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 蛇杖堂寂句
 魔術師でその名を知らぬ者なら、数多くいるだろう。

 魔術師というのは、基本的にプライドの生き物だ。
 根源への到達という無謀な夢を追いかけている癖をして、立ち振る舞いにこだわりたがる。
 電子機器を使うか否かが最も分かりやすい。
 魔術協会の総本山たる時計塔の君主(ロード)にさえ、スマートフォンのひとつもろくに使えない老人がいるほどだ。

 遠くの誰かと話したければ専用の礼装を拵えるか、自分の回路を使ってやればいい。
 知識など己の脳髄に叩き込んでおけばいちいち調べる必要もない。それでも新たに必要なら書斎へ籠ればいい。
 難解な計算など魔術で誰でも極められる、わざわざ機械など頼らねばならないのは単に其奴が未熟だからだ。
 よく言えば矜持。悪く言えば驕り。この国風の言い回しにするなら、昭和の老人めいた前時代的な偏屈さ。
 この2024年ですらそうした考え方が圧倒的マジョリティとして君臨する人種なのだ、魔術師というのは。
 そんな彼らにとって、魔術を道具として用いる"魔術使い"とは軽蔑と嘲笑の対象以外の何物でもなく。
 したがって一般に魔術使いの家とみなされている蛇杖堂家の名は、多くの魔術師にとって揶揄と陰口の的以上の価値は到底ないものだった。

 人呼んで邪道の蛇杖堂。
 魔術師としての大義も忘れて現世利益の追求に勤しみ、秘奥を俗世に売り渡して小銭を稼ぐ、藪隠れの家。
 耳のいい魔術師ならば"久々に有望な子が生まれたらしい"という話くらいは聞き及んでいたかもしれないが、所詮その程度だ。

 邪道の家に生まれた不世出の天才――蛇杖堂寂句の存在を認識し、正しく評価していた人間は時計塔でも数える程度。
 問題児ばかりの集う教室を受け持つ奇矯なロード。鉱石学科のふたりの災厄、その片割れ。死者を挙げていいのなら、アルロニカの〈雷光〉。
 せいぜいがそのくらい。日本に根を下ろした魔術師の中でさえ、蛇杖堂家を闇医者まがいの堕ちた血筋と評価する者は少なくない。
 そうでない人間のほとんどは、実際に蛇杖堂寂句と関わって理解させられた者だった。


 その一方で。
 ある程度のキャリアを積んだ医者であれば、彼の名を知らない者は一転してごく少なくなる。
 卒寿を迎えてなお第一線で病院の経営を担い、時には現場に立って辣腕を振るう。
 若い頃には現代医学が匙を投げた難病に対する画期的な治療方法を提案し、彼の執筆した論文は今も世界中で医学のマイルストーンとして読まれ続けている。
 ともすればノーベル賞を受賞してもおかしくない功績を多数挙げながら、一貫して表舞台に立つことを固辞してきた奇人にして偉人。
 中には彼が裏社会、得体の知れない人脈を多数有しているという告発じみたことを言い放つ者もいたが、人徳とは大したもので、それすら"ジャック先生は助ける相手を選ばないのだ"とむしろ彼の名声に拍車をかける場合がほとんどだった。

 蛇杖堂寂句が〈熾天の冠〉を巡る儀式の開催を聞きつけたのはちょうど、彼が探究の傍らにある療法を考案していた時のこと。
 染色体異常症の予後改善法という公開されていれば誇張でなく医学史に一石投じただろう論文を後に回して――蛇杖堂の麒麟は触媒を取り寄せる準備を始めた。
 表裏を問わずコネクションの確立に余念のない彼にしてみれば、時計塔やその有力者達を介さず望みの触媒を入手するなど容易いことである。
 特に改めて気を張るでもなく、ごく当然のこととして自身の勝利と、戦後の展望を思い描きながら聖杯戦争へ名乗りをあげたのだ。

 寂句は生涯を通じて、自分というものを疑ったことがない。
 彼は常に自分と他者の能力を客観的に認識し、そのままに行動する。計画を、設計する。
 だからたとえ失敗したとしても、仕損じた場合の回収法を既に考えているからそれほど損をしない。
 その上で、令呪を宿して東京に入った魔術師達の詳細を突き止めた寂句は、過信抜きで自分が勝つだろうと判断した。

 悪名高き嚇炎の暗殺者。
 辺境の一族が希望を託した白黒の魔女。
 真っ当に聖杯を求めているとは思えない奇術師(マジシャン)の少年。
 小心なりに全力投球を敢行するらしいガーンドレッドの魔術師ども。
 狡知に長けた傭兵崩れの詐欺師。
 あとひとりについてだけは如何様にしても突き止めることは叶わなかったが――第四次・五次の前例を見るに、大方不運な一般人が巻き込まれでもしたのだろうとさして気に留めなかった。

 勝つのは己。よって重要なのはどうやって勝つか、どのように勝つか。
 より自分が戦後有利になれるよう立ち回ることが肝要であると踏まえた上で、後に最強の敵と述懐される医者は東京の街に君臨した。


 ……彼が自分の計算が間違っていたことを悟ったのは、正真正銘最後の最期。
 襤褸切れのように倒れ臥した少女に手を差し伸べるという、今思い出しても理解不能の"無能"に及んだ瞬間のことだった。



「――、――」



 らしくもない回顧を切り上げ、小さく息を吐く。
 寂句の姿は今、お抱えの運転手がハンドルを握る高級車の中にあった。

 〈蝗害〉による蛇杖堂記念病院の襲撃から相応の時間が経ち。
 名誉院長である寂句は、医師とスタッフに事後処理を任せて病院を出た。
 無論現場には最適の指示を残してある。新たな襲撃でもない限り、事態が今以上に悪化することはないだろう。
 拠点として使い物にならなくなったとはいえ、自分の権限が及ぶ勝手知った土地だ。
 もはや主軸とはみなせないが、補助パーツのひとつとしてなら残しておく価値はある。
 寂句の的確な指示がそんな冷淡から生み出されたものであるなどと、現場で奮闘する彼らは命尽きるまで想像もしないに違いない。

「所見を」
アンジェリカ・アルロニカのアーチャー。推定真名、天若日子
 状況適応力、弓術において極めて優れる。特筆事項は視力。万を超える蝗の一匹一匹を仔細に視認していた模様。
 ホムンクルス36号のアサシン。推定真名、ハサン・サッバーハ。
 同じく状況適応力について逸出。ただしマスターの不自由、不合理に足を引かれている様子が多々。
 マスターより伝え聞く前回のマスター、ノクト・サムスタンプが運用した際に比べ、脅威度では数段落ちると判断しました」
「悪くない。概ね、私の認識と重なっている」

