"記憶"という映像が、今日もあたしの中を流れていく。
 時に目まぐるしく、時に嫌味なほど緩慢。
 今の上映(それ)は、後者だった。

 あたしという物語のキャスト一覧に、父親の項はない。
 いつか、煙のようにどこかへ消えた生みの親。
 それ以上で、それ以下でもない。少なくともその存在は、あたしの人生になんの関係もなかった。

 記憶の中にある"家庭"の中にいるのは三人。
 あたしと、母親と、そしてその愛人。
 近隣の誰かが通報して、ケチな余罪も乗って両方揃って刑務所にぶち込まれて、それきり会ってもいないが。
 それでもあいつらの存在は、あたしという人間を形作る上であまりにも大きな影響を与えてくれた。もちろん、悪い意味で。

 手前の娘が鼻血吹いてても気まずそうな顔をするだけの母親も大概だったけど。
 我が物顔で家に入り浸っていたその愛人は、それ以上のクソだった。
 酒かパチンコ以外に生き甲斐も趣味もないクセに、毎夜臭い口で俺はどこそこの組と懇意にしてるヤクザ者なんだと嘯くばかり。
 今思えば、あんな歯抜け面の冴えないオッサンにそんな人脈あるわけねえだろ、って話だけども。

 ――おい、悠灯。
 ――お前はなぁ、いてもいなくても同じような人間なんだよ。

 ある日あいつは、部屋の隅で蹲ってるあたしにそう言った。
 いつ灰皿が飛んでくるか、はたまた灰皿に"される"のかと怯えているあたしを見る目は、厭らしく歪んでいた。
 いや、実際"そういう"気持ちもあったのかもしれない。だから手を出されなかったって点じゃ、あたしはまだ幸運だったんだろう。

 ――その証拠に、お前が泣いても喚いても誰も助けちゃくれねえだろ?
 ――"いないようなもの"なのさ、お前は。
 ――生きてようが死んでようが、だぁれも気にしねえんだ。寂しいなぁ、かっかっかっ。

 何がそんなに面白いのかビール腹を揺らして笑う顔を覚えている。
 それきりあいつは興味を失ったみたいにあたしから視線を外して、野球の中継を眺め始めた。
 そのあまりにもスムーズな、スイッチを切り替えるみたいな行動の移行は。
 まさに、あたしが"いてもいなくても同じ存在"であると証明してるみたいだった。

 普通なら、屈辱的な記憶なのかもしれない。
 悲しくて悔しくて、ともすれば一生脳裏に焼き付くような苦い思い出になるのが普通なのかもしれない。
 でもあたしの中にあるのは、当時も今も、すとんと落ちるような納得。
 あるいはそれは、あのクソがあたしにくれた唯一実のある経験だったのかも、しれない。

 いてもいなくても同じ。
 社会の塵、都会の石塊(ジャンク)。
 生きていたって誰も目に留めない。
 死んだって、誰も振り返らない。
 母親とクソが消えても、事実あたしの世界は本質的には何も変わらなかった。
 "灰色の世界"だ。白でも黒でも、まして突き抜けるような青なんかじゃ断じてない。

 混ざり物の灰色。
 曖昧の灰色。
 名もなき灰色。
 無価値の、灰色。

 何をしていても、楽しくない。
 生きる意味さえ、見出だせない。
 かと言って死ぬ意味もない。
 誰を殴ろうと、補導されて絞られようと、いつだって世界の色は同じ。
 あたしはついぞ、色(それ)と縁のないまま。
 気付けば、人生の行き止まりを視界に収めていた。

 自ら選んだ結末ではなく、ただ訪れるだけの結末。
 あたし個人を誰かが見つめ、もたらした終わりとは違う。
 無価値に、無感動に、満ちた月が欠けるように当然のものとしてやって来る終わり。
 華村悠灯(あたし)という物語の記された本の、最後の頁。
 無為に頁を捲り続けたあたしは、終わりが見えて初めて、ようやく希望を欲しがった。
 もう何もかも遅いのだと告げてくる、頭の中の理性を振り切って――走り始めた。

 それでも。
 死は、そんなのお構いなしに迫ってきてた。
 その事実を改めて突き付けられたあたしは今、あてもなく街を歩いている。

「……、……」

 ちょっと外の空気を吸ってくる。
 すぐ戻るから、心配しないで。

 ゲンジの奴にそう告げて、あたしはライブハウスの外に出た。
 すぐ戻る気なのは本当だ。狩魔さんに心配は掛けられないし、此処であの人達から離れるのは今後を見据える上でも愚策でしかない。
 無意味なことをしている自覚はあった。これはあたしの弱さで、どうしようもなく未熟な感情と向き合うための代償行為だ。
 不用意に外に出て、他の主従や〈刀凶〉の奴らに見つかったら只じゃ済まない――分かっているのに、足は止められなかった。

(――悠灯)
(大丈夫。ちゃんと分かってる)

 頭の中に響いた相棒の声に、あたしは迷わず返した。
 こいつはきっと、あたしという人間に終わりが近付いてきてることを認識してたんだろう。
 敏い奴なのはここまでの付き合いでちゃんと知ってる。
 じゃああたしは、分かってたなら言えよ、と悪態をつくのか。違う、流石にそこまでダサいガキにはなれない。
 それに、今言った通りだ。本当はあたしがいちばん、そのことを分かってたんだから。

(見ようとしてこなかっただけだ。"終わり"を直視するのは、怖いから。虚しくて、死にたくなるから。だから……)

 キャスターには、あたしのそんな感情も伝わっていたのだと思う。
 だからこいつなりに伝えるべき時を探していた、けれどその前にあの無遠慮なマジシャンが要らんお節介を焼いてきた。
 それだけのことだ。こいつも、ムカつくけど山越も、別に悪いことなんて何ひとつしちゃいない。

(悪いのは、あたしだ)

 答えは結局これ。
 あたしが弱いから。
 しみったれてるから、ガキだから。
 どんなに覚悟決めたつもりでも、自分の余命(おわり)さえまともに見つめられない未熟者だから。
 だから、こんなことになっている。
 リスクを犯して、相棒に心配かけて気負わせて、意味も価値もない散歩でせっせとメンタルケア。

 馬鹿みたいな話だ。
 思わず、反吐がこみ上げた。

(君は、何も悪くない)
(……そうかな)
(死とは、生物の根源だ。
 魂の奥底に眠る、宿命としての恐怖なのだ)

 死なない生き物はいない。
 一匹の蟻もひとりの人間も、生まれていつか死ぬという意味じゃ平等だ。
 違いがあるとすれば、死から解き放たれた存在。
 幽霊。もしくは――英霊。

(護国の大義を掲げ、数多の骸を重ねた英傑でさえも死に怯える。
 物言わぬ虫の一匹さえ、本能で捕食者から逃げ惑う。
 死を恐れる気持ちに優も劣もない。恥じることも、自戒することもないのだ)
(……キャスターも、そうだったのか?)
(当然だ)

 あたしの問いに、キャスターは即答した。

(幼い頃、野山を駆け回っていて足を踏み外した時には肝を冷やした。
 病に冒された同胞を看取った時にはいつか自分もこうなるのかと怯えた)
(そういうタイプには見えないけどな)
(私の場合はただ、死を賭してでも臨むべき大義があったからに過ぎない。
 そしてそれは、決して幸せなことではない。大義など、覚悟など、抱かず生きるに越したことはないのだから)

 そう言われると、あたしは何も言えなくなる。
 こいつがどんな生涯を過ごしたのかは知っているから。
 戦いと、屈辱の年月を過ごした末に、最後まで人の醜さに翻弄されて命を落とした男。
 シッティング・ブル――タタンカ・イヨタケという英霊の言葉は、あまりに重かった。

 あたしの人生は、どういう意味でもこいつに及ばない。
 栄光も、意味も、悲劇でさえも。
 迫ってくる終わりの重さすら、比べるべくもない。

 それでも、あたしは生きたかった。
 意味とか、価値とか、そういうのじゃなくて。
 あたしは、あたし個人の意思として、我儘として。
 生きて、与えられたラストページの先を見たかった。そこに、行きたかった。

 生きたい――行きたい。
 同じ重さで並んだ感情が、ぐつぐつと胸の中で煮え滾っている。
 浮かない顔で、そんな思いを抱えながら歩くあたしの姿は、端から見ればそれこそ幽霊のようだったかもしれない。

(ごめんな、頼りないマスターで)
(君は、立派な娘だ)
(ありがと。あんたにそう言って貰えると、ちょっとは気が楽になるよ)

 おべんちゃらではない、本心だ。
 あたしも、いつまでもこうしてしみったれちゃいられない。
 夜が来れば、きっと戦局も今まで以上に激しく動くだろう。
 そうでなくたって、刀凶の奴らとの戦いがあたしを待ってる。
 いつまでも迷ってはいられない。ガキでいていいのは、今だけだ。
 早く切り替えよう、早く――。言い聞かせるようにそう思いながら、足は小さな公園へ向かっていた。

 どこの街にも探せばひとつはあるような、申し訳程度の遊具とベンチが置かれただけの公園。
 公園っていうより、ほぼ街の休憩スペースって言った方が正しいような空間。
 そこでひと休みして、ライブハウスに帰ろう。
 そう思ってあたしはそこに足を向けたのだけど。


