むかしむかし、あるところに。
 ひとりの、とても元気な男の子がいました。

 豊かな自然と、優しい仲間たち。
 たまにいくさもあるけれど、それでも彼はすくすく育っていきました。

 暴れん坊で怒りん坊、一度火がついたら神さまでも止められない。
 だけど家族と仲間と、自分を育ててくれた大いなる自然を心から愛する、ほんとうはとても優しい子。

 この子の名前は、シャクシャイン
 いくさでは誰より勇敢に戦い、どんな逆境でも瞳の炎を絶やさない。
 勝っても負けてもへこたれず、ある時は今まで誰も鎮めることのできなかった恐ろしい刀も相棒にしてしまったアイヌの戦士。

 いつかこのいくさが終わって、和人たちが俺たちのことを認めるようになったら、海を渡って大和へ行こう。
 見たこともない獣がいるかもしれない。ほっぺたの落ちるようなうまい料理があるかもしれない。
 そんな日が来たのなら、宴に奴らも呼んでやろう。みんなで席を囲んで、夜が明けるまで飲み明かそう。
 その時はきっと、和人もアイヌも関係なく。彼はほんとうに気の置けない仲間にだけ、ある日こっそりそう夢を打ち明けたのです。

 このとき彼はまだ、世界の優しさというものを信じていました。
 住む場所や話す言葉、大事にしたい文化の違いはあっても、自分達はみんな同じ人間なのだと。
 そう信じて、その瞳を少年のように輝かせていたのです。

 胸の奥でうごめき、外に出たがる黒くておそろしいなにかを、笑顔の裏に押し込めながら。
 おとなになったシャクシャインは、みんなの頼れる英雄として、来る日も来る日も野山を駆けました。



◇◇



 【英霊伝承異聞 ~シャクシャイン~】



◇◇



 ――あ、私、いま夢を見てる。
 輪堂天梨は見渡す限りの晴天の空と、爽やかに茂る春の緑の中で、すぐにそう気付いた。

 これまでの記憶と目の前の景色とが一致していない。
 それに、こういう体験には覚えがあった。
 自分の召喚したサーヴァント・アヴェンジャー。彼の生涯を夢で垣間見ることが、今までにも何度かあったからだ。
 けれどその時は、うまく言えないが、此処まではっきりと見えたわけではなかったように記憶している。

 見果てぬ青空と緑。心の洗われるような光景だったが、そこには異物が散らばっている。
 人間の死体であった。胸が裂かれたり、首が変な方向に曲がっていたり、頭が割れて脳漿がはみ出していたり。
 そんなおぞましい光景なのに、どうしてか天梨はこれを恐ろしく感じなかった。

 理由は明白だ。グロテスクな殺戮の跡に佇むひとりの青年と、その前で大の字に寝そべった大柄な男。
 彼らふたりの醸し出す雰囲気が、酸鼻を極めた有様の惨さを中和するような。
 この空と大自然にも似た、青春のように爽やかなそれだったからである。

「……はー。君さあ、ちょっと強すぎだろ。オニビシ」
「るせえ……。卑怯な手で仕掛けてきやがって、何正々堂々戦ったみてえな面してやがんだ。このクソ野郎がよ」

 オニビシと呼ばれた男の身体には、無数の傷があった。
 彼の言葉を聞くに、この状況を作り出したのはむしろ佇む彼の方。
 なのにさながら、彼の物言いとどこか漂わすやり切った感は、河原で一騎打ちの喧嘩に興じた後みたいな清々しさを感じさせる。
 だがそれを指摘するオニビシの声も台詞とは裏腹に恨みがましいものではなく、彼もまたどこか、さっぱりとしたものを漂わせていた。

「大体、原因作ったのは全部いつだっててめえの方だったろうが。
 俺の腹心を殴り殺すわ、鶴をケチって和平を台無しにするわ……。
 使者の和人どもがいっつも頭抱えてて、流石に気の毒だったわ」
「ケチは君らも一緒だろ! 和人に足元見られて困窮してる俺ら見て高笑いしながらシカ狩り邪魔してきたの忘れてねえぞ!!」
「腹心の件はどうなんだよ」
「それは……その~~……。……、……」
「…………」
「酒(トノト)って怖えよな」
「死ね」

 頭を掻いて言う青年と、顔をめいっぱい顰めて吐き捨てる大男。
 そこで天梨は、オニビシという名前について思い出していた。
 彼は確か、アイヌ民族が和人――松前藩と本格的に対立を始める前に、メナシクルと抗争していたシュムクルの首長。

 ずっと険悪な状態が続いていて、途中一度は和平合意に至るものの、結局再び両部族の関係は悪化。
 最終的にはメナシクル側が奇襲の形で包囲を仕掛け――殺害されたという顛末だった筈だ。
 アヴェンジャーに面と向かって言ったら間違いなく殺されるので口にしたことはないが、調べた時にはえげつなさにちょっと引いた。
 怨嗟の言葉を吐き合ってもおかしくない関係性の両者だが、しかしどういうわけかそういうドロついたものは感じられない。

 それどころかむしろ、彼らの語らうその姿は……まるで長い時を共に過ごした、悪友同士のような。

「俺も今は首長だ。仲間の手前表立っては言えなかったが、悪いことをしたとは思ってるよ」
「どうだかな。てめえは疫病神(パコロカムイ)だからよ」
「本当だって。……言い訳に聞こえるだろうけど、君とやり合う上じゃあむしろ、今更お行儀よく戦る方が無粋かと思ってね」

 昔の価値観というのは、天下泰平が当たり前になった現代の日本とはまったく違う。
 良くも悪くもひとりの命は軽く、他人が死ぬことにも自分が死ぬことにも、どこか執着が薄い。
 戦を隣人として生きるからこその軽さ。永訣よりも流儀や義理を重んじた、いつかの日の断片。

「――けどいい加減、幼気はそろそろ自重しようと思ってるよ。
 決めてたんだ。暴れて喚いて荒くれ者を気取るのは、付き合いの長い君を討つ時までだって」

 メナシクルの英雄は、血の滴る妖刀を片手に言う。
 その声色はどこか寂しそうであり、同時に、彼らしからぬ緊張の滲んだものにも聞こえた。

「……最近、和人どもの様子がおかしい。どんどん、目に見えて調子に乗ってきてやがる。
 君が死んで部族間の揉め事が消えれば、もう奴らへの反感を抑え込むのも限界だ。
 これはまだ誰にも言ってない俺の憶測だけど、これからは多分、本格的に奴らとの戦が始まる」
「はッ。そりゃ……難儀な話じゃねえか。地獄(ポクナモシリ)が退屈だったらどうしようと思ってたが、良い見世物になりそうだな」
「だろ。だから、俺ももう大人になんないとさ。俺ら皆、にっちもさっちも行かなくなっちまうだろ」

 ため息交じりに放たれた台詞に、オニビシは少し黙った。
 それから、空を見上げたままで、また口を開く。
 どうせ死ぬのだ。今際の恥などかき捨てか――そんな諦めを感じさせる沈黙であった。

「……俺はよ。どこかでお前に憧れてた」

 見上げているのは空であって空ではない。
 空の果てにある、遠い日を想って、仰ぎ見ている。
 そういう風に、天梨には見えた。

「カムイも呆れるシャクシャイン、野越え山越え川下る。
 鬼か妖怪か、はたまた獣とまぐわった狂女が産んだ野生児か。
 千里を駆けるお前の悪名が耳に入る度、ガキみたいに胸を躍らせたもんさ。
 いつかそんな凄ぇやつと肩ぁ並べて、一緒に戦へ出たいもんだと……ずぅっと、そう思ってた」

 アヴェンジャー……シャクシャインは、やはり何も言わない。
 オニビシは彼の方を見ようともせず、遺言のように言葉を続ける。

「お前は俺にとって最悪の疫病神(パコロカムイ)だったが、やっぱりそれ以上に憧れだったぜ。反吐が出るほど悔しいけどよ」
「……、……」
「大人も子どもも、爺も婆も匙投げた、アイヌの荒くれシャクシャイン。
 そんなてめえの口から、"大人になる"なんてらしくねえ言葉、引き出せたんだ。
 なら、まあ……クソみてえな戦いだったが、ひとまずそれで我慢してやるよ。あの世でする自慢話としちゃ、上々だろ」
「オニビシ……」
「だから、よ。そうだな」

