先に動いたのは、やはりと言うべきかスカディであった。
 イチイの弓に矢を番え、瞬きの内に発射する。
 目視では一にしか見えない動作だが、放たれた矢の数は十を優に超えていた。
 しかもそのひとつひとつが音を超え、一撃で人体を爆散させる威力を秘めている。
 命を狩り、奪うということにかけて随一を誇る女神の矢に、天の蠍は敢えて動かぬ。
 見えぬのでもなく、臆したのでもなく――己が主にして指揮官たる暴君の采配を待つためにそうしていた。

「左から数えて三番、五番、八番の矢のみ落とせ。後は貴様なら捌ける筈だ」
「了解。そのように迎撃します」

 英霊の矢はそれ単体で近代兵器の性能を大きく超える。
 ましてや狩猟の女神、スカディの矢であるなら尚更だ。
 対戦車砲を持ち出さなければ比較にもならない威力と速度。
 そんな代物が、その名に恥じぬ最高峰の狩猟勘(センス)のままに振るわれるのだ。

 にもかかわらず、天蠍の槍兵をして手を焼くそれを、たかだか九十年ぽっちしか生きていない人間の若造が苦もなく見切る。
 彼単体では流石に対処することまではできないが、代役さえ立つならこの程度は寂句にとって敵でなかった。
 矢雨を打ち落とし、疾走するアンタレス。スカディがぴゅうと口笛を鳴らす。

「良いね。流石アンタの見越した男じゃないか、アギリ」
「サブイボの立つようなことを言うのは止してくれ」
「端から逃げ腰の神なんぞと撃ち合うよりもよっぽど滾るよ。
 ああ、やっぱり撃つならウサギよりも熊や魔猪がいい。
 その方が――こっちも技を凝らす甲斐があるってもんだからね」

 初弾もとい初弾幕を突破したアンタレスの槍に、スカディは抱えたスキー板を振るって応戦した。
 スキー板で戦うなどと言えば滑稽に聞こえるが、神代の雪原を駆ける乗騎と現代の娯楽用品を一緒にしてはならない。
 証拠に、彼女が振るったスキー板は槍撃を受け止め、それどころか力任せにアンタレスの矮躯を吹き飛ばす成果をあげた。
 吹き飛んでいくアンタレスへ矢を番え、放つ。しかしスカディが狙うのは、何も彼女だけではなく。

「二兎を追う者は一兎をも得ず、だっけ?
 よくもまあ、自分の技の足りなさを教訓みたいにべらべら語れるもんだよ」

 そのマスター、蛇杖堂寂句もまた然り。
 一張の矢でまったく別の方角にいる獲物を狙うなど、普通に考えれば技量云々の前に物理的に不可能であろう。
 だがそんな常識は、この女神には適用されない。
 何故なら彼女は神代の狩人。目的の前に道理が立ち塞がるならば、無理で以って押し通るだけのこと。

「――アタシなら、迷わず二兎を射殺すけどね」

 アンタレスに向けて放った二本の矢。
 内の一本が、巻き上げられて滞空している瓦礫の石材に当たった。
 瞬間、矢がまるで鏡面に反射でもされたようにあらぬ方向へと跳ね返っていく。
 人体を消し飛ばせるほどの威力が込められた神速の矢が何故、たかが石塊にぶつかった程度でこうも綺麗に反射するのか。
 理屈はまったく不明だったが、語ったところでスカディ以外には誰にも理解できないだろう。
 あるいは前回の聖杯戦争で猛威を奮ったという、寂句のアーチャーだったなら解説も出来たのかもしれないが――
 生憎と今、暴君の隣にその姿はなく。彼は迫る女神の矢を、その身ひとつで対処せねばならない窮地に置かれていた。

 更に、その上で。

「さ、お手並み拝見だ。思えばあんたが劣勢に立たされる状況ってのを僕は知らないもんでね」

 寂句を狙う者はひとりではない。
 嚇き邪視を持つ葬儀屋が、朗らかな微笑みと共に地獄を顕現させる。

「後学のために教えてくれよ、ドクター。長生きの秘訣ってやつをさァ!」

 逃げ場を塞ぐのは炎の檻、蛇を囚える籠。
 迫るのは女神の矢、蛇を射殺す殺意。
 これほどの状況に置かれては、最低でも白黒の魔女ほどの無体を通せるマスターでなければ生き延びられまい。

「……っ、マスター!」

 どうにか命を繋いだアンタレスが、救援に走ろうとする。
 彼女の目からも明らかな必殺が完成しかけていた。
 己の未熟を自嘲する暇は到底ない。
 明らかに勝負の決まりかけているこの瞬間に、では当の寂句はと言うと。

『アーチャーと交戦を続けろ。さっきのように距離を取らせるな。
 手足が砕けようと近接の間合いを維持しろ。もし離されたなら、迎撃以上に詰めることを優先し行動するように』
『……ですが』
『貴様、槍兵の癖に得物の間合いも解らんのか? 無能ならば無能なりに、粉骨砕身で喰らいつけと言っているのだ』

 話が噛み合っていない。
 寂句の身を案ずるアンタレスへ、彼はスカディという格上との戦い方を指南している。
 それはまるで、自分が今置かれている窮地に対してはさしたる関心もないかのようで。そして事実――

「逆に問うが葬儀屋。貴様ら無能の視点では、たかだかこの程度で窮地と看做されるのか?」

 蛇杖堂寂句は、眉ひとつ動かすことなく行動した。
 懐から取り出したのは、液体の入った飴色の瓶。
 瓶の口ごと首をもぎ取り、中の液体を頭から被る。
 中国はシェンノンファームから仕入れたアロエを煮詰め、濃縮して作り出したより対火傷用の薬だ。

「だとすれば哀れなことだ。また私は、無能達への評価を改めなければならないらしい」

 出処が出処なだけはあり、このアロエで作った薬は他の比でないほどによく効く。
 だがその中でも、寂句は調合した薬を二種類に分けていた。
 ひとつはオーソドックスな治療薬。言うなれば対症療法であり、既に負った傷に対し処方し和らげる代物。
 そしてもうひとつ……今寂句が被った方のは、チープな言い方をすれば"予防薬"だった。

 火傷を治す。ただし負ってから治すのではなく、"負う前に"治すのだ。
 火という概念に山を張り、それ以外の何に対しても薬効を発揮しない縛りを科す代わりに、火に対してのみは絶大な効力を発揮させる。
 芸術家の世界で引き算の美学と形容されるこの発想を、寂句は呪詛と占術、特に験担ぎと呼ばれる分野から引っ張り出して実用化していた。
 萬に通じる博学と、あらゆる伝統に節操なく手を出して吸収し、あまつさえ組み合わせる節操のない合理的貪欲。
 これらを併せ持つ蛇杖堂の魔術師だからこそ創り出せる、実現できる、医学の前提を打ち壊すようなまさに魔法めいた薬。
 焼死という死因に対するワクチン。それすなわち嚇炎の悪鬼、赤坂亜切に対する最強の対策札(メタカード)である。

 しかし此度、寂句を襲う死のかたちは嚇き炎のみに非ず。
 迫る巨神の矢、これをどうにかしなければ焼死を免れたところでどうにもならない。
 故に寂句は、炎の檻を無力化したところでやっと魔術師らしい行動に出た。

「――Sklerose(硬化せよ),Dyskinesie(これ而して烈しく動け)

 二段階の肉体強化。
 一度目で強化、二度目で自動書記を応用した意図的不随意運動を引き起こす。
 人体の耐久性を度外視した無茶苦茶な運用だが、それに合わせて予め筋肉内に埋め込んだ霊薬アンプルが破裂する。
 痛覚遮断、過度の柔軟性と内部衝撃耐性の付与、止血、細胞崩壊の抑制、etc――
 生じ得る反動のすべてを前置きの対策でねじ伏せながら、蛇杖堂寂句は瞬間的に超人の右腕を手に入れた。

 満を持して突き出した右手。
 その人差し指と中指の間に、イチイの矢が飛来する。
 これを寂句は、人体ではあり得ない強度と、不随意だからこその驚異的な反応速度で、"止めた"。
 そう、止めたのだ。英霊相手、神霊相手の無刀取り。結果として寂句は一滴の血も流すことなく、スカディの矢を防ぐことに成功する。

「へえ……」

 スカディの顔に、驚きと喜びが入り混じったような笑みが浮かんだ。
 単に拳で打ち落としたというなら、笑みには嗜虐が混ざり込んだだろう。
 触れつつ、しかし穂先には触れることなく止めたというのが肝要なのだ。

「驚くようなことか、婆。
 イチイの矢なぞ、自分は毒矢を使うぞと宣言しているようなものだろうがよ」

 そう、スカディは最初から寂句を試していた。
 アギリが蛇蝎の如くに忌み嫌い、しかし同時に最大級の警戒/評価を以って語る"暴君"。
 その知恵が、実力が、そして何より戦士としての才能が本物かどうかを試したのだ。
 だからこそ、彼に向かわせる矢には事前に毒を仕込んであった。
 ただ、それはイチイの毒などとは比べ物にならぬ――蛇の毒。ヒトはおろか出自が出自なら神さえ悶絶させる、大蛇の毒を。