「――――――――」


 そこには、先客がいた。
 ブランコに座って、口笛を吹きながら小さくそれを揺らしていた。
 別に驚くようなことじゃない。
 時間はまだ夕方だし、東京の人口密度を思えば人と出くわさない方が難しい。それは分かってる。
 なのにあたしが、思わず足を止めてしまったのは……そいつが。

 そこにいた、あたしと同い年くらいだろう白い髪の女子高生が――まるで、太陽みたいに見えたから。



◇◇



 その少女は、別に何をしていたわけでもない。
 恐ろしげな儀式をしていたわけでなければ。
 意図して自分をよく魅せようと努力していたわけでもない。

 ただ、そこにいただけ。
 なんとなく休憩に訪れた公園で、時を過ごしていただけ。
 何を考えていたのかと言えば、何も考えていない。
 ぼうっと、晩春と初夏の狭間の夕暮れを過ごしていただけ。それに尽きる。

 だというのに、華村悠灯は足を止めた。
 彼女の英霊は、その瞬間だけ我を忘れた。
 主従揃って、見入っていた。
 初めてオーロラを目にした旅人のように、すべての思考を忘れてこの等身大の恒星を見つめていた。

「……あれ」

 その沈黙を、静止を切り裂いたのは、他でもない少女自身の声。
 こてん、と小首を傾げて、視線は悠灯に向けられている。
 次の台詞は、何を隠すでも探るでもなく。
 駆け引きなどまったく知らない幼子のように純粋な、ただ胸の内から出た言葉だった。

「ねえ。もしかしてあなた――マスター?」
「っ」

 悠灯は、問われて初めて、自分が呼吸を忘れていたことに気付いた。
 彼女の場合、少女の持つ"華"に魅了されたわけではない。
 その身体に満ち溢れる無限大の可能性に戦慄していたわけでもない。
 悠灯の理由は、間違いなく彼女だけのもの。
 死に冒され、終わりを間近に控えた人間ならではの、理由だった。

 華村悠灯は、自分に結末が近付いていることを認識していた。
 ただ、それを直視しないように努めていただけ。
 痛みはなく、違和感もないが、しかしその分粛々と肉体の枯死が進んでいることを感じていた。

 彼女の現状は老衰に似ている。緩やかな衰弱が、絶え間なく身体を蝕んでいる状態だ。
 それは悠灯の身体に宿った魔術がたまたま苦痛の緩和、麻痺に適したものだったからであって。
 もしその力が抜け落ちたなら、瞬間に重篤な末期症状と疼痛が彼女のすべてを蹂躙しただろう。
 痛いものを"痛い"とついぞ認識できなかったことが、華村悠灯にとっての幸福で、不幸。
 まだ二十歳にも届かない年齢でありながら、生物としての骨組みそのものが朽ち果て始めている。
 言うなれば枯れかけの幼木。そんな彼女の目から見て、この"白い少女"は――端的に、自分と正反対の存在に映った。

 頭の天辺から足の先まで、暴力的なほどの生命力で満ち溢れていた。
 まるで、命という概念が人の形を結んで顕れたようなエネルギッシュな存在感。
 肌も髪も白く、情報だけ挙げ連ねれば幸薄にも見える外見なのに、記号と目の前にある実情がひとつたりとも一致しない。
 浮かべる笑顔には憂いのひとつもなく、なのにそれが間抜けとも能天気とも思えない。
 実際、こいつには案ずるという情動自体が必要ないのだと、見る者に自ずとそう理解させる。
 自ら熱を持ち脈動し、光年の果てまでその光を行き届かせる太陽。その化身。

 悠灯は何の冗談でもなく本心から、これに対してそんな印象を抱いた。
 今もって灰色の世界が、この少女を視界に含めた瞬間に色を変えた。
 すべてが光に照らされ、青空より尚澄み渡る最上の美に晴れ渡っていくのを知覚していた。

「お前……」

 気付けば口は、唖然とした心境のままに動いている。
 ようやく口に出した言葉は、問いかけ。
 意味があるのかないのかも不明な、ただ愚直なだけの疑問。
 そう分かっていても、悠灯は目の前の存在にそれをぶつけずにいられなかった。

「お前…………何だ?」

 かつて、その輝きに挑んだ虫螻の王が零したのと同じ台詞。
 それを受けて、太陽は柔和に微笑んだ。
 そして答える。ただ一言、放たれた疑問への回答を。

神寂祓葉。あなたと同じ、聖杯戦争のマスターだよ」



◇◇



(あのさ、キャスター)
(…………)
(こいつ――人間、なのか?)
(解らない)

 華村悠灯は、病み/闇に冒されていた。
 だからこそ、ひときわ敏感に少女の本質を感じ取れたのだろう。
 普通の人間ならただの底抜けに明るい娘と受け取るところを、ひと目で異常な生物であると認識することができた。
 問いを向けられたシッティング・ブルは、即答する。
 不明。精霊に親しみ、大いなる神秘を仰いで生きたスー族の戦士が、そう答えた。

(……こんなモノは、見たことがない。空の彼方に目を凝らしているようだ)

 分からない。そう言うしかなかったのだ。
 先の山越風夏を、彼はいたずら好きな精霊と指した。
 善悪ではなく、無邪気故に人心をかき乱すモノと。
 されどそこにひとつの染みがあると、彼は言ったのだ。
 しかし打って変わって――この祓葉という少女に関して、彼はまったくの不明を告げていた。

 空を見上げているよう、という形容が比喩でないことは悠灯にも伝わった。
 事実、彼女も同じ印象を抱いていたからだ。
 太陽。空の、宇宙の星。恒星。少なくとも、地上にあるべきではないモノ。
 大いなる神秘(ワカンタンカ)そのもののような、されどそれとは決定的に異なる存在でもあるような、白き不明。
 そんな存在が、悠灯とその相棒の視線の先でにこにこと微笑んでいる。

「あっ、大丈夫だよ。私、今は休憩中だから。サーヴァントも連れてないしね」
「……、自分ひとりでも余裕だからか?」
「私のサーヴァントよっっっわいの。今は少しマシになったけど、ほんとバトルのセンスとかそういうのからっきしでさ。
 おまけに人とお話するのが死ぬほどだいっきらいなコミュ障だから、今も絶賛引きこもり中なんだよ」

 ひらひら、と手を振って世間話のように言う少女は、その異常性を認識していないのだろう。
 弱いサーヴァントを抱えている。分かる。
 だから自分ひとりで好き勝手歩く、立場をひけらかす。サーヴァントもそれを許している。分からない。
 蟷螂は数多の虫を狩り殺すが、それを現実的な危険として恐れる人間などいないように。
 その在り方自体が自身の隔絶性を物語っていることを、少女は、祓葉は、認識すらしていない。

「こっちに来て、ちょっとお話していかない?」
「なんで」
「ライバルならいっぱいいるんだけどね、戦うこと考えずにお話できる友達って私あんまりいないんだ。
 唯一なんでも相談できる子とも、ついさっき別れちゃってさ。
 まあ私が悪いから仕方ないんだけど、たまにはバトらずにお話するのも悪くないかなーって思って。そういう友達もほしいなーって」
「……お前、頭に虫でも涌いてんのかよ」

 ついた悪態はしかし本心だ。
 正気とは思えない。
 でも、彼女にとってはそれでいいのだろうと分かってしまうから悠灯は形容しがたい気分になった。
 その粗野な対応に怒るでも萎縮するでもなく、祓葉は隣のブランコをぽんぽん、と叩いて。

「それに――あなた、悩んでる顔してるから」
「……ッ」
「私でよかったら話聞くよ。別に嫌になったら帰ってくれても構わないし。まあ気分的には、ちょっと悲しいけど」

 そんなことを、言った。
 そこに悪意は見て取れない。
 悠灯は不良だ。社会の塵(ジャンク)だ。
 路傍を生きる場所にして過ごしてきたからこそ――悪意には敏感である。
 不良でしかも女となれば、悪心ありきで近付いてくる輩はごまんといる。
 実際悠灯はこれまで、両手の指では足りないほどそんな輩を殴り倒してきた。
 だがその点、この白い少女からはそうした奸計の気配は微塵も感じ取れない。
 ただ純粋な善意とフレンドリーさだけがそこにあって、だからこそ悠灯としては困惑を隠せない。

 明らかに生物として、存在として異常なのに……鍛えられた本能は警戒も疑念も必要ないと告げている。
 事の道理が何ひとつ通らない異界の片鱗を、華村悠灯は確かに見ていた。

(なあ、キャスター……)
(やめておけ)

 なればこそ、悠灯が問う相手はひとりしかいない。
 念話で問うた見解は、しかし一言で事足りるものだった。

(これは、ヒトの手が及ぶモノではない。
 霊長、科学、魔術、生命――その遥か外にあるモノだ)