 高級車の後部座席。
 自身の隣に座った槍の英霊へ語りかけた言葉は、別段革新的な視点を期待して放ったものではない。
 これはテストであり確認だ。自分の喚んだ英霊が己の求める水準に足るかどうかを測定する、動作確認のようなものである。

「欠点事由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「〈山の翁〉を侮るな。今は凡夫の玩具でも、アレはひとつでも現状が改善されれば途端に全員の脅威となる」
「なるほど。しかし不肖ながら質問をば。あのホムンクルスは戦闘機能はおろか、他の用法にも適さない木偶かと思いましたが」
「逆に問うが、たかだか餓鬼のお守りを負わされた程度で音を上げる無能に、暗殺教団の主が務まると思うか?」

 偽りの名を魔獣ギルタブリル。
 真実の名を天蠍アンタレス。
 寂句の懐刀にして切り札であるこの少女は、しかし英霊としては他の衛星達のそれに幾分劣る。そのことを寂句は理解していた。
 少なくとも、イリスの〈蝗害〉やホムンクルスの〈山の翁〉に勝る戦術的価値は到底持ち得ない。
 あくまでも彼女は最後の一手を打つための存在(ジョーカー)。故にこそ逆に、貴重な時間と思考の余暇を割いてまで相対する意味がある。

「ハサンに代わってホムンクルスを介護する存在――奴の性能を思えば割には合わないが、それでも請け負うような奇特な人間。
 もし連中がそうした協力者を得たならば、あの〈山の翁〉はこれまでの比でない働きと災厄を生み出し我々を襲うだろう。
 蝗と雷光の忘れ形見さえいなければ、奴らを潰すために貯蓄を崩しても構わなかったところだ」

 前回、寂句のサーヴァントは強さと知恵の両方を極めて高い水準で併せ持っていた。
 この老医者と議論ができる程度の頭と言えば、その優秀さは推して知れるだろう。

 とはいえあのアーチャーと今回のランサーでは明確に求める役割が違う。
 寂句にとって聖杯などというものは既に副産物以下の存在に成り下がった。
 度を越えた聡明は求めない。だがそれでも、最低限自分の指示の意図をすぐに汲める程度はあってくれなければ話にもならない。

「ゆめ忘れるな。アレが現界していると知れた時点で、我々は都市のすべてを疑ってかからねばならなくなったのだ」

 だからこそ寂句は時折こうして、らしくもなく教鞭を振るう。
 積み上げてきた経験に彼だけの視点を組み合わせた、最善からブレることのない短時間ながら効率のよい教育。
 本来であれば英霊が人間に教え子まがいの扱いを受けるなど屈辱でしかないだろうが、彼のサーヴァントは勤勉で好奇心旺盛だった。
 ふむふむ、と律儀にメモを取りながら聞く姿は、その赤々とした甲冑を除けば孫娘のようにも見える。

「いちいちメモなど取るな無能が。英霊ならば一度で記憶野に叩き込め」
「努力はしています。しかし当機構は父なる機神がたのような回路を有しておりませんので、取り零しがないようにとこの手法を」
「笑える話だ。数多の魔術師の悲願を阻んできた抑止力がいざとなって遣わしたのが、貴様のような無学な小娘とはな」

 侮辱も甚だしい物言いだが、この程度でいちいち鶏冠に来ていたら寂句の英霊は務まらない。
 実際、ランサーはぺこりと小さく頭を下げるだけで噛み付こうとはしなかった。
 ある意味では、相性のいい組み合わせなのだろう。
 能力的にも人格的にも、前回とはまた違った意味で蛇杖堂寂句の方針に則した人物であると言えた。

 寂句は会話を終え、シートに体重を預けたまま外を眺める。
 もちろん、都会のコンクリートジャングルなどという見慣れたものに改めて粋を感じているわけではない。
 行うのは思考の整理。これまでと今この時を総括した上でこれからを考える、ルーチンワークのようなものだ。

 運転手は最初から専用の人材として調整済みだ。暗示を施し、人形同然の状態にしてある。
 魔術師の流儀や伝統に寄り添う気のない寂句だが、それでも神秘の秘匿にはある程度労力を費やす。
 何故ならその方が得だからだ。出る杭は打たれる、悪目立ちすればそれだけ厄介事が増える。
 世界の正常性への配慮などではなく、あくまで自分の都合として、寂句は日常の維持に寄与していた。

 閑話休題――そんなわけだから、この車内には今自分とランサーしかいない。
 だからこそ、真に思考を深められる。
 根源到達、死の克服。そのいずれよりも優先される現在の大義を研ぎ澄ませられる。

(……イリスが〈蝗害〉の駆り手であるのは予想の範囲内だったが、ホムンクルスの乱心には驚いたな)

 自分の陣地のひとつであった蛇杖堂記念病院への襲撃。
 それに対し、寂句は実のところそれほどの驚きを抱いてはいなかった。
 彼がわざわざ蝗対策に特注の殺虫装備を備えていたのがその証だ。
 端的に言うと、楪依里朱を筆頭候補とし、その他〈六人〉の誰かが〈蝗害〉を引っさげて自分を直接叩きに来る可能性は想定できていたのだ。

 自分が前回どれほど目立ったかは自覚している。
 出る杭が打たれるのはこの世のどんなジャンルでも共通の道理。
 何しろ二回目が行われるなど想定外も想定外だ。しかし起こってしまった以上は、状況の一要素として思考に含めるだけである。この柔軟さもまた、寂句が天才と呼ばれる所以だった。

(とはいえ、あくまで重要なのは祓葉がどう動くかだ。
 幸いアレは見に徹するということを知らん。よって、当座はこれまで通りで構わんだろう)

 重要なのは戦局ではなく神寂祓葉の動向のみ、そう言っても寂句の場合間違いではない。
 さっきのように降ってくる火の粉は払うが、逆に言えばそれだけで基本は十分。

 そう、己もまた、前回とは違うのだ。
 そして恐らくその違いは、他の誰よりも大きい。
 求むは勝利ではなく、大義。
 極星の輝き以外のいかなる事象に対しても、蛇杖堂寂句は根本的に興味さえ抱いていない。

 強いて言うなら〈雷光〉の遺児が自分を訪ねてきたのは多少驚きだったが、それでも大筋を揺るがすほどのイベントではなかった。
 前回のように、敵の拠点を特定してはサーヴァントに消し飛ばさせる必要もない。
 爆弾魔や詐欺師と知恵比べをしながら、どこに潜んでいるとも知れない暗殺者の魔眼に気を尖らせる意味もない。
 他のことなど、天蠍の一刺しが神寂祓葉を天へ放逐した後に考え始めればいいだけのこと。
 だからこそある意味、この老人は〈はじまりの六人〉の中でもっとも自由で、同時にもっとも不自由な存在だった。

