紀元前より前の古代シャノワール人はトリア平原西部に点在する士族国家として存在していた。言葉は持つものの、文字を持たず、定住して農耕することで細々とその命を繋げていた。たびたび、遊牧異民族の流入があったものの戦士の文化による原始的な徴兵制度を持ち合わせていた古代シャノワール人はそれら襲撃を幾度も跳ね除けていた。 緩やかに発展を続け、豪族が王として昇華されつつあった古代シャノワール人の輝かしき黄金期は突如として終焉を迎える。東方よりの異民族の大規模な流入、 トリア人の大移動 が発生したのである。シャノワールの戦士たちは集落の女・子供をトリア人の侵略から守るために立ち上がった。一度剣を抜いたなら、蛮族は引き返した。二度剣を抜いたのなら、蛮族は二倍の数で襲い掛かってきた。三度剣を抜いたのなら、男たちが集落に帰ってくることはなかったと古代シャノワールの歌の一部にあるように、当初は流入を抑え込んでいたものの次第に劣勢になり、最終的には故郷を追われてしまったことが伺える。 トリア人に押し出される形で古代シャノワール人は温暖な西部トリアを離れ、寒冷なシャノワール地域へ流入した。シャノワール地域は当時、栄華を誇っていたユーレリアレージの領内であり、流入にはそれ相応の代償を支払うこととなった。シャノワールの戦士たちは幾度も幾度も打ち倒され、死のうとも家族の安全のために果敢に戦い続けた。最終的には古代シャノワール人の流入は現ポエジア地域にまでおよび、ガルフ人の移動の原因を作り出した。
おおむねIU-100前後には移動を完了したシャノワール人はシャノワール地域にてかつての西部トリアと同じような士族国家を形成する。かつてと違い、寒冷かつ農作物の育ちにくい環境はシャノワール人同士の戦争を誘発させた。シャノワール人は限られた食料をめぐってたびたび戦争状態に陥った。そんな中頭角を現したのはシャノワール北部、ギーエンの王 カルスト一世 である。当時は王太子に過ぎなかった齢18のカルスト一世は戦士を率いる将軍としてシャノワール各地を平定して回った。その征服活動を支えたのが 魔女エルナ であった。エルナはカルスト一世およびにシャノワール人に対して知恵を与えた。森を焼き尽くす火攻め、戦士の集団突撃、騎乗突撃など魔女の知恵は戦術分野だけに留まらず、当時、平面と考えられていた世界を「巨大な岩の塊」であると惑星であることを示唆し、また太陽を「巨大な炎」であると恒星であることでさえも示唆した。当時のシャノワール人には決して知りえなかった戦術・天文学・生活雑学・数学・衛生を説き、シャノワール人の発展に寄与した。また、当時ユーレリアレージ文化以降への過渡期にあったシャノワール人は「文字」という概念に触れ、そういった魔女の知恵と合わさって第一次シャノワール帝国形成への土台を形成した。エルナの支えの下、カルスト一世はIU-10年、ユーレリア遠征を開始する。高度に組織化されたシャノワール人戦士たちはユーレリア奥深くへと侵略し、略奪の限りを尽くした上でユーレリア崩壊の原因の一つを作り上げた。
ユーレリアレージを征服したシャノワール人は次にユーレリア文化の積極的受容を行った。もともと文字を持たない民族であったシャノワール人は文字を獲得し急激に文明レベルを引き上げることに成功した。また、 皇帝(エイリル) と シャノワール人の皇帝(グリューツェン) の統合が行われ、ユーレリアレージはシャノワール人によって統治されるようになる。首都を現ポエジア州州都のリリアに移動し、グレディンス、メルセン、シルトルエン、聖地エルニエの四都市にそれぞれ 皇帝の使徒 と称される執行官を派遣し、帝国全土のより強い二重皇帝支配を実現した。支配領域は現グランダ地域からエルヴェネ半島南部、シャノワール地域、エルナ川を越えセリギエベーリャまでを支配する広大な領域におよび、その時代のシャノワール並びにユーレリアレージを 第二ユーレリアレージ 、もしくは 侵略王朝ユーレリア 、 ノーレン朝ユーレリア とする。 第二ユーレリアレージにおいて奴隷制と進歩は大いに奨励された。ワーシイワ人やエルヴェネ半島北部のガルフ人、トリア人などを奴隷として労働させ、それで得た穀物をパンに加工。パンは全帝国臣民に最低限の量を配給するという原初の社会保障システムのようなものが形成された。また、魔女エルナの個人的趣味から始まった、大規模な集会会場、後に アエネ と称される原始的なコンサートホールで催される定期的な剣闘技や吟遊詩人の歌謡舞踏は帝国臣民の娯楽となった。 進歩面では国を挙げての錬金術師の支援が行われた。大科学時代と称される時代を経て薬学や医学の大きな進歩を迎えることになる。この時代のユーレリアでは現代に準ずる衛生環境であったと推測されており、錬金術師によって引き上げられた薬学水準とルニエ教の主神であるエルナの不衛生への嫌悪からくる、徹底的な衛生保護の戒律が相まってそれを生み出したとされているが詳細は不明。なにはともあれ、この時代の西アウレージは世界において最も豊かで最も平和な地域であったと後に シャノワールの独裁者 にして作家、詩作家の クレマンス・ヴィーリル が自身の一作にて評価している。
ウェルタン帝死後のシャノワール帝位を巡った問題で第一次シャノワール帝国は崩壊した。以降400年程シャノワール地域ではシャノワール系小国家の相互戦争状態が続き、1540年の第二次シャノワール帝国成立まで続く シャノワール400年戦争 へと突入した。
