魔術の世界を好きだったことなんて一度もないし、きっとこれからもそうなれる日は来ないと断言できる。
 でも、両親のことは人並みに好きだった。
 優しかったし、魔術師の家でよくあるらしい虐待じみた教育や改造を叩き込まれることもなかった。
 だから死んだ時は、どっちもちゃんと悲しかった。
 もうこの人達に会うことはできないんだ、声を聞くことはないんだ、という当然の悲しさもあったし。
 あんなに頑張って追い求めたものに指先さえ掠めることなく死んでしまったことへの、哀れみもあったと思う。
 わたしはこうなりたくない、こんな風には終わりたくないと、改めてそう感じたものだ。

 ときどき、こう考えることがある。
 もしも魔術師になんてなりたくない、普通の人間として生きていきたい――と面と向かって伝えていたら、どうなっていたのだろうかと。
 結局別れの日が来るまで、それを口にすることはなかったけれど。
 今思うと、厳格だった父はともかく、母は案外話を聞いてくれたのかもしれない。

 要するに、わたしは逃げたのだ。
 魔術の世界から逃げるため、目の前の現実と戦うという行為から。

 心の中を諦観と失望で満たし、時計塔の講義や、研究に腐心する母の横顔に辟易し。
 なんでみんな、報われることもない悲願なんかに人生を捧げてるんだろうと、冷めた目で見下していた。
 そうまで嫌っておきながら、悲観していながら、行動を起こすことだけはしなかった。
 内心その自覚があったからこそ、あの傲慢な老蛇の言葉に反論のひとつも吐けなかったのだろう。

 無能。そう謗られても仕方のない生き方を、これまでわたしは続けてきた。

 停滞と表裏一体の、諦観。
 抱いた願いは、見るも無残に矛盾だらけ。
 尻に火が点いても、わたしは目を背け続けた。
 医者の痛烈な指摘(メス)で心を切り開かれ、抉り出した怠惰/病巣を見せつけられるまで。
 諦めと矛盾が織りなす螺旋の中で綺麗事を吐いて踊る姿は、さぞや滑稽に見えたろう。


 ――それでも、わたしは。この願望(みち)だけは諦められない。


 だからあの時、わたしは蹴ったのだ。
 優秀で冷酷な同盟者が作った避難経路。
 確実に、最短で、未来を開ける血塗れの道。
 示された正解を蹴って、詰みと分かって壁へ向かった。

 矛盾を指摘されたなら、それは正さなければいけないから。
 願いを叶えるために、願いを阻む闇へと挑んだ。
 その結果はこの通り、笑えるほどの惨敗だったけれど。
 それでもあんまり、後悔はしていない。
 よくできたじゃん、と自分を褒めてやりたい気持ちすらある。
 後悔しているのはもっと過去のこと。
 もう取り返しのつかない、失ってしまった日常のことだ。




 ねえ、お母さん。
 わたしね、普通に生きたいんだ。
 手の届かない星を追いかけるんじゃなくて。
 歩けば手が届くような、ちっぽけな幸せを大事にしたいの。
 根源がどうとか、正直ぜんぜんピンと来なくてさ。
 どこかの誰かが開発した新しい魔術の理論とかよりも、流行りのテレビ番組とか、ファッションとかの話がしたかったよ。
 夜は普通に会社や学校の愚痴を話して、朝は行ってきますって元気に言って。
 ペットなんか飼ってみるのもよかったかもね。散歩の当番なんか決めてさ、すっぽかしたお父さんに嫌味言ったりも悪くなかったかも。
 お父さんってお硬い人だったけど、案外ああいうタイプって無償の愛みたいなのに弱かったりしたんじゃないかなーって今は思うんだ。

 ねえ、お母さん。
 ごめんね。

 わたし、ふたりにいろんなことしてもらったよね。
 なのにそれ、これから全部無駄にしちゃう。
 どうせって諦めて、伝えなきゃいけないことなんにも伝えてなかった。
 やり直せるならやり直したいけど、死んだ人を生き返らせるなんて"魔法"でもないとできないし。
 完全な蘇生は、それこそ奇跡でもなきゃ無理なんだっけ。お母さんが教えてくれたよね、これも。
 だから、こうして頭の中でしか謝れないし伝えられないけど。
 でも、親不孝なわたしのことを本当の天国からまだ見ててくれてるなら――ちょっとだけでも馬鹿な娘を応援してくれたら嬉しいな。




 ……そんな。
 まるで子どもみたいな、きっと魔術師なら益体もないって切り捨ててしまうような思考を重ねながら。
 わたしは、泥濘の中に沈んでいた意識がゆっくりと浮上していくのを感じていた。
 闇から光へ。現在から未来へ。絶望から希望へ。雷光の如く加速して、上へ上へと走り出す自我。

 アンジェリカ・アルロニカは浮上する。
 〈雷光〉の子として生まれながら、駆け抜けることを嫌った愚か者。
 それでもまだ、どういうわけかこの身体には時間が残されていたようで――



◇◇



「っ――――は、ぁ」

 気付けばわたしは、ベッドの上で目を開けていた。
 見知らぬ白い天井と、少し硬いマットレスの感触。
 身体はずっしり重かったけど、疲労というよりは単なる寝起きの倦怠感に近かった。
 痛みはない。あんなに血を流したというのに、わたしの身体には管の一本も繋がれてはいなくて。
 わたしは、確か――と、過去と現在を理解という紐で結びつけようとしたわたしの耳に。

「……アンジェ! 良かった、目が覚めたのだな!?」
「っ……アーチャー……。声でかいよ、耳きんきんする……」

 耳慣れた相棒の歓喜の声が、甲高く響き渡った。
 思わず文句が口をついて出たが、その声のおかげで工程はすぐさま完了される。
 そうだ。わたしは、戦っていた。
 サーヴァントではないが、もしかするとそれより恐いかもしれない嫌味なヤブ医者と。

「身体に不具合はないか? 少しでも違和感があればすぐに言え!」
「……ない、と思う。むしろ此処に来る前よりも元気になってる感じすらする、かも」

 戦って、そして……負けた。
 あったはずの退路を蹴って、結果の見えた無謀に突撃したのだ。
 後悔はないけれど、我ながら無茶をやったものだと背中が冷える。
 万全でも勝てる相手じゃないのに、蝗に身体を食い破られた状態でそんな真似をしたのだから自殺行為も甚だしかった。

 ――ていうか、なんでまだ命があるんだろう。
 ホムンクルスとアサシンは退いて、あの場にいたのはわたしとアーチャーだけ。
 わたしが負けた後、アーチャーが頑張ってくれた?
 いやでも、この視界の景色はどこからどう見ても病院のそれだ。
 一体何がどうなって……と。混乱の中、彼に起きたことの仔細を問い詰めようとして。


「――悪運は強いようだな、アンジェリカ・アルロニカ。足掻くのが能なのは母親譲りか」


 忘れたくても忘れられない、死ぬほどムカつく声が耳朶を揺らした。
 怠さを堪えながら、咄嗟に上体を跳ね起こす。
 すると視界に映ったのは、やはりあの老人の顔だった。

 年波を感じさせない真っ直ぐな佇まい。
 鍛え抜かれた身体、煮え滾るマグマのような存在感。
 傲慢という言葉を人の形にしたならこうなるだろうか、というようなこの老人に――わたしはさっき、敗北したのだ。

 蛇杖堂寂句
 〈はじまりの六人〉の、そのひとり。
 前回の聖杯戦争で、もっとも熾天に近かったという魔人。
 彼の顔に浮かんだ嘲りの笑みが、わたしの命を救ったのが誰なのかを雄弁に物語っていた。



◇◇



 その時――天若日子は、困惑していた。
 アンジェリカがあの選択を取った時点で、彼は英霊として、彼女が順当に敗北した場合のことを考えていた。
 無論、真剣勝負で敗れたから潔く死を看取るなんて行儀のいい選択を取る気はさらさらなかった。
 アンジェリカが敗れ死に瀕したのなら、自分に出し得る最大の出力で目の前の主従に対抗する。
 結果、事態は危惧した通りになったのだが……ここでひとつ誤算が生まれた。

 蛇杖堂寂句。
 戦場と化した病院の主であり、アンジェリカが文字通り死力を尽くして戦った現代の医神。
 彼がおもむろにアンジェリカの身体を抱え上げ、執刀(なお)すなどと言い始めたのだ。