「もっとも貴様の場合、特に念を入れての警戒が必要だと踏んだのは否定せん。
 悪童の神にさえ狼藉を働く命知らずの女狐(オンドゥル・ディース)だ。諧謔ひとつにも気を払って会釈せねばな」

 では、寂句は思い違いをしていたが、これが偶然に噛み合って致死の蛇毒を回避するに至ったのか。
 無論、否である。スカディの失策は、彼の前でスキー板などというこれ見よがしな代物を出してしまったこと。

 狩りの何たるかを語る巨女。
 冬の象徴を駆る、桁違いの霊基の持ち主。
 これだけ情報があれば、蛇杖堂寂句がその正体へ辿り着くのは必然だった。

「……隠していたつもりもないが、いやあやるもんだ。
 認めてやるよアギリ、アンタの見る目は確かなようだ!
 なかなかに食えない小僧じゃないか、良いよ俄然興が乗ってきた!!」

 屈辱ではなく歓喜で以って、スカディは放つ神気を数段昂ぶらせる。
 大気をビリビリと震わせるほどの威圧、種として圧倒的に隔絶した存在感。
 これぞ神、これぞ神霊。狩猟の神の、冬を象徴するモノの、殺意の威容が顕現する。

「成程、こりゃ夜に備えるウォームアップに丁度いい!
 景気付けに戴いていこうか、この蛇どもを――!」
「それは構わんが」

 しかしそれに対しても、寂句の反応は変わらない。
 彼は何も動じず、慄くこともせず、スカディの方などもう一瞬たりとも見ない。
 その視線は常に宿敵たる、炎の悪鬼の方へ。
 目線を動かさないまま、寂句は言うのだ。不遜にも神を嘲った人間は、ほざくのだ。


「祓葉でもないのだ、生憎私は神殺しの偉業などには興味がない。影は影同士で殺し合っていろ」


 言葉が紡がれた瞬間、赤き蠍の尾(やり)が女神の高揚に水を差した。

 一撃自体はスキー板でまたも受け止められるが、次は吹き飛ばされない。
 アンタレスは無感動な顔に似合わず歯を食い縛り、全力を込めて女神の剛力を耐え凌いだ。
 代償として鼻血が小さく口元を伝うが、気に留める余裕はもちろん皆無である。

「ハ――お前の相手は私だ、ってか? 妬かせちまったなら悪かったね、だが大丈夫! ちゃあんとアンタのことも見てるさランサー!」
「づ、あッ……!」

 槍兵相手に至近距離で矢を番えるという掟破りの行動さえ、スカディがすれば悠長にはならない。
 瞬速。瞬きの内に装填を完了し、鬼神の如き笑みと共に放つ。
 幸いにして間合いが間合いだ、凌ぐことは容易ではないが、一発一発がミサイル弾に匹敵する威力の矢を数本も同時に受けたのだから涼しい顔はできない。

「ようやくらしくなってきた! 聖杯"戦争"なんて抜かすからには、このくらい派手で物騒じゃないとねぇ!」

 スキー板を地に置き、そこへ足を置いて力を込める。
 次の瞬間スカディがやった挙動は、やはりと言うべきか道理を超越していた。

 ジャンプ台も無しに、スキーというよりはスノーボードであろう躍動を見せ、上空まで一息に舞い上がったのだ。
 わずか一瞬にして天へと昇る、狩猟の女神。狂気の哄笑を浮かべる顔はおぞましく、しかし凍るほど美しい。
 そのまま空の高みにて、無論アンタレスの槍が届く筈もない位置にて、スカディは悠々と弓を引き絞る。
 番えた弓の数、十と一。だがこれはあくまで一射の量。
 放たれた矢が獲物を屠らず空振ったなら即座に次を、当たるまで次を用立て続ければいいと。
 英霊を狩り、魔術師を狩るため、狩猟の女神が躍動する。

「だけどさっきも言ったろ? アタシは欲張りなのさ――好きにやるから、手前らも精々好きに応えて魅せなァ!!」

 刹那、天上の殺意が地に落ちる。
 悪意で振るう殺意に非ず。瞋恚にて翳す殺意に非ず。
 これは狩人の殺意――ひとつひとつの命へ向き合い、その上で奪うぞと宣言する誠実にして最も傲慢なる凶の念。

 それが落ちた戦場は、当たり前に地獄絵図と化した。
 一発一発が大地を消し飛ばす威力の矢が、スカディの一存で無数に振るのだ。
 もはや空爆と呼んで差し支えない死の驟雨が、目黒区の街並みを蹂躙する。
 寂句はもちろん、アンタレスでも直撃すれば致命傷は避けられない。
 マスターもサーヴァントも問わず放たれる神の矢が降り注ぐ中、天の蠍は岐路に立たされていた。

(こんな、ものが……)

 選択肢はふたつ。
 主を助けるか、それとも無視するか。
 自分の頭上に降ってきた一発を受け止めただけで、槍を握る両腕が激しく痺れた。
 これがもしも、主たる寂句に命中などしてしまったならば。さしもの暴君も、間違いなく耐え凌ぐことは不可能だろう。

 ならばどうする。
 ――助けるのか。無視……いや。

 信じるのか。

(当機構は……、…………)

 煩悶に耽りかけたその瞬間、しかしアンタレスはそれを意識的に中断する。
 何故なら、この問いに対する答えは既に得ていたからだ。


 ――アーチャーと交戦を続けろ。
 ――先のように距離を取らせるな。
 ――手足が砕けようと近接の間合いを維持しろ。
 ――無能ならば無能なりに、粉骨砕身で喰らいつけ。


「…………了解、しました」

 葛藤はある。だが、アンタレスはこれをこそ無視した。
 自覚している、己は無能だと。
 無知蒙昧。経験も才能も乏しい大いなるものの操り人形。
 であれば、そんな無能が一丁前に考えて時間を使うことに何の意味があろうか。

「マスター・ジャック――!」

 よって切り捨てる、自ら思考し主に背くという浅知恵を切り捨てる!
 寂句の方へ飛ぶ矢を見ず、己に迫る矢雨だけを見て回避に移る。
 スカディは選択した彼女の姿を見て、また歯を覗かせた。
 笑みの意味は分からない。嘲笑か、評価か。分からない。だが、分からずともいい。

 迫る矢を切り払い、時に踏み台にさえしながら蠍は天へ昇る。
 その様は彼女の真名を思えば皮肉でしかない光景だったが。
 それでも神へ迫る赤き蠍という絵面は、まさしく神話の断片めいた光景だった。

「選んだね、お嬢ちゃん。もう引き返せないよ」
「当機構は……お嬢ちゃんなどでは、ありません――!」
「ふっ、くくくははははッ! どいつもこいつも見栄張っちまって、可愛らしいことじゃないさ!」

 英霊の身体能力を以ってすれば、滞空を維持して殺し合うことも難題ではない。
 スカディが当たり前にそれを可能としているように、アンタレスにも同じことが可能であった。
 が、だとしても両者の実力差、性能差は残酷なまでに明らか。
 弓を握り、スキー板に足を置いたままであるというのに、スカディはアンタレスの猛撃を悉く捌き子どもをあやすようにいなしていく。

 女神の微笑みが崩せない。
 放つ槍、刺突。一秒の中で十ほども繰り出す手が、一手たりとも通らない。
 弓を動かし、穂先に当て、怪力そのものの膂力に任せて押し返す。
 たったそれだけ。必死さの欠片もない余裕綽々の動作だけで、アンタレスの猛攻すべてが封殺される。

「得物は良い。素体も良い。だが、どうも真に迫る腕ってヤツが足りてないね。
 ほうら、ほうら、あんよが上手、あんよが上手。
 一万回でもやればアタシの髪の一本くらいは切り飛ばせるかもしれないねえ?」
「ッ……!」

 嘲るように放たれた言葉を否定することもできないのは、それほどまでに力の差が明確だからだ。
 強い。強すぎる。アンタレスは既に〈蝗害〉を知っているが、あの時は寄せ来る分散された殺意に対し余裕を持って臨めていた。
 〈蝗害〉とは物量の究極。対してこの女神は、個で実現するひとつの究極に他ならない。
 だからこそ実力差が浮き出る。格の差というものが、これでもかとばかりに示されるのだ。

 それでも、アンタレスは食い下がる。いや、食い付かんとする。
 歯を剥いて槍を握り、防がれると分かって尚、その盤石をどうにか突き崩そうと奮闘する。
 その有様は勇猛だったが、しかし結果が分かりきっているという点ではある種いじらしくもあり。
 敵わないと分かって挑む姿はさながら、天の星を掴もうと必死に手を伸ばす幼子のよう。
 スカディはそんな彼女の姿に、数時間前に問答を交わした幼い神の姿を重ねた。
 似ている。在り方も成そうとすることも違うことを承知の上で、だとしてもこのいじらしい姿はどこか重なるものがあった。

