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『ごらん、巳花。綺麗だろう。私達を生み、育み、導いてくださる偉大なお空だ。両手を合わせて、父さん達のように拝みなさい』



 ――――お星さまが嫌いだった。
 だって星が出てる日は、みんなおかしくなるから。



 私が生まれ育ったのは、どこにでもあるようなちいさな集落だ。
 年寄りばかりで子どもなんて数えるほどしかいない、物寂しい集落。
 そこで助け合いながら暮らす部族の一員として、私は生まれた。
 名前は今も覚えてる。巳花(みか)。かわいい名前だと思った。ちっちゃい頃から、ちょっと自慢だった。

 部族の中で争いなんて滅多になく、あっても子どもの喧嘩ぐらいのもの。
 血の繋がりは生まれを区別するだけのものでしかない。
 みんなが家族で、みんなが仲間。今思うとちょっとクサいくらい、私の故郷は優しさで溢れていた。

 のびのび成長させてもらったと思う。
 イタズラもしたし、年相応にわがままも言った。
 季節外れの桃が食べたいと駄々をこねて父親を命がけの冒険に出かけさせてしまったこともある。
 木の棒一本だけ持って、嫌だ怖いとべそをかく弟を連れて化物が住むと噂の山に乗り込んだりもしたっけ。
 それでも、そういう理由で怒られた記憶はない。そのくらいみんな優しくて、何かに怒るくらいなら肩寄せあって歌おうって感じで。
 私はそんな人達が好きだった。そんな優しくて楽しい人達に、仲間の一員と思ってもらえてることが嬉しかった。

 でも、ひとつだけ嫌いなことがあった。
 星の見える夜は必ず外に出されて、お祈りをさせられる。
 カガセオ様、カガセオ様。何卒我らを高き御空へお導きください。
 不参加なんて許されない。一度お祈りなんてつまんないと言った時には、初めてお母さんに殴られた。

 なんでも、星空の向こうにはカガセオ様ってとても偉い神さまがいるらしい。
 正直ピンと来ない話だったけど、それでもちゃんと信じてたつもりだ。
 私はみんなに倣って、誠心誠意お祈りを捧げた。捧げながら、大きくなった。特別な子しかなれないっていう、部族の巫女にもさせてもらった。
 慣れ親しんだ故郷を離れねばならないって話が挙がって、みんな泣いたり怒ったりしてる時にも、カガセオ様は助けてくれなかった。


 その頃になると、もうみんな怒っていない日がなかった。
 天の傲慢はもはや許せぬ。天津神何する者ぞ、このまま奴らに奪われるばかりでいいのか。
 何かがおかしくなっていくのを、肌で感じていた。
 今にきっと、何かとてもひどいことが起きる。そう分かった。
 だから必死にお祈りした。カガセオ様、カガセオ様、どうか我らをお救いください。欠かした日はなかった。星の出てない日でもひとり祈った。
 それでも、カガセオ様は助けてくれなかった。


 集落はちゃんとおかしくなった。
 なんでもみんなで死ぬらしい。
 私にたましいを束ねて、みんなでお空に昇るらしい。

 馬鹿になったのかと思った。
 ふざけてるのかと思った。
 もう誰も怒ってはいなかった。
 みんな、壊れたみたいに笑ってた。
 なんでも、これで全部救われるらしい。
 故郷の土地は守られて、傲慢な天津神は滅ぼされ。
 星の教えを守る敬虔な信徒達は星空に昇り、永久に幸せに暮らせるらしい。

 ――――狂ってると思った。

 儀式の前の日、寝ている弟を叩き起こした。
 三つ下の弟は、私の宝物だった。
 いろいろ連れ回したりやんちゃに付き合わせたりしたけど、世界の誰より大事に思ってた。
 だから起こした。伝えるためだ。一緒に逃げよう。こんなの絶対、間違ってる。

 感情任せに全部叫んだ。
 巫女の立場もあって誰にも言えなかったこと。
 それとなく言っても、聞き入れられずに流されたこと。

 故郷の土地なんてくれてやればいい。
 どうしても嫌なら天津神にみんなで土下座でもすればいい。
 こんな辺鄙な土地のために死ぬなんて、誇りなんかのために死ぬなんて、絶対におかしい。
 弟は寝起きなのも相俟ってか目に見えて戸惑っていた。それでも構わず叫んだ。

 みんなおかしい。狂ってる。
 何も起きなかったらどうするんだ。カガセオ様が助けてくれなかったらどうするんだ。
 第一今まで、一度でも助けてもらったことがあった?
 私達が辛い時や悲しい時、一回でも神さまが手を差し伸べてくれたことがあった?
 不作で明日の食べ物にも困ってる時。先代の長老が咳が止まらなくて一晩中苦しんで死んだ時。
 川で遊んでた小さい子がいなくなった時。天津神の平定にみんなで頭を悩ませてた時。
 星空の神さまは何かした? 何もしてくれなかった。星はただ綺麗なままで夜空にキラキラ輝いているだけだった。

 溢れ出した"きもち"は止まらない。
 今まで抱いてた違和感、感じてた不安、全部ぶちまけて。
 そして。


 ――――カガセオ様なんて、本当はいないんじゃないの?


 言ってはならないことを、言った。
 後悔はなかった。だってそれも、今までずっと思ってたことだから。
 綺麗な夜空には神さまなんていなくて。あの星々は単なる自然のひとつでしかなくて。
 私達は吹く風や降る雨を指して"神さま"と呼ぶような、意味のないことをしてきたんじゃないかって。
 ぜんぶ伝えた。伝えて、手を引っ掴んだ。逃げるためだ。そうすればきっと少しでも違う明日が来ると信じてた。

 だけど。
 引いた手は、頑なに拒まれて。


『お姉ちゃん』
『カガセオ様を悪く言ったら、駄目だよ』


 困ったように笑いながら、弟は嗜めるみたいにそう言って――
 そこで私は、逃げ場なんてどこにもないんだとわかった。



◇◇



 ――――ねえ、私は?