 ごぶっ、ごぶぶぶっ、と大男の口から血が溢れてくる。
 命の終わりを前にして、彼は、ニヤリと笑っていた。
 その眼はもう、空も遠い過去の幻影も見つめていない。
 笑いながら、後にアイヌの英雄と呼ばれる男を、見上げていた。

「……誰にも負けんじゃねえぞ。お高く止まった和人どもなんざ、蹴散らしてやれ」

 そう言い終えるが最後、オニビシの眼から光が失われる。
 身体は脱力し、もう笑うことも悪態をつくこともない。
 屍の散らばる青空の下、好敵手の遺体を前に、シャクシャインは立ち尽くす。

 天梨が見たことのない、どこか哀愁の漂う姿だった。
 喜びとも、悲しみとも違った表情を整った顔面に湛えて。
 物言わぬ骸となったオニビシを見下ろしながら、彼の口が静かに動く。

「言われなくてもそのつもりだよ。けどな、オニビシ――」

 俺さ。
 ちょっと、怖いんだよ。

「こんな俺でもさ、点けちゃいけない類の炎があるってことは分かるんだ。
 それが、俺の胸か頭の奥深くで、もうずっと燻り続けてる」

 黒い炎だ。
 ドス黒い、一度燃え上がったら二度と止められないって分かるような、おぞましいヤツだ。

「和人どもが俺達を見る目、分かるだろ?
 あの、まるで猿か猪を見るような目だ。あの目で見られる度、俺の中の火がでかくなる気がするんだよ……」

 シャクシャインが身を屈める。
 途方に暮れた小さな子どもがそうするように。
 誰にも打ち明けられない悩みを胸に、迷いと怯えを孕んで蹲るみたいに。

「本当に、俺なんかで、いいのかなぁ……」

 ぽつりと紡がれた言葉は、所詮すべてが過去の残響。
 記憶として世界に焼き付いた過去を、夢を通じて垣間見、聴いているだけ。
 なのにこの光景とその声は、輪堂天梨の胸へとても強く響いた。

 だって天梨は、それを知っているから。
 心の奥深くで燻る炎。決して点けてはいけない、おぞましい黒き火。
 悪意を浴びるたびに。嘲笑の文字列を見かけるたびに。
 疼くように熱を増す、この世の何よりも恐ろしい、焔――

 吐き出して、問いかけた、後の英雄。
 されど彼は、その葛藤を声に出すのが遅すぎた。
 辺りに転がるのは屍ばかり。殺し合って対話した好敵手は既にポクナモシリの彼方。

 よって結末は変わらない。
 夢は進む。舞台は移る。
 いくさの果て、最後の日。あの、悪意に満ちた宴の席へと。



◇◇



 夢が――景色が。
 移り変わった、その瞬間。
 輪堂天梨が覚えたのは、人生で感じたこともない激痛と苦悶だった。

(ぁ、あぁぁあ、あぁあぁああぁああああぁぁあああ…………!!??)

 声は出せない。だから意識だけで絶叫する。

(い、ぁ……! や、ぁ、あぁあぁああぁ……!? ひ、ぁ――ぎ、ぅ……!!)

 そうせずにはいられなかった。この痛みをどうにかして吐き出さなければ、自分はこの場で発狂死すると冗談でなくそう思った。
 痛い。苦しい。痒い。口が舌が喉が食道が胃が、いやいや骨が脊髄が細胞が筋肉が、一秒ごとに焼けた棘の塊に置き換えられていく。

(死ぬ、死んじゃう、やだ、やだ、こわい、たすけて、だれか、だれか――――)

 最初に思い浮かべたのは、はじめて自分に手を差し伸べてくれた悪魔の少女で。
 次に思い浮かべたのは、数奇な運命と言う他ない出会いを果たしたちいさな友人。
 そこからは、今までの人生で出会ったいろんな人間の顔が次から次へと浮かんでは消える。
 此処が夢で、身体が存在しなかったことはアイドルである彼女にとってきっと何よりの幸運。
 この苦痛を肉体で感じていたならば、さしもの〈天使〉も、涎と汗と吐瀉物に塗れた惨めな姿を晒していたに違いないから。

 天梨の意識が生き地獄の中で沸騰し、蒸発するのを防いでくれたのは。
 皮肉にも、ああ本当に皮肉なことに。
 悪夢の主役である、哀れな英雄の悶える声だった。

「が、ぁ、ああぁあ、ア、ごぁ、がァ……!!
 お――前、ら……ッ、何を、飲ませ……ぎ、あぁあぁあぁがぐぐゥッ……!!?」

 盃を取り落とし、身を折り曲げて、とめどなく血を吐き出す男がいる。
 眼は血走り、血涙を流し、肌に浮き出た血管が片っ端から破れて内出血を引き起こしている。
 その光景を見れば、嫌でも天梨は理解せざるを得ない。
 自分が今感じている痛苦の正体。それはつまるところ、彼がこの時味わったものの追体験であるのだと。

「ぉ、ぉ……! う、げ、えぇえぇええぇええぇ……!!」

 バケツをひっくり返したように、血と吐瀉物が溢れて止まらない。
 人間の身体には、こんなにも血が入っているものなのか。
 一周回ってそんな視点に立ち返ってしまうほど、この地獄絵図は壮絶だった。

 何より苦しく痛いのは、さっきまで好敵手と語らっていた青年がその無残な姿を晒している事実。
 カムイも呆れるシャクシャイン、野越え山越え川下る。
 大人も子どもも、爺も婆も匙投げた、アイヌの荒くれシャクシャイン。
 オニビシが憧れと呼び、無人と化した戦場でひとり弱さを零したあの男の末路がこれなのかと。
 意識を沸騰させるどの激感よりもその無情が、やり切れなさが、天梨の心をかき乱して苛んだ。

「ははは、メナシクルの英雄殿は腹でも下しておるらしい。
 やはり蝦夷の山猿に日ノ本の酒は勿体なかったか。井戸水でも汲んでやればよかったな」
「ふざ、けるな……! 和睦と言ったのは誰だ。共に酒を酌み交わし、明るい未来を論じようと吐いたのは誰だ!!
 貴様ら……ッ、貴様ら和人には、大和の民には、誇りはないのか!? 敵を殺すためならば、何をしてもいいというのか……!!」
「吠えるな、吠えるな、猿よ。
 誇りか、もちろんあるとも。勝利は誉れだが、過ぎた外道は汚名になる。戦の世界にも倫理はある、うむうむ確かにそうだとも」

 ――やめて。
 ――もう、やめて。

 苦悶の中で叫ぶ天梨の声はこの場の誰にも届かない。
 誰の鼓膜も揺らすことなく、彼女の心の中だけで反響しては消えていく。

「まあ――人間同士の戦いに限るがな」
「……ッ……」
「何だ、傷ついたか? 蝦夷の猿は感情豊かで大変宜しいことだ。
 だがそうだろう? 口を開けばよく分からない言葉で喚く貴様らに、何故我々日ノ本人が誇りだの礼節だの持つ必要がある。
 誉れある戦ならば剣を使おう、馬にも乗ろう。だが害獣退治なら、罠を仕掛けて殺した方が遥かに効率的ではないか。
 ほら、例えばこのように。畜生は間抜け面で、進んで毒餌をかっ食らってくれるからなぁ」

 代わりに響くのは、笑い声だった。
 どこまでも醜悪で、どこまでも悪意に満ちた声。
 くすくす、くすくす。けたけた、けたけた。
 どこかで聞いたような嘲りが、悲劇を喜劇に堕させていく。

「お人が悪い。いくら畜生相手といえど、言っていいことと悪いことがあるでしょう」
「いやしかし、まったく傑作ですなぁ。まさか蝦夷の蛮人に誇りを説かれるとは」
「見なされ、あの無様な姿。血反吐を吐いて、のたうち回って。ああみっともない」
「まったくだ。シャクシャイン殿、逆に問うが、その姿のどこに誇りがあるのですかな」
「言ってやるな言ってやるな。猿に人の言葉などわかるまい」
「猿というよりは狗だろう。最近の猿は知恵がある、毒餌で騙されるなど狗くらいのものよ」
「それにしても凄まじい効き目だ。高い金を出して買い叩いただけのことはある」