「――にしても。アンタ、何か妙だね」

 重ね合わせた上で、スカディは不意に笑みを消して言った。

「一合交わした時点で真っ当な英霊じゃないことは分かったが、その割にはやけに挙動がそれっぽい。
 じゃあ私と同じく神の血に連なる者かと思えば、どうやらそういうわけでもないらしい。
 まるで餓鬼の描いた絵を見てるようだよ。強い癖に弱い、弱い癖に強い。気味悪いくらい道理が通ってない」

 そう、個の性能ではアンタレスは明確にスカディの後塵を拝している。
 そして狩人が最もその真価を発揮できる戦闘は、格下の獲物を追い立てる時だ。
 雪原を駆けていく獣を追い、矢を番え、磨いた技と生まれ持った才覚で撃ち抜く。
 追い詰められた獲物が牙を剥いてきたとしても、一流なら決して焦らず、また仕損じない。
 涙ぐましい抵抗を一笑に付し、さりとて何も揺れることなく、いつもの通りに命を射るのだ。

 なのに今、アンタレスは曲がりなりにもスカディを相手に抗戦を成立させていた。
 簡単に潰れず、繰り出す弓矢を超え、血反吐を吐きながら食い下がっている。
 長く保つ筈もない"神との戦い"を、成り立つ筈のない根性論を、死物狂いで長引かせている。

「だったら、何だというのです……ッ」
「ふぅむ。じゃあちょっとばかし、強めにイってみようか」
「――!」

 赤槍の穂先が、指の二本で掴み取られていた。
 それは先ほど寂句がやったのとまったく同じ。
 無刀取り。当たり前のように行われた御業に瞠目するアンタレスの頭蓋を、振り上げられた女神の踵が打ち据えた。

「ご、が……!」

 頭蓋骨まで砕かれなかったのは、彼女に三騎士クラスに相応しいだけのステータスがあったから。
 並の英霊なら即死しているだろう一撃を受け、脳震盪を引き起こしながら天の高みから墜落させられるアンタレス。
 その矮躯を見下ろしながら、凍原の女神が五本の矢を一度に番える。

「さぁさ死ぬか生きるか。見せ所だよ、ランサー!」
「か、ぁ……ぅ、ぐ……!」

 降り注ぐ矢、いずれも致死級。
 受けていい矢など一本もない。
 甲冑の防御なぞ当てにもなるまい。
 凍えるような絶望の中で、アンタレスは必死だった。

「舐めるな、と……当機構は、言います……!」

 瞬時に再起動を果たし、最初の一本を叩き落とす。
 それだけで腕が地獄のような激痛を訴えてくるのは、一体何の冗談だろうか。
 気が遠くなるが、だとしても主命は既に下されている。
 後は黙して従うのみ。此処で活きたのが、アンタレスの身体に生えた余分な"足"だ。

 人型の身体には不似合いな、三本六対の赤い足。
 此処まで活かす局面に恵まれなかったその身体的特徴が、遂に日の目を見る。
 矢を躱しつつ、巻き上げられた瓦礫を足場代わりに、足の多さに物を言わせて蹴落とされた高みまで駆け上がっていくのだ。
 避け切れない矢は、このクリーチャー映画じみた挙動の片手間に打ち落とす。
 言わずもがな楽な仕事ではなかったが、こと"使命を果たす"ことにかけて、アンタレスほどストイックな英霊はそう居ない。

「はああああああッ――!」
「なるほどねえ。やっぱり蠍か、お嬢ちゃん」

 己の放った矢を掻い潜りながら、物理的手段で高みまで昇ってくる多脚の少女。
 そんな光景にもスカディは驚くでもなく、むしろ興味深げにしていた。
 ちなみにこの女神はスキー板に騎乗しながら、風の流れを足場にすることで滞空を維持している。
 現代のスキーヤーが見れば腰を抜かすような超人技だが、彼女に言わせれば単なる余技のひとつに過ぎない。

「読めたよ。なかなか良い血統に恵まれてるじゃないか、原初の海(ティアマト)サマの眷属たぁね」

 英霊の座に昇る可能性を秘めた蠍に縁あるものなど限られる。
 時に英霊の中には自身を死に至らしめた要因を武器に転換させる者がいるが、この少女はそういう質にはどうも見えない。
 赤い甲冑、赤い槍、そして多脚。死因を得物に変えて開き直っているというよりかは、そもそも"蠍"という存在に限りなく近い、そういう縁を持った存在であろうと推理できた。

 であれば候補はひとつ、容易に浮かび上がる。
 バビロニアの蠍人間、原初の海たる地母神が産み落とした十一の魔獣が一。
 〈ギルタブリル〉という名を、スカディは想起していた。

 蠍の槍が唸り、足の一本が女神のスキー板を掴む。
 空の高みに足場を得たこと以上に、その気になれば街のすべてを岩肌に見立てて滑行できるだろうスカディの移動手段を封じたのが大きい。
 もう矢は番えさせないと、確かな意図を持って赤き蠍の槍撃が迸る。
 手数に頼ることこそがこの場では肝要と判断しての、まさに滅多刺しと言うべき乱舞。
 スカディは一秒を遥かに下回る一瞬の隙さえあれば矢を放てる使い手だが、それでも此処までの手数を出されては矢に手は掛けられない。
 結果、彼女はイチイの弓を武器代わりに振るって蠍の乱舞に対抗せねばならなくなる。
 弓兵が、矢も握れず弓だけを用いて何とか継戦している状況。それは誰の目にも明らかな苦境だったが、しかし。


「――――やっぱり違ぇな」


 ならば何故攻め切れないのだと、その苦し紛れのような防衛線を崩せないのだと"アンタレス"は焦る。
 一度や二度ならまぐれで済む。十や二十でも、歴戦の英霊ならば可能かもしれない。
 だが百を超えても一向に崩せないとなると、もはやそれは理屈が通らないと表現するべき異常事態だ。
 そんな中でスカディが放った言葉。そして魂まで射貫くような鋭い眼光に、アンタレスは背筋が粟立つ感覚を覚えた。

「魔獣にしちゃやっぱりアンタの戦い方は素直すぎる。足の使い方は確かに"それらしい"が、戦士として見るなら実にお利口さんだ。
 どうにも噛み合わないねえ。英霊の座の知識とやらに照らし合わせても、うん。何だか違う気がするよ」

 蠍とは、自然界では狩人だ。
 小虫を狩る。ネズミや両生類でさえ時に彼らの獲物に堕ち、その毒さえ効くなら自分の何十、何百倍の体躯を持つ生き物でさえ殺し得る。
 それでも、生態系全体を見通した上で判断を下すなら、その生物としてのランクは"下等生物"で疑いの余地はない。

 何故なら、上には上がいるから。
 野生の感覚、強力なる毒。
 そんな武器では覆し得ない、圧倒的な格上がこの星には存在するから。

「英霊の座に上り詰め得る、そのくらいの格を持った"赤い蠍"。
 で、更に神(アタシ)と打ち合えるような力を寄越してくれる誰かさんと縁ある変わり種のサーヴァント。
 此処まで情報が出揃えば、いろいろ見えてきそうなもんだねェ――?」

 アンタレスは今、それを実感させられていた。
 真の狩人とは、真に星を統べる上位種とは、この女神だ。
 格が違う。次元が違う。積み重ねてきた技と知識の蓄積が違う。

 代わり映えのしない打ち合いに飽いたように、スカディが弓をまるで棍棒のように振るった。
 それだけで均衡が崩れる。予期せぬ反撃への対応に意識を割くその一瞬。
 隙というには微々たるものだが、それでも、狩猟の女神が矢を番えるにはあまりに十分。
 アンタレスへ死を運ぶ、女神の矢が装填(セット)される。
 笑う巨女の瞳に宿る輝きは、この世のどんな死毒よりおぞましい破滅を孕んでいた。

「そうさ、アンタは――」

 圧倒的。
 絶対的。
 これぞ神。
 これぞ、星を統べる理。
 神代が終わり、神秘が薄れ、その結果世界の裏側に隠れてしまったとしても。
 ひとたびこれが表層へ顔を出したなら、それだけですべては為す術なく圧されるしかない。

 冬とは滅びを運ぶモノ。
 狩りとは命を刈り取るモノ。
 それ二つを統べるというならば、これまさしく命の終わりを司るモノに他ならぬ。

 斯くして天の蠍に死が落ちる。
 運命の靴底が、その矮小な身体を踏み潰す。
 一切を踏み躙り消し飛ばす矢は、既に番えられ。
 今度こそ何を尽くしても逃れられない終わりが訪れるその間際――

「…………、…………?」

 スカディの顔に浮かんだ、微かな、されど彼女が初めて見せる"動揺"。
 その刹那を、ギルタブリルならぬ天蠍アンタレスは見逃さない。

「――傲ったな、アーチャー」

 そう。
 彼女はずっと最初から、この瞬間だけを待っていたのだ。



◇◇



 炎の檻を破り、女神の矢を凌いだ蛇杖堂寂句。
 その次なる行動は、文字通り第一歩から赤坂亜切を瞠目させた。

 彼は、走ったのだ。
 自分が見るべき敵、不倶戴天たる炎の狂人に向けて。
 それ自体はいい。問題は速度だ。
 寂句が発揮しているスピードは優に一般道路の法定速度を超え、高速道路のそれに匹敵している。
 矢が降り注いで戦場が混沌模様を呈するなら、一番の安全地帯が敵の傍であるのは自明。