◇◇



「あんたの相棒ってさ、もしかしてめちゃくちゃバカなの?」
「否定はしかねるな」

 治癒の完了した脇腹をなぞりながら、天津甕星は傍らの科学者にそう言った。
 眉根は寄り、目は細められている。現代で言うところのジト目である。
 それに対し、厭世家の科学者は彼女の視線などどこ吹く風といった様子で答える。
 そう、否定はできない。アレが死ぬ程バカで、向こう見ずで、どうしようもない女なのは彼がいちばんよく知っている。

「あのランサーは国父、建国王だ。この国で言えばイザナギが近いだろう。
 杉並区は奴の言う通り、カドモスの都市国家という概念を帯びてしまっている。
 本腰入れて潰すならまだしも、セラフシリーズの試験運用段階で事を構えるにはやや手に余る。そう思ったので、退いた」
「だから最初から呼ぶなよそんな奴。黒幕が自前の土地奪われてどうすんのよ」
「それは……、……ボクもまったく同じことを思っているので如何とも答え難い。
 たまさか言葉を離せてまともな見目を持った類人猿が神になった場合の弊害を見せられた気分だ。実に不愉快な心地だよ」
「あんたのマスターってゴリラなの?」
「否定はしかねる」

 本日二度目の回答をしながら、科学者――オルフィレウスは嘆息した。
 そう、老王カドモスの推測は当たっている。
 オルフィレウスはまごうことなき都市の黒幕だが、その実参加者の選定には一切携わっていない。
 如何に彼が天才なれど、東京都ほどの面積の仮想世界の構築とセラフシリーズの考案、そして未だ伏せられた主目的に向けての下準備。
 これらのタスクを抱えた上で、優先度の比較的低い作業にまでかかずらう暇はなかったのだ。

 大方、祓葉は大した選定も行わず来る者拒まずで全通ししたのだろう。
 もっとも、その悪影響をオルフィレウスも考慮しなかったわけではない。
 にも関わらず選定に携わらなかった理由はひとつだ。

「だがまあ、さしたる問題ではない。勝つのはボク達で、その一点は決して揺るがないからな」

 神寂祓葉と自分が並び立っている以上、万にひとつも負けはない。
 その圧倒的自負。不合理の極みのような、されども一度でも"彼女"に関わった者なら誰もが納得する究極の合理的思考。
 それの下にこの第二次聖杯戦争は成り立っており、現にひと月の時間を経ても仮想都市は揺らぐ気配を見せぬままだ。
 科学者の断言を聞いた偽の星神は嘆息し、皮肉るように悪態をついた。

「あんたって本当に他人の心とか分かんないのね。そのノロケじみた思考に付き合わされる私は堪ったもんじゃないんだけど?」
「不満か? なら貸してやった歯車を今すぐ返せ。君がいなくても此方は何とでもなる」
「ほらそういうとこ。何か凄い苦労人みたいな空気出してるけど、あんたも大概バカだと思うわよ私」

 もちろん、天津甕星としてもこの時計を回収されては敵わない。
 どうしても返せって言われたらのたうち回って駄々とか捏ねる。捏ねに捏ね倒す。
 はっきり言って、天津甕星は欠片もプライドだとかそういうもののないサーヴァントである。
 たとえ借り物の力だろうが便利なら使うし、生き延びるためなら躊躇なく背中を向けて全力で逃走できる。
 なのでなんとなく話を逸らした。ほら見ろ力なんてあっても本質は変わんないのよ、と体内の同胞たちに意味のない悪態をついた。

 手を結んではならない奴と組んだ感は未だに否めないが、初めての実用でその有用性は十分わかった。
 現に反則のカドモスはともかくとして、〈救済機構〉相手には終始圧倒したまま追い詰めることができたのだ。
 あのいけ好かない老王に再三指摘された雑さ、自分が戦士ではなくあくまで巨大な力を振り回すだけの子どもである事実。
 この時計は、それを解消してくれる。一番足りなかったものと言っても過言ではない。
 天津神相手に暴れていた頃にこんなものがあったなら、ひょっとすると本当に連中の平定を止められていたかもしれないと思うくらいには。

(……まあ、今更そこに未練はないけどね)

 重要なのは今この時、この戦いだ。
 何の値打ちもない託されただけの願いではなく。
 自らが抱え続けてきた、されど満たされることは決してなかった"願い"。
 その成就こそが天津甕星、偽の星神が掲げる至上命題。

 どんなに不格好でも失敗だらけでも、それを叶えるためならば自分はいくらだって戦える。
 改めて手の中の時計を握り締めた少女神は、もう一度科学者へと視線を向けた。

「で。私は逃げた子連れを追っかければいいわけ?」
「ああ……それだがな、当分はおまえの目的を優先して構わない。ご苦労だった」
「は? ……え、排除したいんじゃなかったの? あのお子ちゃま神を」
「したいさ。極小だろうが危険分子の存在は無視できない。
 偶然紛れ込んだ一匹の虫が巨大な農園を枯らした例など歴史上ごまんとある。
 だが、実際に観測してみて優先度が低下した。可及的速やかな処分を目指すよりも、自然に淘汰されるのを待つ方が利口だと思い至った」

 実のところ――天津甕星はこの後、頼まれなくても〈救済機構〉とそのマスターを追うつもりでいた。
 理由はひとつだ。先の戦いの最中、自分は大きなミスをした。己の背後に〈支配の蛇〉がいることを悟られてしまった。
 あの支配者気取りの変態はまったくもって気色が悪く、できるならこの手で殺してやりたいくらいには辟易させられている。

 が、聖杯を狙う上でアレ以上に優れた要石は存在しない。
 認めるのは癪だが、間違いなく神寂縁は今回の聖杯戦争における"最強"の一角だ。
 であればその勝ち馬に乗らない理由はなかった。
 だからこそ、藪中の蛇の正体に迫りかねない、オルフィレウスの言葉を借りるならば危険分子を捨て置くのは具合が悪い。
 しっかり追撃して、しっかり排除する。そうして後顧の憂いを断つ気でいたのだ。
 それだけにオルフィレウスがあっさりと〈救済機構〉破壊の任を解いてきたのには拍子抜けさせられた。

雪村鉄志とそのサーヴァント、〈救済機構〉デウス・エクス・マキナ
 彼らは蛇に呪われている。そこまでは知っていたが、ボクが思っていたよりも遥かに根が深いようだ」
「……、……」
「あれでは飛んで火に入る夏の虫も同然だ。
 神寂縁を追って藪を分け入ってくれるなら好都合。
 探偵殿には存分に役目を果たして貰い、名誉の殉職を遂げて貰うとする」
「あの子達じゃ、うちの変態ジジイには勝てないって?」
「当然だろう。運用テスト段階のゼノンに蹂躙されるような有様では影も踏めまい。
 個人的な感情を排除しても、勝率は0.1%を遠く下回るだろう。おまえも同じ考えだと思っていたが、違うのか?」

