◆◇◆◇
一人の極星によって始められた、針音の聖杯戦争。
起こるはずのなかった、奇跡を巡る二度目の闘争。
作り出された虚構の東京を舞台に繰り広げられる殺し合い。
数多の主従が入り乱れ、演者の選別が行われていた期間。
本格的な戦いが始まるまでの、幕間の一ヶ月。
――この聖杯戦争に呼び寄せられて、間もない頃。
『ねえ、ランサー』
マンションの一室、ソファの据えられたリビング。
外部での“偵察”から帰ってきたランサーを見上げながら。
彼のマスターであるレミュリンは、声を掛けた。
『どうした、嬢ちゃん?』
『その、私さ。このままでいいのかなって』
その大きな体格を屈めて、膝を付くランサー。
そうして彼は、ソファに座るレミュリンに目線を合わせた。
ささやかな気遣いに好感を抱きつつ、少女は微かに顔を俯かせる。
『私って、ランサーを待つばかりで』
外部への偵察。状況の把握。
それらの行動に関して、レミュリンはランサーに頼っていた。
この虚構の都市に呼ばれてから、彼女はあくまで日常を過ごし続けていた。
聖杯戦争のマスターには、舞台上での社会生活を送るためのロールが割り当てられている。
レミュリンもまた同様に、海外からの留学生として偽りの東京で暮らしていた。
休校中の課題に手を付けたり、テレビを付けて気を紛らわせたり。
時おり後見人であるダヴィドフ神父と連絡を取ったり。
戦争はランサーが引き受けて、レミュリンはあくまで日常の中に身を置いていた。
そのことについて、レミュリンはランサーを頼りにしつつ。
やはり心の奥底では、思うところがあって。
『何の力にもなれてないんじゃないかな……って』
『――いいや、違うさ』
そうして少女の口から溢れた負い目を、ランサーがキッパリと否定する。
レミュリンは思わず目を丸くして、顔を上げた。
その視線の先。彼女の目の前で、ランサーは明るく微笑んでいた。
『力になるか、ならないかじゃない。
嬢ちゃんが願って、俺がそれに応えた。
それで十分なんだ。それが、英雄ってもんなんだ』
どんと胸を張るように、ランサーは笑顔でそう告げてくる。
何処までも前向きで、清々しく、眩しいほどの姿だった。
力になれているか、なれていないか。そんなことを気にする必要はない。
君の願うところを、己が真っ直ぐに受け止めた。
それだけで、戦う理由になる。命を張る動機になる。
だから、気にする必要はない――ランサーは穏やかな眼差しで、そう伝えてくれた。
『言ったろ?君の笑顔は笑顔で満たすと』
ランサーは、ヒーローだった。
孤独だった自分を支えてくれる、優しい英雄だった。
誰よりも優しく、誰よりも暖かく、その言葉には安心がある。
『大丈夫だ。俺が、此処にいる』
そんな彼を、レミュリンは信頼していた。
そんな彼に、レミュリンは救われていた。
そして、だからこそ――後ろめたさもあった。
――それから、暫くして。
ランサーは「もう少し調べたいことがある」として、再び外へと向かい。
留守番となったレミュリンは、その身をソファに委ねて横たわっていた。
レミュリンはこうして、一人で過ごす時間が多かった。
それは聖杯戦争に関係なく、以前からそうだった。
彼女は、物思いに耽ることが多かった。
あの事件以来、レミュリンは内気で自信に乏しい少女になった。
あまり笑顔を作ることも出来ず、心を閉じ籠らせがちになっていた。
親しい友人というものも、数少ない。
ましてや、過去のトラウマについて話せる身内は殆どいない。
精々が、後見人である“神父様”にある程度相談できる程度であり。
あの日の記憶について、誰かにしっかりと話せたのは――ランサーが最初だった。
ランサーは、“気にしないでいい”と言ってくれた。
その言葉によって、確かに救われるところがあった
しかしそれでも、心の奥底には不安と閉塞が根付いていた。
“あの日”と同じように、自分は真実の外側にいる。
核心から遠く離れたところで、ひとり忽然と佇んでいる。
そうして頑張っている誰かを、遠目で見つめることしかできない。
きっと、同じだった。
魔術師の家系に生まれて。
魔術を知らずに育って。
自分の心だけが、家族とほんの少し離れていた。
そうしてレミュリンは、一人だけ生き残ってしまった。
そう思うが故に、今の自分の無力について考えを巡らせてしまう。
聖杯戦争のマスターは、総じて魔術師であり。
しかし中には、そうでないものも呼び寄せられている。
彼らにも後天的に魔術回路が補填され、異能への道筋が開かれる。
――レミュリンはそれを漠然と認識していた。
聖杯戦争の知識が刷り込まれたことにより、マスターにまつわる基礎的な仕組みも何となく掴んでいた。
そしてランサーからも話を伺っていたことで、彼女はそのシステムの存在を理解していた。
しかし、自分には今だに“そういうもの”が目覚めていない。
特殊な能力とか、戦うための異能とか。
そういった超常的な技能を身につけられていなかった。
そのことに関する負い目のようなものがあった。
戦場に立つだけの力も持たず、何の手伝いもできない。
幾ら彼が真っ直ぐに否定してくれようとも。
結局自分は、ランサーにとって重荷なのではないだろうか。
そんな不安が胸の内に宿っていて。
そして。
言い知れない罪悪感があった。
それは、ランサーにも未だ告げられていない。
自らの奥底に眠る、情景のことだった。
――ごうごう、ごうごう、と。
心の内側で、脳裏の裏側で、魂の根源で。
灼けるように鮮明な情景が、何度も反響する。
それは、レミュリンにとって“悪夢”のイメージ。
ランサーと出会ってからは、久しく見ていなかった色彩。
この一ヶ月。少しずつ動き始める運命を前に、その紅色が蘇っていく。
かつて見ることのなかった色。
確かにあったはずの色。
愛しい家族を奪っていった、死の色。
拭えない過去の残滓が、其処に横たわっていた。
きっとこの情景は、いつまでも自分を追い立てる。
家族の喪失。日常の崩壊。その象徴として、心に宿り続ける。
二年前の“あの日”から続く、癒えることのない呪い。
それを振り切れる時が来るとすれば。
家族を取り戻すという奇跡を果たした時か。
あるいは――あの惨劇に決着を付けられた時かもしれない。
身体に、仄かな熱が籠る。
まるで神経に何かが走るように。
炎にも似た熱さが、内奥から込み上げてくる。
その違和感と恐怖に、少女は表情を歪める。
少女が背負う呪縛。
哀しみに灼かれる“
熱の日々”。
その情景の先にあるものを。
レミュリンはまだ、見据えられていない。
◆◇◆◇
◆
空は少しずつ茜色に染まり。
次第に仄暗い闇へと沈んでいく。
陰の掛かった、暗色の赤と青。
相反する色彩が混じり合い。
夕暮れの時間へと溶け込んでいく。
この都会で、星の輝きは見えない。
煌めく光は、何処にも見当たらない。
街を見下ろす空は、ひどく孤独で。
何処までも続くように、果てしなくて。
鮮やかな“色”だけが、其処に広がる。
目の前にあるものは、空だけ。
他には、何ひとつない。
焼き付くような茜色と、闇に沈むような紺色。
矛盾した色と色が、緩やかに動く。
――いつか、星でも見に行こうよ。
かつて、そんなことを言われたのを思い出す。
そんな調子でいつも、遊びや外出に誘ってきたのを思い返す。
自分にとって、初めての友達。
孤独を裂いてくれた、たった一人の親友。
もう二度と交わることのない、憎らしい/愛しい少女。
結局、果たされることのない約束になった。
星を見に行く前に、二人の道は引き裂かれた。
思い出は、虚しいだけだった。
あの日の記憶など、遣る瀬無いだけだった。
もはや取り戻すことのできない、美しき情景。
幾ら手を伸ばしても、届くことはない。
まるで星のように――遠い彼方で、煌めいている。
――白と黒。蝗害を統べる魔女。
イリスは、芝生の上で仰向けに横たわっていた。
ただ呆然と、空を見つめていた。
そこは、渋谷区の広大な公園だった。
休日には多数の親子連れが訪れる公共の施設であり。
しかし夕暮れ時の今は、誰一人としてその場にはいない。
東京の各所を襲い続ける災厄などの影響もあり、この芝生の広場も閑散としている。
イリスは孤独に浸るように、じっと空の色彩を眺める。
頭の中で入り乱れる感情を、安らかに落ち着かせるように。
彼女はただ、沈黙の中に身を委ねている。
仄暗い影に覆われた緑の上で、ツートンの色彩がコントラストと化す。
――次は殺すから。あんたを殺して、私は先に行く。
記憶が、頭の奥底で転がり続ける。
鮮明に、反響を繰り返す。
――そんな顔しないでよ、イリス。
どれだけ狂って、どれだけ堕ちても。
腐敗した“青春”は、心の中で尾を引いている。
イリスは、それに別れを告げたばかりだった。
遠い日の記憶と、決別したばかりだった。
“あの女”は、変わらない。
これまでも、これからも。
かつて夢見た未来は、朽ち果てたまま。
“あいつ”だけが、同じ時間の中を駆け抜けている。
自分はもう、
神寂祓葉と交わることはない。
また“ふたり”で肩を並べるのは、これが最初で最後。
あの共闘を経て、イリスは改めて悟った。
過去を燃やして、割り切った。
もう手に入らない輝きを捨てて、進むことを選んだ。
身体に纏わりつく“あの日々”を、振り払うことを決意した。
なのに。だというのに――想いは、晴れない。
目の前に広がる澄んだ空とは違い、イリスの胸中では鬱屈が渦巻く。
振り切ったはずの過去が、今もなおしがみついている。
執着のような“未練”が、心を何度も掻きむしっている。
満たされない。癒されない。
空虚な器から、いつまでも溢れ続ける。
なにかが、ずっと、絶え間なく流れ落ちていく。
それが、イリスには、ひどく不快だった。
だから、ただただ茫然と、空を見つめていた。
この一ヶ月、常に死地の中に身を置いていた。
多くの主従を葬り、多くの屍を乗り越えてきた。
そんなイリスが、こうして束の間の“孤独”に浸っていた。
自分の心を整理するかのように、何もない時間の中で横たわっていた。
幾ら空を見つめようとも、現実は何も変わらない。
自分と祓葉は断絶したままで、決別へと至って。
いずれは殺し合い、決着をつける運命にあって。
自身もそれを受け入れて――それが、イリスの前に転がるもの。
救えない“あいつ”には。
救えない“わたし”しかいない。
だから、行き着く先は決まっている。
イリスは、そう願っている。
イリスは、それを嘆いている。
イリスは、それに焦がれている。
イリスは、それで苦しんでいる。
イリスは、それだけを望んでいる。
イリスは、それだけが――――。
矛盾して、相反する感情が、幾度も交錯して。
イリスはその度に、苛立ちと憂鬱を深めていく。
だから、今は時間の中に心を委ねるしかなかった。
彼女は静かに、芝生に身体を任せて。
果てしない色彩を、じっと見つめ続ける。
――その最中だった。
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ――。
イリスの耳に、その音が小さく響く。
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ――。
遠く離れた地点から、少しずつ、少しずつ近づいてくる。
一歩一歩、芝生を踏みしきる音が聞こえる。
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ――。
それは、“誰か”の足音だった。
閑散とした広場に現れた、他者の気配だった。
茜と紺の空を見上げていたイリスは、ぴくりと表情を動かす。
ゆっくりと、徐々にこちらへと向かってくる足音に、意識を向ける。
その足音の主が、自分の方へと近付いていることを察する。
明らかにイリスの存在を認識して、歩み寄っている――。
苛立ちは、いまだに晴れない。