 何処かの地方都市で行われた五度目の聖杯戦争。
 その監督役を努めたある神父ならば、これだけの芸当も可能かもしれない。
 寂句も如何に超人と言えど求道の果てたるかの者には及ばない。
 彼の場合はただ、薬物による一時的な強化(ドーピング)にて、そんな超人芸に追い付いているだけの話である。

「ははッ――マジか」

 走ってくる同速度の車を避けることは難しくないだろう。
 だが、相手が車よりも小回りの利く二本の足を有していて、更に自分だけを狙い追いかけてくるのなら話は違う。
 赤坂亜切、事此処に至ってようやく一筋の冷や汗を流す。
 魔人・蛇杖堂寂句の正真正銘の本気というものを、彼は前回でさえ見たことがなかったのだ。
 何故なら前回、彼はアギリとイリス、そして不完全な祓葉を相手に、それを抜く必要さえなかったのだから。

「ちょっとだけ見直したよジャック! そうだな、そうでなくちゃなあ! よぅし、心まで燃やして殺し合おうか!」

 されども彼が狂人なら、之も狂人。
 怯え逃げ惑うでなく、迎え撃つ択を取る。
 同時に更に暴走を深める魔眼、歓喜ではなく殺意にて地獄の釜は蓋を開ける。

「先程も言ったが、貴様の戯言に付き合うつもりはない。
 その上で殺そう。完膚なきまでに踏み潰そう。
 これ以上醜態を晒す前に殺してやる、暴君(わたし)の情けを噛み締め眠るがいい」
「上等――悪鬼(おれ)のお姉(妹)ちゃんへの愛を浴びて死ねよ老害ッ!」

 溢れ出した、嚇き炎。
 その中を寂句は足も止めず走り、アギリを間合いへ含める。
 放つ脚撃は一撃で頭蓋を粉砕して余りある威力を秘める。
 が、アギリも使い手だ。軽々と躱し、炎の渦で老体を覆う。
 アロエによる火傷予防がなければ寂句でさえ優に致命傷だろう炎熱が、内側から切り裂かれる。
 飛び出した寂句の前蹴りを、アギリは身体をくの字に曲げて後ろに飛び退きながら回避。

「時に、イリスには会えたのかい?」
「会ったなら殺している。あのじゃじゃ馬に蝗の王をあてがうとは、此度の聖杯はいささか贔屓が過ぎるようだな」
「はは、なら気を付けなよ。今のアイツは前回と別物だ。まともにかち合えばあんたでもそうだな、七割は負けると思うぜ」
「敵に塩を送るとは殊勝な心がけだな、命乞いのつもりか? 貴様はあの馬鹿娘と既に繋がっているものだと踏んでいたがな」

 続き放たれたのは手刀だった。
 達人を超えた身体能力で振るわれれば、文字通りの手製の刃でさえ処刑用の鎌になる。
 アギリの頬に一筋の傷が走ったが、あと一歩分でも距離を見誤ったなら、今頃彼の頭部は半ば以上まで切り開かれていたことだろう。
 この間合いで嚇炎の悪鬼と殺し合っているのだ。仕損じればその都度、死に通ずるリスクが寂句を襲う。

「確かに最後に残るならあの子がいいと思ってるけど、別に仲良しこよしってわけじゃあないよ。
 ていうか僕らには無理だろ、呉越同舟とか。それが出来ないからこんなことになってるんだし」
「貴様に同意するのはやはり癪だが、違いないな」

 寂句の薬は強力だが、それでも万能ではない。
 というより、彼も彼でひとつの想定外にずっと付きまとわれているのだ。

 それは――赤坂亜切の"火力"。
 今、アギリの魔眼は暴走状態にある。制御を失い、精密性を著しく欠いている。
 では単純に弱体化しているのかと言うと、これがまたそういうわけでもない。

 嚇炎の魔眼は崩壊し、既に火種は彼の肉体そのものと化している。
 単純な話、前回の彼と今回の彼とでは熱を放出できる面積量が違う。
 よって引き起こされるのは必然、無視できない領域での火力の上昇だった。
 もはや暗殺用と言うには過度。しかし、細かいことを考えず殺戮するならこれ以上ないだけの火勢。
 これが対アギリの備えを敷いていた寂句にとって、厄介な想定外として働いている。

 アギリの崩壊は想定していた。
 が、実情はそれ以上だった。
 端的に言って、これでは対策として足りていない。
 本来彼との戦闘に際して想定していた時間を、大幅に前倒して攻めねばならなくなっている。

「イリスの居所は掴めずじまいだが、ホムンクルスならば確認した」
「へえ? 何だ、やっぱりガーンドレッドの連中も出張ってるのか。いや、奴さんらはもう魔術師ってかテロリストだったけどな。アレ」
「それだがな。あの無能、せっかくの保護者を自分の手で切り捨てたらしい」
「えぇ……。何やってんだよあの根暗。自殺願望の狂気でも芽生えたのか?」

 その証拠に、こうしている今も時間経過につれて皮膚に伝わる熱感が強まっているのを感じていた。
 コートも所々が焼け焦げ始め、視界を保つにもそれなりの忍耐が求められ始めている。
 恐らく、そう長くは保たない。兎にも角にも、早急に勝負を決める必要がある。

「さてな。被造物の考えは分からん」
「白々しいなあクソジジイ。あんたのことだ、もう察しは付いてんだろ?」
「分からぬし、分かっていたとしても、貴様に語って聞かせる話ではないな」

 時に。
 こうして旧知の仲"らしく"言葉を交わしている彼らだが、それは決して友好の証などではない。
 無論、表面上は嫌い合っていても心のどこかでは……などという都合のいい話もない。皆無だ。
 これは合理に基づいた情報交換。狂える彼らは命を懸けて殺し合うこの最中にすら、自身が生き延びた後のことを考えている。
 その証拠に、アギリも寂句も肝となる、なり得る情報は一切口にしていない。
 寂句がホムンクルス36号の心理に対する私見や、彼が連れている厄介極まりないサーヴァントの話を伏せているのも良い論拠だ。
 どこまで行っても彼らは狂人。己が勝つと疑わず、奉じた星以外に傾くこともない、生粋の人でなしなのだ。

 いや、もっとも。
 彼らふたりのそれは、他の四人と比べても特段尖っていたと言うべきかもしれないが。

「――〈恒星の資格者〉について、貴様はどう考えている?」

 殺そうとし、それを躱されの応酬。
 これぞまさしく、"殺し合い"だ。
 あるいは交わす会話すら、敵の動揺を引き出すための口頭武芸とさえ呼べるかもしれない。
 ただ――今、蛇杖堂寂句が口にした単語に関してだけは、互いにとって少なからず例外だった。

「何だいそりゃ。僕にしていい話なの?」
神寂祓葉に届き得る人材の存在。貴様も考えたことがないわけではない筈だ」

 〈はじまりの六人〉であるならば、極星の周囲を廻る狂気の衛星達であるならば。
 この話に関してだけは、絶対に無視することはできない。

「奴は未知を愛している」
「……、……」
「たとえそれが自分を滅ぼすかもしれない窮地だろうと、あの小娘が喜んで受け入れるのは知っているな?
 そしてこの都市は奴が望んだ遊戯場で、箱庭だ。造ったのはオルフィレウスだとしても、人材を集めようと提案したのは奴だろう」

 神寂祓葉はこの世界の神であり、都市の物語が劇的であることを誰より望んでいる無垢な子どもである。
 黒幕と呼ぶにはあまりに幼稚、身勝手。責任なんて持たないし意味を知っているかも疑わしい。
 普通ならば、自分達の野望を頓挫させかねない可能性の萌芽などというのは全力で避けに回るべき陥穽であろうが――
 こと祓葉に限って言えば、恐らくそうではない。彼女は諸手を挙げてそれを歓迎する筈だ。そういう奴なのだ、あの女は。だからみんな困っているのだ。

「奴は明らかに抑止力の影響下から解脱している。
 だが、奴の造った世界までそうだと決め付けるのは早計だ」

 そこで台頭の恐れが浮上するのが、仮称〈恒星の資格者〉。
 今はまだ祓葉に及ばねど、いつかそうなる希望/絶望を秘めた原始星。
 寂句はホムンクルスの奇行を、彼がこれに目を付けた故ではないかと見ていた。
 そう考えれば話が通るのだ。ガーンドレッドの庇護に甘んじていては、筋書きの外に手を伸ばすのは不可能だろうから。

「――おいおい、ジャック先生よ。あんた、ショボくれてるだけじゃなくてやっぱり耄碌してんじゃないのかい」

 失望を隠そうともしない心底呆れたような声色と共に、火勢が一気に倍ほどへ膨れ上がった。
 右腕が燃え始める。コートが耐えきれなくなったらしく、その下の腕も明らかに限界を訴え出していた。
 直に火傷が予防薬のキャパシティを超え、肌に侵蝕を始めるだろう。
 そしてもしそうなれば、此処までわずかに有利に進められていた戦況は一気に逆転する。