 違わない。
 天津甕星もまったくの同意見である。

 神寂縁の真髄は犯罪者としての狡猾さでも、無数の顔を持つ異形性でもない。
 異形の身体と精神の奥に秘めた、ひたすらに圧倒的な暴力だ。
 天津神など問題にもならない。彼らへトラウマを与えた自分でさえ、恐らくは凌駕されている。
 言うなれば彼が隠れ潜むのを選んでいること自体がひとつの壮大な罠(トラップ)に等しい。
 蛇の正体を暴いた者は、その時最悪の現実に直面することになる。
 どれだけ手がかりを揃えても、緻密な推理を演じ、犯人はお前だと突きつけても。それだけではあの蛇は斃せない。

 ――ただ、あれほどあの幼い機神に執着していた彼がこう言うのは少々意外だった。
 心境の変化でもあったのか。少し考えて、あ、とそれらしい事柄に思い当たる。

「もしかしてあんた、さっき私に言われたこと気にしてんの?」

 そんなにあの子が怖いのか。
 確かにさっき、自分は機神の討伐を急ぐ彼にそう言った。
 別に煽りとか説教とかじゃなく、純粋に疑問に思ったから出た科白だったのだが……

「そうかもな」

 これまた意外なことに、オルフィレウスは素直に認めた。
 てっきり不機嫌な顔で小難しい罵倒でも飛ばしてくると思っていたので、二重で驚かされる。

「……いや、私そこまで深いこと考えて言ったわけじゃないよ?
 認めたくないけど、たぶん私よりあんたの方がずっと頭いいだろうし。別にそんな引きずんなくても」
「言われるまでもない。ボクとおまえの知能指数には大きな差があるし、学識や判断力にかけては特にそうだ。
 だから万一にでもボクを言い負かせたなどと思わないでほしい。自慢とかしないでほしい。想像しただけで非常に屈辱的だ」
「つい反射的に気遣っちゃった三秒前の自分をぶっ殺したいわ」

 青筋を立てながら口元を引きつらせる天津甕星をよそに、オルフィレウスは遠くを見ていた。
 その視線を追って、彼の見ているものに気付く。
 星空だ。自然と、怒りではない感情で眉が動く。

 星を見上げるのは嫌いだ。
 この世にこれより無益なことはない。

「……ただ、バカに気付かされるということも時にはある。
 その点、あの時のきみの発言はそれなりに有意だった」

 ふぅん、と天津甕星は返す。
 およそこの尊大な少年らしからぬ発言だったが、要するに以前、彼へそれを教えた人間がいたということなのだろう。
 徒花の科学者を花開かせた、彼の運命。
 都市を創世し、二度目の聖杯戦争を主催したもうひとりの神。
 神寂祓葉という顔も知らない少女のことを、偽の星神は思い浮かべていた。

「あのさ、じゃあお礼代わりに一個聞かせてよ」
「……、……」
「ハイ沈黙は肯定とみなします。
 前にあんたに、何が目的なんだって聞いたでしょ。
 そんであんたはこう答えた。"人類文明の完成だ"、って」

 こいつ図々しい奴だな……と言いたげな顔で見てくるオルフィレウスに、構わず続ける。

 文明を完成させるのだと彼は言った。
 それはすなわち人類の救済と呼んで差し支えない大偉業。
 今を逃せば次にこうして語らえる機会などいつ訪れるか分からない。
 何せ相手は黒幕だ。聞きたいことは聞ける内に聞いておこうと、天津甕星は思ったのだ。

「あんたの言うそれって――――何を以って"完成"とするわけ?」

 目的は確かに聞いた。
 では、その定義は?
 どのようにして、どんなカタチで文明の完成という理想に至るのか。
 問う天津甕星に、オルフィレウスは少し黙った。視線は再び星空の方へと戻っていた。

「報酬と呼ぶには過ぎた要求だ。本来なら黙殺して然るべき、だが」

 この理知の化身のような男に、感傷ほど似合わないものはない。
 であればこれは、郷愁とか懐古とか、そういう言葉で定義するべき気紛れなのだろう。

「首尾よく〈救済機構〉と接敵し、アレの本質を引き出した働きに多少は報いよう。いいだろう、話してやる」

 天津甕星もだいぶこれのことが分かってきた。
 思うにこの物言いは、彼なりの照れ隠しのようなもの。
 つくづく生きにくそうな性格だなと思うが、此処で怒らせてせっかくの気紛れを台無しにしては本末転倒だ。
 だからただ隣に立ち、何も言わないまま先を促した。

「人類は愚かだ。しかしその文明には価値がある。
 ホモ・サピエンスが地球上に現れたのが今から40万年前。
 わずか40万年の時間で、ヒトの文明は地上から暗闇を消した。彼らは夜に勝ったんだ」
「いや……それは充分長くない……?」
「ヒトとして見ればな。種として見れば驚くべき早さだ」

 その月日は、一個体の目線ではあまりにも膨大な時間に思える。
 しかし数十億年の歴史を持つ星の上で綴られた歴史としては、確かに瞬きほどの時間に等しいだろう。
 それだけの年月で、ホモ・サピエンスは夜を制した。
 不動の霊長として君臨し、無数の国を生み、星の海にまで手を届かせた。

「初めてこの時代に顕れた時、率直に感動したよ。
 最低限の豊かささえあれば、誰でもベッドに寝転びながら地球の裏側で起こった事件についてリアルタイムで知ることができる。
 遠く離れた異国の人間と、大した労苦もなくインターネットを通じてやり取りを交わすことができる。
 ボクやきみが生きていた頃じゃ誰も想像しなかった技術革新だ。人類の叡智は、もはや神の領域に入ったと言って差し支えない」

 かつて魔法と呼ばれた絵空事が、万人が使える技術となって社会全体に共有されている。
 今こうしている間にも星のあちこちで新たな理論が構築され、未来の実用化を待っている。
 日進月歩という言葉はまさに人類文明の凄まじさを体現していた。
 日ごと進んでいずれ月をも歩む。現に月の大地を踏んだ種族が語っているのだ、大袈裟でも何でもない。

「故に認めよう。人類はいつか、自力でボクの境地に辿り着く。
 永久機関は開発され、あらゆるエネルギー問題は過去のものとなる。
 醜い争いと目を覆うような悲劇を星の数ほど積み上げながら、ヒトは完成の時へ近付いていくだろうさ」