 その念話に込められた感情を言い表すならば、"畏怖"。
 悠灯は彼のこんな声を聞いたことがなかった。
 未熟な青二才とは正反対の、老練ささえ思わせる呪術師。
 そんな人物が張り詰めた声色で警告するこの状況に否応なく本能が警鐘(アラート)を鳴らす。
 そうしている間も少女はブランコを揺らしながら、急かすでも脅かすでもなくにこにこ微笑んでいる。
 進むか――逃げるか。岐路に立たされた悠灯はしかし、逡巡の末、前へ踏み出していた。

(悠灯……!)
(……悪い、キャスター。あんたの言うことが正しいのは分かってる)

 サーヴァント。人智を超え、生死をも超えた存在。
 あの"神話の世界"を生きて死んだ、英雄。
 その忠告が単なる小心である筈がない。
 どう考えても、彼が正しい。彼に従うべきだ。そう分かった上で、悠灯は選んだ。

(でも……)

 病んだ人間が生を求める気持ちは時に狂気だ。
 健常な明日を夢見る気持ちは、合理など容易く踏み越える。
 重篤な患者が枇杷の葉や怪しげな祈祷師に真理を見出すように。
 悠灯は、生きたいと願うからこそ、太陽へと踏み出していた。

(此処でこいつから逃げたら――あたし、これから一歩も進めない気がするんだよ)

 キャスターの制止を振り切って、見据える。
 白い太陽。改めて見つめても、最初に抱いた印象は変わらない。

「お前……元気なんだな、羨ましいよ」
「えへへ。それだけが取り柄なので」

 神寂祓葉、そう名乗った少女。
 彼女の身体には、一片たりとも病みがない。
 生きる、活力。前に進む、活力。明日を目指して歩む、活力――
 あらゆる正のエネルギーが満ち溢れ、それが恨めしいほどに躍動している。

 悠灯を朽ちていく幼木に例えるならば、彼女は千年の果てまで育ち森を覆う一本の巨木だ。
 それでも、いや、だからこそ悠灯は逃げなかった。
 殺したいほど恨めしい自分の対極(はんたい)に対して、逃げてはいけないと己を奮い立たせた。
 華村悠灯の人生は、はじまりから終わりまでずっと緩やかなる枯死だった。
 幸福の陽が彼女を照らすことはなく、人を人たらしめる栄養が行き渡らないので、当然の道理として朽ちていく。
 そんな人生だった。そしてそれはこの世界でも何ら変わってなどいないのだと、悠灯は〈脱出王〉の言葉で思い知らされた。

「あたしは――悠灯だ」

 要するに、悠灯は何かを変えたかったのだ。
 灰色のままに枯れていく自分の人生という名の枝を、天命という剪定から外してやりたかった。
 下から上へそしてまた下へシステムとして回る観覧車。その運行を止めたいと思った。
 故にこの世の何にも類することのない、祓葉という"異常"に触れることで何かを変えようと挑んだのだ。


 この女に触れることが、人間にとって何をもたらすのかなど知らぬまま。


 街角の塵(ジャンク)が、蒼天の星(たいよう)の隣に腰を下ろした。



◇◇



「悠灯は、聖杯戦争が楽しくないの?」

 意を決して、対話に臨んだ。
 そんなあたしの気持ちも知らずに、神寂祓葉は開口一番こう言った。

「楽しいわけねえだろ、こんなもん。理由でもなければ絶対関わりたくねえよ」
「えー。うーん、そんなもんなのかな普通は……」
「……お前は楽しんでんのか?」
「うん! すっごく楽しいよ、毎日――なんだろうなあ、世界が色づいて見えるくらい!」

 分かりきってたことだが、その上で改めて思ったことがある。
 こいつはたぶん、筋金入りの異常者だ。破綻じゃない。異常なんだ。
 "殺し合いを楽しんでる"って言ってる間も、顔にまったくそれをひけらかすとか自慢するような色がない。
 つまり、本心から楽しいと思って、そう言っているのだ。
 これを異常者と言わないでどう評すればいいのか、語彙のないあたしにはとても思いつかなかった。

「私はね、別に聖杯で叶えたい願いごとなんて持ってないんだ」
「……、なんだそりゃ。じゃあただ生きるために戦ってるってことか?」
「さっきも言った私のサーヴァントがね、どうしても聖杯で成し遂げたいことがあるんだって。
 だからそれに協力してあげてる感じかな。あの子、私以外に友達なんていないから」
「あべこべだな。正直まったく理解できねえ」
「あはは、だよねー。私の親友もおんなじようなこと言ってたよ」

 普通なら嘘吐け何を隠してる、って疑う場面なんだろうが――その気にはなれない。
 こいつと出会って数分そこらでも分かる。
 この女は、本当と嘘を織り交ぜるとか、策を弄するだとか、そんな高尚なことはできない手合いだ。
 言うなれば馬鹿。めちゃくちゃに馬鹿。何も考えてない風に見せて、本当に何も考えてない。
 不気味だけど、正直今のあたしにとっては助かる阿呆さだった。
 あたしだって頭はよくないし、知能戦より先に手が出るタイプだ。そういう意味じゃ、こういう状況じゃなかったら案外気の合う相手だったのかもしれない。

「聖杯戦争に出会うまで、私は私がよくわからなかった」

 祓葉は言う。
 こいつらしくない、どこか意味深な物言いだった。

「なんとなく全部上手くは行くんだよ。幸せだったし、それなりに楽しかったし。
 でも、どこかで思ってた。私の人生は、いつになったら本当に始まるんだろうって」
「……贅沢な悩みだな。一歩間違えたら嫌味だぞそれ」
「しょうがないじゃん、実際そうだったんだから……。
 けど、聖杯戦争に出会ってようやく納得できたよ。
 私はきっと、このために生まれてきたんだって。そのくらい楽しかったし、実際今も楽しんでる」

 あたしは、生きるために戦っていて。
 こいつは、楽しむために戦っているという。
 普段なら交わることはなく、交わりたいとも思えない女。

 その有様は、怖くさえある。
 ああ、そうだ。たぶんあたしは、こいつを"怖い"と思っている。
 拳も剣も交えることなく、可憐の裏に隠れた本質に気付けている。
 いずれ赤色矮星となって地球を飲み込む燃える恒星のように――触れるものをすべて灼く、狂おしい光。

 これに対する最適解は、背中を向けて逃げ出すことだ。
 まさしくキャスターの言う通り。近付かない、関わらない。見ない、見つからない。それ以上の選択肢はきっとない。
 なのに、なんであたしはこうしてこれと並んで言葉など交わしているのか。

「だけど悠灯は、あんまり元気じゃなさそうだね」

 その理由が、これだ。
 生の極北たるこいつを。
 死の道へ向かうあたしが、仰ぎ見るため。

「どうしてなのか聞いてもいい?」
「……あたしは――」

 こいつが太陽なら、あたしは奈落の虫だ。
 光の照らさない底の底で、のたくるように生きた虫。
 足をわななかせて触覚を震わせ、闇の中で砂土をかき分けて蠢く弱い生き物。

「病気なんだよ。気付いた時には、もう全部ダメになっちまってた」

 あたしは魔術師じゃない。
 たまたま身体に宿ってた力を闇雲に振り回しているだけの、言うなれば"魔術使い"だ。

 きっと、それがいけなかったのだと思う。
 もしも早い段階で誰かに力の使い方を教わっていたら。
 あたしにそれを教えてくれる誰かがいたのなら、きっとこうはならなかった。
 そうでなくてもせめて、あたしの身体に人とは違う特別なモノが宿っているのだと知る機会さえあったなら。
 案外その時点であたしは足を止めて、灰色の空に一片でも射し込む光のようなものを見い出せていたかもしれない。

「もう、時間がないんだとさ」

 正直、具体的な実感があるかどうかで言われたら、未だにそれはない。
 目眩がするわけじゃないし、急にゲロを吐いてのたうち回るわけでもない。
 身体が動きにくいなんてこともなく、むしろ体調は軽快な部類だ。
 魔術を常に使い続けて生きてきたあたしには、今更そのスイッチをオフにする方法も思い付かないので、命が尽きる時まで病みの苦しみとは無縁のままなのだろうと思う。

 けれど、漠然とした実感ならある。
 時計の針が天辺に向かい進んでいくように。
 もしくは、夜明けが迫って空が白んでくるように。
 刻一刻とあたしという人間が、そこへ向かっていることを感じる。
 すべての生き物に共通して待ち受ける、ひとつの結末。
 "死"という暗黒に、緩やかに吸い込まれていく感覚がずっとあった。

「悠灯は、生きたいんだ」
「ああ。生きたいよ」
「なんのために?」
「何かを、変えてみたかった。
 ……それができる何かに、祈ってみたくなったんだ」

 今思っても遅すぎると思う。
 あたしは、未来がなくなって初めて救いを欲しがった。
 魔術を知った。神秘を知った。願いを叶える奇跡を知った。
 そうなって初めて、祈ることを覚えたんだ。
 そうしたいと、願ったんだ。

「だからあたしは戦ってる。いや、戦うことにしたんだ」

 今までのように、何かへ八つ当たりするみたいな"喧嘩"じゃなくて。
 何かを勝ち取るために行う、本当の意味での"戦い"だ。
 思えばシッティング・ブルなんて英霊を喚べたのは、あたしなりに引き寄せた運命というやつだったのかもしれない。
 あいつは"戦い"を知っている……その世界から来た、神話の証人だから。