(十中八九、今夜の内に情勢は動く。
 そうなればあの莫迦娘も必ずそこへ顔を出すだろう。能動的に動くのは、その時でいい)

 かつての最強、蛇杖堂寂句は後手に回ることを選ぶ。
 "あえて"、後手に回るのだ。
 愚かにも喧嘩の売り先を間違えた相手だけを屠り、目的達成のためあらゆるリソースを温存し続ける。
 それは、魔女の蝗に陣地をひとつ潰された今も何も変わらない。

 あくまでも、彼が見ているのは神寂祓葉ただひとり。
 力も知識も人脈も、およそこの世のあらゆる財産を"持つ者"である寂句が、そのすべてを一点に収斂させて臨まねばならないほどの相手。
 魔術師としてでなく、夢追い人としてでなく、医者としてでもなく。
 ただひとりの人間として、ヒトという現在の霊長の一員として、そしてこの星に生まれ落ちた生命の一滴として。


 必ずや責任を持って――自分があの怪物を天へ押し上げる。


 思えば寂句は今、生まれて初めて"熱"のようなものを感じていた。
 生まれながらに才人だった彼は、他の追随を許さないほど優秀であると同時に、いつもどこか冷めていた。
 なんでもできるということは、言い換えれば人生のすべてが流れ作業も同然ということだ。

 根源の悲願。ああそうか、私の代では不可能だからせいぜい未来に布石を残すとしよう。
 聖杯戦争。取るに足らん、出揃った役者がこの程度では負ける方が難しい。
 万能の願望器、〈熾天の冠〉。誇大広告であることは明白、期待など端からしていない。多少足しになればそれでいい。
 満点とは行かずとも、九割以上は取れて当たり前の稚拙な問題ども。その答えを、ただ淡々と答案用紙に記していくだけの九十年。
 それを不幸だと酔える感性を寂句は持ち合わせていなかったが、無味乾燥なものであったことは彼も否定はしないだろう。

 ――なればこそ、やはり。
 彼の人生はあの日、あの今際になってようやく"始まった"のだ。


『あんたも、あの子を知ってるの?』


 ああ、知っている。
 知っているとも、嫌というほど。


 白黒、魔眼、そして光剣。
 そのすべてを退け、誤ることを知らない医神は、ただ確認しようとしただけだった。

 あの時。永久機関は未だ、少女の身体に定着しきっていなかった。
 それでも相当に"死ににくい"ようだが、殺せないわけではない筈。
 果たしてアーチャーの一撃は、そんな彼女をちゃんと葬れたのか。
 もしまだ息があるようならば、その時は念入りに殺し尽くす。
 心臓の鼓動はおろか、脳細胞の一片に至るまで生存の可能性が残らぬように踏み躙って終わらせるまで。
 単なる確認作業。今更結末の変わる余地はなく、あの瞬間寂句の勝利は確かに確定していた。

 なのに、ああ何故。
 あの時、私は。
 倒れ臥して動かず、か細い呼吸を繰り返すばかりの少女の姿に――"熱"など覚えてしまったのか。


 今考えても、その理由は分からない。
 魅了(チャーム)への対策は平時からしていた。
 オルフィレウスの永久機関は実用に値しないと早い段階から切り捨て、もう欠片の未練も持っちゃいなかった。
 殺す理由は百ほどあるが、生かす理由は今振り返ってもひとつたりとも思い付かない。
 なのに、それでも。それでもあの時、寂句は気付けば懐の霊薬を取り出していた。
 膝を突いて身を屈め、喘鳴をこぼす口を開かせ、瓶を傾け薬液をあの忌まわしい娘の体内(なか)へ――


「……マスター?」


 ランサーの声が、彼を回顧の海から引き戻した。
 煩わしそうに視線を向けると、天蠍は少しだけ眉を動かす。
 それは動揺と呼ぶにはあまりに小さな表情の機微であったが。
 彼女が己を呼んだ理由を寂句に理解させるには十分な仕草だった。

「すみません。難しい顔をしていましたので、何か問題でも生じたのかと」
「であれば貴様へ共有している。私が小間使いに遠慮などする柄に見えたか?」
「見えません。まったく、これっぽっちも」
「ならば黙っていろこの無能め。貴様はただ黙って、私の指示を待っていればいいのだ」

 要するにそれだけ、険しい顔をしていたのだろう。
 何という体たらく。情けなく、女々しい――寂句が自分をそう罰することは決してない。
 自分だけは例外などという無能がましい理由ではなかった。
 彼は認めている。さっきアンジェリカに語った言葉に嘘はない。蛇杖堂寂句は、神寂祓葉を、恐れているのだ。
 己の抱える恐怖を認めているから、それによって生じる瑕疵を彼は誇りも嘆きもしない。そもそも、恥とさえ思っていない。

 アレを前にして何も恐れを抱かない者がいるなら、其奴は無能と呼ぶにも値しない特級の蒙昧だ。

 寂句は小さく嘆息して、車窓から再び外を見る。
 空はにわかに黄昏を湛え、既に太陽は彼方へ沈みつつあるようだった。
 直に日が落ちる。日が沈めば、夜が来る。自分が情勢が動くと予想した、大きな意味持つ夜が来る。
 この空の下で、今、あの少女は何をしているのだろうか。
 熱を知らず生きてきた自分に、それを教えた、星のような白い少女は。

 未だに答えの出ない命題がひとつある。
 何故あの時、自分は神寂祓葉を助けたのだろう。
 あれさえなければ、蘇った彼女に殺されることもなかったし。
 当然狂気になど堕ちることもなく、今頃は聖杯を手に入れてその性能どうあれ今後の見立ても付いていただろうに。

 気の迷い、などという惰弱な理由で道を歪める寂句ではない。
 であれば必ず、そこには理由がある筈なのだ。
 何故手を止めた。何故霊薬を取り出した。何故――何が――己をそうまで惹き付けたのだ。
 考えても考えても答えが出てこない。あの決断に至るまでのプロセスが、どうにも脳裏から抜け落ちている。
 誇張でなく何十度目かの自問。されど、今回も答えが出ることはなく。
 老人は、もう一度嘆息をするべく鼻で息を吸った。その時だった。