 それは、厭世の科学者が贈る最大級の賛辞であった。
 彼は基本的に他人を評価しない。美点より汚点をあげつらって毒を吐く。
 にも関わらず、その彼にこうまで言わしめるのが人類という霊長で、文明なのだ。

 認めよう。
 おまえたちは優れている。
 おまえたちはいずれすべての問題を克服し、超越者の位階に到達する。
 魔術も神秘も、世界の裏側に隠れた神々でさえもいつかはヒトの後塵を拝するジャンク品に成り下がるだろう。
 拍手喝采でオルフィレウスが太鼓判を押す。その上で――


「だが、そこまでに一体どれほどの時間がかかる?
 一体どれほどの無駄を許容し、喪失に目を瞑るつもりだ」


 やはり人類は愚かなのだ、と手のひらを返した。
 確かに評価はできる。しかしそれは彼に言わせれば地獄の天蓋。
 多少の評価点があるというだけで、底であることには変わらない。

 40万年を費やして人類は夜を征し、世界を繋いだ。
 星の視点で見ればごくわずか。されど先に天津甕星が指摘したように、ヒトの視点で見ればその時間はあまりにも長い。

 ――では人類は、いつまで荒野を歩けばいい?

 一体どれほどの世代が交代しただろう。
 どれほどの賢人が、夢を次代に託したのか?
 テラフォーミングが実行段階に移るのはいつだ?
 永久機関を開発し、それを巡る争いを根絶するまでは?
 荒ぶる人心を均し、完成の段階へ踏み入るまでに何千年かかる?
 人類が紡ぐあまりに長く迂遠で無慈悲な過程(シナリオ)に、素晴らしき文明はいつまで付き合えばいいのだ?

「まったく理解し難い観念だが、一般にヒトは意思を継承することを美徳と捉えるらしい。
 自分が敗北したとしても、いつか子々孫々が成し遂げてくれればそれでいいと考える。
 そうして紡ぎ上げる未来にこそ価値はあるのだとしたり顔で己の無能を慰める恥知らず共の温床。
 少し考えれば餓鬼でも分かることだ。失敗など、試行錯誤など、しなくて済むならそれに越したことはないんだよ」

 オルフィレウスは効率を愛し、無駄を嫌う。
 日進月歩という言葉も、彼に言わせれば馬鹿どもの言い訳でしかない。
 目的地までの歩数など、短ければ短いほどいい。すべての美談を彼はそうして切り捨てる。

「耳触りのいい人間讃歌も、世代を越えた継承も必要ない。
 ハッピーエンドを願うのならば、本を最後の頁まで読み飛ばしてしまえばいい」

 それがボクの願いで、祈りだ。
 オルフィレウスは言う。
 謳うように、抱えてきた野望を宣誓する。

「ヒトは不完全な生き物だ。もちろん、かつてのボクも含めてね」
「……まるで、今の自分は違うみたいな言い方ね」
「そうだとも。冠を戴いたこの身はもはや、星空を仰ぐだけのヨハンなんかじゃない」

 星の照らす影が、不気味に蠢いた。
 あるいは、神々しくさえあったかもしれない。
 水髪の少年の頭を覆う、双角の"王冠"。
 そして彼の身体から生える異形の尾と、背を覆う巨大な翼。

 都市を生み出し、針音を響かせる真の根源。
 黒幕を名乗る少年の秘めたる一端を、星空の下で伸びる影の中に少女神は見た。

「――ボクはオルフィレウス。人類世界を救うモノだ」



◇◇



 丘の上で、ひとり星を眺めていた。
 顔にはまだじんじんとした痛みが残っている。
 心の中に渦巻く憤懣が、雄大な星を見ていると薄れていく気がした。

 代わりに浮かんでくる感情は、飢えに似ていた。
 なぜ、この手はあの星のどれひとつにも届かないのか。
 いつになったら、自分はあの天上の海へと漕ぎ出せるのだろう。それにはいつまでかかるのだろう?
 考えるだけ無駄と頭じゃ分かっていても、幼い脳は合理的に動いちゃくれなかった。

「――――やあ、ヨハン。また星を見てるのかい?」

 声がする。
 鬱陶しげに視線を遣ると、やっぱり見知った顔だった。

「その顔……ははあ、また喧嘩してきたな?
 弱いんだから無茶なことはやめなさいって、お姉ちゃんいつも言ってるのに」
「うるさい、黙れ。バカがバカ同士群れているのが滑稽だったから、思ったことを伝えただけだ。
 それに――こっちの科白だ、リズ。きみみたいな変人の姉を持ったつもりはない」

 リーゼロッテというこの女は、近隣でも有名な変人として知られている。
 歳こそボクより三つ四つ上な程度だが、どんな大人でも彼女の奇行を抑えられない。
 そんな札付きの狂人のこいつは、なぜかボクをよく構ってくる。
 こうしてひとりで星を見上げているとどこからともなく現れて、頼んでもいない会話を持ちかけてくるのだ。

「いいじゃない。ヨハンは友達いないんだから、たまには人と喋んないと退屈でしょ?」
「ボクときみ達凡人の精神構造を同じ物差しで測らないでくれ。
 言っておくが、ボクは生まれてこの方人恋しさなんて無益な感情は覚えた試しがない。
 それにきみやあいつらみたいな何の役にも立たない無能に囲まれたところで、そもそも迷惑なだけだ」
「あちゃー、こりゃ殴られもするわ。つくづく思うけど、きみってとんでもないひねくれ者だよね」

 リズの言う通り、ボクには友達などいない。
 物心ついた頃からずっとひとりだったし、たまに構ってくる輩も二度三度罵倒してやればもう顔を見せに来なくなる。
 よほど暇なのか悪意をぶつけてくる奴は多かったが、鬱陶しくは思えど助けてくれる他人が欲しいと思ったことはなかった。

 両親は魔術師という、非効率の化身のような人種だった。
 錬金術師を名乗る詐欺師に騙されて地位と信用を失い、再起を図って落ち延びた先で産んだ子は魔術回路を持たずに生まれ。
 いよいよ万策尽きたのか、ボクの首が据わる前に絶望して首を括ったと聞いている。
 その後は親類の元で数年育てられたが、扱いきれないと判断されたのか結局元の誰もいない生家に戻された。