 ――"像"には、大きな力があるのだとあいつは言った。
 伝説はいつか語り継がれ、人々の魂へ永遠に残る"像"になる。
 なら、生きて今そこにある伝説を見たのなら。
 あまつさえそれに触れ、その輝きから何かを得られたのなら。
 それもまた、一個の"像"になるんじゃないのか。
 そう期待して、あたしはこいつの誘いを受けたんだ。こいつの隣に、座ったんだ。

 キャスターには後で頭を下げなきゃいけないだろう。
 でも今は、相棒に不義理を働いてでもこいつの"像"が欲しかった。
 時代への爪痕を残す、大きな力を――終わりゆく流れに逆らう何かを。
 あたしはこの輝く女に、求めた。それを、探そうとした。その結果として今がある。

「そっかぁ」

 祓葉は、隣のあたしを見た。
 間近で顔を見て、一瞬息を呑んだ。

「悠灯は、強いんだね」

 この時初めて、あたしはこいつに"怖い"以外の感情を抱いた。
 間近で、他の誰でもない自分に微笑む白い顔。
 何の混じり気もない、灰色でも黒でもない、圧倒的な白。
 その笑顔はきっと、あたしが十七年の人生で見てきたどれよりも何よりも――綺麗だったから。

 ああ、やっぱりこいつは、あたしとは違う。
 あたしたちとは、違う生き物なんだと思った。
 人間だとかそうじゃないとかそんな小さな話じゃない。
 この星のどこにも、ヒトが観測できる宇宙のどこにもいない唯一無二の存在。
 だってほら、その証拠に……あたし、今、思っちゃってる。
 こいつが今この瞬間華村悠灯(あたし)だけを見てくれてる事実に、なんとも言えない優越感さえ抱いちまってるんだ。

「強くなんか、ないよ」

 あたしは、絞り出すようにそう言っていた。
 素敵な奴に褒められたら何でもいいなんて浅ましい考えにはなれない。

「あたしはただ、泣きじゃくってただけだ」

 あたしは、欲しかっただけだ。
 自分がどうして、こんなに不幸なのか。
 それはきっと、自分は生きるに値しない生まれぞこないなのだと信じた。信じたかった。
 そうじゃないと道理が通らないと、本能がそう警鐘を鳴らしてた。
 だから暴れた。誰かを壊して、それ以上に自分を壊した。
 まさしく、感情の制御が効かずに泣いて四肢を振り乱す子どものように。
 そのどこが"強さ"なんだ。これはただの癇癪で、それ以上でも以下でもないとあたしは思う。

 でもそう答えたあたしに、祓葉は首を横に振った。
 実の母親よりも優しい顔で、静かな笑みを浮かべながら。

「泣いてる子が強かったらいけないなんてルールはないんじゃないかな」

 そんなことを、言う。
 意味がわからない。
 泣きながら拳を振り回す奴なんて滑稽以外の何物でもないし、あたしが赤の他人としてそれを見たって引くだろう。
 ダサい奴、格好悪い奴。そう判断して、見下す筈だ。

「私は頭悪いからさ、あんまり難しいことはわからないけど」

 だろうな。
 正直知性は感じない顔してるよ。
 けれど。

「理由が何でも、過去がどうでも、何かを叶えるために戦う人っていうのは――すっごく強くて、かっこいいと思うよ?」

 なのに、なんでそんな奴が知った風に断言する言葉が胸に響くのか。
 こんな見て分かる馬鹿の言葉に耳を貸すほど意味のないことなんてないと理性は冷めた結論を言い渡してくれているのに。
 それでも、愚直な慰めじみた言葉はあたしの中身に重たく響いた。

「それに、そんなこと言ったら私の友達なんてみんなダメダメになっちゃうよ。
 人でなしは前提条件で、そこにシスコンとか情緒不安定とか嘘は言ってない嘘つきとか追加されるんだもん。
 私はあの子達のことが好きだから、そういう意味でも悠灯には自分のことを弱いだなんて言ってほしくないな。
 悠灯は、もうちょっと自分のことを褒めてあげてもいいと思う! がんばってるね、えらいね、って!」

 こいつ"も"きっと、人でなしだ。
 それは間違いない。その姿を見なくても分かる。
 こいつは結局、どこまで言っても化け物なんだ。
 関わらない方がいいし、関わっちゃいけない。
 だからキャスターは、あたしがこれに向き合うことを止めた。
 実際に話してみて、それが正しかったことを心底実感する。

 これは、神寂祓葉は、怪物だ。
 人であってヒトではない。
 ヒトが、関わるべきでない存在。
 ひと目見て、実際話してみて、よく理解した。

 なのに。
 なのに――

「……は。何だよ、ソレ」

 何故、こんなにも報われたみたいな気持ちになるのか。
 まるで、そう。それこそ、捧げた祈りが報われたような。
 よく頑張ったね、と抱き締められたみたいな。
 そんな気持ちにならなくちゃいけないのか、なっているのか――。

「知った風な口利くなよ、お前。適当なコト、言いやがって」
「えへへ、ごめんね。ていうかよく言われる、主にいちばんの親友から」
「此処が聖杯戦争でよかったな。そうじゃなかったらお前、絶対いつか刺されて死んでるよ」

 何より、それを嬉しいと思ってしまった自分自身に腹が立つ。
 プライドはないのか、となけなしの自尊心でそう思わずにいられない。
 だからこそ余計に否定のできない真実として自分の中に刻まれていく現状があった。
 仮にこいつ以外の誰から同じことを言われたとしても、あたしは一笑に伏していただろう。

 でも――こいつから言われたのなら、話はどうしても別だった。
 何故ならこいつは化け物だから。死と縁のない、生命力の化身だから。
 今のあたしの、およそ正反対の境地にいる女。あたしの願いが叶ったその先にある、存在。
 命そのもの。可能性そのもの。そんな奴に面と向かって、華村悠灯という人間の歩みを認められたんだ。
 だからあたしは、心の中の動揺(よろこび)を隠すのに必死にならざるを得ない。
 死にかけの虫けらにだって、ダサい姿を晒したくないってくらいの色気はあるんだよ。

「お前から見て、あたしはさ」
「うん」
「強く、見えるのか」
「私は、弱い人間なんていないと思ってるよ」

 綺麗事。戯言。
 なのに、その言葉はとても眩しい。
 形だけの眩しさじゃない。
 あまねく命へ微笑む尊いモノの輝きだと分かる。
 ……あたしにでも、分かる。

「人間は、みんながんばってるんだから」

 私はそれを誰より知ってると、祓葉は臆面もなくそう言った。 
 まるで自分こそが神であると豪語するような傲慢と不遜。
 なのにそこには欠片の嫌味もない。
 故に平等の裏側にある、見下しにも似た悪徳すらそこには見て取れなくて。
 今度こそあたしは、口を噤むしかなかった。
 自傷(リスカ)じみた謙遜は、もうこの口から出てこない。
 根負け、という言葉が――なんとなく、拙い語彙しかない頭の中から浮かんできた。

「……そういうもんなの?」
「そういうもんなの」

 そこで。
 ぽふぽふ、とあたしの頭に感触を感じた。
 撫でられている、と気付くには一瞬遅れた。
 だってそれは、あたしの人生にはあまりにも縁のない感触だったから。

「悠灯は頑張ってるよ。他の誰が否定しても、私だけはそう認めてあげる」

 払いのけるのは簡単なのにそうできなかったのは何故だろう。
 こんなにもあからさまに舐められて、ひとつも敵意を抱けないのはどうして。
 まるで母親のように、いいや、違う。
 対等な"友達"のように微笑む祓葉を、あたしはただ見つめていた。
 そうすることしかできなかった。ヒトの世界で生きられなかったあたしが、今こうしてバケモノの微笑みに魅せられている。

「だからさ。悠灯――」

 運命論なんて小難しくてスピリチュアルなお題目に縁はない。
 母親は本棚にあれこれ胡散臭い占いの本を並べていたけど、あたしはそれを馬鹿なのかと思って見ていた。
 この世はもっとずっと冷たくて、呆れ返るほどに夢がない。
 そういう合理で、回ってる。理屈が造り、支配するのが人間の世の中の本質だとあたしは信じてた。
 でも、ああ。今なら、信じられるかもしれない。そう思った。そう、思わされた。

 運命は在る。
 そしてこいつが、それだ。
 あたしだけの、じゃない。
 この世界に招かれ戦うすべての"人間"にとっての――平等な"運命"。

 こいつは、何なんだろう。
 こいつは、誰なんだろう。
 神寂とは何で。
 祓葉とは、どういう理屈なんだろう。
 思うことはあまりにも多く。
 けれどそれを理解するにはあたしじゃあまりに頭が足りない。
 でも、きっとこの時この公園で、こいつに向き合うと決めたその選択は間違いじゃなかった。
 心のなかに広がる温かいものを抱えた病み/闇のすべてで受け止めながらそう思って。
 奇術師の言葉も迫る死への焦燥も吹き散らされていくような感覚を抱き止めながら、あたしは――





