建設した。その後相次いで1409年にエヴマーセル植民地にラトル城塞、1411年にはエヴム・ニーベルリントに進出した。その後15世紀前半に世界中に版図を広げたニーベルリント王国だったが、1476年にアウメア大陸に手を出した事によってバン病を持ち帰り西アウレージに暗黒の30年を生み出す原因になった。
府新戦争と王国の凋落
ワーレリア大陸北方の植民地であったエヴム・カッツェルハーフはニーベルリントにおいて帆船で南方へ行くための重要な拠点だった。ファタ・モルガナはここに目をつけこの港の収奪を試みたことによって第一次ファタ・ニーベルリント(府新)戦争が勃発する。序盤はバトロム要塞に籠城して徹底防戦したためファタ・モルガナ側の求心力が下がりファタ・モルガナは撤退した。しかしファタ・モルガナは懲りずに立て直しを行い、数年後に第二次府新戦争が始まる。第二次府新戦争ではニーベルリントは第一次同様に防戦に徹したが、ファタ・モルガナは補給線の破壊に徹したため大規模な戦闘が起こらない戦争となった。補給が断たれたことによって次第にエヴム・カッツェルハーフは弱体化していく。第三次府新戦争ではシレジエ海での海戦でニーベルリント海軍は木造戦艦「ニーベルリント」を含む主力艦の大半を沈められ決定的な敗北を喫した。第四次府新戦争ではついにニーベルリントは完全に敗北し、1510年の府新条約でワーレリア北岸の植民地を完全に喪失した。1512年、薔薇十字団のエヴァート・ヘリンヴェンによりエヴム・カッツェルハーフの奪還が試みられるが失敗に終わった。
近代化の失敗と議会制発足
1540年代、隣国シャノワール帝国の再統一によってニーベルリント連合王国はシャノワールへ帝国圏への復帰か決別かを選択せねばならなくなった。議会は荒れに荒れ狂い、結局シャノワール合流派閥の議会追放によって独立を堅持した。しかしその直後にニーベルリント王であるエンネ3世が相続人の存在しないまま病死。以降1580年代まで連合王国の王家が空位の時代が続き政情不安が続いた。政情不安が絶えない空位期に産業革命の波に乗り遅れ、1560年代に入り、シャノワール帝国に次いで産業革命が始まったものの、産業技術の基盤がそれまでなかったのと良質な隣国の工業製品に押し負けた結果経済は深刻なダメージを受けた。1552年にシルバッハ朝に王朝が交代することで安定を取り戻すものの、既に塗り替わった世界秩序にニーベルリントが付け入れる隙はなく、国内の修復のために中立を取るしかないため、1572年に中立宣言を行った。1589年、薔薇十字団のガルデス・オディアによって国内の反乱分子が鎮圧され、1591年に薔薇十字団が憲法の改正により解散すると、正式に薔薇十字団の権能は議会へ移行され、保守系の"薔薇党"として最大与党となった。
1612年、薔薇党の党首であるフェイノ・アベルノイアが暗殺されると、薔薇党内でも対立が生じて分裂し、1618年に分裂した"自由党"は議会を追放されてしまう。1625年には"友愛党"が結成されるも、1627年に"友愛党"も追放された。1629年には"愛党連盟"が結成されたが、"薔薇党"が政権を握るようになると"薔薇党"に吸収される形で消滅した。1630年代以降、薔薇党の資本家びいきな保守的、自由主義的な風潮に対抗する形で労働者の権利を重視する"労働党"が台頭し、薔薇党と対立した。薔薇党はこの流れに乗ろうとしたものの、1640年代に入って薔薇党員による汚職事件が相次ぐようになり、1654年、薔薇党は議席を大きく減らしてしまう。
二度の大戦争
1640年代に起こったアウレージ大戦に対し、ニーベルリント王国は中立を貫いたが、厳冬により大飢饉が起きた。アウレージ大戦終結後、議会は大きく労働党に有利に働き、1652年には薔薇党はさらに議席を減らした。その後1656年に労働党が薔薇党から主導権を奪い取ると、薔薇党は巻き返しを図り、再び1660年には薔薇党が主導権を握るようになった。しかし、1665年に隣国シャノワールにてランヴェリズムによる"黎明帝国"体制が成立すると、これを脅威と捉えた議会は大きく愛国主義に傾き、薔薇党と労働党は挙国一致の大連立を組んだ。1668年、ニーベルリントは黎明帝国の軍事進攻を想定して植民地に政府機能を移転することができるような準備を開始した。1675年に