 くすくす、くすくす。けたけた、けたけた。
 くすくす、くすくす。けたけた、けたけた。
 くすくす、くすくす。けたけた、けたけた。

 口を三日月のように歪めて嗤う、和人どもと。
 這い蹲り、血と吐瀉物に塗れた英雄。
 これほどグロテスクな光景を天梨は生まれてこの方見たことがない。

 おぞましい。そして、恐ろしい。
 ヒトという生き物は、こうまで残酷になれるのか。
 ただ敵であるというだけで、こうまで醜悪になれるのか。

 ――アヴェンジャーのことは、もっとよく知らなければいけないと常々思ってきた。
 だから仕事の合間を縫っていろいろ調べたし、彼の眼を盗んで図書館に通うこともした。
 なのに今、降って湧いた彼を知る絶交の機会を前に、もう見たくないと心が泣いている。
 散々傷つけられ、振り回された相手。今も虎視眈々と自分の堕落を待っている悪魔。
 そんな相手だろうと、輪堂天梨は決して優しさと思いやりを捨てられない。
 これを美点と呼ぶか悪癖と呼ぶかは個人の価値観によるだろうが、いずれにせよ、結末は何も変わらない。

 何故ならこれは過去。
 既に終わったこと、過ぎ去ったこと。
 人類史に焼き付いた、影のひとつでしかないのだから。

「ああ――――――――――そう、かよ」

 ぽつりと、死にゆく英雄が声を漏らす。
 止まない吐血のせいで泡立った声。

「お前らは、どこまで行っても、そうなんだな?」

 その声は、聞いている側まで泣きたくなるような悲憤に満ちているにも関わらず。
 同時に、聞く者の背骨を氷柱に置換するような、生物の根源に訴えかける恐怖をも孕んでいた。
 結果、あれほど耳障りに響いていた嘲笑が此処でぴたりと止まる。

「俺達は畜生で、話す価値も、礼儀を尽くす理由もない。
 どんな手を使ってでも駆除すべき害獣で、そんな俺達を殺すお前らはすべてにおいて優れた"人間"だと、そうほざくんだな?」
「は、は――いかにもそうだとも。分かったらとっとと死に果てろ、蝦夷の害獣!! 貴様らが生きていること自体がな、我ら日ノ本人にとっては目障り極まりないのよ!!」
「……おう、分かった。よーく、分かったよ……。
 君らのことは、よく分かった。認めたくなかったし、信じたくなかったけど、信じていたかったけど、ああ――――」

 次の瞬間。
 血涙に濡れ、毛細血管が破れて赤く染まった英雄の眼球が、変わった。
 正しくはそこに宿る色が、悲憤に叫んでいた時のものとは明確に異になった。

 ――――黒い、炎が。
 決して点けてはいけない破滅の黒が、英雄の殻を破って溢れ出す。


「――――認めてやるよ。てめえら、糞だ」


 ぐしゃ。どちゅ。
 そんな音が、響いた。

 宴の席を主導していた松前藩の有力者。
 詰め寄るシャクシャインへ、最初に嘲りを返した男。
 その下顎が、獣の如く跳んで伸ばされた彼の手に掴まれ、握り潰されたのだ。

 途端にすべての嘲笑は阿鼻叫喚の絶叫へと変わる。
 万一を想定して備えていたのだろう暗器を用い、誰もが半狂乱になってシャクシャインを刺す、斬る、穿つ、撲る。
 毒で体内を焼き尽くされた挙句にそんな暴行まで受けた英雄は、もう動かなかった。
 ただひとつ、邪悪な笑みの形に――あるいはこの世で最も激しく燃える昏い怒りに歪んだ口元を覗いては。

「全員……全員、一族郎党、子々孫々に至るまで……殺し尽くしてやるよ、和人ども……!
 最後のひとりまで決して逃がさねえ、誰ひとりとして例外はない……!
 一体どっちが真の畜生だったのか、糞水みてえな絶望を噛みしめて――」
「死……死ねッ! 死ねッ! この狗めがッ! それ以上、耳障りな言葉をほざくでないわ……!!」

 最後。
 力強く突き立てられた小刀が、シャクシャインの首筋を貫く。
 首の骨が砕ける音が鳴り、確実な致命傷でその命脈は断ち切られた。

 なのに。
 最期、ただ一言。

「地獄の底で思い知れ。この俺の――疫病神(パコロカムイ)の怒りをなァ……!!」

 まさしく地獄の底から響くような怨嗟だけが、あらゆる人体の構造を無視して発声された。

 そこで唐突に、輪堂天梨を苛んでいた苦痛が途切れる。
 タイミングを同じくして、急速に浮上していく意識。
 覚醒という文字を思い浮かべる余裕は彼女にはなかったが。
 夢から醒める安堵よりも、ただ途方もない、どうしようもないほどのやるせなさだけが彼女の心を包んでいた。

 ――これらは、ある英霊の伝承。
 正なる歴史には決して語られず綴られない異聞。
 故にそれを知るのは、堕ちた彼を喚んでしまった日向の天使だけ。

 夢が終わり。
 彼女の現実が、帰ってくる。



◇◇



 / After the Versus
 / Friendship



「【同調/調律(tuning)】」
「……は、っ……!?」

 深い深い、地獄の夢から浮上する。
 身体は汗でびっしょりだった。
 局に着いたらシャワー室を借りなきゃいけないと思うくらいには。

「――おい。それ、もう二度とやるなって言ったよな」

 状況と記憶の整理。
 今が夢でなく現実であることへの認識。
 いっぱいいっぱいの天梨をよそに、シャクシャインの不愉快そうな声が響く。
 これに対し、瓶の中のホムンクルスは淡々と答えた。

「心配無用だ、回路には触れていない。
 天梨の回路は既に励起(おき)ている、これ以上私が調律しても意味はない。
 今のはただ、彼女を悪夢から覚ますために意識系へアプローチしただけのことだ」
「どうだか。テロリストの仲間だった人形に言われても信憑性もクソもないね」
「それも含めて問題ない。我が友の信用を損なうとなれば一大事だが、貴殿には現状それほどの価値を見出していないからな」
「さっきも言ったけど、殺されたいなら素直にそう言いなよ」
「殺せないだろう。それがすべてだ」

 険悪そのもののムードであるが、これはもうホムンクルスの同行が決まってからずっとだ。
 今は先ほど行使した令呪の恩恵もあって、天梨としてもだいぶ穏やかな心持ちでこれを見守れる。
 未だどくんどくんと忙しない心臓を撫で下ろしながら、少女は腕の中のホムンクルスを見下ろす。

「ほむっちが起こしてくれたんだね……ありがと」
「異常な動悸と発汗が見られたのでな。余計な世話かとも思ったが……」
「ううん、助かったよ。こんなに汗だくなんだもん、起こしてくれなかったらもっとひどいことになってたかも」

 冗談でもなんでもない。
 夢は夢でも、普通の夢ではないのだ。
 英霊と同調しすぎて精神が限界に達して……なんてオチもあったかもしれない。

 今もまだ身体のそこかしこが痛い気がする。
 幻痛なのだろうが、それほどに壮絶な体験だった。
 ちら、と右隣に座るアヴェンジャーを窺う。
 窓の外に流れる景色を退屈そうに眺める彼は今も、あの激痛を味わい続けているのだろうか。

 きゅ、と胸に手を当て、服の布地を握りしめた時。
 天梨が何かアクションを起こすのを待たず、脳裏に彼の声が響いた。

(やあ、おはよう。ずいぶん良い夢を見てたようじゃないか)
(……冗談。本当に、死んじゃうかと思ったよ)

 皮肉は皮肉でも、いつもの手当たり次第な悪意とは違う。
 そのくらいは天梨にも分かる。だってそれなら、わざわざ念話で言う意味がない。
 つまりこの場のもうひとりの同行者、ほむっちことホムンクルス36号には聞かせたくないという意図。
 今日だけでだいぶ胆を鍛えられたのだろう。天梨は昨日までよりもちょっとだけ勘がよくなっていた。

(その様子だとアレを見たのかな? 凄まじい光景だったろう。俺の気持ちも少しは理解して貰えたんじゃないか?)
(怒らないんだ。アヴェンジャー、私にああいうところ見られるの嫌がると思ってた)
(そりゃまあ、我ながら無様な最期だったとは自覚してるがね。
 とはいえ今じゃ大切な思い出さ。あの糞袋どものおかげで俺は自分の望みを自覚できた。為すべきことを見つけられたんだ)