「――私のサーヴァントに、ひとつ頼んであげよっか?」





 そんな、純度百パーセントの善意から出たのであろう提案を、聞いていた。



◇◇



「……は?」
「悠灯、このままじゃ死んじゃうんでしょ。
 私は悠灯に死んでほしくないし、悠灯だってそれは嫌なんでしょ。
 だったら、私のサーヴァントに頼んで死なない身体にしてもらったらいいよ。
 最初は少し戸惑うかもしれないけど、すっごい便利なんだよ! うん、悠灯もこの先二度と悲しい顔しないで済むと思う!」
「……いや、えっ。お前、何言って……」
「ん。わかんない?」

 こてん、と祓葉は首を傾げた。
 あたしは、顔をしかめる。
 意味が解らなかった――いや、理解が追い付かなかったのかもしれない。

 そのくらい、それほどまでに。
 こいつが今あたしに言った"提案"は、予想の範疇を遥か超えるものだったから。

「治せるんだよ。悠灯の病気は」

 祓葉は言う。
 祓葉は笑う。
 悪意も含みも一切ない。
 十割の善意で、天使のように笑っている。

「私と同じからだになれば、悠灯は死なないで済むよ。
 好きなように生きられるし、今まで知れなかった楽しみだってたくさん知れる。
 そしたら分かるよ、世界がどんなに楽しいか――生きるってのは、とても素晴らしいことだから!」

 もしも。
 これが他の誰かの台詞だったなら、あたしは殴りかかっていただろう。
 何故ならこれはあたしの地雷だ。逆鱗だ。いちばん知った風な口を利かれたくない、それを許せない泣き所だ。
 なのに祓葉の言葉は今まで通りとても無垢で無遠慮で、だからこそ微塵の悪意も入り込む余地がなくて。

 ――生きるってのは、素晴らしいことだと。
 そう説く白い女の顔を、あたしはただ見つめるしかなかった。
 あたしは生きたい。そのために祈る。そして戦う。
 世界が灰色だろうが青空だろうが、拳を握ってがむしゃらに進む。
 その旅路のすべてを肯定し、微笑む宇宙の恒星。
 太陽の微笑みが、あたしの心より深い深淵を犯す。

「ヨハン…………、……あの子は堅物なんだけどね、なんだかんだ私には甘いんだ。
 だから私の友達が困ってるって全力で駄々こねたら一個くらいは歯車を譲ってくれると思うの。
 それで悠灯が健康になれたら、聖杯戦争も回るし私も友達をなくさないで済むし、悠灯は悩み事が消えて万事ハッピーじゃない?」
「……………………いや、だから。何言ってんのか、ぜんぜん分かんないんだけど」
「あ、そっか。そうだよね、普通信じられないかこんな話。
 えっとね、具体的にはこんな風になれるんだよ」

 そう言って。
 祓葉は、あたしの前に右手を出した。
 そして、その人差し指を左手で握った。

 それから、ぺきゃり、と。
 まるで枯れた木の枝へそうするみたいに、事も無げにへし折ってみせた。

 ――折れてひしゃげた白い指が。
 あたしの見てる前で、治っていく。
 時計の針を逆に回したみたいに。
 人間が本来持つ、治癒力というのを限界以上の領域で働かせたみたいに。
 傷はあり得ない速さで復元されて、一秒足らずで元通りになった。
 あたしはそれを、呆然と見つめるしかできない。
 そりゃそうだろ。当たり前だろ。
 こんなの、それ以外にどんな顔で見届けろって言うんだ?

「ね。どうかな」

 そうか。   /    『悠灯』
 やっぱりそうか。   /   『悠灯!』
 こいつは、悪魔だ。   /   『それは、悪魔だ』
 どうしようもなく眩しくて。   /   『耳を貸すな』
 どうしようもなく、おぞましい。   /   『言葉を聞いてはならない』
 そういう――白い悪魔。   /   『おぞましき、白い悪魔だ』
 そういうモノなんだと心底理解して。   /   『その輝きの果てに、君を待つモノは何もない』
 じゃあ、あたしはどうするのかと。   /   『それは』
 差し出されたこの、到達点を。   /   『これは――』
 あたしが願う理想のカタチそのものたる花を。   /   『大いなる"冒涜"だ』
 手に取るのか、それとも目を背けるのかと問われたところで。   /   『目を覚ませ、それは華などではないッ!』


「うん。とりあえず、まずはあなたが死にましょうか」


 聞き覚えのある声が響いて。
 その瞬間、隣に座る祓葉の頭が弾けた。
 あたしは、黙ったままそれを見ていた。
 あたしの隣には、キャスターが立っていて。
 公園の入口には、"あの人"の英霊(サーヴァント)が、ぞっとするような笑顔で立っていた。



◇◇



 ゴドフロワ・ド・ブイヨン
 〈デュラハン〉の主、首のない騎士の元締め。
 周鳳狩魔という男に仕える狂信者が、石を投げた。
 たかが石、されど握り投げる者が英霊ならばそれは弾丸を遥か超える凶器となる。
 実際にその石ころは、この世界を統べる神の頭蓋、その右半分を吹き飛ばした。
 飛び散る血と脳漿が隣のブランコに座る悠灯の身体を汚す。
 しかし、狂信者の鉄槌を受けた白い冒涜者は、何食わぬ顔と声色で。

「いったぁ……。びっくりしたなぁ、もう」

 血液、脳漿、骨片。
 半壊した、天界の美顔。
 その全部を、損壊した事実自体が嘘だったみたいに巻き戻しながら。
 この世のどんな人間だろうと即死であろう傷跡を刹那にして復元しながら、困ったように唇を突き出していた。

「せっかく楽しくお話してたのに。いきなりにしてはひどすぎない?」
「はは、確かに無粋でしたね。しかし天地神明の冒涜者(アンチキリスト)たる貴女には相応しい行動かなあと」
「私をそう呼ぶの二人目だよぅ。でも……えへへ。悠灯、私以外にも友達いるんじゃん。なんか嬉しいな」

 不死。
 あまねく、あらゆる人間を平等に待ち受ける結末。
 "死"の、否定者。それを否定するモノ。
 その面目躍如を息吐く未満の容易さで成し遂げながら、神寂祓葉はそこにいた、居続けていた。
 砕けた顔面が再生している。飛び散った脳漿の不在を気にも留めていない。
 死徒と呼ばれる吸血種でもなければ通らない理屈を、少女はそこに存在するだけで成し遂げている。
 人の餌を食べ、日光の下に姿を晒し、あるがままに人理を否定する――世界を犯す特異点。

「狩魔の予想を超えている。こういうモノが居るだろうとは聞いていましたが、いやはやこれほどとは」

 呆れたように肩を竦める優男の眼は、しかし笑っていない。
 何かを強く信仰していればいるほど、信心の先にあるのが何であろうとこの女はそれを否定する。 
 悪気などなく、むしろ友好的な素振りさえ見せながら、尊いとされるモノを踏み潰すのだ。
 故に彼女は天地神明の冒涜者。黒き死でさえ滅し切れなかった、寂静の対極に佇む新生物。

「バーサーカー」
「ああ、すみませんね。
 私の出る幕でもないかと思ったのですが、ほら、あなたって根っこのところは穏和な質でしょう?
 どの道同じ結論になるにせよ、それまでに二言三言は"これ"が言葉を吐けてしまう。それは良くないことだと思いまして」
「……いや、礼を言う。確かに今回は、君が正解だった」

 金髪の、線の細い騎士。
 その隣に、明らかにキリスト教徒ではない外見の呪術師(シャーマン)が像を結ぶ。
 並び立つ二体の英霊。侵略した者と、弾圧された者。
 本来轡を並べて同じ方を向く筈のないふたりが今だけは共通の目的を持って並び立つ。

「神寂祓葉。星のように振る舞う、虚空の孔よ」
「その呼ばれ方は初めてだね」
「悪いがこれ以上、我が同胞へ君の声を聞かせるわけにはいかない」

 すなわち、冒涜者/大いなる神秘への対処。
 場合によっては、その撃滅。
 ワカン・タンカを隣人とするスー族の民のあり方にはそぐわない行動に見えるが、シッティング・ブルは今はこれが正しいと確信していた。
 それこそ、決して手を取り合うことの叶わぬ相手と共に戦うことを余儀なくしてでも。
 そうしてでも、これ以上その甘い声を己のマスターに聞かせてはならないと強く感じていた。
 ゴドフロワ・ド・ブイヨンとシッティング・ブル。冗談のような共闘戦線を前にして、少女は困ったように笑う。

「そっか。じゃあしょうがないね、悠灯」
「え。……あ、ッ」
「本当は悠灯のサーヴァント達とも遊んでみたいけど、今はちょっと休憩の気分なの。
 だから次会った時にでも、あなたの答えを聞かせて?」

 悠灯は、話しかけられて初めて自分が思考を忘れていたことに気付いた。
 勝手なことをするなと、シッティング・ブルを諌めるのさえ忘れていたのがその証拠だ。
 それほどまでに。思考だとか自我だとか尊厳だとか、そういう一切合切が吹き飛んでしまうほどに。
 華村悠灯にとって、神寂祓葉の提案してきた"選択肢"は衝撃的なものだったのだ。