 以降はずっと、両親の遺産を使いながら細々と暮らしている。
 確かに人から見れば孤独な寂しい子どもなのかもしれないが、孤独は苦どころかボクにとって稀有な友人だ。
 少なくとも、こうして周りでちょろちょろ蠢かれて集中を削がれるよりかはずっとありがたい。

 何度もそう伝えている筈なのに、このリズだけは懲りずにボクのところへ現れる。
 最近ではもうどうにかしようという気さえ失せていた。根負けというやつだ。
 耳元で蝿が飛んでいるとでも思って、無視とぞんざいな扱いを決め込んで対応することにしている。
 それでもこうして会いに来ては益体もない話をしたがる辺り、こいつも掃いて捨てるほどいる暇人のひとりなのだろう。

「今日はお別れを言いに来たんだ」

 ――そう思っていつも通りやり過ごす気でいた矢先に、思いがけない言葉が飛び込んできて驚いた。
 リズは普段と変わらない何も考えてなさそうな笑顔で、ボクにこんなことを言った。

「いろいろ試してみたんだけどね、どうにもこの辺りが潮時らしい」
「……驚いたな。何があったか知らないけど、きみにそんなしおらしい科白を吐ける繊細さがあるとは思わなかった」
「あたしだってちゃんと物事考えて生きてるんだよ? なのにそう思うのは、ヨハンがあたしのことを理解できてないからさ」

 見くびったような物言いにムッとする。
 なまじ自分を優秀な人間と自覚しているからこそ、こういう侮りには敏感だった。
 雑魚の囀りなど無視していればいいと頭では分かっていても、それを実行し続けるのはなかなか難しい。
 思えばそういう意味でも、この頃のボクは子どもだったのだろう。

「なら最後に聞いてあげるよ。リズ、きみは何を考えてこの町にいたんだ?」
「あたしは、逃げたかった」

 逃げたかった?
 この素っ頓狂な、誰もが認める変人が、何から逃げたいというんだろうか。
 ボクの反応を待つこともなく、リズは隣で星を見上げながら口を動かしていく。
 その姿にはおおよそこいつらしくない、感傷のようなものが滲んで見えた。

「どうにもじっとしていられないんだ。そうしてたら捕まってしまう気がしてね。
 でも困ったことに、自分が何から逃げたいのかが分からない。だから逃げようもない。難儀な話さ」
「……意味がわからない。きみ、その成りで哲学者だったのか?」
「そうかもね。まあ答えは何でもいいんだ。見つかってさえくれたなら」

 まったく理解のできない話だったが、それがこいつが町を去る理由なんだろうことは察しがついた。
 じっとしていられない女。逃げたいという衝動に取り憑かれた奇人。
 馬鹿げていると思うのに、いつもみたく辛辣にこき下ろす気にならなかったのは何故だろう。

「あたしなりに頭を捻って、手を尽くしてもみたんだけどね――まあその甲斐あって、ひとつだけ分かったことがある」
「……それは?」
「少なくとも"この"あたしじゃ、どうしたってそこに辿り着けないってことさ」

 理由はすぐに分かった。
 辿り着けないどこかに焦がれる気持ちは、ボクにも分かるものだったから。

「あたしは早すぎた。生まれる時代を間違えたんだ」

 伸ばした手が必ずどこかに届くなんて限らない。
 太古の学者が地動説の発見に辿り着けなかったように。
 人は生まれ、苦しみ、間違って、そのまま死んでいく。
 生き様を礎に変えて、次代の誰かに繋いで灰になる。

「恐らくもう数回の積み重ねが要る。劇的な何かがあれば、案外次あたりでどうにかなるかもだけど」
「きみが仏教なんて信じてるとは意外だね」
「救いが欲しいだけさ。この煩悶を抱えたきりでお終いだなんて、それじゃあんまり報われない」

 ボクも恐らく、いつかはそうなるのだろう。
 この身に抱えた理想、信念、思考、疑問、すべて遠い未来の誰かに託す羽目になる。
 輪廻転生。人は死んだら生まれ変わり、また次の生を始めるのだとかの国の先人は言ったらしい。

「あたしは、何にも捕まりたくない」
「……、……」
「だから捕まる前に、とりあえず保留で逃げておこうと思ってね」

 なんだかんだ、付き合いは長かったろう?
 あたしはきみのことを気に入ってたんだ。
 ほんとはひとりで消えるつもりだったけど、きみにだけは挨拶をしてもいいと思った。

 リズは言う。
 ボクは黙って聞いていた。
 どうでもいいし、興味もない。
 こいつが消え、煩わしいちょっかいをかけられなくなるなら万々歳だ。
 なのにどうして、そのどうでもいい相手の告白がこうも胸に詰まるのか。
 その答えへボクを導くように、隣で安座をした奇人は問いかけた。

「最後にひとつだけ聞かせてよ。ヨハン・エルンスト・エリアス・ベアラー、きみのことだ。
 この星空の下で、きみが言うところのバカ達が楽しげに笑っている傍らで。
 いつも難しい顔をして、何を考えているのか……ふふっ、実を言うとずっと聞きたかったんだよね」
「教える義理がボクにあると思うの?」
「ないよ。だからまあ、"お願い"だね。普通は流れ星に祈るんだろうけど、あたしはきみに祈ってみよう」

 芝居がかった言い回しが鼻につく。
 ボクは押し黙った。思えばこの時、ボクはこいつに共感していたのかもしれない。
 リズはいつも通り軽薄だったけど、そこには人としての絶望が見えた。
 今生では辿り着けないもの。届くことなく空を切るばかりの右手。
 その嘆きは、ボクにも多少理解できることだったから――この鬱陶しい女に、ほんの少しシンパシーを感じていた。

 だからボクも、己の絶望と怒りを打ち明けたのだ。

「……"時間"が憎い。それを受け入れて笑ってる愚図共もすべて」

 人は死ぬ、必ず死ぬ。
 そこに例外はなく、与えられた時間には限りがある。
 不老不死は存在しない。アムリタは存在せず、神の垂らす甘露は夢物語。
 人は一代において果てへは至れない。人類史という物語の中に投入されながら、ラストページを見ることなく消えていく。

「どうして"辿り着けない"ことを許せるのか分からない。
 自分が歩んだ道のりを他人に略奪されて、我が物顔で受け継がれることは屈辱以外の何なんだ?
 なんで誰も――――自分が物語を終わらせようと思わない。そんなにも死は、受け継ぐことは尊いのか?」