 くつくつと、心の声でシャクシャインが嗤う。
 泥のような怒りと、マグマのような殺意がそこには同居している。
 車窓から街並みを眺める横顔に笑みが浮かび、白い犬歯が覗いた。

(結局俺はずっと、和人(おまえら)を殺したくて堪らなかったのさ。
 もっと早くそれに気付いていればよかったってのが、今の俺にある唯一の後悔だよ。
 俺達を畜生と見下げるなら是非もない。畜生らしくケダモノらしく、ひとり残らず喉笛食い千切ってやろう……ってね)

 知識では知っていた。
 だが現実は、後世に伝えられた歴史なんかとは比べ物にならないほどに惨たらしかった。
 血反吐の臭い、それをとめどなく吐き出す粘っこい水音。
 絶え間なく響く嘲笑、同じ生き物と思えないほど醜い顔、そして何より、発狂するのではないかと思うほどの激痛。

 マスターとして情けないとは思うが、当分は睡眠がトラウマになってしまいそうだ。
 ただの追体験でさえこうなのだから、実際に味わった/味わい続けている彼がいかなる心境かなど想像もできない。
 そう思えばこそ、彼に言うべきことはひとつ。
 ホムンクルスが起こしてくれて、夢から覚めたのだと理解したあの瞬間から、天梨の中では決まっていた。

(……ごめん、アヴェンジャー)

 今まで自分が彼にかけてきた、思いやりのつもりだった言葉。
 それがどれほど幼稚な自己満足でしかなかったか、あの夢を見た今なら分かる。

 可哀想と、哀しい人と、そう目を伏せて。
 図書館の歴史書や、インターネット上の資料で聞き齧っただけの知識で、彼を哀れんだ。
 自分が彼の立場だったとして、そんな人間が傍らにいたらどう思うだろう。

 辛かったね、悔しいよね。大丈夫大丈夫私もあなたの気持ちが分かるよと。
 戦を知らない癖に、差別をされたこともない癖に、命の終わりにありったけの侮辱をぶつけられたこともない癖に。
 そう隣で喚かれたなら、自分は、果たして平気な顔をしていられるだろうか。
 ――たぶん、無理だ。断言できる。人は天使だなんだと私を呼ぶけれど、輪堂天梨(わたし)はそこまで聖人じゃない。

(私、あなたのこと……なんにも知らなかった。
 なのに今まで、さんざん好き勝手、言っちゃってたよね)

 彼のようには、なりたくない。
 その地獄には、堕ちたくない。

 そう思う気持ちは決して消えない。
 それも自分という人間の醜さなのだと自覚しながら、けれど隠すことだけはしたくないと思った。
 口はどうあれ、目的はどうあれ、今まで自分を守ってきてくれたのは誰だ。
 彼だ。シャクシャインなのだ。復讐の炎と、癒えない毒苦に蝕まれながら顕れた、この復讐者なのだから。

(だからごめんなさい。これじゃあなたに嫌われるのも、当然だった)
(……、……)

 唇を噛んで、小さく下を向いた。
 これならホムンクルスには悟られないだろうと踏んだのだ。

 ホムンクルスのことは正直、まだよく分からないところも多分にある。
 ただ、彼はきっと、自分が思っているよりも優しい生き物だ。他の誰がどう言おうが、少なくとも天梨はそう思っていた。
 だから頭を下げる姿なんて見られたら、彼は必ず言葉で自分達に介入してくる。
 気持ちはありがたいけれど、今はそうさせてはいけないと感じた。
 彼は大事な友達だが、それと同じくらい、この堕ちた英雄との繋がりも天梨には大切なものだったから。

(殊勝ぶるなよ。心配しなくても、俺は端から和人になんて何も期待しちゃいない)

 はっ、と嘲って、シャクシャインが応える。
 いつも通りの悪意、浴び慣れた皮肉。
 だが、それも。

(見たの、最後だけじゃないんだ)
(――あ?)
(オニビシさん。友達だったんだね)

 天梨がこう伝えた瞬間、沈黙が殺意を孕んだものに変わる。
 背筋が粟立つ。冗談でも何でもなく、ひとつでも言葉を誤れば自分の首と胴体は永訣するだろうと直感した。
 だから天梨も沈黙して、彼へ伝える次の言葉を慎重に選ぶ必要があったが。
 彼女の中で答えが出る前に、シャクシャインの心底鬱陶しそうなため息が漏れた。

(……余計な真似しやがって。糞の末裔に、人の思い出を売り渡してんなよ)

 天梨に向けた言葉ではない。
 彼女にそれを見せた、目には見えない、あるのかどうかも分からない何か。
 言うなれば運命に対して溢した、辟易のような台詞だった。

(友達なんかじゃないさ。殺し殺されの腐れ縁だよ。
 俺はそう思ってたし、奴もそう思ってただろうさ。それ以上はあの男への侮辱になる。君だろうが許さないよ)

 死体の散らかった凄惨な光景の中ではあったが。
 あの時、あの場は、間違いなく彼らだけの世界だった。
 シャクシャインとオニビシ。そして彼らの同胞。
 アイヌ民族による、彼らのためだけの世界があった。

 命は散れどもどこか爽やかで。
 それがどんなに惨くても、なぜかちょっと清々しい。
 青春と形容したことを間違いとは今でも思えない。
 そしてシャクシャインの声音を聞く限り、その認識は間違いじゃないのだろう。

(決して平和な日々じゃなかった。いつもどこかに諍いはあって、陰険な野郎も山ほどいた。
 俺だって山ほど殺したし、好かない部族の連中を罠に嵌めて叩くなんざ日常茶飯事だった。
 オニビシにも相当やられたが――人のことは言えない。俺も、奴も。けど、俺達の大地はそれでも満たされてた)

 昔と今は違う。
 価値観も、情勢も。
 ひとりひとりの命の軽さも、何もかも。

(邪魔だったのは、いつだって和人だ)

 海の向こうからやって来て、土足で自然を踏み荒らし。
 保護者面をして戦や政治に介入し、土人どもに啓蒙してやるとばかりに幅を利かせ。
 その癖、まるで猿や狗を見るような目で彼らを見つめる。
 くどいようだが、昔と今は違う時代だ。彼らのやった蛮行も、持っていた差別意識も、今の価値観に照らし合わせて糾弾することはできない。
 天梨もそれは分かっている。そして同時に、当事者からすればそんな理屈、何の慰めにもならないことも。

 少しずつ、歯車は狂っていった。
 アイヌ全体のも。シャクシャインという英雄のも。
 和人の足跡が、足音が、視線が、それら痕跡すべてが。
 残酷でも確かに満たされていた北の大地の何かを、蝕んでいった。

 ――そしてある日、彼は、己の裡に燃える黒い炎を自覚する。

(君が見て、聞いた通りだよ。
 あの宴の席のことなんて、所詮引き金でしかなかったんだ)

 息絶えたオニビシに。
 シャクシャインが、少年のように吐露していた言葉。
 それは、日に日に強まる胸の疼きに対する恐怖。
 気を抜けば燃え盛ってしまいそうな、黒い炎への不安。

 その弱音を聞いてきたから、天梨は彼の言葉を否定できない。
 というより、そうだろうな、と思ってしまう。
 仮にあの時、松前藩の和人達が彼の酒へ毒を盛らなくても。
 和平が成り、戦の火が一度は鎮火したとしても。

(遅かれ早かれきっといつかはこうなってただろうさ。
 あの大地に生まれ育った俺にとって、和人の存在はすべてが目障りだった。
 そういう意味でもこの聖杯戦争は本懐に等しい。あの頃の馬鹿で臆病な俺にはできなかったことが、今ならできるんだからね)

 ……きっと。
 シャクシャインというアイヌの男はいつか、和人鏖殺を掲げる悪魔へ転変していただろうと。

 今よりずっと、死と戦争が身近な時代。
 言葉で言うよりずっと難しい分断に分かたれた、ふたつの民族。
 にべもない差別意識と、頑ななまでの嫌悪感。
 互いが向け合う敵意の中、逃げも隠れもせず英雄として立ち続けることが一体どれほど難しいことか。