「僕達の星に、あの〈太陽〉と同じになれる奴がいるって?
 寝言も休み休み言えよ、みっともない。まさか本気で言ってるわけじゃないよな?」
「だから貴様などに、わざわざ余力(リソース)を割いて見解を求めているのだ」

 焦燥に駆られても責められない状況で、しかし尚も寂句は不変だった。
 焦らない、騒がない。怯えない、臆さない。
 鉄の歩みじみた堂々さを保ちながら、炎を裂いてアギリへ徒手を伸ばす。

「回答を許す。貴様は、そんなモノが存在すると思うか?
 いや。存在し得ると思うか?」

 アギリは発病を招く腕は躱しながら、一度は内に秘めた不快の二文字を完全に表情へと滲み出させる。
 それもその筈、赤坂亜切は神寂祓葉を文字通り狂おしく奉じている。
 この世の何より尊く美しく、恐ろしく禍々しく、そして眩しく輝く大事な家族。
 そんな唯一無二の名を挙げて、それと並ぶ者があるかもしれないとほざくなど凶暴な竜の逆鱗を踏み鳴らすようなものだ。

 だというのに一瞬回答までに間が空いたのは、発言者が蛇杖堂寂句であるからに他なるまい。
 蛇蝎の如く忌み嫌う相手ではあるが、だからこそアギリは寂句の実力を最上級に警戒し、認めている。
 そんな男が口にしたものだから、こんな発言にも単なる不快な妄言以上の価値が宿って聞こえた。

 されど、それでも沈黙はわずかに一瞬。
 次の瞬間、アギリは不快の報いとばかりの爆炎を放ちながら、吐き捨てるように答えていた。

「いるわけねえだろ。
 神寂祓葉は至高の星だ。だからこそ、僕達はこうして仲良く負け犬やってんだろうがよ」
「――そうか」

 骨まで黒炭に変えて余りある爆炎の中から、何故か平然と声が響く。
 その声は、およそ生産性が伴っているとは思えないアギリの物言いに対して、しかし。
 辟易するでも苛立つでもなく、どこか安堵のような響きを含んで聞こえた。

「私も、まったく同意見だ。無能と見解が一致して嬉しく思ったのは初めてだぞ」

 そう――蛇杖堂寂句もまた赤坂亜切と同じ結論。
 〈恒星の資格者〉、いずれ極星に並ぶ原始星。星の卵。
 そんなものは存在し得ないと、にべもなく切って捨てたのだ。

 ホムンクルスが天の翼と通じ。
 契約魔術師が十二時過ぎの悪魔を見出し。
 白黒の魔女でさえもが、幼星に振り回されている中。
 暴君と悪鬼の、この命題に対する結論は同じ。すなわち、全否定であった。

 神寂祓葉とは唯一無二の太陽であり、これに並ぶ星は存在せず、また生まれ得ない。
 理由は違えど、そう考えるまでに至る経緯は違えど、彼らの狂気は異口同音にそんな結論を算出した。

「では、もうよい。ご苦労だったぞ、葬儀屋」

 満足げにそんな台詞を吐いてのける、寂句。
 次の瞬間、彼の鍛え抜かれた剛脚が振り下ろされた。
 アギリに、ではない。目の前の大地に、である。

「ッ……!?」

 震脚、日本武道で言うところの踏鳴。
 重心を落とすことで身体の操作を鋭敏にし、連動する所作の威力を引き上げる基本動作のひとつだ。
 これを寂句は今、まるで創作物に登場する達人格闘家がそうするように、本来副産物でしかない大地の震動を主軸に据えて使った。
 至近距離での震動炸裂。それでアギリの脚を縫い止め、強引に退路を断ち切りにかかったのだ。

(このジジイ……ッ)

 無論、生半可な鍛錬で可能になる芸当ではない。
 だが相手は蛇杖堂寂句。文武両道を息吐くように両立し続け、歩み研ぎ澄ました九十年。
 達人に並ぶ域の技を修めていることなど、彼にとっては賞賛にも値しない当たり前のことだ。
 自分にできるのだから誰でもそうできるのに、何故他の無能どもはそれをしないのか、彼には常日頃から疑問でならなかったが――

「自らの火で灼け死ぬのは苦しかろう。
 問答の礼だ。せめて医者として、多少マシな死に様をくれてやる」

 寂句の五指が、遂にアギリの身体を掴んだ。
 アギリも猛者だ。そうでなければ魔眼の力があるとはいえ、本気の蛇杖堂を相手にこれだけ食い下がれはしない。
 しかしそれでも、そのブロークン・カラーを除けば赤坂亜切のスペックは蛇杖堂寂句に明確に劣っている。
 曲芸じみた身のこなしで上体を反らしつつ、素手で医神の魔手を払おうとした。
 反応速度も取った行動も申し分なかったが、ふたりの間に横たわる実力差が、寂句にアギリの左手薬指と小指をギリギリ掴ませた。

 そしてこれだけで――蛇杖堂寂句はこの世のいかなる人間でも殺すことができるのだ。

「が、ああああ、アアアアアアアッ……!!?」

 寂句が握っている二本指を起点に、ボゴボゴと肉が隆起し、異形の様相を呈し始める。
 これは腫瘍だ。より正確に言うならば、医学的には肉腫、と分類される良性腫瘍である。
 そう、この腫瘍は悪事を働かない。転移することもなければ、寂句が手を離せばたちまち成長を止めてしまうほどに"気弱"な病魔だ。
 ただし、呪詛の肉腫はとんでもない内弁慶。保護者がいなければ悪さをしないが、保護者が傍にいるのなら、その悪癖は存分に発揮される。

 すなわち、罹患者の肉体を苗床にした異常な成長速度。
 細胞増生を繰り返しながら成長し、巻き込んだ器官にどんな影響が出るかなど気にも留めない。
 だからそう、こうして指先を起点に発病したとしても、せいぜい数十秒もあれば相手の身体を完全に腫瘍の塊へ変えることが可能だ。
 この魔術の恐ろしさを、アギリは身を以って知っている。だからこそ今、彼は真の意味で生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた。

「ぐ、ぅううううゥッ……!?」
「貴様もイリスもつける薬のない無能だがな。
 それでも貴様らの持つ力だけは評価している。
 赤子だろうと核のスイッチを持っていれば脅威だろう? 喜べ、アギリ。貴様の持って生まれた力は、この私の眼鏡にも適ったのだ」

 故に死ね、と、寂句は判決を下す。
 逃げられないし逃がさない。
 暴君の決定は絶対だ。放った言葉をただの虚仮威しに終わらせない力があって初めて、人は暴君と呼ばれるに至るのだから。

「腐れ、葬儀屋。星の光に手を伸ばしながら、無様な塵と化すがいい」
「ッ、おおおぉッ、オオオオオオ、手、前ぇッ――――」

 よって〈はじまりの六人〉、在り方の違う狂信者達の死闘は此処に決する。
 勝者は暴君。敗者と死者は悪鬼。
 前回の番付を覆すことなく、衛星の殺し合いは順当に決着する。
 そう、その筈だったのだが。

「ぬッ……!?」

 後は殺し切るだけだった寂句の顔が歪む。
 王手をかけた筈の彼を、不測の事態が襲っていた。
 予防薬の効能越しに自分を襲う嚇炎の火力が、この土壇場になって急激に上昇を始めている。
 いやそれどころか、既に左腕のすべてを肉塊に変えていなければおかしい腫瘍がその成長を著しく遅滞させている。

 攻略した筈の炎が増し、それに合わせて皮膚を伝う熱感が強まり、薬の効果が貫通され始める。
 単なる死に際の悪あがきと呼ぶには激烈すぎる火力上昇。
 二倍、三倍、四倍、五倍――秒単位で跳ね上がっていく温度が確定した筈の天秤を押し返し出す。

 寂句の顔に、アギリの形相が映った。
 この今際において彼が浮かべていたのは、まさに凶相。
 異様に大きな目を見開き、歯を剥き出して、魔物のようなアルカイックスマイルを湛え。
 主義主張存在生命、そのすべてを否定してきた宿敵に殺されかけている屈辱の中、喜悦すら窺わせる貌でアギリは笑っていた。

「――――上等じゃないか。いいぜ、やろうか蛇杖堂寂句!!」

 忘れるなかれ、彼も狂人である。
 最優の暗殺者から転げ落ち、天の星に焦がれた狂える鬼である。
 彼にとっても、死とは今更恐れ慌てふためくものに非ず。
 そこに恐怖がないのなら、生と死の境界でさえ禍炎を燃やす薪の山になる。

「貴、様……!」
「おいおいどうしたドクター・ジャック!
 手前で挑んだ殺し合いだろう? 今更イモ引くのはなしだぜ、さあ燃え尽きるまで抱き合おうじゃないか!!」

 ――〈嚇炎の悪鬼〉。
 かつて必殺の魔眼だった双眸は壊れ、今や肉体そのものを火種に火事を起こす筒先の壊れた火炎放射器と化している。
 精密性を捨てた代わりに実現された異次元の火力。だがそれすら今の彼の真価ではない。寂句でさえ事此処に至るまでこれに気付けなかった。

「呆れた、無能だ……! よもや、そこまで壊れ果てていたか、赤坂亜切――!」

 妄信の悪鬼の真価とは、暴走。
 臨界を超えた感情は炎に変わって溢れ出す。
 敵も味方も周囲も、自分自身すら焼き尽くす地獄の炎。
 それを無秩序無遠慮に撒き散らす、炎の厄災となり嗤う力!