 リズに語るというよりも、これは自問に近かった。
 自己思想の言語化。燻るばかりの怒りを言葉にして出力する。
 顔を殴られた時なんかとは比べ物にならない憤懣で体温が上がっていくのが分かる。
 顔が熱い。ああ、そう――ボクもリズと同じだ。いつも絶望していて、いつも怒っている。

「ボクはそうは思わない。死とは敗北で、未完とは恥ずべきことだ。終わりなくして、すべての生き様に価値はない」

 だから、考えてきた。
 苦も楽も捨てて脳を動かすことだけに腐心し、ずっとそうやって生きてきた。
 リズは逃げたいのだという。ならボクはさしずめその反対。

「ボクは――辿り着きたい。そうでなくちゃ、生まれてきた意味がない」

 近付きたいんだ、結末というものに。
 人類に与えられた物語の最後の頁に。
 長く話したのは久しぶりだから息が切れた。
 肩を上下させるボクに、リズは笑って。

「そっか。ヨハンは優しいね」
「……なんで、今の話を聞いてそうなるんだ」
「きみは自分のためだけに怒ってるんじゃないだろう?
 誰も彼もを罵倒しながら、その実彼らの分まで背負おうとしてる。
 きみは、人類を代表して怒っているんだよ。あたしはそれ、とっても優しいことだと思うな」

 そんなことを言うものだから、胸の奥の何かが跳ねた。
 見透かされた気がした。自分でも見ないようにしていた本音を、この奇人に暴かれた気がしたから。
 リズが立ち上がる。くるり、とターンして、腰で両手を組んでボクに顔を近付けた。

「あたしはもういなくなるけど、応援だけはしてあげる」
「それこそボクの唾棄する思想だ。敗北者の負け惜しみだろ」
「くす。そうかもね。でもあたしは自分勝手だから、そんなのお構いなしに押し付けちゃう!」

 どこへ行くの、とは聞かなかった。
 そうすることには意味がない。
 答えの分かりきったことをわざわざ聞くことを、ボクは無駄と呼ぶ。

「――ばいばい、ヨハン。願わくばあたしも、いつかきみの結末を見れるといいな」

 ……最後の最後まで言いたいことばかり言って、リズは去っていった。
 猫に九生ありという。であれば彼女にも、あの人好きな猫のような女にもまだ先があるのだろうか。
 あるいはその選択の先にこそ、リズを猫たらしめるはじまりが待っているのか。
 輪廻転生が存在すればの話だが、そこだけは、少しだけ興味深く感じないこともなかった。

 ボクはため息をついて、もう一度視線を空へと移す。
 空を覆う無数の星々。毎日のように見ているそれを、なぜだか今日はもっと見ていたかった。

 美しい星が、人類の手が届かぬ光年の果てが、煌びやかに散りばめられている。
 時折空を走る流星は、この景色をただ見上げるしかないボクらを憐れんだ涙のように思えた。
 月のない夜空には星が映える。風景美に興味はないけれど、今宵のそれはやけに心を打って。

「――あ」

 その時、なにかが、ボクの頭に閃いた。
 息を忘れた。思い出した時には、もう駆け出していた。

 ……この日、こうして。
 ボクは理想への一歩めを踏み出したのだ。
 世界を救う旅。文明のすべてに報いる旅。
 そしてボクが、己の夢を叶えるための旅。


 リズは翌日、近所の川で見つかった。
 死因は聞かなかった。無駄なことに興味はない。
 ただボクの脳の片隅にはいつまでも、あの女の言葉が貼り付いていた。



 ――きみは、自分のためだけに怒ってるんじゃないだろう?



◇◇



「人類文明の有する既存技術のすべてを、『時計じかけの方舟機構』に強制換装する」

 "あの日の少年"は言う。
 それは彼の見出した真理。
 いつかの怒りと絶望への答えだった。

「これは文明の歯車たる現行人類、ホモ・サピエンスも例外ではない。
 彼らの心臓もひとつ残さず永久機関式にアップグレードする」
「…………は?」
「全人類は不死不滅の存在と化し、あらゆる陥穽を改良される。
 善性はなく、悪性はなく、終わりはなく、課題はなく、弱さはなく、突出した強さも消滅するだろう。
 争いは根絶され、すべての人類種は完成された文明の歯車たり続ける存在に生まれ変わる」

 極限の技術革新を実現したとしても、人類が人類である以上は必ず闘争という課題に直面する。
 核兵器ひとつの扱いにも苦慮している現行人類に、永久機関などという黄金の果実は過ぎたものだ。
 必ず戦争が勃発し、大勢の人間が死ぬだろう。数百年単位の長い争いは、その間人類の完成を遠ざけてしまう。
 だからオルフィレウスは、生ける歯車達にもメスを入れる。不要なすべてを切除して、ひと足先に彼らを部品として完成させる。

「そこに生まれるのは完全なる大文明だ。
 誰もが過ちを冒さず全体のために奉仕し続ける、新人類の地平に隙はない。
 神話の神々でさえ及びもつかない、至高の機構(マスターピース)が完成する」
「……、……」
「宇宙のエネルギー問題さえ超克し、事象の剪定にも打ち勝って大団円を成すだろう。
 それで物語は完結だ。迂遠な回り道も、意思技術を受け継ぐ過程も、ボクの名の下にすべて読み飛ばそう。
 "人よ、歩みの垓てへ至るべし"。これが、この都市でボクが挑む大偉業のカタチだよ」
「――――、は」

 天津甕星は笑っていた。
 身体の芯から出た、乾ききった笑いだった。

 これが、都市の真実。
 この都市が生まれ、在ることの意味だという。
 それは、なんて。ああ、なんて――

「あんたさ、狂ってるよ」

 ――救い難く狂った話だろうと、偽の星神は断じた。

 当然の反応だ。こんなもの、誰だって到底受け入れられない。
 狂気的なほど一点に収束した全体主義、ワン・フォー・オール。
 異論は許されず、誰もが強制的に即時の完成を押し付けられる。
 汝、一個の歯車たれと望まれて。その通りの在り方しか持てない、輝きの地獄がやって来る。

「別に理解して貰おうとは思わないよ。それも含めて、今の地上は不完全すぎる」
「はー……何か、すんごい話聞いちゃったわ。
 これマジの忠告ね。あんた、それ他人にあんまり言わない方がいいよ。
 都市の全権握ってる黒幕がそんなヤバい思想持ってるとか、笑えなすぎるから」
「言ったろう、理解は求めていない。ただ、少し意外だな」