鬱屈は、心で渦巻き続けている。
それ故に、無愛想な表情のまま眉を顰めて。
やがて一呼吸をして、少しでも心を落ち着かせる。
足音の主が何者なのか、大方の予想はついていた。
この舞台に立つ役者の一人が、嗅ぎつけてきたのだろう。
魔力の残痕を辿ったか、あるいは先の戦闘でも目撃したか。
どちらにせよ、対峙は余儀なくされる。
故に、イリスは――ゆらりと起き上がる。
まるで糸を引かれた、古めかしい人形のように。
纏わりつく芝生の欠片を払い、すっとその場から立つ。
相反する色が交差する空から、視界が移りゆく。
芝生の生い茂った、広大な公園がそこに存在し。
そして、十数メートル離れた地点で立ち止まる“影”があった。
日没へと向かう影を背負いつつ。
夕焼けの仄かな光に照らされている。
肩まで伸ばした、色素の薄い金色の髪。
緩やかな服を身に纏った、大人しげな少女。
その瞳には、緊張と焦燥を宿しながらも。
同時に、確かな意志を携えていた。
「……マスターってわけね」
少女の右手に刻まれた紋様を見て、イリスは呟く。
それは、分かりきっていたことだった。
人気のない夕暮れの公園に現れた存在。
わざわざ此方へと向かってきた来訪者。
この聖杯戦争に呼び寄せられたマスターであることは、容易に感じ取れた。
じっと見つめるようなイリスの眼差し。
感情もなく、ただ淡々と見定めるように瞼を細めている。
そんなイリスの様子に、少女は何処か内気な様子で臆するも。
それでも呼吸を整えて、きゅっと表情を引き締めた。
そして、ゆっくりと。
少女は自らの名を告げる。
意を決するように、口にした名を聞いて。
イリスは目を細めて、少女を見つめる。
「――スタール?」
イリスは、その名に聞き覚えがあった。
“時計塔”――ロンドンを拠点とする魔術師の最大組織、“魔術協会”の総本山。
そこに所属する名門魔術師の中に、スタールという一族の名が存在していた。
――イリスが生まれ育った“楪の一族”は、“根源”への到達を目指すという点では典型的な魔術師の家系だった。
しかし彼らは極東の国、九州奥地の村落に権威として根を張ったという点で異端だった。
魔術の中心である欧州との交流を断ち、極めてローカルな未開の土地で彼らは独学の研鑽を重ねていた。
故に彼らは外界との交流に乏しく、魔術協会の動勢も正確に把握できていたとは言い難かった。
彼らは謂わば、自ら飛び込んだ井の中の蛙。貴族主義が蔓延る大海から遠ざかり、小さな世界で王を気取ることを選んだ弱小の一族。
にも関わらず、なぜイリスはロンドンの魔術師“スタール”の名を把握していたのか。
その理由は、単純なことだった――彼らの名を掴む機会があったからだ。
「アギリ・アカサカ」
レミュリンが口にした“その名”を聞き。
イリスは、改めて合点がいった。
「私の家族を殺した相手を追ってる」
――
赤坂亜切。魔術師専門の暗殺者。
“発火”の力を操る、悪辣なる魔眼使い。
イリスは一回目の聖杯戦争において彼と敵対し、時には”病院に潜む怪物“を討つべく共闘した。
そしてこの“二度目の戦争”でも、最後の戦いを見据えたうえで結託している。
一回目の聖杯戦争においてアギリの存在を初めて認識した際、イリスは一族の手も借りつつその情報を調べた。
――“相棒”であった神寂祓葉が魔術の素人であったので、こういう仕事はほぼイリスの役目だった。
アギリの手口や犯行、魔術師としての特性。暗殺者であるが故に情報は決して多くないが、手掛かりだけでも良しとしてその痕跡を探った。
その中のひとつとして見かけたのが――“ロンドンの名門魔術師・スタール家の焼殺事件”。
事件は“時計塔”によって淡々と処理され、表では以後省みられることも無く風化していったらしいが。
暗殺者の介在が噂されたその一件の“犯人”として裏の世界で目されていたのが、あの“凍原の赫炎”だった。
スタールの名を背負う少女。
家族を殺した仇敵を追う“生き残り”。
――そもそも何故、この少女は今も殺されずに生きているのか。
あの男が標的の一人をしくじったまま野放しにしているとは考え難い。
なら、考えられる理由があるとすれば。
「……ああ」
魔術師の家系でありながら、アギリに狙われなかった少女。
魔力の気配を纏いながらも、術者の域にはまるで程遠い“独特の匂い”。
豊潤な樹に育ちながら、未成熟のままぶら下がっている果実。
その意味を、イリスは冷めた眼差しで理解する。
「“妹”ってとこね」
――魔術の世界ではよくあることだ。
それは、神秘の秘匿ゆえの一子相伝。
長兄や長女が魔道を受け継いだことで、何も知らされずに安穏と育てられた“第二子”。
レミュリンという少女は、謂わばそういった類いの人間なのだろう。
「……うん。私は、妹だったから。
魔術のことも、なにひとつ知らなかった」
イリスは、レミュリンの肯定の言葉を聞き。
気がつけば、ぴくりと表情が歪んでいた。
言い知れぬ不快感が、顔をもたげた。
「けど、私は願ったの。もう一人は嫌だよ、って。
それで、お姉ちゃんが持ってた“懐中時計”を手に取って。
私は、この戦争に招かれた」
イリスの胸の内から苛立ちが込み上げる中。
そう語るレミュリンに、訝しむような眼差しを向けた。
自らの姉が持っていた“懐中時計”によって聖杯戦争に参加した――その話に、彼女は疑問を抱く。
「……姉が、ねえ」
彼女達〈はじまりの六人〉は、一度目の死を経た上でこの世界へと招かれている。
そして有象無象の〈演者〉達と同様、六人もまた“懐中時計”を手にして舞台に立っているからこそイリスは思う。
――こいつの“姉”とやらは、この聖杯戦争に招かれる資格を持った者だったのか。
――あるいは、資格を持っていたこいつ自身に時計が渡る運命だったのか。
もしかすると、それについてもアギリが何か知っているのかもしれないが。
自らには関係のないことだと判断して、イリスは一旦その疑問を打ち切る。
「それで、今日。私はある人に出会った」
それから、レミュリンは一呼吸を置き。
日中の出来事を追憶して、言葉を続けた。
「フーカ・ヤマゴエさん――〈脱出王〉って名乗ってた女の子。
彼女がアギリ・アカサカについて教えてくれた」
「…………あ?彼女?」
そしてイリスは、更なる疑問に行き当たった。
〈脱出王〉。前回の聖杯戦争でも飄々と立ち回り、盤面を駆け巡ったトリックスター。
そいつが参戦してることは別にいい。アギリの存在を掴んでいることも、どうだっていい。
どちらにせよ、分かりきっていたことだ。
しかし、なぜ女になっているのか――その点に関しては想定外だった。
尤も、あいつは前回からして訳の分からない奴だったが。
「私は……どうすればいいのか、迷ったけど。
ずっとお世話になってる人から、後押しされて。
やっぱり、答えがほしいって思った」
そんなイリスの疑問を知る由もなく。
レミュリンは、決意の眼差しと共に言葉を紡ぐ。
「家族を喪った“あの日”のことを、知りたい」
彼女は、確かな真実を求めていた。
自分の人生を、前へと進めるために。
答えを掴んで、納得を手にするために。
そうしてレミュリンは、言葉を続けた。
「アギリ・アカサカと直接会って、話がしたい」
なぜ彼女は、イリスに話をしたのか。
なぜ彼女は、アギリの件を語ったのか。
「――あなたは、彼を知ってる人だと思った」
断言するように告げたレミュリンに対し、イリスは目を細める。
「だから、あなたの魔力を感じ取って……“会ってみよう”って」
まるで確信を得ているような一言に、問いを投げかける。
「一応聞くけど、理由は」
「あなたからは……〈脱出王〉と同じ感じがした」
イリスから問われたレミュリンは、そう答えた。
「匂いが、同じだって思った」
それは、魔力の気配であり。
それは、身に纏う匂いだった。
レミュリンは生来の魔術回路を備え、魔術師としての優れた素養を持つ。
故に魔力に対しても、外付けの魔術回路を与えられたマスター達よりも敏感に感じ取れた。
だからこそ、脱出王とイリスの相似にも鋭く感づくことができた。
――前回聖杯戦争の参加者。狂気に囚われた〈はじまりの六人〉。
最初の死を経て蘇り、極星によってその眼を灼かれた彼らは、本質的に近い気配を纏っている。
イリスは、真顔のままレミュリンを見据える。
曲がりなりにも魔術師の血筋――“鼻は利く”らしい。
そのことを認識したうえで、レミュリンを見つめて。
暫しの沈黙を経て、ぶっきらぼうに言葉を吐く。
「確かに、あいつのことは知ってる」
ゆらり、ゆらりと。
まるで幽鬼のように歩き出す。
白と黒の装束が揺れる。
――――ざざざ。
――――ざり、ざりざりざり。
イリスの頭の中で、砂嵐が乱れる。
壊れたラジオのようなノイズが木霊する。
自分を俯瞰して見つめようとしても。
それ以上に、腹の底が煮えくり返る。
「大方、脱出王の奴にも思惑があるんでしょうけど」
ぽつぽつと呟きながら。
少しずつ、歩を進める。
酷く冷ややかな眼差しを湛えながら。
――――ざりざり、ざりざりと。
ノイズの音は一向に止まない。
思考がただ不愉快に乱れ続ける。
ピントが狂っていく。
感情が荒れていく。
白と黒の嵐が、脳裏の画面に映る。
煩わしい。腹立たしい。
うざったい。憎らしい。
ただ、イライラする。
「知ったことじゃない」
イリスは、レミュリンの前に立つ。
目線を微かに上げながら、吐き捨てる。
そんな白黒の少女と対峙して。
レミュリンが、息を飲んだ矢先。
「今さ。機嫌悪いんだよ」
ざりざり。ざりざり。
ざりざりざりざり――――ぷつん。
イリスの眼が、揺らめいた。
白と黒。二つの色彩。原初の明暗。
そして――。
まるで炎が灯されるように。
その瞳が、色に染まった。
◆
ああ。
ただでさえ苛ついてたのに。
尚更、腹が立つ。
私は“一族”を背負わされた。
零落へと向かう老いぼれ共に縛られた。
誰とも対等な関係にはなれなかった。
届かぬ理想を担う道しか与えられなかった。
鬱屈と閉塞だけが、自分の世界だった。
あの“忌々しい女”に会うまでは。
けれど、こいつは。
このスタール家の忘れ形見は。
家督を継ぐ必要がなかった。
初めから魔術師にならずに済んだ。
だから。
何も知らされずに、育っている。
レミュリン・ウェルブレイシス・スタール。
無垢な素人。生きる道を自ら選び取れた凡人。
憎らしくなるほど、“普通”の人間。
忌々しい。腹立たしい。
わざわざ首突っ込みたいのかよ。
さっさと諦めろよ。
目を逸らせよ。
そのまま安穏に浸ってろよ。
捨てろよ。魔道の世界なんか。
――初めから自由だったくせに。
――なんの“未練”があるんだよ。
◆
イリスの足元を起点に、周囲一帯の芝生が“変化”する。
まるでブロックタイル柄の床のように、地面が“白黒の二色”と化す。
困惑と動揺をその顔に浮かべたレミュリンを庇うように。
ランサーのサーヴァント――“長腕のルー”が、即座に霊体化を解除した。
両手で握り締めた、一振りの槍。
その長柄を振り上げて、眼前のイリスへと叩き付けんとした。
しかし、次の瞬間。
――イリスの姿が、突如として消えた。
振り上げた柄は、虚空を切ることになる。
そして間も無く、イリスは全く別の地点へと姿を現す。
白色の地面の上に佇んでいたイリスが、一気に後方へと下がったのだ。
レミュリンから大きく間合いを取る形で、別の白色の足場へと転移した。
即ち、瞬間移動。座標の転移。
イリスが体得する“色間魔術”――その行使によって、同じ“白の領域”へと自在に移動した。
先程まで十歩進めば手が届く距離にいたレミュリンとイリスは、一気に中距離戦の間合いと化す。
「ランサー、あれ……!!」
「ああ、嬢ちゃん!どうやら――」
イリスが転移を発動した直後。
彼女の周囲――白と黒のタイル状の足場から、“それら”は浮かび上がった。