世界大戦が勃発するとグランダへの奇襲のための準備として黎明帝国に急襲されたが、宣戦布告とともに一夜にして政府機能が南ワーレリア大陸植民地に移動した。占領下では激しい抵抗運動が行われ、亡命政府も有志連合諸国と共闘して戦った。1684年、ついに涙ぐましい努力が実り、ニーベルリントの首都であったカッツェルハーフを奪還した。
原子力時代
1685年に世界大戦は終結し、その後のメルセン講和条約ではシャノワール領のポエジア地域を保護領として一定期間統治し、また多額の賠償金と科学者を得ることに成功した。また大戦の終了から挙国一致の連立政権は解散され、再び薔薇党と労働党の二大政党制が始まることとなった。1686年の選挙では薔薇党が有利になり、当時の党首であるフェルベレ・アイオットが首相となった。アイオット政権は戦後の立て直しと国内開発に力を入れた。
1700年の選挙では薔薇党が勝利したものの、その後すぐに薔薇党の党首であるエルベレ・ナルキオスが世界大戦における戦争犯罪で失脚したため、1701年に選挙が再び行われて三度目の労働党の勝利となる。このときの首相はバラス・コーターであり、彼は後に首相になる人物である。だが、バラスは汚職が発覚したのちに労働党全体の汚職を暴露し、労働党は一気に支持を喪失。1704年に再び選挙が行われ、薔薇党が与党に復帰して労働党は議席をほぼすべて喪失した。労働党の喪失した議席の穴埋めを行うように自由主義的な"自由党"が台頭し、党首のヘレーズ・ファノカスは特に若者の間で支持を集めた。この後1706年に組合主義を訴えるフレルミエ連合王国の影響力の排除を理由に労働党は解散した。1710年の選挙では自由党の圧勝となり、1712年には自由党の党首であるファノカスにより調印されたセレクトル条約によって、ニーベルリントはナルヴァウレジア連邦の構成国になった。セレクトル条約ではニーベルリント王国のナルヴァウレジア加盟にあたり、ニーベルリント王国の所持していたすべての植民地の独立が決定されていた。これは、国際世論、特に有志連合諸国からは非難を浴び、また、ニーベルント国内でも反発が大きかったものの条約は調印され、ニーベルリントはナルヴァウレジア連邦の構成国となった。
ナルヴァウレジア建国後
1712年、エルヴェメ半島の諸国が統一され、ナルヴァウレジア連邦がセレクトル条約によって建国された。同年、連邦最初の選挙が行われ、自由主義を掲げる"自由連合"と社会民主主義を掲げる"福祉の解"、過激な個人主義や資本主義を訴える"先進党"など多くの政党が争い、最終的に自由連合出身のリベラルな進歩主義者で連邦初代首相となったサミュス・ライター・オルム(通称サム)が勝利を収める。サムは連邦憲章を制定したほか、教育改革や女性の地位向上など様々な政策を行ったことで国民から支持される政治家となる。1715年、ワーレリア大陸で各国の植民地で独立戦争が起こると、サムは「遠方の植民地に頼るのは独立国として情けなくないかい?自立できないと言ってるようなもんじゃないか。」と言い放ち有志連合内で外交問題となり、サムは一時的に支持を落としてしまう。1716年の選挙では、連邦内の反連邦派だった"愛国戦線"の中でも急進派の、実業家だったフェレン・パッカスがサムとの接戦を僅差で破って当選し、彼は連邦の軍事予算を大幅に削減する代わりに財政赤字の削減および社会福祉の充実化を目指した。当初パッカスは支持を集めたものの、連邦構成国の自治権力を強めて連邦を解散に追いやろうとしたため支持を失った。その後の1720年の選挙では、連邦派のアルヴァ・リーデベックが率いる福祉の解が当選して連邦存続に成功したものの、彼は同時に行った第四次シャノワール・エレイソネス戦争に多額の出費を行おうとしたため彼の派閥である社会民主主義派からの支持を失い失脚、復権を図り1723年に