 アギリが今至った境地はまさしくそれだった。
 彼自身は何も気付いていない、認識していない。
 姉(妹)たる彼女に捧ぐ思いだけを胸に盲い創造する嚇き炎。
 如何に寂句が備えを敷いていたとしても、この次元の火力は想定外であったらしい。
 何しろこれは――熱量に物を言わせ、貪欲な腫瘍の成長を力ずくで焼き尽くし堰き止めるほどに熱い焦熱なのだから。

「はははははははは!! 楽しいなあ、ジャック! そうだ、また話でもするのはどうだい?
 もちろん議題は"彼女"について。僕の愛しいお姉(妹)ちゃんのことなら、お互いいくらでも語り合えるもんなァ――あァッははははは!!」

 斯くして、勝負のかたちは変異する。
 単に相手を殺せば終わりの趣向から。
 自分が死ぬ前に相手を殺して初めて勝ちという、破滅的なそれへ挿げ替わる。
 焼死と病死。ふたつの死がせめぎ合い、喰らい合う姿はまさしく地獄の情景。
 神寂祓葉が振りまいた狂気は、輝きのままに斯様な地獄を顕現させるに至ったのだ。

「朽ち果てろ――」
「燃え尽きろ――」

 片や渋面。
 片や笑み。
 別々の顔で、されど、同じことを吠えて。


「「――狂気(ネガイ)を叶えるのはこの私/僕だッ!」」


 戦況、殺意、共に臨界突破。
 そんな戦いの傍ら、本来ならば主役を張るべき英霊達の舞台にて。
 あるべき筋書きを覆す想定外の事態が起きていたことを、彼らはこの時知る由もなかった。



◇◇



 女神スカディは不可解の中にあった。
 ひとつめの不可解は、思考の断絶。
 目の前の英霊を形容する上での明確な答え、そこに到れるピースを集めた筈だった。
 なのに後一歩、確実にそこまで肉薄していると断言できる状況で、急に思考の道筋が途切れた。
 さながらそれはホワイトアウト。一面の白雪で、目指した行く手が突如遮られたみたいに。

 そしてふたつめの不可解は、まさに彼女が"ひとつめ"に直面している最中にそれを襲った。
 誰がどう見ても窮地の中にあった、もう一手で葬れる筈だった赤蠍のランサー。
 彼女の槍を、気付いた時には回避不能の間合いまで迫らせてしまっていたこと。

(――あり得ない)

 狩人とは、いついかなる時でも、たとえ怒り昂ぶっていても本質的な理性だけは失わないものだ。
 だからこそこの状況に陥って尚、スカディは冷静だった。
 が、冷静だからと言って目の前の不可解が解き明かせるわけではない。

 考えを巡らせる傍らでも、常に気は張っていた筈だ。
 彼女の在り方は常在戦場。たとえ眠りの只中にあったとしても迫る敵意を見逃すことはない。
 なのに今まさに己へ迫る赤槍は、彼女が戦巧者だからこそ分かる"喰らうしかない"距離と軌道から迫っていて。
 その矛盾が、狩りの女神を当惑させる。まったく不明な事態が、この戦いを蹂躙で締め括る筈だった女神を襲っていた。
 スカディは知らない――自身が嬲り殺す筈であったランサーの身に宿った力(スキル)の名前を。


 〈傲慢の報い〉。
 傲慢にもその強さを地上へ知らしめ続けた超人オリオンを昇天させた蠍、抑止力(ガイア)の御遣い。
 彼女は神には及べない。決して、神代から這い出でた雪靴の女神を殺せない。 

 だが。殺すべき標的が油断し、増長し……傲慢のままに在るというのなら、話は別だ。
 一度だけ。ただの一度だけ、天の蠍はその悪徳をガイアの名のもとに誅することができる。


「が、あッ……!?」

 スカディの脇腹に突き刺さった、天蠍(アンタレス)の槍。
 刹那、彼女を襲うのは単純な激痛とも異なる悍ましい感覚だった。
 この時初めて、女神の脳裏に戦慄と焦燥が走り抜ける。
 北欧の神々にさえ臆さない女傑をしてそうさせるだけの意味を、この一刺しは有していた。

 ――これは、駄目だ。

 これは己を滅ぼす、いや、それ以上の末路を約束する毒だ。
 その理解は正しい。蠍の針には毒がある。オリオンを殺めた蠍ならば尚更。
 アンタレスの毒とは昇天の毒。地上を生きるに値しない存在を、強制的に天へ至らせる星のご都合主義(デウス・エクス・マキナ)。
 かの救済機構とは違った意味で地上を救う、霊長の尊厳を保つための"大義ある殺人"。

 猛毒の名、『英雄よ天に昇れ(アステリズム・メーカー)』。
 アンタレスに与えられた権能であり、蛇杖堂寂句の切り札。
 太陽を真に宇宙へ放逐するための最終兵器、その開帳に他ならなかった。

「アーチャー……女神スカディ。その身、その霊基(うつわ)、もはや地上へ存在するに能わず!」

 アンタレスが叫ぶ。
 それは星の裁定。
 大義へ歩む御遣いの処断。

「然らば直ちに天へと昇り、地を見守る星となりなさい――!」

 スカディは神霊だが、何の道理もなく地上に現界しているわけではない。
 針音都市という舞台の特異性。そして霊基の比重を巨人の側面に傾けて、そうして何とか成り立ったイレギュラーな召喚。
 されどその身には未だ、神たるモノの非凡さが絶えず横溢している。
 であれば、それは。天の蠍が裁き、宇宙へ昇らせる条件を言わずもがなに満たしていた。

 膨らむ危機感。
 迫る終末/開闢。
 女神の霊基に物を言わせても回避不可能と分かる結末に、スカディはかつてない速度で脳を回した。
 だが。結局のところ、彼女は最終的に脳ではなく本能で行動を起こすに至る。

「――は」

 笑みを浮かべながら。
 しかし、それでは誤魔化しきれない獰猛な殺意を覗かせて……

「舐めんじゃ、ないよォ――!」

 槍を突き立てられ、今まさに身を滅ぼす猛毒が渦巻いている脇腹を、引きちぎった。

「……!? な、っ……!」
「いやあ今のは悪くなかった!
 だがね、だがねぇ! アタシを……誰だと思ってんだい!?」

 次いで突き立てるのは、蛇の毒を塗った矢尻。
 悪童の神、ロキを苦悶させた大蛇の毒だ。
 患部をもぎ取ることで物理的に減らした毒素を制圧するため、迷いなく違う毒をねじ込む。
 もっともこれは彼女にとっても諸刃の剣どころではない博打。
 口と鼻から溢れ出す血液が、そのことを如実に物語っていた。

 スカディの蛇毒は北欧の神に特効を発揮する。
 それは無論、彼の地で女神を張った彼女自身さえ例外ではない。
 だが、だとしても。スカディは今この瞬間、滅びよりも苦痛をこそ優先して受け入れることを選んだのだ。

「あなたは……一体、どこまで……!」
「さあ、手の内が割れたところで仕切り直そうやお嬢ちゃん。
 さっきは悪かったね、アタシも些か無粋が過ぎた。
 熊だろうが蠍だろうが、本気で向かって来る相手に出し惜しむなんざ狩人の名折れさね!」

 巨人が等しく所持する他とは一線を画する頑強さ。
 女神スカディが有する神性、神核、そして対魔力。
 いくつもの特権によって強引に成し遂げられる、星空送りの刑罰からの脱却。
 結末は覆り、苛烈な女神は先ほどの比でない脅威として"魅せた"蠍の前に君臨する。


「此処からはちゃあんと、全霊尽くして、狩り取ってやるともさ」


 ――大気の、温度が。
 何の錯覚でもなく、急激に低下していく。
 下がる、下がる。冷え込む。凍る。
 間近で焦熱地獄が具現しているというのに、冬の世界が顕現を開始する。
 もはや魔法の域にも足を踏み入れた、世界の上に己が界を築く大偉業。
 女神の館、スリュンヘイムが仮想の都市にその全容を露わにする。

 不味い。
 これは、何か、ああでも確実に。
 途方もなく不味い、死が来る――!
 アンタレスの焦燥を無視して、末路を拒んだ女神の声が高らかに響く。


「『狼吼響く(ヨトゥン)――――」


 すべてはその瞬間に始まりかけ。
 しかし、そうはならずに終わった。



◇◇



『頃合いだ。――ランサー、令呪を以って命ずる。"私を連れ、直ちにこの場を可能な限り離れろ"』



◇◇



 事は一瞬だった。
 炎の渦、どちらかが死ぬまで消えることのない嚇炎を。
 切り裂くように現れた赤い鎧の少女が、奇縁ならぬ狂縁で結ばれた暴君と悪鬼を引き離した。
 まずは驚き。だがすぐにそれを一転させ、嚇怒の表情を浮かべ吼えるアギリ。