 時計の瞳が、天津甕星を見つめる。
 微かな驚きの色が、そこには確かに滲んでいた。

「予想よりも反応が穏当だ。きみはもっと無様に取り乱すものと思っていた」
「……私のこと何だと思ってんのよ」

 理解不能な思想である、その一点を譲るつもりは毛頭ない。
 彼の語る未来を世界の完成と呼ぶのなら、人類の結末はバッドエンドの一言だ。
 それこそ、真っ当な英霊ならば聞いた時点で殺しにかかるのが普通と言っていいほどの。

 しかしその点、天津甕星の反応はあまりに淡白だった。
 驚きはする。引きもする。が、そこには爆ぜる敵意がない。
 オルフィレウスは実際、彼女が瞬時に敵対する可能性も考慮していたのだろう。
 視界の彼方にちらちらと飛蚊のように飛ぶ銀色が見える。
 熾天使の機械虫(プシュケー)が、万一の可能性に備えて主を守るべく配備されているのが分かった。

「私は、ただ――」

 完成された無謬の地平。
 そんな世界は地獄だ。
 何故なら、文字通り生きる価値がない。
 死がない代わりにひとつの個性も許されない世界。
 誰もが合理を押し付けられて、オルフィレウスの信じる光のために尽くす未来。
 永劫解放されない事実に疑問を抱くことさえ許されない、正真正銘の無間地獄。

 あってはならない、と思う。
 でも、ああ、だけど。

「――どうせ地獄なら、そっちの方がちょっとはマシかもって思っただけ」

 みんなずっと一緒にいられる地獄というのは、この今に比べたら少しは良いものかもしれない。
 だって、離れ離れになることは辛いから。置いていかれるのは悲しいから。
 誰も彼もが平等に光に呑まれるのなら、それはそれでいいかもしれないと、天津甕星は思うのだ。



◇◇



 丘の上で、ひとり星を眺めていた。
 着の身着のまま、金目の物すら持っちゃいない。
 もうすべてがどうでもよかった。
 初めて経験する決定的な挫折は、ボクの心を完全に夭折させていた。

 何が足りなかったのだろう?
 思いつくひとつは、やはり時間だ。
 憎らしい、ボクをいつも邪魔立てする時の呪縛。

 永久機関は完成していた。
 が、実用性がないならただの手品に過ぎない。
 ボクの歯車は人智を超えた代物だったが、制御性というものを欠いていた。
 せめて人体に移植して反応を観測できれば飛躍的にそこの研究が進むのだったが、生物への搭載がこれまで一度も成功していない現状の中で、その役を買って出てくれる命知らずはいなかった。

 ……いや、違う。
 一番の問題はそこじゃない。
 その陥穽に、転げ落ちるまで気付けなかったこと。

 ボクの発明を手伝いたいと志願した人間がいた。
 使えない奴らだった。記録ひとつまともにできない、名誉欲しさの愚図どもばかりだった。
 けれどもしかすると、彼らはボクの見落としに気付いていたのかもしれない。
 気付いた上で黙ってた。足元の落とし穴に気付かず得意げに空回りを続ける間抜けをせせら笑っていたのだ。

 要するにボクは、それだけ嫌われていたのだろう。
 別に悲しいとは思わない。
 自分は人が嫌いなのに、他人は己を好きであるべきだなんて恥ずかしいことを主張する気はなかったが。

 ただただ――虚しかった。

 あれほど滾っていた怒りも、今はもうさっぱり湧いてこない。
 涸れた泉のように見窄らしく、かつて感情だった泥が溜まっているだけだ。
 夢想家。詐欺師。誰もの嗤う声が脳裏に反響している。
 あるものは失望だった。どこまでも不完全を地で行く衆生と、そして己に対しての。

 不全を呪い、過程を憎んだ男がまさしくそれに足を引かれて失脚した。
 なんて笑い話だろう。ボクが聞かされても鼻で笑うだろう。
 語り継ぐには陳腐で、しかし聞き流すには滑稽すぎる物語。
 未来へ託すことを憂いた時点から道化だった。
 笑い者の詐欺師の志など、いったいどこの誰が継承してくれるというのか。
 無用な心配に心を焦がし、盛大に時間を無駄にしただけの三文劇。
 この身が夢見た結末に辿り着くことはない。ヨハンのラストページは、今此処だ。

 空を見上げている。
 あの日のようだと思った。
 リズの終わりで、ボクのはじまり。
 あれから時が止まったように身の丈も顔立ちも変わらなかった。
 不老の科学者が打ち出す無限の歯車という触れ込みもハッタリに一役買っていたのかもしれない。

 遠からぬ内、ボクは誰かに殺されるだろう。消される、と言った方がいいか。
 永久機関は詐欺と断じられたが、分かる者ならあれが現行人類の手に余る代物だと気付く筈だ。
 逃げたいとは思わなかった。自分の生にすら、もはや興味がなかった。

 ボクが死ねば、オルフィレウスの永久機関は遺失する。
 次にどこかの誰かが閃くまで、何百年か何千年か。
 オルフィレウスの名はペテンの代名詞に堕ち。
 生涯も、研究も、すべては心配性な誰かの作ったカバーストーリーに塗り替えられて伝わっていく。

 死んでしまった後のことなんて、それこそどうでもいい。
 好きにしろ、と思いながら星に手を伸ばした。
 幼い頃そのものの行動を恥じる気も起きず、ボクはそうして。

「……………………嫌だ」

 呻くように、最後の熱を吐き出していた。
 なぜ、ヒトはひとりでは生きられないのだろう?
 あるいはそれさえ埋めることができれば、ボクは完璧になれたのか。

「嫌だ、ボクは――誰か、ボクを――」

 視界が潤む。
 産声をあげた日以降、一度も流したことのない何かが溢れる。
 慟哭と呼ぶにはか細い声が星空の下に木霊する。
 孤独は怖くない。でも、それすら無知の賜物なのかと。
 思えば液体はもう止まらなかった。知りたい。知らねばならない。でもそれを学ぶには、もう何もかもが遅すぎる。

「ボクを、見つけて――――」

 ……こうして、長く無駄な旅路は幕を閉じ。
 暗転した劇場が照らされることは二度とない。
 継いで歩むことを嫌った男は、望み通り未来の何処にも繋がれることなく。
 無念と絶望の中で、朽ち果てるように生涯を終えた。