(――和人鏖殺、今度はひとりも逃がさない。
 だから早くこっちへおいでよ、輪堂天梨。俺の、俺だけの天使。
 君の堕天を見届けて初めて、俺はようやくすべての悔恨と決別できるんだから)

 邪悪そのものの言葉が、今は前よりも胸に染み入る。
 それは悪魔の誘惑。そして、ある哀しい男の慟哭のようでもあって。
 だからこそ応え/答えぬわけにはいかないと、天梨は思った。

 彼を理解し、彼へかけた言葉のすべてを自己嫌悪し。
 受け止め、顧み、改めて囁かれた地獄への誘惑を聞き届けたその上で。

(ごめんね。私は――そっちにはいかないよ)

 日向の天使も、改めて――
 穢れたる神・パコロカムイの誘惑に、首を横に振る。

(あなたのことをちょっとだけ知れたし、もっと知りたいとも思う。
 誓って、嘘じゃないよ。あなたに嫌われても仕方ない馬鹿な私だけど、それだけは信じてくれたら嬉しい)

 アヴェンジャーの誘惑は天梨にとって悪魔の囁きそのものだ。
 一度でも首を縦に振れば、比喩でなくすべてが終わる。
 後で悔やんでも、決してもう〈天使〉には戻れない。

 だとしても、天梨はこの男のことを嫌いになりたくなかった。嫌いに、なれなかった。
 彼がどれほど剣呑で、どれほど周りにとって迷惑な存在なのかも分かっている。
 彼は激情ひとつで命を奪う。多くの人に、消えない恐怖を与える。
 刃を喉元に突き付けられた煌星満天の顔は今も脳裏にこびりついている。

 ……それでも、満天というひとつの"救い"と出会うまでの一ヶ月間。
 誰ひとり味方のいないこの東京で、自分を守ってくれていたのは他でもない彼なのだ。
 その事実に目を背けたくはないし、背けちゃいけないとそう思うから。

(あなたのことを知って、信じて、その上であなたにも勝つよ。
 私はあなたが耐えてきた黒いきもちを、知ってるから)

 もう一度、きゅっと胸元を押さえる。
 今もそこには、黒く燻る火種がある。
 点けちゃいけない炎。灯れば終わってしまうモノ。
 アイヌの英雄が、最後の最後に灯してしまった昏い輝き。

 同じモノが、今もここにある。
 天使を終わらせる、感情。いや、激情。
 日向を地獄に変える炎。照らすもの皆焼き尽くす、太陽になるための片道切符。

(だってそうじゃなかったら――――私、あなたに出会った意味がない)

 彼の怒りが、天梨には理解できる。
 事の重さも味わった苦痛も天と地以上に違うだろう。
 けれども、理解できてしまうのだ。
 あるいはその一点が、自分のようなアイドル活動以外取り柄のない女が、彼のような存在を呼び寄せられた理由なのか。
 分からない。何もかも分からないが、それでも。

 この出会いを、絆を、決して無為にはしたくない。
 それは天梨らしくもない、もしくは彼女を嫌う同僚からしたらひどく"らしい"思考回路。
 天賦の才能があるのにレッスンもボイトレも惜しまず、同期も先輩も皆置き去りにしてきた恐ろしく前向きな貪欲さ。優しい天使が持つ唯一の怖さ。

(ねえ、アヴェンジャー。こんな私のところに来てくれた、強くて哀しいあなた)

 輪堂天梨は、間違いなくただの少女である。
 運動神経。並。頭脳。並。
 言葉ひとつで他人を狂わすなんて無理、それどころか顔も知らない他人の言葉で闇路の前に立たされるくらいには弱く、月並み。

 ――だが。ステージの上で彼女を倒せた人間は、未だかつてひとりもいない。

(あなたも、私と、勝負してくれる?)

 天性のアイドル。
 日向の天使。
 悪魔のためのラスボス。
 そして、恒星の資格者。

 それが輪堂天梨。
 狂気さえ魅了して羽ばたく、大空の御遣い。

(……、ああ――上等だよ)

 形はなくとも、差し伸べられたその掌を。
 同じく無形のままに握り返して、シャクシャインは獰猛に応じる。
 溢れるのは狂気ならぬ凶気、復讐の炎。
 彼は穢れたる神。天さえ穢す死毒のパコロカムイ。

(それが俺と君を繋ぐ、ただひとつの絆だ)

 ホムンクルスの言葉は的を射ている。
 シャクシャインはもう、輪堂天梨を"その他大勢"と看做せなくなって久しい。

 彼はそれを、たとえ天地がひっくり返っても認めようとしないだろう。
 が、事実として、ホムンクルスが彼へ投げた指摘はその欺瞞を完全に論破していた。
 堕ちた英雄はとうに知っている。自分を喚んだこの和人が、単なる糞袋ではないのだと。
 これほど追い詰められ、数多の悪意に曝されて、それでも誰のことも傷つけられない日向の光。
 何ひとつ灼かず、ただ暖かに癒やして励ます優しい輝き。それが分からぬほど、アイヌの英雄は愚鈍ではない。

 だからこそこれは、彼にとっても存在意義を懸けた"戦い"だった。
 この眩い生き物を隣に置いても浄化されることなく、それどころかこれを闇に堕としたならば、我が身を焦がす炎は地上の何より尊いと。
 そう証明するために、復讐の悪魔は日向の天使の手を取ったのだ。
 融和など願い下げ。だが勝負なら、臨むところ。

(穢してやるよ、輪堂天梨。大和にただ一輪咲く、日向の花)
(……怖いけど、負けないよ、シャクシャイン。私の、たったひとりのサーヴァント)

 戦いのあと。
 ステージライトは既に消え、今は再びそれぞれの運命の中。
 それでも天使は、大好きな最凶と過ごした時間さえ糧にして、もうひとりの悪魔との戦場へ臨む。


 輪堂天梨、最凶ならぬ、最強のアイドル。
 日向の天使もまた、成長することを惜しまない。
 胸の中の黒を有り余る白で押し留めながら、汗だくの身体でまだその翼を伸ばす。



◇◇



「――話し合いはうまく行ったのか?」
「えっ。……ほ、ほむっち、もしかして聞いてたの!?」
「いや、カマをかけただけだ。
 あからさまな沈黙、何やら神妙な表情。そういうことなのではと思ってな。しかしその様子を見るに、予想は的中か」
「む、むう……! ほむっちって結構そういうとこあるよね……!」

 ぽふり、と腕の中に収まった格好のまま、ホムンクルス36号は事もなげに言ってのける。
 会話の内容まで悟られたわけではないだろうが、それでもだいぶ格好つけたことを言っていた手前、なんだかちょっと恥ずかしい。
 若干のむくれ顔で頬を染めながら、天梨は結構露骨に話を逸らすべく口を開いた。

「あ……そういえば。アサシンさんは、今も私達についてきてくれてるの?」
「いや、アレは既に放った。ちょうど君がアヴェンジャーと対話している間に、こちらも念話で指揮を行わせてもらっていた」
「さ、流石ほむっち。無駄がない……じゃあ、えっと、あの人は今どこで何をしてるのかな」
「同盟相手の回収だ。如何せん、病院での一件から時間が経ち過ぎているのでな。
 この辺りでアクションを起こさなければ、せっかく作ったコネクションが無為と帰しかねない」


 カラオケボックスでホムンクルスと交渉した際に聞いた名前だ。天梨もちゃんと覚えていた。
 彼が自分達よりも先に作っていた同盟相手というのが、このアンジェリカ某である。
 ホムンクルスは天梨は主従どちらとも相性がいいと言っていたが、実際のところ天梨は、彼女達についてまだ何も知らない。
 早いうちになんとか顔合わせを済ませておきたいと考えていたのだけれど、それもあの区民センターの一件ですっかり吹き飛んでしまっていた。

(どんな人達なんだろ。
 できればほむっちの言う通り、話の分かる人達だといいんだけど。
 ていうか私、社会的にはスキャンダルだらけの大悪女になってるんだよなー……)

