1934年2月6日、右派団体、退役軍人協会、極右リーグが、スタヴィスキー事件に関連して警察長官ジャン・シアッペが解任されたことに抗議するため、パリの下院議会(シャムブル・デ・デュプテ)の前で反議会主義的デモを組織した。
デモはコンコルド広場で暴動に発展し、民間人14名、治安部隊1名の死亡、さらに1,000人以上が負傷した。その後数日で負傷の影響により民間人2名が死亡し、さらに4名が後遺症で死亡、合計で1934年2月6日の死者は19名に達した。この2月6日の危機は、第三共和政における最も血なまぐさい事件の一つとされる(1891年のフルミー銃撃事件以来)。さらに、2月7日、9日、12日にも新たな暴力的デモが発生し、参加者に死傷者が出た。警察による弾圧での死者は、これら全体で30名に上った。
この危機により翌日にはダラディエ第2次内閣が崩壊し、フランス政治に深く持続的な影響を与えた。

危機の背景
1933年末、ラニー=ポンポンヌ災害により大きな衝撃が生じ、民衆は責任者の追及を要求した。1934年初頭、世界は1929年の大恐慌の影響を受け、経済的困窮と極端思想の台頭に直面していた。イタリアとソ連ではムッソリーニとスターリンが権力を強化し、ドイツではヒトラーが1933年1月30日に首相に就任、同年3月23日には全権を掌握した。オーストリアではドルフスがファシスト独裁者となった。
フランスも1931年以降、大恐慌の影響を受け、中間層が特に打撃を受け、失業者は1932年の273,000人から1934年には340,000人に増加した。政府は有効な対策を打てず、予算は深刻な赤字に陥り、同じ人々による政権が次々と交代し(1932年5月~1934年2月の間に6回)、信用を失った。政治・財政スキャンダル(ハノー事件、ウストリック事件、そして直接的原因のスタヴィスキー事件)が反議会主義を助長した。
スタヴィスキー事件
1933年12月、バイヨンヌ信用組合をめぐる詐欺事件が発覚し、スタヴィスキーが関与していたことが明らかになる。彼は複数の急進派議員、カミーユ・ショタンプス政権の大臣とも結びついていた。1934年1月8日、スタヴィスキーは死亡しているのが発見され、警察は自殺と発表したが、右翼は暗殺説を主張した。これを受け、1月12日に下院で議会調査委員会設置を求める動きがあったが、ショタンプスは拒否した。
右翼紙『アクション・フランセーズ』は1月7日から「盗人を打倒せよ!」とパリ市民に呼びかけ、1月9日には2,000名のデモ参加者が現れ、11日にはさらに4,800名が参加した。雨で12日は減少したが、19日と20日に再開。最終的に23日の議会信任投票ではショタンプス内閣が367対201で信任されたが、連日の抗議は続き、28日にショタンプス内閣は辞任した。
ダラディエ内閣と事件直前
大統領アルベール・ルブランは急進派のエドゥアール・ダラディエに新内閣を組閣させた。2月3日、警察長官ジャン・シアッペがモロッコへ異動されることが発表され、右派・極右は強く反発した。シアッペは左派からは嫌われ、右派からは支持されていた。2月5日、セーヌ警察長官エドゥアール・ルナールも辞任。これを受け、2月6日に多数のデモ呼びかけが行われ、コンコルド広場に集合した。呼びかけ団体は、極右リーグ、退役軍人団体、学生団体などで、彼らは「盗人打倒!」を掲げた。
デモと暴動
2月6日、約3万~5万人の参加者が集結。極右リーグが先頭に立ち、街頭での衝突が始まった。デモはコンコルド広場やソルフェリーノ橋などで激化し、火炎や投石、鉄片、刃物付き棒、鉄球、銃弾が飛び交った。治安部隊は襲撃を受けつつも反撃した。
死傷者
民間人・参加者は当日12名死亡、657名負傷(うち74名は銃弾による負傷)。『アクション・フランセーズ』では6名死亡、16名負傷。Jeunesses patriotesは2名死亡、Solidarité françaiseも2名死亡、26名負傷。退役軍人協会では死者なし、負傷者53名。Croix-de-feuは死者なし、負傷者120名。治安部隊は1名死亡(マルセル・フランドル)、1,664名負傷。