「私はいつでも待ってるから。受け取るもよし、断るもよし、全部悠灯に任せるよ」
「っ……お、おい……!」
「だからまたいつか、私とこうしてのんびり話そうよ。もちろんバトルでもいいけどさ」

 引き止める悠灯をよそに、祓葉はブランコから腰を上げた。
 そしてすたすたと、二体の英霊の横を微笑んだまま通り過ぎていく。
 振り返って何かするでもなく、あまりに大人しく、あっけなく、この世界の〈主役〉は病みの少女の視界から去っていった。
 時間にするなら、恐らく五分かそこらの邂逅。なのに悠灯にとってそれは、これまでの人生で最も濃密な時間だった。

 灰色の時間を歩み、生きてきた華村悠灯。
 されど今の時間に、色を当て嵌めることはできない。
 それでも強いて言うのならば、白。
 網膜が灼かれ視野が奪われ、世界そのものが曖昧模糊と化したが故の、純白。
 現人神の去った公園で。悠灯は、目に見えて力を抜いた英霊達の姿をどこか他人事のような心地で見つめるしかできなかった。

「バーサーカー。君は、アレを知っていたのか」
「知っていた、と言うと語弊がありますね。
 とはいえ推測なら申し上げられます」
「……構わない。言ってくれ」
「黒幕で、元凶です。私達のいる"この"聖杯戦争の」

 あまりにも突拍子のない推測だったが、シッティング・ブルはそれを疑わない。
 いや、疑えない。アレを目にした今、その言葉には無二の説得力さえ感じられた。

「で。あなた、アレをどう見ました?」
「〈孔〉だ」
「言い得て妙ですね。ちなみに私は〈涜神者〉です」
「解らなくはないな」
「同じく。まあいずれにせよ、私達が必ず殺さなければならない存在だというのは間違いないですね」

 恐ろしいものは知っている。人並み以上に、識っている。
 理解できないものを排斥するヒトの傲慢。
 敵と定義した集団に対し、マジョリティたる人々が何をするのか、できるのか。
 男も女も乳飲み子も、老人も不具も殺して殺して尊厳ごと犯し尽くす鏖殺のソルジャー・ブルー。
 シッティング・ブルはこの世における恐ろしきもの、おぞましきものを目が腐るほど見続けてきた。

 だが、それでも。いや、だからこそ。今しがたまでこの公園に君臨していたあの"白"を、単なる悪性と同一視してはならないと理解できた。
 星に、現象に、大いなるものに善悪の区別はない。
 ただそこにあるだけの巨大な何か。どうしようもなく桁が違うことしか分からない、定義不能の"恐怖"。
 コズミックホラーという言葉をシッティング・ブルは知らなかったが、似た概念としては間違いなくそれに近かろう。

「どの道、狩魔はアレや……先の〈脱出王〉についてあなた方へ語り聞かせるつもりだったようです。
 というわけで散歩の途中に申し訳ないですが、一度ライブハウスに戻っていただいても?」
「異論はない。……が、知っていることは洗いざらい話して貰う。構わないな?」
「それはいいんですが――」

 ちら、と、騎士が未だ混迷の中にある少女へ目を向けた。

「もしかすると彼女には外れて貰った方がいいかもしれませんね、協議の時には」
「……、……」
「まあ、結論が出たら教えてください。"我々は"どちらでも構いませんのでね」

 それで、話は一旦終わり。
 周鳳狩魔は何かを知っている。
 悠灯達が、そしてゲンジ達も知らない何かを。
 恐らくは、この世界の根幹に関わる重大な秘密を握っている。
 これが共有される会議の席が持つ重要さは計り知れない。
 だが今、シッティング・ブルの脳裏にあるのはそんな広い世界のことではなく。
 悪夢でも見たような――/――悟りでも得かけたような顔で、小さく俯いている己が片翼のことだった。

(……悪い、キャスター。大丈夫だよ、狩魔さん達と話す時までにはしゃんとする)
(悠灯……君は)

 祓葉の言葉に一欠片でも悪意があったなら、シッティング・ブルはそれを見逃さなかった筈だ。
 しかしあの少女の言葉には、本当に誓って微塵の邪心もなかった。
 不遇な友人に対し、純粋な善意で救いの手を差し伸べていただけ。
 約定とは名ばかりの詭弁ばかり弄する白人どもとは違う、掛け値なしの素朴な愛がそこにはあって。

 だからこそ――鈍ってしまった。
 一瞬、考えてしまった。
 ゴドフロワの言う通り、言葉を放つ余地を与えてしまうところだった。


(君は――――神話(あちら)に、行きたいのか?)


 彼女がもしも、そう答えたのなら。
 自分は、どうするべきなのだろうと。
 思慮を、積んでしまった。

 今や、世界は色づいた。
 無声映画、白黒映画などとうに嗜好品。
 西部劇は、独立戦争は、百科事典の一頁。
 であれば神話とは、すなわち画面の向こう、信仰の彼方。
 そこに向かうとは、すなわち常世の向こう、道理の彼方。


(……わかんないんだ)


 華村悠灯にとって、聖杯とは"夢"であった。
 灰色の世界にただ一筋差し込んだ希望の光。
 だから彼女はこの都市に降り立って、夢想家(ドリーマー)になった。
 生きるために祈る。祈るために生きる。その歩みも道半ばだというのに、そこで。

 ――いないと信じてた神があっさり現れ、夢を叶えてあげようかと誘ってきた。

(あいつ、嘘とか、吐けないだろ)

 死を超越し、怪物になって得る未来。
 そんなもの人の生き様じゃないとか。
 人生は果てがあるから素晴らしいんだ、とか。
 その手の綺麗事を、悠灯は持ち合わせない。
 何故なら彼女は、病んでいるから。

 未来のない身体。
 日々強まるその実感。
 迫ってくる、命の終わり。
 エンドロール。終劇の時。
 今、この都市の誰よりもそれを知っている彼女は――故に綺麗事に逃げられない。

 どうすればいいと思う、とは、聞かなかった。
 だからシッティング・ブルも、沈黙するしかなかった。
 気まずいとかそういう話ではない静寂が互いの脳裏を満たす。
 そんな静けさの中でシッティング・ブルは、いつかある白人にかけた言葉を思い出していた。


 ――いいか。我々の言う"戦士"とは、君達が思うのとは違う。
 ――戦士とは、単に戦って殺す者に非ず。
 ――戦士とは我々のためにあり、誰かのために犠牲となる者のことだ。
 ――老いた者、か弱き者、未来ある子供達。
 ――そうしたすべてを守り抜くために、身命を尽くす者のことを言うのだ。


 寝物語に聞かされた戦士たちの不在は知っている。
 だからこそ、自分は勇気を振り絞ったのだ。
 だが、ああしかし。
 もしも今この身がひとりの"戦士"ならば――


 私は、何を答えとするべきなのだ。
 呪術師の問いに対し、返る答えはついぞなかった。



◇◇



『おお、なんとおぞましい――おぞましい、冒涜者(アンチキリスト)め!!』

 かつて自分にそう言った英霊(おとこ)がいたことを、神寂祓葉は思い出していた。
 英霊の名はジャン・シャストル。その名を聞いてピンと来るなら、それは相当な歴史通だろう。
 いや、もはや歴史よりも伝承だとかそういう畑に精通している者と看做せるかもしれない。
 とにかく、その男はそう有名な存在ではなかった。いやその本質を顧みるならば、英雄と称することさえ誤りであると言う他はない。

 ――ジェヴォーダンの獣、という獣害事件を知っているだろうか。
 18世紀のフランス・ジェヴォーダン地方に狼に似た凶暴な獣が出現し、百人弱もの人間を食らったという伝説である。
 ジャン・シャストルという英霊は、一言で言うならばその恐るべき事件の"仕掛け人"であった。

 敬虔なる信仰者であると同時に、魂の底まで悪意に捻れ切った〈歩く矛盾〉。
 獣を調教する(つくる)ということにかけて、神代の魔獣使い以上の才覚を有していた狩人。
 自らのシナリオで栄光を偽装し、遂には英霊の座にまで登り詰めた人類史に名を残す大ペテン師。
 前回の聖杯戦争において、筋書き通りならば聖杯とそれを巡る戦いをあらん限り凌辱する筈だった悪意の器。
 かつて神寂祓葉は、そんな男と相対している。
 その末に結末がどうなったのかは、彼女が今此処にいる事実と、矛盾螺旋の狩人を召喚した男(おんな)の末路が証明していた。


 夕焼けの照らす街を歩く、白い少女。
 細身の身体に、冥界(タルタロス)から来た鎖が這い寄った。



「わ」

 刹那にして巻き取られる両足と右腕。
 身動きを封じられたところに飛来してくるのは、蝙蝠に似た黒い鎌だった。
 祓葉は左手に光剣を創形。これで打ち払おうとするが、その安易な発想を嘲笑うように鎌の輪郭がブレる。
 蝙蝠は蝙蝠でも単独ではない。群れを成し、獲物に噛み付き、血を啜る――ミクトランの蝙蝠である。