 ――寂句の視界が嚇一色に染め上げられ、全身のあらゆる感覚神経が"熱"の一文字を訴えて絶叫したのは。



◇◇



「相変わらずエゲツないねぇ、あんたの"それ"」

 ぴゅう、と口笛を吹いた女は、2メートルを大きく超える巨躯の持ち主だった。
 癖っ毛の黒髪を爆発の余波で吹きすさぶ風に靡かせ、美術品のように整った顔へ呆れ混じりの苦笑を滲ませる。
 他人を萎縮させるに足る図体をしているにも関わらず、性別はおろか種族の垣根も超えて、あらゆる生命体を魅了できる美貌がそこにある。
 その有様、在り方、まさしく"女神"。見惚れるほどに美しいのに、決して現代の地上に在ってはならないと断言できる矛盾。
 狩りの神にして、〈はじまりの聖杯戦争〉の断片、極星の衛星そのひとつ。
 凍原の悪鬼たる青年がこの地に招いた、まごうことなき規格外のサーヴァントである。

「……んー。久々に昔に戻った気分で使ってみたけど、やっぱり精度はおざなりだね。
 僕を拾ってくれた人が見たら頭抱えるよこりゃ。まったく無様ったらありゃしない」
「へえ? 話には聞いてたが、昔はこれ以上だったってのかい」
「"暗殺"に限ればね。まあその分、今ほど殺し合い向きの能力じゃあなかったんだけど」

 彼女を従えるマスターもまた、相当な美青年だった。
 よれたダークスーツに若白髪の目立つ髪というマイナス要素を帳消しにできるだけの、甘いマスクがそこにはある。
 細められた糸目がよく調和した、少なくとも見かけは穏和で優しげな顔立ち。
 つい先ほどまでかけていた魔眼殺しの礼装をポケットにしまいながら、微笑を崩さぬまま女神の言葉へ応える。
 美男美女の会話の内容は絵面の華々しさとは裏腹に、血腥く、そして異様な剣呑さに彩られていた。

 彼らの視線の先には、炎上するリムジンの無残な姿。
 既にボンネットからトランクまで轟々と炎に包まれており、断じて生物が生存を継続できる状況には見えない。
 周りで響く、悲惨な炎上事故に遭遇した一般人の阿鼻叫喚などは一顧だにせず。
 ふたりは状況の異様さを思えば牧歌的にさえ見える余裕を持って、立ち上る炎を見つめている。

「流石に死んだんじゃないかね?」
「まさか。すぐに出てくるよ」
「おう、良いねぇ。実際に心魂尽くして殺し合った間柄だからこその理解ってヤツかい? アギリ」
「気持ち悪いこと言うなよ。シスコンは認めるけどそっちの癖まで拵えた覚えはない」

 この光景から分かることは、彼らにとって人の生き死になど、世間話のように論じるべきこと以上でも以下でもないこと。
 彼らの会話は、あまりにも死を隣人としていた。
 殺す、とか、殺される、とか。そういう現代人ならば真っ当に忌避するべき事柄に対し、酷薄なまでに乾いている。
 敵対した人間ないし生命体を武力でもって排除することに躊躇いがなく、それを欠片も疑問に思わない破綻者のもの。
 もしくは――価値観だとか主義主張だとかそんな月並みなこととはもはや一線を画すレベルで、そういう観念に身近であることの証明。

「じきに夜が来る」

 アギリ、と呼ばれた青年がそう言った。
 顔に浮かぶのは変わらない笑み。
 女性から引く手あまたであろう甘いマスクに、どろついたコールタールのような妄執を溶かし込みながら。

「そうなればお姉(妹)ちゃんも動くんだ、その前にウォームアップと行こうじゃないか。
 幸いにしてそれにはうってつけの人材だよ。君も必ずや満足できるだろうさ」
「半信半疑だったがそのようだね。アタシの流儀を蔑ろにするってんなら心穏やかじゃなかったが、確かにこれなら納得だ」

 青年は嗤う。
 女神も嗤う。
 嗤いながら、炎の柱と化したリムジンを見つめている。
 端から見れば美しいだけの狂人どもの会話。
 されどそれが単なる世迷い言でないことを証明するように、事態は動く。
 魂まで焼き焦がす炎の中から、一本の腕が、にゅっと突き出たからだ。

「一応聞くが、注文はあるかい?」
「まさか。後腐れなくブチ殺してくれればそれでいいよ」

 どんな生命体でも生きて逃れられない、灼熱の地獄。
 その中から示された生体反応に、彼らは何も動じない。
 女神の言葉に、悪鬼が応える。それで彼ら主従のやり取りは終わり。
 意思共有は済んだ。であれば後は、各々の戦いをするだけである。

「一秒たりとも生きてて欲しくないからね、このクソジジイには」

 アギリ――赤坂亜切の眼が、静かに細められた。
 それと同時、炎上するリムジンの中から無傷の男が姿を現す。
 男、と言っても少年や青年ではない。現れたのは、老人だった。


「イリスの次は貴様とはな。つくづく、節操のない奴ばかり来るものだ」


 老人、と言っても、傍目にはその齢は実年齢より三十、四十下にしか見えない。
 つまり五十代か六十代だ。七十八十ならいざ知らず、九十歳の老人がそう見えるなんてなかなか有ることではないだろう。
 ラガーマン、手練れの柔道家。山奥の秘境で黙々と修行を積んだ仙人にさえ例えられるかもしれない。
 とにかく、実年齢とまるで見合わないバイタリティに溢れた男だった。
 灰色のスーツとコートには、焦熱地獄もかくやの車内にいたにも関わらずわずかな焼け焦げも窺えず。
 そしてこれらの事実が、アギリとそのサーヴァントの会話に一切の"大袈裟"がないことを証明している。

「玉がないよりマシだろ、ジジイ。あんたに比べたらイリスのほうがよっぽどマシだ」
「分かってはいたが筋金入りの無能だな、小僧。一度負けただけでは学習できなかったか?」
「負け? おいおい、笑わせるなよヤブ医者が。一回死んでもまだ素直になれないあんたが、よりによって人様の狂気(きもち)を測るって?」

 その証拠にアギリは、胸元を直しながら何事もなかったかのように平然と立つ老人の姿に、やはり欠片も驚きを見せていない。
 ちょっと火だるまにした程度で大人しくくたばってくれるような男なら、前回あんなに苦労などしなかった。

「学ぶべきことは学んださ。だけどそれは、あんたからじゃない」

 篝火のように炎を揺らめかせながら立つ姿は、寂句の知るものとは別物と言ってよかった。
 嚇炎の魔眼。赤坂亜切が全員にとって最大の警戒対象だった所以。
 暗殺者のサーヴァントはノクト・サムスタンプが有していたが、あの東京にはもうひとり、冗談でなくそれに迫る脅威度を持つ殺し屋がいた。

