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«仏教浄土系と思想の折りたたみ»
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宗教であろうと、その他の社会思想であろうと、新思想は最初にその時代の弱者を魅了しやすい。つまり、新思想は実践において弱者救済的な慣習を積み重ねやすい。
キリストの教えはもともと弱者救済的であり、ローマ帝国で国教となる前までは、慣習もまた弱者救済的な性格が強かった。特に、キリストは権力関係や経済における弱者のみならず、道徳的な弱者まで救済の対象とした -- 例を挙げれば、姦通罪で石打ち刑に処せられそうになった女を救い、ゴルゴダの丘で処刑された盗人に楽園を約束した -- ため、教義と慣習が最初から一致しており、このことがさまざまな紆余曲折はあったものの、キリスト教という宗教の世界的な広まりに大きく貢献した。
比べれば、釈迦の教えは自助を重視し、«犀の角»という詩作では各人の努力が必要であることを強調し、入滅直前には、"自帰依自灯明、法帰依法灯明"という言葉を残したが、宗派間で程度の差こそあれ、実践面ではやはり弱者救済的な慣習が積み重なり、浄土系では"他力本願"が説かれている。
浄土系は特に日本国内における仏教の実践において他の宗派にも多大な影響を残している。日本の仏教界全体が浄土系化したといってもいいすぎではない。僧侶のための出会い系サイトなど、浄土系が存在しなければありえなかった。
さて、釈迦の教えと一見矛盾するかに見える"他力本願"を説く浄土系が、釈迦の教えから完全に乖離したとまではいえないところが浄土系の面白いところだ。
浄土系が帰依する本尊は基本的に阿弥陀仏だ。"阿弥陀"の"阿"は可能の否定を意味する接頭辞であり、"弥陀"は計量することを意味し、英語の"meter"などにも関係しているらしい。つまり、阿弥陀仏は計量不能な仏であり、プロティノスが説いた一者のようなものとして捉えられている。
浄土系のある幼稚園では"のの様は、口ではなんにもいわないが、僕のしたこと知っている、知っている"という歌が園児たちに歌われている。"のの様"は阿弥陀仏のことで、人間の生活に干渉しないものとされている。«白骨の章»もこの世での救済を全面的に否定している。阿弥陀仏は計量不能な仏であり、人を人としては救わない。
浄土系の実践面での弱者救済的な慣習の裏側で、釈迦が説いた自助の教えは折りたたまれて生きているのだ。