 当然の帰結として、祓葉の身体は蝙蝠のカーテンに包まれた。
 無数の刃に切り刻まれて、黒い幕の中で血霧が荒ぶ。
 急所という急所を滅多切りにされているのだから当然に生存の確率は絶無だ。
 これぞ死の世界を飛ぶ妄念の蝙蝠。一度獲物とされたなら、人間はどうあっても彼らの牙から逃げられない。

 それが、ただの人間であったなら。

 ――光が弾けて、闇が四散する。
 内側で光剣の出力を上昇させ、力ずくで蝙蝠鎌の群れを滅却した。
 その内側から、血まみれの少女が現れる。
 潰れた眼、張り裂けた首筋、ちぎれかけた手足が目の前で繋がっていく。
 人を両手の指の数ほどは殺せる斬撃を受けたばかりとは思えないほど、彼女の表情は晴れやかだった。

「初めて見る武器だけど、やり方はあの頃と変わんないね?」

 足を動かし、前へ。
 小さな一歩だったが、それだけでタルタロスの縛鎖が悲鳴をあげた。
 零落した主神さえ縫い止める、死後の世界のひとしずく。
 その鋼が、少女の一歩にさえ耐え兼ねて阿鼻叫喚の声を漏らしているのだ。

「ねえ、姿は違うけど――あなた、ハリーでしょ?」

 祓葉の見上げた先。
 電信柱の頂上に、ちょんと佇む小さな影があった。
 赤毛の、小柄な少年だった。しかしその頭には猫耳が、臀部には同じく猫の尻尾が見て取れる。
 それを夕暮れの風にそよがせている姿は、まるで絵本の一頁を切り出してきたようだ。
 すわ妖精かと思うほどに非現実的な容姿だったが、祓葉は確信を持ってその真名を言い当てる。

「半分正解、半分間違いと言ったところだね。
 聞きしに勝るデタラメぶりで頭が痛いよ、神寂祓葉」
「ん――? あれ、もしかしてハリーじゃないの? おかしいなあ、確かに生き返らせた筈なんだけど」

 なんかサーヴァントになってるし、と首を傾げる祓葉。
 ミクトランの蝙蝠を滅ぼし、タルタロスの鎖に繋がれて汗の一滴も流していない。
 息吐くように道理をねじ伏せるという前評判通りの活躍に、猫耳のハリーは嘆息した。
 そんな彼をよそに、夕闇の影からぬるりとたおやかな笑みの少女が躍り出る。
 その顔を見て、今度こそ祓葉は旧友との再会を果たしたことに笑顔を花咲かせた。

「私はこっちだよ、祓葉」
「わー、久しぶりじゃんハリー! いつの間に分裂したの? そういう生き物だったっけ?」
「君に蘇らせてもらった"私"が、マスターとして英霊の"私"を召喚したのさ。
 だからどっちも『ハリー・フーディーニ』で間違いないよ。もっともそっちの彼は、私に比べてちょっと擦れてるけどね」
「へ~……。なるほどね、よくわかんないけど楽しそうじゃん」
「わかんないか~~。私いま結構わかりやすく説明したつもりなんだけどなあ」

 こうして話している分には、ふたりはただの女友達にしか見えないだろう。
 少なくとも、かつて燃える都市を舞台に殺し合った仲であるとは思えない筈だ。
 もっともその頃、祓葉と語らう"現在"のハリー・フーディーニはひとつ前の生――男性として顕現していたのだったが。

「まあ、とにかくだ。
 私達はふたりのハリー・フーディーニで君の聖杯戦争に臨んでるってわけ」
「イリス達が聞いたらすっごく難しい顔しそうだね。
 前の時もハリーのマジックにはみんな翻弄されてたし。
 ノクトやジャック先生もすっごくイライラしててさ、すごいな~って思ってたよ」
「ははっ、だったら何よりだ。斜に構えた大人達が子どもみたいに驚いてくれるほど、私達にとって嬉しいものはないからね」

 ひとりでさえ街ひとつを手玉に取れる奇術師。
 それが、現実的な戦闘能力まで兼ね備えたふたりに増えている。
 他に知れれば一気に討伐の優先度を引き上げられるだろう恐るべき事実だったが、聞いた祓葉も、明かした彼女も特に気にした様子はない。

「今は山越風夏と名乗ってる。だから君もそう呼んでよ、ハリーがふたりじゃ流石にこんがらがっちゃうでしょ」
「――ん。じゃあ風夏って呼ぶね。ふうか、ふーか。かわいい名前じゃない」
「お褒めに預かり恐悦至極。君も相変わらずのようで嬉しいよ、祓葉。主役が良くなきゃ舞台は映えない」
「他のみんなも頑張ってくれてるよ。私達の知ってる子達も、知らない子達も」
「知ってる。私もいろいろやっててね――その移動中にたまたま君を見かけたから、こうして寄ってみたってわけ」

 殺そうとしたことも殺されかけたことも、彼女達には大した問題ではないらしい。
 ある意味では、他のどの衛星達とも違う関係性のもとに関われる間柄。
 それがこのふたり。神寂祓葉と山越風夏という、破綻した少女達であった。

「あはは、やっぱりまた悪だくみやってるんだ? 風夏も変わんないねえ」
「私はそういう生き物だからね。まして前回は、マジシャンにとっては少々不本意な結末に終わってしまったから」
「一応聞いとくけど、シャストルのおじさんも居たりする?」
「まさか。彼はいい男だったけど、私とはちょっと芸風が違ったからね。こっちから共演をお願いすることはもうないよ」

 結局、詐欺師と奇術師は似て非なるものなのさ。
 そう言ってひらひらと手を振る風夏の姿は、夕焼けの景色によく映える。

「そういうわけだから、ぜひ期待して待っててよ。
 今回は前以上に見応えのある、素晴らしいものを君に見せてあげるから」

 それは――ひとり殺し殺されとは別の分野で戦う奇術師からの、神への宣戦布告だった。
 前回は魅せ切れなかった。趣向は悪くなかったと自負しているが、しかしあの時自分はまだ"彼女"のことを知らなかった。
 だから間違えた。死んだ。大掛かりなマジックショーでは、ひとつのミスが命取りになる。
 ハリー・フーディーニはあの炎の夜に、無様にも舞台の上で自爆したのだ。少なくとも風夏は、そう思っている。

 だが、今は違う。
 自分はもう、神寂祓葉を知っている。
 二度とその輝きを見逃さないように、魂にまで焼き付けた。
 もはや目的は"脱出"に非ず。たとえこの身が舞台の上で再び燃え尽きようとも、勝ち取るべき喝采があるのだと風夏は信じていた。

「私は今度こそ、君のために舞台を完遂する。
 至高にして至上、愉快にして痛快な、君のためのショーを見せてあげよう」

 ショーは成功させる。
 九生の果てまで続くこの魂に懸けて。
 輝くあなたに最高の高揚を届けるのだと、脱出の王は誓っていた。

 駒は既に揃いつつある。
 赤騎士討伐戦線。
 目覚めたる少女と復讐譚。
 幕の上がったショーを止められる者はこの世のどこにも存在しない。
 まして奇術を提供するのが、ハリー・フーディーニであるのなら。

「その時また、私にあの笑顔を見せてくれ」
「ふふ。うん、楽しみにしてる」

 祓葉の答えを聞いた風夏は、期待の言葉をかけられた幼子そのままに笑った。
 そして次の瞬間には、もういない。
 夕焼けの街には白い少女がひとりきり。
 ミクトランの蝙蝠も、タナトスの鎖も、猫少年も転生少女も、一時の夢のように姿を消している。
 今のやり取り、交わした誓い、その真実性を誰も保証できない。
 世界の主役たる彼女を除いては誰も、ハリー・フーディーニを捉えられないから。

「……私のためのショー、かあ。
 ふふ、それはすっごく楽しみだけど」

 過去の彼方に閉じられた頁を再び開こう。
 前回、ハリー・フーディーニは悪徳の狩人を召喚した。
 彼女の目的は聖杯戦争からの穏便にして、完全なる"脱出"。
 されど鼠のように小さく抜け出すのではマジシャンの名折れ。

 よってハリーは、あらん限りの跳梁を繰り返した。
 駆け回り、おちょくり、時に死にかけながら脱出劇のピースを満たす。
 条件さえ揃えばこの世のあらゆる概念を(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)()へ改造できる(・・・・・・)という、ジャン・シャストルの宝具。
 それを聖杯へと行使し、世界を喰む最新最強の『ジェヴォーダンの獣』を生み出し――乱痴気騒ぎをバックコーラスに悠然と自分だけが死の満たす柩(コフィン)から脱出する。

 果たしてその奇術は、罷り通る筈だった。何故なら誰も、ハリー・フーディーニを捕まえられないから。
 蛇杖堂が勝とうが他の誰かが勝とうが、聖杯戦争の終局で待ち受けるのは願望器の魔獣。
 人類愛ならぬ人類憎を泥のように煮え滾らせた、この世の悪意そのものが願いの番人を務めることは半ば確定していた。
 そう――神寂祓葉さえいなければ。