 魂ごと焼き尽くす炎。
 闇夜を這い寄る煤臭い葬儀屋。
 東京に集ったすべての魔術師へ死を馳走できる可能性を秘めていた、嚇炎の悪鬼。

 されど、かつて彼を象徴した嚇き瞳は見る影もない。
 端的に言うならば、壊れてしまっている。
 美しいほどに無駄のない殺戮の炎は、今やその制御性を大きく欠き。
 何を火葬するにも烈しすぎる無秩序な火力の塊と化して、仇敵の視界の先に存在していた。

「僕に大切なことを教えてくれたのは、かけがえのない家族ってやつさ」
「語るにも及ばんな」

 心底救えないものを見たように嘆息し、老人はアギリの狂気を一蹴する。
 我も狂人、彼も狂人。しかして彼らの抱える狂気のかたちが交わることは決してない。
 だからこそ、彼ら星々はともに不倶戴天なのだ。
 手を取り合うことはできず、真に分かり合えることもない、永遠の自己完結が六つ並んでいるだけ。

「さながら貴様は雛鳥だ。何ひとつ有意義なものを持たずに生きてきたから、ようやく見えた光に意味もわからず飛びついただけの幼子。
 無能以外の言葉では到底言い表せん愚か者だろうよ。光に向けてただ飛ぶなど、虫螻でもできることだというのにな」
「その光に怯えて縮こまってるのを必死に隠そうとしてる臆病者よりはマシだろ、お爺ちゃん。
 否定するならあんたも僕らの同類ってことになるし、どの道発言と行動が矛盾してるぜ。
 いや実に残念だな、邪道の蛇杖堂翁も寄る年波には勝てないなんて。老人ホームにでも入ったらどうだい?」
「生憎、狂人相手に筋の通った議論を尽くす趣味はないのでな。処方箋を書くか病棟に押し込めて、それで終わりだ」

 その上で、この二人は星々の中でも特に噛み合わない。
 噛み合う筈がないのだ、彼らに限っては、絶対に。
 万にひとつの奇跡すらあり得ない、水と油そのものである。

「もっとも貴様に限っては、殺処分する他ないようだがな。
 そうまで狂っては医学にできることは何もない。望み通り獣として処断されるがいい」
「ドクター・ジャックは忙しすぎて、鏡を見る時間もないらしい」

 名乗りなど不要。
 旧交を温める必要など、ある筈もなく。
 互いに殺意以外の感情を通わせず、罵倒じみたやり取りだけを交わす。

 そう――彼らこそは、〈はじまりの六人〉。
 此度の聖杯戦争、繰り返された運命の中核。
 より正しくは、核の周りを連なり漂う狂気の衛星。
 共に狂っているが故に、自分以外の星の存在を認められない末期患者達。

「安楽死ってガラでもないだろ? あんたには特注の火葬炉をくれてやるよ」
「笑わせる。今の貴様はもはや葬儀屋ですらない、ただの火遊びに狂った童だろうが」

 赤坂亜切。
 凍原の悪鬼。
 その狂気、〈妄信〉。

 蛇杖堂寂句。
 蠍飼う暴君。
 その狂気、〈畏怖〉。

 信じる者と怖れる者の意見が噛み合うことなどあり得ない。
 故にこのふたりが出会った時点で、起こる出来事はひとつだった。
 寂句の上空から姿を現す、赤い甲冑の少女。天の蠍。
 それが放った赤槍の一撃を、触れることなく矢で止めた大柄な女。狩猟の神。

「無様に死にな、老害」
「遊んでやろう、若造」

 日没、逢魔が刻。
 光の日常が過ぎ、闇の非日常が訪れるその狭間の時間に。
 この先に待つ波乱に先駆けて、正反対の狂気が激突した。



◇◇



 地を這い迫る嚇炎を、あろうことか寂句は袖を振るだけで払い除けた。
 そう、払い除けたのだ。触れれば魂ごと焼き尽くすアギリの炎を、さも小火でも消すように対処した。
 しかもそれで対処が成り立っているというのは、一体どういうわけだろう。
 今まで葬儀屋の炎に焼かれてきた者達の無念を嘲笑うように、蛇杖堂寂句は必然の死を回避していた。

「罅の入った宝石を得意げに見せびらかされたのは初めてだが、哀れすぎて言葉も出んな」

 先に述べた通り――前回、赤坂亜切の魔眼に対する対策は全員にとっての必須事項だった。
 何しろ彼が持つ嚇炎の魔眼は、対策を有していなければサーヴァントでさえ滅ぼし得る、まさに必殺の代物であったからだ。
 寂句もその例外ではない。彼は自分の肉体にも幾つかの魔術的処置を施し、強度と性能を常に底上げしているが、それでも葬儀屋の炎に巻かれれば為す術なく骨の髄まで黒く焼き焦がされるのは必至だ。
 だから当然、他の例に漏れず対策をしている。そして知識と人脈に富む蛇杖堂の麒麟が行った"対策"は、祓葉除く六人に対する中で随一だ。

 例えば今アギリの炎を防げたのは、皮膚とコートの表面へ施した撥水加工のおかげだ。
 イチョウの樹皮は厚いコルク質で、かつ気泡が多いので耐火樹の代表格に数えられる。
 その"泡"のみを魔術的手段で抽出し、霊薬と混ぜて撥水剤のように塗布した。
 材料に用いたイチョウも霊験あらたかな土地に生育する、半分霊木と化したもののみを厳選して利用している。
 科学と魔術、両側面の効能で炎を弾き、払い除けるための備えだ。
 もっともこれは前回……逆光に曝される前のアギリに対しては、そこまで強い効果が期待できる代物ではなかった。
 精密性が高すぎて、防火の備えで身を覆った程度では針の穴を通すように貫通されてしまう可能性が高かったからである。
 あくまでも気休め程度の備え。だが、焼かれ狂って己の宝石を穢してしまった今の彼になら強く出ることができる。

「火遊びと形容したのは正解だったな。こうまで制御を失っているようでは、もう殺し屋など務まらんだろう」

 赤坂亜切の魔眼は壊れている。
 以前相対した時に比べ、目に見えて精彩を欠いている。
 ノウブルカラーならぬブロークンカラー。直接戦闘においてはこちらの方が脅威だが、それはもう殺し屋ではなく殺人鬼の在りようだ。

 無論、寂句がイチョウの泡薬などという"前回は効きが悪かった"ものを今回も重用していたのは偶然ではない。
 彼は最初期からアギリがこうなっている可能性を、信憑性の高い仮説として提唱していた。
 神寂祓葉という極星と長期間行動を共にしていた、楪依里朱と赤坂亜切。
 このふたりは他に輪をかけて破綻している可能性が高い――であれば前回とは別物に"壊れて"いるかもしれない。
 そう踏んでの備えが功を奏した。制御を失った嚇炎が相手なら、寂句の防火薬は存分にその効能を発揮してくれる。