 さしもの天若日子も、これには面食らうしかなかった。
 というよりも、心の底から意図が読めなかったのである。
 敵に情けをかける男には見えない。
 本物を知っているから言えることだが、この老人の傲慢は、単なる悪癖を通り越して神の視点に近い。
 そんな男が何故、目の前でまんまと撃沈した敵を治すなどと言い始めたのか。
 分からないまま、天若日子のマスターはあれよあれよと手術室まで運ばれていってしまった。
 手術室は医者以外立ち入り禁止だ、などと言われる可能性も考えていたが、そういう物言いは掛からなかった。
 英霊はそもそも菌だとか汚れだとかとは無縁の幻想なので、特に問題とされなかった――ということなのだろうか。

「やはり内臓を食い破られているな。それだけでなく、腋窩動脈にも損傷が見られる。
 これでよくあれだけ持ち堪えたものだ。普通なら苦痛で失神していてもおかしくはない」

 淡々と語りながら、メスで傷口を開く老人。
 その一挙手一投足を、天若日子はひとつたりとも見逃さないよう目を光らせる。

「英霊となったサバクトビバッタは単純に噛み破るのではなく、傷口に部位損壊の呪いを含ませるのか。
 実に興味深い症例だ。英霊ならいざ知らず、人間では一匹に食い付かれただけでもほぼ確実に死ぬだろう。
 端から無能どもの腕に期待などしていないが、私以外の医者ではわずかな延命すら不可能だろうな」
「……自分ならばどうにかできる、と言いたげな口振りだな」
「そう言ったつもりだが? 言葉を咀嚼する時は耳だけでなく頭を使え。無能の誤解を訂正している間も、時間は変わらず流れるのだから」

 いい加減この物言いにも慣れてきたが、蛇杖堂寂句という人間そのものに慣れてはいけないと天若日子の本能的な部分が警鐘を鳴らしていた。
 英霊であり、神である、天孫降臨に際して地上へと下った天弓の担い手。
 悪しき神を射殺し、天の遣いをも撃ち、最期はそれが災いして裁きを受けた英雄。
 その彼をして、断ぜる。――この老人は、下手な英霊よりよほど恐ろしく、油断のならない怪物であると。

「それは失礼した。時に、御老体」

 寂句は変わらず、アンジェリカの患部だけを見つめている。
 が、彼の助手を務める医師たちは寒気に震え上がった。

 単なる気温の低下とはわけが違う。
 骨身を冷やし、魂まで震わせる。
 本能まで震撼させる、神の殺気を感じ取ったからだ。


「我が友の身体を捌くことを許す。
 だが、くれぐれも妙な真似はするでないぞ」


 脅しではない。
 この場に居合わせた誰もが、それを直感する。
 現に寂句のランサーは、眉を顰めて静かに臨戦態勢を取っていた。
 もし少しでも間違いがあれば、命を救う筈の手術室に命を奪う殺意の神風が吹き荒れる。
 誰ひとり無事では済まない。天蠍の魔獣さえその認識だったというのに、当の老人は一切不変だった。
 天若日子の威圧をそよ風のように受け流しながら、一寸の無駄もない所作で死に向かう魔術師の身体を切開している。
 その姿に唇を噛み、天若日子は続けた。自分の主の命は彼の手腕にかかっていると理解はしている。が、それでも釘は刺さねばならない。

「貴様に倣って、私も傲慢に行かせてもらう。
 何も企てるな。何も欲するな。ただ我が友の命だけを救え」

 蛇杖堂寂句以外に、アンジェリカ・アルロニカの命を救える者は存在しない。
 それでも、命が助かる代わりに彼女が彼女でなくなるのなら。
 この怪物じみた医者の狂気/悪意に糸引かれる人形に成り果てるというのなら。
 天若日子は躊躇なく、アンジェリカが尊厳を保ったままに死ぬことを選ぶ。

 あの不器用な生き方と素朴な笑顔。
 神たる己に見せた、ヒトの生き様。
 そのすべてを、天若日子は愛している。
 愛するが故に、それが損なわれたならもうそこにいるのは"彼女"ではないと断ずる。
 であれば死を以って、これ以上奪われることを止めよう。
 更に死を以って、己の朋友を穢す者を滅ぼそう。
 天若日子は、そういう選択のできる存在だった。彼はヒトを愛するものだが――愛するが故に、それを壊せる。

「天佐具売は、さぞや楽な仕事だったろうな」
「……! 貴様――」

 放つ殺気の質が変わる。
 その嘲笑の意味を、天若日子に理解できない筈がない。
 天界弓……天之麻迦古弓を抜いた時点で覚悟はしていたが、いざ実際に真名を見透かされればどうしても緊張が走るのは否めなかった。

 直接的に罵るのではなく、より魂を突き刺す嘲り。
 ヒトを愛した神の失態をチラつかせて、寂句は嗤う。

「零落した神を従える魔術師、なるほど確かに悪くない。
 あの〈雷光〉めの継嗣というのも評価に値する。
 薬、呪術、契約……手練手管を尽くして人形に変え、顎で使ってやるのも一興だろう」

 だが、と。
 話を続ける間も、彼の手は機械じみた速さと正確さで為すべきことを為し続けていた。
 速やかに損傷部位を露わにし、傷と受けた呪いの全貌を暴き立てる。
 同席している医師たちは、しかし研修医でもできるような最小限の仕事しかしていなかった。
 怠けているのではない。寂句の手術が速すぎて、誰ひとり付いていけないのだ。
 当たり前のように飛び出す道の術式に、理解も技術も追い付かない。
 そして寂句も、改めてそれを罵ることはしない。
 まるで最初から、誰も自分に並べはしないのだと理解しているように。

「瞳を灼かれた人形など、無能すぎて糸を結んでやる価値もない。
 愚者には愚者の使い道がある。その方が、"アレ"を相手取る上では有用だからな」
「……それは。あの白い少女のことを言っているのか?」
「天津神の小間使いよ。貴様は見るに堪えん無能だが、ひとつだけ評価してやる。
 よくぞ現在のアレを相手取り、生き延びられたものだ。
 あの輝きに比べれば〈蝗害〉など微風に等しい。真の厄災とは神でなく、理を喰らうモノのことを言う」

 そう。
 寂句は、知っているのだ。

 世の中には、計算だけでは罷り通らぬことがある。
 理屈では測れない、忌まわしいほどの混沌が存在する。
 そうでなければ、今頃自分は熾天の冠を戴き、次の行程へ移っていた筈なのだから。

 アンジェリカ・アルロニカを救うという選択。
 それは、かつての彼ならばしなかったろう行いだ。
 天若日子が危惧するように、奸計を埋め込んで人形にでもしようというならいざ知らず。
 純粋に命を救うべく執刀するなど、稀有な症例のデータを収集できる恩恵と比べても割に合わない。
 太陽に遭う前の寂句が見たなら、それこそ無能の一言で切って捨てていた筈だ。

「――喜べ。貴様がこの度認めた友とやらは、私の眼鏡に適ったのだ」

 だが、既に蛇杖堂の主は狂ってしまった。
 太陽網膜症。強すぎる光に灼かれた残骸(レムナント)。
 故にアンジェリカ・アルロニカは命を繋ぎ。
 手術室の中に、天の暴風が吹き荒れることもない。

 手術はつつがなく完了され、患者は程なくして目を覚ます。
 天神地祇、いずれも及ばず。
 原初の混沌さえ凌駕する、宇宙の混沌。
 白い光に照らされた、針音の仮想都市へと次代の〈雷光〉が帰還する。
 それが幸か不幸かは、分からないけれど。



◇◇



「安心しろ、手術は成功した。
 治療の際に霊薬を使ったのでな、暫くは患部に熱感があるだろうが明朝には消える。
 魔術回路への損傷も見て取れなかった。これまで通り魔術を行使することも可能だろう、貴様にとっては皮肉であろうがな」
「……、そりゃ、どうも――なんだけどさ」

 服の上から傷口に触れると、縫合痕らしき凸凹を感じ取ることができた。
 確かに少し熱を持っている気はする。だが、痛みはやはり感じられない。
 手術は成功した、というのは本当なのだろう。
 しかし無論、だからと言って素直に「先生ありがとうございました!」なんて言えるわけもない。