15世紀末、ニーベルリントに続きアウメア植民を推し進めてきたベルニキア王国はニーベルリントと同様の失敗を犯す。それはバン病のアウレージ大陸への持ち込みである。当時、400年戦争下、アルダーヌ戦争(ポエジア=ノルトライネ戦争)の真っ最中であり、それは農作物生産量が低下していたシャノワール地域への大きすぎる一撃となった。1500年までに50万人ほどのシャノワール人の命を奪ったバン病のパンデミックは後のシャノワール統一戦争の遠因となった。
1502年に成立したベルニキア連邦は着実に勢力を伸ばしつつあった。南北グランダ、エレイソネスとの競争に勝利しリューゼル海交易を掌握したベルニキア連邦は次なる目標として400年戦争の終結とシャノワール統一を掲げた。時のベルニキア王にしてベルニキア連邦共通代表であったフレドリューク5世の 大剣政策 によってベルニキア連邦軍は国力不相応の30万人の常備軍を有する超軍事国家へと変貌を遂げた。また、 フレドリューク改革 と称される一連の「上からの革命」によってユーレリアレージ時代より続いた封建制度と各種旧法を軒並み一掃すると、新たにフレドリューク経典を中心に近代的な法整備を推し進めた。その過程でベルニキア国内で第二ユーレリアレージ時代より特権を享受してきた騎士階級は特権を取り上げられ、一定の水準まで財産や土地を没収された。騎士階級の凋落によってベルニキアにおける絶対王政への基盤と、シャノワール帝国圏における反ベルニキア風潮を生みだしたといえる。
1535年4月30日、帝国勅令「海禁令」に違反したとしてポエジア=ユーレリア帝国、大ミレドニア公国、フレドニア伯国、北海連合国が連名でベルニキアに対して懲罰戦争を宣言、同日、ベルニキア連邦は同盟関係にあったノルトライネ公国と共に ユーレリアレージ (シャノワール第一帝国)からの独立とシャノワール第二帝国の成立を宣言して応戦。ここに周辺国を巻き込む形で西アウレージ近世最後の大戦争である シャノワール統一戦争 が勃発した。戦争はシャノワール利権の獲得と保持をもくろんだ諸外国を多いに巻き込んだ。トリア帝国を始め、エレイソネス王国といった大国もまで統一戦争に介入することとなり、特にエレイソネス王国は統一シャノワ―ル成立への危機感から当時、西アウレージ最高水準であったエレイス市民軍4万人を派遣。シャノワール人統一国家の成立を阻害する目的でベルニキアに対し宣戦布告した。ベルニキア連邦はエレイソネスの介入を想定しておらず、突然の宣戦布告と市民軍4万人の派遣はベルニキア参謀本部を大いに困惑させた。ベルニキア連邦とノルトライネ公国合わせ35万人弱の第二帝国陣営に対し、反ベルニキア陣営は市民軍合わせ50万人に届こうとしていたのである。東部シャノワール諸国の早期撃破による、反ベルニキア陣営諸国の地上軍の各個撃破という事前戦略は開戦時から半ば破綻しかかっていた。
1535年13月、シャノワール東部シルトルエンにてベルニキア連邦軍20万とミレドニア・フレドニア連合軍8万が激突(シルトルエンの戦い)。ベルニキア連邦はこれに圧倒的勝利、続くチアリー・ミレドニアの戦いにおいてミレドニア軍6万を殲滅するとひとまずは東部シャノワールの戦線を安定させることに成功した。
1536年5月、ポエジア帝国軍20万がフィリア地域よりベルニキア首都、ベルニカへ進軍開始。これを迎え撃つ形で行われた 第一次ネルヴェル会戦 は両軍合わせ50万人に届く大規模陸戦となった。両軍ともに大損害を被り、痛み分けに終わったこの戦闘によってシャノワール統一戦争は膠着した。ベルニキアは軍の再建に数年を要することとなり、ポエジアも戦争勝利のためにエレイソネス市民軍に頼らざるを経ない状態となった。
1537年8月、満を持してエレイソネス市民軍がシャノワール南岸へ上陸。同年9月にはストレンベレ要塞を包囲し、着実にベルニキア本土への侵攻を行っていた。
翌1538年2月、ストレンベレ要塞が陥落。市民軍は次の目標としてベルニキア連邦の首都にして大要塞、ベルニカを標的に定めた。ベルニカへの侵攻を抑える目的で行われた5月のエルツェンの戦いにおいて、ベルニキア軍8万はエレイソネス国王率いる市民軍4万人に敗れ敗走した。7月には市民軍のベルニカ包囲が開始された。たびたび包囲解除のための市民軍への攻撃が行われたもののそのいずれも包囲状態を解くことはできなかった。
1538年14月、ベルニカ包囲解除のために連邦軍騎兵隊は市民軍後方兵站部隊への攻撃を開始。物資不足状態に陥った市民軍を包囲するような形で連邦軍12万人がベルニカへの進撃を開始した。それに対し、市民軍は包囲殲滅されることを恐れ、ベルニカからの撤退を開始した。一連の戦いは ベルニカの奇跡 とされ、38年7月から39年1月にかけての約半年もの間包囲下にあったベルニカを解放した連邦軍はベルニカ市民よりの熱烈な歓迎を受けた。