「ハリー……風夏も、いつか私以外の恒星(ほし)を見つけてくれたら嬉しいんだけどな」

 願望の成れ果てたる獣を調伏し。
 狩人の断末魔を聞き。
 奇術師の脱出を阻んで、戴冠した女。
 九生に渡り不変である筈の柔軟を、狂気一色に塗り潰した冒涜者。

 可能性の躍動を望み、誰よりそれを愛している女は、ひとり困った風に笑った。



◇◇



「どうだった?」
「一言、凄まじい。
 君がそうまで壊れた理由が分かったよ」

 猫耳の少年――ハリー・フーディーニの名を持つライダーは、主の問いにそう答えた。
 なるほど、確かにアレは"火"だ。
 過去を燃やす炎であり。未来を照らす灯であり。今を動かす炉心となり得るヒカリであった。
 仮に自分がこの"もうひとりのぼく"の立場だったとしても、きっと同じように灼かれ狂っていただろうことは想像に難くない。

「それはよかった。一度ね、実際に見せてあげたかったんだ。
 興味もあった。奇術を極め切った最果ての私が、果たしてこの私と同じ感想に至るのか」
「我ながら難儀な性根だね。比喩でなく幼い日の自分を見ている気分だよ。背中がむず痒くなってくる」
「黒歴史なんて軽い言葉で片付けないでよ。私はただ、あなたとは目指す道が違うってだけ」

 くすくすと笑う少女は、もはや"ハリー・フーディーニ"とは絶対的に違う生物だ。
 奇術師の宿痾、あるいは起源と呼び変えてもいいだろう、その名は〈脱出〉である。
 抜け出さずにはいられない。束縛、柩の中、大戦争、果てには死後の安息からさえも。
 それを追い求めることが"ハリー・フーディーニ"の存在意義であり、果てに至って枯れるまで変わらないアイデンティティだ。
 にも関わらず、山越風夏という名の是(ハリー)はもうそこに囚われていない。
 起源を、魂のかたちさえもを忘れてしまう光に灼かれた成れの果て。
 その姿は正しく、猫少年のハリーには狂人のそれに映った。

「……まあ、何でもいいよ。
 実際に見て、ぼくも少しやる気が出たのは否定しない。
 こればっかりは職業病だね。目の肥えた観客がいたなら、魅せる奇術をより洗練させたくなる――今のぼくにも、そのくらいのプライドは残っていたみたいだ」

 この通り、彼はこんなに成っても奇術師だ。
 故に仕事は選ばない。舞台を選り好みして公演を断る奇術師など三流と信じている。
 此度の観客を見た今も、その一点に関しては一切不変。
 だから文句はなく、モチベーションはむしろ上がっている。
 ただ。

「風夏。君にひとつだけ忠告しておく」
「うん? いいよ、何でも言ってほしいな。
 他でもない私自身の言うことなら一聴の価値はある。慎んで傾聴させてもらうよ」
「盲目は、奇術師にとって悪徳以外の何物でもないよ」

 だからこそそこに関してだけは、口を挟まざるを得なかった。

「視野が狭まれば発想は鈍し、必然として抑えるべきポイントを見落とす。
 思考の偏りと決めつけはぼくらが最も唾棄すべき怠慢で、驕りだ。
 前回の東京で、君はそれが理由で敗北したのではなかったかな」
「祓葉のことなら分かってるさ。彼女が何を好み、何を愛するのか。私はちゃんと知ってるよ」
「ほら、それだ」

 やれやれと肩を竦めて返した答えに、間髪入れずそう言われたものだから。
 さしもの風夏も、思わず口を噤んでしまう。

「……まあ、これ以上とやかく言うつもりはないよ。
 説教なんてするガラじゃないし、何より意味がないからね。
 ただ、それでもひとつ"先人"として私見を残しておくなら」

 神寂祓葉は怪物である。
 宇宙の何より眩く輝く、極星である。
 九生の果てからそう断言する。認めよう。あの少女は間違いなく、過去未来すべての観客の中で一番の異物であると。
 その輝きは網膜のみならず、魂まで焼き焦がすほど。
 だがしかし、ああだとしても。

「アレは君らと同じ"人間"だよ。人間のあり方や価値観ってのは、一朝一夕で知り尽くせるものじゃない」

 眩しいならばこそ、見落とすものもあるだろうと。
 それだけを過去の自分、成長途上のハリー・フーディーニに伝えて――猫少年はぽん、と姿を消した。霊体化したのだ。
 夕暮れの中に、当代のハリーだけが残される。
 山越風夏。いわく、〈現代の脱出王〉。いつも不敵に笑うその顔は、いつになく困ったような表情を湛えていた。

「…………まあ、覚えておくよ。君が言うならね」

 舞台の主役は白い少女で揺るがない。
 しかしこの舞台には、その他の役柄が存在しない。
 奇術師なる役名は有らず、ステージは彼女のためのものではなく。
 何にも捕まらず囚われない筈の山越風夏に、おまえは囚われている、という指摘が飛んだ。
 これは夕暮れの些細な一幕。大局の片隅で行われた、自己と自己のちいさな対話。

 それに価値があるのか、無いのか。
 あるいは的を射ているのか、道化の戯言に過ぎないのか。
 答えもその実像も、今はすべて、黄昏の中に隠されたまま。



◇◇



【新宿区・街角の小さな公園/一日目・夕方】

【華村悠灯】
[状態]:健康、激しい動揺と葛藤、そして自問
[令呪]:残り三画
[装備]:精霊の指輪(シッティング・ブルの呪術器具)
[道具]:なし
[所持金]:ささやか。現金はあまりない。
[思考・状況]
基本方針:今度こそ、ちゃんと生きたい。
0:祓葉の誘いに、あたしは――
1:暫くは周鳳狩魔と組む。
2:ゲンジに対するちょっぴりの親近感。とりあえず、警戒心は解いた。
3:山越風夏への嫌悪と警戒。
[備考]

【キャスター(シッティング・ブル)】
[状態]:健康、迷い
[装備]:トマホーク
[道具]:弓矢、ライフル
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:救われなかった同胞達を救済する。
0:今の私は、どうあるべきか?
1:神寂祓葉への最大級の警戒と畏れ。アレは、我々の地上に在っていいモノではない。
2:――他でもないこの私が、そう思考するのか。堕ちたものだ。
3:復讐者(シャクシャイン)への共感と、深い哀しみ。
4:いずれ、宿縁と対峙する時が来る。
5:"哀れな人形"どもへの極めて強い警戒。
[備考]
ジョージ・アームストロング・カスターの存在を認識しました。
※各所に“霊獣”を飛ばし、戦局を偵察させています。

【バーサーカー(ゴドフロワ・ド・ブイヨン)】
[状態]:健康
[装備]:『主よ、我が無道を赦し給え』
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:狩魔と共に聖杯戦争を勝ち残る。
1:神寂祓葉への最大級の警戒と、必ずや討たねばならないという強い使命感。
2:レッドライダーの気配に対する警戒。
[備考]


【新宿区・路地/一日目・夕方】

【神寂祓葉】
[状態]:健康、わくわく、ちょっと休憩中
[令呪]:残り三画(永久機関の効果により、使っても令呪が消費されない)
[装備]:『時計じかけの方舟機構(パーペチュアルモーションマシン)』
[道具]:
[所持金]:一般的な女子高生の手持ち程度
[思考・状況]
基本方針:みんなで楽しく聖杯戦争!
1:結局希彦さんのことどうしよう……わー!
2:面白くなってきたなー!
3:悠灯はどうするんだろ。できれば力になってあげたいけど。
4:風夏の舞台は楽しみだけど、私なんかにそんな縛られなくてもいいのにね。
5:もうひとりのハリー(ライダー)かわいかったな……ヨハンと並べて抱き枕にしたいな……うへへ……
[備考]
二日目の朝、香篤井希彦と再び会う約束をしました。


山越風夏(ハリー・フーディーニ)
[状態]:健康、わずかな戸惑い
[令呪]:残り三画
[装備]:舞台衣装(レオタード)
[道具]:マジシャン道具
[所持金]:潤沢(使い切れない程のマジシャンとしての収入)
[思考・状況]
基本方針:聖杯戦争を楽しく盛り上げた上で〈脱出〉を成功させる
0:キャスターの指摘に少し戸惑い。
1:他の主従に接触して聖杯戦争を加速させる。
2:悪国征蹂郎のサーヴァントが排除されるまで〈デュラハン〉に加担。ただし指示は聞かないよ。
3:うんうん、いい感じに育ってるね。たのしみたのしみ!
4:レミュリンの選択と能力の芽生えに期待。
5:祓葉が相変わらずで何より。そうでなくっちゃね、ふふふ。
[備考]
準備の時間さえあれば、人払いの結界と同等の効果を、魔力を一切使わずに発揮できます。

【ライダー(ハリー・フーディーニ)】
[状態]:健康
[装備]:九つの棺
[道具]:
[所持金]:潤沢(ハリーのものはハリーのもの、そうでしょう?)
[思考・状況]
基本方針:山越風夏の助手をしつつ、彼女の行先を観察する。
0:まあ、ぼくは仕事をするだけだから。
1:他の主従に接触して聖杯戦争を加速させる。
2:神寂祓葉は凄まじい。……なるほど、彼女(ぼく)がああなるわけだ。
[備考]
準備の時間さえあれば、人払いの結界と同等の効果を、魔力を一切使わずに発揮できます。



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最終更新:2024年12月07日 01:53