「どういうつもりなの、あんた……」

 意味が分からないからだ、あの場でわたしを助けることの。
 もしや身体に何か仕込まれたかとも思ったが、そんなことをアーチャーが許すとは考え難い。
 いっそ身体の半分が機械に置き換えられていたとか、片腕が機関銃になってるとかそういうトンデモが出てきた方がまだ納得できたかもしれない。
 命を救われたことへの感謝を遥かに凌駕する疑念。それを素直に口に出したわたしに、老人はやはり嘲笑を向けた。

「どうもこうもない。その結果がすべてだ」
「いや、だから……! なんで敵のわたしを助ける必要があるのよ……!?」
「主従揃って無能だな、貴様らは。
 既に回答はしてやった。同じことを二度解説するほど親身にはなれん。詳しくはそこの無能一号に聞け」
「む、無能一号……」

 こいつ、マジで一回ボコボコにした方がいいんじゃないかな。
 いや、そうしようと思った結果ボコボコにされたんだけどさ。

 なんて思いながらアーチャーの方へ視線を向ける、わたし。
 するとアーチャーは、少し難しい顔をしながら話してくれた。
 手術室の中で、彼が寂句と交わした会話。
 最後まで目を光らせていたが、結局怪しい行動は見られなかったらしいこと。
 全部聞いても、しかしぜんぜん納得なんてできなかった。
 説明にしてはあまりに物言いが抽象的だし、凡人のわたしにはまったくピンと来ない。
 まるで、途中式と解が繋がらない――道理の狂った数式を見たような気分だった。

 ただ。
 わたしはそこで、あの白い女の子のことを思い出した。
 ついでに、わたしの意識が消える前……こいつが口にした、言葉のことも。


『そうか――クク、そうか、貴様……もうすでに焼かれていたわけか』


 なんで、〈はじまり〉のひとりのこいつがそれを知っているんだろう。
 人間を生きたまま、魂まで灼く存在なんてあの〈白〉以外には考えられない。

 こいつ――蛇杖堂寂句も、確かに怖かった。
 あの〈蝗害〉もそうだ。けれど、一番じゃない。
 何故ならわたしは、あの白い輝きを知っている。
 白き滅び(セファール)。時計塔の授業で、悪趣味な講師が聞かせてくれた与太話を思い出した。
 わたしは。アレこそが、その白じゃないのかと本気で思う。
 そのくらいには、アレは途方もなく大きくて、悍ましくて……美しくて。

「……あのさ」

 次いで、ホムンクルスの言葉が脳裏をよぎる。
 はっきり言って、あいつらのことを信用できてるかというと今でも微妙だ。
 少なくとも価値観の合う奴らではない、それは確か。
 良くも悪くもただの"同盟相手"。そんなホムンクルスは、あの時わたしへこう言った。


『そうだ。"私ではない誰か"が聖杯を勝ち取り、二度目の聖杯戦争を始めたらしい』
『故に情報だ。"一組はであっていないため知らないが"…残り五組の情報なら幾らか渡せるだろう』
『私は私の忠節を示すため、動きを新たにする。
 "彼女"に最も素晴らしいものを届けるため───私は、自らを再定義する』


 あいつの、"主"。
 忠節を誓い、今も漕がれる相手。
 もしわたしがあいつの立場だったとしたらどうするだろう。
 命を懸けて、魂を賭して、二度目の生なんてものを得ても仕えたい相手がいたとして。
 その仔細を、たかだか利害関係で組んでる程度の相手に教えるだろうか。
 いいや、教えない。たぶん上手いこと隠して、バレないように努める筈だ。
 であればあいつの"主"は、きっと"出会っていないから知らない"と隠したもう一組で。
 それはおそらく、この世界を……聖杯戦争を仕組み、わたし達を運命へと放り込んだこの都市の神様。


 そんなもの。
 そんなことが、できる奴。
 わたしは、ひとりしか知らない。
 わたしはこの世界について、まだまだ何も知らないけれど――
 それでも断言できる。だってわたしは、あの光を知っているから。
 目に焼き付いて離れない、太陽みたいな白い恐怖を憶えているから。

「あんたも、あの子を知ってるの?」
「嫌というほど」

 わたしの投げた問いに、微塵の間も置かず寂句は即答した。
 蛇杖堂寂句。ホムンクルスは、わたしにその詳細な人物像までは伝えなかったけれど――
 今なら分かる。こいつは間違いなく、"前回"のトップランカーだ。
 こんな化け物、同盟でも結んでなりふり構わず叩かないと倒すどころか勝負することすら難しいだろう。
 まともな形式と頭数で行われる聖杯戦争だったなら尚更。
 でも、恐らくこいつは失敗した。どこかでしくじって、負けて、死んで、それから蘇らされて此処にいるのだ。

 じゃあ――誰がそれをやったのか。 


「私がアレに抱いた狂気(かんじょう)は〈畏怖〉だ」
「畏怖……畏怖? あんたが?」
「アレは地上にあっていい生物ではない。新たな霊長と呼ぶにも度が過ぎる、この世全てを冒涜する白光だ。
 対抗しようと考えるなら、南米の蜘蛛を起こすことすら大真面目に視野に入るだろうよ。
 私の場合、気付いた時には既に遅かったがな。ク――我ながら笑えん無能を晒したものだ」


 その言葉は、この傍若無人な老人から出てくるにはあまりにも"らしくない"。
 なのにわたしは、初めてこいつに共感のようなものを感じていた。
 わかる。わかるよ。アレは確かに、怖い。
 同じ世界にいてほしくないと、相手の人となりも知らないのに本能でそう思った。

 例えばだけど、一足す一の答えが零だって言ってくる人間がいるとしよう。
 誰だってバカだと思う筈だ。それも、ちょっと真面目に関わりたくない部類の。
 でも、もしもそのありえない答えが真実であると目の前で証明されてしまったら?
 何をどう考えても理屈としておかしいことが、まるでそいつの機嫌を取るみたいに現実になってしまったら?
 わたしにとってあの夜のことは、そういうものだった。
 まるでそれは、そう。あの子のために、あるべき理屈が、ひとつの世界が狂っていくような……

「ホムンクルスに誑かされたのなら、既に"前回"の存在と役者については知っているな?」
「……まあ、触りくらいは。あいつ、細かいことは教えてくれなかったし」
「私もそこまで教えてやるつもりはない。いささか事情が変わったとはいえ敵は敵、端役は端役だ。生憎私は、他の無能どもほど他人の有能さを信用していないのでな」

 いつもの嫌味な台詞だけど、少しだけ納得があった。
 ホムンクルスはとにかく説明が足りなくて自分勝手な奴だけど、あいつなりに誠意というものを示そうとしていたように感じる。
 あいつの場合、なんというかそれが人の尺度とズレてるだけで……少なくとも悪意ありきで近寄ってきたわけじゃないことはなんとなく分かった。
 そういう意味では、あいつは他人というものを信じようとしているのだろう。期待しようとしている。何かを変える可能性があると思って、わざわざ知らせなくてもいい過去の話を打ち明けてきたのだと今なら思う。

 その点、この蛇杖堂寂句という男はそんな風にはまったく見えない。
 本人の言う通り、こいつは他人を頼らず、自分で事を収めようとするタイプに見える。
 じゃあ何故、あの状況でわざわざわたしなんかを助けたんだろう。
 矛盾という、この機械じみた男に一番似合わない言葉を想起しながら、わたしは続く言葉を待った。

「しかし――既に灼かれているというならば、貴様を灼いた星の話くらいは聞かせてやってもいい」
「……星。それって、やっぱり」
「あの娘の名は神寂祓葉という。
 神を祓い、寂しがる葉……まったく笑えない皮肉だがな。寂寥で世界を滅ぼされては堪ったものではない」

 神寂――祓葉。
 その名前が口にされた瞬間、病室の気温がぐんと下がったように感じたのは、わたしが今もトラウマを引きずっているからなのか。

「アレ……何なの。
 魔術師? それとも、死徒とかいう吸血種? 幻想種との混ざり物とか言われても信じるけど」
「いいや? ただの人間だ」
「は……? いや、今冗談言うような場面じゃ」
「人間だよ。外付けされたモノの存在を除けば、神寂祓葉は確かにひとりの人間だ。
 構造で言うならば私や貴様よりも余程人間らしいとも。事実、聖杯戦争に関与するまでは普通の女子高生として過ごしていたと聞く」