39年3月、撤退するエレイソネス市民軍4万に対し、12万のベルニキア連邦軍が追撃戦を開始した。これが 第二次ネルヴェル会戦 である。前年のエルツェンの戦いがトラウマと化していたベルニキア連邦は敵の数の3倍の軍を充てることで、エレイソネス市民軍のその圧倒的な規律と軍質に対抗しようとした。結果として、ベルニキア連邦軍は勝利。この戦いを通してエレイソネス国王が戦死し、反ベルニキア陣営はベルニキアとの停戦へと動き出した。その勢いのまま8月にはポエジア首都、リリアに入城した。それによって反ベルニキア陣営は瓦解し、シャノワール統一戦争は50万人のシャノワール人の死者を出し、終戦した。統一戦争は40年1月の ベルニカ講和条約 と ユーレリアレージ解体宣言 を以て終結することとなる。
1620年の シレジエ海戦争 で当時、後進工業国であった本京帝国に対し本京海海戦で敗北するとシャノワール第二帝国のファタ・モルガナ帝国に対する劣勢は明らかなものとなった。本京海海戦で当時最新鋭であった装甲艦2隻とその他軍艦を多数喪失した 全洋艦隊 (Altzēnovhēroze)はシャノワール第二帝国の国力全てを傾注した国家プロジェクトによって再建されることとなる。また、本京帝国に対し不利な条件での講和を締結した皇帝と選挙貴族らへの国民の不満は最高潮に達した。1622年、 第一次シャノワール革命 が勃発。帝立ベルニカ・グリューツェン・フレドリューク大学の学生を中心とした アーニシェルヴェリエ運動 を発端にシャノワール全国で民選議会の開催を求める運動が盛んになった。一時は警官隊と革命運動に参加する国民の間で一触即発になるものの、オレフェンベレにて国民による自治政府である評議会結成の予兆が見受けられると皇帝ユーリ3世は民選議会の開催と、選挙貴族制の将来的な廃止を約束した。( 黒鉄宮約諾 )これにより1625年、シャノワール第二帝国において初の男性普通選挙が実施され、先進国の中で長らく 絶対君主制 を固持していたシャノワール第二帝国は 立憲君主制 へ移行した。また、かつての制限選挙の名残である選挙貴族は貴族院にそのまま引き継がれ、新設された臣民院たる下院と貴族院たる上院の二院制でシャノワールの国政は行われていくこととなった。
1542年以降、シャノワール第二帝国はトリア帝国を仮想敵国として常に見据え続けていた。トリア主要地域であるラッシュレドニエを新ミレドニアとしてシャノワール 帝国本土 (Lou Bersirine)に編入したため、常に中零地域では軍事的緊張関係にあったためである。嘗てのトリア帝国の首都、アレストベーリャを帝国の版図に収め続けている限り、いずれトリア帝国との決定的な衝突は避けることはできなかった。内実政策によって積極的拡大を控えたシャノワール第二帝国は外交によってトリア帝国との衝突を避けようとした。グランダ統一への協力の見返りとしてのシャノワール=グランダ間の友好関係、対グランダ開戦時に支援することを約諾した上での水面下でのワーシイワとの準同盟関係、ワーレリア利権の妥協と工業製品の積極的輸入によるファタ・モルガナ帝国との友好関係など、 三枚舌外交 を展開することでトリア帝国を外交的に孤立させ、シャノワール帝国本土を戦火から遠ざけようとした。結果的に1600年までの約50年間は西零地域に「おいては」シャノワールは一切の戦争状態に巻き込まれることなく、国内の工業化に注力することが可能だった。
ユーリ3世の即位によって、 世界政策 が実行に移されるとシャノワール帝国は今までの不拡大方針を撤回、積極的な帝国主義的拡大を行うことでファタ・モルガナ帝国に代わる新たな覇権国家、世界帝国に成り上がろうとした。手始めに1600年の 第一次シャノワール=エレイソネス戦争 でトリトルエ海峡を獲得すると、ワーレリアにおけるファタ・モルガナ帝国利権尊重を撤回、大ワーレリア植民地の成立のために請求権を作成、ファタ・モルガナ帝国との決定的な対立関係に移行する。同時期に、国境部での領土問題がくすぶり始めていたグランダ帝国とも関係が悪化。シャノワール=グランダ、シャノワール=ファタ間の友好関係が崩壊すると従来のトリア帝国の国際的孤立構造は反転して、シャノワール帝国の孤立構造へ移行する。トリア帝国はグランダ帝国と同盟を締結。また、ファタ・モルガナ帝国の事実上の経済植民地となっていたため一定の関係性を帝国と保つことに成功していた。これにより 府・斗・求 の三大国による シャノワール包囲網 が成立する。
1640年、シャノワール帝国ならび臣民院は予防戦争としてトリア帝国に対し宣戦布告した 。これによりグランダがトリアとの同盟関係に基づきトリア側で参戦。ここにアウレージ大戦が勃発する。シャノワール帝国と古くからの準同盟関係にあったワーシイワは、ワーシイワ内戦から未だ立ち直れていないことと、内戦においてグランダからの支援を受け取っていたことの二つの要因が重なり、アウレージ大戦においては中立を宣言した。