「なんだよ。此処まで来て逃げんのか、クソジジイッ!」
「言ったろう、貴様の妄言に付き合うつもりはない。
 故、堂々と退かせて貰う。奇襲されたにしては十分な損害も与えられたのでな」

 蛇杖堂寂句は過たない。
 彼はいつだって冷静沈着で、感情で失策をしない。
 そうでなかったことは、生涯通じてただの一度だけ。
 太陽そのものを相手取っているならいざ知らず、その衛星如きに二度目を喫する彼ではない。
 故に下した判断は撤退。退き時と判断したなら後は即断だ。
 アンタレスが宝具を使い、にもかかわらず仕留め切れなかった。
 なのにこれ以上事を引き伸ばすことに、さしたる意義はない――そう踏んだ故の行動だった。

「何、案ずるな……次は後腐れなく殺し切ってやる。無論、相応の準備をした上でな」

 最後に言い残した言葉はすなわち狂気。
 狂人ゆえの、同族嫌悪の発露。
 決着をこの先の"いつか"然るべき時に預けて、恥じず悔いず暴君は撤退する。

 後に残されたのは炎と、開帳寸前でお預けを食らった冷気の残滓のみ。
 こうして、日没の際に巻き起こった小さな星間戦争は幕を下ろした。
 互いと、そして舞台たる仮想の針音都市に、小さくない爪痕を残して。



◇◇



 斯くして、撤退は成った。
 相手方にも損害は与えられたし、その上でこちらは致命的な痛手を負うには至っていない。
 予想外の奇襲を受け、先手を許した結果としては間違いなく上々だろう。
 形だけを見れば勝利と言ってもそう言い過ぎではないと、寂句は客観的に今回の戦いをそう評価する。
 が、まったく痛手がなかったわけでもなく。
 それを証明するように畏怖の暴君の右腕には、肩口付近まで痛々しい大火傷が滲みていた。

「此処で良い。もう十分だ」
「しかし、マスター……」
「私は"良い"と言ったぞ。それとも私を説き伏せられるだけの革新的な意見があるのか? であればぜひ聞かせて貰いたいところだが」
「……いえ。かしこまりました、マスター・ジャック」
「よろしい」

 アンタレスの背から降り、寂句はコートの着こなしを整えて小さく息を吐く。
 こうしている間も、右腕は絶えず激痛と熱感を伝え続けている。
 が、所詮はたかだか痛みだ。この程度の刺激は、蛇杖堂の麒麟をめげさせるにはあまりに弱すぎる。
 灰色を煤と延焼の痕跡で汚しながらも、それでも彼は不変のまま。
 まるで何事もなかったかのように平時通りの顔色で、戦地を抜け辿り着いた安息を甘受していた。

「計算外だったな、よもやあそこまで終わっているとは。
 本来ならかすり傷程度で済ませる筈だったが、思いの外焼かれてしまった」

 あの〈嚇炎の悪鬼〉を相手取りながら、腕の一本程度の損傷で済ませている時点で異常であることは言うまでもない。
 それも炭化しているわけではなく、あくまでも一般の基準で重度と言われる程度の火傷だ。
 すなわち寂句に言わせれば、然るべき処置をすれば行動に支障ないレベルの傷でしかない。
 とはいえ――前回一度は下した、明確に格の差を示した相手に負わされた手傷と考えるなら、途端に意味は重さを増すのだったが。

「マスター・ジャック。此度は、本当に申し訳ございませんでした」

 アンタレスが、目を伏せながら寂句に頭を下げる。
 矮躯であることも相俟って、その姿は得も言われぬいじらしさで溢れていた。

「当機構は、己の未熟をつくづく実感しました。
 性能で負け、戦術で負け。……頼みの綱である宝具を抜いて尚、仕留めきれない不始末。
 不徳の致すところと言う他はありません。いかなる処罰も受ける所存です」

 彼女は、傲慢を誅するものだ。
 故に彼女自身が傲ることは天地がひっくり返ってもあり得ない。

 それでも。その冷静な目があろうとも、ガイアの蠍たる自負を踏まえても。
 ……今しがた見えたあの"女神"は、アンタレスの認識すべてを踏み砕くほどに規格外だった。
 自信もこれまでの認識も、すべてを等しく破壊してしまうくらいに。

「過誤を報告する際は具体的にしろと言ってある筈だが?」
「……端的に、すべてにおいて及びませんでした。
 当機構の槍は通じず、いかなる手を打ってもその差を埋め合わせられないと理解しました。
 そこで宝具を抜きました。かの存在を昇天するべきと断じ、毒を流しました」
「……、……」
「ですが――それでも、届かなかった。
 申し開きのしようもありません。当機構はかの女神に比べ、圧倒的に劣っていました。……一言、"無能"でした」

 もう一度機会があったとして、果たして勝てるかどうか。
 分からない、とアンタレスの顔色はそう無言の内に告げる。
 そんな少女の哀れさに、蛇杖堂の暴君は。

「貴様、何を思い上がっている?」
「……、え?」

 糾弾するでも憐れむでもなく、眉間に皺を寄せてそう言った。

「貴様を活かすのも殺すのも私の一存だ。
 たかが道具が分不相応に思い上がるな。貴様個人の頭脳や働きになど端から微塵も期待していない」
「え、あ、いえ、で、でも……」
「逆に問うが。
 ランサー、貴様は私があれしきの小僧と揉める程度の事で、大局に目を向けることも忘れるような無能に見えるのか?」

 寂句は人情を解さない。
 いや、解した上で無視する。
 何故なら意味がないから。
 彼の思い描く効率を貫く上で、それは単に脚を引くものでしかないからだ。
 だからこそ今放った言葉に嘘はなく、ひと月聖杯戦争を共にしたアンタレスにもそのことは伝わっている。

「赤坂亜切がああまで壊れ果てていることは想定外だった。
 端からそこに気付いていれば手の打ちようもあった。
 そして故にこそ、"次"は私が勝つ。既に私の脳細胞(ニューロン)にはその図式が出来上がっている」
「……ですが……」
「もういい。ロクな反論も出来ないなら黙っていろ」

 良くも悪くも、畏怖の暴君には嘘がない。
 彼は嘘を吐かない。
 そこに意味が生まれない限りは。

「貴様が今すべきことは、己が不手際のみを反省し来たる次に備えることだ。
 その上で助言が必要なら意見してやることもやぶさかではない。
 だが、己の吐く言葉が真に私に益をもたらすものか否かをよく逡巡しろ。
 分かったと思うが、この都市では私でさえ、つまらん些事にうつつを抜かしている暇はないのだ」

 事実、見えたことはいくつもある。
 アギリのアーチャーの真名。
 その実力が、自軍のそれとかけ離れて高いこと。
 そして――アギリ、〈嚇炎の悪鬼〉の炎の真髄。
 知ったからには次は同じ轍は踏まない。
 次こそは必ず殺すと、寂句の脳は既に算盤を弾き始めている。

「代わりの運転手をすぐに呼び、新たな拠点に移る。
 そこで今後の話をする。貴様はそれまでに、無能の無益な煩悶を終わらせておけ」

 それだけ言い捨て、寂句は端末を取り出し通話を始めた。
 アギリやスカディが追ってくる可能性を、彼はこの時点でもう思考から排している。
 時間に直すなら十分にも満たない接敵の中で、己が相対していない方の敵にすら分析を走らせ終えたのか。
 そんなまったくブレない、それどころか果てしなく先鋭化されていく主の姿を見、天の蠍は無言のまま従う他なかった。

(……なんと、情けないのでしょう。当機構は)

 ガイアの使い。
 抑止力の尖兵。
 そして今は、暴君の飼い犬。
 今も昔も誰かに使われるばかりの装置は、確かな自尊心の綻びと共に静かな歯軋りを響かせていた。

 大義はひとつ。
 抑止力(ガイア)が命じ、主たる寂句が同じく命じた事柄。
 すなわち――神寂祓葉という〈星〉の放逐。
 果たすべき偉業を変わらず見据えながら、無機なる蠍は思考する。
 その行動が従うべき主を利するか否か、それも解らぬままに今は兎に角考えていく。

(私という無能は、果たしてこの舞台で――)

 何を、為せるのだろうか。
 何を為すために、どう歩んでいくべきなのかと。
 静かに、運命の象徴たる蠍は唇を噛んでいた。



◇◇



「アイツのああいうところが嫌いなんだよな。ランサーが可哀想だよ、なかなかの妹力をしてるってのに仕事がジジイの介護だなんて」

 はあ、と胸の底からため息をつきながら、赤坂亜切は醜く歪んだ自分の左手を見つめていた。
 呪詛の肉腫は術師である寂句の接触を解ければそこで成長が止まる。
 とはいえ腫瘍自体が消えるわけではないので、それが骨や他組織を巻き込んでいればそれに応じた機能不全が起こるのは避けられない。
 事実、アギリの左手首から先は掴まれていた側の半分が肉腫に覆われ、動かすのに著しい支障を来たす羽目になっていた。