まるで色彩から分離するように、白黒それぞれの色に染まった“刃”だった。
無数の凶器が、宙に滞空する。
その矛先は、レミュリン達へと向けられている。
「ありゃあ、相当の手練れらしいな……!!」
レミュリンは、目の前の光景に驚愕していた。
視界に広がる、刃の列。数多の殺意の具現。
これだけの数の暴威が、自分達を狙っている。
そして――初めて目の当たりにする、魔術師の“術理”に戦慄していた。
この聖杯戦争の中で、彼女は一度も戦闘を経験していない。
サーヴァントは愚か、マスターとの対峙とも無縁だった。
故に彼女は、魔術師の戦いというものを知らない。
死地に身を置く異能者が、どれほどの存在であるのかも理解していなかった。
彼女が初めて経験する、直接対決。
その相手とは、極星に魂を灼かれた〈狂気の使徒〉だった。
この聖杯戦争の核心に触れる、真性の魔人だった。
それが如何なる苦難なのか。
その意味を、レミュリンは叩きつけられる。
「散れ」
魔女の一声と共に。
宙に存在していた無数の刃が。
まるで機関銃の掃射のように。
次々に、レミュリン達へと目掛けて殺到した。
「嬢ちゃん!!絶対に――」
迫り来る刃の雨を前にして、ルーは声を上げる。
その手に槍を、強く握り締めて。
「――俺の傍から、離れるなよッ!!」
そして、ルーが神速の斬撃を繰り出した。
幾重にも交差する槍の残像が、無数の刃を打ち砕いていく。
レミュリンはただ言われるがまま、ルーの傍で守られることしか出来ない。
夕闇の公園を、地上の流星が駆け抜ける。
白と黒。原初の色彩。二色で構成された、無数の刃。
それらは地面から分離されるように生成され。
宙空に“配置”されて、そして次々に放たれていく。
ルーは、驚愕する。
“色彩の魔女”が操る魔力の高まりに。
その手で容易く使役される術式の規模に。
この一ヶ月、彼が相見えてきたマスター達とは格が違う。
それは最早、魔術師としての域を凌駕していた。
大規模な領域の展開と、果てなく繰り返される波状攻撃。
その出力は、並み居るサーヴァントにすら届く。
今のイリスは――“あの”祓葉と真正面から戦える存在だ。
ひとりの少女への“未練”に狂い、世界の理さえも超越してしまった魔人だ。
直接戦闘という点において、この舞台の役者達の中でも屈指の実力を持つ。
迫り来る数多の殺意と対峙しながら。
その突出した魔力に驚嘆しながら。
それでも英霊ルーは、決して取り乱すことはない。
――――総勢、数百以上。
雨霰のように繰り広げられる、刃の嵐。
地面に仕込まれた術式によって、フルオートで射出される殺意の乱打。
台風の目のようにその中心に立つのは、騎士と少女。
槍を振るう。無数の白黒の刃を弾き、砕いていく。
その激流を突き抜けて、イリス本体へと攻撃を仕掛けようとした矢先。
――その最中に、レミュリンの死角からも幾度となく攻撃が飛んでくる。
ルーはすかさずレミュリンの背後へ向けて槍を横薙ぎに振るい、その斬撃によって白黒の刃を粉砕する。
そのまま彼は槍を薙いだ勢いのまま方向を転換し、再び四方から迫る刃を次々にいなしていく。
ルーは、飛来する全ての攻撃を一本の槍のみで凌ぎ切っている。
第一の槍『常勝の四秘宝・槍(ランス・フォー・ルー)』。近接戦闘に特化したルーの主力武装である。
スキルである“幻の啓示”による高度な直感などの効果も含めて、ルーは迫り来る脅威を余すことなく迎撃し続けている。
四方八方、死角すらも逃さず――その迅速な瞬発力によって、躍動を繰り返す。
だが、彼はその場から動くことは出来ない。
敵であるイリス本体を叩くことが出来ない。
“自らが積極的に前へと出て攻め立て、敵にマスターを狙わせる隙を与えない”。
それがルーの主たる戦術、単純明快なる強さだった。
白兵戦において無二の実力を持つ彼が攻勢に出れば、敵は容易にマスターを狙うことも出来ない。
それでも距離を取ろうとする敵に対しては、“第二の槍”による必中の投擲で打ち払う。
遠近共に優れた技能を持つルーの前で、生半可な技は許されない。
しかし、今は違う。
ルーは、一撃たりとも傷を負っていない。
されど、間違いなく“その場に抑え込まれている”。
既に仕込まれていた“領域”による全方位からの断続的な攻撃。
あらゆる方向から次々に飛来する波状攻撃。
機動力の高いランサーならば、この弾幕を切り抜けて敵本体を狙うことも不可能ではない。
だが今は、守るべきレミュリンの存在が彼を足止めさせる。
弾幕に対する自衛の手段を持たない彼女は、ルーの守護がなければ確実に白黒の刃の餌食となる。
360度から迫り来る攻撃、その全てが彼女にとっては致命打になり得るのだから。
レミュリンは魔術師の血筋を引いているが、未だ異能には目覚めていない。
幾らかの保険となる“自衛の手段”は託しているものの。
彼女自身は戦士としての経験も技術も持たない、無力なマスターだった。
故にルーは、レミュリンを守るために“傍に立ち続ける”しかない。
如何に優れた武勇を持とうとも、あくまで彼は一人の戦士。
その身ひとつで、己がマスターを守り抜く他ない。
そして〈はじまりの六人〉であるイリスは、二度の聖杯戦争によって既にサーヴァントとの戦い方を熟知していた。
全方位攻撃に加えて、初手からルーに対し“座標転移”の魔術を見せつけることで、彼を足止めさせることに成功した。
――“相手は対象の位置を転移させることができる”
――“下手に動けば、マスターと自分が転移によって分断される危険性がある”。
――“そうなれば、マスターを守り切れなくなる”。
そんな警戒心をルーに抱かせて、その行動に対する心理的な制約を与えたのだ。
そうしてランサーの得手となる高い敏捷性や白兵戦能力を防ぎつつ。
マスターの守護に徹させることで、“遠距離攻撃の宝具”を使わせる余地も与えなかった。
飛び道具を警戒すべきなのは、何もアーチャーのみに限らない。
セイバーやランサーなどの英霊も時に強力な対城宝具を備えていることを、イリスは既に見知っている。
大英霊であるルーは、足止めを食らわされる。
次々に殺到する“白黒の濁流”を前に、彼は自らの主君を守る盾となり続ける。
彼は、そうならざるを得ない。
「――――ランサーッ!!」
「大丈夫だ、嬢ちゃん……!!」
迫る攻撃の雨を凌ぎ続けることしか出来ないルーに、レミュリンが声を上げる。
自らを案じるその呼び声に対し、ルーは不敵な微笑みを返す。
「俺が此処にいる!!心配無用だ!!」
槍を振るい、笑みを見せ、その大きな背中で少女を鼓舞する。
――
ルー・マク・エスリンは、紛れもなく英雄の在り方を見せつける。
君の歩む道は己が守り抜く。君の未来は己が共に切り開く。
そう告げるように、彼は勇ましく戦い続ける。
「――――はぁぁッ!!!」
槍を振るい、白黒の刃を弾き飛ばす。
槍で薙ぎ払い、白黒の刃を打ち砕く。
槍で穿ち、白黒の刃を次々に貫く。
雷鳴のような瞬発力で、ルーは全ての攻撃に対処していく。
色彩の嵐は、繰り返される。
絶え間なく、ルー達へと襲い来る。
刃の雨。刃の流星。
死の舞踏の中で、ルーは幾度も槍を振るい。
迫り来る殺意の群れを、余すことなく弾き落とす。
死から蘇ったイリスは、最早サーヴァントに匹敵する実力を手にしている。
今の彼女は、神話の英霊たるルーを足止めするほどの魔術を行使できる。
そしてイリスは、敵の格を理解しているからこそ決して油断しない。
この槍兵は、先程の“騎兵隊のライダー”に比べれば遥かに高位の英霊である。
ルー・マク・エスリンの真名を知らずとも、イリスはこの交戦によってそれをすぐに理解できる。
――だからこそ、奇妙なのだ。
槍を振るうルーは、疑念を抱く。
これほどの魔術師が、気付かぬ筈がないと。
彼は既に、勘づいていた。
確かにイリスは、ルーを足止めすることが出来る。
一介のマスターとしては破格なまでの実力だ。
しかしそれは、つまるところ“足止めが精一杯”ということに過ぎない。
現にイリスは未だにルーへと傷一つ付けられていないし、レミュリンに攻撃を届かせることも出来ていない。
そして三騎士の英霊であるルーには、高ランクの対魔力スキルが備えられている。
レミュリンを巻き込むことでルーを食い止めてはいるものの、本来なればイリスにとって相性の悪い敵と言ってもいい。
全方位からの攻撃を幾ら続けようと。
ルーに対しては、全く決定打にはならない。
ただ、無益な消耗戦を続けているだけ。
闇雲に魔力や体力を使うだけの、持久戦にしかならない。
ルーは、只管に奮戦する。
例え数百もの攻撃が迫ろうとも
主であるレミュリンには、指一本も触れさせない。
たった一振りの槍のみで、全てを凌ぎ切る。
その獅子奮迅の活躍の中で、彼は疑念を抱いていた。
無意味な消耗を繰り返すばかりの、白黒の魔女に対して。
何か、意図がある。
何か、思惑がある。
まるで、時間を稼いでいるような。
まるで、何かを待っているような。
そんなルーの疑念は――間もなく、形を成す。
◆
『おいおい――またキレてんのかよ』
『うっさい』
『つくづく気の短ェ女だな。こりゃ重病だ』
『今めちゃくちゃムカついてんだよ』
『おーおーやっぱり不機嫌モード入っちまってんな。ま、そんなトコだろと思ってたぜ』
『首尾は』
『例の爺さまに逢ったぜ』
『そう。どうだったの』
『心底忌々しいクソジジイだ』
『相変わらず、ってことね』
『例のホムンクルスと、お前が以前話していた“前回のアサシン”らしきヤツ。やっこさん方がつるんでやがった』
『は?』
『ジジイのせいで痛い目見たが、そいつらの介入もあって病院に打撃は与えられた』
『…………いや、あのアサシンいんのかよ。最悪』
『それと、ジジイからの伝言だ――――』
『――――で、そっちはフラれたか?
お前が未練たらたらな“愛しの女”に。
それとも、お前の方からフッたか?』
『ライダー』
『おう、何だい』
『むしゃくしゃしてる。ちょっと付き合え』
『今の話無視かよ』
『あんたも苛ついてんでしょ?ジジイにやられて』
『……ま、そうだな。気晴らしの狩りって訳か』
『マスターの方は容易く御せる。あんたはサーヴァントを分断してくれればいい』
『あいよ。ま、色々と言いてェことはお互いあるだろうが』
『まあね』
『まずは帰参のご挨拶と洒落込もうか、イリス』
『……今だけは付き合ってあげる』
『――――ただいま、クソッタレ』
『――――おかえり、虫ケラ野郎』
◆
――ぶうん――。
何故、イリスは“交戦”を続けているのか。
――ぶうううん――。
何故、イリスは“足止め”に徹することを選んだのか。
――ぶうううん。ぶうううん――。
その答えが、夥しい数と共に飛来する。
――ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶぶ――。
その答えは、黒き厄災の如く姿を現す。
――ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶぶ――。
彼らが、此処に“帰ってくる”からだ。
“狩人の嵐(ワイルドハント)”が、やってくる。
“漆黒の騎士(ブラックライダー)”が、現れる。
――ぶぶぶ、ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ――。
――あぁ、めんどくせえ。
うだうだと講釈垂れたが。
真面目に語んのはやっぱ性に合わねェ。
俺が戻るからって喧嘩おっ始めやがって。
このメンヘラが、年中生理の不機嫌女か。
お前はいっつも何かに苛立ってやがる。
何かにキレて、当たってなきゃ気が済まねえ。
そういう女(メス)だよ、お前ってのは。
ま、苛ついてんのはお互い様だがな。
だから、ちょっとくらいは付き合ってやる。
「全部奪って笑ってくれよ、マイハニー」
なあ、英雄サマよ。
“俺が此処にいる”だって?