セルヒャード戦線の敗北に伴う海上封鎖と、前年より続くカルガンの冬の結果深刻な食糧不足に陥ったシャノワール帝国政府に対して、シャノワール国民は次第にパン・自由・平和を求めるデモ行進を行うようになる。トリア第一革命に合わせて東部戦線にて行われた、乾坤一擲の 1643年攻勢 も失敗し、オレグベーリャ合意の軍勢がシャノワール主要産業地帯に迫ろうとしていた1644年夏、リリアの主婦のパンを求めるデモ行進を発端として即時休戦、自由選挙の開催を求めた 第二次アーニシェルヴェリエ運動 が発生。9月には反戦運動は首都ベルニカにも波及し、ベルニカ黒鉄宮にはパンと自由と平和を求める民衆が日々殺到していた。暴徒化した一部の民衆はベルニカ、キリメイティア区にて評議会自治を宣言、現地の貴族自治体を打倒し、食糧庫より食料を奪取すると皇帝はアーニシェルヴェリエ運動の鎮圧を決意。一個大隊を差し向け、キリメイティア区の評議会自治連合に対し武力鎮圧を敢行した。のちに 9月35日事件 と呼称される一連の戦闘は一般市民200人の死者をだす凄惨な戦闘となり、これが火種となりシャノワール国民の不満が爆発。帝国各地で貴族行政が打倒され、評議会政府が樹立されるようになる。また、前線兵士においても「反皇帝」「自由」をスローガンに掲げる評議会が自主的に結成された。前線兵士の抗命と突撃拒否が相次ぐ中、10月14日、帝国第二の大都市であるオレフェンベレにて貴族自治体が打倒され、オレフェンベレ自由臨時政府が結成されると10月37日に身の危険を感じた皇帝は財産を可能な限り汽車に積み込んだ上で、ニーベルリントへ亡命したことでシャノワール第二帝政が終結し、 シャノワール第一共和国 が成立した。臨時大統領に就任したルフェール・アリトーエンは平和への大統領令を発令した。のちに 第一号大統領令 とされるそれは前線での戦闘停止、反撃以外の攻撃の禁止と休戦の準備ともいえるものであった。11月11日、共和国政府はファタ・モルガナ帝国に対し休戦の打診を行う。 X月X日、東・西・エレイソネス・ワーレリア全戦線において休戦が履行され、4年間にも渡るアウレージ大戦は終結した。
大戦の終結と共に1644年厳冬がシャノワールを襲い、再びシャノワール国内では飢饉が起こる可能性が高まった。共和国政府は資本家・地主優先の動員解除および復員、救済の政策を進めることで経済的崩壊と国内の深刻な食糧・燃料不足からの回復をブルジョワジー中心に推し進めようとした。それによって半ば見捨てられる形となった労働者・小作農は飢えと寒さに苦しむこととなり、地方部ではプロレタリアートを中心に身売りや人肉食が横行し地獄の様相を呈した。13月20日にプロレタリアートの支持を元に、 全シャノワール労働組合連合 主導の全国ストライキが行われると、共和国政府と全沙組合連の蜜月は終了し、シャノワール第一共和国は両勢力による 二重権力状態 へ移行することになる。
1645年に入るとシャノワールにとっては屈辱的な条件であるカッツェルハーフ講和条約の締結を急ぐ共和国政府の人気が失われつつあった。それと入れ替わるように全シャノワール労働組合連合の支持率が高まっていった。1644年冬より続くストライキによって国内が麻痺し続けている現状、国外の問題を早急に解決することを望んだ共和国政府が半ば妥結する形で講和条約の締結を急ごうとしていたのである。講和条約の内容は極めてシャノワールにとって屈辱的であり、 東部グランダ、ヴィアラチア、西部トリアの割譲及び請求権放棄、西エルナ、西ポエジア両地域の半径50kmにおける非武装化、650億シャノワール・ヴィエラの12年払いでの賠償金支払い、陸海軍合わせ合計10万人以内の軍備制限、戦車・航空機・毒ガスの開発及び保有禁止、排水量8000t以上の艦船の保有及び建艦の禁止、海軍艦艇総排水量60000t未満に制限、動員の禁止、グランダ・トリア国境より100km以内の要塞建設禁止、シャノワール南岸の沿岸要塞建設禁止 と到底受け入れられるものではなかった。特に賠償金に限ってはシャノワールの1638年時国家予算の約20年分に相当し、到底12年間で支払えるものではなかった。
国内では条約締結に反対するデモやストライキが頻発し、一部の国民は継戦を訴える状態であり共和国政府の弱体は目に見えて明らかであった。1645年4月にはストライキはゼネラルストライキに発展し、議会での全シャノワール労働組合連合の発言権は日に日に増大していった。5月のベルニカでの警官隊と労働者の武力衝突をきっかけにシャノワール国内での治安は完全に失われた。全シャノワール労働組合連合は社会主義革命を宣言し、1645年5月16日早朝世界初の組合主義国家、 シャノワール・セルベリエ共和国の成立 が宣言された。それを受け入れられない共和国政府はポエジアに逃げ、国家転覆を目論む反乱軍の鎮圧を宣言、ベルニキアのセルベリエ共和国政府とポエジアの共和国政府による内戦状態に突入した。
ポエジア州古都リリアに政府機関を移設したシャノワール第一共和国は、ベルニキアを中心に蜂起したシャノワール・セルベリエ共和国との対決姿勢をあらわにする。反革命を標榜し「自由主義を守るための聖戦」を訴えることで諸外国の支援を受けようとするも失敗、逆に同じ反革命を謳う旧帝国軍の不信を買うこととなり革命への抵抗力は幾分か失われてしまった。旧帝国軍上層部と共和国臨時軍の白軍勢力と武装した民間人と革命に賛同する旧帝国軍兵士からなる革命衛兵を中心とした赤軍勢力によってシャノワール国内で内戦が行われる。6月3日、革命衛兵によって古都リリアが陥落し、共和国首脳部が捕らえられるとシャノワール内戦は終結。わずか二週間で終結したことから二週間戦争との異名が付けられた。