アウレージ連合発足に調印するも支持が回復せず、1724年の選挙では自由連合のシャルバ・フィディが首相の座を明け渡した。
親子対立
1726年、フィディ首相は持病であった心臓病が悪化して亡くなり、その後を自由連合代表のサミュス・フィストルスが継いだ。フィストルスは1728年の選挙以降も首相として務め、1729年のアウレージ宇宙開発計画機構(ACOPA)の成立に助力し一層の西アウレージの協力体制を築くことに貢献した。1732年、フィストルスが高齢を理由に引退を表明すると、後継者選びの問題が生じた。そこで連邦内保守派の一派である自由連合系の議員らは、改革派であるフィストルスの息子で連邦下院議員であり連邦軍参謀長官経験者でもあるサミュス・ラットマンを擁立し就任させたが、フィストルスはこれに反発、シルトルエンでの銃撃事件を受け、軍事費を増やそうとするラットマンはこれに反発して親子が対立する構造となった。最終的にラットマンは軍事費を増強しない代わりに、宇宙開発費を増額する形で妥協したが、真意は軍事費の将来的な増額を図るための案だった。1736年での選挙でも続けてラットマンが首相を続けたが、1739年に起きた宇宙シャトルの爆発事故で有人宇宙開発に大きなブレーキがかかってしまった。1740年の選挙では彼の率いた自由連合は敗れ、代わりに福祉の解や先進党が躍進した。また惑星気温を上昇させ、ナルヴァウレジアの開発を推し進める"灰色開発同盟"が発足したが、新政権を設立するのに時間がかかり、政府の求心力は弱まりつつあった。
情報時代と世界企業
1740年代からインターネット技術の加速度的な向上によって、いくつかの先進的産業を提供する企業が現れ始めた。世界の急速な情報化が始まり、のちにナルヴァウレジア連邦を支配する五大テック企業はこのころに誕生し、急速に成長していった。1742年、世界初の量子コンピュータの実験が成功した。同年五大企業のうち"Entasek"はSNS"Fletin"のサービスを開始し、世界シェアトップで同じEntasekの運営するWebブラウザーソフト"Gayan"との連携を強化した。18世紀の中ごろから急激に進歩し始めた情報科学技術の進歩により、人々は生活の質を向上させたが、同時に貧富の差を拡大させていった。1750年代、五大テック企業は政治経済において大きな力を持ち始めており、連邦政府よりも発言権を持つようになっていった。五大テック企業はナルヴァウレジア連邦のインフラに浸食をはじめ、やがて中央集権体制が崩れていくようになった。1748年には商業銀行が設立され、1751年に電気、水道、ガスなど基礎インフラが民営化、1759年に憲法が改正され、議会の権限が形骸化し始めた。1760年になると、五大テック企業が連邦議会を完全に掌握する状態になり、国政は完全に五大テック企業の思うがままになった。五大テック企業は自分たちの利益のために様々な法律を作り、それを施行して市場を独占した。そして、五大テック企業が法を制定して、彼らに都合の悪いことは隠ぺいしたり、揉み消したりする傾向が出てきた。このような社会の歪みは次第に大きくなり、各地で反発が起き始めるようになる。しかし、五大テック企業の支配下にある政府はそれらの暴動を鎮圧し続けた。1764年、これらの動きを受け五大テック企業は教育に侵入し民衆の考え方そのものを変える暴挙に出た。これまで各州で認められていた公立学校と大学を五大テック企業が支配し、その傘下に組み込んだのである。この政策によって民衆の思想や考え方は変えられてしまった。