 そんなことを思いながら、手持ち無沙汰なので少し突っ込んだことを聞いてみることにする。

「ほむっちは、アルロニカさん達とは仲良しなの?」
「いいや? むしろかなり警戒されているが」
「ほむっちさん……? あの……?」
「同盟を結んだからと言って、皆が皆互いに信用し合っているわけではないということだ。
 それこそノクト・サムスタンプと、あの"詐称者"のように。
 アンジェリカ・アルロニカの方はまだ思考に柔軟性があるものの、サーヴァントの方は私にもアサシンにも強く難色を示していてな。
 挙句病院戦ではまともに別れることもできなかった。少なくとも再会の暁に、彼女らが私に行うのは詰問だろう」

 ……聞いてみた結果、一気にずーんと気が重くなった。
 否が応にも先ほどの修羅場が思い出される。

「安心しろ。断言まではできないが、さっきのように話が拗れることはまずないと考えて構わない」
「……どうして? そんなに私、その人達と馬が合いそうに見えるの?」
「それもだが、彼女達は恐らく私に問いたいことがある筈だ。
 蛇杖堂寂句。我が主たる太陽の傍を周回する愚かな衛星のひとつ――だが、群を抜いて危険な老魔術師。
 あの男と出会い戦って、まさか何も得られず終わったということはあるまい。生きているのならば、だが」

 正直天梨にはその辺の話はよく分からないのだが、ホムンクルスの言葉には妙な説得力があった。
 油断はできないし未だに不安もあるものの、彼が言うのなら確かに悪い方には転ばないのかもしれない。
 アサシンが首尾よくアンジェリカらとの合流を果たせれば、またひとつ予定が増えることになる。
 心構えだけは、しておこう。天梨はそう思って、小さく息を吐いた。

 ホムンクルスを抱いたまま、スマートフォンを起動する。
 特に用があってそうしたわけではない。彼女に限らず、現代人なら誰だってそうだろう。
 要は癖のようなものだ。髪先をいじるとか、爪を噛むとか。それが現代ナイズされただけの、特筆する意味を持たない行動である。

 ただ――輪堂天梨という少女に関して言うなら、これは明確に"悪癖"であった。

「……あ」

 インターネット。特に、ソーシャルネットワーキングサービス。俗に言うSNS。
 そこは本来、日常のストレスを紛らわせるための空間である。
 芸能人、有名人でもそれは変わらない。何気ない日常をポストするもよし、イベントの宣伝や共演者との戯れに使うもよし。ファンとの交流の場として活用するのだって十分ありだろう。
 だがそれは、世間が自分の名を聞いた時に連想してくれるイメージが、好意的かつ健全なものである場合に限った話。

 その前提が崩壊しているのなら――老若男女誰でも顔を合わせずにメッセージを送れるこの空間は、一転して当人を酷く苛む地獄と化す。

 輪堂天梨はアイドルである。
 そして――顔のない大衆にとっての、公共の敵(パブリック・エネミー)である。
 捏造されたスキャンダル。噂は噂を呼び、差した影は彼らの中で確たる実像として信仰される。
 さながら、アイドルという偶像に対する喝采と崇拝をありったけ露悪的に歪めたように。
 反転した応援は、幻想を信じるというプロセスはそのままに、天使を穢すためだけの毒沼と化した。

 天梨とて、馬鹿ではない。
 見れば嫌になると分かっているものを、長々眺めて良いことなんてひとつもないと分かっている。
 それでもどこかで、この現実をまだ認めたくないとでも思っているのか。
 時々こうして反射的にアプリを開いてしまっては、見たくないものを見て閉じる、という自傷にも似た行動をしてしまうのだ。

「…………ふう」

 すぐにアプリを落としたが、それでも少しだけ見えてしまった。
 埋め尽くされたダイレクトメッセージ欄。集団越冬する虫のように群れをなした誹謗中傷、罵詈雑言の数々。
 暴言は吐けても個人を特定されるのは怖いのか、顔(アイコン)のないアカウントばかりが列をなして天梨へ"正義の鉄槌"を下していた。
 今日もせっせと、飽きることなく。受け取る側の視点に立つのはおろか、事の真実に想像力を働かすことさえ怠る蒙昧の群衆。

 それでも、今日はいつもより、まだ大丈夫。
 いつしか習慣になった深呼吸が、体内の毒素を入れ替えるように、沸き起こりかける負の感情を洗浄する。
 きっと、直前にシャクシャインの過去を見ていたのが幸いしたのだろう。
 そう、大丈夫。私はまだ大丈夫。まだ、私は〈天使〉のままでいられる。あれを見た後で、この程度のことで弱音なんかあげられない。

 暗示のように行う自己肯定。
 黒い炎は弱り目に付け込んで大きくなる。
 だから、自分を常に高く保つことは大切だと、天梨は生き地獄の日々の中で学んでいた。
 言うなれば感情(じぶん)相手の処世術。自分自身まで魅了するかのように、光を放って翼を維持する。

 大丈夫、大丈夫――そう言い聞かせながら、今日も天使は戦うのだ。
 顔のない大衆の声ではなく、堕天を囁く悪魔ではなく、何よりも自分自身と。

「話には聞いていたが、ずいぶんと酷いものだな」
「あ……」

 腕の中から発せられた声に、思わずびくりと反応する。
 彼を抱えたままスマホを開いたものだから、画面が瓶の中からも見えてしまったらしい。
 恥ずかしさよりも勝つのは気まずさだった。
 いじめを受けている子どもは、それを部外者に知られるのを嫌がる傾向にある――どこかで聞いたそんな話を、天梨は思い出す。

「……あはは。見ちゃった? ごめんね、気にしないで」
「御身がそう言うのならば忘れるように努めよう。だが」

 努めよう、と言ったばかりではあるが、ホムンクルスは興味深そうに押し黙る。
 天梨としても、こればかりはあまり触れられて具合のいい話ではない。
 ないのだが、ホムンクルス36号は保護者の軛を脱し、自立を始めて間もない赤子だ。

「少し驚いた。御身のような人間でも、あのような雑音に足を取られるものなのか?」

 言ってしまえば彼には、人の心があまり分からない。少なくとも、今はまだ。
 だからこそそんな彼が続けて口にした言葉は、悪意でもなければ激励でもない、単純で純粋な疑問だった。

「大げさだなあ……。私、そんなに大した人間じゃないよ」
「そんなことはない。本物の星を知る私が、そこに到り得ると認めた存在。
 それを誤りと疑われれば、流石に私も反論せざるを得ない。
 何故ならその疑いは、私が主君に捧ぐ忠誠を軽んじられるのと同義だからだ」
「あっ、ちが、私そんなつもりじゃ」

 咄嗟にわたわたと慌てる天梨。
 彼女も、ホムンクルスが"主"にどれほど強く懸想しているかはある程度分かっている。
 地雷を踏んだかと冷や冷やしたが、続くホムンクルスの言葉がそれを杞憂と断じた。

「――輪堂天梨。君は十分すぎるほどに"大した人間"だ」

 天梨としてはもちろん謙遜したい。
 でも、さっきみたいな言い方をされるとしようにもできなくなってしまう。
 なのでなんとも言えないむず痒さを覚えながら、彼の賛辞を甘んじて受け入れるしかなかった。

「だからこそ私は驚いたのだ。そんな君の足を止めているのが、よもやそのようにありきたりな泥濘だったことに」
「ありきたり……かあ。うん、そうかもね。でもさあ、ほむっち」

 少しだけ、瓶を抱く腕に力が籠もる。
 昔からの癖だ。ひとりでいるとき、なんとなく不安なとき。
 何かをぎゅっと強く抱く、そんな癖があった。

「それでも……やっぱり怖いよ。誰かに"嫌われてる"って知ることは、いつだってすごく怖い」

 私は弱い人間だから、と続けたかったが、さっきのことがあったのでぐっと飲み込んだ。
 自分のためにもそれでよかったなと少し思う。
 言霊というものは馬鹿にできない。吐いた言葉は、何であれ誰かにとっての呪いになる。
 時には自分自身でさえその例外ではない。だから、飲み込んでおくに越したことはないのだ。

「お腹のこの辺りがね、きりきりして。胸はきゅうっと苦しくなって、息が詰まるみたいな感じで」

 クラスメイトが自分の陰口を言っているのを知った時。
 身に覚えのないゴシップが出て、昨日までファンでいてくれた人がひどい暴言を送ってきた時。
 自分の根も葉もない噂を喧伝しているのが、仲間だと思っていたエンジェのメンバー達であると知った時。
 いつだって――自分が嫌われ者なのだと知った時は心が痛かった。