「だからさあ。さっきから全部的外れなんだよお前」

 寂句をラガーマンと称した人間はきっと慧眼だったに違いない。
 その証拠に、炎を潜り抜けて吶喊する彼の姿は御年九十の老人ではあり得ないほど勇猛だった。
 魔眼による視線の収斂。
 制御を失っているとはいえ、単純明快な暴力であることには変わらない死線(それ)を、さも当然のように躱す。
 見ただけで気圧されてもおかしくない気迫に、しかし嘲笑すら返してみせるアギリもまた異様異質。

「逆に聞くが、あんな綺麗な星のいる世界でせせこましく殺し屋なんて続けて何になるんだい?
 壊れているのは自覚してるが、僕はこうなったことを微塵も後悔なんかしてないよ。
 むしろああ、もっと早くこう成りたかった! そうすれば彼女へ囁いてきた無味乾燥な言葉の数々も、もっと値打ち溢れる睦言に変わっただろうに!」
「黙っていろ。貴様の戯言は聞くに堪えん」

 薙ぐように噴き出でる炎の帯をまるで煙か何かのように押し払いながら、猪の突撃じみた勢いで寂句が踏み込んだ。
 備えあれば憂いなしという考え方を極め抜き、すべてを事前準備と己の知恵で解決してきた現代の医神。蛇杖堂の、老いたる暴君。
 しかし、いざ迎えた本物の鉄火場において彼が取っている戦術は、あまりにもその知的なイメージとは乖離していた。
 小細工をかなぐり捨てて突き進み、勇猛果敢に悪鬼の撃滅を目指す近接偏重――すなわち、インファイト。
 格を下げてもおかしくはない愚直さだが、これをそう思うならばそれは其奴の見る目がない。寂句風に言うなら、無能の顕れである。

 蛇杖堂寂句は間違えない。彼が生涯犯した唯一の過ちとは、滅ぶべき光を助けてしまったあの夜のことただひとつ。
 たかが暗殺者、いやもはやその道にすらいない狂った放火魔を相手に、彼が二度目の醜態を晒すなんて道理はない。
 こうして一見猪突猛進にも見える突撃を敢行しているのも、単純にそれがこの場を解決する最適解だから、というだけに過ぎなかった。

 そして事実、それを裏付けるように戦況の天秤は彼の方へと傾き始める。

「――ッはは!」

 笑うアギリの姿は、傍から見れば空元気のように映ったに違いない。
 かつて嚇炎の悪鬼と恐れられた暗殺者は今、すっかり追われるだけの逃亡者と化していた。
 寂句の手足が、本来人を救い導くために用いられるべきそれが、一転して対人用の凶器となり振るわれる。
 空手や柔道に始まり、八極拳やカラリパヤットと言った国外の武術まで、多種多様な格闘技の型や動きを繋ぎ合わせた我流拳。
 まるで子どもの空想のような荒唐無稽が、優れた頭脳と九十年の研鑽によって現実の事象と化した"殺人拳"だ。

 アギリもまた、暗殺者としてそれなりに正面戦闘のすべというものを修めている。
 並の武術家では相手にならない程度には魔眼に頼らない殺し方も心得ている彼だったが、それでもこれは完全にお手上げだった。
 練度が違う。鍛錬の質が違う。そして年季の桁が、違いすぎる。
 比喩でなく寂句にとってはアギリなど赤子も同然だろう。彼が今繰り出している手技は、少し前に病院でアンジェリカ・アルロニカを相手に見せたものとはレベルがまったく異なっている。
 あれは所詮昔馴染みの遺児に対し、気まぐれに手ほどきをしてやっただけなのだと。否応なしに理解させる冴えが今の寂句にはあった。

 だがアギリがこうまで徹底的に逃げに徹する理由は、単純な実力差だけではなく……

「まるでパニックホラーだなあおい。お医者様の姿かよそれが!?」
「愚問だな。医者は人を治すものだが、真に優れているなら冒すこともできて然るべきだろう」

 寂句の振るう両腕が、どちらも拳の形を作っていないこと。
 すなわち殴って壊すのでなく、アギリの身体を"掴む"ことに専心していることにあった。

「ヤブ医者が。人に道徳を説けた身分かよ」

 その魔手に掴まれればどうなるのかを、アギリは文字通り身を以って知っている。
 前回。イリスと並んで彼に挑んだ際、自分達は善戦こそしたが、それでも寂句達に敗北していた。
 そこでアギリを沈めたのが、蛇杖堂寂句の駆使する極悪、非道を通り越して外道と呼ぶ他ない"治癒魔術"である。

「そういう貴様は随分と見窄らしいな、〈嚇炎の悪鬼〉。大口を叩きながら必死に逃げ回る姿は、鬼というより鼠に似ているぞ」
「何とでも言いなよ、生憎再発だけは勘弁でね。いやあ、あの時は枇杷の葉に縋りたくなる気持ちが分かったよ」

 〈呪詛の肉腫〉という魔術が存在する。
 体系化されるような由緒ある代物ではない。
 寂句が一代にして確立し、そして恐らく今後誰に継がれることもない、悪意そのものの術式である。

 信じがたく思うかもしれないが、この老人の本領は攻撃ではなく治癒だ。
 家系に積まれた世界各地の術や理論、果てには民間療法に毛が生えた程度のヒーリング信仰。
 蛇杖堂家が蓄え続けた"治し""癒やす"ことの粋を、寂句も例外でなく……それどころか歴代最高のレベルにまで極めている。
 故に到達した。気付いてしまった。癒やすことができるのなら、発想の転換で冒すこともできるのだということに。

 治し、癒やす――そんな優しい魔術を、反転させるのだ。
 治療薬が毒薬になり、包帯が患部を腐らせる毒の羽衣となる。
 寂句が触れ、掴んだ部位に対し、癒やしを応用して猛悪な肉腫を発生させる。
 この腫瘍は良性でこそあるものの、しかしどうしようもなく悪食で、際限がない。
 最終的に罹患者の身体をすべて貪り尽くすまで成長し、患者を死亡させるまで一分と要さない。
 先に脱落したガーンドレッド家の工房から、彼らが蛇杖堂対策に用意していた秘伝の予防薬(ワクチン)をあらかじめ服用していなければ、赤坂亜切は狂気の発現に辿り着くことなくその場で死亡していただろう。

「そういうあんたも、この火の味はよく覚えてるだろ?」

 アギリが地を蹴り、獣のように躍動した。
 迫る外道医者の毒手を掻い潜りつつ、嚇炎を発生させて寂句の右腕を包む。
 その上で、炎を目くらましに使いながら顔面へ爪先を叩き込んだ。
 自らの蹴りの反動をも利用し、バック宙の要領で寂句から距離まで取ってのけるのだから他人をとやかく言えない程度には化け物じみている。