あァ、そうかいそうかい。
そりゃ結構なこった。
そんなてめえに朗報だ。
“俺たち”も、此処にいる。
「“努力、未来、a beautiful star”――――!!!」
「“努力、未来、a beautiful star”――――!!!」
「“努力、未来、a beautiful star”――――!!!」
「“努力、未来、a beautiful star”――――!!!」
ご機嫌よう、屑星ども。
ロックンロールの時間だ。
◆
瞬間。
白と黒に染まっていた世界が。
けたたましい羽音と共に。
突如として“漆黒”に埋め尽くされる。
――レミュリンの視界が、黒へと染まる。
漆のような無数の流星が飛び交う。
耳を劈く不協和音の狂騒。
掻き鳴らされる回転鋸のような轟音。
旋律。旋律、旋律。破壊と暴威の激奏。
日没へと沈む世界を、蠢く群体が覆っていく。
黒煌の身体と、肥大化した翅。
矮小なる昆虫が、無限の群勢を成す。
それは謂わば、神話の具現。
聖書にも記された、飢餓の具現。
無尽蔵に湧く“漆黒”が、空を飛び交う。
まさしく、死の舞踏だった。
全てを蝕み、喰らい尽くす、暴食の濁流だった。
その厄災の前では、何もかもが咬み潰されていく。
日々繰り返されるニュースや、ダヴィドフ神父の話が少女の脳内で反響する。
――蝗害。この東京を襲い、蝕み続ける嵐。
それが今、眼の前に姿を現している。
夕暮れを背負い、飛び交う闇。
その禍々しさは、“黙示録”の如く。
その神々しさは、“天国の日々”の如く。
それは、余りにも狂暴なる神話だった。
「ックハハハハハ、ハッハッハッハ――!!!」
すれ違いざまに襲い来る群勢を、ルーは尚も一本の槍のみで払い続ける。
黒い濁流の波が、たった一振りの穂先によって次々に捌かれる。
マスターには指一本たりとも触れさせない。そう吠えんばかりの奮戦を嘲笑うように、その哄笑が響き渡る。
咄嗟に、ルーが背後へと振り返った。
ルーン文字による防御術式を施した槍を縦に構えて、即座に守りの体勢を取る。
それから刹那――ルーの身体が、勢いよく吹き飛ばされる。
その場面を目の当たりにしたレミュリンは、驚愕と動揺の渦中へと叩き落される。
「ッらあ――――!!!!」
無数の黒蝗が生む荒波に乗るように、その男は“形を成していた”。
嘲るような笑みを、その口元に貼り付けていた。
フードを深々と被ったツナギ服の怪人が、飛来と共にルーへと飛び蹴りを叩き込んだ。
――バッタの騎兵の飛び蹴り。即ち、ライダーキック。
構えた槍に蹴りが食い込むように、ルーは怪人と共に吹き飛んでいく。
「お前が、あの“蝗害”――――!!」
「御名答だ、英雄様!!さぁ、俺と踊ってもらうぜ!!」
ライダーのサーヴァント。
サバクトビバッタ。
シストセルカ・グレガリア。
あるいは――“黒騎士を騙る者”。
この舞台を食い荒らす虫螻の王が、帰参する。
吹き飛ばされたルーは、その腕に力を込めて槍を振り上げた。
その一振りで脚を弾かれたシストセルカは、そのまま無数の蝗へと分離。
漆黒の渦と化した蝗の群れを前に、受け身を取ったルーは槍で応戦する。
弾けるように散らばる蝗達が、宙を踊り狂う。
飛来を繰り返す死の流星の数々を、躍動する槍撃が凌いでいく。
時に隙を突くように“怪人”の形を成して奇襲するシストセルカを猛攻を、ルーは歯を食いしばりながら全て斬り払い続ける。
「ッ、『我は望まん、この先の(ゲイ・アッサ)』――――!!!」
「ハッ――させるかよッ!!!」
飛蝗の群れを凌ぎながら、左手にもう一振りの槍を精製しようとした矢先。
それがイリスを狙っての宝具発動であることを読んだシストセルカが、無数の蝗を暴風の如き勢いで突撃させる。
更にはその波に乗るようにシストセルカ自身も突進――蝗で構築されたバットをフルスイング。
その同時攻撃が迫り、ルーは第一の槍による迎撃を行う――第ニ宝具の発動は中断される。
――絶え間なく断続する波状攻撃。
――無数に分散する標的。
それは先程までの魔女の包囲と同じように、白兵戦を得手とするルーを足止めするには十分だった。
ましてや、その全てを槍一本で凌ぐことが出来た色彩の魔術とは違う。
敵もまた英霊。サーヴァント。それも、神代から人類を襲う災厄の嵐である。
神話の英霊たるルーにとっても、決して生半可な敵ではない。
「さっきから余所見ばっかしてんじゃねえよ。
テメェの相手は俺だろ?そんなにマスターが心配か」
サーヴァント同士の交戦が始まる。
即ち、それが意味することは。
「――――嬢ちゃんッ!!!」
既に、色彩の包囲攻撃は止まっていた。
何故ならば、もう魔女自身がサーヴァントを足止めする必要がなくなったからだ。
ランサーの相手はライダーが務める。戦局は分かたれた。
つまり――レミュリンが一人、取り残される。
「あんたのナイトは、もう駆けつけられない」
魔女/イリスが、嘲るようにそう告げる。
魔術師ですらない少女に、残酷な現実を突きつける。
「此処で死ね。出来損ない」
次の瞬間。
レミュリンの眼前に。
白黒の魔女が、姿を現す。
転移魔術。
座標移動による、空間の超越。
イリスは自らを対象に、それを発動した。
最早レミュリンを守護するサーヴァントは傍にいない。
イリスは心置きなく、彼女を仕留めるために接近することが出来る。
少女の目の前に、死が迫る。
白と黒に身を包んだ死神が、立ちはだかる。
◆
『進みなさい、レミュリン・ウェルブレイシス・スタール』
『君の進む道の名をわたしは知らないが、きっとその先に君の望む答えがあると思う』
『ランサー。わたし――』
『アギリ・アカサカに会いたい』
◆
ごうごう、ごうごうと。
頭の中で、炎が揺れ続けている。
何処かで、熱が燃え盛っている。
まるで何かの始まりを、待ち続けるように。
一歩を踏み出す、決意をした。
真実を求める、覚悟を決めた。
それでも、レミュリンは。
まだ、現実を知らなかった。
迫り来る暴威を前にして。
本物の殺意を目の当たりにして。
それでも心の底では、思い込んでいた。
――今回も、ランサーが何とかしてくれる。
――ランサーは強いから、大丈夫。
――きっと、ランサーがやっつけてくれる。
これまでも、そうだった。
彼が居てくれたから、レミュリンはずっと安心できた。
ランサーが傍にいれば、全ては上手くいく。
激化していく戦争に、確かなプレッシャーを感じつつも。
そんなふうに、心の何処かで楽観していた。
けれど、そんな筈がなかった。
聖杯戦争とは、英雄同士の戦いで。
ランサーが稀代の勇者であるように。
敵もまた、歴史に名を刻む存在なのだから。
自分を守り抜いてくれた従者は、傍にはいない。
色彩の魔女が使役するサーヴァントの乱入によって、戦場は二分された。
ランサーはライダーの奇襲によって、無数の蝗との応戦を余儀なくされている。
そしてレミュリンは――ランサーとの分断を突き、瞬時に肉薄したイリスとの対峙に持ち込まれた。
レミュリンの眼前に、転移したイリスが立つ。
一対一の相対。この身ひとつでの、死線への突入。
死の匂いが、一気に迫り来る。
この一ヶ月で一度も経験したことのない窮地に、レミュリンの背筋が凍りつく。
聖杯戦争。魔術師同士の殺し合い。
その言葉の意味を、今この瞬間。
少女は、その身を持って思い知らされる。
ああ――自分はずっと。
“この恐怖”を知らずにいられたのだと。
レミュリンは初めて理解する。
ずっと、ランサーが守ってくれた。
ずっと、ランサーが戦ってくれた。
自分は葛藤の中で、自分との問答に徹していた。
しかし。それは、終着点ではない。
自分との戦いは、全てではない。
その先には、他者との対峙が待ち受けている。
「惚けんなよ」
そして今、少女の前には試練が立ちはだかっていた。
蝗害の魔女。〈はじまりの六人〉の一角。
この舞台の脅威として君臨する、狂気の使徒。
「足掻いてみせろよ、愚図が」
その殺意が、吐き捨てるような言葉と共にレミュリンへ向けられた。
魔力が揺れ動く。何かが起こる。何かが発動する。
敵は目と鼻の先。最早、逃げ場などない。
「令呪を以って、命じ――――」
咄嗟に右手に魔力を集中させようとした。
令呪の発動で、何とかランサーをこちらに引き戻そうとした。
しかし、それよりも遥かに素早く。
イリスの右手が、レミュリンへと迫っていた。
白と黒。交互に塗られた指先、ネイルの色。
まるで鍵盤を思わせる、鮮やかな二色のモノトーンカラー。
その洒落た色味に、ほんの少し気を取られて。
レミュリンは、迫る“爪先”への対処に遅れる。
――指先から、斬撃が叩き込まれる。
手刀の一閃が、レミュリンを襲った。
白と黒で交互に塗られたネイル、それ自体が“魔術礼装”。
即ち、“色間魔術”を行使するための媒体。
イリスが腕を振るうだけで、爪先を中心に“自己強化”と“斬撃の付与”が瞬間的に発動する。
ただの手刀が、殺傷能力を伴った刃と化す。
レミュリンの胸元に叩き込まれたその一撃は、彼女を大きく後方へと仰け反らせた――。
「――ん」
しかし、イリスは気付く。
直撃した筈だというのに、手応えが“浅い”。
肉を抉るつもりで放った一閃は、レミュリンに打撃以上の手傷を負わせなかった。
それはまるで、固い防具に阻まれたかのような感触だった。
一瞬疑問を抱いたイリスだったが、すぐさまそのカラクリを見抜く。
レミュリンの左手の甲。令呪とは異なる“古代文字の紋様”が、魔力に呼応するように浮かび上がっていた。
「ふぅん。ルーン魔術ね」
北欧に由来する魔術系統。
古のルーン文字を媒介に発動する術。
ランサーによって刻まれし加護。
肉体強化、魔術装甲――レミュリンの身体には、予め術式が施されていたのだ。
ランサーとして召喚されたルーは、その出力を十全には発揮できていないものの。
それでも神代の魔力が込められていることに違いはない。
故に色間魔術が込められたイリスの手刀は、致命傷足り得なかった。
それでも。
その一撃は、レミュリンの思考を揺らした。
少女の意識に、強烈な衝撃を与えた。
ルーンの加護が無かったら、きっと致命傷になっていた。
そのことを否応なしに思い知らされて、焦燥が極限まで高まる。
恐怖が、背筋を走り抜けていく。
不安が、胸の奥底から這い上がってくる。
動揺が、心を何度も揺さぶってくる。
助けを求める声が、喉から溢れかける。
けれど、ランサーは傍にはいない。
ここには、自分しかいない。
敵は眼前にいて、他に身を守るものはない。
自分を助ける者は、自分以外に存在しない。
思考が何度も揺れ動く。
吐き出しかける恐慌を、必死に堪える。
喚いても、泣き叫んでも、何にもならない。
だから、だから――。
やるしかない。
自分が、やるしかない。
じゃなきゃ、殺される。
ランサーの助けは、来ない。
恐怖と緊迫の渦中で、レミュリンは必死に意識のピントを合わせる。
「――――くぅ、ッ!!!」
仰け反り怯みながらも、破れかぶれに歯を食いしばるレミュリン。
そのまま左手を拳銃のような形に構え――指先に収束させた魔力を、弾丸の如く放った。
イリスはほんの僅かに眉間をぴくりと動かし。
人差し指を振り上げて、爪先で弾丸を掻き消した。
令呪を使う隙なんて、敵は与えてくれない。
ランサーから予め授かっていた“自衛の術”がある。
今は、これで切り抜けるしかないのだ。
レミュリンは我武者羅になりながら、それを理解していた。
「っああああああ――――――――っ!!!!!!」
自棄になりながら、レミュリンは叫んだ。
全身の神経から、ありったけの魔力を引き出す。
二発、三発、四発、五発、六発、七発、八発――。
必死になりながらも、レミュリンは弾丸を次々に射ち続ける。
されど、届かない。一撃たりとも魔女には届かない。
近距離から放たれた魔力弾を、イリスは指先で軽く防いでいく。
イリスは、冷めた眼差しを浮かべていた。
放たれ続ける魔弾。その一発一発が、爪の斬撃でいなされていく。
ただ指を振るうだけ。爪先で切るだけ。
それだけの動作によって、レミュリンの意地は弾かれ、砕かれ、凌がれて。
繰り返される魔弾は、まるで魔女に命中しない。
児戯に等しい小技によって、その全てが容易く捌かれる。
「あのさぁ」
イリスは、レミュリンが放つ技の仕組みを既に見破っていた。
対象を指差し、呪いを与えるルーン魔術――“ガンド”。
優れた魔術師は、呪い自体に弾丸のような破壊的質量を伴わせて射出することができるという。
レミュリンが放っている魔弾も原理としては同じ。
名門の魔術師の血筋であるが故に、それを行使できるだけの魔力を備えているのだろう。
「自前の技じゃないでしょ、これ」
しかし、肝心の中身が伴っていない。
呪いでも何でもない。術理が込められていない。
つまり、ただ魔力を飛ばしてるだけの物理攻撃。
それなりの威力はあれど、技としては余りにも御しやすい。
闇雲の射撃を、魔女は指先のみで淡々と潰していた。
「サーヴァントからの借り物ってとこね」
レミュリンは生来の魔術回路を備えるが、魔術師ではない。
謂わば魔術を行使できるだけの機能を搭載しながらも、魔術というアプリケーションをインストールできていないコンピュータだった。
そんな中で、この聖杯戦争に招かれたことにより急拵えで魔術回路が開かれた。
更にはランサーによって“ルーン”という外付けのソフトウェアが与えられた。
結果、レミュリンは“借り物の魔術”が使えるようになっていた。
ルーンの術式を介し、体内の魔力を射出する――ただそれだけの単純な技。
有事の備えとしての、ささやかな自衛手段。
サーヴァントであるランサーから与えられただけに過ぎない、即席の技巧だった。
「ほんと……下らない」
道理でランサーが献身的に守っていたワケだ、とイリスは理解する。