二週間戦争後、国内から「革命の敵」を一掃した全シャノワール労働組合連合は正式な社会主義国家の樹立に向けた準備を進めた。7月にはシャノワール・セルベリエ憲法評議会が開かれ、男女普通選挙、組合管理経済、階級撤廃を謳ったセルベリエ1646年憲法の発布へ向けた諸調整が行われた。全体社会主義を標榜する組合過激派が急激な社会変革な中での混乱下で「財産の再分配」「プロレタリア独裁」を謳い、ブルジョワジーを虐殺するなど過激な行動をした。特に1645年6月28日に行われた、旧帝国財閥の一たるロベリア社役員12名を同時多発的に襲撃し、リンチ殺人を行った 6月28日事件 は半ばテロリズムのような形で行われた凄惨な急進的革命行動であり、過激派によって行われる「赤色テロル」は却って第二革命の勢いを削ぎかねないと全沙組合連は危惧していた。7月1日の全沙組合連の議会ともいえる、シャノワール労働組合最大評議会にて「人民財産保護臨時法」が賛成多数にて可決されると、資本家階級および旧貴族階級のシャノワール人は身柄の安全を条件に全財産と生産手段、土地の没収を行った上で国外追放が行われた。
この時国外追放されたシャノワール人はのちに白系シャノワール人と呼称され、国外にてシャノワール臨時政府を結成しセルベリエ連邦に対する非難を繰り返し続けた。シャノワール臨時政府は複数存在し、それぞれ君主主義派、自由主義派と方針が異なりたびたび対立していた。ランヴェリズム体制成立後は正当組合主義派の赤系シャノワール人もその反対運動に参加することになる。
1646年2月1日にセルベリエ1646年憲法が正式に発布されると、シャノワール・セルベリエ共和国は「革命の完遂」を宣言し、シャノワール・セルベリエ共和国の解体と細分化を行い、新たに30,000の地域セルベリエからなる連邦国家、 セルベリエ連邦 の成立を宣言した。
1646年2月1日に成立したセルベリエ連邦であったが、その道は必ずしも平坦なものではなかった。組合管理経済への以降への抵抗、連邦軍の高級将校の反発、全体社会主義者が叫ぶ「第三革命」への圧力など様々な課題が残されていたのである。積み上がった諸問題の中、計画より遅れがちな管理経済への移行により、セルベリエの戦勝国に対する賠償金支払いはたびたび遅延するようになった。セルベリエ領内での生産量は年度内生産計画のわずか50%ほどにすぎず、国内需要を満たすことさえ苦労する有様であり、とてもではないが賠償金を円滑に支払うことなど不可能であった。 1650年にカッツェルハーフ講和条約にて定められた領土割譲規定違反を名目にグランダ帝国がセルベリエ領内への進駐を開始した。セルベリエ連邦はこれを「革命を守るための戦争」とし、戦時特例法として急速に組合管理経済への移行を強制した。革命衛兵を動員し、セルベリエ西部ではグランダ帝国軍を撃退し、 革命防衛戦争 はセルベリエの勝利に終わった。
戦争後、戦勝国は革命衛兵を軍事組織と認定、カッツェルハーフ講和条約の軍備制限条項に基づく解散を命じた。セルベリエ連邦はそれを受諾し、第二革命以降長らくセルベリエ・シャノワールを守る盾として活躍してきた革命衛兵はその任を解かれた。が、実際のところは地下に潜伏しただけで4週間以内の動員が可能であり、セルベリエ連邦は陸軍総数100,000人ながらも4週間以内に1,000,000人以上の軍隊を展開することが可能であった。
1652年4月、国内経済を管理経済に統合し、経済を掌握しきったセルベリエ連邦は新たなる経済政策として 第一次五か年計画 の始動を宣言した。農業が長らく大土地所有者制であり後進的であったシャノワールの農業を是正するものとなった。地主制を廃止し、地主の所有する土地を農業協同組合の管理下におき、組合管理下の土地をかつての小作農、 共同農(Refey Qaul,レフェイカール) に均分することで農業の集団化を推し進めた。また、第一次五か年計画においてセルベリエ連邦は農業の工業化を推進し、シャノワールの豊かな工業力の下生産される農業機械を農民に対して格安で販売した。これにより農業の集団化・工業化を推し進めたセルベリエ連邦は1630年に60%であった食料自給率を1670年までに105%にまで引き上げることに成功した。
1657年5月、 第二次五か年計画 が始動。人民車構想の下、自動車産業をはじめとした重工業への注力が行われた。リューゼル海北岸工業地帯の再開発を行い、より効率的な大規模工場を建設することでセルベリエの基礎工業力を押し上げた。また、人民車構想に付随して国内高速道路、 カルノード(Kalnord) やエルナ川上流人民ダム群などといった大規模な公共事業を行い、国内インフラの整備を行った。1660年には失業率は5%を下回り、以降セルベリエの課題となる労働人口の不足が散見され始めた。
1662年、1668年に 第三次五か年計画 、 第四次五か年計画 が始動され、それぞれ民需分野軽工業、鉄道インフラ・造船業の拡大にフォーカスが当てられ、よりセルベリエの工業化を推し進めた。数度にわたる五か年計画の成功の結果、セルベリエ連邦は非常に重い賠償金を支払いつつも経済的成長を安定して続け、1670年までに列強とまで言える国力にまで上り詰めた。1640年時工業生産高を100%とするなら1670年には160%にまで成長した。セルベリエの洗練された工業化はのちのランヴェリスタ・シャノワールの西~中部アウレージを征服しうる国力の基礎となった。
