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«宗教対霊性»
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«マタイによる福音書»によれば、イエス・キリストは"人を裁くな"と教えています。キリストは石打刑の阻止という行動事例も残しています。
釈迦は最晩年に"自らを灯明とせよ"と教えています。
キリストも、釈迦も、自らの教えが組織的な宗教や教条主義に陥ることを懸念し、予防策を講じているようです。
マルクスは宗教を人間から霊性を搾取するものとして批判しました。
"宗教"は英語での"religion"に相当する単語です。その語源はラテン語の"religio"で、動詞"religare"(束縛する)と関係が深い。"religare"は英語の"rely"(依存する)にも関係しているようです。
霊性の探求は本来すこぶる個人的なものです。キリストや釈迦に固定的な導師はいません。彼らのような境地を人が目指すのであれば、固定的な導師を持つべきではない。
実は、ユダヤ教も古くはかなり個人的な実践であったことをうかがわせる記述が、«旧約聖書»の«創世記»に残っています。
出でよ、お前に向かって。お前の国を出て、お前の親族と別れ、お前の父の家を離れ、私が示すあの土地へ
多くの言語への翻訳において、"お前に向かって"の部分は省かれていますが、この"お前に向かって"こそが、ヤーウェ神がアブラハムに語ったとされるこの節の核心部分であるように思われます。(また、出ていく順番が国→親族→父の家となっているのも興味深い。親族はかつて国を出た人であり、父は親族を出た人であるので、このような順番になっているのでしょう。)
アブラハムは人間を守るために主(=?ヤーウェ神)の前に立ちはだかり、主を相手に議論を仕掛けています。
神と共に歩んで、神に取られて地上から姿を消したとされているエノクと比べて、アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教に大きな影響を与えています。
他人を裁こうとせず、自らを灯明とし、相手の地位がどれほど高くとも議論の余地があれば議論をし、去るべき時が来たら去ることを心がけていれば、霊性の探求が宗教と教条主義に陥ることはなかろう。