何故ならレミュリン自身は、素人そのものだったからだ。
「守りも攻めも、おんぶにだっこかっての」
大まかな仕組みを察したイリスは、吐き捨てるように呟いた。
魔術と無縁でいられた証を見せつけるようなレミュリンへの苛立ちを込めて。
“親友だった少女”がいなければ死に物狂いで戦うしかなかった、かつての無力な自分への面影を重ねて。
それだけではない、言い知れぬ嫌悪と憤りを胸の中に抱え込んで。
そして、白黒の色彩が魔女の全身で荒々しく波打ち――肉体が瞬間的に加速する。
僅かな瞬きの直後。
レミュリンの胴体に。
突き抜ける雷霆のように。
鋭い衝撃が叩き込まれた。
色間魔術によって肉体の瞬発力を引き上げたイリスが、目にも留まらぬ速さで突進。
そのままレミュリンへと目掛けて、加速の勢いを乗せて膝蹴りを放ったのだ。
ルーンの加護によって即死は免れども、サーヴァントに匹敵する存在である“魔女”の鉄槌は計り知れない威力を持つ。
レミュリンは衝撃を相殺できぬまま地面を転がり、何度も血反吐混じりに咳き込む。
間髪入れずに、“領域”が揺らめく。
土汚れた地面が、白と黒のタイルへと変貌。
ツートンカラーに二分された地面は荒海のように蠢き――白黒の奔流と化してレミュリンを襲う。
「あ、がぁっ――――!!!?」
止め処なく押し寄せる二色の波。
防ぐ術も、躱す術もなく。
押し潰されるような衝撃が、レミュリンの身へと叩き込まれていく。
白黒の荒波が、潮の満ち引きのように散っていく。
攻撃を完了した濁流は、再びツートンの領域の中に沈んでいく。
その場に残されたのは、嵐の餌食となった無力な少女――ルーン魔術の加護によって、色彩からの侵食は辛うじて逃れていた。
「がはっ、ごはっ……」
それでも、濁流を喰らったレミュリンは、半ば満身創痍の状態で俯せに倒れていた。
血反吐混じりに咽び、必死になって這いつくばろうと足掻いている。
ルーンによる強化と防護が無ければ、一体何度命を落としていたのかも分からない。
彼女が今なお生き長らえているのは、ひとえにルーが与えた魔術加護が機能しているからこそだった。
施された防御術式により、彼女は生命を繋ぎ止めている。
まだ終わらない。まだ首の皮は繋がっている。まだ、命は尽きていない。
――それ故に、両者の絶対的な力量差が浮き彫りになる。
「舐めてんのかよ」
魔女が吼えて、追い打ちの如く蹴りを放つ。
横たわるレミュリンにそれを躱すことは出来ず。
腹部に叩き込まれた一撃によって、ボールのように地面を転がる。
レミュリンの視界が、激しく揺さぶられる。抵抗する間もなく、苦痛が幾度も迸る。
「アギリを追いたいんでしょ?」
蹲ったまま、何度も血反吐混じりに咳き込むレミュリン。
――そのすぐ傍へと、瞬時にイリスが出現した。
白黒の色彩を基点にした座標転換。
物理法則を超越した空間移動。
この色彩の領域を、イリスは自在に支配する。
「だったらさぁ」
目を見開くレミュリン。
そんな彼女を見下ろす、イリス。
「もうちょっとくらい抵抗しろっての、三下ッ!!!」
そして、右足が振り子のように振るわれて。
二度目の蹴りが、蹲るレミュリンへと叩き込まれた。
最早それは、技と呼べる代物ではなく。
子供の癇癪のように、荒々しい一撃だった。
しかし、それを繰り出したのは狂気に堕ちた“魔女”。
そんな乱雑な打撃さえも、他者を死に至らしめる凶器と化す。
だから――レミュリンは、先程と同じように。
魔術防御によって、辛うじて生き永らえながら。
容易く転がり、堕ちた虫のように地に這いつくばる。
成すすべなく蹲る少女と、悠々と佇む魔女。
それは最早、対等な戦いには程遠く――蹂躙と呼ぶべきものだった。
レミュリンはただ魔術回路を備えているだけに過ぎず、未だ自力で戦う術さえ身につけていない。
荒事は自らのサーヴァントが担い続け、彼女自身の実戦経験は皆無に等しかった。
対するイリスは狂気に囚われたことで己が魔術の限界さえも超越し、魔人の域に到達した存在だった。
眩き太陽、君臨する無神論――絶対的な恒星にその目を灼かれ、一度目の死を経て“魔女”と成り果てた。
まるで格が違う。両者の実力には、圧倒的なまでの差があった。
「ふぅー……はぁッ……」
だというのに、イリスは。
目元に手のひらを当てながら。
揺らめく感情を抑え込むように。
口元から零れる荒い息を、整えていた。
◆
ひどく、乾いていた。
心は、乾ききっていた。
足掻けども、足掻けども。
喉は潤わず、満たされない。
全ては些事だった。
とうに過ぎ去った、在りし日の執着だった。
もう得られることのない、過去の記憶。
故に断ち切ることを選んだ、喪失の日々。
なのに、腹の底は飢え続けている。
――ねえ、祓葉。
強さを得ても、苛立ちは募るばかりだった。
――これがあんたの言う“みんな”?
振り払うべき“未練”は、泥のように心にへばりついていた。
――あんたは“こんなの”が欲しかったの?
歯軋りは止まらない。憤りは収まらない。
――私達を一度殺しても飽き足らずに。
この針音の聖杯戦争で、数多の敵を屠ってきた。
どれもこれも、今の自分とシストセルカの前では些細な石屑に過ぎなかった。
――私達だけじゃ満足できなくて。
それが魔術師だけならまだしも――外付けの魔術回路を与えられただけの“素人”を、何人も目にしてきた。
先刻の“騎兵のライダー”や“錬鉄のセイバー”を従えていたマスターのように、守られるしか能のない連中がごまんといた。
――“私だけ”じゃ満足できなくて。
だからこそ、イリスは気に入らなかった。
そして、かつての親友と袂を分かったからこそ。
その鬱屈は、胸の底で止め処なく渦巻いていた。
――こんな“数合わせの雑魚ども”まで呼んだ?
自分という存在さえも、あいつにとっては“みんな”の内でしかないのか。
こんな塵芥のような奴でさえ、あいつにとっては同じ“遊び相手の一人”なのか。
家督を継ぐ必要がなかった。ただそれだけで、何も知らずに生きる道を与えられた――こんな奴でさえ。
――ふざけんなよ、クソ。
色彩の魔女に、自由なんてなかった。
“あの女”と出会って、やっと自由を知った。
その自由もまた、幼年期の終わりと共に腐り落ちた。
望むものも、得られたものも、掌から落ちて。
地面に横たわったまま、等しく朽ちていく。
“あの女”は、自分を親友と呼んだ。
“私”は、あいつの一番になりたかった。
なのに、見つけられない。
神寂祓祓にとって、
楪依里朱は。
如何なる価値のある存在なのか。
その在処が、見つけられない。
あの喫茶店での再会で、対話で。
そんな現実を突きつけられた。
だから、今度こそ決別した。
あの日々は、もう二度と帰ってこない。
束の間の友情は、既に朽ち果てている。
この”未練“は、断ち切るしかない。
この”思い出“を、仕留めるしかない。
それを悟ったから、あのとき別れを告げた。
もう二度と振り返らないと、己に言い聞かせた。
なのに――ずっと。
この心に、虫が集っている。
どろりと群がる、蝿が蠢いている。
煩わしくて、腹立たしくて、仕方がない。
それを振り払うすべさえ、分からぬままに。
少女は、吐瀉物のような想い吐き出す。
「消えて、なくなっちまえ」
その言葉を、誰に告げたのか。
彼女自身にも、分からなかった。
魔女はただ、苛立ちが止まらなかった。
白に染まり、黒に染まる。
魂の色彩が、あべこべに入り乱れる。
◆
ふいに、昔のことを思い出していた。
二年前。まだ十四だった頃、ある春の日。
日常のすべてを失った、あの日の出来事。
何も知らなかった自分を突きつけられた瞬間。
魔術の世界に触れてしまった、運命の始まり。
死の記憶。
焔の悪夢。
熱の日々。
少女の心象風景。
影のように纏わりついて。
いつまでも、追い続けてくる。
レミュリンはあの日から、孤独になった。
世界を知らなかった少女は、忽然と取り残された。
その先に待ち受けていたのは、もう二度と家族には会えないという現実。
それを思い知って、この哀しみを拒絶することを求めて、あの懐中時計を手にした。
姉から託されたような、小さな形見だった。
まるで走馬灯のように、記憶が蘇る。
どうにもならない壁にぶつかり、ただ這いつくばることしか出来ない。
どうしようもなく弱い自分が、圧倒的に強い魔術師の前で土を噛む。
刻一刻と、何も出来ない瞬間が流れていく。
これが自分の最期なのだと、胸の内で誰かが囁いてくる。
声の主はきっと、死神というやつなのだろう。
――アギリ・アカサカに、会いたい。
その決意の意味を、レミュリンは思い知る。
自分は、死線の彼方へと身を投じようとしているのだ。
あの日の惨劇。あの日の喪失。そして、聖杯戦争。
自分の旅路は、指し示された道標をなぞるばかりのものだった。
何も知らないまま、誰かに奪われて、孤独に浸って。
宛てもなく彷徨って、知りもしない運命に誘われて。
戸惑いながら歩き続けても、事の本質からは程遠く。
結局、自分ひとりでは何も出来やしない。
あの〈脱出王〉に道を示されなければ。
神父様に背中を押されなければ。
きっと今日に至っても、何かを選び取ることは出来ていなかった。
そして今、とうとうツケを払う時が来た。
――――神様は、やっと私にチャンスをくれた。
――――ずっと、そう信じ込んでいた。
蝗害の魔女。求める真実に連なる存在と対峙し、レミュリンは否応なしに理解する。
アギリ・アカサカを追うとは、こういうことだった。
それは、この舞台の深淵へと突き進むということ。
魔術師同士の死闘という、全く未知の世界に放り込まれるということ。
そうなればもう、後戻りは出来なくなる。
家族の仇を討ちたいのか。
罪を問いただしたいのか。
彼の意思を聞きたいのか。
罪への贖いが欲しいのか。
ただ真相を知りたいのか。
どれを選び取るにせよ、確かなことがある。
レミュリンは、半ば悟っていた。
――こちらが仇打ちや、戦いを望まなかったとしても。
――“平穏な解決”など、誰も保障はしてくれない。
――彼の居る世界とは、きっと色彩の魔女が立つ世界と同じだから。
――“無力な少女”のままでは、アギリ・アカサカと対峙できない。
そうして、レミュリンは取り零すことになる。
己の運命も掴めないまま、この場に横たわる。
自分の物語を始めるには、余りにも遅すぎたのだと。
そんな現実を思い知らされるように、少女は絶望の中に沈んでいた。
色彩の魔女が、自分を手に掛けるのも時間の問題だろう。
レミュリンは半ば諦めるように、眼の前の現実を見つめていた。
けれど。
横たわった視界の中で。
掠れていく認識の中で。
それでも、捉えたものがあった。
遠く離れた地点で、無数の黒粒が飛び交っている。
まるで嵐のように渦巻き、宙を踊っている。
数多の羽音が重なり、けたたましい不協和音を生み出す。
夥しい蝗の群れが、荒れ狂うように飛翔していた。
死の匂いが、濃密に漂う。
飢餓と退廃の匂いが、此処からも感じ取れる。
あの場に立てば、あらゆる命が刈り取られる。
穀物が食い荒らされ、枯れ果てるように。
その場に存在する全てを、貪欲に飲み込んでいくのだろう。
話には、何度も聞いていた。
連日のニュースが、その被害を伝えていた。
この街の日常を、彼らは食い続け、獰猛に貪っていた。
先程のダヴィドフ神父からの話も、その脅威を如実に示していた。
レミュリンはそれを恐れつつも。
何処か遠い出来事のように思っていた。
何故なら彼女は、対峙の道を選ばなかったから。
自分には立ち向かう術も、立ち向かう意義もない。
それを無意識に悟っていたから。
そして自らの従者も無理強いをしなかったから。
レミュリンはこの舞台における巨大な嵐から、目を逸らし続けていた。
その“蝗害”が今、視線の先に存在している。
そして――飛び交う暴威の中心に立つ、大きな影があった。
一本の槍と、その身ひとつで、彼は勇ましく戦い続けている。
獅子が吼えるように、英雄はその力を振るっている。
その姿は、猛々しく。
その姿は、雄々しく。
その姿は、華々しく。
その姿は、何よりも逞しく。
誰かのために、立ち続けている。
何のためにそこまで、なんて。
そんな思いを抱くことさえ無粋だった。
答えは、とうの昔に知っている。
少女自身が、聞き届けている。
◆
『お? 聞きたいか?』
『マスターに聞かれたからには、名乗らないわけにはいかないな!』
『クラスはランサー!』
『大英雄クー・フーリンを息子に持ち、長腕と称されるこの姿!』
『名を“ルー・マク・エスリン”!』
『安心しろ!名乗ったからには───』
『───君の未来は笑顔で満たす!」
◆
――ランサー。
あの優しい笑顔が、脳裏に蘇る。
あの頼もしい姿が、記憶に浮かび上がる。
この一ヶ月。この偽りの街。この偽りの日々。
そんな中で、彼だけは確かな存在だった。
初めて出会った日から、今に至るまで。
レミュリンは、決してひとりではなかった。
あまねく闇を払うように、彼は傍に居てくれた。
自分の苦悩や葛藤を受け止めて、背中を支えてくれた。
これから待ち受ける運命は、きっと過酷なものだ。
それでも、安心してほしい。
君には俺が着いている。俺が露払いを引き受ける。
だから君は、自分だけの戦いに向き合えばいい。
――ランサーはそう告げてくれた。彼は、レミュリンにとってのヒーローだった。
つい先刻、レミュリンは〈脱出王〉と出会った。
その間、ランサーもまた彼女のサーヴァントらしき少年と相見えたという。
彼が如何なる会話を交わし、如何なる事柄を突きつけられたのか、それは分からないけれど。
しかしそれでも、レミュリンには思うところがあった。
――なあ、嬢ちゃん。
――俺は、嬢ちゃんのことを甘やかし過ぎなのかね?
