概要
生田村は1875年(明治8年)に上菅生村と五段田村(のち五反田村)が合併して誕生する。
村名は両村から一文字ずつ取った合成地名(「生」+「田」)である。小田急小田原線(当時の小田急鉄道)の開通が近づくと、生田村では駅誘致運動が活発化する。当初の計画では村の中心部(生田村役場に近い東側、現在の生田駅付近)に1駅を設置する方針で用地買収も進む。しかし村の西側(現在の読売ランド前駅付近)に住む有力者らが「西側に駅を」と強く主張する。村議会で西側誘致派が多数を占め、計画は変更される。これに対し、東側の住民(特に用地を提供した人々や村役場周辺の住民)が猛反発する。「駅が西にできれば土地を売らない」「東側にも駅を造れなければ協力しない」とまで言い出し、建設工事に支障をきたす。村内は東西で分裂状態となる。小田急側も用地確保の難航を避けるため、苦肉の策として東西両方に駅を設置することを決定する。結果、約1.2kmしか離れていない位置に東生田駅(現・生田駅)と西生田駅(現・読売ランド前駅)が誕生する。
村名は両村から一文字ずつ取った合成地名(「生」+「田」)である。小田急小田原線(当時の小田急鉄道)の開通が近づくと、生田村では駅誘致運動が活発化する。当初の計画では村の中心部(生田村役場に近い東側、現在の生田駅付近)に1駅を設置する方針で用地買収も進む。しかし村の西側(現在の読売ランド前駅付近)に住む有力者らが「西側に駅を」と強く主張する。村議会で西側誘致派が多数を占め、計画は変更される。これに対し、東側の住民(特に用地を提供した人々や村役場周辺の住民)が猛反発する。「駅が西にできれば土地を売らない」「東側にも駅を造れなければ協力しない」とまで言い出し、建設工事に支障をきたす。村内は東西で分裂状態となる。小田急側も用地確保の難航を避けるため、苦肉の策として東西両方に駅を設置することを決定する。結果、約1.2kmしか離れていない位置に東生田駅(現・生田駅)と西生田駅(現・読売ランド前駅)が誕生する。
結果
この「二つの生田駅」体制は村の東西対立を象徴する。小田急全線でも極めて珍しい事例である。開業当時、村役場や学校は東生田駅側にあり、村の中心機能は東側に偏るが、西側住民の影響力も強く、妥協の産物となる。
駅名の変遷は以下の通りである。
駅名の変遷は以下の通りである。
- 1927年(昭和2年)4月1日:小田急小田原線開通に伴い、東生田駅・西生田駅が開業する。
- 1964年(昭和39年)3月1日:よみうりランド(当時の読売ランド)が開園する。これを機に西生田駅が読売ランド前駅へ改称される。同時に東生田駅も生田駅へ改称され、「生田」由来の駅名が重複する状態が解消される。