 悪い冗談であってほしかったと、こんなに思ったことはないかもしれない。
 サーヴァントの矢を片手で撃ち落とすのが、人間?
 わたしみたいな半端者の魔術師でも、"魔法"級のモノだと分かるあの巨大な白狼を一太刀で斬り伏せるのが、わたし達と同じ人間だって?
 でも寂句の顔にふざけている様子はないし、そもそもこいつがそんな無駄を許容する人間じゃないことはわたしも分かっていた。

「現実を踏破する力を持つが、それを開花する機会に恵まれなかった徒花。
 しかし出会った英霊が悪かった。ヒトの肉体が抱える物理的限界を踏破する手段を得て、神寂祓葉は覚醒した。後は貴様の見た通りだ」
「……あんた達も、それで?」
「ああ。過程の違いはあれど、恐らく全員が奴の手にかかり討たれたのだろう。
 そしてどいつもこいつも、アレの輝きに灼かれ我を忘れている。
 望遠鏡で覗くだけでも目を灼く恒星に、我々は"触れて"しまったのだ。末路としては当然と言える」

 前回は、最初誰もその危険性に気付けなかった。
 だから皆、警戒することもなく自分達の戦いをしていた。
 巻き込まれた不運な一般人A。魔術師の戦いのいろはも知らない、無力で取るに足らないエキストラ。
 いつでも殺せる、だから重視しない。対策なんてもってのほか。
 戦場の片隅で勝手に死ぬだろうし、そうでなくても厄介な他を狩ってから悠々自適に追い詰めればそれでいい。
 わたしは初めて、寂句やホムンクルス達、"前回"の役者どもに同情した。
 だってそれは――あまりに喜劇じみた話じゃないか。それも役者を指差して笑うたぐいの、性格の悪い。

「この聖杯戦争は奴が始めたものだ。
 〈熾天の冠〉――聖杯の力によって我々を蘇らせ、悪びれもせず"遊び"と称して踊らせる。
 今も昔も、奴の心にあるのは子どもじみた欲求だ。アレは我々にも貴様らにも、等しく一片の悪意も抱いていない」
「ホムンクルスは、そのカムサビ某のことを主だって認識してるらしいけど」
「無能め、少し考えて分かれ。
 道具として生まれ、それ以外の世界を知らなかった赤子が、自己を対等と看做して微笑みかける地上の太陽を見たのだぞ?」

 そう返されると、沈黙するしかない。
 初めて、あの無愛想なホムンクルスに同情した。
 わたしは自分の生まれた世界を心底嫌だと思ってた。
 だけどあいつは、最初に見た外の世界が祓葉(アレ)だったってことなのか。

 だったら――そりゃ、そうもなるよな。何も不思議な話じゃない。

「……話は分かったよ。未だに現実味がないけど、でもとりあえず理解はできた」
「理解? ふん――」
「どうせ"浅慮は無能の証だな。アレについては私でさえ未だ~~"とか言うんでしょ。
 こっちは病み上がりなの、偏屈お爺ちゃんのネチネチトークに付き合えるほど原状復帰できてません。そっちこそちょっとは分かってよ」

 半ば強引にお決まりの流れを吹っ切る。
 こうやってまともに話して改めて思うけど、こんなロジハラの化身みたいな奴に付いていく医者がいることが不思議でしょうがない。
 こいつのネチネチに青筋立てる余裕も、正直今はあんまりないのだ。
 だからぶった切ってから、無理やりにでも話の本題をねじ込むことにした。

「で。あんたは、わたしに何をしてほしいの?」

 そう、今気にするべき一番の本題はこれだ。
 だって、どう考えたっておかしい。
 蛇杖堂寂句は他人に可能性を求めない。
 神寂祓葉を超えるための光なんてものを探す気はないと、こいつはその偉そうな口で断言した。

 ならどうして、こいつはわたしを助けた?
 放っておけば死んで、未来の敵がひとり減っていたのに。
 矛盾してる。その矛盾が、命を繋いだ安堵に勝るほど気持ち悪い。
 事と次第によっては、この場でさっきの続きをすることになるかもしれない――いつでも"加速"できるように備えながら固唾を呑んだわたしに、老人は事も無げに答えた。

「別段、何も求めはしない」
「……、え?」
「無能の上に難聴か? 何も求めない。それ以上でも以下でもない」
「は……何よ、それ。そんなのぜんぜん理屈が通ってないでしょ」

 鬼の目にも涙、なんて話がこいつに適用できるとは思えない。
 訝しむわたしに、しかし寂句は呆れたように嘆息して。
 それから、実にこいつらしい理屈を並べ始めた。

「先程も言ったが、私は己以外のすべてに期待していない。
 白紙の大地を漁って星の聖剣を探す趣味はない。
 信用すべきは我が身以外になく、未来永劫その結論が覆ることもないだろう」
「なら、なんで」
「しかし、いずれ遂げる大願に向けて盤面を整える工夫はする。それは期待ではなく、企ての成功確率を引き上げる合理的な行動だ」

 皺の寄った、なのに衰えや見窄らしさは感じさせない顔が笑みを描く。
 やはりというべきか、それはわたしに対する嘲りの顔だった。

「祓葉と邂逅して生還し、その上で衛星のひとつ――ホムンクルスとの縁を持っている。
 不確定要素としては悪くない。故、踊り続けさせた方が私の益になると判断した。それだけのことだ」
「えーと。つまり、何。
 当て馬としていい感じだから、とりあえず助けてみたってこと?」
「無能らしい理屈の省略だが、大筋は合っている。
 貴様が何も成さずに犬死にしようが私の益になる金星を生もうが、どちらにしろそれで私に不利益が生じることはない。
 そして貴様がもう一度私に挑んだとして、その程度の実力と能力では決して私の牙城を脅かせなどしない。
 だから救ってやった。拾い上げてやった。これ以上まだ説明が必要か? ならば懇切丁寧に語ってやるが」
「オッケー、もう喋んなくていいよ。あんたが自分と祓葉以外の全部を平等に見下し腐ってることはよ~~く分かったから」

 マジでぶん殴ってやろうかこのクソジジイ。
 いや実際実行に移しても吠え面かく未来が毛ほども見えないからますます腹立つんだけど。

 まあとりあえず、理屈は分かった。深く考えようとしたわたしが馬鹿だったってことも。
 つまるところこいつの行動方針は"アレ"――神寂祓葉の討伐に終始していて。
 だからこそ、それ以外の何も心からは見ていない。いや、見る価値もないんだろう。だって実際、こいつは依然として聖杯戦争という土俵における最強格だ。個人の能力、頭脳、持っている社会的能力、全部がわたしみたいな一般人崩れの魔術師とは格が違う。

 そんな男をして、注視せざるを得ないモノ。
 普通に戦っていたら聖杯戦争のひとつやふたつ制せてしまうような怪物でさえ、備えなければいけない規格外。
 わたしがあの夜に見たものは、それほどの存在なのか。改めて気の遠くなる思いがこみ上げたことを、どうか責めないでほしい。

「無能のために手を尽くした時間が一時間後には無駄になってるかもしれないよ。それでもいいの?」
「屑籠に放り投げたちり紙が的を外して床に落ちた程度のことだ。その時は思うこともあろうが、数秒後には忘れる」
「分かったよ。じゃあわたしは、あんたの気まぐれで助かったことを喜びながらそのニヤけ面を曇らせることに腐心するから」
「そうか。精々励むことだ」

 悪態をついてはみたものの、正直こいつと再戦するのは機会があるとしても相当後になるだろう。
 さっきも言ったけど、こいつは……蛇杖堂寂句という男は前回の勝者、神寂祓葉以外を基本的に問題としていない。
 つまり、敵対する理由が当面のところないのだ。ならこっちから進んで喧嘩を売る理由もない。
 それにわたしの方からしても、こんな何かの冗談みたいな化け物と進んで関わりたくはないし。

「……ところでなんだけど。助けてくれたついでにもうひとつお医者様の意見を聞いてもいいかな」
「吐くだけならば自由だ。答えるに値するか否かはこちらで判断するが」
「――偉くて強くて素敵なお医者様のあんたは……わたしは、これからどう行動すればいいと思う?」