あのときの念話の意味を、レミュリンは掴むことが出来なかった。
彼が思い抱いていたことを、察することが出来なかった。
だからレミュリンは、月並みな言葉で感謝を告げることしか出来なかった。
どうして急にそんなことを聞いてきたんだろう。
あの場でレミュリンは、そう思うことしか出来なかったけれど。
こうして追い詰められて、自分の無力さを思い知って、やっと理解することが出来た。
自分はずっとそうだった。
ランサーの優しさを、頼り続けてしまった。
ランサーの強さに安心して、聖杯戦争を隅に置いてしまった。
自分の中の恐怖と対峙するばかりで、眼の前の現実に向き合えていなかった。
だから、ランサーを不安にさせてしまった。
自分はずっと、もたれかかっていたのだろう。
サーヴァントであるランサーの勇ましい光に。
それ故に、ランサーは疑念を突きつけられたのだと思う。
――レミュリンの一歩を自分が妨げているのではないか、と。
ランサーのお陰で、レミュリンは戦いと距離を置くことができた。
自分の敵を、自分の中の葛藤だけに押し留めることができた。
けれど、もう心だけに向き合う時間は終わった。
この舞台で。この戦争の中で。自分は、歩かねばならない。
そのためにも、戦う力が必要だった。
レミュリンは、既に悟っていた。
この一ヶ月で、彼女は掴んでいた。
自分の中に――“能力”の形は存在している。
自分が如何なる異能を内包しているのか。
それを彼女自身、漠然と理解していた。
何故なら。魂に刻まれた、確固たるイメージが存在していたから。
自らの力へと繋がる心象風景は、彼女の中に根付いていた。
そしてレミュリンは、真の意味で“魔術と無縁な”マスター達とは違う。
彼女はれっきとした魔術師の血筋であり、魔術師としての才能を備えている。
固有の術理を発現させるハードルは、彼らよりもずっと低いのだ。
既に素養を内包してる彼女は、その気になればすぐに異能への道筋を掴むことができる。
だからこそ、レミュリンは踏み止まっていた。
己の中のイメージが意味するものを、彼女は理解していた。
それを形にすることを、彼女は避け続けていた。
そして、それ故に。
レミュリンは、ルーに対する罪悪感を抱いていた。
自分の恐怖のために、彼の力になれず。
そのことをルーにも許容させてしまった。
この一線を飛び越えた先に待ち受けるもの。
ここから先へと踏み込んだ先にあるもの。
それは、きっと――――恐怖だった。
自分の中に焼きつく絶望と向き合うことへの、深い怖れだった。
黒く焼け焦げた、家族の姿。
辛うじて人の形を残した、家族の姿。
二度と応えてはくれなくなった、家族の姿。
レミュリンにとって、“それ”が魔術の世界だった。
死と喪失。絶望と理不尽。孤独の始まり。
あの日より植え付けられた、トラウマの根源だった。
自分がその世界に踏み込むことは、紛れもない恐怖であり。
自分がこの異能を形にすることは、何よりもおぞましいことだった。
そして、何よりも。命を懸けて戦うことが、怖かった。
暴力や死というものは、家族みんなを奪っていったから。
だからレミュリンは、この一ヶ月の間。
自らの異能を目覚めさせることもないまま、生き延びてきた。
神話の英雄であるランサーの実力に庇護され、己の力を引き出す局面から逃げ続けてきた。
この舞台で、生き延びているマスターの中で、彼女だけが〈方向性〉を持たなかった。
これまでは、それで良かった。
ランサーが守り抜いてくれたから。
自分の戦いを、葛藤の中に留められたから。
けれど、もう。先へ進まなければならない。
熱の記憶が、脳裏で揺らめく。
自分の中の恐怖と絶望が、濃密に浮かび上がる。
燃える。燃え盛る。まるで死と喪失を形作るように。
レミュリンの神経に、熱が宿ってゆく。
臓腑を灼かれるような苦痛が迸る。
それでも、レミュリンは“その感覚”を引き出していく。
その果てにあるものを、掴むために。
その先にある道筋を、見つけるために。
それは、今の自分にとって――必要なものだったから。
――ねえ、ランサー。
あの“脱出王”から渡されて。
なんとなしに荷物に入れたままだった“花束”。
それが戦闘での衝撃によって、懐から零れ落ちていた。
自分と同じように横たわる花束は、沈黙を貫いていた。
しかし、次の瞬間。
――私は、答えを掴みたい。
ごう、と。
鮮やかな花弁に、紫炎が灯された。
咲き誇る花々が、焼け落ちていく。
心の情景が、過去の記憶と混ざり合う。
姉の好きだった赤紫(マゼンタ)が、魂に溶け込む。
――あなたと、いっしょに。
始まりの灯火。戦華の目覚め。
薄い色彩の世界に、赤紫が燈る。
覚醒の火蓋が、切って落とされて。
そして、繚乱する。
◆
“熱の日々”。
それは、少女の魂に焼き付いた心象風景。
少女の始まりにして、少女の終わり。
すべては、ここに辿り着く。
◆
――――炎の世界を、そこに見た。
それは、かつて見ることのなかった“熱”。
そして、何処にもあるはずのなかった“赤紫”。
死の色と表裏。少女の回路から燃え滾る、焔の色彩。
イリスは、そのとき。
目を見開き、眼前の光景を捉えた。
レミュリンが、その喉から声を絞り出していた。
ありったけの全身全霊を振り絞るように、吼えていた。
そして彼女の周囲が、赤紫色に燃え上がっていた。
何かが爆ぜて、撒き散らされるように、突如として“焔”に包まれていた。
地面を覆う“白黒の領域”が、瞬時に焼き尽くされた。
二分された色が、火の中へと焼け落ちる。
ツートンカラーの術式が、炎の濁流に飲み込まれる。
不定形に揺れ動く暴威が、この地に新たなる色彩を齎す。
夕闇の世界に、眩き灯火が照らされる。
赤と紫の入り混じる焔が、戦場に揺らめく。
影に包まれていた戦場に、鮮やかな光が現れる。
魔女が支配する地に、荒れ狂うような紅蓮が渦巻いた。
立ち上った“熱の領域”を目の当たりにし。
イリスの思考に、咄嗟の“危機感”が駆け抜ける。
そして反射的に――背後へと跳んで後退した。
そう、退いたのだ。
それまで一切の手傷を負わず。
圧倒的な力の差を見せつけていた魔女が。
少女の“赤紫の焔”を前にして、初めて“回避”を選んだ。
迫り来る熱を前に、警戒を抱いた。
距離を取ったイリスが、瞼を細める。
レミュリンの変容を、その眼で見据える。
先程まで蹲っていた少女が、覚束無い足取りで立ち上がっていた。
その周囲は鮮明な色彩に照らされ、激しく燃え上がっている。
何が起きた。何が起こった。
そう思考して、刹那の合間。
イリスは、すぐに事の次第を理解する。
針音の聖杯戦争。
それは、本来起こるはずのなかった儀式。
恒星たる少女が幕を開けた、異形の闘争。
その舞台に役者の区別はない。
魔術師も、異能者も、あるいは常人も。
等しく“マスター”として喚び寄せられる。
外付けの魔術回路を与えられ、マスターとしての資格を得た常人。
彼らはいずれも“固有の能力”に目覚め、戦う術を手に入れていた。
「はッ」
魔女の口元から。
嘲るように、乾いた笑みが零れる。
「皮肉なもんね」
魔術とも、異能とも、区別がつかない。
針音の聖杯戦争。その運命の歯車の中で、強引に引き出された才能。
「あの赫眼に殺された魔術師の“遺児”」
ゆらりと、レミュリンが立ち上がった。
その両瞳から、火炎の残光が迸る。
燃え盛る魔力によって瞳孔が揺らめく。
赤紫(マゼンタ)の焔が、周囲を焼き尽くす。
「そいつが、この土壇場で目覚めた力が――」
それは、原初の属性。生命と死の象徴。
最も明快で暴力的な、破壊の異能。
「――“それ”だなんてね」
パイロキネシスに酷似した“炎の術”。
それこそが、レミュリンの目覚めた力。
名門魔術師の血筋に基づく、生まれ持って優れた魔術回路。
この聖杯戦争に招かれたことによる、才能と素養への急激な後押し。
“熱の日々”――自らの魔術回路を開き、そして異能を掴み取るきっかけと成り得た、鮮明なイメージの存在。
ルーが与えた魔術知識と、“ルーン魔術の加護”による自らの魔力との親和。
そして黒幕たる“極星”に連なる存在、〈はじまりの六人〉との立て続けの接触。
そうして彼女の才能は、この死線の中で目覚めた。
燻り続けていた原石は、赤紫に燃える輝きとして覚醒する。
――レミュリンは、外付けの魔術回路を与えられた常人とは違う。
元より魔術師としての才覚を備え、高い素養を内包していた存在だった。
故に彼女が土壇場で引き出した異能は、並の威力には留まらない。
それは色彩を操る“蝗害の魔女”に、ほんの一瞬でも身の危険を感じさせるほどだった。
レミュリンを起点に、赤紫の焔が展開される。
そして、火災が急速に燃え広がるように――焔は一気に拡散していく。
イリスは瞬時に地を踏み、白黒の障壁を前方に展開。
迫る焔の濁流を防ぎつつ、チッと舌打ちをする。
それまで白黒の領域に満たされていた空間が、新たに目覚めた焔に侵食される。
魔女が掌握していた戦場が、赤紫の熱に飲み込まれていく――。
「――舐めんなよ」
されど、イリスの思考は加速する。
脳髄から火花が迸るような“演算”を瞬時に行い。
魔女は初めて、レミュリンに対して“加減なし”の魔術行使へと踏み切る。
魔力を温存しても仕留められる――その認識を、彼女は改めたのだ。
地面が揺れる。水面が波打つように蠢く。
魔女を中心に、色彩が波紋のように広がる。
周囲一帯に仕込んでいた“色間の術式”。
その出力を、一気に解き放つ。
白と黒。地と焔が、二色へと分断される。
黒色に飲まれた焔は、イリスが立つ白色の領域には触れられず。
やがて闇のような色彩そのものが、燃え盛る焔を押し潰していく。
拡散する波紋と化した黒色は、熱の世界を次々に呑み込んだ。
レミュリンは、その双眸をかっと見開く。
自らの内から芽生えた、赤紫に煌めく灼熱。
その焔を次々に飲み込んでいく漆黒を前に、必死の形相で歯を食いしばる。
両眼に灯る火炎の残光が、更に強く輝き始める。
もっと。もっと、焔を――迫る色彩を超える熱量を、己の中から引き出さんとする。
使い方は、感覚で理解していた。
如何に生み出し、如何に操るのか。
自らの手足を動かすことのように、レミュリンはそれを分かっていた。
だから、振り絞った。
全力で、絞り出した。
己の中に芽生えた力を。
使い方は、感覚で理解していた。
如何に生み出し、如何に操るのか。
自らの手足を動かすことのように、レミュリンはそれを分かっていた。
だから、振り絞った。
全力で、絞り出した。
己の中に芽生えた力を。
そして、次の瞬間。
レミュリンの芯の奥底。
ぷつりと、糸が切れるように。
防波堤が、崩れ落ちるように。
突如として、なにかが弾けた。
今の感覚は、何なのか。
一体、何がどうなったのか。
彼女自身、理解するのが遅れて。
そして――荒れ狂う波のように。
“それ”は、奥底から押し寄せてくる。
「ッ、が、ぎ、ああ――――っ!!!?!?」
レミュリンは、その場で両膝を付いていた。