「アーチャー、君、手術とかできたりしない?」
「アタシにンな繊細な芸当できると思うかい? まあ、焼けた鉄で余分な肉を切り落として"それなりに"成形するくらいはできるだろうけど」
「だよな。まあそれでもいいよ。流石にこんなグロい手でお姉(妹)ちゃんには会いたくないしな」

 結果だけを見れば痛み分けだが、蛇杖堂寂句を殺せるまたとない機会だったのには違いない。
 寂句の抜け目のなさは知っていたのでこうなる可能性も想定はしていたものの、せめて英霊の方だけでも潰したかった。
 実際、あの蠍のランサーは倒せる敵の筈だったのだ。
 スカディは彼女にすべての要素で勝っていた。負ける道理がなかった――だからこそアギリとしても今の彼女の姿には不明が残っていた。
 左の脇腹を自ら引きちぎり、そこから今も生暖かい血を滴らせ続けている、己の相棒の姿には。

「いやあ、油断したつもりはなかったんだがね。してやられちまったよ」
「単なるまぐれ当たりってわけでもなさそうだな。ラッキーパンチで不覚を取る君とも思えない」
「黙し語らず、と行きたいところだが……そうさな、恐らくありゃ"権能"の類だろうね。
 宝具か固有の異能か分からないが、アタシは知らぬ間に奴さんの力が起動する条件を満たしちまってたんだな。
 そうでなくちゃあの一撃はあり得なかった。アレは、あのお嬢ちゃんには絶対に放てない一刺しだった」

 とんだ準備運動になったねえ、と伸びをしてみせるスカディ。
 その様子を見るに、元が頑強な彼女にとっては大した手傷ではないのだろうが、それでもこの女神が不覚を取った事実は無視できない。
 寂句達の消えた方角を苛立たしげにアギリが見つめる。スカディもまた、同じ方向を向いていた。

「まだ夜には早いが、この時間になれば君の宝具もだいぶ精度が上がるだろ。追うか?」
「んー……いや、今はいいね。アンタの注文にも応えなきゃならんし、何よりアタシなりに読めたこともある。
 本格的に狩りの時間――夜が来る前に、しち面倒臭い情報共有は終わらせておこうじゃないのさ」
「意外だな。獲物に手を噛まれるなんてしたら君、もっと昂ぶって燃え上がるもんだと思ってたけど」
「とんでもない。十分すぎるほど"そうなってる"よ」

 ゾク――、と、アギリの背筋に冷たいものが走る。
 狂人をさえ寒からしめる、本能レベルで理解させる上位者の昂り。
 スカディは微笑んでいる。だが皮一枚でも剥けば、そこにあるのは狩人の執念だ。
 天蠍アンタレスは雪靴の女神に火を点けた。流れる血と蛇毒の痛みが、彼女の視界を遥かに研ぎ澄ませてくれている。

「ただ、あのお嬢ちゃんはまだ幼体だ。いや、幼虫って言うべきなのかね?
 此処からまだひと皮、ふた皮と剥けてデカくなる余地がある。
 どうせ狩るなら、成果として誇れるくらいの獲物がいいからね。
 今は一旦泳がせて……時が来たらこの傷のお礼をたっぷりさせて貰うとするさ。もちろんあのお坊ちゃんにも、ね」
「ジジイに同情するよ。君に瞳(め)を付けられるなんて悪夢そのものだ」

 初戦は痛み分け。どちらも相応に血を流しながら、相手のことを知る結果になった。
 だが、点いた火は消えない。狂人どものも、英霊たちのも。
 消えることなく燃え続け、火勢は時を重ねる毎に増していく。
 英霊が殺し合うことが何を意味するか。そして、狂人が殺し合うことが何を意味するか。
 その答えは、語らう主従の背景に佇む目黒区の街並みが惨たらしいまでに代弁している。

 一面を未だ消えない炎が包み、過去も現在も、これから積まれていく筈の未来さえもを等しく焼いている。
 地面には境界記録帯の激突で生じた損壊がまるで大災害の後かのように刻まれ、遠くからはサイレンの音色がけたたましく聞こえてくる。
 一体どれだけの人命が今回の殺し合いに巻き込まれ、何が何だか分からないまま命を散らしたのか。
 そういう問題に、事の元凶であるアギリは……そしてこの場を去った寂句も、まったく興味を持たない。

 ――彼らの瞳は灼かれている。焼け付いた瞳は、もう光以外のものを映してくれない。

 少なくともこのふたりは、絶望的なまでに"そう"だった。
 太陽、ただ太陽。それだけに支配された、運命の亡者。
 〈はじまりの六人〉、その中でも特段につける薬のない男達。

 星を信じる者。
 星を畏れる者。
 狂気の螺旋は、終わらない。



◇◇



【目黒区・中目黒/一日目・日没】

【赤坂亜切】
[状態]:疲労(中)、魔力消費(中)、左手に肉腫が侵食(進行停止済、動作に支障あり)
[令呪]:残り三画
[装備]:『嚇炎の魔眼』
[道具]:魔眼殺しの眼鏡(模造品)
[所持金]:潤沢。殺し屋として働いた報酬がほぼ手つかずで残っている。
[思考・状況]
基本方針:優勝する。お姉(妹)ちゃんを手に入れる。
0:次は殺すからな、クソジジイ。
1:適当に参加者を間引きながらお姉(妹)ちゃんを探す。
2:日中はある程度力を抑え、夜間に本格的な狩りを実行する。
3:他の〈はじまりの六人〉を警戒しつつ、情報を集める。
4:〈蛇〉ねえ。
5:〈恒星の資格者〉? 寝言は寝て言えよ。
[備考]
※彼の所持する魔眼殺しの眼鏡は質の低い模造品であり、力を抑えるに十全な代物ではありません。
香篤井希彦の連絡先を入手しました。

【アーチャー(スカディ)】
[状態]:脇腹負傷(自分でちぎった)、蛇毒による激痛(行動に支障なし)
[装備]:イチイの大弓、スキー板。
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:狩りを楽しむ。
0:いやあ面白くなってきた。
1:日中はある程度力を抑え、夜間に本格的な狩りを実行する。
2:マキナはかわいいね。生きて再会できたら、また話そうじゃないか。
3:ランサー(アンタレス)は――もっと育ったら遭いに行こうか。
[備考]
※ランサー(ギルタブリル/天蠍アンタレス)の宝具を受けました。
 強引に取り除きましたが、どの程度効いたかと彼女の真名に気付いたかどうかはおまかせします。


【目黒区・不明/一日目・日没】

【蛇杖堂寂句】
[状態]:疲労(中)、魔力消費(小)、右腕に大火傷
[令呪]:残り2画
[装備]:コート姿
[道具]:各種の治療薬、治癒魔術のための触媒(潤沢)、「偽りの霊薬」1本。
[所持金]:潤沢
[思考・状況]
基本方針:他全ての参加者を蹴散らし、神寂祓葉と決着をつける。
0:予想を外したが、成果は上々だ。
1:神寂縁とは当面ゆるい協力体制を維持する。仮に彼が楪依里朱を倒した場合、本気で倒すべき脅威に格上げする。
2:当面は不適切な参加者を順次排除していく。
3:病院は陣地としては使えない。放棄がベターだろうが、さて。
4:〈恒星の資格者〉は生まれ得ない。
[備考]
神寂縁、高浜公示、静寂暁美、根室清、水池魅鳥が同一人物であることを知りました。
神寂縁との間に、蛇杖堂一族のホットラインが結ばれています。
蛇杖堂記念病院はその結界を失い、建造物は半壊状態にあります。また病院関係者に多数の死傷者が発生しています。

蛇杖堂の一族(のNPC)は、本来であればちょっとした規模の兵隊として機能するだけの能力がありますが。
敵に悪用される可能性を嫌った寂句によって、ほぼ全て東京都内から(=この舞台から)退去させられています。
屋敷にいるのは事情を知らない一般人の使用人や警備担当者のみ。
病院にいるのは事情を知らない一般人の医療従事者のみです。
事実上、蛇杖堂の一族に連なるNPCは、今後この聖杯戦争に関与してきません。

アンジェリカの母親(オリヴィア・アルロニカ)について、どのような関係があったかは後続に任せます。
→かつてオリヴィアが来日した際、尋ねてきた彼女と問答を交わしたことがあるようです。詳細は後続に任せます。

赤坂亜切のアーチャー(スカディ)の真名を看破しました。

【ランサー(ギルタブリル/天蠍アンタレス)】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(中)、消沈と現状への葛藤
[装備]:赤い槍
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:神寂祓葉を刺してヒトより上の段階に放逐する。
0:……不甲斐ない、です。
1:蛇杖堂寂句に従う。
2:ヒマがあれば人間社会についての好奇心を満たす。
3:スカディへの畏怖と衝撃。
4:霊衣改変のコツを教わる約束をした筈なのですが……言い出せる空気でもなかったので仕方ないですが……ですが……(ふて腐れ)


【全体備考】
目黒区・中目黒にて大規模な火災と、スカディの矢による破壊が発生しました。



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最終更新:2025年03月15日 01:21