 あっちが勝手なら、こっちも勝手をしたって構わないでしょ。
 それに、こいつを相手にするならそのくらいの気構えでいいと心底分かった。
 だからこその問い。だけど、本心から知見を聞きたいことでもある。

 今、わたしの中にはふたつの問題がある。
 ひとつは、聖杯戦争に勝利して願いを叶えること。
 もうひとつは、神寂祓葉という回避不能の"障害"とどう向き合えばいいのかってこと。
 ……ふたつめについては、正直考えたくもないけれど。
 あんな化け物と正面から向き合うなんて、絶対に御免被りたいけれど――それでもやっぱりこの〈都市〉に演者(アクター)として呼ばれたからには向き合わない選択肢はないのだろう。
 だから図々しいのは承知で問いかけることにした。どの道こいつとは、そんな遠慮とかするような間柄じゃないんだし。命の恩人なのは確かだけど死に瀕する原因を作ったのもこいつなんだからとんだマッチポンプだ。よって問題なし。誰がなんと言おうと、問題なしだ。
 そう開き直ったわたしに、老人は言った。

「私は貴様の人となりの詳細など知らん。よって出せる答えには限りがある。
 それでも、私見で構わないのならば――ホムンクルスを頼るがいい。アレは私ならば語らない情報を貴様に伝えるだろう。
 奴の取り柄は純真で、欠点も然りだ。それが良い方に作用するにせよそうでないにせよ、少なくとも停滞以上の成果は齎すだろうよ」
「……そ。やっぱりそういうことになるんだ」

 正直、知らない奴らの内輪ノリに巻き込まれてるみたいで気分はよくないけれど。
 神寂祓葉という神が始めた物語で奴の端役に終わらないためには、こいつらの存在は重要な鍵になる。
 実際に戦って、そして前回の肝の部分を聞いた今はその結論に深い納得があった。
 となると、端役のわたしにわざわざあっちから接触してきたホムンクルスは絶対に無視できない。
 あいつも大概問題のある奴だったけど、それでもこの嫌味ジジイに比べればまだ話の通じる相手なのは間違いないし。

「話は終わりだ、速やかに退院しろ。言っておくが次に会うことがあれば、私は躊躇なく貴様を殺す」
「なっ、自分で助けておいて……!」
「確かにそうだが、それがどうした? 救った命は奪ってはならないという規則でもあるのか」
「まず人を殺しちゃいけないってルールが人間社会にはあるだろうがよ」

 この歳で此処まで俺様やってる奴、若い時どんなだったんだろう。
 気になるような、想像もしたくないような……。
 微妙な気持ちの中で立ち上がろうとして、ふと。

「あの。ところで、聡明なるジャック先生に聞きたいことがもうひとつあるんだけど」
「帰れと言った筈だが?」
「退院しろって言われても、わたしまだ手術受けてからせいぜい一時間ちょっとでしょ。動いていいの?」
「損傷箇所の修復には霊薬を用いたと言ったろう。
 それでもまあ、確かに普通ならば半日は安静にすべきだが……長々と居座られても鬱陶しいのでな、覚醒剤を投与しておいた」
「――おい待てこのヤブ医者。今なんて言った?」

 いや退院しろって、こっちガチの病み上がりなんだけど――と思ったので聞いてみたら、思わず耳を疑うとんでもない発言が飛んできた。

「早合点もまた無能の証だ、話は最後まで聞け。
 確かに一度でも摂取すれば極悪な依存性で瞬く間に廃人にできる改悪品も手元に無いではないが……生憎、貴様の保護者がずっと目を光らせていたのでな。 
 もしも私が奸計を弄していたなら速やかに戦端が開かれ、貴様は今頃この世に居なかったろうよ」

 嗜好性を排除して医療用に特化させた、市販品より多少優れたサプリメントのようなものだ、と。
 まだ説明が必要か? とばかりの調子で述べてくる寂句に、わたしはほんのわずかでも近付いた心の距離をたちまち後退させる。
 うん、前言撤回。やっぱりこいつら、どいつもこいつもとんでもないロクでなし集団らしい。
 まあ、本当に傷の痛みでのたうち回って半日動けないとか冗談にもならないのでありがたいっちゃありがたいんだけど、ぐぬぬぬ……。

 ……とりあえず。
 これ以上長居してると、お医者様の傲慢が今度は牙を剥いてきかねない。
 恐る恐る傷口に触れてみるけど、包帯こそ巻かれているが痛みはなかった。
 伸びをしても同じ。これなら確かに、行動しても問題はなさそうだ。

 アーチャーの方を見る。
 やや申し訳無さそうな顔をしていたので、思わず苦笑が出た。
 わたしが起きた時あんなにうるさかったのは、この様子を見るに喜びすぎてついつい我を忘れてしまった感じだったのだろう。
 なんていうか、あめわからしいな、と思う。本当に、わたしの喚んだサーヴァントがこいつでよかった。
 命は繋いだ。知るべきことも、知れた。ならそろそろ、また足を動かさないと。

「正直、あんたにこういうこと言うのはすっごい癪なんだけど――ありがと、いろいろ助かった」
「仏の顔も三度まで、という言葉を知っているな?
 次はない、帰れ。無能の誠意などという糞の役にも立たん自己満足に私の時間を使わせるな」
「はいはい、言われなくても帰りますよっての」

 本当に可愛げのひとつもないジジイだ。
 二度と会いたくないし、何なら名前も聞きたくない。
 だいたいいくら健康上問題ないからって、ついさっきメスを入れた病人にこんな物言いができるか普通。
 わたしはベッドから立ち上がると、アーチャーに向けて頷いた。
 行こう、という合図だ。アーチャーはまだ少し心配そうだったが、わたしの様子を見て「とりあえず大丈夫」と判断してくれたらしい。彼も彼で頷き返して、いよいよわたしたちはこの地獄みたいな病院を後にする。

「――でも、なんかちょっと安心したよ。
 あんたのこと、最初はどうしたらこんな化け物に勝てるんだよって思ったけど」

 足は止めない。
 止めないまま、最後に一言。

「あんたも、ちゃんと灼かれてるんだね」

 挑発のつもりはない。
 悪態とも、思っていない。
 単なる事実を、感想を伝えただけ。
 そう、わたしは"祓葉"の話をこいつから聞いていて、ふとこう思ったのだ。

 あの時はあんなに絶望的に見えた蛇杖堂の魔人。
 恐ろしい〈蝗害〉を、眉ひとつ動かさずに退けた怪物。
 そんなこいつが、祓葉の話をしているときだけは――

 まるで。
 やんちゃな孫に頭を抱える、偏屈な"お爺ちゃん"のように見えたから。



◇◇



 結局、寂句は何も言わなかった。
 追ってくることもなく、おかげでわたしは無事悪夢の病院を"退院"することができた。

「すまなかった、アンジェ」

 病院の中はというと、やっぱり大混乱に陥っていた。
 〈蝗害〉が侵食したのはわずかな時間だったけど、それでも被害は甚大だったらしい。
 ひっきりなしに行き来する担架、響く怒声と泣き声、床や壁の所々にこびり付いた、かつて人間だったのだろう血と肉片。
 もし地獄というものが本当に在るのなら、きっとこういう景色をしているのだろうと思った。

 なるべく見ないように努めたのは間違いなくわたしの弱さだ。
 一度足を止めてしまったら、すぐには進めない気がした。
 だから足早に、まるで無関係の他人のような顔で通り過ぎた。
 ――心の中で、ごめんなさい、ごめんなさい、と侘びながら。

「……なんであんたが謝るのさ、アーチャー」
「〈蝗害〉を討てなかった。ホムンクルスの企てに気付けなかった」
「あいつの一手がなかったら、今頃わたしたちも此処にいなかったでしょ」
「だとしてもだ。私が仕損じなければ、アンジェが傷つくことはなかった」

 今日あったことを、今日見たことを、わたしはきっと一生忘れないだろう。
 そして、忘れちゃいけないと思う。
 それが、生き延びた者の責任。無辜の彼らを巻き込んでしまった者の、責任。
 造り物だとか人形だとか、そういう言葉で片付けてしまったらわたしはあの医者と同じになってしまう。