苦痛に悶えて、己の身体を掻き毟るように抱いていた。
焼け焦げるような痛みが、その魂の奥底から迸る。
生きたまま火炎に包まれるような熱が、全身の神経を激しく駆け回る。
熱い。熱い。熱い、熱い、熱い――――。
肉体の芯から込み上げるものは、燃え盛るような“熱”だった。
地獄の焔に身を投げ出すような苦悶の中で、少女は慟哭する。
その身のあちこちから、赤紫の炎が漏れ出ている。
レミュリンの魔術回路のトリガー。
悪夢の具現。視界が焼ける“熱の世界”。魂に刻まれた心象風景。
その鮮明なイメージは、固有の異能という領域にまで結びついた。
そして余りにも鮮明であるが故に、その熱は少女を蝕む力にも成り得る。
制御を一歩誤れば、レミュリン自身を蝕む。
その魂が、魔術回路が、“熱の世界”によって侵食される。
そんな危険性を孕んだ、諸刃の剣と化していた。
ぶっつけ本番、土壇場での発現。
そのような状況で強引に行使された、未知の異能。
規模も限界も、当の本人が掴みきれていない。
そんな中で“赤紫の炎”は、魔女にさえ肉薄するまでの火力を引き出された。
がむしゃらの発動。ブレーキを踏まない、フルスロットルでの加速。
結果として“その焔”は、今のレミュリンが制御できる範囲を容易く突破していた。
イリスは、冷ややかに憐れむような眼差しでレミュリンを眺める。
強力な異能を制御し切れず、自らが生む熱と焔に灼かれる――そんな少女の姿を、蔑むように見据えていた。
「無様ね。本当に」
魔女が吐き捨てる言葉。
それだけが、レミュリンの耳に届く。
「ハナから“真実”なんか求めなければ――」
自らが生み出した焔に呑まれて。
迫る黒色を前に、防ぐ術もなく。
レミュリンの終焉が、刻々と迫る。
逃れることのできない最期が、押し寄せる。
「自由のままでいられたのに」
魔女が呟いた言葉に込められた感情。
その意味も、掴むことが出来ないまま。
レミュリンの意識は、業火の中に飲まれていく。
あの日から、ずっと同じだった。
少女が見る世界は、いつだって。
焼け落ちるような、熱の日々だった。
それ故か――少女の中で、微かにでも芽生えるものがあった。
それは“答え”を求めて駆け抜ける焔でもなく。
進むべき道を照らす、穏やかな光でもなく。
自らの終わりを告げる、諦めの灯火だった。
――けれど、それでも。
レミュリンは、
足掻き続けていた。
苦痛に身を灼かれながらも、諦念に纏わりつかれながらも。
彼女は、生きることを求めていた。
必死に手を伸ばし、なにかを掴むことを望んだ。
それは、単なる死の恐怖への抵抗ではない。
それは、単なる我武者羅の行動でもない。
それは、自らの未来を望むための意志であり。
それは、確固たる誓いだった。
――彼(ランサー)が、今も戦っているから。
――彼(ランサー)に、応えなきゃいけないから。
レミュリンはただ、進むことを求めた。
大切な人が、自分のために戦い抜いている。
だから、生きなければならない。
こんなところで、終わりたくない――。
◆
――霊基の奥底に、熱が灯った。
――弾けるように、魔力が満ちた。
無数に飛び交う蝗の群れを槍で凌いでいたルーは、双眸をかっと見開いた。
己と接続する魔力パスに、急激な変化が訪れた。
まるで神経に電流が駆け抜けるように、急速に熱を帯びていく。
そして、ルーの全身を巡る魔力が、格段なまでに充足していく。
黒蝗の嵐の狭間で、彼の目は“光”を捉えていた。
赤紫色の燈火。熱の世界の具現。
分断された戦場に現れた、新たなる焔。
それが自らのマスターから出でしモノであることを、ルーは確信していた。
レミュリンに、何かが起きている。
大きな変化が、その身に生じている。
それまで目覚めることのなかった力を、発現させている。
それは、少女にとっての大きな一歩であり。
それまで戦局に関わらず、従者に守られるだけだった少女にとって。
紛れもなく、始まりへと向かう道標だった。
“君は過保護が過ぎる”。
それは、あの奇術師から告げられた言葉。
己とマスターの在り方に投じられた一石。
ルーの中で、その言葉が反響する。
この一ヶ月の中で、ルーはレミュリンを支え続けていた。
彼女は、魔術師ではない。戦いに身を投じる者ではない。
故に露払いは己が引き受ける。君は、君の答えを導き出せばいい。
そうしてルーは、少女に己の道と向き合う時間を与えるために、その日々を守り続けていた。
だが――それだけでは、始まらない。
彼女の運命は、この戦争の中にあった。
自らの足で進み、対峙しなければ。
レミュリンはきっと、掴み取ることが出来ない。
そして、今。
少女が、自らの足で立とうとしている。
己の中の焔を、強く燈している。
なれば――それを支えてやれずして、何が英雄か。
ルーの胸の内に、燃え盛るような“熱”が灯る。
己が此処にいる意味を貫かんと、全霊を込めてその身を奮い立たせる。
――英雄が、吼えた。
――英雄が、駆けた。
ありったけの魔力を振り絞り。
迫る無数の黒蟲を、薙ぎ払っていく。
次々に殺到する、暴食の翅虫。
己を喰らわんとする、数多の牙。
それでも、英雄は走る。
眼前の壁を、一本の槍で貫く。
邪魔だ。退け。往かねばならない。
彼女の元へと、向かわねばならない。
英雄は、肉体の全てを躍動させる。
その力の全てを、少女のために振り絞る。
――届け。
――届け。
――届け!!
大丈夫だ。
もう苦しまなくていい。
君の味方は、此処にいる。
君を守るために、此処にきた。
英雄の魂は、叫ぶ。
そして、その口元に。
颯爽とした笑みが浮かぶ。
我武者羅の奮戦により。
黒い波を突き抜けた英雄。
彼は自然と、笑っていた。
「来い――――“第三の槍”よ!!」
理由は、単純だった。
ヒーローとは、いつだって。
誰かのために、笑顔を届ける存在だからだ。
◆
その瞬間。
少女の視界に。
少女の世界に。
新たな光が燈された。
魔力が、風のように流れ込む。
迫り来る“黒”を、弾くように遮り。
癒やしの力が、少女の身を包み込む。
荒れ狂う焔を、鎮めてゆく。
自らの終焉を悟ったはずだった。
成す術もなく、足掻くこともできない。
何も掴み取れず、悪夢の情景に沈みゆく。
そう思いかけていたレミュリンは、眼を丸くした。
そして――彼女は、理解した。
まだ、終わっていない。
まだ、消えていない。
希望の灯が、ここにある。
黄金色に輝く髪。
颯爽と靡く緑色のマント。
大樹のように逞しい巨躯。
突き立てられた氷鞘の槍を、固く握り締め。
その男は、少女を庇うように立つ。
大きな背中が、そこにあった。
眩い程の後ろ姿が、眼前にあった。
君には俺が着いている、と。
まるで、そう告げるように。
気高き守護者として、少女を守り抜いていた。
それは、この世のどんなことよりも優しく。
陽の光が射すように、暖かく、頼もしく。
己が生き様で未来を示す、英雄の姿だった。
「――ランサー……」
レミュリンは、ぽつりと呟いた。
声に交じる、僅かな動揺と困惑。
死を覚悟した果てに、希望が待ち受けていた。
やがて、その瞳から――深い安堵が零れる。
進む道を照らす光を見出した少女は、知らず知らずのうちに。
その口元に、小さな微笑みを浮かべていた。
そして、少女を守る英雄もまた。
颯爽たる笑みによって応える。
――遅れてすまなかった。
その一言を添えて、彼は立ち続ける。
少女の情熱が掻き消されぬように。
その声が、暗闇を切り裂く。
「もう大丈夫だ、嬢ちゃん――――」
其の名は、ルー・マク・エスリン。
ランサーのサーヴァント。
ケルト神話に語り継がれし、大英雄の父。
長腕の異名を取る、輝光の導き手。
「――――俺が、此処にいる!!!」
少女の祈りを守り抜き。
少女と共に、歩み往く。
彼は、ヒーローだった。
宝具『鏖殺せよ、屠殺の槍と(アラドヴァル)』。
太陽の如き熱を秘めた第三の槍は、穂先を凍り付かせる“氷の刃”によってその力を封じられている。
ルーはその刃から“冷気の魔力”のみを放出し、“色彩”を防ぎつつ――レミュリンを包み込んでいた。
炎熱に悶えた彼女の肉体と魔術回路が、瞬時に冷却されてゆく。
全てを焼き尽くす“屠殺の槍”。その力を封じる氷の器は、暴発へと向かうレミュリンの焔さえも抑えてみせたのだ。
そして冷却と共に、レミュリンの身を襲っていた炎熱の苦痛も癒やされてゆく。
原初のルーンによる“治癒魔術”。氷結の魔力に混ぜ込まれたそれは、二重の加護となってレミュリンを守った。
「“蝗害の魔女”よ――残念だったな」
ランサーの介入を許し、色間魔術を防がれたイリス。
舌打ちする彼女のもとに、遅れてシストセルカも降り立つ。
マスターとサーヴァント。分断された戦いを繰り広げていた面々は、再び主従として対峙する。
「うちのマスターはな、勇敢な嬢ちゃんなんだよ」
睨むような眼差しと共に、魔力を研ぎ澄ませるイリス。
表情を引き締め、氷槍を構えるルー。
仕切り直された戦局は、沈黙の中で緊張に包まれる。
互いに睨み合いを続けた中で、飄々と口を挟む者が居た。
「――そういう訳らしいな。イリス、そろそろ引き際だぜ」
へらりと嗤い、わざとらしく肩を落としながらシストセルカが告げる。
「……は?止める気?」
「ありゃ面倒そうだ。長引く前に止めとけ」
不機嫌な眼差しで睨みつけるイリス。
シストセルカは動じることもなく、敵を見据えながら言う。
「手頃な獲物を狩るだけならまだしも、今のこいつらと本格的に事を構えるってのは御免だぜ」
――少なくとも、サーヴァントさえ分断すれば片が付く。
マスターは明らかな素人。イリスが一騎打ちに持ち込めば容易く終わると、シストセルカは考えていた。
しかし、状況は変わった。ランサーのマスターに明らかな異変が起こり、その魔力が高まっていた。
イリスも、シストセルカも、つい先程に“別の戦闘”を終えた直後。
それでもイリスはシストセルカが到着すれば勝負が付く自信があったし、シストセルカもランサーさえ足止めすれば短期決戦で終わると見越していた。
その目論見が外れた以上、シストセルカはあっけらかんと“撤退”を進言する。
「さっきも念話で伝えたろ、あのジジイからの伝言。
“少しは成長してみせろ。テメェに比べればホムンクルスのがよっぽどマシな戦果を挙げた”――ってな」
ニヤリと揶揄うように、釘を刺す一言。
シストセルカの言葉に、イリスはぴくりと眉間に皺を寄せる。
そして思わず、チッと舌打ちが零れた。
魔女の向こう見ずな短慮を蔑み戒める、“老獪の暴君”からの言伝だった。
「癇癪には付き合ってやるが、それで身を滅ぼしたら堪ったもんじゃねえ。
まだ痛み分けで済むんなら、そっちのがマシだ」
やれやれ、とわざとらしい身振りをするシストセルカ。
戯けるような態度の従者に、イリスは不快感を抱くように目を細めるが。
――やがて、不服な表情を浮かべたまま構えを解く。
その身に纏っていた魔力が収束していき、蛇口を締めるように抑え込まれていく。