1648年1月11日、国際的な左派・社会主義運動を支援するための組織として 第二ウェルテニエン (Wēlltzenien)を形成した。1648年3月3日、 第一回第二ウェルテニエン大会 がベルニカにて開催されるとセルベリエ連邦は 世界初の社会組合主義国家として世界の労働者を牽引する立場にある と宣言、平和的かつ漸進的に世界革命を推進していくことを大々的に公言した。その一環として当時、社会主義革命の真っ只中にあったトリアに対して 国際師団 と称し、義勇兵を派遣することを世界各地の 社会主義者・組合主義者・無政府主義者 に求めた。厳しい軍備制限下にあったセルベリエ連邦も水面下で1個師団ほどの民兵をトリアに派遣したとされている。
世界革命宣言が1650年の革命防衛戦争につながったとされ、同戦争は一種のグランダの反革命行動の一つとされている。
第四次5か年計画 が概ね順調に進みつつあった1670年3月。憲法上、 連邦大統領 の任期が10年と定められているのにも関わらず初代連邦大統領の ガリエ・フューイ は革命の功績をたたえられての終身連邦大統領と定められていた。ガリエが健康な内はまだ機能していたものの、老齢のガリエは1669年以降度々、癌によって公務が満足に行えない状態が続いていた。故に 労働組合最大評議会 ではガリエが生きているうちにガリエの後継者を決定し、社会組合主義的民主主義体制への円滑な移行を求める声が高まっていた。次期連邦大統領の候補者を決める組合内投票がセルベリエにおける党大会に当たる労働組合最大評議会にて行われることになった。
候補者は6名おり、 漸進革命論 や 新訂組合主義論 を著述し、セルベリエの理論的指導者になりつつあった若き天才の フレドリューク・ルゥ・ヴェレントレイア (Fredryuk lou Vherentreia)、 産業社会主義第三革命 を強く訴える極左ブロックの ウェールズ・バニアス (Werze Banius)、ハルケギア自由地区に義勇軍として参加し、直接民主制労働共同体を目指す無政府主義者の イリア・ハズバーハ (Iria Husbacha)、ガリアの正当後継者として従来の政策を維持しようとする保守派の ララ・クィナス (Rara Quinus)、人民による資本家の支配体制を夢見る理想主義者・社会自由主義者の現経済人民委員の ガルフ・オーウェン (Gruf Owen)。
そして、 統合加速主義論 を著述し、社会組合主義体制のさらにその先の共産主義体制を目指す作家の クレマンス・ヴィーリル (Kremans Vhirire)がいた。
1670年3月3日、第5回ウェルテニエン大会に合わせ労働組合最大評議会が開催された。当初は第四次5か年計画の達成報告と計画修正の議題に始まった。ベルニキア、ポエジア、ミレドニア……主要産業地域の進捗報告が終わり、ノルトライネ、フレドニアなど地方の計画修正が話し合われる中、後継者について切り出す者は誰一人としていなかった。
1670年3月7日、この日初めてガリエの後継者たる二代連邦大統領の公選候補者を決める会議が行われた。当初、ララが優勢であり保守派を中心にガルフやイリアなどといった穏健派が候補者として選ばれると誰もが思っていた。14時33分、一つ目のイレギュラーが起こる。互いに反革命主義者として非難し合っていたウェールズとクレマンスが 極左人民連合ブロック として協力することを宣言。両者合わせ予想される得票数はガルフとイリアを上回り、最も票を得ると考えられていたララの30%に迫るものであった。15時8分、第二のイレギュラーが発生する。ララがフレドリュークとの論争に敗れたのである。これにより穏健派層は分裂。まとまった行動が困難になったことで一部の組合議員層は極左人民ブロックへ支持を切り替えつつあった。セルベリエの独裁国家化を恐れたララはフレドリュークとの妥協を求め、新たにフレドリュークを中心にララ・イリア・ガルフの 穏健派ブロック を形成し極左人民ブロックに対して対抗した。
16時ちょうど。投票が行われ、17時30分に開票が行われた。得票数上位よりフレドリューク、クレマンス、ウェールズ、イリアと結果が出た。人民の代議員として比較的民意が見える最大組合評議会において6割の得票数を得たフレドリュークは5月1日に行われる全人民連邦大統領選に向けて大きく勢いをつけることとなった。
下馬評に反して5月1日の全人民連邦大統領選挙にクレマンス・ヴィーリルが勝利したことによって成立したクレマンス体制下のセルベリエ連邦において真っ先に行われたのが敵対派閥の粛清であった。第一次ベルニカ裁判に始まる一連の見世物裁判によって左・右派組合主義者、無政府主義者、国家組合主義者、その他ランヴェリズムに懐疑的な赤軍関係者など多くの人々が反革命罪やスパイ容疑で死刑もしくは懲役刑となった。同時期のセルベリエでは「布団の中でも生きた心地がしない」という言葉が残されるほどの苛烈な恐怖政治が執り行われていた。第三次ベルニカ裁判終了と赤軍の粛清の完了をもって一連の 大粛清 は終了した。大粛清以降のセルベリエ連邦は シャノワール黎明帝国 と称される。
