プガチョフの乱(プガチョフのらん、露:Восстание Пугачёва または Крестьянская война 1773–1775 годов)は、1773年から1775年にかけてロシア帝国で起きた大規模な農民反乱で、ロシア史上最大の農民戦争として知られる。エカチェリーナ2世(大帝)の治世下で発生し、ヴォルガ川・ウラル川流域を中心に広がり、コサック・農民・非ロシア系民族・工場労働者らが参加した。
政府軍の勝利で終結したが、帝政ロシアの農奴制と絶対王政の矛盾を露呈し、後世に深い影響を残した。
背景
18世紀後半のロシアは、エカチェリーナ2世の啓蒙専制政治のもとで中央集権化と近代化が進んだが、農奴制の強化、重税、戦争負担(露土戦争など)が民衆の不満を爆発的に高めていた。農奴は地主の私有物に近く、逃亡や一揆が頻発。辺境のヤイク・コサック(現ウラル・コサック)も自治権の剥奪に反発していた。こうした土壌で、ドン・コサック出身のエメリヤン・プガチョフ(Emelyan Pugachev、1740頃–1775)が蜂起の火種となった。プガチョフは元ロシア軍中尉で、七年戦争や露土戦争に従軍した後、脱走を繰り返す放浪者。1773年、彼は「自分は奇跡的に生き延びた皇帝ピョートル3世だ」と僭称(せんしょう)し、エカチェリーナ2世を「帝位簒奪者」として非難。ピョートル3世は1762年にエカチェリーナのクーデターで廃位・殺害されたとされ、民衆の間で「良きツァーリは生きている」という伝説が根強く残っていた。プガチョフはこの神話を利用し、農奴解放・土地再分配・重税廃止を約束して支持を集めた。
経過
1773年9月:ヤイク川(現ウラル川)地方で数十名のコサックとともに蜂起。9月19日に進撃を開始し、9月26日にニジニオジョールノイ要塞を陥落。10月にはオレンブルク要塞を包囲し、反乱軍は急速に拡大。
最盛期(1773年末–1774年夏):参加者は最盛期で5万人超(一部推定では7万人)。バシキール人・タタール人・カルムイク人などの非ロシア系民族、逃亡農奴、ウラル山脈の鉱山・製鉄労働者も加わり、多民族的反乱に発展。プガチョフは「ピョートル3世」として「勅語」を発布し、農奴を解放、地主の土地を没収して分配することを宣言。カマ川流域を制圧し、カザンやサラトフを占領。モスクワへの進撃も現実味を帯び、中央ロシアに恐怖を与えた。
1774年夏以降:露土戦争を急遽終結させた政府軍が増強され、反乱軍は決定的敗北を喫する。プガチョフはボルガ川を渡って南下するが、同志の裏切りにより逮捕(1774年9月)。モスクワに護送され、1775年1月21日に公開処刑(斬首の後、四つ裂き)された。残党の抵抗は同年夏まで続いたが、鎮圧された。
結果と影響
反乱軍の死者は数万人、政府軍の損害も甚大だった。エカチェリーナ2世は反乱を機に郡県制度を大改革し、貴族の権限を強化して治安を維持。農奴制はさらに固められ、貴族との妥協が進んだ。一方、この乱はロシア民衆の「良きツァーリ」幻想(皇帝は善意だが周囲が悪い)を象徴し、後世の革命思想に影響を与えた。文学では、アレクサンドル・プーシキンの歴史小説『大尉の娘』(1836年)が有名。プーシキンは史料を徹底的に調べ、プガチョフを野蛮だが義侠心ある人物として描き、反乱の悲劇をロマンティックに昇華させた。プーシキン自身は反乱の資料収集のため現地を訪れ、作品にリアリティを与えている。プガチョフの乱は、ステンカ・ラージンの乱(1670–1671年)と並ぶロシア史上最大級の民衆蜂起で、帝政ロシアの脆弱性を露呈した。ソ連時代には「農民戦争」として英雄視され、現代ロシアでも「忘却された恐怖」として語り継がれている。