「忘れたんならもう一度教えてやるよ。イリスには悪いけど、やっぱりあんただけは僕が殺したい」

 距離を取れれば、視れる時間が増える。
 それはすなわち、アギリにとって必殺と同じだ。
 相手が蛇杖堂寂句でさえなかったなら、この時点で彼は九割九分勝っている。

 爆発的に燃え盛る嚇き火。
 精密性を失った代わりに、その火力は前回以上。
 見敵必殺にこだわらず雑に焼き殺すなら、今の方がむしろお誂え向きだった。
 暗殺者ではなく殺人狂としての人体放火。燃えるリムジンが気にならなくなるほどの勢いで、アギリの炎が中目黒の路上へ拡がっていく。

「覚えているが、その上で助言しようか。
 私に"覚えられている"時点で、既に用を成さないと気付くべきだ」

 なのに炎の中から、寂句が歩いてくる。
 数多の魔術師を屠ってきた葬儀屋の火を、まるで蜃気楼のように切り裂いて。
 その姿にアギリは鼻を鳴らして肩を竦めた。
 失笑。老人ひとり殺せない自分の体たらくにではなく、あくまでも目の前の老人への。

「はいはいお上手お上手。つくづく相変わらずだよあんた。本当に、笑っちまうほどつまらない男だ」
「負け犬の遠吠えという言葉を、貴様を見出した無能は教えてくれなかったようだな」
「それは僕ら六人仲良くおんなじだろ。あんた自身、よ~く分かってるもんだと思ってるがね」
「そこについては同意しよう。だからこそ、貴様達の有様が理解できんと嗤っているのだがな」

 寂句が風と化す。
 同時にアギリは、意図的に魔眼を暴走させバックドラフト現象にも匹敵する爆炎風を創り出した。
 常人なら一瞬で消し炭。だが〈畏怖〉の狂人たる暴君は、断じてそう呼べる存在ではない。
 防火薬によって底上げした耐火性能に物を言わせつつ、対アギリ用に調達・調合していた薬液を惜しげもなく頭から振りかけてこれを無視。
 臆するどころかより速度のギアを上げ、人体破壊術と化した複合(キメラ)武術でアギリの首筋を狙った。

 それを頭一個分後ろに退いて回避しながら、紙一重の回避に胸を撫で下ろすでもなく、そのままの調子でアギリは言う。

「僕に言わせればあんたの方が理解できないけどなぁ。
 もったいないとか思わないのかい? 人生が百回あったってあんな素晴らしい光に巡り会えることなんかないだろ。
 大人しく気持ちよく狂って酔って、自分ってやつを解放して生きた方が利口だと思うけど?」
「価値観の相違だな。私はまず、あの小娘が崇め奉るほど尊いものだと思わん」
「へえ。なら何だってのさ」
「畏れ、遠ざけるものだ。アレは明確にこの世の道理に背いている」
「か~~ッ、分かってないなあまったく――」

 寂句の答えに、頭を抱える素振りを見せて煽る余裕はない。
 こうしている間も寂句の五指は常にアギリを掴むかどうかの瀬戸際だ。
 飄々と軽口を叩いてはいても、常に悪鬼は暴君への警戒心を最大まで研ぎ澄ましている。
 狂人の顔と冷徹で合理的な殺し屋の顔。相反する筈のふたつを、もはや呼吸のレベルで合一させていた。

「――だから"良い"んだろうがよォ!」

 されども、彼が狂人であることに疑いの余地はない。
 その証拠にほら、これだ。
 軽口を弄する陽気な青年の顔が、刹那にして煮えた殺意に染まった魔人のそれに変わる。
 同時に噴き出す傷んだ嚇色(ブロークンカラー)――理性ではなく本能で行使する魔技。
 寂句の肌がこの戦いが始まってから初めて、嚇く焼け付いた。ただの火傷とは比べ物にならない激痛が、老いて益々壮んなる神経系を駆け巡る。

「彼女は光だ、太陽なんだよお爺ちゃん。
 この世界にふたつとない極星なのさ。
 そしてその微笑みは、彼女のお兄(弟)ちゃんたる僕にこそ相応しい――
 だがそれはそれとして、君ら端役も平伏して仰ぎ見ることくらいは許してやる。この優しさがどうして分からないかねえ?」
「その煩悶に対し私が言えることはひとつだ。ひとりで勝手にやっていろ。
 私も、無能が部屋の四隅で孤独に妄想することくらいは許してやってもいいのでな」

 が、蛇杖堂寂句――不動。
 慌てず騒がず、焼け付いた腕を振るい消火する。
 魂に引きずられ延焼する傷口の治癒という難題を、この老人はこれだけの動作で完了させた。
 その上で相手を掴む、と見せかけての瞬速の前蹴り。アギリの腹を打ち、くの字に折り曲げてゴム毬のように吹き飛ばす。

「光だから、眩いからこそ畏れるのだ。
 太陽を裸眼で覗いてはならないことなど、今日び子どもでも知っているぞ」
「そういう月並みな考えが腰抜けだって言ってんだよ」

 直撃すれば内臓が破裂する威力の蹴りを受け、さしものアギリも口端から一滴の血を垂らした。
 こういう展開を見越して事前に調達し、服の内に仕込んでいた対衝撃装備。
 ダイラタンシー効果を応用した最新テクノロジーの賜物が一撃でお釈迦になった事実を認めながら、再び炎の限りを撒き散らす。

「分かっていたことだが、話にもならんな」
「ああ、まったくだ。ちょっとでも対話しようとした僕が馬鹿だったよ」

 これが。
 これが――狂人同士の、本気の殺し合い。
 楪依里朱と揉めた時のような小競り合いではなく、相手の存在を決して許さぬと誓った上で繰り広げる地獄絵図。

 自分達が人間はおろか、魔術師としても異常な領域に達していることを誇りもせず。
 ただ力のまま、技のまま、悪意殺意のままに相手を殺さんと力を尽くすその姿。
 それはまさしく、狂人の在り様だった。
 強すぎる光に魂まで灼かれた結果、自身のケロイドの形にしか生きられなくなった、話の通じない破綻者ども。
 疵のかたちは各々違えど、しかし本質的には彼らはまさしく同じ穴の狢である。
 アギリも寂句もそのことを自覚した上で、尚恥じることも悔いることもなく地獄めいた争いに興じているのだから救いようがない。