◇◇



 ――――少女を見た。
 流星のように眩しいモノが、光を湛えて佇んでいた。

 未来の街、悠久の果て。
 ボクは――――それを見た。

 この手が触れた胸の真ん中から、白い極光を溢れさせて。
 失われていく命を、時を戻すように逆行させながら。
 満天の微笑みを湛えて佇む少女を見た。

「きみ、は……」

 光景に名を与えるならば、それはきっと"奇跡"。
 破綻した理論と潰えた理想の残骸を胸に埋め込んで。
 その激烈なエネルギーをか細い身体の内側に押し留め。
 頭頂から爪先まで、全身に余すところなく横溢させて立つ。
 そんな奇跡を、ボクは間抜けのように呆然と見ていた。

 気付けば力が抜けて、へたり込んでいた。
 情けないと思う余裕もないボクに、彼女は手を差し伸べて。

「私? 私はね――――祓葉。
 神さまが寂しがって祓う葉っぱって書いて、祓葉」

 いつか潰えた夢のカタチそのままの顔で。
 星空みたいに、笑ったのだ。

「ねえ、あなたの、お名前は?」

 その日――――ボクは、運命に出会った。



◇◇



「喋りすぎたな。時間を無駄にした」
「あんたって考えてるようで、結構ライブ感よね」

 とんでもないことを聞いてしまった。
 聞いているこっちの方が疲れたくらいだ。
 天津甕星は伸びをして、ため息をついた。

「はー。それじゃ、これからどうしよっかな……」
「イリスを狙うんじゃないのか? ボクが任を解いた以上、そう動くのが必然に思えるが」
「まあね。ただいろいろこっちも考えなきゃならないなーと思って。
 あのジジイに指摘された通り、考えなしでぼっこんぼっこんやってるだけじゃその内痛い目見そう。……ていうかもう何回か見てるし」

 何にせよ、これからの立ち回りはよく考える必要がある。
 楪依里朱のこともそうだし、〈救済機構〉のこともそう。
 そしてマスターであるあの蛇を巡る、運命じみた因縁のこともだ。
 考えるだけで頭が痛いが、聖杯を得ようと思うなら思考は必須とよく分かった。

「あんたはどうすんの?」
「機神(ゼノン)に多少の改良点が見つかったので、当座はそれに取り掛かる。
 並行して他のセラフシリーズを時計巨人中心に調整し、備える。といったところだな」
「うげ……まだあんのかよあのデカブツ」

 つくづく出鱈目な奴、と思いつつ。
 なんとなく悪く思えなくなっているのは、親近感でも感じているからなのか。

「もしイリスに会うことがあれば伝えてくれ。
 君の虫からは大変良いインスピレーションを貰った、と」
「それ伝えてどうなんのよ」
「そうだな。煽りというやつだ」
「あんたと祓葉って、絵に描いたような割れ鍋に綴じ蓋よね」

 つくづく救えない男だと思いながら、手のひらの時計に目を落とす。
 当たり前の話だが、抱えながら戦うというのはなかなかに面倒だった。
 かと言って服が服なので、上手くしまえる場所もない。
 戦闘中に落としてしまったらどうなるかと思うとゾッとするし、どうしようかと少し考えて。

「……ま、仕方ないか」

 天津甕星は時計を、自分の胸に当てた。
 途端、少女の身体が部分的に変容する。
 ぐぢゃり、と粘っこい音を立てて、イソギンチャクのように開く胸部。
 その奥に時計を押し込めて閉じれば、これで時計が邪魔になる心配はもうない。

「ほう。それは――」
「何見てんの。セクハラだよ」
「馬鹿を言うな。感心しただけだ」
「そりゃどうも」

 天津甕星の身体は、あの日からヒトでも神でもないモノに変わってしまった。
 皮肉にも在り方としては蛇・神寂縁のそれに近い。
 百を超える同胞の魂を取り込んで変容した異形の肉体。
 信心という名の汚濁で穢れた呪わしいカラダ。
 彼らは今も、自分の中で生きているらしい。
 実際、時折闘争に駆り立てる蠢きの音色が聞こえてくる。

 ――口を利かず、意思らしいものを送ってくるだけの肉を指して"生きている"と言うのなら、それは確かにそうかもしれない。

「あのさぁ、オルフィレウス」

 この身体のどこが尊い神なのか。
 来る日も来る日も祈りを捧げた神がようやく寄越した福音がこれならば、やはり星神など存在しなかったのだ。

「私ね。世界なんて、どうなってもいいんだ」

 ――戦え。
 ――殺せ。
 ――勝て。
 ――奪い返せ。

 今も響く成れ果て達の鼓動を聴きながら。
 こんなに憎んでいてもまだ耳を傾けるのをやめられない自分の弱さを恨みながら。
 かつて蛇の星座にちなんだ名を与えられた少女は、くしゃりと笑った。

「ひとりぼっちじゃなきゃ、なんでもいいの」

 置いてかないで。
 連れていって。
 寂しいよ。
 たすけて。

 そんな声を聴いてくれるものは、この穢い身体のどこにもなく。
 人理の影となって尚、少女はあの夜のままの顔で、哭いているのだ。



◇◇



【中野区・ビルの屋上/一日目・夜間】


【アーチャー(天津甕星)】
[状態]:健康
[装備]:弓と矢
[道具]:永久機関・万能炉心(懐中時計型。現在は胸部に格納中)
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:優勝を目指す。
0:世界なんて、どうなってもいいよ。
1:当面は神寂縁に従う。
2:〈救済機構〉なるものの排除。……だけど、優先度が落ちたらしい。なんじゃそりゃ。
3:今後のことを考える。
[備考]
※キャスター(オルフィレウス)から永久機関を貸与されました。
 ・神寂祓葉及びオルフィレウスに対する反抗行動には使用できません。
 ・所持している限り、霊基と魔力の自動回復効果を得られます。
 ・祓葉のように肉体に適合させているわけではないので、あそこまでの不死性は発揮できません。
 ・が、全体的に出力が向上しているでしょう。

【キャスター(オルフィレウス)】
[状態]:健康
[装備]:無限時計巨人〈セラフシリーズ〉
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]
基本方針:本懐を遂げる。
0:セラフシリーズの改良を最優先で実行。
1:あのバカ(祓葉)のことは知らない。好きにすればいいと思う。言っても聞かないし。
2:〈救済機構〉や〈青銅領域〉を始めとする厄介な存在に対しては潰すこともやぶさかではない。
[備考]



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最終更新:2025年04月21日 00:19