 それを笑顔の下に隠すすべを知っていたのは、彼女にとって幸運だったのか不運だったのか。
 天梨は痛みを堪えるのが特別上手かった。傷を隠し、悲鳴を歌声の中に沈め、持って生まれた眩しさは現実を隠すモザイクになった。
 故に天使は今に至るまで変わらず健在。休むことなくステージに立ち、炎に巻かれながら魅了の羽ばたきを続けている。

「なるほど、そういうものなのか。私は存在柄、嫌われるのが仕事のようなものだからな。正直まだ理解できない感情だ」
「分かんなくていいよ。自分のことを嫌いな人なんて、少ないに越したことないんだから」
「友の言葉であれば無碍にすべきではないな。覚えておこう」

 ホムンクルスには、天梨の苦しみは理解できない。
 彼は前に比べれば多少感情というものを心得たが、それでもまだまだ無機的(システマチック)だ。
 他人に嫌われたから何だというのか。そも、この世はごく限られた人間以外は路傍の石に過ぎまい。
 例外は生まれてから今に至るまで、わずかに二人だけ。
 彼女達の共通点は、悪意というものを持たないこと。
 あるがままに振る舞い、踊り、結果としてその輝きで世を照らす。

 真の天禀に好悪などという概念は必要さえない。
 それはこの人造生命体が、悪魔の少女に否を突き付けた論拠のひとつでもあったが……

「しかし、ふむ」

 ノイズのように脳裏を走る、記憶があった。
 闇夜の蔵に浮かぶ華のかんばせはいつになく不興を湛えていて。
 可愛らしく膨らんだその頬を、ホムンクルスは、ミロクと名付けられた人形は覚えている。

 その上で、改めて目の前の少女の顔を見た。
 思えば、この友人がそういう顔をしているところは見たことがないと思い。
 別に金言を授けようという気もなく、かと言って堕ちた英雄のように彼女を堕落へ誘うつもりも毛頭ないまま。
 ただ友と交わす何気ない会話のひとつとして、ホムンクルスは彼女へ言っていた。

「君はもう少し、自分のために怒ることを覚えてもいいのではないか?」
「――え?」

 きょとん、とした顔でホムンクルスを見つめる天梨。
 それをよそに、彼は主との思い出を述懐していた。

 懐かしむ、などと言えば大袈裟になるだろう。
 時間としてはせいぜいひと月と数日前のことでしかない。少なくとも体感上は。
 あれは誇りの日、主のために身を捧げた日のその前夜。
 無垢にして無機なる命(ホムンクルス)は回想する。
 自分に友とは何たるかを説いた、膨れっ面の主と過ごした夜の記憶を――。



◇◇



 その日、ガーンドレッドの工房を訪れた神寂祓葉はいつになく不機嫌な様子だった。
 足取りは普段より目測で1.1倍早く、鼻息は1.2倍ほど荒い。
 頬は上気し、眼は微かに潤んでいるように見えた。

『もう、聞いてよミロク! イリスったらひどいんだよ!!』

 当時、ガーンドレッド家率いるバーサーカー陣営は苦境の真っ只中。
 テロリストまがいの戦法で暴れ倒した彼らを待ち受ける当然の逆境。
 外堀はいつの間にか埋められ、得意の自爆戦法が目に見えて成果を挙げられなくなりつつあった。
 それでも怒れる阿修羅王は、成果の多寡など関係なく膨大な魔力リソースを食い潰す。
 慎重に慎重を重ね構築された使役体制でさえ限界はある。よって彼らは、選択の岐路というものに立たされていたのだ。
 損耗を恐れず、いずれかの陣営を此処らですり潰す。
 そしてそのリソースを略奪し、強引にでも既存の戦い方を維持できるようにする――臆病が売りの魔術師達がどれほど胃を痛めていたかは想像に難くない。

 しかしそんな事情など一顧だにすることなく、いつものように祓葉はやって来た。

 開口一番彼女がまくし立てたのは、同盟者である楪依里朱……セイバーのマスターへの不満。
 やれ言い方がひどすぎるとか、そりゃ私にだって悪いところはあったとか、だけどそれにしたってイリスは鬼だとか。ヒス持ちメンヘラ阿修羅王だとか。
 ファミレスの片隅でまき散らされるような月並みな愚痴を、敵陣の中枢でそこそこの声量で喚く。
 ホムンクルスは相槌を挟む隙もなく繰り広げられる祓葉のご立腹を、瓶の中から黙って聞いていた。

『はぁ、はぁ……。あー、すっきりした。やっぱり人に話すとちょっとスッとするね』

 全身も声帯も余すところなく使い、ジェスチャーと声真似を駆使して不服表明していたからだろう。
 額にじっとり滲んだ汗を手で拭いながら、ひとっ走り終えたみたいな顔で言う祓葉。
 ようやく話が一段落したと見て、ホムンクルスは問いを投げかけた。

『話の時系列が脈絡なく前後する上、全体的に内容が支離滅裂でよく分からなかったのだが』
『ひ、ひどい!? 確かにお前話下手くそすぎるってしょっちゅうクレーム来るけど!!』
『つまるところ、貴方は楪依里朱と断絶した。今後は敵として相対する、ということでいいのだろうか?
 であれば当陣営としても考えがある。ともすれば貴方の陣営と同盟を結ぶ選択肢も――――』

 祓葉は最初、悪意ゼロで放たれた"何を言ってるのかよく分からなかった"という感想にアホ毛をしなびたバナナみたいにして項垂れていたが。
 続き放たれた問いを聞くなり、こてん、と首を傾げた。

『? なんでそうなるの?』
『同盟者と決裂したとなれば、当然関係の解消に至るのが普通だろうと考えたが。違うのか?』
『違う違う! うーんと、あーっと……なんて言えばいいんだろ……』

 そういうものなのか、とホムンクルスは煮え切らないまま魔術的に発声する。
 眼前の少女が一年考えても解けないだろう難解な定理でも即答で答えられる程度の知識をインストールされているホムンクルスだったが、彼に言わせればガーンドレッドにより入力されたどの学術的知識よりも、今祓葉が言っていることの方が難解に感じられた。

『話に伝え聞く限り、セイバーのマスターはそう優れた人間には思えない。
 貴方がそうして怒りを噛みしめてまで関わり続ける値打ちが感じられないが』
『ん、んんんんん……えっとね、ミロク』

 あーうー。
 しばらく唸って、祓葉は。

『――――極端!! 考え方が極端すぎるよ、ミロクは!!』

 びしっ、と、芸人がするみたいなツッコミのポーズを取って叫んだ。

『そんなゼロか壱百かで物事を考えてたら疲れちゃうでしょ。
 感情っていうのはね、もっとこう、気軽にぽーんって出していいものなんだよ』

 ふむ、とホムンクルスは少女の言葉に思考を深める。
 思えばこの少女は、確かに初めて会った時からずっと感情豊かだった。
 よく笑い、よく怒る。わーきゃー言いながら涙目にもなるし、怖いと感じたら分かりやすく顔を青ざめさせる。
 今しがた講釈された感情の何たるかを、なるほど確かにこの少女はその言動で体現していた。

『ミロクは会ったことないだろうけど、イリスなんてすっごいんだから。
 もういっつもちょっと怒ってる。すごい時は道の段差とか飛んでる虫とかに怒ってる。私なんて怒られてない時間の方が短いよ。
 だけど――だからって私を殺そうとはしないし。私だって今ぷんぷん怒ってるけど、イリスを殺しちゃおうとかは思ってない』

 指を一本ぴんと立てて、らしくなく説明をしてくれる姿は、さながら姉か何かのようにも見える。
 この人に何かを教わる日が来るとは、と感じなかったと言えば嘘になるが、とにかくミロクにとってそれは確かな学びだった。

『つまり、感情というものは必ずしも一貫している必要はないと?』
『そういうこと! うんうん、物分かりのいい生徒で先生嬉しいですよっ』

 はなまるー!、と瓶の上部を撫でてくる祓葉の姿を見ながら、今しがた聞いた事実を咀嚼する。
 製造時に知識と一緒に入力された、魔術師の世界のセオリーとは乖離する理屈と感じた。
 己の生みの親達が聞けば鼻で笑うか、バグを疑って眉間に皺を寄せ、急遽の調整を開始するだろう。
 せっかく教授を受けておいてなんだが、恐らく自分にこの知識を活かせる場面は来ない。
 ホムンクルスは、そう結論づけた――それに、そもそも。