「そういうわけで、身内ノリはこの辺にしとこうか」

 悪鬼の顔に、柔らかな微笑みが浮かんだ。
 同時に寂句はこれまでの厳しい顔を一転させ、初めて焦りの表情を浮かべる。
 敵意を察知した獣より数段以上に速く飛び退いた彼が、コンマ数秒前まで存在していた座標が文字通りに消し飛んだ。
 アスファルトを粉塵に変え、小規模ながらクレーターさえ形成し、人体が残存できる余地などあるわけもない、隕石の着弾を思わす破壊。
 それを成し遂げたのがただ一本の矢であるなどと、聖杯戦争を知らない者ではたとえ魔術師だろうと理解できないに違いない。

「本番と行こうぜドクター。僕達が雌雄を決するなら……ああぁ。うん、ただの喧嘩なんかじゃチープすぎる」

 「ランサー!」と、寂句が短く吠えた。
 飛来する後続の矢を、息を切らした赤甲冑の少女が叩き落とす。
 その視線の先では、純粋に――生物として巨大なひとりの女が、女神が、笑っている。

「聖杯戦争! それこそがあの子と僕達の絆だもんなあ、運命だもんなあ! お互い作法には倣おうや、ジャック先生!!」

 響く高らかな哄笑。
 戦いが進む、ステージが切り替わる。
 アギリにとっての聖典、寂句にとっての悪夢たるはじまりの物語。
 それをなぞるが如くに、悪鬼と暴君の戦いは本来あるべきかたちへ回帰する。
 すなわち聖杯戦争。魔術師と、英霊の、主従同士の殺し合いへ。

「……貴様の妄言(ノリ)に付き合うのは業腹だが」

 佇む女神と、炎の魔人。
 それを睥睨し、寂句は吐き捨てるように言った。

「――臨むところだ」

 彼もまた狂人。
 故に、同族に売られた喧嘩を買わない選択肢はない。



◇◇



 嚇炎の悪鬼と天蠍の暴君が殺し合う傍らで。
 燃え盛る炎を背景にぶつかり合っていた、二騎の英霊。
 いずれも人智を遥かに超え、一騎当千を体現する境界記録帯。
 で、あるにも関わらず。狂人どもの衝突とは違い、こちらの戦況は終始一方的だった。

 どちらが圧倒する側だったのかは、蛇杖堂寂句の英霊――アンタレスの有様を見れば分かる。
 息は切れ、甲冑は土埃で汚れ、身体の所々からは出血さえ窺える。
 それに対して赤坂亜切の英霊、スカディの全身には傷らしい傷がほとんどない。
 表情もアンタレスは苦悶と焦燥、スカディは余裕の微笑とまったく対照的だ。

「……申し訳ありません。見苦しい姿をお見せしました」
「謝罪はいい。報告をしろ」
「はい。状況が状況ですので、端的に申し上げますが――」

 相性。その時々の状況。戦場において力の上下を左右する要素は多々ある。
 が、今回に関して言うならば小難しい説明は一切不要だった。
 アンタレスの苦戦の理由。それを形容するなら、まさしく端的な一言で事足りる。

「――敵戦力、非常に強大。当機構の規格を大きく超えています」

 スカディが、強すぎたからだ。
 強い。ただ強い。理屈ではなく事実として、一個体としてただただ強い。
 放つ矢は生半な宝具の威力を超えている。防御に徹して受け止めるだけで、英霊の腕でも強く痺れる。
 近接戦闘に持ち込んでも、アンタレスが全力で放つ槍の一撃が矢どころかそれを番える弓を軽く合わせるだけで防がれる。
 押し切れない。同じ三騎士であるとはいえ、何故槍兵の得意の間合い(レンジ)で、遠距離戦が本分の弓兵を攻め崩せないのか。
 不条理とも呼ぶべき不明を突破できないまま、アンタレスはこうして、主たる寂句を庇うように立っていた。

「だろうな」

 そんなアンタレスの報告に、寂句はそんな一言で応じる。

「貴様の無能を叱責するのは後だ。ひとまず所見だけ伝える。
 アレは恐らく神話の英傑……ともすれば英霊大に零落した神霊の成れ果てだ。
 スペックの競い合いで貴様が勝てる相手ではない」

 すぐにそう判断できた理由は、スカディに対して前回自分が道を共にしていた弓の英霊の面影を見たからだった。
 そうと分かれば焦りは消える。確かにこのレベルの英霊に対し、自分の天蠍では与し得ないだろうと冷静に結論づけた。

「では、当機構は……」
「狼狽えるな。最初から貴様に獅子奮迅の働きなど期待していない」

 惑うように紡がれた言葉を、寂句はぴしゃりと切って捨てる。

「私が最低限の指揮を執る。貴様は、それに従って槍を揮え」
「……! ですが……」
「対案があるのか? 主君が戦う傍ら、その奮戦に貢献することもできなかった無能な貴様に」

 そう言われればアンタレスは閉口するしかない。
 真っ当な英霊ならばあまりの物言いに怒り散らすだろう。
 ともすればその場で、不遜なマスターの首を刎ねても不思議ではない。
 しかし彼女は、真っ当な英霊などではないのだ。
 あらゆる魔術師の絶望であり、人類の可能性を守ると同時に鎖し続けるモノ。
 あるいは――ひとりの少女に超えられた、哀れな大いなる法則(ルール)。
 それがこの地に遣わした、負け惜しみのような大義の尖兵。

「分かったなら、此処からは私に委ねろ」

 だからこそこうして、傲慢、不遜、傍若無人の権化たる暴君との主従関係が成り立っている。
 絆などとは到底呼べない十割十分のビジネスライク。
 そこには誇りも思いやりもないからこそ、彼らは合理のままに戦える。

「……了解、致しました。では当機構、これより改めてマスター・ジャックの指揮下に入ります」
「宜しい。合格点はやれないが、及第点としておく」

 寂句はアンタレスを見ない。
 アンタレスももう、寂句を見ない。
 見据えるのは敵――悪鬼と女神、それだけ。

「へえ」

 感心したように、雪靴の女神が息を漏らした。
 その身体には、傷らしい傷がひとつもない。
 それほどまでに圧倒的。英霊として、遥かの格上。
 女神スカディは高みから、抗う小虫とその飼い主を見下ろしている。

「構えな、アギリ。どうやら面白くなりそうだ」
「分かってるさ。君の方こそ、断じてあのジジイ相手に油断はするなよ」

 であるならば、見下ろす側も同じだった。
 敵だけを見、その一挙一動に注目している。
 此処で殺すと決めているからこその油断のなさ。
 必ず殺すと誓っているからこその、執念じみた合理。

「アレは時代が時代なら神界(アースガルド)にも入れた男だ。全身全霊、君のすべてを懸けてブチ殺すように」

 酷薄、無体。
 それ故に最大級の賛辞を贈って。
 此処に、狂気と神秘の殺し合いは真にその幕を開けた。


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最終更新:2024年12月28日 00:43