その後、五大テック企業は次々と新しいものを作り出していった。五大テック企業が力を入れ始めたのがナノテクノロジーの分野であった。ナノテク分野の研究には莫大な資金が必要とされ、多くの研究者を雇わなければならなかった。そこで五大テック企業は多くの資金を投入し研究を進めた。ナノマシンと呼ばれる小さな機械を作ることに成功した。それは体内に入ると身体の中に入り込み、人の細胞に取り付き増殖していく性質を持っていた。これによって、人は体内にマイクロチップを埋め込む必要がなくなったのである。ナノマシンは遺伝子を組み替えることによって人の意思を読み取ることができるようになった。こうして、五大テック企業はナノテクノロジー分野の独占に成功した。この後、五大テック企業は宇宙開発事業に乗り出した。それまで宇宙事業は各国の民間企業に任せていたが、五大テック企業が参入したことによって、これまでの10倍近い費用をかけられるようになり、ロケットや宇宙ステーションなどの大きなものを作れるようになった。さらに、通信技術も五大テック企業が開発した独自のものを使うことになった。これにより、ファイブレン通信衛星を使ったインターネットが実現した。これによって、世界中の情報は全て五大テック企業の元に集まるようになり、全ての情報が筒抜けの状態になってしまった。その後、五大テック企業はさらに力を付けていき、世界中の資本主義国家に取り入るにネットワークを持つ大企業へと成長していき、その規模は国を超えた巨大なものとなった。やがて、五大テック企業はこの世界の全てを支配しようとし始める。そして、彼らは人類を管理するために全世界の国家を統合を試みる。
そのために作られた組織が「国際企業連合(VHea-Korf.)」という。1770年、この「国際企業連合」は誕生し、世界の支配者となった。
黄金郷の終焉
しかし彼らの体制は万全とは言えなかった。労働組合による組合主義国家の排除に失敗し、宇宙開発も莫大な投資をしたのにもかかわらず利益率は悪い状況が続いた。また、人間レベルの性能を発揮する予定の人工知能の開発計画が大幅に遅延し、次第に本社政府はAI産業において遅れを取ることにもなった。
その後も数々の失敗が続き、1800年代に経済情勢が悪化する中、「国際企業連合」内の権力争いが激化し、内部分裂の危機を迎えた。
1808年、軋轢の蓄積した五大テック企業はついに完全に仲たがいを起こし、「国際企業連合」の本社であるナルヴァウレジアを解体するところまで議論が白熱した。民衆らも、この不祥事続きで求心力が落ち始めておりで楽園の夢から醒めはじめた。1810年の雪降る晩秋、ついにアドポペル社の社長が暗殺されたことに端を発した経済の混乱は、一週間もたたないうちに連邦を破壊しつくした。出自不明の核攻撃によって首都は消し飛び、同様の核攻撃によってEMP連邦中の電源がシャットダウンされ生活インフラは破綻。世界から突如として黄金郷は姿を消した。まもなく無政府地域となった
グランダ共和国から南方を侵攻され、それ以外の大部分は何もかもが失われたのである。
『救星教団』と『感染地域』と『ユーレリアレージ』
黄金郷の崩壊以降のナルヴァウレジアの情報は、滅亡したことは確実ではあったものの、詳細は長らく世界中が混乱に陥ったため存在しなかった。しかし数年後、かつてナルヴァウレジアがあった方向から「人ならざるもの」が現れるようになったのだ。その人間だったものであろう肉塊は静かにこちらに近づき、そして襲ってくるのである。当初はその姿と攻撃性故に討伐対象とされていたものの、それが元人間の可能性が高いとされ、更にはわずかな知性も持ち合わせていることがわかった。まずその身体能力は異常なまでに高く、並の兵士では太刀打ち出来ない程だった。しかも個体によってはその肉体を変形させ、様々な武器や防具を作り出すことまで出来るという。さらに厄介なことに、初期症状は風邪に似ており、次第に会話能力は著しく低くなるが身体能力は飛躍的に向上していくという症状であることがのちに発覚した。この未知の感染症はおそらくナルヴァウレジアのナノテク技術が原因ではないかと推測されているが、詳細は研究がされ続けている。だが感染経路は不明であり、感染者との接触により移ると考えられているため、ひとたび街や村に入れば隔離されてしまうことがほとんどであった。一方で完全に滅亡したと思われたナルヴァウレジアも、各地に固有のイデオロギーを持った多くの都市国家が乱立しており、それらによる戦国時代の様相を呈していた。
最終更新:2023年08月07日 00:10