「勝手に“あいつ”に喧嘩売ったあんたにだけは言われたくない」
「ははッ――確かにそれもそうだ。失礼いたしました、我がマスター様」
イリスは悪態をつき、対するシストセルカは慇懃無礼に答える。
恐らく敵側もこれ以上の本格的な交戦は望んでいないだろうと、イリスとシストセルカは踏んでいた。
土壇場での異能の覚醒。向こうにとっても未知数の状況で、どれだけの消耗になるかも分からない。
故にここで自分達が退いたとしても、下手な追撃は仕掛けてこないと判断した。
「……レミュリン、だったわね」
――氷鞘の槍を構えるルーと、彼に庇われるように座り込んでいたレミュリン。
魔女の呼びかけに、微かに顔を強張らせたのち。
レミュリンは身体にのしかかる疲弊を押し切るように、その場から立ち上がる。
ゆっくりと、確かな足取りで、少女はルーの隣に並び立った。
その瞳に恐怖と不安を堪えながらも、確固たる意志を伴って“蝗害の魔女”を見据える。
「あんたが出会った“脱出王”に、あんたが追ってる“赤坂亜切”。
あいつらに連なる奴らは、他にも存在する」
そして、イリスは言葉を続ける。
レミュリンが追う仇敵、赤坂亜切。
レミュリンが出会った奇術師、“脱出王”。
彼らに連なる存在――この聖杯戦争の始まりのマスター達について伝える。
ノクト・サムスタンプ、精霊との取引による“契約魔術”を操る凄腕の魔術傭兵。
ホムンクルス36号、ある魔術師の一族が用意した旧式のホムンクルス。従えるサーヴァントは、かつて猛威を振るった“継代の暗殺者”。
そして
蛇杖堂寂句、蛇杖堂記念病院を拠点とする医師――表と裏の双方に顔を持つ“怪物”。
イリスが知る〈六人〉の情報と、その姿形。
同盟者であるアギリを除く面々について、レミュリン達へと伝えた。
己の敵対者達とレミュリン達との接点を作り、少しでも彼らを削る余地を作るために。
アギリを追うこと――それはこの針音の聖杯戦争の核心へと迫ることだと、宣告するように。
「退くも進むも、あんた達の勝手。
その代わり、相応の覚悟はすることね」
そうして、イリスは身を翻す。
待ち受ける壁を示唆する言葉を告げて。
背を向けて、この場から去っていく。
――ねえ、祓葉。
――結局、あんたの思い通りになったのかもね。
未だに、苛立ちは晴れない。
しかし、少しだけ頭は冷えた。
そんなイリスが思い抱いたことはひとつ。
――ああ。
――ほんとに、腹が立つ。
――あんたの遊び相手を。
――私が育てたみたいじゃない。
◆
どさりと、その場に尻餅をついた。
呆然とした表情で、暗闇の空を仰いだ。
直接対決に伴う緊張と疲労。魔力の消耗。
嵐が去った後、その全てがレミュリンの身体にどっと押し寄せてきた。
端的に言うならば――疲れた。そして、命を拾ったことへの安堵があった。
そうしてレミュリンは、全身から力が抜け落ちた。
やっと終わった。
無事に、生き延びられた。
掴み取った奇跡を前に、そんなことを思い。
放心するように、彼女は虚空を見つめていた。
少しずつ、仇敵へと近づいている。
あの魔女もまた、アギリ・アカサカに連なっている。
しかし、与えられた情報を咀嚼する余裕は、今はまだ無かった。
彼女はただ、その場に茫然と佇んでいた。
――胸の内で燃え盛っていた炎が、鎮まってゆき。
――少女の意識もまた、急速に"現実"へと引き戻されていく。
――まるで、夢の世界から醒めるかのように。
この聖杯戦争に招かれたマスターは、時に固有の力に目覚めることがある。
魔術師であろうと、そうでなかろうと、決して区別はない。
舞台に招かれた役者たちには、等しく"異能"や"魔術"という祝福を得る。
そのことはルーから既に聞いていたし、レミュリンも感覚として掴んでいた。
レミュリンの表情には、陰が掛かっていた。
自らの力の本質を悟り、悲観を抱くかのように。
少女は、その顔を俯かせていた。
焔の力。焼き尽くす炎熱。
敵を灰燼に帰す、紅蓮の渦。
全てを飲み込む、業火の華。
――お母さん。お父さん。
己の中で、受け入れる覚悟をした。
それでも、感情は容易く割り切れない。
自分が目覚めた異能というものは。
後ろめたい記憶を呼び起こす、“哀しみ”の姿をしていた。
――お姉ちゃん。
それは、穏やかな日常を終わらせた。
あの喪失の記憶の、写身のようだったから。
脳裏によぎるのは、焼け焦げた姿で横たわる家族の姿。
もう二度と優しい笑顔を向けてくれることはない、愛しい人達の亡骸。
在りし日の終焉を告げる、熱の記憶。
己に芽生えた"新たなる力"。
それは、あの悪夢の具現だった。
己の中のトラウマが、形を成したものだった。
死線を越えて、レミュリンはそのことを改めて直視する。
故にレミュリンは、哀しみを抱いた。
己の中に纏わりつく、呪いのような心象風景を嘆いた。
この記憶からは逃れられないと、告げられたようだった。
この呪縛に囚われ続けると、突きつけられたようだった。
お前が背負った喪失は――いつまでも“ここ”にあるぞ、と。
誰かが、そう囁いているような気がした。
「レミュリン!!」
――そんな葛藤を抱いた矢先だった。
高らかなる声が、少女の意識を引き戻した。
え、とレミュリンは声を漏らす。
悲嘆の中に沈みつつあった中で、己の手を引く光がそこにあった。
座り込んでいた少女と目線を合わせるように、男もまたしゃがみ込む。
そうしてサーヴァント――長腕のルーは、清々しい笑みを見せる。
大丈夫だ、心配することはない。そう告げるかのようだった。
英雄は、少女の苦悩に寄り添いながら胸を張る。
「力とは、イメージを大切とする!
如何なる技であり、如何なる意味を持つのか。
それを規定するものとして“名”が存在する!」
そう――宝具の持つ名が、英雄の背負う“伝説”を規定するように。
名を持つことには確固たる意味があるのだと、ルーは告げる。
「故に、君の力!俺が名付けよう!」
君が目覚めたモノは、決して“呪い”ではない。
言葉には出さずとも、ルーは少女にそう伝えていたのだ。
「――『赤紫燈(インボルク)』」
それ故に。
レミュリンは、その名を聞き届けて。
陰を背負っていた表情が、静かに晴れてゆく。
「それは火と陽の女神を称える聖日であり、春の訪れを祝うケルトの祭りを意味する」
レミュリンにとって、春は哀しみの形をしていた。
あの春の日に、家族と死別することになったから。
それから二年の月日が経った冬の日に、彼女は姉の部屋で“懐中時計”を見つけた。
緩やかな針を刻んでいた時間が、確かに動き出す音がした。
「君の聖なる焔は――“熱の日々”を終わらせる、祝祭の灯火だ」
ルー・マク・エスリンは、春の訪れを告げる。
それは少女が全てを喪った、哀しみの日の象徴としてではなく。
彼女が悲嘆を乗り越え、己の道を切り開いていく――“始まりの季節”へと向かう祝福だった。
「……ランサー」
その心に、暖かな光が射し。
やがて少女は、口を開く。
――“自分は、君を甘やかし過ぎているのか”。
あの時の言葉が、不意にレミュリンの脳裏によぎる。
彼がそう呟いた真意を、最初は掴むことが出来なかった。
けれど、今は。
ルーに守られることしか出来なかった自分を直視し。
そして、これまで自分を献身的に守り続けてくれていた彼の奮闘を自覚し。
自らの焔に意味を与えてくれた“相棒”へと、感謝を告げた。
その口元に、彼と同じようなほほ笑みを浮かべながら――。
「ずっと支えてくれて、ありがとう」
――この暗闇を切り裂く、英雄の声。
それは少女の胸に宿る“言葉”となっていた。
【渋谷区/一日目・夕方】
【楪依里朱】
[状態]:魔力消費(中)、不機嫌、右肩に銃創とそれに伴う出血(魔術で止血済)、未練
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:数十万円
[思考・状況]
基本方針:優勝する。そして……?
0:ほんと、腹立つ。
1:祓葉を殺す。
2:一旦情報を整理。蛇杖堂への以後の方針も考える。
[備考]
※
天枷仁杜(〈NEETY GIRL〉)とネットゲームを介して繋がっています。相手がマスターであるとは知りません。
必要があればトークアプリを通じて連絡を取ることが出来るでしょう。
※蛇杖堂記念病院での一連の戦闘についてライダー(シストセルカ)から聞きました。
※今の〈脱出王〉が女性であることを把握しました。
【ライダー(シストセルカ・グレガリア)】
[状態]:戦力2割減(回復中)、疲労(小)
[装備]:バット(バッタ製)
[道具]:
[所持金]:百万円くらい。遊び人なので、結構持ってる。
[思考・状況]
基本方針:好き放題。金に食事に女に暴力!
1:相変わらずヘラってんな、イリス。
2:祓葉にはいずれ借りを返したいが、まあ今は無理だわな。
[備考]
※〈蝗害〉を止めて繁殖にリソースを割くことで、祓葉戦で失った軍勢を急速に補充しています。
【渋谷区・公園の広場/一日目・夕方】
【レミュリン・ウェルブレイシス・スタール 】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大・治癒魔術で応急処置済)、決意
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:6万円程度(5月分の生活費)
[思考・状況]
基本方針:――進む。わたしの知りたい、答えのもとへ。
1:ありがとう、ランサー。
2:神父さまの言葉に従おう。
[備考]
※自分の両親と姉の仇が赤坂亜切であること、彼がマスターとして聖杯戦争に参加していることを知りました。
※ルーン魔術の加護により物理・魔術攻撃への耐久力が上がっています。
またルーンを介することで指先から魔力を弾丸として放てますが、威力はそれほど高くないです。
※炎を操る術『赤紫燈(インボルク)』を体得しました。規模や応用の詳細、またどの程度制御できるのかは後のリレーにお任せします。
※アギリ以外の〈はじまりの六人〉に関する情報をイリスから与えられました。
【ランサー(ルー・マク・エスリン)】
[状態]:魔力消費(小)
[装備]:常勝の四秘宝・槍、ゲイ・アッサル、アラドヴァル
[道具]:緑のマント、ヒーロー風スーツ
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:英雄として、彼女の傍に立つ。
1:レミュリンをヒーローとして支える。共に戦う道を進む。
[備考]
予選期間の一ヵ月の間に、3組の主従と交戦し、いずれも傷ひとつ負わずに圧勝し撃退しています。
レミュリンは交戦があった事実そのものを知らず、気づいていません。
ライダー(
ハリー・フーディーニ)から、その3組がいずれも脱落したことを知らされました。
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最終更新:2025年01月05日 01:23