 生きていたのだ、みんな。
 あの病院の患者たちは、誰もが生きていた。
 自分で生きて、歩いて、何かを考えていた。
 ならそれを"人間じゃない"なんて、わたしには言えない。
 あそこにいたのは、わたしと同じ人間だった。普通の人達だった。
 わたしたちの聖杯戦争のせいで、そんな"普通"の命が、数え切れないほど壊れた。

「――其方(とも)にそんな顔をさせることも、なかったのだ」

 鏡でもなけりゃ、自分で自分の表情(かお)は分からない。
 なんとか取り繕ってるつもりだったけど、そんなにひどい顔をしてたのか、わたしは。
 思わず自分に呆れた。失笑が、口をついて出た。

「じゃあ、わたしだってそうだ」

 認めよう。
 わたしはきっと、今までどこかでこの戦いのことを軽く見ていた。
 所詮、わたしたちだけの話だと思っていた。
 でも、違った。わたしたちがしているのは、"誰か"の幸せを足場に行う殺し合いだ。

 戦えば戦うほどに、誰かの幸せが壊れていく。
 そうまでしてでも生き残る、それがアンジェリカ・アルロニカという人間に与えられた旅路のカタチ。
 命を足蹴にする。不幸を、許容する。
 最低限だろうが無差別だろうが、それで失われる命の値打ちは等しく等価だ。
 なんて――地獄。ああ、地獄はきっとあの病院だけじゃない。
 この世界のすべてが、そうなのだと今なら分かる。わたしは、それを見た。

「わたしが先に気付いてたら、防げた」
「……違う」
「わたしがもっと強くて、蝗が来る前にあいつを倒せてたら、防げた」
「違う」
「わたしが"願い"なんて抱かなかったら、誰も死なずに済んだ」
「――違うッ! 断じてそれは……違うぞ、アンジェ……!!」

 響く、アーチャーの……あめわかの声。
 今にも張り裂けそうな声音に、わたしはまた笑った。
 いや、あくまで笑ったつもりなだけで。
 本当はどんな顔をしていたかは――分からないけれど。

「……ほら。わたしだって、あめわかにそんな顔させちゃってる」

 もしも、魔術師としてもっと鍛錬を積んでいたら。
 お母さんやお父さん、時計塔の奴らと同じように一意専心叶うはずもない夢を追っていたら。
 わたしは、あの悲劇を防ぐことができたろうか。
 分からない。考えても、答えは出ない。イフとはどこまで行ってもただの空想、自慰以外の価値も意味も持たない。

「ねえ、あめわか」
「……なんだ、アンジェ」
「戦うのって、辛いね」
「そうだな。私も、心底そう思う」

 天若日子という神のことを、わたしはもう知っている。
 デリカシーに欠けるかと思って本人には伝えてないけど、今の時代、図書館に通わずとも歴史や神話は文字通り片手間で調べられる。

 偉い奴の命を受けて地上に降り立った、弓持つ神様。
 凶暴な悪い神を討ち、けれど、地上を愛してしまった神様。
 戦い/大義の外の世界を、知ってしまい――
 そうして、天の罰を受けて露と消えた、徒花の神。

 蛇杖堂寂句ならば、無能と呼ぶのだろう。
 任ぜられた仕事を果たすだけで報われたのに、色気を出して逆賊に堕ちた莫迦と。
 でも、わたしはそうは思わない。それはきっと、自分の人生と重ねてしまうから。

「それでも、ね。わたしは――戦いたい。
 凄い理想なんてない。殉じるような信仰も、摩訶不思議な奇跡がないと叶わない野望もない。
 わたしは、ただわたしのためだけに、戦いたいとまだ思ってる」

 根源へ至るという、大義。
 すべての魔術師が抱える悲願。
 けれどわたしは、その外に目を向けてしまった。
 大義でない生きる意味を、求めてしまった。

 大国主命の娘に。
 下照比売に恋をした、彼のように。
 殉ずる以外の選択肢を、見つけてしまった。

「……あめわかは、こんなわたしでもついてきてくれる?」

 わたしは、生きたい。
 与えられた世界の、大義の、外側に行きたい。
 その願いが、地獄を知った今でも胸の中で燃え続けている。
 戦え、と。叶えろ、と。……乗り越えろ、と。
 太陽を知り、狂気を知り、地獄を知り、命の意味(おもさ)を知った今も炎が消えてくれないのだ。

 なんて、罪深い。
 なんて、情けない。
 なんて――必死なのだと、自分でも思うけど。


「当然だ」


 そんなわたしに、ああやっぱり。
 あめわかは、疑いなんか挟む余地もない顔で、即答してくれて。

「アンジェ。私は御身の弓であり、御身の矢だ。
 だがそれ以前に、私は其方を朋友だと思っている」
「……うん。知ってる。しょっちゅう言ってるもんね、ソレ」
「なればこそ、私からアンジェの隣を離れることは決してない。
 目指す先が浄土であろうが、地獄であろうが。
 あるいはそれ以外の魔道であろうが――忠を捧げ友誼を結んだ以上は、お供をしよう」
「流石天津神そっちのけでランデブーに明け暮れた神様だ」
「ぬ……。ひ、否定はせぬがな。私とてそれなりにお上への引け目はあったのだぞ!?」

 ――よって、思う。
 ああ、やっぱり。
 わたしのサーヴァントが、こいつでよかった。
 大義ならざる夢を見たこいつは、わたしの幼稚な夢を否定しない。
 いつだって寄り添って。いっしょに戦って、背負ってくれる。
 口ではこう言ってるけど、本当にありがたく感じてる。誓って本心だ。

「あのさ、あめわか」
「……うむ」
「わたし、あめわかがサーヴァントでよかったよ」

 ホムンクルスもあのヤブ医者も、兎にも角にも言動に問題がある。
 ホムンクルスは言葉が足りないし、寂句は配慮とかデリカシーとか何から何まで足りなすぎる。
 直近で出会ったのがそんな論外どもだったから、せめてわたしは、思ったことを率直に伝えようと思えた。

「だから――お願い。こんなわたしと、これからも一緒に戦って」

 わたしは弱い。
 力も、心も。
 あめわかがいないと、戦えない。
 だからわたしは、星に願うように、こんなわたしを友と呼んでくれた神様に乞い願った。
 その祈りに、あめわかは。

「しかと承った。これまでもこれからも、変わることなく我が弓は御身のために振るおう。
 だから、その……なんだ。こちらの方こそ、こんな私で良ければ――だな。末永く、共に。その」
「……ふふ。あははは。神様が恐縮してどうすんのさ」
「ぬ……! ぐ、ぐむむむ……」

 神様にしては可愛く、けれどわたしにとってはこの世の何よりも頼もしく、応えてくれた。
 少しからかってみたのは照れ臭さから。
 だけど心は、底の底まで安堵してる。
 ひとりじゃないんだ、って思えて。
 嬉しかった。そう、本当に……とっても、嬉しかったのだ。

「とりあえず、ホムンクルスに会おうと思ってる。
 あのクソジジイの話を聞くにあんちくしょう、説明不足も甚だしかったみたいだから。こってり絞るのも兼ねて、いろいろ聞きたいなって」
「……賢明だな。奴らのやり方は心底気に食わぬが、蛇のご老人よりか話が通じる相手なのは事実だ。
 髑髏面の暗殺者はともかく、赤子の方は打算ありきでも誠意のようなものを示そうとしていたように思うしな。
 ――いやそれにしたってアンジェをほっぽり出してさっさとトンズラこいたことには多分に思うところがあるが……」

 アサシン陣営――もとい、ホムンクルス。〈はじまり〉の欠片、衛星のひとつ。
 好き嫌いで言ったら、やっぱり好きではない。思うところはたくさんある。
 きっと価値観も違う。犠牲を出したくないわたしと、犠牲を当たり前に考えるあいつ。話し合いは難航するかもしれない。

「それでも、当の本人であるあの老人がホムンクルスを頼れと言ったのだ。改めて会って、話をしてみる価値はあるだろう」

 だとしても、会う価値がある。
 わたしもあめわかとまったく同意見だった。
 あいつは、寂句とは違う。
 曲がりなりにも他人と対等に関わろうという危害がある。
 そして、蛇杖堂の怪物と同じく……あの白い太陽に灼かれている。
 ホムンクルスとの縁は、力も思想の強度も足りないわたしが唯一持ち得るアドバンテージ。
 であれば他に選択肢はない。幸いにして今は、わたしにもあいつの足元を見れるだけの知識がある。