『了解した、覚えておこう。尤も、感情なきこの身には無用の道理かもしれないが。
 敵を欺く手管のひとつとしては利用可能かもしれない。得難い知見であった』
『……極端っていうか、ミロクってちょっとズレてるよね?』

 眉根を寄せる祓葉の顔を、射し込む月明かりが照らしている。
 感情がない、と言った傍から、ホムンクルスは己の矛盾を自覚する。

 ――――ああ、やはり、美しい。

 後に主君と仰ぎ、狂気に堕ちて尚追い求め続ける太陽の君を。
 運命を得て狂い始めた無機なるホムンクルスは、ガラス越しにぼうっと見つめていた。




 ……この翌日、彼は他でもない彼女のために自ら命を投げ捨てる。
 ガーンドレッドも、彼らの敵も、誰ひとり予想のできなかった自滅。
 それを以って、聖杯戦争における最大級の脅威・バーサーカー陣営は壊滅し。
 命を繋いだ神寂祓葉は頭角を現し、〈熾天の冠〉を巡る戦いは少女ひとりに蹂躙される。

 ――時は流れ、世界は巡り、戦の運命は廻って。
 友を得たホムンクルスは、予期せず学んだことを活かす機会に恵まれた。

 彼は、天使が日向のままであろうとも、転変してすべてを憎む堕天使になろうとも、構わないと考えている。
 シャクシャインへ告げた言葉に嘘はない。
 重要なのはあくまでも天使の飛翔。翼の色など些細な問題であって、重要なのはその高度なのだ。
 ホムンクルス36号は輪堂天梨の味方だが、彼女の願いに常に寄り添うとは限らない。
 しかし――それでも。今この瞬間に彼が彼女へかけた言葉は、そういう打算や下心に基づく囁きではなかった。

 単なる、日常会話の延長線だ。
 友人同士の雑談の中で飛び出した、ほんのちょっとした助言。軽口と言ってもいいかもしれない。

 感情とは、気軽に出していいものなのだと彼の主は言った。
 だから教わった知見を、自分も友に対して気軽に口にしてみただけのこと。
 それ以上でも、それ以下でもない。彼の主が見たならば、ほわほわ微笑んでうんうん頷いてみせたかもしれないが。



◇◇



 車が揺れている。
 新宿の街並みが、線になって通り過ぎていく。
 腕の中にあるのは、ちいさな友達の入ったガラス瓶。
 中に満たされた液体が波打つとぷんとぷんという音を聞きながら、天梨は考えていた。

(……自分のために怒ってもいい、かあ)

 脳裏に浮かんだのは、やはり煌星満天の顔だった。
 辛口審査員の厭味ったらしい物言いに噴飯して、ステージを吹き飛ばしたあの映像。
 何度もリピートしてはくすくす笑った、彼女の"晴れ舞台"が無声映画のように再生される。

 自分の胸の奥には、黒い炎がある。
 アイヌの英雄がずっと押し殺してきて、最後の最後に呑まれてしまった、地獄の業火がある。
 それを解き放ってしまったら、もう戻れはしない。
 だから天梨は常に自分を律し戒め続けてきたのだが――思えば、自分のために怒れないのは今に始まったことではなかった。

 昔から、人が悲しむ姿を見るのが嫌いだった。
 アイドルにスカウトされるずっと前から、自分は他人を笑顔にする側であろうと努めてきた。
 そんな自分が怒ったりなんてしたら、自分のせいで悲しんだり傷ついたりする人が出てしまう。そうなっては本末転倒だ。
 だから輪堂天梨は物心ついた頃からずっと、怒りという感情を鞘に納めて封じて生きてきた。
 陰口を叩かれていることを知っても。理不尽なやっかみで嫌がらせを受けても。根も葉もない噂話で、極悪人のように仕立て上げられても。
 怒らず、腐らず、いつだって笑って。
 輪堂天梨は、それが〈天使〉の在り方と信じていた。

 誰もそれを諌めたりなんてしなかった。
 裏を返せば、それだけ皆自分に萎縮していたということなのだろうが――
 今日、この時を迎えるまで。誰かにそんなことを言われた経験は、本当に一度たりともなかったのだ。

(天使のまま、自分のために怒る。
 自分のために――怒ってあげる。
 そんなこと……しても、いいのかなあ……?)

 天使でありたい。
 この空から、堕ちたくない。
 天使のまま、皆に笑顔を授け心を照らしながら、自分のためにも怒ってあげる。
 皆に向ける優しさを、自分に対しても向ける。

 ――そんな生き方が。
 ――果たして、成り立つのだろうか。

 もうすぐ局へ着く。そうなれば、仕事の時間が来る。
 がたんごとん。車が揺れる。
 とぷんとぷん。腕の中の水面が揺れる。

 とくん。とくん。
 いつぶりに貰ったか分からない"友達からの言葉"が、天使の心も静かに揺らしていた。


【新宿区・路上/一日目・日没】

【輪堂天梨】
[状態]:精神疲労(小)、汗だく
[令呪]:残り二画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:たくさん(体質の恩恵でお仕事が順調)
[思考・状況]
基本方針:〈天使〉のままでいたい。
0:怒ってもいい、かぁ……
1:新宿区で夜からお仕事を開始する。
2:ほむっちのことは……うん、守らないと。
3:……私も負けないよ、満天ちゃん。
4:アヴェンジャーのことは無視できない。私は、彼のマスターなんだから。
[備考]
※以降に仕事が入っているかどうかは後のリレーにお任せします。
※魔術回路の開き方を覚え、"自身が友好的と判断する相手に人間・英霊を問わず強化を与える魔術"を行使できるようになりました。
 持続時間、今後の成長如何については後の書き手さんにお任せします。
※自分の無自覚に行使している魔術について知りました。
※煌星満天との対決を通じて能力が向上しています(程度は後続に委ねます)。
※煌星満天と個人間の同盟を結びました。対談イベントについては後続に委ねます。
※もうすぐテレビ局に着くみたいです。

【アヴェンジャー(シャクシャイン)】
[状態]:苛立ち、全身に被弾(行動に支障なし)、霊基強化
[装備]:「血啜喰牙」
[道具]:弓矢などの武装
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:死に絶えろ、“和人”ども。
0:――上等だよ、天梨。
1:鼠どもが裏切ればすぐにでも惨殺する。……余計な真似しやがって、糞どもが。
2:憐れみは要らない。厄災として、全てを喰らい尽くす。
3:愉しもうぜ、輪堂天梨。堕ちていく時まで。
4:青き騎兵(カスター)もいずれ殺す。
5:煌星満天は機会があれば殺す。
6:このクソ人形マジで口開けば余計なことしか言わねえな……(殺してえ~~~)
[備考]
※マスターである天梨から殺人を禁じられています。
 最後の“楽しみ”のために敢えて受け入れています。

※令呪『私の大事な人達を傷つけないで』
 現在の対象範囲:ホムンクルス36号/ミロクと煌星満天、およびその契約サーヴァント。またアヴェンジャー本人もこれの対象。
 対象が若干漠然としているために効力は完全ではないが、広すぎもしないためそれなりに重く作用している。


【ホムンクルス36号/ミロク】
[状態]:疲労(中)、肉体強化、"成長"
[令呪]:残り二画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:なし。
[思考・状況]
基本方針:忠誠を示す。そのために動く。
0:天梨に同行しつつアサシンの報告を待つ。
1:輪堂天梨を対等な友に据え、覚醒に導くことで真に主命を果たす。
2:アサシンの特性を理解。次からは、もう少し戦場を整える。
3:アンジェリカ陣営と天梨陣営の接触を図りたい。
4:……ほむっち。か。
5:煌星満天を始めとする他の恒星候補は機会を見て排除する。
[備考]
※アンジェリカと同盟を組みました。
継代のハサンが前回ノクト・サムスタンプのサーヴァント"アサシン"であったことに気付いています。
※天梨の【感光/応答】を受けたことで、わずかに肉体が成長し始めています。
 どの程度それが進むか、どんな結果を生み出すかは後の書き手さんにおまかせします。
※継代のハサンをアンジェリカ達と合流させるために放出しました。



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最終更新:2025年02月09日 00:55