夜の果てへの旅(よるのはてへのたび、原題:Voyage au bout de la nuit)は、フランスの作家ルイ=フェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Céline、本名:ルイ=フェルディナン・デトゥシュ)が1932年に発表した処女長編小説である。20世紀フランス文学を代表する問題作の一つであり、口語体を極端に取り入れた革新的な文体、徹底したニヒリズムと人間不信、戦争・植民地・資本主義社会への苛烈な批判で知られる。発表当時ゴンクール賞の有力候補となりながら受賞を逃し、賛否両論を巻き起こした。
あらすじ
物語は1914年、戦争が始まったばかりのフランスで、バルダミュが愛国的な熱狂のなか志願兵として戦争に参加するところから始まる。しかし前線に出た彼はすぐに戦争の実態を目の当たりにする。兵士たちは国家のために勇敢に戦っているのではなく、恐怖と命令によって機械的に前へ進まされているだけであり、戦場は人間が大量に殺される狂気の屠殺場でしかない。バルダミュは恐怖に支配され、英雄的な勇気ではなく「臆病さこそが唯一の理性的な態度だ」と感じるようになる。やがて彼は負傷して戦線を離れ、軍の病院で療養することになる。
病院で彼は戦場とは異なる社会、いわゆる「後方」を観察する。そこでは人々が戦争の現実を知らないまま愛国的な言葉を語り、兵士の犠牲を美化している。バルダミュはその偽善を嫌悪しながらも、恋愛や享楽的な出来事に巻き込まれ、戦争の狂気とは別の形の人間の滑稽さを目撃する。やがて兵役を免除された彼はフランスを離れ、植民地会社の仕事を求めてアフリカへ向かう。
アフリカでは、植民地主義の残酷さと無意味さが露わになる。ヨーロッパ人の商人や管理者たちは文明の名のもとに植民地を支配しているが、その実態は病気、搾取、腐敗に満ちている。バルダミュ自身も熱病に苦しみ、狂気に近い状態に陥る。植民地社会の荒廃と人間の欲望に耐えられなくなった彼は、ついにそこから逃げ出し、船に潜り込んでアメリカへ向かう。
密航の末に到着したニューヨークは、ヨーロッパとはまったく異なる巨大な都市として描かれる。摩天楼や機械文明の壮大さに圧倒されながらも、バルダミュはそこでも社会の底辺に落ち、孤独と貧困のなかで生活する。やがて彼はデトロイトへ移り、自動車会社フォードの工場で働くことになる。そこでは労働者たちがベルトコンベアの速度に合わせて単調な作業を繰り返すだけの存在になっており、人間は巨大な機械の部品のように扱われている。彼はこの工場の生活のなかで資本主義的な生産体制の非人間性を強く感じる。一方で彼はモリーという娼婦と出会い、彼女の優しさに救われるが、落ち着いた生活を続けることができず、やがて彼女のもとを離れてフランスに帰る決意をする。
帰国後、バルダミュは医学を学び、医師としてパリ近郊の貧しい地域で開業する。そこでは労働者や貧民たちが病気や貧困に苦しんでおり、彼は社会の最も暗い部分を日常的に目にするようになる。患者たちはしばしば無知や暴力に満ちており、医者として人を救うという理想もまた次第に崩れていく。彼は人間社会の愚かさと残酷さを観察しながら、医師としての仕事を続けるが、その生活にも疲れ果てていく。
物語の各段階で、バルダミュはロビンソンという男と何度も再会する。ロビンソンは彼と同じように社会の外側を漂う人物であり、どこへ行っても怪しげな事件や犯罪に関わっている。彼らの関係は奇妙な友情のようでもあり、互いに破滅へ引き寄せ合う関係でもある。ロビンソンは盲目の少女マドロンと関係を持つが、その関係も次第に歪み、暴力的な方向へ向かう。最終的にロビンソンは事件のなかで致命的な傷を負い、悲惨な死を迎える。
物語の終盤、バルダミュは精神病院の医師として働くことになる。そこで彼は人間の狂気を日常的に観察するが、次第に正常と狂気の境界が曖昧であることに気づく。病院の院長自身も精神を病んでおり、ついには施設の運営がバルダミュに任されることになる。こうして彼の人生の旅は、戦争、植民地、資本主義社会、貧民社会といったさまざまな場所を通過しながら、人間の世界の腐敗と虚無を見続ける旅として終わっていく。
物語は一貫してバルダミュの一人称で語られ、友人ロバンソン(Robinson)との関係が重要な軸となる。結末は徹底的に救いがない。

評価
未来派、ロシア構成主義、イタリア合理主義建築は、ブルジョワ的実用主義に反抗しているように見えながら、実はその根幹を深化・洗練し、加速させる役割を果たした。生そのものを加速し、再構築しようとしたが、結局は近代の論理を超えることはできなかった。バルダミュの巡った戦場、植民地、そしてフォードの工場、これらが同一の意味を持つのは、その内部に共通した原理が走っているからだ。(吉野うごく)
セリーヌの『夜の果てへの旅』は、バルダミュが通過する三つの場面——戦場、植民地、フォード工場——を通じて、近代的合理性の同一の論理を描き出している。 戦争では人間が弾薬のように消費される
植民地では労働力が消耗品として扱われる
工場では労働者が機械の付属部品に還元される
植民地では労働力が消耗品として扱われる
工場では労働者が機械の付属部品に還元される
これらは国家・帝国・資本という異なる制度に見えるが、根底にあるのは共通の原理:
速度・効率・機械化・計算可能性・組織化 未来派・構成主義・イタリア合理主義といった前衛芸術運動は、伝統・装飾・歴史主義を否定し、これら近代の原理を称揚した。しかし彼らの「革命」は、近代合理性を否定するのではなく、それを極限まで純化・加速させる方向に働いた。
つまり「反近代」ではなく「超近代」あるいは「過剰近代」だった。セリーヌの小説は、前衛が夢見た・推進したその同じ論理が、現実の社会では人間を徹底的に消耗・無力化する暴力として現れるさまを冷徹に暴いている。
前衛芸術が近代の論理を美学的に・形式的に極限化しようとしたのに対し、セリーヌはそれが人間存在に及ぼす破壊を、経験の地平で描き出した。 両者は対立しているように見えて、実は同一の歴史的運動の両面をなしている——前衛は「加速」の夢を、セリーヌはその夢が醒めた後の「夜の果て」を、それぞれ体現していると言える。
速度・効率・機械化・計算可能性・組織化 未来派・構成主義・イタリア合理主義といった前衛芸術運動は、伝統・装飾・歴史主義を否定し、これら近代の原理を称揚した。しかし彼らの「革命」は、近代合理性を否定するのではなく、それを極限まで純化・加速させる方向に働いた。
つまり「反近代」ではなく「超近代」あるいは「過剰近代」だった。セリーヌの小説は、前衛が夢見た・推進したその同じ論理が、現実の社会では人間を徹底的に消耗・無力化する暴力として現れるさまを冷徹に暴いている。
前衛芸術が近代の論理を美学的に・形式的に極限化しようとしたのに対し、セリーヌはそれが人間存在に及ぼす破壊を、経験の地平で描き出した。 両者は対立しているように見えて、実は同一の歴史的運動の両面をなしている——前衛は「加速」の夢を、セリーヌはその夢が醒めた後の「夜の果て」を、それぞれ体現していると言える。