「じゃあ、決まりだね」
「……ああ。露払いは任せてくれ。
 不甲斐ない姿を晒した分、次こそは完璧に其方の近衛の任を果たしてみせよう!」

 得たものはひとつ。
 前回の、そしてこの世界の"根源(カミ)"。
 神寂祓葉という、拒むべき/超えるべき太陽。
 失ったものは、数え切れないほど。
 でも、わたしに振り返る権利はない。
 願いを抱き、それを遂げるためにひた走るのなら――振り向いて泣き崩れても、それは自慰めいた偽善に過ぎない。

 そうして、こうして、わたしはもう一度歩き出す。
 失敗と、現実。ふたつの古傷を抱えながら。
 目指すはホムンクルス、老獪な蛇と並ぶもうひとつの衛星。
 太陽を超え、狂気の向こう側に辿り着くため。アンジェリカ・アルロニカは、それでも進む。



◇◇



「よかったのですか、マスター」
「質問をするなら主語述語を明瞭にしろ」
「マスター・ジャックであれば、あのアーチャーの眼を欺いて策を仕込むことも可能だったのでは?」
「無能め。貴様は天津神の尖兵を舐め過ぎだ。
 アレはわずかな悪意だろうがすかさず反応し、事を荒立たせていただろうよ。
 アルロニカの遺児の末路は私にとってそう重要ではないが、じきに夜が来るこの局面で不要な消耗を負うのは本懐ではない。
 以上だ。まだ訊きたいことがあるのなら、英霊としての沽券を担保に口を開くことだ」
「……失礼致しました。疑問への解は示されたので、口を閉ざします」

 アンジェリカ・アルロニカ。
 ホムンクルス36号
 そして、楪依里朱の〈蝗害〉。
 三者三様三種の侵略は、いずれも蛇杖堂寂句を墜とすこと叶わず。
 されど、決して無意味ではなかった。

「この土地はもう使い物にならんな。
 犠牲は微々たるものだが侵入を許した時点で土地そのものが飛蝗どもの食欲に呪われた。
 結界を貼るにも陣を拵えるにも労力と結果が見合わん。業腹だが、陣地としては破棄するしかない」

 アンジェリカと彼女のアーチャーが、寂句の対応を幾らかでも遅らせた。
 それを良いことに飛蝗どもは増長し、ホムンクルスがそこへ付け込んだ。
 結果、備えは決壊して〈蝗害〉が一時なれども蛇杖堂記念病院ないしその聳える土地に"侵略"してしまった。
 その時点で、この土地は潰れた。〈蝗害〉への対処に抜かりはなかったと今でも思うが、想定外の猛悪さであったことは否めない。

 ――サバクトビバッタは群れを成す。
 群れを成し、地平を覆う暴風と化して視界のすべてを暴食する。
 生き物が餌を食えば、当然その後は糞をする。
 一匹二匹ならいざ知らず、数億数兆数京の飛蝗が垂れる糞だ。
 それは汚泥となり、彼らが食べ残した穀物さえもを腐らせる。
 そんな生態を再現するが如く、飛蝗どもの侵略を許した蛇杖堂記念病院の在る土地は腐敗の兆候をきたしていた。

 今や泥濘みの上に城を築いているようなもの。
 非常に脆く不安定で、引き出せる可能性がない。
 壊された結界や仕掛けの復元だけなら数時間と要さないが、やったとしても元通りにはまずならないだろう。
 以前より格段に脆く隙だらけで、簡単な介入で容易く崩れ去る砂の城が出来上がるだけだ。
 土地喰いの蝗害。その真価は、しっかりと発揮されていた。

「しかし楪の魔女め、思春期は未だに治らんと見える。
 此度の聖杯はずいぶんと寄り添った人選をするものだ。
 感情任せに運用しても一定の成果を挙げられる土地喰いの虫螻ども……なるほど奴の走狗としてはこの上ない逸材か」

 魔術師・蛇杖堂寂句の陣地としての蛇杖堂記念病院は破棄する。
 が、それでも寂句にとっては食い扶持をひとつ潰された程度の損害でしかない。
 反面、得られた情報は大きいと来た。中でも一番の釣果は、ホムンクルスとその英霊に関すること。

「その点、よりにもよってあの赤子に喚ばれた〈山の翁〉には同情を禁じ得んな。
 無能ならぬ無脳と化した奇形児に扱える駒ではなかろうよ、アレは」

 他の〈はじまりの六人〉の例に漏れず、蛇杖堂寂句も彼の〈山の翁〉を知っていた。
 忘れられる筈もない。前回どれほどあのアサシンの手練手管に振り回されたことか。
 彼がまたも聖杯戦争の場に這い出てきた事実は脅威だったが、マスターがホムンクルスであるなら事の重要度は一気に低下した。
 前回の大暴れはノクト・サムスタンプという頭脳戦の怪物あってのもの。
 不自由が多く未熟で、その上脳幹たるガーンドレッド家を切り離したホムンクルスに扱えるカードでは断じてない。

 であれば、やはり期待すべきは。
 そして警戒すべきは、ノクト・サムスタンプか。
 じきに夜が来る。そうなれば、いよいよあの鬼人も本格的に動き出すだろう。

 ――さて。
 その時己は、どうするか。

「……それにしても」

 ふ、と寂句は笑みを零した。
 彼らしからぬ、どこか自嘲げな笑みだ。
 脳裏に再生されていたのは、"アルロニカの遺児"の去り際の言葉。


「無能なりに諧謔を拵えたか。愚直で幼稚だが、未熟者にしては悪くないエッジだ」


 ――昔の話をしよう。
 蛇杖堂寂句という男は、およそ完璧という言葉のこの上なく似合う魔術師であった。

 技術を旧新で判断せず、それが有用ならば最新の現代機器でも躊躇なく使う。
 だが逆に、いかに伝統的だろうが無用と判断すればあらゆる慣例に倣わない。
 "邪道の蛇杖堂"に生まれ落ちた久方ぶりの天才。
 されどその実情は、いつも通りの魔術師崩れ。魔術使いと大差のない、手段の模索に節操のない凡俗。
 彼をそう嗤う者は数いたが、実際に寂句と対面した上で、もう一度同じ口を叩けた者はいない。
 当代の蛇杖堂に触れた者は皆、口を揃えてこう言った。
 ドクター・ジャックに関わるな。あの男は、極めて危険な"異端"であると。

 そんな男が、〈熾天の冠〉と名された願望器を争奪するための儀式に名乗りをあげた。
 その知らせを聞き、ある者は取り寄せていた触媒を自宅の美術品に堕させる決意を固めた。
 時計塔のロードならば臨むところだ。狡知に長けた暗殺者、良いではないか自分の秘奥を見せてやる。
 しかし――この両刀を極めた魔人とルール無用で殺し合うのは御免被る。
 実際、かの人物の判断は慧眼であったに違いない。寂句はそんな魔術師の名前など、とっくに忘却の彼方へ遣ってしまっていたが。

 爆弾魔のテロ行為が横行し。
 髑髏の死神を連れた詐欺師が駆ける。
 幕を開けた聖杯戦争でも、寂句は一度としてミスを冒さなかった。
 ただひとつ。最後に冒した、ただひとつだけを除けば。
 蛇杖堂寂句は揺るぎない最強のまま、聖杯戦争を制していたことだろう。


「ランサー。回答を許す」
「はい。マスター・ジャック」
「私は、狂って見えるか?」
「は……? ――あ、いえ」


 寂句は死んだ。無様に殺された。
 されど、彼の行く先は冥界ではなく再びの現世、再びの聖杯戦争だった。
 神の戯れ、稚児の我儘。
 暴君を終わらせた少女は、自分達を散々苦しめた彼をさえ当たり前のように蘇らせたのだ。

 聖杯戦争を共に楽しむ、"友達"として。
 そう、蛇杖堂寂句は蘇ってしまった。
 奇跡のような偶然で滅び去った男が、敗北を知った最強として再び都市に立ってしまった。