シャノワール=フレルミエ不可侵条約 の締結とシャノワール、ワーシイワ、エレイソネスの3か国による 文明圏 と称される軍事同盟の締結によって後顧の憂いを断ったシャノワール黎明帝国は1675年6月1日、グランダ帝国、ニーベルリント王国の二国に対し宣戦布告し世界大戦が発生した。ニーベルリント王国に対する宣戦布告はグランダ=シャノワール国境の丘陵・森林地帯の迂回が目的であり政治的意味合いは薄いものであった。事前の予想に反してニーベルリント王国の抵抗は激しいものであったが、計画通りにニーベルリント南部を機甲部隊で侵攻し、グランダ北部へ侵入した。9月までにグレディンスを除くグランダ北部を概ね掌握し、冬季戦へ移行した。同時期にワーシイワ・エレイソネスの二国もグランダ領内への侵攻を開始しており1675年末までにグランダ南部は二国によって掌握された。1676年春季攻勢によって残るグランダ領を占領するとシャノワールは西部戦線の終結を宣言し、グランダ帝国、ファタ・モルガナ帝国の二国に対して停戦を要求した。停戦は拒否され1677年は「奇妙な戦争」と称される西アウレージ地域における部分的な平和が訪れたもののセルヒャード海ではワーシイワ海軍とファタ・モルガナ海軍の死闘が繰り広げられていた。
1688年1月にガルフヴァイラに宣戦布告し、西アウレージを自国勢力圏に組み込んだシャノワール黎明帝国は 世界再編戦争 は第二段階へ移行したとして、文明圏陣営の解体を一方的に宣言し1678年4月20日、ワーシイワ第二帝国、エレイソネス鋼鉄連隊政府に対し突如宣戦布告した。突然の宣戦に不意を突かれたワーシイワ、エレイソネスの両国は1679年末までに概ね大陸領土を失陥し、同地にはシャノワール黎明帝国の地域再編委員会が設置された。占領下におかれたワーシイワやエレイソネスの文化はそれまでに占領されたグランダやニーベルリントと同様にことごとく否定され、 世界再編委員会 の「再教育政策」によって徹底的な文化の破壊と新世界文化と新世界言語(シャノワール語)の強要が行われ、多数の犠牲者と文化的損失が生じた。
1680年6月30日、西アウレージ一帯を掌握したシャノワール黎明帝国は世界再編戦争の第三段階として、フレルミエ連合王国に対して宣戦布告した。( 暁作戦 )12月までに西部の要衝アレストベーリャを陥落させ、トリア王国の首都であるオレグベーリャに到達した。翌年の1681年4月には第二次オレグベーリャの戦いが発生し、シャノワール・フレルミエ両軍が同市を巡って激しい戦闘を繰り広げ7月末までにシャノワール軍が市の95%を掌握した。南部ハルケギアでも攻勢が行われ、キルサベリェ会戦が行われた。1682年3月より第三次オレグベーリャの戦いが発生、再び大規模な市街地戦が発生するも14月までにフレルミエ軍はオレグベーリャを奪還した。
第三次オレグベーリャの戦いに敗れたシャノワール軍は大規模な戦線の整理を行い、ハルケギアからの撤退を行った。1683年に行われたフェルエシア作戦によってシャノワール軍はさらなる撤退に追い込まれ、南東部戦線と東部戦線の分断の危機に陥った。追い打ちをかけるように パルミエ作戦 が行われ、フレルミエ占領地の大半を喪失、同時期にエレイソネスに有志連合軍が大規模上陸を敢行し( 大闊歩作戦 )、西部エルヴェメ半島でもニーベルリント・ガルフヴァイラの反乱軍が蜂起するなど四面楚歌に追い込まれる。1683年6月38日、パルミエ作戦に合わせフレルミエ野戦軍の撃滅を狙いとした月食作戦が行われたものの失敗に終わった。1684年4月までにエルヴェメ半島北部戦線はカッツェルハーフまで撤退し、東部戦線においてフレルミエ軍は自然の要害エルナ川と渡河し、東部の重要都市シルトルエンへの攻勢を開始した。同年冬までに北部の要衝エルゼドールがヴィアラチア軍によって占領され、北部のニーベルリント蜂起軍と合流すると残る黎明帝国領はポエジア、ベルニキアの一部のみとなった。
1685年1月に首都ベルニカが陥落し、シャノワール軍が 第0号命令 を打電、リリアに遷都し徹底抗戦の構えをしていた黎明帝国政府首脳部に対し黎明軍が反乱を起こした。シャノワール国内は黎明軍と世界再編委員会の内戦状態に陥るも数日で黎明軍がシャノワールの政治機構を掌握し、クレマンス・ヴィーリルを暗殺した。その後速やかにシャノワール臨時軍政府が成立し、2月1日に有志連合・クローリア条約機構に対し 無条件降伏 し、世界大戦は終結した。
戦後まもなく、戦火に見舞われたグランダ帝国首都メルセンにて講和条約の締結へ向けた会議が行われる。当初、戦勝国の要求は苛烈なもので特にニーベルリントの要求ではシャノワール民族の国民国家の成立の禁止と徹底した脱工業化が求められ、フレルミエの要求ではシャノワールの工業生産の6割強を有していたミレドニア地域の割譲まで求められていた。ファタ・モルガナ帝国の主導によって進められた会議は最終的に領土条項は ストレンベレを含む西部国境部のグランダ、ニーベルリント、エウリュアルに対する割譲と東部エルナ川国境部、ミレドニアの東半分とノルツリーネの一部のフレルミエ、ヴィアラチアへの割譲 でまとまり、ポエジア地域は20年間ニーベルリントの保護占領下に、その他シャノワール本土も10年間の有志連合主導の保護占領下となった。他にも戦勝国に対する賠償金条項やシャノワールによる海外領土の請求権の放棄なども盛り込み、最終的に メルセン講和条約 が締結された。
