チェザリス・ルゥ・ストレンベレ

チェザリス・ルゥ・ストレンベレ
Chēzariše lou Strenbre
生没年 1656年8月6日~1712年2月38日
生誕地 ワーシイワ連邦王国
没地 シャノワール共和国オレフェンベレ都市州オレフェンベレ
プロフィール 目次
所属組織 シャノワール黎明陸軍
軍歴 1676年14月10日~1685年5月10日
異名 お転婆チェザリス
戦車に嫁いだ女
最終階級 中将

概要

チェザリス・ルゥ・ストレンベレ (沙:Chēzariše lou Strenbre)はシャノワール黎明陸軍の軍人である。シャノワール帝国の有名な将軍、グヴェル・ルゥ・ストレンベレ(沙:Gvherl lou Strenbre)の孫娘であり、亡命貴族である。出奔後は祖国であるシャノワール社会主義共和国に渡航し、黎明空軍の戦闘機パイロットに志願。身体的適性の不適合を理由に不合格になると大総帥クレマンス・ヴィリールの大粛清によって深刻な練度・人員不足に陥っていた黎明陸軍に入隊した。 世界大戦 には戦車部隊の一兵卒として参戦、エルナ紛争やグランダ電撃戦での活躍によって大佐まで昇進する。エレイソネス電撃戦では黎明軍の歴史的勝利をもたらした。大戦末期の東部戦線での「シルトロンの戦い」の立役者でもある。「シャノワールの魔術師」ルーリエ・メリテアヌとは元ルームメイトの関係。

人物

生い立ち

ワーシイワ連邦王国に旧シャノワール第二帝国の亡命貴族の娘として生まれる。父は厳格な保守主義者であり、チェザリスに対して厳しく「女としての立ち振る舞い」を強要した。幼くして既に「お転婆娘」としての様相を呈していたチェザリスにとっては苦痛でしかなく、同じくワーシイワに亡命してきていたシャノワール亡命貴族の堅苦しい格式ばった社交辞令にもうんざりしていた。先のアウレージ戦争で実用化された航空機に対して密かな希望を持っていたチェザリスは祖父や父の人脈を経由してワーシイワの空軍関係者に特別に戦闘機を間近で見せてもらったり、コックピットに搭乗させてもらったりすることを支えに耐え忍んでいた。

出奔

1024年に12歳になったチェザリスは父に許婚の男性との結婚を命じられる。耐えきれなくなったチェザリスは実家の金銭を持ちだし出奔、ファタ=モルガナ帝国マーズカクシア、リベント公国ペルグランデと転々とした後に、最終的にシャノワール国ベルニカにたどり着いた。当時のシャノワールはクレマンス体制下で厳格な相互監視全体主義体制が敷かれていたものの、チェザリスが何よりも嫌う旧態依然とした貴族社会的考えというものが一切存在していないこと、何より国家を挙げた再軍備の最中であったシャノワールでは「空軍パイロットの大々的募集」が行われていたことというのが貴族の肩書を捨ててまでシャノワールに渡航した理由となった。ベルニカ近郊のパン屋に下宿すると後の友人であるルーリエ・メリテアヌと出会うことになった。競争率の高いエリートである人民警察を目指すルーリエの影響でチェザリスはより一層奮起した。

黎明軍へ

世界大戦 ____"Loua Vwhēamachu"

戦後

軍歴

プライベート

逸話

下宿先でのルームメイトであったルーリエ・メリテアヌに対しての喧嘩は全戦全勝であった。下宿先の家主は上階より男と女の言い争う声が聞こえてから数分で大きな物音がガタガタと鳴り始め、そしてその数分後には顔をあざまみれにして、服装も乱れた男がよろよろと階段を下ってきたと語った。後世にルーリエ・メリテアヌは「彼女は下手な男より男らしい。模範的な黎明男児である。」と引きつった笑いで称している。

発言

  • 「どちらかといえば我々は鑢というよりかは錐ですかね。」1028年の史上最年少の少将就任記念の取材にて。
  • 「よお兄弟、どちらが先にテナエを陥落させられるか競争だな。」北アウレージ戦線にてルーリエ・メリテアヌに無線通信で発したとされる。
  • 「後方でさえ人が足りない。今や新連邦軍は薄氷の上にかろうじて立っている」晩年にシャノワール連邦軍に対して発した。

栄典

年譜

脚注

関連項目

最終更新:2021年09月18日 00:01
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