 であれば結末は決まっている。
 その采配に無駄はなく、次こそミスは冒さない。
 蛇杖堂の暴君が冠を戴き、誤った歴史を正す。
 ――彼が本当に、以前と同じ"彼"であるのなら。

「……そのようには見えません。この都市で当機構が見た貴方の姿は常に理知的で、いつも合理に従い行動されていたように思います」
「そうか。クク、やはり機械にヒトの機微は分からぬらしい」

 蛇杖堂寂句は、敗北してしまった。
 初めての敗北。今もって理解のできない愚行の末の、敗北。
 既に〈熾天の冠〉を争っていた時の寂句は存在しない。
 極東くんだりまで彼を尋ねてきた先代のアルロニカ、〈雷光〉と問答を交わした時の彼はもう何処にもいないのだ。

 後天的不完全。
 あるいは、狂気。

 それが、敗れた寂句に告げられた病名である。
 完璧な道具であったホムンクルスが親離れなど覚えたように。
 完璧な詐術師であったサムスタンプが恋など知ったように。
 完璧な求道者であった寂句は――道理では語れぬ、恐ろしい/畏ろしい光を知ってしまった。

「良い機会だ、貴様に断じておこう。
 蛇杖堂寂句(わたし)は既に正常ではない。とうの昔に狂っている」

 九十年を費やした悲願への探求を捨てて、生物一個の追放に邁進しているのがその証拠。
 以前までの寂句なら、やるにしても本筋を進めつつサブプランとして聖杯の獲得も目指しただろう。
 だが今となっては、あれほど追い求めていた根源到達とその先の未来図になど、毛ほどの関心も抱けない。
 端的に言って、どうでもいいとすら思っていた。この変貌が狂気の賜物でなくてなんだというのか。

 寂句の言葉を聞いたランサー……天の蠍(アンタレス)と名付けられた英霊は、少し言葉を詰まらせた。
 何と返せばいいのか、純粋に分からなかったのだろう。
 まるでどこかの救済機構のようにもごもごと逡巡した後、不器用に声を発する。

「質問します。マスター・ジャックは……当機構に、ご自身の狂気を正してほしいのですか?」
「阿呆が。思い上がるな。
 この私がたかだか影法師ごときに進言を乞うような惰弱に見えるのか?」

 身も蓋もない返事に、アンタレスは今度こそ沈黙する。
 その様を一度鼻で笑って、寂句は言った。

「逆だ。
 貴様はこの道が狂人の戯れ言であると知った上で、何も語らず付き従え」
「……、……」
「狂気ならずして大義は成せぬ、などと無能めいた言い訳をするつもりはない。
 私は狂っている。故に狂気のままに、あの星を射抜かんとするのだ」
「――何のために、でしょうか」
「愚問。
 ただこの"種"の尊厳と、意義を護るために」

 神寂祓葉は、恐ろしい。
 アレはもはや、霊長の枠組みにいない。
 旧新ではなく、構造からして別物だと言わざるを得ない。
 仮に人類史の終端(オメガ)までもを見届けたとしても、アレに並ぶ種など生まれ落ちることはないと断言できる。

 ――もうひとつ、恐ろしいことを挙げるとすれば。
 何故か不思議と、あの少女に対して敵意を抱けないこと。
 蝗害の魔女なら違うだろう。あるいは、アレだけが六人の中で唯一の異端なのかもしれない。
 寂句でさえ、祓葉について語り考えている時、たまに愕然とすることがある。
 不思議なほど、あの"光"を悪しく思えないことに。
 ともすれば能力だけはあるが致命的にそれ以外の出来が悪い、そんな後進を見ているような気分になることに。

 ああ、恐ろしい。
 なんと、おぞましい。
 込み上げる〈畏怖〉が、堕ちた暴君に使命をくれる。


 ――あの小娘は、もはや地上にあってはならぬ存在だ。


 過去と未来、そのすべてを棄てた。
 どうでもいいと、かなぐり捨てた。
 そうして手元に残ったのはひとつ、天の蠍。
 過ぎた光を宇宙(ソラ)に放逐する、最終兵器。
 故に寂句は他の残骸と違い、針音都市に希望を求めない。
 彼の希望はただひとつ。彼の未来もただひとつ。

『ジャック先生は怖いくらい優秀だけど、少し真面目すぎるみたいですね』

 そう苦笑した、かつて問答を交わした〈雷光〉の言葉を。
 思い出したが、振り返らない。
 蛇杖堂寂句は自罰を知らない。
 故に暴君。傍若無人。いかなる邪道であろうとも――――信じた正道のためならば、蛇杖堂はそのすべてを噛み分ける。


◇◇


【港区・蛇杖堂記念病院/一日目・夕方】

【蛇杖堂寂句】
[状態]:健康、ダメージ(小)、魔力消費(小)
[令呪]:残り3画
[装備]:手術着
[道具]:各種の治療薬、治癒魔術のための触媒(潤沢)、「偽りの霊薬」1本。
[所持金]:潤沢
[思考・状況]
基本方針:他全ての参加者を蹴散らし、神寂祓葉と決着をつける。
0:この感情が狂気だとしても、為すべきことはひとつ。
1:神寂縁とは当面ゆるい協力体制を維持する。仮に彼が楪依里朱を倒した場合、本気で倒すべき脅威に格上げする。
2:当面は不適切な参加者を順次排除していく。
3:病院は陣地としては使えない。放棄がベターだろうが、さて。
[備考]
神寂縁、高浜公示、静寂暁美、根室清、水池魅鳥が同一人物であることを知りました。
神寂縁との間に、蛇杖堂一族のホットラインが結ばれています。
蛇杖堂記念病院はその結界を失い、建造物は半壊状態にあります。また病院関係者に多数の死傷者が発生しています。

蛇杖堂の一族(のNPC)は、本来であればちょっとした規模の兵隊として機能するだけの能力がありますが。
敵に悪用される可能性を嫌った寂句によって、ほぼ全て東京都内から(=この舞台から)退去させられています。
屋敷にいるのは事情を知らない一般人の使用人や警備担当者のみ。
病院にいるのは事情を知らない一般人の医療従事者のみです。
事実上、蛇杖堂の一族に連なるNPCは、今後この聖杯戦争に関与してきません。

アンジェリカの母親(オリヴィア・アルロニカ)について、どのような関係があったかは後続に任せます。
→かつてオリヴィアが来日した際、尋ねてきた彼女と問答を交わしたことがあるようです。詳細は後続に任せます。

【ランサー(ギルタブリル/天蠍アンタレス)】
[状態]:健康
[装備]:赤い槍
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:神寂祓葉を刺してヒトより上の段階に放逐する。
0:狂気――、ですか。
1:蛇杖堂寂句に従う。
2:ヒマがあれば人間社会についての好奇心を満たす。
3:霊衣改変のコツを教わる約束をした筈なのですが……言い出せる空気でもなかったので仕方ないですが……ですが……(ふて腐れ)


【港区・蛇杖堂記念病院付近/一日目・夕方】

【アンジェリカ・アルロニカ】
[状態]:魔力消費(大)、罪悪感
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:ヒーローのお面(ピンク)
[所持金]:家にはそれなりの金額があった。それなりの貯金もあるようだ。時計塔の魔術師だしね。
[思考・状況]
基本方針:勝ち残る。
0:ホムンクルスに会う。そして、話をする。
1:あー……きついなあ、戦うって。
2:蛇杖堂寂句には二度と会いたくない。できれば名前も聞きたくない。ほんとに。
[備考]
ミロクと同盟を組みました。
前回の聖杯戦争のマスターの情報(神寂祓葉を除く)を手に入れました。
外見、性別を知り、何をどこまで知ったかは後続に任せます。

蛇杖堂寂句の手術により、傷は大方癒やされました。
それに際して霊薬と覚醒剤(寂句による改良版)を投与されており、とりあえず行動に支障はないようです。
アーチャー(天若日子)が監視していたので、少なくとも悪いものは入れられてません。


【アーチャー(天若日子)】
[状態]:健康
[装備]:弓矢
[道具]: ヒーローのお面
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:アンジェに付き従う。
0:――アンジェは強いな。
1:アサシンが気に入らない。が……うむ、奴はともかくあの赤子は避けて通れぬ相手か。
[備考]



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最終更新:2024年12月04日 00:21