1695年2月1日に有志連合の保護占領下から独立する形で 第二共和政シャノワール が成立した。4つの帝国州、2つの共和国、1つの君主国、6つの自由都市からなるシャノワールの新たな自由主義政府は当初、ユエリア家当主のルヴォル・ルゥ・ユエリアを大統領として上院・下院両院ともに君主主義者、自由主義者および旧亡命白系シャノワール人を中心とした保守党と組合主義者・社会主義者を中心とした旧セルベリエ連邦指導層の労働党の大連立によって成立していた。大統領を一種の君主として運用することで世界大戦後の混乱するシャノワールを統治していた。新たな連邦共和国憲法制定や各種法整備の段階で保守党と労働党はすでに意見が食い違っていたものの、新政府の安定化のために双方妥協することで見かけ上、政府を安定させていた。1704年にルヴォル・ルゥ・ユエリアが大統領三選目を目指し、立候補すると保守党と労働党の連立は崩壊した。左派はユエリア家の権威化を指摘し、「帝政への逆行」を避けねばならないと強く反発した。同様に右派勢力も「セルベリエ時代への退行」は恐るべき事態でありなんとしても避けたい未来であった。資本家や中流階級の人々は保守党や資本主義を支持し、ルヴォル・ルゥ・ユエリアの大統領三選目を容認する方向となったが、労働者や労働組合はそれに対して反発、救国の英雄にして新時代の組合主義者の指導者としてフレドリューク・ルゥ・ヴェレントレイアを新大統領候補として擁立した。1704年4月1日にはベルニカ国立大学でのバリケードストライキに始まり、学生運動が活発となった。4日にはリリア白薔薇宮賢人塔やオレフェンベレ国立大学で、5日にはシャノワール第二革命の名を擁する第二革命記念大学でもストライキが発生した。「自由・平等・公正」を目指した運動は次第に労働者に波及。10日にベルニカ市内のバスがストライキを宣言すると労働者のストライキは全国に広がった。「労働運動と学生運動は同一である」というスローガンのもとに労働党やシャノワール労働組合総同盟は労働者・学生のストライキを全面的に支援することを発表し、20日までにシャノワール国内はゼネラルストライキと言っても過言ではない状況に陥る。22日には首都ベルニカにて50万人規模の「セルベリエ新政府に権力を移譲せよ!」と叫ぶデモが発生し、同市は麻痺状態に陥ってしまった。事態を受けルヴォル・ルゥ・ユエリアは大統領選に合わせて下院を解散し総選挙を行うことを約束したものの、ゼネストとデモが収まる様子は見せなかった。26日には第二革命記念大学にて極右系組織「桃衛団」と学生が乱闘騒ぎを起こし、死者2名、負傷者108名を出す凄惨な事件が起きた。「ジェーンとルカのために」とストライキはさらに過激化、ベルニカ、リリア、オレフェンベレ、リューリア、アルクスベレ、エルンゼフィーアなど主要都市は赤旗と旧セルベリエ連邦旗が立てられ騒然となる。28日にサイレント・マジョリティであった保守党支持者たちはベルニカにて「100万の行進」を行った。30日の大統領選投開票までにシャノワール連邦共和国は内戦一歩手前の危機を迎えるが、内戦を避けたい保守党と労働党は「0429エレクトニカ合意」を発表、最低賃金の大幅な上昇と労働組合の公的権利の確約で左右両派は合意した。強硬派は反発し、33日にはベルニカにて大規模なデモを行った。結果的にルヴォル・ルゥ・ユエリアの三選目が決定し、続く下院総選挙でも保守党が優勢であった。5月に入るまでに鎮静化し、シャノワールは危機を乗り越えたのである。
1704年革命の後、1705年1月にルヴォル・ルゥ・ユエリアが健康上の理由により大統領を辞職すると保守党系のグルフ・プリモルエが大統領として就任した。1715年の ベルニカ同時多発テロ を受けて政権は戦時挙国一致内閣へ移行し、ラヘーカ体制下となっていたエレイソネスに対して対テロ報復を理由に宣戦布告した。( 第5次シャノワール=エレイソネス戦争 )戦争は9年に及び、疲弊したシャノワール連邦共和国は1723年に社会民主労働党=労働党平和人民戦線内閣が成立したことで戦争終結に奔走、1725年にエレイソネス民主共和国との合意の元、エレイソネスから完全撤兵した。撤兵後、拡大した社会不安から人民戦線の首長であり首相であったアイリス・バズコーブが暗殺され( 4月17日バズコーブ暗殺事件 )、シャノワールの政治的不安定は浮き彫りとなった。以降のシャノワールは少子高齢化が深刻に侵攻しつつも、第5次シャノワール=エレイソネス戦争で負った経済的ダメージから回復しきれないという状況に陥り、 失われた30年 と称される長期間の不況に突入した。
1750年人民議会選挙において国家フェイエツェータ連合が第1党の立場に躍り出ると、シャノワールは初の 極右ポピュリズム政権 に移行した。帝政復古、移民排斥、保護貿易を訴える同党は各種政治改革に着手したものの、大統領府とのイデオロギー的相反や上院にあたる連邦議会の反発によって思うように改革が進むことはなかった。そのような政治的混乱の中で1753年に国家フェイエツェータ連合政権は大敗し、新たに大連立である保守党=労働党民主戦線内閣が成立した。その連立も長く続くことはなく保守主義と社会主義の二頂対立軸は機能しなくなりつつあった。その隙間に入り込んできたのが隣国、ナルヴァウレジア連邦の影響を受け、資本家の監督による市場自由主義を標榜する 共和自由党 であった。1755年に民主戦線連立内閣が解散すると、共和自由党が野党第1党の立場に躍り出るなど躍進した。1760年の人民議会選挙で同党は第1党に躍り出るとシャノワールは企業監督政府への道を歩み始めることとなる。